2020年4月29日水曜日

株式会社ダイナミクス 代表取締役 守部英喜氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダイナミクス 代表取締役 守部英喜氏登場
本文より~

大阪、谷町。

守部氏は1967年8月21日、大阪の谷町に生まれる。育ちは八尾市。父親は、九州男児を絵にかいたような人で、食事のメニューも父だけ違っていたそう。きょうだいは3人。全員、男子。守部氏は長男。運動神経は、きょうだい全員、よかったようで、特に三男はボクシングの世界に進み、世界ランカーにもなられたそうだ。むろん、アマチュアでも、プロでも日本一。
「世界ランカーにはなりましたが、世界戦はなかったですね。世界チャンピオンのスパーリングパートナーなどをやっていました」。
のちに、日本チャンピオンにもなる三男とは異なり、次男は大人しく、長男の守部氏は、スポーツではなく、学級員や生徒会の委員などをするタイプだったらしい。ちょっぴり大人びてもいた。
「私らの時代は、マンモスで、生徒数もかなり多かった。TVとかの影響もあって、不良グループも少なくなかったですね。もっとも私は、そういうんじゃなくて、ディスコとかによく出入りしていました。高校を卒業後、兵庫県にある大学に進むんですが、もっぱら大阪のミナミを主戦場にしていました。当時から、BARが好きでしたね」。
どこにでもいる青年。それが正解。この時、世界チャンピオンをめざし、ストイックに練習に励む、弟さんを守部氏どういう思いで観ていたんだろうか?

300年以上つづく、老舗の信用。

守部氏にターニングポイントの一つを挙げてもらうと、「酒造メーカーである『菊正宗』に就職したこと」と、いうことだった。
「私たちの頃の就活は、今と一緒で、学生有利でした。私は、『菊正宗』に進みますが、あの有名なウイスキーメーカーでも、採用をいただけている方が多くいました。私が『菊正宗』に就職したのは、スケールが一番私に合っているような気がしたからです。同期は50名くらいだったと思います」。
業績の良し悪しではなく、守部氏は、創業325年(就業当時)というブランドの価値に魅了されたという。「社員みんなが、『菊正宗』というブランドに誇りをもって仕事をしているんです。また、「飲食が好き」という方も多かったですね。これは、すごいことですよ。だから、離職率も実は凄く低かったんです。私は31歳で転職するんですが、私以外に転職した人はみたことがないくらいです」。
老舗の信用。無借金経営。300年前の、一滴が、大きな川の流れになっている。
「23歳で結婚して、マンションも購入するんですが、あの時、すんなり融資が下りたのも、私じゃなく、『菊正宗』という看板があったからだと思うんです/笑」。

事業家から再生屋。

「ポムの樹」というオムライスがメインメニューのブランドがある。「私が、『ポムの樹』の創業者とお会いしたのは、30歳くらいの時ですね。まだまだ創業期です。こちらに31歳で転職します」。
奥様には猛反対されたそう。そりゃ、そうだろう。なぜ、「菊正宗」を辞めるんだ、となる。
「まだ私も若かったから、チャレンジしたかったんですね。むろん、創業者に惹かれたからというのも事実です。立ち位置は、ナンバー3。初めのころは、休みなしで必死に働きました。爆発したのは、梅田のヘップファイブに出店した時ですね」。
話ぶりから想像すると、20席のショップで月商3000万円くらいは楽勝だったようだ。「キャッシュがどんどん残ります。それで、投資して、そうですね。フランチャイズを含め、160店舗まで拡大していきます」。
むろん、「ポムの樹」の事実上の責任者は、事業家、守部氏だった。
「10年勤めたあと、大阪でコンサルの仕事をします。そのあと就職したのが、『名古屋コーチン』の生みの親でもあり、『鶏三和』を運営する『株式会社さんわコーポレーション』です。こちらにGMで入社し、経営企画など、合計3年くらいですね。しっかりと実績を残すことができました。いうならば、これが次のオファーにつながります」。
つぎに守部氏に白羽の矢を立てたのは、ある投資会社。
「私もちょうど東京で仕事がしたいと思っていたところでした。それで株式会社プロスペリティ1に入り、COOとして『北前そば高田屋』の事業再生を指揮します。『北前そば高田屋』はタスコシステムさんのメインブランド。それをプロスペリティ1が買い取らせていただいたということですね」。
いくつかのテコ入れもした。
「ただ、価値は高く、力を持ったブランドです。私は、その価値と力を使って、今まで出店をしていなかったフードコートや駅ナカを中心にオープンしていきました。『高田屋』はアルコールも強いんですが、当然、そばがメインです。だから、フードコートでもいいじゃないかって」。
スモールなモデルを出店したことも功を奏し、3年で黒字化を達成する。
再生屋。守部氏に、もう一つの肩書きがつく。

新たなチャレンジ。

「現在の株式会社ダイナミクスに就職したのは、2019年9月です」。
インタビューさせていただいたのが、2020年の初頭だから、まだ数ヵ月。にもかかわらず、社長として、すでに事業の方向性を打ち出している。
「再生というのは、実はもういいかな、と/笑。だから、事業を育てるというオファーをいただき、こちらに転職します。ダイナミクスは、『お好み焼きいっきゅうさん』からスタートし、今では30ブランドで114店舗(令和元年8月)を展開しています」。
「業績が悪いというわけではないのですが、問題も無くはなく、ファンドが資本参加したことで、私にオファーが来ました。当然、IPOを狙っていますし、それもまた私のミッションの一つだとは思っています。ただ、今の体制で、となると、ちょっと力不足かもしれません。リブランディングをはじめ、人事制度の改革を推し進めていかなければいけない。それが、いうなら私の役割ですね」。
従業員数は、令和元年8月で190名。
ある意味、ブランディングと人事改革で、従業員190名、1人1人の心の再生を果たす。それが、成否を分けるのかもしれない。「菊正宗」には、敵わないが、同じように長い道を歩めればいい。守部氏はそう思っているに違いない。
・・・続き

2020年4月28日火曜日

ネット会議用にキイストン用壁紙作成しました。

(キイストン単独バージョン)

(キイストングループバージョン)

はい、背景が窓ガラスでイマイチだったので失敗しました(笑)
ライト買おうかな・・・。

2020年4月26日日曜日

企業のトップの皆さん、頑張ろう、踏ん張ろう。

今一番怖いのは、会社のトップが病むことです。
追い詰められると、判断鈍ります。
身体壊すと、前向きな考えになりません。
朝早く起きて太陽の光を浴び、出来るだけいいことだけ考え、
寝る場所あるだけでもありがたいと思い、宝くじで一獲千金狙ってみようかくらいがちょうどいいです。
大事なのは、自分だけでなく皆一緒、なんとかなるって思うことです。
生きてるとなんとかなります。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年4月24日金曜日

振り返ると実は・・・・。

今年で28年目のキイストン。
紆余曲折あったものの落とし込んで考えると
小さな夢が一つ一つ叶ってます。

振り返ってみると
創業まもなくバブル崩壊もあり武田と2人でスタートしたキイストンに従業員って採れるかな?って
→採れました。

一緒に仕事できる仲間(社員&ブレーン)増えるかな?って
→増えました。

求人広告代理の仕事はハード業務の薄利多売、定着率も悪い環境のなか人が辞めない職場になりたいな…って
→定着率良くなりました。

社内の平均年齢がアップしてきたので若手ほしいな…って
→20代の有望な人材が来てくれました。

同業他社とは差別化した違うことしたいな…って
→エム採用が生まれ、飲食の戦士たちも立ち上がりました。

書籍って出したいな…って
→個人で2冊、キイストンで5冊、お客様の書籍9冊冊出版しました。

コツコツ積み上げていくと、その過程て多くの夢が叶ってきている。
そう考えると多くの幸せを手にしてる。

いつもいいことだけ考えています。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年4月21日火曜日

京都のお米「京北米」、私の生まれ故郷で生産しているお米です。

京都のお米「京北米」、私の生まれ故郷で育んだお米です。
安心・安全、そして何より美味しいので飲食店に入れてもらおう。

株式会社ハイファイブ 代表取締役 水野裕嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハイファイブ 代表取締役 水野裕嗣氏登場
本文より~

中京テレビの映像企画会社に入社するまで。

育った知多市は、人口が多かった。父親はカーディラーの営業マン。「父親は私と違って、決まったことをきっちりやるタイプ」と、水野氏。この言葉からも、水野氏の生き様が伺える。
 高校は、それなりに進学校に進んだが、ご本人曰く、落ちこぼれ。高校2年の冬には担任から「どこにも進学できない」とくぎを刺されてしまう。
それで、猛勉強を開始する。
「そうですね。どこにも進学できない、と断言されちゃうと、腹も立つわけで」。
ただ、やってみれば、勉強も楽しい。
「今までやってこなかったぶん、ね」と水野氏。
猛勉強の結果、南山大学に進学する。
 「大学時代は、結婚式のラウンジや、パスタが好きだったからイタリアレストランとか、家庭教師とか。アルバイトはそんな感じですね。そうそうカヌーにハマって、インストラクターになろうと真剣に考えたこともあります」。
 水野氏の経歴を知れば、マスコミに興味があったと思うのだが、そのあたりはどうだったんだろう?
「マスコミに興味が湧いたのは、じつはマスコミに入ってからなんです/笑」。
どういうことだろう?
「じつは4年で卒業出来るとは思っていなかったんですね。単位が少なくって」。
でも、出来てしまった?
「そうなんです。5年生に向けて、どうしようかと思っていたら、卒業でしょ。就職先を探し始めたのも、3月から。就職雑誌を読んで、なんとかTVの制作会社に滑り込みます」。
なるほど、マスコミを狙ったわけじゃなく、苦肉の策だったわけだ。
「そう、その時期になると、会社のほうも、来年度の採用活動でしょ。大体終わっている。そういう意味ではありがたいですね。この会社で、映像の制作などに関わり、ディレクターの仕事に興味が湧きます。結局、その会社は半年で退職して、中京テレビの映像企画会社に転職し、こちらで32歳まで勤務します」。

興味が向けば、走り出す。

ところで、飲食にも海外にも興味があると水野氏はいうのだが、いつ頃からの話なんだろう?
「高校の時です。ふだん新聞は読まないんですが、たまたま、『この道』っていうコラムにロッキー青木さんの半生を綴った記事があって、それを読んで、飲食にも海外にも惹かれたわけです」。
大きなターニングポイントだったんですね?
「そうですね。ただ、海外に行くのは、就職してから。テレビの仕事で初めて行きました。やっぱりよかったですね。それからは毎年1~2回は、休みを取って行くようにしています」。
一番の思い出は?
「24歳の時ですね。ニューヨークに行って、『カルチャーショック』っていうのを初めてリアルに体験します。一時、向こうに住もうと思ったほどです。英語も話せないのに、ね/笑」。
どうやら、「マスコミ」と「海外」と「飲食」。これらが水野氏の人生を語る時、キーワードになりそうだ。
そのことを水野氏にいうと、「もう一つ、『スポーツ』がある」という。
「中京テレビの時に日テレの『ズームイン!!朝!』で中日ドラゴンズを担当していたんです。当然、プロ野球選手とも接しますよね。それともう一つ例を挙げれば、女子レスリングです」。
女子レスリング?
「そうです」。
話を聞いて、驚いた。水野氏は、今TVでも注目されるようになった女子レスリングの立役者の1人と言っていい。アテネオリンピックでは、吉田沙保里選手が金メダルを獲った瞬間を観戦し、取材している。
「吉田選手や伊調選手が高校生の時からの付き合いです。ええ、まだオリンピック種目じゃなかった時代からです。当時は、ぜんぜん注目もされていませんでした。私は3行記事を頼りに彼女たちの下に行くんですが、その時からもう、この子たちから離れちゃダメだと思いました。かわいい女の子が命をかけ、打ち込んでいる。報道しないわけにはいかないでしょ」。
「ある意味、タイミングがよかった」と水野氏。
「少しずつ世間でも注目され、やがてオリンピック種目にもなるんです。そしたら、彼女たちが、金メダルを獲って。ええ、彼女たちのおかげで、私自身、ふつう出来ない経験をさせてもらいました」。
大学までの水野氏の人生が、ある意味、定番だとしたら、大学を卒業してから先が、破天荒だ。興味が向けば、そちらに向かって走り出す。そんな人生だ。

ニューヨーク、生活。

吉田選手らが活躍するギリシャのアテネオリンピックが2004年。2005年には、愛知万博が終わる。2006年、水野氏は会社を辞め、アメリカに向かう。「念願だったオリンピックの取材も出来ましたし、愛知万博も終了した。それで、アメリカに渡ることを決意します。ミズリー州にあるジャーナリストを育成する大学に進みます。当時、1000万円くらいの貯金はあったんですが、それを取り崩す生活でした。マクドナルドのコーヒーを飲むかどうか、迷ったのもあの時が初めてですね/笑」。
32歳。迷った末に飲んだマクドナルドのコーヒーはどんな味がしたんだろう。ところで、向こうでジャーナリストになるには、相当、語学力がなければならないはずだ。 
「そうなんです。ジャーナリストをやるには、語学でもかなりいい点をとらないといけないんですね。TOEFLのスコアでいえば、600点です。なかなかいい成績が残せず、大学院に進もうとした時ですね。ある大学から合格通知もいただいたんですが、その時、日本のプロデューサーから電話が入るんです」。
松坂大輔選手ですね?
「そう、松坂選手がMLBで登板する日に応援に駆け付けた時に、日本人ということでインタビューを受けたんですね。それを、日テレのプロデューサーが観ていて」。
それで、NTVIC(NTV International Corporation)ですか?
「そうなんです。ひとつ枠があるから、NTVICで仕事をしてみないかって。もともとNTVICで仕事がしたくて学校に通っていたくらいですから、話をいただいた時は舞い上がりました」。
NTVICでは1年、仕事を続けた。MLBの取材を行ったのは、この頃の話だ。ただ、リーマンショックが起き、帰国。
帰国後は日本テレビ「ZIP!」の立ち上げメンバーとして特集コーナーの演出などを行い、地位を固めていく。
しかし、2016年、ある飲食の経営者の言葉に背中を押され、キャリアを捨て、飲食業界に進むことになる。

パワーサラダで、アジアナンバー1に。

文字で追ったロッキー青木氏の人生。インタビュアーとなり、リアルに追いかけた吉田沙保里氏や、松坂大輔氏ら海を渡ったMBLの選手たちの人生。
そうした人たちの人生との出合いが、今の水野氏を作っている。
「そうですね。会社をはじめてまだ4期目ですが、目標は『アジア NO.1のサラダ専門店』です。スポーツ選手たちに負けてはいられませんからね」。
そういって水野氏は笑う。
「改めて、食への興味も湧き、健康に関心を持つことになったのは、間違いなく様々な選手たちと接してきたからです。それを今度は、多くの人たちに伝えていきたいと思っています」。
もうひとつのジャーナリズム精神ですね?
「なるほど、そうかもしれません/笑」。
ホームページを観ると、4期目にして有能なスタッフたちが集っているのが伺える。
これが、現在のチーム水野だ。
メニューには、様々なパワーサラダが並ぶ。
文字通り、力が出るパワフルなサラダである。はたして、アジアナンバー1になれるのか?現在、店舗での販売だけではなく、パワーサラダをオフィスへ届ける事業にも力を入れている。これからもっとパワーサラダが身近になっていくことだろう。取材者の1人として、また1人のファンとして見守っていきたいと思った。
・・・続き
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2020年4月20日月曜日

新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため「ソーシャルディスタンス」を。

キイストンも、4月1日から在宅テレワーク実施し、
新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため「ソーシャルディスタンス」の大切さを呼びかけてます。  

リーダーの皆さん、今こそ元気発信で!! (元気発信企業@)

リーダーはどんな時も人前で弱音は吐いてはダメ!
リーダーは絶対身体を壊してはダメ!
リーダーは他人の前では明るく元気でないとダメ!

昔、上場目指して断念した時、周りが気にかけててくれ言われました「細見さん精神的にも疲れてるから休んでください」と…。

その言葉に甘えて3日ほど休みました。
でも結果的に組織に一体感出ることなく、良くなりませんでした!(涙)

また、前職の新人時も目標達成ギリギリ時に「達成難しいです」と先輩に弱音吐き、「あとどれだけや、俺が数字助けたる!」と言われ安心してたら、先輩もネタが無くなったようで、言ったこと後悔し、あきらめないでやったら結果自力で達成しました。

ともに、気持ちは大変嬉しかったですが、結局は自分があきらめたら終わりです。

今、リーダーに立ってる皆さん、リーダーが元気無いと組織は死にます。
あきらめないないで・・・。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年4月14日火曜日

株式会社ラックバッググループ 代表取締役 斉田教継氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ラックバッググループ 代表取締役 斉田教継氏登場

本文より~

ドイツ企業で知った、日本人にはない仕事観。

今回ご登場いただいた、ラックバッググループの代表取締役 斉田教継氏。
「学生時代、サマースクールで1ヵ月ですが海外を経験します。その時から就職したら、海外で仕事をしたいと思っていました」。言葉通り、大学を卒業したあと産業機械のメーカーに就職。東南アジアやインドを舞台に仕事を開始する。
「インドはほぼ全土で営業活動しました。その後、ドイツのパッケージング機械の専門商社に転職します。こちらで、私のその後のキャリアに大きく影響する人生観を学びます」。
どういうことでしょう?
「当時から、ドイツと日本は仕事観が、断然異なっていました。たとえば、私が毎日遅くまで残業をしているとドイツ人の経営者が近づいてきて、『何をしている? 早く帰りなさい』っていうんですね。ドライってわけではないんです。『夕方以降は自分の時間なんだから大切にしなさい。会社は一生守ってあげることはできないから。』っていうんです」。
経営者がですか?
「そうです。びっくりしました。今では日本でもそういう経営者が少なくないと思うんですが、当時の日本人は、はたらき蜂だらけ。私もその1人でしたから/笑」。
「ドイツでは、バケーションはしっかりと取ります。それができる『しくみ』があるんです。Aさんが休めば『Aさんの代役をするBさんがいる』みたいな。バケーション時のフォーメーションを数カ月前に計画的に組むんです。でも日本では、お客さんから担当のAさんに電話があって、『バケーションです』なんていうと、へたすりゃ怒られますよね。
日本、とくに飲食は、そういう風なバケーションもそうですが、『人』重視の環境にならないといけないと思っています」。

生存競争と、過剰な労働と。

実は取材の冒頭で斉田氏は、日本と海外の「飲食事情」の違いを説明してくれた。
「海外の都市によっては、街の店舗数が決まっているところもあります。それ以外の参入障壁もあり、飲食店をオープンできるハードルが高いところも多いです。東京は人口当たりの店舗数も世界一で、そのおかげもあり全体のレベルも高く、ミシュランの星の数も世界一多い」。
消費者にとって、飲食店が多いこと自体は悪いことではない。だが、飲食に関わる者からすれば、笑い事ではすまないと斉田氏はいう。
「飲食店が過当競争なんです。競争に負けた飲食店が次々にクローズしていきます」。
たしかに、飲食業界の生存競争は、熾烈である。これも、飲食の生産性を低下させている要因の一つだと、斉田氏。
「そもそも日本のサービス業の生産性は諸外国に比べ低いんです。なかでも『宿泊・飲食』は、特筆ものです」
「長時間労働がはびこっているんですね。にもかかわらず、一部をのぞいて賃金が低い、当然、休みも少ない」。
「それでも飲食で働いている人は、みんなピュアに飲食が好きだから頑張っているんですね。これって、なんとかしないといけないことだと思いませんか?」。

現会長、河本氏と、創業。

そもそも斉田氏が、飲食に入るきっかけは何だったんだろうか?
「ヨーロッパの機械メーカーの日本市場開拓を手伝ったり、展示会やセミナーなどで講師を務めたりしていました。そのあと、外資系の保険会社に就職します。業界最強の営業トレーニングを受け、金融知識を学ぶことができました」。
営業力では、当時業界ナンバー1の会社だった。そのぶん、競争もはげしい。
「そのなかで結果を残していかなければいけないので力もつきます。そちらの会社では、個人・法人に生命保険のコンサルティング営業をから多くのことを学べました。ラックバッググループを設立するのは、そのあとです」。
経緯は、単純だ。
「現会長で共同経営者の河本が、ハワイアンカフェの店長でした。彼は人望もあつく、オペレーションもうまい。私がパートナーになれば、彼の”ちから”を何倍にもできると思ったんです。じつは当時、私は彼の店の常連客だったんです/笑」。
それで2人で、2007年3月に創業されるわけですね。
「そうです。六本木に小さなレストラン&バーをオープンします」。
沿革をみると、以降、次々と出店を重ねていることがわかる。
同年10月、麻布十番にフレンチレストラン「サンス麻布十番」をオープン。翌2008年9月には、横浜駅東側に「Ginger’s Beach」をオープン。2009年10月にも横浜元町に「Oriental Beach」をオープン。それからも、年に1店舗以上、オープンしている。オープンがなかったのは、2012年だけだ。
ここで特筆すべきは、坪数だろう。100坪ちかいレストランも少なくない。
「20019年秋に横浜みなとみらい新港ふ頭のハンマーヘッド2階にオープンした『COLONIAL BEACH』は約133坪です」と斉田氏。
いずれのレストランも洒落ている。
「コンセプトは、リゾートですね。会社帰りにいけるリゾートです」。なんでも、ドラマや映画の撮影につかわれることも少なくないんだそう。
「恋ダンスでも有名になったあのTVドラマでも何度か登場しています/笑」。

おもてなし日本代表。

では斉田氏は、今からどんな仕事をしていきたいと思っているのだろうか。
改めて聞いてみた。
「とにかく最初にお話しした通り、飲食というのは生産性が低いんです。それを前提にすると、会社としても成長しない。よってスタッフたちの給料もアップしないし、休みも充分には取らせてあげられない」。
生産性が低いままだと、たしかにそうなる。
「そういう意味で、生産性のアップは当然やっていかなければいけない。ただそのためにも、私は評価制度が大事であると思っています」。
「たとえば、単純な作業の評価ではなく、理念に基づいた行動ができているかを評価する『ステップアップシート』や『360度評価』といった評価制度を用意し、昇進などに用いています」。
オープンで、公平な評価制度だ。斉田氏は、仲間1人1人に焦点をあてつづける。
「先日、うちの店とそっくりな店がオープンしてびっくりしたんですが、少し流行ると、ご存知のようにすぐにコピーされてしまいます/笑」
たしかに店名までパクるのが、飲食業である。
「ですが、飲食店の重要なポイントは内装とかしくみとか、そういうのではなくて、結局は『人』であると私は思っています。良い意味で『人』のクオリティに依存した業態はコピーできません」。
企業目標は何ですか?
「私たちは、『おもてなし日本代表』を企業目標に掲げています。同時に掲げているのが『好きなことを仕事にして、そして人生の成功者になれる会社』です。いずれも簡単ではないですが、できるだけ早く実現していきたいと思っています」。
・・・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社ビデオインフォメーションセンター 代表取締役 手塚一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビデオインフォメーションセンター 代表取締役 手塚一郎氏登場
本文より~

聖火ランナー、駆ける。

手塚氏は、四人兄妹の長男だが、実家を継ぐ気はなく、東京に行きたかったと笑う。
父親は国鉄職員で、祖父の代から「手塚スッポン」という滋養強壮のお店を経営している。現在は、手塚氏の弟さんが経営しているそうだ。
中学時代は生徒会長。運動神経も抜群で800メートル走なら学内で手塚氏の前を走る生徒はいなかった。「じつは、私、聖火ランナーなんです。もっとも、田舎道を走っただけですが…」と手塚氏。1964年の東京オリンピック。手塚氏、17歳の時のこと。 「中学時代、母とけんかをしたことがあって、その時、宇都宮の商店街を追いかけ回されました。おかげで走力が上がったのかもしれませんね/笑」。
学内でもトップクラスの手塚氏を追うお母さまもすごい人だ。
「おばあちゃんもすごい人でしたね。さっきのスッポンのお店を経営したりしながら、いろんなことやっていましたから」。
子どもの頃は、この祖母に連れられ映画をよく観に行った。
「女なのにね。キセルをやる人だったんだよね。これが、また恰好いい。人生でいちばん影響されたのはだれかって聞かれたら、祖母を挙げるかな」。
スッポン、ヒル、もぐら…、いろんな生き物の話も出た。ちなみに、当時、スッポンは高価で1万円くらいしたそうだ。滋養強壮。ひと飲みすれば、たしかに血が騒いだそうだ。

国際基督教大学(ICU)時代の話。

高校は、宇都宮高校。いうまでもなく県でもトップクラスの進学校だ。作家の故立松和平氏と同級生というのは、この時のことだろう。大学は東京の国際基督教大学(ICU)に進んでいる。
どんな学生だったんだろう?
「そうですね。論文を書くのも好きだったし、一つのことを、長く深く考えるタイプですね。大学にも長くいちゃって6年間大学生をやっています/笑」。
ちなみに、ビデオインフォメーションセンターのホームページには<VICは1972年ICUの学内有線テレビをやろうとあつまったグループがハジマリ>とある。今でいう学生起業家ということだろうか?
また、同ページには<1970年代はアングラのパフォーマンスの記録ファイリングをめざし、情報機材専門店をオープン>とある。
どういうことだろう?
「大学在学中に、仲間と一緒に学内有線を立ち上げました。この頃ですね。日本中のオモシロイ人に会ったり、オモシロイイベントの録音にも関わったりしたのは」。
なかでも面白かった人は?と伺うと、「岡本太郎さんですね」と有名な芸術家の名が挙がった。

ハモニカ横丁

「1979年、吉祥寺・三鷹でビデオ販売をはじめました。儲かりはしたんですが、何しろ、ビデオ記録にはお金がかかる」。
事業はつづけたが、1998年以降、家庭用のビデオが普及すると、状況がいっぺんする。「これは、仕事がなくなると思ったんですね。だって、ビデオが安くなりましたからね」。
それで、焼鳥屋をはじめたんですか?
「そうです。1979年に吉祥寺にビデオ機材の専門店をオープンしました。1988年にはビデオテープ専門店をハモニカ横丁に出店したんですが、ビデオが普及すると、もう、それだけじゃやっていけない。だから空いていた2階を利用して「ハモニカキッチン」をはじめたんです。ええ、焼鳥屋です」。
吉祥寺、ハーモニカ横丁。この通称ハモニカ横丁は、闇市が起源なんだそう。吉祥寺駅の北口駅前にあり、細い路地のなかに飲食店をはじめとした、様々なショップが混沌とした様子で軒を連ねる。今も100店舗ちかくのショップがあるそうだ。
「うちは、そのなかでも新参で、この吉祥寺のハモニカ横丁にはBARやカフェも併せて、12店舗を出店しています」。いまではすっかりハモニカ横丁の顔になっているそうだ。
「最初に焼鳥をやったのは、もともと焼鳥が好きだったから。いろんなお店を観に行って、実際にいただいて研究もしました。好きだから、そういうのも楽しかったですね。けっこう、焼鳥を焼くのはうまいほうだと思いますよ。飲食はそれぞれ人によって、やり方もあって面白いねぇ」。
さすが、一つのことを突き詰めるタイプだ。旨い、だけでなく、その奥にある、流儀にも目を向けている。流行ったモノの後追いだけをする、今の飲食店とはそこがちがう。画一化された、飲食店は、やはりどこか面白みにかけるというものだ。手塚氏流に言えば、色気、ということになるんだろう。
ともあれ、ハモニカ横丁が吉祥寺の色気を醸し出しているのは事実だろう。

ハモニカ横丁の名店


ある雑誌のインタビューで手塚氏は、「わかりやすいものだけになると、だめになる」というような話をしている。わかりやすいとは、定番ということだろうか。
実際、ビデオインフォメーションセンターも何屋と一口にはいいにくい。飲食店だけでも、様々な業態をリリースしている。
「いろんなブランドがありますね? しかも、どれもユニークですね?」というと、「そりゃ、焼鳥だけじゃね」と笑う。
再度、ホームページに目を転じれば、ユニークなイラストとともに、様々なブランドに目がいく。
ハモニカ横丁、吉祥寺の老舗キッチン&BAR「ハモニカキッチン」。ビアホール「ミュンヘン」、魚肴と地場野菜の店「エイヒレ」、「アヒルビアホール」、ハモニカ横丁のカクレガ「ニワトリ」等々。
いずれもディープ感が半端なく、店内に「入る」というより、「潜入」したくなる。
こちらは、吉祥寺ではなく、三鷹駅北口のハモニカ横丁ミタカの話だが、ミタカ内にオープンしたスタンド・バーの名称がユニークで、「ビンボー」。ネイミングが、ふるっている。サブタイトルは、「ボロはきてても心は錦のビンボー飲み屋さん」だ。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社クーニーズ・アソシエ 代表取締役社長 青島邦彰氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クーニーズ・アソシエ 代表取締役社長 青島邦彰氏登場
本文より~

とび職とバーテンダーのWワーク。

トムクルーズ主演の映画「カクテル」に魅了された。今回、ご登場いただく、クーニーズ・アソシエの代表、青島邦彰氏のことである。小学生の時には、野球少年。小学5年の時はピッチャーとキャプテン。昔からリーダー的な存在だったらしい。審判にも反抗するような少年だったそう。
中学時代は、ヤンチャなタイプ。「スクールウォーズやビーバップハイスクールの時代でしたからね。TVにも影響されていたんでしょうね」。
もちろん、イジメなどとは無縁。
「高校には進学しませんでした。仕事を始めたのは、夏過ぎから。建築関係の仕事に就きました」。
日給8000円で多い時期には月収40万円あったそうだ。「ただ、車を買ったりして、貯金もぜんぜんなかった」と笑う。
ところで「カクテル」を観たのはいつ頃なんだろう?
「中学の時です。ええ、格好いいな、と」。
それが下地になって、バーテンダー?
「そうですね。建築関係の仕事といいましたが、私が始めたのはとび職です。朝7時からスタートしますが、ちゃんと残業なく終われますから、今でいうダブルワークですね。とび職が終わってから、バーテンダーです。寝る時間はなかったですが、それまでも朝まで飲んで、それから仕事をしていましたからね。まぁ、同じことか、と思って/笑」。
これが、18~19歳の時の話。

20キロの鉄板が、この葉のように揺れる。

「中学を卒業し、高校にも進学せず、仕事は、ちゃんとしていましたが、夜な、夜なあそびまわる、そういう生活を送っていました。ただ、あるバーで師匠に出会い、一変します」。
その師匠との出合いのおかげで、今がある?
「間違いないですね。タイミングもあったと思います。長いことつづけてきたとび職ですが、こちらもちょっとな、と思うようになっていた時ですから」。
あるサッカー競技場の照明の足場を組んでいた時のことらしい。強風だったが、工期が遅れている。
「あの時はね。強風であおられ、20キロある鉄板がこの葉のよう舞っていたんです。それをみて、このままつづけていたら、さすがにヤバイと思って。それで、バーテンダー1本に絞ることにしたんです。だいたい、つるんであそぶのにも飽きてきた頃でしたし」。
人生の分岐点?
「そうですね。師匠の下で仕事をさせてもらうようになって。世界がガラリとかわります」。
とにかく、とび職、卒業。
いよいよ飲食の時代がスタートする。

14歳年上の師匠は、天才だった。

師匠は14歳上。話を聞くと、相当な人のようだ。「きびしかったと言えば、きびしかったですね。でも、辞めようとは思わなかったです」。
「バーテンダーで入社するんですが、調理補助みたいなもんです。私が、就職したのはバーなんですが、バーのほかにも、芸能人も御用達のディスコや、皇室も利用されるようなケータリング事業もされていて、そちらの仕事にも駆り出されます」。
朝から晩まで?
「そうですね。それまでのWワークの時とそうかわんなかったです。休みも月数回はあったか、どうか。それでいて給料は19万円。1/2以下です/笑」。
「怒られる一方で、盛り付けや手際がいいと褒めてもらいました。そうこうしているうちに、当然ですが、師匠との距離もだんだん縮まります。私が24歳の時ですね。バルブも崩壊して、何をしようかっていう話になって、その時、師匠と始めたのが、いまでいう『シェフの派遣』です」。
当時はまだシェフの派遣というのはなかったんですか?
「ええ、なかったですね。師匠は、料理の腕前はもちろんですが、アイデアも豊かな人で、いうなら天才ですね。1990年の初めのほうですから、まだ当時は、結婚式っていえば、式場やホテルだったんですね。それが、のちに、レストランウェディングやハウスウェディングって言葉が生まれ、事業にする会社がいくつも登場するわけですが、そのきっかけをつくったのも、じつは師匠なんです。最初にハウスウェディングを仕掛けた人ですからね」。
むろん、片腕となりつつあった青島氏も、ひと役買っている。

「newsDELI表参道店」のプロデュースで、青島邦彰の名は、メディアにも登場する。


「いつまでも師匠といっしょに、という思いもあったわけですが、私自身は料理人じゃなく、バーテンダーを志し、この世界に入ったわけで。どこかで、あれ、違うかな?と思っていたんです。ハウスウェディングなどへの、ケータリング事業も順調に育ち、私がいなくても大丈夫になっていたことと、私自身、プロデュースに興味が移っていたこともあって辞めさせていただきます」。
日本だけじゃなく、中国からの依頼で、上海にオープンするショップのプロデュースもしていたそうだ。そして、独立し、初めての仕事が、あの「newsDELI表参道店」のプロデュース。
「『デリカテッセン』って言葉もまだポピュラーじゃない時です。言ってみれば、私らが最初じゃないでしょうか。あのショップでは、レストランなら1500円はするイタリアン、フレンチ、スペインの料理を180円でだしたんです」。
料理人、青島氏だからできる発想ですね?
「そうですね。『newsDELI』はFCを含め、28店舗くらいまで出店します。その後、そこを離れて31歳の時に、会社を創業します。それが『クーニーズ・アソシエ』です」。
・・・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2020年4月12日日曜日

30年近く経つ種から…。

新芽が出てきた。
すごい生命力!
心も癒され、元気にさせてくれる。
負けずに頑張らなければ…!

今年も新卒者、入社してくれました!

4月1日、今年も新卒1名ですが採用し入社してくれましたので、皆でささやかながら入社式しました。※営業マンの平均年齢27.5歳
こんな大変な時だからこそ、痛みのわかるハートの強い営業マンに育ってほしい。
その入社式した午後から4月12日までキイストンは全社テレワークとしましたが、5月のGWまで延長します。
大変な時ですが、皆一緒。
これを機に、新しい働き方も試行錯誤を繰り返し、ワクワクする仕事、ワクワク社風にしていきたいです。
結束力で乗り切るぞ!!
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年4月7日火曜日

株式会社和音人 代表取締役 狩野高光氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社和音人 代表取締役 狩野高光氏登場
本文より~

15歳の少年、飲食に進む。

15歳の少年がセレクトしたのは、「珈琲館」と「やきとり一番」だった。どちらも楽しかったが、飲食にハマったことでいえば、後者の影響が大きかった。18歳、「珈琲館」のオーナーが店をクローズするというので、ベーカリーショップでも仕事をした。
仕事のかたわらで始めたバンド活動では、ビクター主催のコンテストに出場し、いきなり優勝を果たす。少年はボーカル。会場に、少年の声が響く。
「最初のメジャーデビューのチャンスはこのビクターさん主催のコンテストですね。ただ、優勝したんですが、なぜかメジャーデビューしたのは、3位だったグループ。いま思えば、私らは若すぎたんでしょうね。なにもかも。その後、いったん解散して。ハイ、改めてメンバーを募り、再結成するんですが、こちらでもすぐに評価をいただきます。ただ…」。
今度はエイベックス。
ただし、尖がりすぎた少年たちに、投資しようという大人はいなかった。「たしかに、そうですね。これでもかってくらい尖がっていました」。
バンド活動の時もそうだった。
「僕が変わったのは、ある店で店長になった時かな。ようやく、社会っていうものが観えてきたんです」。
少年は、叩かれ、削られ、大人になった。少年の名は、狩野高光。三軒茶屋をベースにする株式会社和音人の創業者である。

日本一のサービスマン。


「人生が動いたのは、グローバルダイニング時代です。アントニオさんという先輩とお会いします。あ、アントニオっていうのはあだ名で、日本人です/笑」。
 その時、狩野氏が勤務していたのは「タブローズラウンジ」。
グローバルダイニングのなかでも、もっともアッパーなブランドの一つである。
「タブローズラウンジのサービスを引っ張る人ですからね。サービスに関していえば、私の中で間違いなく日本一だと思っています。それだけ圧倒的なサービスの質でした。アントニオさんから、いろんなことを叩き込まれるわけですが、すべて財産です」。
日本一のレベルは高い。スタッフに対する要求もハンパない。
「実は在籍していたのは1年だったんですが、濃い1年です。ニュースを観るようになったのも、アントニオさんのおかげです/笑」。
なんでも「勉強の仕方」という本を読んで、勉強を始めたのもアントニオ氏の下にいた時。「だってね。勉強しようと思っても、『勉強って、どうするんだ?』って、私の場合は、そこからですから/笑」。
グローバルダイニングを退職した狩野氏は、ベンチャー系の飲食会社に転職する。4年在籍して、3店舗を7店舗まで広げた。
「社長が、元お笑い芸人だったんですね。だから、こちらはエンターテインメントなんです。私も、叩き込まれました。ハイ、今度の社長は、人生の恩師です」。
この社長の魅力ついて、狩野氏は人間力を挙げている。もう、少年でもなんでもない狩野氏は、この会社でナンバー2にまで登り詰めた。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2020年4月5日日曜日

飲食業経営者の6割超が「事業困難なレベル」 新型コロナ感染拡大で緊急調査。

飲食業経営者を対象に新型コロナ感染拡大で緊急アンケート調査を実施しました。


アンケートはショーケース様(永田社長)が新サービスのアンケートシステム提供を頂き、夕刊フジの紙面とネット版、日本経済新聞ネット版はじめほか多くのネットニュースにも記事が拡がりました。


新型コロナウイルスによる業績影響についての緊急アンケート調査 】
【 調査元 】 株式会社キイストン
【 システム提供 】 株式会社ショーケース(東証一部)
〈対象URL
【アンケート実施期間回答・締切日】  3月26日〜3月30
【アンケート回答】首都圏中心の飲食経営者・経営陣  345社に対し126社から回答頂きました。

goog_58334205


96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2020年4月2日木曜日

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて、らあめん花月嵐(グロービート・ジャパン様)を3月6日(金)、13日(金)、27日(金)の3週で掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて、らあめん花月嵐(グロービート・ジャパン様)を3月6日(金)、13日(金)、27日(金)の3週で掲載しました。

 (3月6日発行 電子版カラー)
 (3月13日発行 電子版カラー)
 (3月27日発行 電子版カラー)
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2020年4月1日水曜日

株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏登場
本文より~

養豚、平田牧場の始まり。

すべては、たった2頭の豚からはじまった。ホームページを観ると、そんな文字が浮かんでくる。
今回、ご登場いただいた新田嘉七氏は、平田牧場2代目社長である。創業者は父、新田嘉一氏。嘉一氏は米作りの農家の跡取りだったが、「暮らしが豊かになれば、食の嗜好はたんぱく質に移るはず」と周囲の反対を押し切り、養豚業をはじめ、養豚の世界を広げてきた人である。
平田牧場の創業は昭和39年、1964年のこと。
「ちょうど私が小学校に上がる頃ですね。法人化したのは、昭和42年です。もともと、うちは山形県庄内地方の旧平田町ではじまります。米農家としては、父で17代目です。そりゃ、養豚をはじめると言いだせば、反対もされますよ。それでも、父は『これからは養豚だ』と反対意見も聞き入れず突っ走るわけですが、最初は値崩れとか、いろいろな問題があったそうです」。
「農家ですからね。どんな問題があったかは知りませんが、私ら子どもも仕事に駆りだされます。ただ、それが当たり前だし、日課ですからね。辛いなんて思ったことはなかったですね」。
ちなみに、新田氏が生まれたのは1957年5月30日。新田氏のちかくには、いつもペットではない「いきもの」がいた。

息子の選択。

「当初は、ダイエーさんと取引をしていたんですが。その頃のダイエーさんって言えば超大手ですからね。うちにはなんともできないような要求もされてきたようです。取引額は大きかったんですが、親父は取引を停止します。それで、額は少なかったですが生協との取引をはじめます。これが、ちょっとした話題になって、のちに親父はカンブリア宮殿にも出演しています」。
「私が、うちの会社を意識しはじめたのは高校生くらいからです。親父からは何も言われなかったんですが。なんとなく、というか」。
さすが、牧場の息子である。小学生の頃は健康優良児で、表彰もされていた。中学の最初までは野球をしていたが、急激に体が大きくなり、体調を崩して辞めてしまったと笑う。
「高校は工業高校に進みたかったんですが、親父から『大学に行け』と言われて、それでふつうの進学校に進みます。自転車で10km離れた高校に通っていました」。
「私の一つのターニングポイントは、高校時代ですね。人生には限りがあることを知るんです。祖父や祖母がいて、亡くなったり、20歳で亡くなった知人を見たりして、やりたいことをやろうと思ったんです」。
やりたいことをする。言葉で表せば簡単だが、もっとも難しい。
そんな命題を持ち、新田氏は大学に進む。進んだのは成城大学だ。
「大学ではゴルフです。親父のススメですね。同好会でしたが、部長も経験しました。スコアですか? スコアは70台で回るくらいですよ」。
大学卒業後、本来はドイツで修業する予定だったが、様々な理由で断念し、大手食品会社が運営する全寮制の学校で半年間学んだ。もちろん、いずれ平田牧場に入社するためだ。これが、息子の選択。

いのちをつなぐ。とんかつ専門店、オープン。

「『とんかつ』をはじめたのは、15年前からです。最初は、洋食系だったんですが、『とんかつ』をはじめると、これが好調で。ええ、飲食では、牛角や温野菜のFCもやりました。ただ、方針が合わずにこちらは辞めました。いまは直営です」。
平田牧場が、直営店をオープンしたのは2000年代に入ってからだ。15年前というから、「とんかつ専門店」として、ブレイクするのは2004年のことだろう。
豚を育て、直営店で食べてもらう。生産者としては、最高のシチュエーションだ。当然だが、消費地にもちかづくことになる。東京に初出店したのは調布だったらしい。
「現在は生産部門も合わせると、従業員は800人くらいです。20万頭を取り扱っています。今では当たり前になっていますが、行政と協力して、お米を豚に食べさせる仕組みをいっしょにつくりあげたのも平田牧場です。今後はもっと社会貢献をしていきたいですね」。
「たとえば、平田牧場の料理を食べたら残さない、残したくないと思えるような物を提供していくのも、私たちの使命だと思っています」。
今後のテーマは、「健康」だという。糖分や塩分にこだわるのも、その一つかもしれない。「いのち」の生産者。だから、新田氏の言葉は重く、深い。
「いちばん丁寧なブランドになろう」。ホームページには、そんな一言も添えられている。この言葉は、まさに「いのち」の重みを表している。
・・・続き
株式会社平田牧場 代表取締役社長 新田嘉七氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)