2012年7月31日火曜日

株式会社春秋 代表取締役社長 杉本貴志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社春秋 代表取締役社長(株式会社スーパーポテト 代表取締役) 杉本貴志氏登場。


杉本社長


本文より~


剣道一直線。


今回登場いただく株式会社春秋の代表取締役社長、杉本貴志は、太平洋戦争が終戦する1945年の4月に生まれている。東京に居を構えていた杉本家は、軍事関係の仕事をしていた父を残し、母と姉2人と杉本の4人で高知県に疎開した。母方の祖父母宅があったからだ。
「私が生まれてスグに終戦です。父はそのまま東京に残り、私たち4人は、私が小学4年生になるまで高知で暮らしました」。海もあれば、川もある。杉本は自然のなかでわんぱくな少年に育っていったことだろう。
奔放で、手のかからない少年に育った杉本に、祖父が剣道を教え始めたのは小学2年生の時。
これがきっかけとなって、杉本は大学まで剣道を続け、大学ではキャプテンまで務めている。大学卒業後の一時期には、調布警察署で剣道を教えている。
祖父から教えられた剣道と、剣道にかかわるものの考えかたは、杉本の人生のなかで大きな根をはったに違いない。


「絵の才能? そんなの考えたこともないよ」


小学4年生で高知を離れた杉本は、東京の調布市で暮らすようになる。初めてみる生まれ故郷だったに違いない。「私が、中学に上がる頃は、ちょうど調布が市になる時で、人口は3万人しかいなかった。いまでは考えられませんが、中学校もひとつだけ。でも、ベッドタウンの波がきていて、いち学年が13クラス。ひとつのクラスに50人どころか60人ぐらいいたんじゃないでしょうか」。杉本が13歳といえば、1958年。いったん焼け野原となった東京が、一気に大都市に再生されていく、そんな年である、都市再生のプロセスを杉本自身、体験していくことになる。
日本を代表するインテリアデザイナーの杉本に訊くのはどうかと思いつつ、愚問を一つ投げかけてみた。「当時から、絵の才能はおありだったんですか?」。
「う~ん、私は高校の2年の時に東京藝大に行こうと思うんですが、授業では美術ではなく、音楽を選択していたほどなんです。たしかに絵の展覧会などでは良く賞をもらっていましたし、巧いと言ってくれる友人もいましたが…、才能というようなのをハッキリと意識したことはなかった気がします」。そんな答えが返ってきた。
では、杉本が自信を持っていまの仕事に向かいだしたのはいつ頃なのだろうか。「30歳くらいになってからですね。これでいこうと決めたのは」。こちらの答えにも驚かされた。ただし、これはずいぶん先の話。学生時代に話を戻そう。・・・・。


株式会社春秋 代表取締役社長(株式会社スーパーポテト 代表取締役) 杉本貴志氏


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2012年7月28日土曜日

27日夕刊フジに加寿翁コーポレーション竹内太一社長登場。

27日発行の夕刊フジに加寿翁コーポレーションの竹内太一社長の記事が掲載されました。

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なんと創業大正6年(1917年)で2017年には100周年迎えられる老舗企業である。

その加寿翁コーポレーション、社員の方はずっと新卒採用のみ。
それが今回、若手層強化のため中途で調理師求人も募集中だ。

加寿翁コーポレーションの求人

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2012年7月26日木曜日

2012年7月25日水曜日

“飲食の戦士たち”300回(300社長登場)到達しました!

飲食の戦士たち”も今のレイアウトにして300回(300社長登場)到達しました。


延べ総取材時間500時間強!


これも飲食企業の社長様のご支援の賜物です。


心より感謝申し上げます。


同時に1社1社コツコツと信頼付けるために頑張ってくれたスタッフのおかげです。


ありがとう!!


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目標500回。一気に到達したい。



300回!! ワイエスフード株式会社 代表取締役社長 緒方正憲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にワイエスフード株式会社 代表取締役社長 緒方正憲氏登場。


緒方社長
本文より~


トラックの運転手だった父が開いた小さなラーメン店。


博多湾から東に向って道がまっすぐつづいている。地図で確かめると、福岡インター近辺で201号線となり、何度も蛇行しながら半島を横切り、周防灘に抜ける。福岡市、飯塚市、田川市、行橋市など、福岡県内の主要都市を通ることもあって、山間部が多いにもかかわらず交通量は多く、大型車の行き来も多い幹線道路となっている。
この201号線沿いに、一軒のラーメン屋が産声をあげたのは、1970年のこと。1970年といえば万国博覧会が開催された年であり、ファストフードやファミリーレストランが次々誕生する、飲食産業にとってはターニングポイントとなる年でもある。
日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンする一方で、201号線沿いにオープンしたラーメン店は、当初、店名すら決まっていなかったそうだ。「もともとトラックの運転手をやっていた親父が、22歳で開業したお店です。全部、手づくりでトタン屋根だったそうです。たまたま坂を上がる峠のてっぺんにあって、お客様が山小屋みたいだ、といったことがきっかけで、『山小屋』と命名したそうです」と2代目社長である、緒方はそういって笑う。
オープン当初こそ、客数は少なかったが、運転手の口コミなのだろう。「山小屋」は、次第に繁盛店となり、本場博多や久留米のラーメン通たちの間でも評判になる。ところで緒方が誕生したのは1969年だから、「山小屋」オープン1年前。店を開いてからは、父も、母も交替で店にでた。ときには母の背に負われ、緒方も店に顔をだしていたそうだ。・・・・・。


ワイエスフード株式会社 代表取締役社長 緒方正憲氏


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2012年7月20日金曜日

物語コーポレーション(東証一部)の小林会長、青山学院大学にてゼミ講義!!

本日7月19日、物語コーポレーション(東証一部)の小林佳雄会長が、青山学院大学の総合文化政策学部・堀内ゼミにて講義されました。


小林佳雄会長が言われる「意思決定」!!


これは大事なこと。


また「意思決定」するうえで“勘・感覚・感情”っておっしゃってたが、そのとおり。それを学生時代から理解してると人生変わるかも・・・。


物語メイン
物語2 物語1
(青山学院大学・堀内ゼミにて)



2012年7月18日水曜日

主婦の友社の本社に新刊が掲示・・・・。

主婦の友社の本社に新刊が掲示されているその中に発見!!


主婦の友社メイン


近寄ってみると、なんと!!
1 武田あかね



株式会社シャルパンテ 代表取締役 藤森 真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社シャルパンテ 代表取締役 藤森 真氏登場。


藤森
本文より~


バーテンダーになりたくて。


店長という要職を務めるアルバイターがいる。藤森も、吉野家でバイトながら店長職を命じられた。「私より年齢の高い人いましたが、どうなんでしょう。みんな店長はたいへんだから、なりたがらずにお鉢がまわってきたんだと思います」。それでも、いい勉強になった。大手資本で、マネジメントの勉強ができたからだ。「バーテンダー」としていつの日か、店を持ちたいと思うようになったのも、この頃のことである。「バーテンダー」を志した藤森は、フレンチの高級レストランに就職し、並行してバーテンダーの勉強も行い、街場やホテルでバーテンダーとして勤務するようになる。経験も積む。ある店のオーナーにスカウトされ、店を任された。グアムにある「TGIフライデーズ」も経験した。歌舞伎町のレストランでも勤務したが、その店は、半年間給料未払いのまま、倒産した。キャリアが長くなるにつれて、自信の一方で、漠然と将来に対する不安が生まれてきた。


ハイキャリアへの挑戦。


スペシャリストと呼ばれるには、才能も、根気も大事になってくるのだろう。バーテンダーも、スペシャリストに違いない。ただ、その道は、想像以上に長い。数年で覚えるには、レシピ一つとってもあまりに膨大な数があるからだ。「私のキャリアを改めてふりかえってみたんですが、カクテルがつくれて、それなりにお酒を知っている程度のレベルでしかないと悟ったんです。言い換えれば、何ひとつ誇れる強力な武器がなかったんです」。もっと広範囲な知識を修得しようと、藤森はビール、蒸留酒、日本酒、チーズに関する知識を勉強し、資格を次々に取得する。その先にワインという領域が広がっていた。「バーテンダーはさまざまな酒類の知識を持っていなければいけないんです。ただ、カクテルのレシピだけでも膨大な数があり、それで精一杯なのです。そのうえ、無数にあるワインを勉強するなどとてもできないと思っていたんですが、ビール、蒸留酒、日本酒とくればワインも避けて通れないと思うようになったんです」。めざすはソムリエ。利酒師やビア・アドバイザーなどの資格を取得したことで、つぎの、避けては通れないステップがみえてきたということなのだろう。ハイキャリアへのチャレンジが始まった。・・・・。


株式会社シャルパンテ 代表取締役 藤森 真氏


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2012年7月14日土曜日

バル激戦!!

7月11日、五反田にフレンチの王様&イタリアンの王様が同時オープン!!


大台
運営は大台フードプロジェクト様


大台フードプロジェクト様はなんと私の田舎の京の食材を使ったお店“神楽小町”“美山cafe 梅三小路店”を運営されているので人一倍気になり、かつ贔屓させてもらいたい。



ジンコーポレーションの高橋仁社長登場。

本日13日発行の夕刊フジに美容(脱毛専門サロン「ミュゼプラチナム」)・飲食(「橋本ヒロシ」「麺家くさび」「一心亭分店」「あぁ博多人情」)の分野で事業展開しているジンコーポレーションの高橋仁社長の記事が掲載されました。


ジン高橋社長 IMG_4258


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2012年7月11日水曜日

株式会社コメダ 代表執行役(CEO兼COO)社長 安田隆之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社コメダ 代表執行役(CEO兼COO)社長 安田隆之氏登場。


安田
本文より~


少年時代。


1960年、京都に生まれ、神戸にて育つ。2人兄妹で、妹とは6歳違い。父は、外航船の船員で、「一度、仕事にでると3ヵ月ぐらい帰ってこなかった」らしい。1年のうち半分は家にいなかったそうだ。
少年時代の安田は、「どちらかといえば平凡な少年だった」そうである。当時の少年たちは誰もが野球好き。安田も広場で野球ばかりしていた。
平凡というが、中学受験を試みている。当時はまだ中学受験をする生徒は少なかったはず。ただ、挑戦したが失敗。「友だち3人でいっしょに受けて、みんなで仲良くすべりました(笑)」。中学は地元の公立にこれまた3人で仲良く通うことになる。
中学でもクラブ活動に打ち込んだりはしなかった。帰宅部。だからと言って、時間があるわけではないが、勉強もそれなりにしたらしい。「私がいた兵庫県は、内申書が合否の7割を占めるんです。だから一発勝負というわけにはいきません。私が狙っていたのは、兵庫県下でトップ校の一つ長田高校だったので、学年で11番以内に入らなければなりませんでした。10クラスあったんで、クラスでいちばんが条件だったんです」。
なんでも、合格数450人に対し、志望者452人。巧く調整されたギリギリの数字である。2名の不合格者は、いったいどうなるのだろうと余計なことまで考えてしまった。・・・・。


株式会社コメダ 代表執行役(CEO兼COO)社長 安田隆之氏


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