2023年3月30日木曜日

株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏登場。

本文より~

日本でエリートとして自信に漲った中での渡米。アメリカで苦戦する。

鼻高々に向かったアメリカで四面楚歌に遭った。唯一の理解者のはずの、家族からも、そっぽを向かれた。
「日本マクドナルドからマネージャーとしてアメリカに渡ります。全従業員の中から選ばれたのですから鼻高々です。しかし、イメージとは、全く異なる世界が待っていました」。
店では、アルバイトのメキシカンに軽くいなされた。駐在に同行した奥様からは、毎日のように「日本に帰りたい」と言われた。
「けっこうきつかったですね。でも、いい試練になりました。日本で仕事ができていると思っていたのは大間違いでした。私ではなく、私の役職が仕事をしていただけ。それに気づけただけでも財産になった気がします。所詮日本から来たマネージャーなんて、アメリカ人にとっては偉くもなんでもない。シンプルに仕事ができるかどうかなのです」。
最初に会話を覚えたのは、英語ではなく、片言のスパニッシュ。「簡単なコミュニケーションです。仕事ができることを示しつつ、同時に言葉を交わしていくと、だんだんと心を開いてくれました」。
ようやく仕事の仲間から認められて、世界が変わり始める。
奥様の日本へのホームシックははどうだったのだろう?
「日本にいた頃は、家族よりも、仕事優先でしたからね。それで良いと思っていました。しかし、アメリカに来て、それでは良くないことに気づいたのです笑。そういう意味では、わたしの家族にとっても、この時のアメリカ生活はなくてはならないものだったように思います」。
当初、毎日のように「帰りたい」と嘆いていた奥様は、帰国時には一転、「日本には帰りたくない」とアメリカの環境にすっかり慣れ親しんでいたらしい。きっと、渡米を機に得た家族の時間を失いたくなかったのではないだろうか。
ちなみに、遠藤氏は赴任してから2年後にはゼネラルマネージャーに昇進している。

就職先は日本マクドナルド。

「どうしてもマクドナルドの話になってしまうなあ」とご本人。遠藤氏の今はマクドナルド時代を抜きには語れない。ご本人は、「創業者の藤田さんとプロ経営者の原田さんという、2人の偉大な経営者にお仕えした、数少ない人間です」という。
ちなみに、日本マクドナルドが銀座に一号店をオープンしたのは、遠藤氏が11歳の1971年のこと。当時の人たちにとって、アメリカから来たハンバーガーは自由の象徴だったのではないか。
それまで馴染みのないファーストフードという食文化の開国でもある。
「私は1960年7月、東京に生まれました。東京生まれ、東京育ちです」。大学は早稲田大学。「私は格闘技やラグビーなどのスポーツが好きです。ラグビーは、高校から始め、本当は大学でも続けたかったのですが、一浪したこともあり大学ではサークルレベル。それでも、ラグビーで学んだチームで何かを成すということは今の私の信条にもなっています」。
日本マクドナルドには新卒で入社。
当時、飲食業の企業を就職先に選ぶ大学生は少ない中、なぜマクドナルドを選んだのか。
「サービスに携わる職業が良いと考えて、百貨店など数社から内定をいただいていたのですが、マクドナルドの面接を受け、マクドナルドの『ピープルビジネス』への考えに感動してしまって。それからは、日本マクドナルド一筋でした笑」。
マクドナルドは採用面接を受ける学生にもお客様扱いだったと、他社の選考で受けた印象との違いを語る。当時は、縁故採用が盛んで、採用活動も今のようにスマートで公平なものではなかった。応募者に対し、お客様のように接する企業は少なかったはず。マクドナルドは、採用でも、時代に先行していたのかもしれない。
「当時は積極出店の頃ですからね。新卒だけで400人はいました。アルバイト上りが6割、外部採用が4割ほど。アルバイト経験者は、ファーストマネージャーまで昇進できるのですが、その先の昇進ではやはり差がついていましたね」。 遠藤氏自身は5年サイクルで昇進を繰り返していたらしい。ちなみに、新卒同期で唯一の執行役員就任。日本マクドナルドの栄光の時代、苦戦の時代、そして奇跡の回復も経験してきた。

日本マクドナルドの役員退任。その後、社長を歴任する。

「2001年から2004年までアメリカにおりました。当時、本国のマクドナルドも日本流のやり方だけだと限界が来るとわかっていたのでしょうね。アウト・オブ・ザ・ボックスが必要だということで」。
その中で、遠藤氏の渡米は、日本法人の従業員を育成する計画の一環だったのかもしれない。「実際、いろいろ気づかされるのですが、マーケティングや、グローバル人材としての教育も受けました。実をいうと、妻だけではなく、私もアメリカが気に入って、こちらでの生活を続けたいと思い始めていたのです」。
本国のマクドナルドの不安が的中し、日本マクドナルドの業績が傾きはじめる。次期社長に、アップルコンピュータから原田泳幸氏が招聘されたのはこの頃。「アメリカで原田さんとお会いして、色々お話しているうちに、日本に戻ってこい、と笑」。
日本に戻り、本国仕込みの仕事を行い、昇進・昇格を繰り返し、役員へと登り詰める。
「50歳になった頃ですね。日本マクドナルドが、世界のマクドナルドの一部のようになっていったものですから、有能なグローバル人材が次々採用され、重要なポストに登用されていくのです。私自身、もう50歳ということもありましたし、この中でトップは狙えないなと判断して退職を決めました」。
こうして日本マクドナルド時代でのキャリアは終焉を迎えるが、マクドナルド的な経営学は実践を通し、からだの隅々まで沁み込んでいる。
そして、ここからの遠藤氏の経歴もまたすごい。
2013年~2014年、株式会社すかいらーくで執行役員に就任。2014年~2017年、株式会社スイートスタイル、代表取締役社長として初めて社長を経験、その後、2017年~2019年、エムアイフードスタイル、代表取締役社長。そして、2020年6月から現在の株式会社ひらまつの代表取締役兼CEOに就任する。

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株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏

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株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏登場。

本文より~

中学1年の合唱コンクール。阿部少年、指揮者に任命される。

「小さい頃から恥ずかしがり屋で泣き虫、おとなしい子だったので、『指揮者』と言われて、むちゃくちゃ緊張しました。でも、それがきっかけになって、人前に出るのが、恥ずかしいどころか、楽しくなってきたんです」。
今の阿部氏を知っている人からすれば、「泣き虫、おとなしい」と言われてもぴんとこない。とにかく、快活で、話がうまい。
阿部氏が生まれたのは1974年。
兄妹は2つ離れた妹が1人。お父様はタクシー運転手。「料理人だった頃もあるそうですが、私がものごころついた頃にはもうタクシー運転手でした。だから、母子家庭みたいだったですね」と笑う。
お母様は快活で、頑張り屋さん。
仕事を楽しむ才能がある人で、職場の評価も高かったらしい。「私はどちらかというと母親似」と阿部氏。たしかに、阿部氏の語り口調を聞いていると、そんな気がする。何をするにも一生懸命。そんな性格も似たんだろう。
「小・中は野球。母がバレーをやっていたこともあって、高校でバレーをはじめます。ほんとはラグビーをしたかったんですが、ラグビー部がある高校に落っこちちゃって笑」。
バレー部は、案外、ゆるかった。高校2年時で学級委員を務める優等生だったが、喧嘩がもとで停学になって、学級委員も首になったそう。学級委員長を首にするとは、案外、学校も容赦がない。

帝京大学、ラクロス部。

「現役の時は、すべて合格する予定だったんですが、ぎゃくに全部アウト。1浪して、帝京大学に進みます」。
ラクロスに出会ったのは、その時。
もともと運動神経はいい。
「学生時代はラクロス三昧です。帝京大学は強豪と言われていて、私たちの代はとくに期待されていたんですが」。なんでもチームワークがなく、結果が残せなかったそうだ。
「1人1人はすごいんですが、そのぶん、勝手なプレーが目立って。でも、当時の仲間とは今でも仲がいいですよ」。
ラクロスは、あまりなじみがないので調べてみた。
ウイキペディアによれば、「クロスと呼ばれる先に網の付いたスティックを用いて直径6cm・重さ150gの硬質ゴム製のボールを奪い合い、相手陣のゴールに入れることで得点を競う球技の一種で、カナダの国技とされている」んだとか。かなりはげしい競技のようだ。まったく違った競技だが、高校でやりたくてできなかったラグビーとどこか似ている気もしなくない。

就職先は、東京トヨペット。

ラクロス三昧の大学生にも就活はやってくる。 「父親の助言がありがたかった」と、阿部氏は就活時代を振り返る。
「就活はまじめにやったんですが、『これをやりたい』というのがなかったんですね。『やりたいこと』を探しても、ぜんぜんなくて焦るじゃないですか。でも、父の『衣食住に関わることなら、くいっぱぐれがない』の一言に救われたんです」。
「くいっぱくれがないなら、それでいい」と肩の荷が下りたのかもしれない。くいっぱぐれがない。いうなら、食べるためにはたらく。はたらく行為の原点でもある。
それで、最終的には、東京トヨペットに進まれるんですよね?
「そう、衣食住にちかいでしょ。トヨタ系のカーディーラーはいくつか受けたんですが、いちばんグレードが高いのがトヨペットだったんです」。
あるディーラーの面接官に「君ならどこでも受かる」と太鼓判を押されている。
当時、飲食の道は全く考えてなかったんですか?
「衣食住の食ということで、ビール会社とかは受けましたが、飲食はまったく視野になかったですね」。
たしかに、そういう飲食経営者も少なくはない。飲食のスイッチが入るタイミングは、人、それぞれ。
「営業成績はトップクラスでした。車を売るのも、飛び込みも好きだったので、マッチしていたんでしょうね。学生時代は『社長になりたい』なんてまったく思ってなかったんですが、この頃から社長業に関心が向くようになりました」。
車種同様、お客様のグレードも高かったから、刺激も受けたんではないだろうか

楽コーポレーション入社。半年で逃亡す。

「ともだちと『独立したいよな』なんて言いながら酒を酌み交わしていたのも、この頃です。もっともこの頃の動機は『ベンツに乗りたい』でした笑」。
青年の志は、酒とともにあったが、真剣だった。それも事実。
「その時、私たちが通っていたのが、楽コーポレーションの卒業生がオーナーのお店だったんです。毎夜、『独立』って話をしていて、『飲食はどうだ?』なんて言っていたので、その話を聞いていたオーナーが『真剣なら、楽コーポレーションを紹介してやろうか』って言ってくださったんですね」。
その時には、もう飲食だったんですね?
「そうですね。飲んで楽しむことが好きだったから。だったら、飲食がいいんじゃないかって思って」。
楽コーポレーションと言えば、何人もの経営者を輩出している。この飲食の戦士たちでも、何度もその名が登場している。代表の宇野氏は現場が大好きな名伯楽だ。
「そうなんですが、最初に言っておくと、せっかくご縁をいただいたのに私は半年で逃げ出しています」。
どうしてですか?
「だって、カップラーメンしかつくったことがないのに、賄の担当になって、毎日、ちがう賄いをつくらなければいけなかったんです」。
8人分だったらしい。「恵まれていた」という一方で、「それが、むちゃくちゃたいへんだった」とも言っている。「たった半年ですが、私の料理の原点は、間違いなく楽コーポレーションです」。
半年だったが濃厚だった証ですね?
「その通りです。つぎに東京海上に転職して、改めてサラリーマン生活がスタートします。でも、いったん、楽コーポレーションで飲食の世界をみちゃいましたからね」。

オーストラリアからの、「い志井」。

「東京海上も退職し、オーストラリアに渡って1ヵ月、自分探しの旅にでます」。なんでも、自宅のトイレに貼ってあった世界地図をみて、オーストラリアのエアーズロックに行こうと思ったそう。
オーストラリアでは、レンタカーを駆っていろんな街をみて回る、もちろん、ゴールはエアーズロック。
「エアーズロックに行って、ベンツなんてアホくさって思って」。
仰げば、吸い込まれるような青空。
「空のなかでは、太陽や月が、いったら主役ですよね。でも、私はそのバックに広がる大空をみて、大空みたいな、人間になりたいなと思ったんです」。
「あれが、間違いなく今につづく道のスタート地点です。帰国して、ふたたび飲食の世界にとびこみます」。
株式会社い志井が、つぎのステージ。
「楽コーポレーションの時も、賄はイヤでしたが、接客は大好きだったんです。もともと、営業は得意だったし、楽しかったですからね」。配属されたのは、「新宿ホルモン」。まだ、ホルモンがポピュラーじゃない頃だったが、月商を伸ばしまくる。
「半年でうちを逃げ出したあいつでも…」と、楽コーポレーションのなかで話題になり始めたのはこの頃だろうか。立ち飲みブームの起点となった「日本再生酒場」の立ち上げにも携わった。店長の前に「カリスマ」という言葉が添えられる。
「楽コーポレーションの時もそうですが、い志井でも、たくさんの素晴らしい人と出会いました。それが、今の私の財産です」。

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株式会社まんてん 代表 阿部 亮氏

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3月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『孫二娘潮汕牛肉火鍋』を取り上げました。

3月24日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「FAN DREAM COMPANY」様が運営の孫二娘潮汕牛肉火鍋』を取り上げました。
丸2年、コロナ禍で厳しかった飲食業界をもっと元気にと夕刊フジ様からのご支援頂き連載をやらせてもらってますが、飲食業界も元気取り戻してきました。

2023年3月14日火曜日

株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏登場。


本文より~

長崎から藤沢へ。

日大の生物資源科学部のキャンパスは藤沢にあった。「大学の2年時に進級するまでは、藤沢がホームグラウンドでした。その時にご縁があり、二代目社長の下、古久家でアルバイトをはじめました」。
今回、ご登場いただいた株式会社古久家の代表取締役、出石雅夫氏は1957年、長崎県の大島に生まれる。その昔は炭鉱の島だったが、現在は農漁業と造船が主産業。佐世保港からフェリーで1時間程度だという。
お父様は床屋をされていた。仕事はできたが、酒飲みでギャンブル好きだったと笑う。
お母様も長崎県、生まれ。やさしく、怒られた記憶がまったくないらしい。
「高校までを地元で過ごして、スポーツは、中学から高校の途中まで、バレーボール部に所属していました。高校のクラスは、理系と文系の進学組と就職組に分かれていたので、私は理系の進学組を選びました。長崎ですから、関西の大学に進む生徒も少なくない中、私は最初から東京を目指しました」。
それで、日大の藤沢のキャンパスだったわけですね?
「そうです。そこで古久家と出会いました。アルバイトは他にも、色々と経験しました。ゴルフ場の草むしりに、表札や英語教材のセールスなど、その中でも、一番長く続いたアルバイトが、マクドナルドでした」。
「私は新卒で、大手住宅メーカーに就職したのですが、実はこれはリベンジでもありました」。
リベンジ?
「セールスのアルバイトをしたと言いましたが、これが全然売れなかった、それが本当に悔しくて。なので『だったらもっと価格の高い住宅』を、これを販売して、その時のリベンジをしてやろうと思ったのです。結果的に、その会社では在籍2年と短い期間でしたが、全国で2番目の営業成績を残すことができました。リベンジはちゃんと果たせたと思っています」。
現金で支給されるボーナスは、封筒ごと直立したそうだ。
「ただ、ふと周りの先輩方の姿を見て将来を想像した時に、どうしようかな、となりまして。それで結局、古久家に転職しました。私が25歳の時です。もちろん、給料は激減しましたよ(笑)」。

古久家への転職。

話を戻しますが、進級されてからは、古久家のアルバイトは辞め、東京のキャンパスに移られるんですね?
「はい。ただ、東京へ引っ越した後も、二代目からはちょくちょく食事に誘って頂きました。自分なりに東京の飲食店事情を調べてご報告したりして、まぁ、リサーチャーみたいなものですね(笑)」。
縁とは不思議なものだ、思っていなくても結ばれた一つの縁がきっかけとなって未来が決まることがある。もっとも、その時点では「旨い飯が目的」だったらしく、古久家に就職するとは思ってもいなかったようだ。だが、飲食とのつながりは切れてはいなかった。
「マクドナルドのアルバイトがいちばん長いとお伝えしましたが、時給が良かったですし、何よりも勉強になりました。あの頃のマクドナルドは、ビジネスでも最先端だったのではないでしょうか」。
たしかに、マクドナルドは日本の飲食経営に、アメリカ式の合理的で科学的なアプローチを導入する。もっとも創業者の藤田田氏は、人情家で、ドライな経営とは無縁の人だったそうだが。
ともあれ、出石青年にとって、マクドナルドでの経験は衝撃的だったにちがいない。今も、マクドナルドのオペレーションを参考にしているというから、間違いない。 飲食だけでいえば、古久家をいったん離れ、マクドナルドで修業したことになる。
給料は減ったが、未来は広がった。ここからは、古久家への転職の話。
「私が転職したのは、湘南台店がオープンするタイミングでした。オープンするまで、研修を重ねて、最初から店長として配属させていただきました」。
25歳の時だった。
「当時の古久家は、まだ3店舗ほどでした。古久家への愛着もありましたし、社長にも懇意にしていただいていましたが、転職した理由は、それだけではありませんでした」。
会社にほれ込んだと出石氏はいう。むろん、客観的に評価しての結果。
「マクドナルドでは、アルバイトながらも、社員に次ぐポストのスイングマネージャーを務めていましたから、マクドナルド式の運営や経営の方法は理解していました。マクドナルドと比較すると、当時の古久家のそれは、まだまだ昔ながらのオペレーションでした。マクドナルドのノウハウを古久家に移植すれば、もっと業績が拡大すると、そう私は確信をしていました。そして、行動に移したわけです」。
未来という意味では、マクドナルドより、むしろ大きいと思ったのではないか。とはいえ、いきなりイノベーションを起こすことはできない。
「古久家は創業1947年です。お客様からご評価をいただきながら、またその歴史がある分、私が転職した当時は、社内の様々なシーンで経年劣化が起きていました。職人方の認識もそうです」。
なかなか職人の癖は、抜けなかった。社内の人間関係もそう、当時の古久家は、職人たちの天下。
「私は、彼らにこう伝えました。『職人さんたちが旨いラーメンをつくってくださるおかげで、今がある。それは、絶対です。しかし、きれいに洗われた器があるから、旨いラーメンを出せる。その器を洗ってくださるスタッフさんやアルバイトさんも、同じく大切な存在です』と」。
飲食経営の根幹は、人。これもまたマクドナルドの教え。出石氏は「人」の意識改革に取り組む。ていねいに、真摯に言葉を重ねる出石氏に対し、心をひらく職人たちが現れる。いつしか、互いへのリスペクトの心も広がった。

金勘定で、老け込む。

「二代目は、40代の時に父である創業社長から、会社を引き継ぎました。その後、三代目が引き継き、そして、私自身は60を過ぎてから、四代目を引き継ぐことになりました」。
すでにナンバー2になっていた、という。
「コロナ禍に突入する前年の2019年に、当時は会長職にあった二代目の号令の下、会社は3つに分社され、私たちはボランタリーグループとして、歩み始めました。そしてその直ぐ後に、コロナ禍がスタートしました」。
社長となった途端に、いままでになかった敵と闘うことになる。
「コロナとの闘いは大変です。しかし、そうですね、過去にあった大変な時期を挙げるとしましたら、35歳の頃から財務を担当しましたが、むしろその時の方が。当時の私は一気に老け込みまして、あれも、本当に大変な闘いでした」。
どういう意味ですか?
「言葉の通りです。それまで私はまわりからは、どちらかと言うと、比較的若くみられる方でしたが、財務を担当するようになってからは、心身の疲労でしょうかね、年齢以上に老け込みました(笑)」。
資金ショートの危機もあったそうだ。
「財務ですからね、なんとかしなくてはいけない。立場が変わる前は、たとえ一時しのぎであっても、ショートするのを回避できれば、それでいいと思っていた節はありました。しかし立場が変わるとそうはいかない」。
ナンバー2は難しい立ち位置でもある。ショートしなければ、それでいいという出石氏の気持ちもわからなくもない。むしろ、それが通常といったほうがいいんじゃないだろうか。
ただ、老け込んだ出石氏をみて、出石氏を慕っていたスタッフたちはどう思っただろうか? 転職時にみた古久家の未来像は、どこにいってしまったんだろうか? それを追いかける出石氏の情熱を含めて。

試練のあとの、イノベーション。

「そうですね。ただ、私自身は金銭的にそれほど欲があるタイプではなく、それなりの給料も貰っていましたから、危機感が薄かったのでしょうね。でもある時、部下の給料を知って、これはヤバイと、初めてなんとかしなければと思うようになりました」。
ナンバー2に甘んじているわけにはいかなかったということだろう。「給料をアップする為には、利益を出さなくてはいけません。一つは、節約ですね。ただ、それでは縮こまるだけでしたから、税理士の先生にもアドバイスを頂きながら、全店のリニューアルを行いました。ショップの経年劣化に切り込みました」。
歴史があるぶん、ショップもまた古くなっていた。
「当時は、全店の店長を集めた会議もおざなりになっていましたから、もちろん、それも仕切り直しました」。
店長会議のスタイルも、出石バージョンにする。「良いことはやり、悪いことはやらない」を徹底したと出石氏はいう。
財務のルールも徹底する。1/3ルールがそれ。1/3は会社にプールし、1/3はお客様に、1/3は従業員に還元する、というルールだ。
ちなみに、「左理論」も教えていただいた。古い駅は左側が発展している、コンビニなども左回りで陳列されているそうだ。さすが、理論派。
飲食を含め、日本の流通を変革した「ペガサスクラブ」の本も、愛読していたそうだ。
エビデンスのある経営。これが、マクドナルドの経営スタイルの正体でもあるのだろう。ただ、コロナ禍のピンチは、またまた出石氏を悩ませる。

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株式会社古久家 代表取締役 出石雅夫氏

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株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

本文より~

バイト先は大阪王将。高校生離れした鍋使いで、バイトがバレる。

「調理実習で炒飯をつくったのがいけなかった」と、今回ご登場いただいた鳥生氏が笑う。なにがいけなかったというと。「うちの高校はアルバイトが禁止されていたんです。でも、つい、いつもの要領で炒飯をつくったものだから」。
バレてしまった?
「そう、プロみたいじゃなく、プロそのものですからね笑」。
鳥生氏が生まれたのは、1978年7月19日。
鳥生という苗字はかわっているように思ったが、愛媛県の今治には多いらしい。ちなみに、お父様が愛媛出身。鳥生氏自身は大阪の枚方市生まれ。兄弟は2名。
鳥生氏は長男で2つ下の次男は、特待生で同志社大学に進み、現在は大手企業での社長の秘書を務めておられるそうだ。
「小さい頃から、今みたいな性格だった気がしますね。明るくて。これはたぶん母親似。日曜日には、みんなでハイキングが日課でした。これは、父の趣味です」。
お父様は、個人事業主として金型の設計をされていたそう。なんでも、鳥生氏が小学校くらいに独立されたそうだ。理数系で数字が好きで寡黙なタイプとのこと。
スポーツはサッカー。
「小学高学年から高校で膝を怪我するまでは、サッカー漬けです」。
アルバイトは、そのあと?
「そうです。ちかくにある『大阪王将』にアポなしで突撃し、『アルバイトさせてください』って笑」。
とびこんだわけですか?
「それで、私の人生が決まるんだから、不思議ですね」。

大阪王将と鳥生氏。

「料理人がかっこよかったですね」。
たしかに、それはわかる。中華鍋ひとつでいろんな料理をつくりだす料理人は、食のクリエイターだ。炒飯ならこう。鍋を火にかけ玉子を投入。お玉でかき混ぜ、ご飯と具材を追加。お玉で調味料を救い上げ、適量を鍋のなかに流し込む。五徳と鍋底がリズミカルな音を奏で、ご飯と具材と玉子がはねあがる。そして、完成。まるで、芸術。自宅では、もちろん、真似ができない。
「見様見真似でしたが、私も賄いをつくらせていただくようになっていきます。もちろん、プロにはかないませんが、少しずつプロにちかい料理ができるようになっていきました」。
「大阪王将」は1969年、大阪の京橋で誕生する。餃子専門店としてスタート。
たしかに昔は「餃子とビール」だけだった気がする。関西人のなかでは、「餃子=大阪王将」というイメージがつよいのではないか。
餃子専門店から、いまのメニュースタイルになるのは、創業者のご子息、現イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOの文野直樹氏が2代目の社長となられた時から。むろん、鳥生氏がアルバイトをはじめた頃はすでに現在、同様、中華料理店の幅広いメニューとなっていたはずである。
「私がアルバイトを始めたのは、比較的、大型店でした。料理はこちらで修業させていただいたりしたわけですが、のちにラーメン部門の『よってこや』に異動しました。こちらは10坪少しの小型店舗」。
「よってこや」は「京都鶏ガラとんこつ屋台の味」。今や大阪王将の主要ブランドの一つだが、当時はまだスタートしたばかり。
「高校3年の12月に南口にオープンし、その半年後に寝屋川にもオープンします」。
「よってこや」の興隆に一役買った鳥生氏だが、むろん、アルバイター。就職したわけではなく、鳥生氏も、まさか大阪王将に就職するとは思っていなかったのではないだろうか。
接点はあったが、交差しただけで、離れ離れとなるのは、むろん、ある話。

激戦区、恵比寿での新店オープンに駆り出されるアルバイター。

「高校を卒業してからはいったん2年制の専門学校に進みます。当時は、スポーツ関連の仕事に就ければと思っていました。だから、進んだのもインストラクターを養成する専門学校です」。
ただし、1年生の終わりに退学している。
「スポーツ系ということもあって、体力維持のため20時以降のバイトが禁止されていたんです。が、そういうわけにはいかないでしょ。そういうこともあって、退学してフリーター生活がスタートします」。
なんでも、学校からクレームの電話が入ったらしい。ところで、その頃にはもう、バイトといっても経験は長い。新店立ち上げも経験済。
「そういうキャリアを評価いただいて、直営店を恵比寿にオープンする時に声がかかります。文野社長と出会ったのは、その時が最初です」。
関西弁の青年が、大都会東京の恵比寿で奮闘する。
「当時の恵比寿は、ラーメン激戦区だったのでけっこうたいへんでしたね。私自身はオープンから4ヵ月ほど向こうで仕事をさせてもらって、いったん状況が落ち着いたこともあって大阪にもどります」。
ミッションコンプリート?
「そうですね。なんといってもアルバイトですしね(笑)」。
ところで、「大阪王将」以外でも、アルバイトは経験されましたか?
「もちろん、トラックに乗ったり、そうそう営業の仕事も経験しました。いろんな経験を積みながら、私自身がやりたいことを模索していた、そんな数年間だった気がします。大学に進学したともだちが社会人デビューする時には、多少、焦ったりもしましたが、私が社会人デビューするのは、2年後の、2002年の10月、24歳の時です」。
もちろん、就職先は大阪王将ですよね?
「色々、模索したうえで、行き着いたのが『大阪王将』でした。ほかにも色々、あったんでしょうが、私はこれで正解だったと思っています。うちの両親も、いつの間にか『大阪王将』のファンだったので、反対もされず、逆に喜んでくれていましたし」。
高校3年間から密接な関係を保ってきた舞台で、晴れて正社員となった鳥生氏は、どんな仕事をしていくんだろうか。
「6~7年ちかく関西で店長を経験し、再度、東京です」。
今度も、東京遠征で実績を残し、関西にUターン。関西マネージャーになり、ラーメン部門の指揮を執ることになった。「大阪王将」はむろん、規模が大きい分スタッフも多いわけだが「よってこや」を東西で極めた人は、そういないはず。「大阪王将のラーメン部門に、鳥生氏あり」と言われたのではないだろうか。

太陽のトマト麺と無料券。

2023年現在、「大阪王将」ラーメン部門には、「よってこや」の他に「太陽のトマト麺」というブランドがある。もちろん、いずれも鳥生氏が密にかかわっている。
「イタリアンとラーメンが融合して生まれたのが『太陽のトマト麺』。トマトのうまみが凝縮されたヘルシーなラーメンです」。
ブランドサイトの「歩み」をみると、最初は<鶏パイタン麺専門店「よりみち屋錦糸町店」としてオープン>したそう。それが2005年のことで、翌年、メニューを刷新 トマトらーめん専門店として再スタート。名称が「太陽のトマト麺」となったのは2007年のこと。
鳥生氏が「太陽のトマト麺」を担当するのは、2008年「大阪 福島駅前支店」オープンの時。
「東京でヒットした『太陽のトマト麺』だったんですが、関西ではイマイチというか。なかなか想定通りの結果がでません」。
どうされたんですか?
「東京で実績もありましたし、1度食べていただければと。いわゆるラーメンとは異なりますが、だから逆に唯一の存在として注目されてもいいと思っていました。で、『そうか、TVに取り上げられたら』と、安直ですがTV局に日参して、警備員さんに毎日、無料券を配布して笑」。
狙い通り、TV局の人が来た?
「そうなんです。TV関係のお客様がいらっしゃるようになってしばらくして関西の朝の人気番組でオンエアされました。反響があったようで、それ以来、雑誌やTVで取り上げられ、『太陽のトマト麺』がメディアを彩ります」。
ちなみに、グルメサイトをみてみると評価は高い、高い。「これは、ハマる」といった口コミもあった。関西では、まだ大阪の2店舗だが、ラーメンの新ジャンルとして確固たる地位を築いているのが、これ一つからでも理解できる。
やがて、鳥生氏はラーメン部門を統括するようになり、執行役員に名を連ねることになる。

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株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏

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3月10日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『挽肉と米』様を取り上げました。

3月10日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「ORES COMPANY」様が運営する『挽肉と米』様を取り上げました。

2023年3月1日水曜日

株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏登場。

本文より~

高校卒業までの川島氏。

足が速いと色々有利だ。運動もできるし、なにより、注目される。トークも楽しく、人気者。「あの頃は、モテモテだったんですよ」と笑うのは、1971年生まれの川島社長。株式会社ガーデン、代表取締役である。
「勉強はできる方だったと思いますが、勉強そのものはまったくしなかったですね。何をしても飽き性でつづかない。そんな少年でした(笑)」。
足が速いから、中学生になると陸上部に入る。だが、本人曰く、ぐうたらだからサボってばかり。
高校は、どちらに進まれたんですか?
「港区にある芝商業高校です。商業を選択したのは早く独立したいと思っていましたし、じつは、私の小さい頃にセブンイレブンが出店を開始した頃で、ちかくに次々とセブンイレブンができていったんです」。
それに、興味を持った?
「そうなんです。小さいながらにも。イトーヨーカドーにも買い物によく行っていて、それで創業者の伊藤正敏さんに興味をもって、本も読ませていただきました。中学生くらいですから、十分、理解はしていなかったと思うんですが、伊藤さんが、芝商業高校の出身だと知って、行くならここだろうと」。
早くも事業に関心を抱いていたことを示すエピソードだ。
ただ、志は高かったが、飽き性が顔をだす。
「週5日は学校に行きました、ちゃんとね。でも、遅刻ばかり。高校1年までは勉強しなくても、なんとかついていくことができましたが、高校2年の頃には、何が何だか、やばいくらいわからない(笑)。だから、益々、勉強をしない。学年でビリが指定席です(笑)」。
バレー部にも入ったが、辛くてすぐに逃げ出した。
「高校時代は清掃のアルバイトで月10万円くらい稼いでいました。バイトもまぁ言えば大人の世界ですが、じつは麻雀にハマって、雀荘に行っては大人相手にリーチ!ロン!の世界です」。
進学どころの話ではなかったそう。「私の卒業が決まったのは、卒業式の1週間前。担任の先生が職員室で教職員や教頭に泣きながら土下座してくれたおかげなんです」。
高校は卒業できたが、むろん、大事なのは、そこから。風船のような少年は、どんな青年になっていくんだろうか?

事業再生、手始めは不採算のカラオケBOX。

「マジメに仕事はするんですが、指示されるのがイヤな性格だからそもそも正社員は向いていなかったんでしょうね」。職も転々としたが、引っ越しも30回以上と、回数を重ねる。引っ越し代だけでたいへんだ。あいつはいまどこだ?という話が、とびかったにちがいない。
ただ、どこにいっても注目されたんじゃないだろうか? ポジティブで、話も、面白い。「たしかに、ネットワークはそれなりに広がりましたね。縁あって起業したのは25歳の時です。知人の紹介で、不採算のカラオケBOXをもらい受け、事業を開始しました。カラオケBOXってだいたい1億円くらいの初期投資がいるんですが、うちは0円。0円でもいいからやらないかと言われスタートしたわけですから」。
いかがでしたか?
「最初の数ヵ月は月商300万円程度でうろちょろするんですが、半年くらいで1000万円をオーバーします」。
まさに、V字回復ですね?
「ありがたいことにそうですね。当時、社員は私1人。むちゃくちゃ効率的です(笑)」。
話を聞くと、割り切った戦略だった。「初期投資がないから、むちゃくちゃ安くしました。極端な話、0円でもいいんです。かわりにジュースとかで、利益を取ることができますから」。
平日から満員御礼。
「ちょっといけなかったのは、高校生が学校に行かずにうちにきちゃうようになったことですね(笑)」。安くて、楽しめる。そりゃ、人がくる。
「2店舗目を出店する際に、はじめて社員を採用するんですが、それが、今の専務です」。
専務はもとバンドマンで、デビューも決まりかけていたらしい。カラオケBOXには、もってこいの人材だ。

1億円の融資。

「不採算のカラオケBOXを買い取り、再生するビジネスモデルで合計10店舗まで突っ走ります。3年で年商10億円。もう、イケイケです。ただ、イケイケすぎて、そのあと本厚木、ひばりが丘、熊谷に3店舗同時オープンしたりするんですが、ちょっとヤバかったですね。本厚木は閉店。ひばりが丘、熊谷も苦戦。競合店が勝手にコケてくれたおかげで、なんとか黒字化したんですが。手当たり次第、買い取ったり、出店したりしたもんだから、資金繰りができなくなって大ピンチです」。
どうされたんですか?
「ある銀行さんの新宿東口にある支店に、アポなしで突撃です。担当から支店長につないでもらって、支店長に包み隠すことなく現状をお話しました」。
「融資していただかないと、今月末で潰れます」。むろん、頼んだからと言って融資が下りるわけがない。支店長は、川島氏になにをみたんだろうか?
「ありがたいことに1億円を融資いただきました。それだけではなく、事業モデルを絶賛いただいて、アドバイスというか約束を色々交わしてもう1億円、融資いただけたんです」。
その時の話を聞くと、支店長のアドバイスは、1億円以上の価値があったように思う。事業モデルも評価されたが、何より川島という人間が評価された証だろう。学年ビリの生徒が、億単位の評価を受けた証でもある。

カラオケ事業、売却。こちらも、大胆な一手。

カラオケ事業は、専務に任せ、自身はラーメン店の事業にチャレンジする。
ただ、カラオケとラーメン店は、ぜんぜん違う。大丈夫なんだろうか?
「たしかに、そうなんですよね。でも、その頃には、私もちょっと有名人になっていて、再生の話が向こうからくるんです。もともと、そのラーメン店は、潜在的なちからはあったんですね。ただ、私も慎重になって、いったん部長として入社して、この財務なら間違いなく再生できるだろうと確信して再生を開始します」。
なんと、8000万円の赤字が8000万の黒字化まで改善したそうだ。それが、今の「壱角家」の始まり。ホームページには、家系ラーメンの最高峰と記されている。
「株式の上場を狙うくらいにまでは、大きくなりましたが、もうおわかりのように、けっして順風満帆だったわけではありません。リーマン・ショックの時はとにかくきつかったですね。飲食自体は、それほどダメージを受けたわけではないんですが、うち借入金が少なくなかったもんですから」。
融資を断られるだけではなく、貸し剥がしにもあったと乾いた声で笑う。「『もう辞めだ』っていいたかったんですが、そういうわけにはいきません」。
銀行にはとびこむな、と、例の恩人の支店長に、その昔、釘をさされていた。「メインバンクからして、貸し剥がしですからね。もう、どうすることもできない。でも、できないなら、潰れるしかない」。
電話をかけまくる。
「沖縄から北海道までのすべて銀行をリスト化して、北から次々、電話をかけていきました。相談に乗ってくれる銀行なんて、ぜんぜん現れない。でも、徳島まで進んだ時に、神の声ですね。徳島の銀行がビジネスローンを組んでくれたんです。そのあと、何行かでビジネスローンを組んで、なんとかピンチ乗り切ることができたました。この経験は、私にとって、違う意味で財産になっています。コロナ禍でも、うちは、びくともしなかった。たまたま組織を固めたタイミングだったことも幸いしたわけですが、この時の経験をいかし、キャッシュをつねにもっていたからです」。
ところで、カラオケ事業は、売却されていますね。
「そうですね。カラオケは大手が独占しているし、国内需要だけですからね。頭打ちだと思っていましたので、創業の事業でしたが、第一興商さんに売却させていただき、飲食に主軸を移しました」。
2022年12月22日、現在、ガーデンは国内だけではなく、タイ、マレーシアを含め、3ヵ国に210店舗ある。むろん、指揮者は、川島氏。
「じつは一度、会長職になったんですが、組織がうまく回らなくなって、売上も落ち込み、会社が傾きはじめてしまって。それで、社長職にもどり、今度は自社の再生です。もちろん、V字回復。ただ、コロナ禍になり、またまたピンチ。もっとも、今度は、さきほどもいったように資金は潤沢にありましたから、右往左往することはなかったんです。ピンチは乗り越えることで、ちからにも、財産にもなるという好例だと思っています」。
M&Aはガーデンのビジネスモデルの一つ。資金がなければ、スピード勝負についていけない。しかし、飽き性でつづかず、転々とした青年が、いつ、これほどまでにスイッチが入ったのだろうか。

・・・続き

株式会社ガーデン 代表取締役社長 川島 賢氏

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