2022年3月29日火曜日

さあ2022年度、全力で頑張るぞ!

コロナ禍の次はウクライナ情勢で原価高騰等もあり益々飲食業界にとって厳しい状況が待ってます。

少しでもキイストン発信で、いろんな飲食企業様の認知、価値高めていけたらと考えて、ネタ仕込んでます。

さあもう直ぐ4月。2022年度も全力でスタートダッシュし頑張るぞ!

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏登場。

本文より~

高校から親元を離れる。

小・中学は地元、中野区の学校に通学。剣道をやっていた父の「武道を嗜むべし」とのすすめで、幼稚園の頃から剣道をはじめ、中学卒業までずっと続けて3段を取得。様々な大会で優秀な成績をおさめる。他には水泳を習わせてもらうなど、兄弟全員の教育に投資を惜しまなかった親には、大人になった今となってはとても感謝している。
高校は親元から離れた木更津の暁星国際高校に進学し、日本全国から集まる、個性の強いメンツにかこまれた寮で寮生活をはじめた。家に帰れるのは月に1度だけだった。
中学3年まで続けた剣道。高校でもまずは剣道部入部を考えたのだが、残念ながらあまり強い学校ではなかったので躊躇していたところ、たまたまラグビー部の顧問が中学時代の先輩で、有無を言わせずのラグビー部入部となった。未経験のラグビーだったが、50名いる部員の中で1年からレギュラーを獲得できたのは、その俊足のおかげ。千葉代表で国体選手に選ばれた経験を持つ。

厳しい父親。

「学校も剣道も途中で何度もやめようと思ったけど、父親が怖くて辞められなかったですね」。
何かを「辞めたい」なんて言おうものなら、拳が飛んできたそうだ。
高校時代は「辞められないのなら問題をおこして停学を重ね、退学になってやろう」と、わざと問題をおこしたこともあった。父親は家では絶対の存在で、体格が父親を上回る年齢になっても、勝てる気がしなかった。
小さい頃から「親父には勝てない」と思い込んで育ってきたこともあるし、親との喧嘩で「これ以上やっちゃいけない」という気持ちもあった。それほど、威厳のある父親だったのだ。

大学卒業後、飲食の道へ。

大学は國學院大學に指定校推薦で進学した。水上スキーに熱中し、アルバイトに明け暮れ、毎晩飲み歩き……つまり、あまり学校へ行っていなかった沖原氏。
4年の終わり、留年の可能性が濃厚になって来た頃にアルバイトをしていたのが、世田谷区三宿にあるハンバーガー専門店「FUNGO」。
「ダブるくらいなら大学を辞めてどこか適当に就職してしまおう」と思ったのを止めてくれたのは、これまで進路の決定権を握っていた父ではなく、そこで出会った店長だった。その店長に憧れ、「この人と働きたい」という気持ちが強くなっていくのは当然だったのだろう。親の反対を押し切って、卒業後「FUNGO」を運営する(株)ファンゴーにそのまま入社したのが、人生の転機となった。
この時、父親には「飲食業をやるなら、独立しかないからな?」と強く言われたそうだ。3年勤めていた間に、ハンバーガーだけでなくイタリアンやアップルパイ専門店など、ファンゴーが展開する別業態でも修行をさせてもらったのは、その後も飲食業界で泳いでいく沖原氏の力となった。
ファンゴーを辞めた後は、国内飲食店をメインとした売上アップのコンサル業務に3年ほど携わる。

蕎麦の可能性。

ファンゴー、コンサル業などを経て、五反田にある個人経営のそば居酒屋「まほろば」に入ったのが、「個人店の在り方や魅力」を学ぶ良い機会となり、独立への大きな足掛かりとなった。
「まほろば」の社長は蕎麦の修行をして独立した職人で、調理の基本だけでなく、「お客様に対する考え方」などを学ばせてもらった。これまでの自分とは真逆で、店にも生き方にも華やかさを求めない生き方に大きな衝撃を受けたそうだ。
いずれ独立した暁には、アジア中心の海外出店を考えていた沖原氏。うどんが流行の兆しを見せはじめていたこともあり、まだ普及していない「そば」にもっと大きな可能性を感じ、「まほろば」で2年の修行をつんだ。

29歳、独立。31歳、離婚。

出来れば25~26歳、遅くとも28歳までには独立したいと漠然とした目標を持っていた。
下北沢に自社1号店である「CAZILO(カジロ)」をオープンしたのは、29歳。だいたい計画通りである。29歳まで利用できる政策金融公庫の融資も賢く利用した。
「まほろば」での修行を生かし、蕎麦バルと銘打って蕎麦業態で開業を果たしたのは、15坪の1/2階、家賃は30万ほどの小さな店。シェフとアルバイトの3人でのスタートだった。
月250~300万円ほど売り上げればやっていける規模で、スタートから軌道にのった。
開店から3ヶ月もすると、取材の申し込みが入りはじめ、その取材を全部受け、メディアがメディアを呼び、テレビで紹介されることもあった。中でも週刊文春の覆面店舗調査企画に高評価で掲載された際には店の中がぐちゃぐちゃになるほど賑わったそうだ。下北沢周辺が地元の裕福な客層に支えられ、順調に人気店へと成長していくことになる。
1号店開店から約1年。たまたま下北沢で出会った人から「一緒にお店をやりませんか?」と持ちかけられ、2号店となる天麩羅居酒屋を目黒にオープン。ここでも蕎麦屋での修行が物を言い、好スタートを切った。世間で串カツが人気なら、天麩羅も人気が出るという予想も、当たった。
しかし、店が順調なほど、プライベートは反対の方向に進んでいった。仕事中心の生活で「妻を安心させることより、従業員に楽しく働いてもらう」ことを優先し、仕事で酒を飲むこと…「仕事=酒」という考え方の溝が夫婦間で埋まることはなく、離婚という苦い経験をしたのが31歳。独立して2年、2号店を開店してすぐのことだった。
「プライベートと仕事のバランスのとり方がわからなくなってしまった」という沖原氏も、コロナ禍を経て今では考え方もずいぶん柔軟になったそうだ。

・・・続き

株式会社JYUPPO 代表取締役社長 沖原嘉次郎氏

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3月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『JYUPPO』様を取り上げました。

3月25日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はコロナ禍で逆風をチャンスと考えておられる『JYUPPO』様を取り上げました。

霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏登場。

本文より~

夜明け前まで。

はじめて知ったが、釣った魚をはく製にする人がいるそうだ。「すごい魚が釣れた時には魚拓じゃ物足りないんでしょうね」と笑うのは、今回ご登場いただいた「霞町 三〇一ノ一」のオーナー、渡辺 ひと美氏。
「ただし、魚拓のようにはいきません。だから、父に連絡がきます。私の父は、はく製づくりの名人だったんです」。
渡辺氏の父は秋田県大曲出身。花火で有名な町だ。
「父は建設会社を経営するかたわら趣味が高じて、当時、日本に3人しかいない魚のはく製づくりのマイスターになっちゃったんです」。
釣り雑誌でも度々、紹介されていたらしい。
「毎日のように『はく製にしてください』って立派なお魚が送られてくるんです」。
だから食卓には、いつも新鮮な魚がならんだそうだ。
父親は、はく製づくりも得意だが、料理も十八番。
「はく製をつくるくらいですからね。プロの料理人に負けない位に巧かったんじゃないでしょうか。ただ、なんでも食べちゃう人で、虫とか、そう狸もたべさせられました」。
「注意しておかないと何をたべさせられるかわからない」と渡辺氏は笑う。
はく製づくりは、繊細な作業にちがいないが、「何でもござれ」の食材からはワイルドな性格が浮かび上がる。「そうですね。野性的でアクティブな人でした。家族は毎週のように山、川、海に連れていかれたんです」。
言葉の端々から、当時をなつかしむ響きが伝わってくる。
「おひつに残っているごはんで、おにぎりをむすんで。車で道なき道を行く訳です」。
アスファルトから、砂利道に。いつのまにか、砂利もなくなっている。からだは、上に、下に、右に、左に。
「魚釣りは、夜が明ける前から竿をさすでしょ」。
だから、夜明け前まで。移動は月明かりの下。暗闇のなか、崖を下らされたこともあったそう。
「でも、たのしかったですね」。
ちなみに、渡辺家は4人家族。2人姉妹で、渡辺氏は次女。次女は父親のワイルドさをもろに受け継いだのか、とにかく、昔は運動が大好き。
小学校から始めた卓球では、小・中と都大会で上位入賞している。もっとも本人は、テーブルじゃないほうのテニスで、コートを軽やかに駆けたかったようだが。

南をめざして。

渡辺氏は、卓球で推薦をもらった「東海大相模高校」に進学する。ただし、推薦は蹴り、通常の受験生に混じり試験を受け入学している。
「なんで東海大相模高校かっていうと…、じつは野球部のマネージャーになりたかったんです」と渡辺氏。理由を聞くと、当時、流行っていた漫画の名が挙がる。ヒロインはたしか、南。
「だから、私も甲子園に行ってみたいと思って。東海大相模は常連校でしたから。ただ、私がいけないんですが、当時の野球部は女子禁制。マネージャーも男子だったんです」。
それは、残念というか。
「でしょ。ちゃんと調べておけばいいのにね」といって茶目っ気たっぷりに笑う。
しかし…、卓球部からのお誘いはなかったんだろうか?
「ありましたよ。休み時間毎にしょっちゅう。ただ、こちらも私がいけなかったんです」。
入学早々、球技大会があったそう。
「じゃんけんに負けて私の出場種目が卓球になっちゃったんです。最初は目立たないようにしていました。でも、相手は素人。あれよ、あれよって勝ち上がってしまって」。
ついに、相手は卓球部の選手。勝手にからだが動く。
「現役選手の強烈なスマッシュがきたら、習性なんでしょうね。ついに踏み込んでしまって」。
ラリーが始まる。
ラケットが卓球ボールを打つ乾いた音が観客を集める。結局、勝利してしまう。
渡辺氏の華麗な勝利にいちばん驚いたのは卓球部の部員たちかもしれない。休み時間になるたびにお誘いがあったのもうなずける。だから、「私もいけなかった」と渡辺氏は言っている。
しかし、渡辺氏は頑なに拒みつづけ、結局、茶道部に入部。裏千家の御免除を取得している。
改めて、父親の印象を聞くと「厳しくも優しい。誕生日も同じということもあってか双子の様な存在で理解者でした」という。

就職は、トヨタ自動車グループ。

大学では、ロシア語を勉強した。
「ロシア語は難しかったですね。あの頃は、1日6時間は机に向かっていたんじゃないかしら。じつはモスクワの大学の交換留学生にも選ばれたんです。ただ、ロシア国内の情勢が不安定で私たちの学年は行くことができませんでした。仕事も本来であればロシア語の通訳としてロシア大使館で、と思っていたんですが、こちらもあきらめなければならなくって。真剣に勉強していたので悔しくて、少しだけやさぐれていた時もありました」。
でも結局、世界のトヨタに就職されたんですよね?
「やりたい事がやれないのであれば、だったらお給料が高いところにしよう!と思って、資料請求を出したトヨタ様からお返事があって。まさか、採用されるなんて思ってなかったです」。
渡辺氏がトヨタ自動車、正確には、トヨタエンタープライズに入社したのは1995年のこと。
「人生のターニングポイントは、3回」と渡辺氏。1回はトヨタに入社したこと。立ち振る舞いなど、様々なことを勉強させてもらったと言っている。
2回目は、むろん、そのあと。
「トヨタは3年半で退職しています。そのあと、セント・フォースというアナウンサーのマネジメント事務所の方に声をかけていただいて、私の、第二の人生の幕が上がります」。

ニュースキャスターと、日本酒と。

最初は、日テレの「お天気お姉さん」でブラウン管デビュー。朝3:30に迎えが来て、朝6:00からオンエア。夕方からはニュースプラスワンの冒頭で今日の主なニュースを読み上げた。
「報道のニュースキャスターです。あの頃は、報道フロアなどに朝から朝までいたような気がします。他にも、様々な料理人や料理家、タレントの方と料理番組も担当していました」。
それが、今につながっているわけですか?
「いえいえ、私がお店をやろうと思ったのは、4歳の頃。その思いを温めて、温めて、33歳の時にやっと念願かなって私のお店をオープンします」。
最初から、ゴッコじゃなかった。だから、4歳の記憶が鮮明に残っているんだろう。
「じつは、最終目標はずっとそれだったんです。トヨタの時も出張で全国に行きました。仕事前に早起きをして各地の朝市に行って食材を勉強したり、アナウンサー時代もロケの前後で蔵元様に伺って日本酒の造りを学びました」。
渡辺氏は唎酒師の資格まで取得している。
それも準備の一環だった?
「いえいえ、もともとお酒はまったく飲めなかったんです。あの頃はトヨタの役員といっしょに日本のいたるところに仕事でご一緒する機会があったのですが、少しでも酔ってしまうと会社を首になってしまうので、接待の席でも絶対お酒はいただかなかったんですが。青森に行った時です。地酒で『田酒』というブランドをお客様にお勧めいただいて。どうしてもとおっしゃるので、じゃあ、お口をつけるだけと言って」。
どうなりましたか?
「ほんの一口、含んだだけなのに、おいし~ぃってなって。お相手の方も喜んで下さって、コミュニケーションの潤滑油的な役割になる日本酒をもっと知りたくて唎酒師になり、今では日本酒が大好きです」。
このあたりやはり、お父様に似ている。
日本酒の妖精が、お店をはやくやらないの?と、ささやきにきたのかもしれない。

・・・続き
霞町 三〇一ノ一 オーナー 渡辺ひと美氏

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2022年3月25日金曜日

継続力。

仕事はリクルートにバイト職からスタートした人材ビジネスの仕事を今もやっております。

また、就職はリクルートから転職せずキイストンを設立したので転職も経験せず。
※綱渡り経営ながら今年で30年経ちました。

このブログも「飲食の戦士たち」が少しでも引っかかるようにと2007年から始め16年になりました。 

Facebookは日記代わりにと継続して投稿してると仕事に大変役立ってます。
今は、Twitterで1度はバズることを願ってコツコツ始めてます。


自分でもこんなに継続力あることにびっくりしてます!

やらないとわからないことが沢山あります。
やってみて気づくことも多いし…。
いずれにせよ、長くやり続けると信頼度増すね。
「継続は力なり」=「信用」になってます。
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2022年3月23日水曜日

「いろんな動き」。

いろんなことが動きそうかな。

いろんなことを動かせそうかも。

いろんな動きをやってみよたいな。

いろんな動きに巻き込みたい。

いろんな動きしてると大変ですがなにか楽しみ!

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2022年3月22日火曜日

3月17日(木)の「カンブリア宮殿」に急速凍結機のテクニカン様出ました。

急速凍結機のテクニカン様を伝えるのに、この「カンブリア宮殿」はスゴく伝わってきます。

飲食企業様が導入することで、販路拡大の可能性はもちろん、何よりもフードロスを減らし、作れる時に作り込みすることで人件費の削減にもつながります。

キイストンがお繋ぎますよ。

【テレ東の「カンブリア宮殿」ホームページより】

コロナ禍で激変したものの1つに、冷凍食品の需要がある。コンビニやスーパでは、冷凍食品売り場の拡充が進み、デパ地下で行われた“冷凍食品のみを扱う催事”は、連日行列が出来る盛況ぶりを見せたという。実は、この冷凍食品ブームの陰には、知られざる仕掛け人の存在が!それが横浜にある冷凍機メーカー『テクニカン』の創業者・山田義夫だ。山田が作り上げた凍結機「凍眠」は、冷凍機の常識を覆す「液体凍結」という方法で食品を凍らせる。使えば、魚や肉などの食材はもちろん、高級レストランの料理や新鮮なフルーツ、そして銘酒『獺祭』も、独自の液体に漬け込むだけで、あっという間に凍らせることができるのだ。しかも、この凍結機で凍らせた食品は、解凍しても…“出来たての味”がキープできるという。これまでの常識を覆した驚きの液体凍結の技術を、たった1人で生み出した山田だが、実は、冷凍技術や機械の知識がゼロというズブの素人。しかし、その素人が生み出した「凍眠」は、食のプロを驚かせるオンリーワンの凍結機に成長し、今では業界を超えて相談に来る人が後を絶たないという。冷凍技術の素人だった山田は、なぜ食のプロが大絶賛する冷凍機を作り上げることが出来たのか?知られざる冷凍革命の舞台裏に迫る! 【革新的な冷凍技術で“食のプロの困りごと”を瞬間解決!】 テクニカンの創業者・山田が作り出した液体凍結機『凍眠』の最大の特徴は、冷気で凍らせる一般的な方法と比べ、20倍速く冷凍できる点にある。しかも、冷凍する際に食品の細胞を壊さないので、解凍した後の肉や魚からドリップが出ず、冷凍前の“生”に近い味と食感が保てるという。テクニカンが誇る、こうした高い技術力を聞きつけ、いまや、鮮魚の仲卸業者やレストラン経営者などの“食のプロ”が連日のように相談にやってくる。つまり、テクニカンは“食のプロの駆け込み寺“とも言える存在になっているのだ。これまでの冷凍技術の常識を打ち破る「凍眠」とは、一体どんな凍結機なのか?知られざる冷凍機メーカーの躍進の秘密に迫る! 【苦節10年!“知識ゼロ”からの大逆転を実現させた諦めない男の執念】 学生時代の山田は、勉強はほとんどせず、毎日のように遊び回っていたという。あきれた母親に高校を中退させられ、父親の経営する食肉卸の会社に無理矢理入社させられてしまう。しかし、山田は入社後もダイビングや釣りなど、仕事の合間を縫っては趣味に没頭する日々を過したという。その山田が35歳の時…人生を変える転機がやってくる。そのころ、すかいらーくなどのファミリーレストランが急成長し、山田が身を置く食肉卸業にも注文が殺到。ところが、大量の注文を受けても・・・肉の冷凍が間に合わず、結局、納品が滞る事態に陥る。その状況を目にした山田が思いついたものこそ、冷凍の常識を打ち破る「液体凍結」という手法。そして、山田は液体凍結を使った凍結機メーカーを設立し、大々的に売りだしたのだ。しかし、技術は画期的ではあったものの、実際にはほとんど売れず・・・山田は多額の借金を背負うことになったという。遊びを大切にしてきた男が、なぜ、世の中にない新たな冷凍方法を生み出すことができたのか?そして、どん底から、いかにして成功に至ったのか?苦節10年、“諦めない男”の開発秘話を紐解く。

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3月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『甲羅』様を取り上げました。

3月18日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は新業態〝韓流版〟「赤からソウル」を展開される『甲羅』様を取り上げました。

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2022年3月18日金曜日

株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏登場。

本文より~

と冬、年2回の家族全員での旅行が、
日頃の忙しさで希薄になりがちな家族の時間を取り戻した。

合掌造りの店舗がひと際目を引くかに料理の「甲羅本店」を筆頭に、「赤から」「カルビ一丁」などの和食料理、居酒屋、焼肉料理など21ブランドをはじめ甲羅グループ全体を率いる二代目経営者・鈴木氏は1972年生れの50歳で出身は愛知県豊橋市。姉と弟に挟まれた3人姉弟の長男だ。社長に就任して3年目を迎え幼い頃を振り返って、こう語る。
「おばあちゃん子なんです」。その理由は?
鈴木氏が生まれる3年前の1969年、父であり初代社長、そして現在は会長職を務める鈴木勇一氏が「どん底」という飲食店を開業。以後、新たな業態に挑んだり、店舗を拡大することなど経営にエネルギーを注ぐ父。開業当初から母親も一緒に働いていたこともあり、記憶しているかぎりでは忙しさのためか、早い時間に帰宅することがほとんどなかったという。
「ちょうど甲羅を開業しFC展開も始めた頃で忙しかったんだと思いますよ。そんな多忙な両親に代わっておばあちゃんに育てられました」
こうした家庭環境で育った鈴木氏だが、「子ども心にも事業を継ぐ気は、まったくなかったですね。父は継がせようと考えていたかもしれませんけれど……」
一方で両親は、日々の忙しさや子どもとの時間を補うかのように、空白を埋めるかのように家族との豊かで、和やかで暖かい、心に沁みる時間を演出した。
「休みの日は外食に連れてってくれましたし、年2回、夏休みと冬休み、北は北海道から南は沖縄まで家族全員で2泊程度の旅行に行きました。楽しかったですし両親もその時間は仕事を離れてリラックスできる貴重な時間だったんでしょうね」と過ぎ去った家族のイベントを懐かしむ。

小学校から高校まで、野球→テニス→卓球と「ボール」を扱う競技に親しむ。

「おばあちゃん子」だったと語る鈴木氏だが、どんな子ども時代を過ごしていたのか。
「自然が好きでした。魚釣りが好きで、よく近所の池や川で魚釣りをして遊んでいました。自然が育ててくれたようなものですし、こうした意識や関心、環境がやがて職業の一部になるとは思いもよらなかったですね」
現在50歳ということは、いわゆる“団塊ジュニア”と称される世代にあたる。こうした子ども増加が要因になった結果、中学校は1学年16クラス(!)だったとのこと。「ただ翌年、新しい中学校ができたので10クラスに減りました」。減ったとはいえ10クラス、現在では想像できないほど、子どもの多かった時代である。
「中学校は、自宅から徒歩1㎞ほどの距離にありました。小学校時代は野球をやっていたのですが、中学校入学後は姉の影響もあり部活として“軟式テニス”をしていました。3年間です。3年間続けられたというのは、上手になりたいと思いとは別に、友だちに会うのが楽しいという側面もあったからです」
平穏無事な3年間を過ごし高校へ。「従兄弟が在籍し自由度が高いことで知られていた蒲郡の私立高校へ進学、片道20分くらいかかる電車通学でした。規模は結構大きくて、1学年10クラスだったと思います。小学校では野球、中学校では軟式テニスに取り組んでいましたが、高校では卓球部に入部しました」

荒れる中学、高校を過ごした時代、まだ飲食業はほど遠い職業だった。

しかし、鈴木氏が中学校、高校を過ごした1980年代前半から、いわゆる校内暴力などが全国に広がり「荒れた中学、荒れた高校」と呼ばれる現象が顕著になり社会問題化した時代でもある。
「中学校の頃は“スクールウォーズ”の時代で卒業式に警察が出動するなどの事件がありましたし、高校では近隣の高校とトラブルが続いたりと、やんちゃな時代でしたね。こうした現象や状況、鈴木氏に被害はなかったのか、どう乗り越えたのか。
「決して質実剛健、品行方正という生徒ではなかったと思いますが、大きな被害にも合わず、そうしたやんちゃな連中に誘われもせず、友人たちと豊橋から岡崎まで~30㎞程度の距離~自転車で行くなど遊んでいましたし、ごくごく普通の高校生でした」
一方で鈴木氏が中学校、高校に通っていた頃、家庭はどうだったのだろうか。
「高校の頃、“甲羅”“かまど”“カルビ一丁”などFC展開で店舗がどんどん増えていく時代でしたから、特に父親と顔を合わせる時間少なかったですね。また父親は、家庭に仕事は持ち込まないというのがモットーでしたから、キツイ時期だったんでしょうが、仕事の苦労について語ることは一切なかったですし、今になっても昔のことを訊くことはありませんね」
また「FC展開で店舗が増え、出店地域が拡大してきた要因の一つに、父がOGMコンサルティングで学んだことが大きかったと思いますよ」と続ける。
とは言え、父が経営する事業が発展・拡大していく環境にありながら鈴木氏の胸中には、「継ごう」という意識は、まだ希薄だったようだ。いつ芽生えたのか。

親元を離れ生きることを意識した一人暮らし。
将来を見越して経済学部へ進んだ。

高校卒業、そして大学進学。この際、こだわったことが三つほどあった。
「一つは地元を離れる。二つ目は一人暮らしをしてみたい。三つ目は新しい環境に身を置いてみたいという思いです。元々が新しい所に行くことが好きだったこともあるかもしれませんね」。入学したのは千葉県千葉市にキャンパスを構える『敬愛大学』。「社会に出たときの準備の意味もあり経済学部を選びました」
どんなに多忙であっても、父と母の存在は大きかった。その目線の暖かさを肌で感じていたからこそ、親元を離れ一人で生活したい、新しい環境に身を置きたいという願望が膨らんだのだろう。
「進学後、サークル活動を立ち上げました。活動の特徴としては、全方位型“なんでもサークル”です。そのたまり場が私の借りていた部屋だったんです」
「社会勉強と言いますか、社会に触れる意味もあり飲食店でアルバイトを始めました。“うなぎ割烹”でした」
その後、舞浜のホテルでのルームメイキング、警備会社、宅配便の荷物仕分けなど短期のアルバイトを経験しながら、「自らが自らの力で生きるここと」を経験、学んできた。
「一時期ですが、1日100円生活を体験したんですよ」と語ったが、1日を100円で賄うというのはどんな生活だったのだろうか、きちんと食べられたのだろうか。
「サークル仲間やアルバイト仲間が、たまり場となっている私の部屋に惣菜など食べ物を届けてくれたんです。ですから飢え死にするようなことはありませんでした(笑)」
「友」はありがたい。

外国の空気に触れた大学時代

大学時代のサークル活動は、鈴木氏に「人との出会い」をもたらし、かつ視野の広がりを教えてくれた。その一つが、短期間とはいえ2度にわたるアメリカで生活したことだった。
「高校時代、家族旅行でハワイに行ったことがあったのですが、大学1年と3年、2度にわたって、たった1人でアメリカに行った体験が楽しかったですし、大袈裟ですけれど世界の広がりを感じました」
初の単独渡米は、西海岸ワシントン州北西部に位置するシアトル。
「1年生のときでした。留学していた親戚がいたんです。迎えに来てくれることになっていたんですが、シアトルの飛行場って、日本では考えられないほど広くて、出口もいっぱいあるんです。その結果、ちょっとした行き違いというか勘違いで待ち合わせがうまくいかず、なかなか巡り合えませんでした。まさに“ポツンと一人ぼっち”状態で言葉は通じないし、会えないなら日本に帰ろうと思いもしましたが、どうしたらいいか分からなくって……。結果的には到着4時間後、無事に巡り会えたのですが、会えるまで、心細かったですね。いまにして思えば笑い話ですけれどね」。シアトルには1か月滞在した。
「2度目は3年のときです。アメリカ・カルフォルニアでのホームステイでした。やはり1か月ほどでした」
当時、アメリカへ行き短いながらも海外生活を体験したといっても学生生活の延長であり、やがて、仕事で海外に行くことになるなど考えもつかなかったし思いもよらなかった。その鈴木氏にある出来事が大きな刺激となり、劇的な変化が訪れた。

初めて目にした父が仕事に取り組む姿が、「継ぐ」ことを決意させた。

かに料理「甲羅」の最大の課題は、常に安定的に「かに」を確保することに尽きる。そのために重要なのが「買い付け」「仕入れ」だ。
「大学3年のときでした。父がかにを買い付けるためにカナダに行く機会があり、その機会というか商談に同行したことです」
幼い頃から仕事で家を空けることが多かった父は、家庭に仕事を持ち込むタイプではなく、具体的な仕事内容も子どもに語ることもなく、鈴木氏自身も父の仕事ぶりを目にしたことも聞いたこともなかった。
話は少々戻るが、「幼い頃から自然が大好き」と語った鈴木氏にとって、日本とはまるで違う大きなスケールのカナダにも魅了されたようだ。「大きく広いだけではなく、豊かだし穏やかな土地の印象でした」
「期間にして1週間ほどでした。小さな漁村を訪ねたり、仕入れのための問屋を開拓したり折衝したりする父の姿は、初めて見る姿でした。新鮮でしたし眩しかったですね」
「会社を継ごう」

世界一危険と恐れられている海での「かに漁」~すべての始まりは現場体験から

会社を継ぐことを決心したが、大学卒業後、すぐに甲羅に入社したわけではない。入社後、甲羅の仕事を覚え、運営していくために欠くことのできない経験や蓄積が必要になる。 また、「社長の子」だからと言って特権があるわけでも優遇されるわけでもない。第一、社長がそんな「ショートカット」のようなことは許さない。
基礎的な訓練、知識の集積、経営を学ぶなど課題は多い。いわゆる「他人の飯を食う」ことで身に付けることも多くなる。「継ぐ以前」に、必要な課題をクリアすることが「継いだ後」の仕事への取り組み全般に役に立つ。こうした背景もあり、就職した。いわば、「修業」である。
就職したのは、水産会社「極洋」。
「ここで鍛えられました」と振り返る鈴木氏は、「かに漁」の最前線を経験する。場所は、カムチャツカ半島、アラスカ、アリューシャン列島に囲まれた太平洋最北部、別名「低気圧の墓場」とも呼ばれ漁師に恐れられているベーリング海。常に10m以上の高波、船体付着する氷や流氷など、想像を絶する海のようだ。
「凄い荒れ海です。船は揺れるし、気温はマイナス40℃ほどで寒いし、海に落ちたら、即、心臓麻痺で死んでしまうほどの、これ以上過酷な海ってないのではないかと思うほど、荒々しい海です。ただ、ここでないと“良質なかに”は獲れないんです」
実際に流氷で動きが取れなくなったり、動けなくなった他船を救助にいくなど、「かに漁」どころではない状況に遭遇したこともあるようだ。
「船を動かすスタッフとは別に、私のような“バイヤー”と捕獲したかにを加工する“ワーカー”の総勢300人程が乗り組んで漁をするのですが、この労働条件、労働時間もキツイです。“ワーカー”は1日2交代の12時間勤務ですが、“バイヤー”は丸1日、24時間勤務なんです」
仕事はこれだけではない。「買い付け」から「仕入れ」まで、捕獲から一貫した流れすべてを構築し結果をあげるのが仕事だ。
「当初は3年の予定でしたが、プラス1年、合計4年、ここで学びました」。ただし、これで“学び”“修業”は卒業したわけではない。

・・・続き

株式会社甲羅 代表取締役社長 鈴木雅貴氏

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2022年3月14日月曜日

3月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『あさくま』様を取り上げました。

3月4日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はあさくまで昔から人気のコーンスープを「ゴースト店」始動!!その『あさくま』様を取り上げました。

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1月29日(土)から5連載で日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店”に「シャルパンテ」藤森真社長推薦の5店舗が紹介されました。

2022年1月29日からの5連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”に「シャルパンテ」藤森真社長が推薦の5店舗が紹介されました。



2022年3月8日火曜日

株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏登場。

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本文より~

カルチャーママとおぼっちゃん。

今回、ご登場いただいたVAプロジェクトの代表、森本氏は1965年、大阪府の豊中市に生まれる。大阪万博が開かれる5年前。「親父と母親と兄貴と私の4人家族です。親父はサラリーマンでしたけど、裕福やったんちゃいますか。いうたら、ぼっちゃんです。まぁ、高度成長の時代でしたから、うちだけが裕福やったわけやないんでしょうが」。
「子どもの頃からピアノを習っていました。カルチャー好きな母親でね。私は好きやない。野球はへたでしたけど、からだ動かすのが大好きでした。将来、なりたいもんいうたら、そやね、プロレスラーやったかな。ブルースリーも大好きやった。でも、太っとったから、あの動きは無理やったやろな。生まれてから一度も『やせている』っていうてくれた人はおらん」。
「エスカレーター進学を狙って、中学から私学です。高校から日本拳法をはじめます。かっこいい? ぜんぜん。汗臭いだけ。でも、好きやってんやろね。好きやないとでけへんで。そやないと、だれが好き好んで汗だくなって、くそうなって、ボロボロなるまで練習すんねん。笑」
大会で優勝したこともあるそうだ。格闘技が好きで、相撲もしていたというから、昔から、からだも大きかったに違いない。カルチャー系からスポーツ系に。格闘技に、次々に専念する息子を、カルチャー好きのお母さまはどんな思いでみつめられていたんだろうか?
少なくとも、ぼっちゃんはとっくに卒業している。

キャプテン森本。

「私は関西大学を卒業して、リクルートに就職するんですけど、当時は青田買いちゅうてね、もう、『来て』『来て』みたいな。大学でも日本拳法やってましたし、キャプテンでしたから、企業がほっといてくれません。飯も食べに連れてくれるし、至れり尽くせりです笑」。
「リクルートがなにやっているかようわかってなかったけど、すごく勢いがあったのは事実です。私が入社したのは、世間様をお騒がせしたリクルート事件が起きる2年前です。職種は、もちろん、営業です」。
当時のリクルートは多士済々。いまもそうかもしれないが起業家もたくさん生まれている。「私はいうたら起業家の走りです。4年、リクルートにいて独立します」。
リクルートにもまれ、社会にもまれ、さて、キャプテン森本はどんな事業を興すんだろうか。話を聞いて、まったく畑違いで、驚いた。

世界でいちばん小さなゲームメーカー。

「私はゲーム会社をつくるんですが、もともとゲームが好きとかそんなんじゃないんです。リクルートに4年いたでしょ。その時思たんが、『リクルートで偉くなったら、しんどいで』やったんです。課長とかになったら、もうどうなるかわからへん。それやったら、サラリーマンをつづけるより、会社つくったほうがええんちゃうかなって」。
「時代もよかったしね。スーパーファミコンの時代です。任天堂さんに行ったら、いろいろ教えてくれて。当時はゲームやりたい人がおおくてね。それで、プログラミングできる人材を雇ってスタートするんです」。
タイトルを聞いて、笑った。
「この会社は2006年に解散するんやけど、解散するまで、だいたい100タイトルくらいはリリースしました。狙うんはスキマです。心理ゲームとかね。タイトルで言うたら、『祇園芸者物語り』とか、『サラリーマン接待マージャン』とか。これトップとったら、あきませんねん。接待やからね。海月育てるゲームもだしました。うれへんかったけど」。
もう、25年前の話。
「プレステとかでて、2Dから3Dになって、一つ開発するにもごっつうコストがかかるようになって。有名なタイトルやったら、いくらコストかけてええんやろうけど、莫大なコストを投じて『祇園芸者物語り/2』や『サラリーマン接待マージャン/2』はようつくらんかった」。
「若い子はいっぱい入社してくれました。会社で寝泊まりしていましたよ。給料は、いわれへんくらい安かったけど、彼らにしたら、うちに入ったら開発用の、お高いマシンをつかえますからね。なかには、その後すごく有名になっている人もいますよ」。
「あのね。みんなうちで経験を積むでしょ。ほんで、ほかの会社を受ける。で、ある日、『〇〇に行きます』って、だれもが知っている有名な社名をいいよんねんな。ほなら、みんな拍手して。なんで、拍手やねん、て。笑」
そうはいうが、心では森本氏もいっしょに拍手をしていたような気もする。そんな人だ。ところでゲーム会社の社長だった森本氏だが、今は立派なIT難民。「エクセルもようでけへん」らしい。
「解散したのは、ビッグタイトルしか残らんような感じやったし、資金ショートもあったけど、けっきょくは私の熱意がなくなったんやと思うわ。うちみたいな小さなメーカーはもうあかん時代やった。だから、解散しよかっていうて」。
2006年といえばスマホでみんながゲームを楽しみはじめた頃だろうか?「あんなちっちゃい画面な。あんなゲームつくったら、都落ちやと思っとった」と言っている。

さすらうニート。

「私の窮状を知って、昔の部下が『恩返しや』いうて、仕事紹介してくれて、パチンコメーカーの下請けやったり、お金がないから、マンションの販売代理をしたり。ちゃんと免許も取って。。ほかにもいろんなことしたなぁ」。
「いちばんってわけやないけど、山本化学っていう会社の社長さんといっしょに『たこ焼きラバー』いうやつで水着つくって。これは世界中をびっくりさせました。それまでとはまったく異なる高性能の水着で、世界記録が何十回でたやろか。TVにも取り上げられて。せやけど、水泳連盟が『あかん』っていいだしよって。『ラバーはあかん』っていいよんねんな。で、せっかく、世界を獲った思うたのに縮小ですわ。でも、水着は今も販売してますねん。『イルカのはだにいちばんちかい水着。』って奴です。専門誌に広告掲載しているんやけど、ぜんぜんうれへん笑」。
皇室に献上する、そうめんの専門店もやったそう。コシがあってむちゃむちゃ旨い、とのこと。「そうめん専門店は4年ほどやったかな。そらぁ、従業員が辞めるいうんやから、辞めざるをえぇへんでしょ」。
あっちにいったり、こっちにいったり。しかし、どこかで、森本氏に助けをもとめてくる人がいる。「クラブの後輩とかもいっぱいいますしね。リクルート時代に知り合ったお客さんとも仲良くさせてもらっていましたし。そうそう、ホームページの作成なんかもしてたかな。ただ、だんだんそういうビジネスが、実体のないもんのように映りだすんです。口だけでうまいこというてね。50歳でニートを辞めるんですが、そのきっかけはやっぱり、実体があるビジネスをしたくなったからやと思うんです」。
それが今の豆乳ですか?
「そう。豆ですね。これに今は魅了されてます」。

・・・続き

株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏氏

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2022年3月1日火曜日

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