2018年1月26日金曜日

とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”とんきゅう株式会社 代表取締役社長 矢田部武久氏登場。
本文より~

あんこやのセガレ。

「横浜港から船でハバロスクに向かって、そこからシベリア鉄道に乗って、そうやって昔はヨーロッパの山を登りに行ったんだ。手をふりながら、『あぁ、オレも行きてぇなぁ』って」。
ヨーロッパの山に向かうともだちを見送った時のことはいまも鮮明に記憶している。
小学1年生の時。ボーイスカウトの仲間と山に登ったのが、山好きになったきっかけ。日本大学の商学部に進んでからはワンダーフォーゲル部に入り、次々と山を制覇した。その数は、もうすぐ100に達するという。
「いまで97。あと3つだね」。
山登り同様、アップダウンだった人生を、これからも楽しむように、まだ矢田部氏は前を向いている。
矢田部氏は、1948年、茨城県下妻市に生まれる。下妻市は内陸にあり、昔は人口も少ない都市だった。矢田部氏の実家は、この下妻市で、「あんこや」を経営されていた。
「姉弟は4人いたんですが、男は私だけです。父親は20歳の時に単身中国に渡り、ビジネスを起こしたりしたそうです。そういうことも含め、私は小さい頃から父親を尊敬して育ちます」。
「いずれ父親の店を継ぐもの」と思っていた。事実、小学6年から高校3年まで、「学校の時間以外は、あんこやの手伝いをさせられていた」と語っている。準備は、整っていたわけだ。
「大学を卒業したら店を継ぐ、というのが親父との約束で、既定路線です。でもね。ともだちを横浜で見送ったり、ワンダーフォーゲル部でいっしょだった仲間が、商社に入ったりしてね。なんだか、オレの人生それでいいのかなって。もちろん、一度はもどりました。朝4時に起きて、あんこをつくっていました。これが、あんこやのセガレの人生なんだとジブンに言い聞かせて」。

現実からの逃避行。

「合計、2年間くらいです。父親を尊敬しているでしょ。親の面倒もみなくちゃいけない。それでも朝4時から、夕方まで、黙々と仕事をつづけるわけです。食べていくには、困らない。でも、それでいいのかって」。
悩みに悩みまくった末、矢田部は、そっと家を出る。そうするしかなかった。
「現実から逃げ出したんです。でも、もうそれしかなかった。両親には申し訳ないって。何度も頭を下げながらです。でも、あれがすべてのスタートですね。私の、ホントの人生の」。
アメリカに渡るために、トラックに乗った。3ヵ月で80万円を貯蓄する。コーヒーの原液をはこぶ、重労働だったそうだ。
ところで、山登りの一方で、矢田部氏は、旅も好きだ。あんこやで勤務している時も、3ヵ月の休みをもらって念願のヨーロッパに出かけている。のちには、インドのカルカッタからドイツのフランクフルトまで、9ヵ月かけ1人でオートバイの旅をしている。
奥様は、イギリス人。こちらは東京で出会われたそうだ。奥様との出会いは、矢田部氏にとって、大きな人生の転機ともなった。その話は、のちにする。

とんかつ店「とんQ」オープン。

「25歳で運転手やったあと、会社を立ち上げました。商社です。仲間と2人で。それで実は、3000万円の借金をつくっちゃうんです」。
当時、付き合っていた奥様のビザも、もう更新できないまでになっていた。「それで籍を入れて親父に頭を下げて、2人ではたらかせてもらうんです。これが私の転機ともなりました」。
最初は反対されていたんだろうか。一時は、奥様を東京のアパートに残したまま、矢田部氏1人、実家にもどり、父親が経営する「あんこや」に通い、仕事をしていたそうだ。そして、奥様が店に入られるようになると、夫婦2人の、あんこづくりが始まった。その姿をみて、ご両親も結婚を許された。
「とにかく、この時、3000万円も借金があったわけで。だから、『なんとかしなくっちゃ』と思って。それで『とんかつ』の店をオープンします。当時、つくばも、まだまだ小さな町でした。しかし、筑波大学ができ、デパートができ、日本でも屈指の都市になるのがわかっていたから、そこに賭けてみようと」。
ただ、「あんこ」はつくったことがあるが、「とんかつ」はない。知り合いに紹介してもらった横浜の名店で修業する。たった3ヵ月だが、人生を賭けた修業である。血肉もなった。
ただ、矢田部氏は、面白いことを言っている。
「ふつう料理がうまい人は、安い素材からでも旨い料理をつくるでしょ。でも、私はそれができないから、素材でカバーしたんです」。
いまも「とんかつとんQ」は、日本のトップブランドである、農林水産大臣賞を受賞した国産ブランド『やまと豚』を使用している。
ともかく、33歳の時、矢田部氏は「とんかつとんQ」をオープンする。夫婦2人。オープン初日からイギリス人のおかみさんが、お客様を魅了する。
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株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。

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本文より~

大学時代までの葛目氏。

小学6年生の秋、東京の下町「深川」に移り住んだ。
父方も、母方も、比較的裕福な家庭育ちであったが、その父母がつくった葛目家は慎ましやかな家庭だった。
「勉強しろとは言われなかったですね。兄は、親父の影響で柔道ですが、私は、野球です。その野球がいちばん面白かった6年の秋に引っ越しですからなんでかなぁって」。
深川に転居するまでは、茨城県の取手で暮らしていたそうだ。
一つ違いの兄は、いい意味で友人でもあり、ライバルでもあった。
「高校は、それなりの進学校に進み、高校でラグビーをはじめました。高校でデビューするなら、多くの選手がはじめて取り組むラグビーがいいかなと思っていましたし、友人が『いっしょにやろうぜ』って、誘ってくれたこともあって」。
「それで、大学3年までです(笑)」。

One for all, All for one。

大学は明治大学。ラグビーは同好会だが、バイトの時間が取れないほど真剣にラグビーと向き合った。「今振り返れば、私の人生のなかでラグビーは大きな意味を持ちます。スポーツとして楽しんだということもありますが、人間教育という意味で、私の価値観はラグビーによってつくられたといってもいいんじゃないでしょうか」。
「One for all, all for one.(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」。
ラグビーの精神だ。
「私はフランカーといって、泥臭く、いちばんグランドを駆け回らなければならないポジションでした。その分トライするチャンスもあるわけですが、決して派手ではない。誰かのためにという自己犠牲が強いられるポジションです。そういう役割だったから、余計に人間的な幅が広がったのかもしれません。一方で、試合が終われば、敵味方関係なく『ノーサイド』。この考えは今も私の基軸となっています」。
ちなみに、やかんの水は魔法の薬だったそうだ。やかんの水をかければ、捻挫だってなんだって治る。信じられていたわけではないが、実際にやかんの水は、何かある度に選手たちにぶっかけられた。大学3年時に副主将となった葛目氏は、いいかわるいかわからない、そういったラグビーの伝統とも折り合いをつけながらも、みんなを率いた。グランドを離れてもフランカーの役割はそう変わらなかったのかもしれない。

22歳の平社員に送られた貢物。

「私は、基本、猪突猛進のタイプなんです。いったん『こうだと思ったら、突き進む』奴なんです。社会人になって、それが少し変わりました。価値観が変わったと言ってもいいかもしれません」。
大学卒業後、葛目氏が進んだのは大手電機メーカー。大学時代に広告・マーケティングを専攻していたからか、いきなり宣伝部に配属された。花形部署である。
「『どんなコネがあったんだ』って同期社員に言われました。そりゃそうです。会社の中でもエース級ばかりの部署ですから。いきなり新人が配属されるような部署じゃなかったんです。でも、配属されてしまった」。
葛目氏が就職したのは、1993年。一般的な認識では、バブルが弾けてから1年後となる。「それでも、会社に勢いがあったし、宣伝部はその恩恵を受けていました」。
広告代理店の営業マンが、すり寄ってくる。お歳暮、お中元には、貢ぎ物が山となった。展示会を開いたあとは、コンパニオンとの食事がついてきた。アメリカ出張にも、行った。遊びがてらとは言わないが、それに近かった。
「もともと、20代の時はいろんな仕事を見てみようという思いがあったんです。それもあって3年で転職するんですが、あの時は、それ以上に『このままこの部署にいたら、人間がダメになる』って、それが怖かったんです」。
ある日、本社1Fのロビーで、同期の営業がお客様に深々と頭を下げているのを見た。その向こうでは対照的に、取引先の営業とふんぞり返って話す、部署の先輩の姿があった。転職のきっかけになったのは、そんな先輩の姿だった。

レジを打ったこともない人間が、経営を語れるのか?

「あれを見た時、ああはなりたくはないと心底思ったんです」。普通なら、取引先から致せり尽くせりの、だれもがうらやむ宣伝部だ。自ら、退職を願い出る人間はそういない。ただ、葛目氏という人は、そういう人なのだ。「One for all, all for one」。大事なのは、やはり、それだった。
「それから、偶然なんですが、CCCの求人広告をみて、すぐに応募しました。採用していただいて、本部のフランチャイズ事業を推し進めることになります。これは、宣伝部の時なんですが、年に何回かは、店頭に駆り出されるんです。なんといっても私が一番若いですから。その時、『小売』という仕事に何かしら興味を覚えていたんです。だから、CCCはある意味、ぴったりだったんです。ところが、いきなりスーパーバイザーでしょ。店舗を運営した経験がない。いわば、野球を知らない人間が、野球のコーチをやるようなもんです。加盟店の店長さんから『レジもできないんだろ』って、はっきり言われたこともありました。悔しかったですね。でも、そのような辛辣な言葉も含め、すべてが私を育ててくれたのも事実です。えぇ、前職とはまったく違います。何のバックもない。だれかに責任を押し付けることもできない。まさに、つねにボールを求めて、走り回るフランカーです/笑」。

「これだ」。スターバックスに突き進む。

CCCでは、計4年過ごしている。2年間は本部で。それから2年間は、直営店の店長。転機はアメリカ研修の時に出会った一軒のカフェによってもたらされた。
「流通でもアメリカは最先端なんです。カリフォルニアに行って、まだ『トイザらス』も絶好調の頃ですね。本屋内に併設された一軒のカフェがあったんです。店名は『スターバックス』。これだ、って。TSUTAYAとカフェですね。そういうのが電撃的に頭の中を駆け抜けたんです」。
帰国後、すぐにスターバックス コーヒー ジャパンに電話を入れる。「結局、スターバックスでは6年ですね。時間と空間を提供する、そういう元々やりたかった仕事が堪能できました。それからもう一度CCCに戻り、スターバックスのFC事業の責任者を5年、新規事業推進の責任者を2年、務めます」。
電機メーカーから始まって、CCC→スターバックス→再度CCC。しかし、まだ終わらない。
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2018年1月9日火曜日

“飲食の戦士たち”初の1990年代生まれの株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“飲食の戦士たち”初の1990年代生まれの株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏登場。
本文より~

その道は瀬戸大橋につづく。

1位「紅鮭」、2位「ツナマヨ」、3位「鶏そぼろ」。 これ、まんぷく人気ランキングの上位3傑。個人的には、「葉唐辛子味噌」「ネギ味噌」「京菜」あたりにも食指がうごく。
今回、ご登場いただくのは、株式会社まんぷくむすび、代表取締役、西中拓也氏。1990年生まれだから、このインタビュー時には、まだ27歳。若き経営者の1人である。西中氏が生まれたのは、岡山県倉敷市の児島という町だ。「瀬戸大橋線」が走っていて、上空から観れば、やがて高速道路と一つになり、まっすぐ四国までつづいている。
「うちも、海には車で10分程度でした。ただ、父が、山が大好きで(笑)」。なんでも、週末になると、夏でも海ではなく山に登ったそうだ。「冬はスキーですね。ボーイスカウトにも入っていました」。
西中氏の姉弟は3人。4つと2つ離れた姉がいる。「そういう環境で育ったからでしょうか。同年代より、年上や先輩のほうが、自然体で話せるんです」。たぶんに、負けず嫌いも、影響しているかもしれない。同年代には、負けたくない、と。
「とにかく、負けず嫌いでした。中学はバレーで県3位に。高校からバスケットを始め、こちらは全国でベスト8まで進みます。とにかく練習量では負けたくなくって、朝4時に起き、帰宅は23時。そんな生活を送っていました」。通学にかかったのは1時間半。それでも3年間、無遅刻無欠席。一度だけ電車をのがしてしまった時には、母に頼み、高速道路を走り、連れていってもらったそうだ。
「中学も、それなりにたいへんでしたが、やっぱり高校ですね。辛いこともあったし、楽しいこともあった。でも、やり抜いたという思いがいちばん大きいし、いまの自信にもなっています」。

岡山から東京へ。大東文化大学、入学。

岡山から東京まで距離は、800キロ程度だろうか。もっとも西中氏は、父親の仕事の関係で小学2年~5年までを群馬県で過ごしているから、それほど遠い町ではなかったかもしれない。
「指定校推薦で大東文化大学に進学します。3~4年は板橋にあるキャンパスなんですが、1~2年は埼玉の東松山です。電車は東武東上線。ぼくは、川越で独り暮らしです」。
最初は、バスケットボールのサークルに。2年の終わりからは、ダンスサークルに所属した。「ロックダンスって知っていますか?」と逆に問われ、まったくわからないので、調べてみると、ストリートダンスで、名前のロック (Lock) は錠を意味し、激しい動きから突然静止し、ポーズを取る(ロックする)スタイルが特徴とあった。なるほど、これならみたことがある。
「けっこうハマりましたね。大学時代は、このサークルとアルバイトです」。
「アルバイトは1年の時から、3年まで同じレストランで仕事をしていました。ただ、3年の時に閉店されることになって」。
高校時代のイメージ、そのままにアルバイトにもまじめに精をだす。3年間で、生活費以外で100万円以上貯蓄もしている。「奨学金とバイト代で生活をしていました。仕送りはなかったです。ぼくからいらないといったんです」。
父親はだれもが知る学生服メーカーの、関連会社とはいえ社長をされている。経済的には、恵まれているはずだ。「とにかく、ぼくが決めたことをさせてくれる、そういう両親でした」。
ところで、バイト先が閉店する。西中氏にとっても大事件だ。「そうですね。それで、『スターバックス』のバイト募集を観て面接に行くんですが…」。

大学卒業。就活せず。

「スターバックス」。かっこいいな、と思っていた。しかし、いきなり「入社したら、あなたは何ができますか?」と問われるとは思ってもいなかった。「だから、頭が真っ白になってしまって」。
かろうじて『やってみないとわからない』と答えたが、面接官の表情には、すでに不合格のサインが灯っていた。「そのことがあって、改めて、『ぼくという人間を見詰め直そう』と、そういう思いに駆られるんです」。
幸い、貯蓄したお金もあったし、奨学金もあったから、バイトはせずとも暮らしていけた。
「そうですね。それからぼくがやったのは、経営者とお会いすることですね。セミナーとかにともかく参加して。ネットワークを広げて。年上の人のほうが、自然体で話ができるといいましたが、そういう性格も役立ったかもしれません」。
尊敬できる人が何人もできる。「起業」の二文字は、当然のようにして頭に浮かぶ。「だからぼくは、就活っていうのをやってないんです。経営者にたくさんお会いしていたこともあって、どこかで、『俺は違う』とうそぶいていました」。大学を卒業してからは、『無印良品』でアルバイトを開始。
「1年目の契約更新が済んだ翌日に、羽毛田と出会いました」。
ここで、西中氏が、「羽毛田」というのは、「健康」をテーマに事業を展開されているラーフオーバーフロー株式会社の代表取締役である羽毛田昌寛氏のことである。「株式会社まんぷくむすび」は、2017年1月、このラーフオーバーフロー株式会社から分社独立して誕生している。
「まんぷくむすび」の創業は2009年。創業者は、むろん、羽毛田氏。羽毛田氏はなにかにつけ、西中氏を、高く評価している。それが、分社後の社長就任につながったのだろう。
ところで、羽毛田氏とはどんな縁で結ばれたんだろう。

・・・続き
株式会社まんぷくむすび 代表取締役 西中拓也氏

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