なんと「ユニクロ 感動ジャケット/パンツ」特設サイトに弊社・永野諒がモデルに選ばれ、本日アップされました!!
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『飲食の戦士たち 〜社長たちの原点が、ここにある〜』
飲食業界をリードする社長の生い立ち、生き様、そして独立のキッカケや軌跡を紹介するコラム『飲食の戦士たち』の再現ドラマ版完成しました。昨日27日(月)にアップされた“ユニクロ”の「感動パンツ/ジャケット特集」に弊社の永野諒が選ばれました。
個人の紹介されるページは来週あたりには出ると思いますので楽しみにしています。
推薦してくれ、キッカケ作ってくれた元社員のS君には感謝です。
世間では、同級生は今年60歳の還暦で定年となる人もいます。
そんななか、仕事の話をいただきたり、相談もらえることが本当にありがたいです。
どんな辛い時でも、嫌なことでも、「あきらめない」で継続してるいつか必ず認められます。
コツコツとやり続けるって本当ですね。
継続している「飲食の戦士たち」にも教えられた気がします。
6月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、「極上つまみ割烹」や「ドラスルテイク」などアイデアを駆使され危機を乗り切ってこられた『霞町三〇一ノ一』様を取り上げました。
6月10日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、コロナ禍から生まれた会員制焼肉も運営されてる“たまには焼肉”の『マラヴィーダ』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社マラヴィーダ(MALAVIDA) 代表 金田剛賢氏登場。
本文より~
東京を東西に貫くJR中央線・総武線の高円寺。北口から徒歩2分ほど、小説の舞台にもなった「高円寺純情商店街」の一画に、店頭が真っ赤で統一された店がある。
店名は「たまには焼肉」、七輪で炭火焼きする焼肉店である。
この店は、2001年、20歳にして韓国から父が育った国、日本にやってきた青年が生きていく夢を形にしたものだ。父がよく口ずさんでいた「津軽海峡冬景色」のメロディーが大好きで、「こんな素敵な曲が生まれる日本ってどんな国?」と幼き頃から興味を持っていたという。
今回ご紹介するのは、20歳で来日し夢を叶えた金田剛賢氏。その生い立ち、来日してからの歩みを辿ってみる。
「生まれは韓国・釜山です」と語る金田氏は1981年生れの41歳と若い。
10歳の頃までは韓国で育つが、親の仕事の都合で中国、マレーシア、シンガポール、タイなど東南アジアの各地を転々とする。当然、言葉の壁があり、なかなか友人を作るのも難しい生活。なんとか友人を作りたいと必死になって中国語を覚えたという。そんな中、中国吉林省で現在の奥様と出会う。「中国語を覚えていてよかった」と心底思ったそう。
アジア各地での生活を経験した金田氏。20歳になり身の振り方を考えた時、日本へ行く選択肢しかなかったという。「日本が経済で盛況だという情報も得ていましたし、日本文化にも興味がありました。『津軽海峡冬景色』の国ですから」。
しかし日本への憧れは募るものの、なかなか踏ん切りがつかない。そんな金田氏の背中を押してくれたのが現在の奥様のこんな一言だったという。「私がいるじゃない」。
一人だと不安でも、二人ならなんとかなるかもしれない!20歳の旅立ちだった。
2001年初来日。金田氏は住む当てがなく友人カップルを頼った。相談すると、一緒に住んでもいいという。そして、向かった先は東京、港区元麻布の1Kのマンション。
友人カップルと金田氏と彼女。4人の共同生活が始まった。しかし、大きな問題があった。
「家賃が18万円だったんですよ!驚きました」。
友人カップルも家賃で困っていたのかもしれない。それぞれで分担して家賃を払うことに。1Kに4人。その窮屈さは今ではいい思い出だそう。
来日して3日、友人の紹介で、大手居酒屋チェーン店で働き始める。
そこで実に多彩なメニューが揃っていたことに感心。なかでも「焼き鳥」に驚いたという。
「串に鳥肉を刺して焼く食べ方は初めて見ました」。これまでの食文化では出会わなかった食べ方だったそう。焼き鳥に感動しつつも、生活をするため、ただ、ひたすら働く日々。
「時給は920円で月収にして40万円以上でした」。しかし、当時の労働時間はなんと1日18時間を超えていたそう。
そんな生活を続け、28歳の時、洋食系カジュアルレストランを展開する会社に入る。
そこで、当時、立ち上がったばかりのホルモン焼肉部門の配属となる。
新しい職場で金田氏にとって“人生の師匠”と呼ぶ人物に出会った。
「その方は23歳ほど年長でしたから、当時、50歳くらいだったと思います。地方都市で飲食業を経験し、東京に出てきたばかりだという経歴の持ち主でした」。
この人物は、いったいどこが凄かったのか?金田氏は、どこに魅了されたのか?
「料理人とし高い技術を持っているばかりではなく、マネジメントに長けていました。たとえば“この店は半年後、こうなる”“一年後、こうなる”ということを語りかけてくれたんですが、実際にその通りにするんです」。
要するに、自分で店の目標を設定し、その目標を達成するためにストイックに実践し成果を上げていく。ただ、がむしゃらに働いて稼ぐ日々を送っていた金田氏にとって、目標設定をして次々と達成していく働き方は刺激的だったという。
さらに師匠は、飲食業のトレンドの読み方にも優れていたという。
「“これからは焼肉とワインの時代になる”と語られた時は、びっくりしました。ホルモンと言えばビールや焼酎ですから。しかし、ホルモン焼肉の店ながら、ワインをメニューにすると、徐々にですが売れて行くんです。そして、今では当たり前の焼肉とワインが親しまれるトレンドがやって来るんですから」。
『目標設定とその遂行』『トレンドを読み実践する』ことの重要性を語ってくれた人物との出会いは、金田氏の人生を大きく変えるほどの存在となった。
この会社には4年間勤め、次なる目標に向かって退社。32歳になっていた。
「“店長募集”ということで応募し店長として採用されました」。
任されたのは東京・新橋のか12坪ほどのホルモン焼肉店。
ここで『目標設定とその遂行』を実践する。オーナーの前で売り上げを3倍にすると宣言した。当時月商100万円ほど、これを300万円にすると目標を設定した。まずは店に何が足りないのか、お客の声に耳を傾けた。すると、こんな声が…「ホルモン以外も食べたいな」「カルビとかロースないの?」。金田氏はすぐにオーナーに相談、当時、メニューになかった赤身系の肉の提供を認められた。さらに、イチボやトモサンカクなど希少部位も出し、部位の説明や焼き方を丁寧に伝えたそう。
これが新橋の客層にウケた。「へぇー」と肉のマメ知識に関心してくれ、新たなお客まで連れて来てくれるようになったという。「お肉の美味しい焼き加減の見極めは難しいですから、知れば誰かに話したくなりますよね」と金田氏。 売り上げは徐々に上がって行くが、まだ足りない。そこで、目標達成のために次の一手をオーナーに提案する。それは「土日営業」。
「オーナーが四国・愛媛にいましたから、『新橋=サラリーマンの街』という固定概念があったんです。土日に会社勤めの人はいないから、休めと。お台場での観光帰りや銀座での買い物のついでに食事に来る人がいるとは思っていないわけです。」そこで、現状をオーナーに伝え説得、土日営業の許可をもらいます。狙い通り売り上げはアップ。そして、半年後、見事に目標を達成した。この成功体験が独立起業への思いを強めていったという。
「35歳までには独立しようと考えていました」。
開業資金として自己資金500万円、日本政策金融公庫から750万円を借り入れた。
顔なじみも増えた新橋で出店したいと考え店舗を探し始めるが、次々と断られる。国籍の壁が立ちふさがったという。そして、新橋での出店を諦め、不動産屋を巡り頭をさげる日々、半年かけ、ようやく借りられたのが高田馬場駅前の4坪の場所だった。
2016年9月、高田馬場駅前で第1号店をオープンした。
「新橋で出店できなかったことは悔しかったですね。でも今では4坪あれば何でもできると、心の支えになっています」。
肉の質にこだわり、薄利多売。接客では、新橋で成功した肉の豆知識を軽妙なトークに混ぜる。すると「美味しい!お得感がある!」と瞬く間に口コミで広がり、社会人だけでなく学生の心も掴み、たちまち人気店に。
高田馬場1号店の開業から1年後、2017年8月には、2号店として冒頭で紹介した高円寺店を開店。以後、順次、店舗を拡大し現在5店舗にまで拡大した。
「会員制で勝負する!」。
コロナ禍で前職のオーナーから「新橋の物件を手放したい」と相談を受ける。
金田氏はすぐさま「自分にやらせてください」と申し出た。念願の新橋での出店である。周りでは閉店する店が増える中、金田氏にはある狙いがあった。それが「会員制の焼肉店」だ。
完全予約制で1日2組限定。2部制にして、それぞれ1組ずつの貸し切り営業。4名から12名まで。料理はコースで飲み放題。それで一人当たり6000円。
これが大当たりした。
その理由は、まず知らない人(他の客)がいない空間は、コロナ禍での安心感に繋がる。
さらに飲み放題のドリンクはセルフサービス。非接触で衛生的。これにも安心感。
そして、予約制にすることで、肉の仕入れロスを防ぐことができる。これにより仕入値をギリギリまで上げることができるという。つまり、お客からすれば質のいい肉をお値打ちに食べられるのである。しかも他の客がいないので、少々騒いでも大丈夫!
金田氏は過去に学んだ『トレンドを読み実践する』ことに成功したのである。
金田氏が見据えるのは「たまには焼肉」のFC展開。加盟店にとって初期投資が抑えられる仕組みをつくろうとしている。「私がこれまで出店する時に、いつも初期投資に悩まされてきたので、この部分を解消しFCオーナーと共に『たまには焼肉』で繁盛していきたい」と語る。この仕組みづくりについては、専門家をパートナーとして迎えて取り組んでいきたいという。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
6月3日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は幼稚園児が描いた絵をカップの蓋に採用したアイスクリームを提供される地元愛強い『リンクワーク』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Belief 代表取締役 本間亮佑氏登場。
本文より~
本間氏が生まれたのは1989年。バブル経済で日本中が狂騒していた頃。もっとも生まれは埼玉県の秩父市だから東京のイメージとは少し異なる。
「私が4歳の頃、両親が離婚します。もともとホルモン店をしていましたので、父が抜けたあとは母と祖父が仕事をして、私たち子どもの面倒は祖母がみてくれていました。父親とはそれ以来会ってはないです」。
本間氏の母親は、本間氏が小学3年生の時に再婚されている。
子どもの頃は、勉強以外は何でもできた、と笑う。
実際、中学校ではサッカー部だったが、陸上や相撲の市の大会に参加して入賞している。スポーツができれば、女子にもてる。それはジョークとしても、羨望の的だったんじゃないだろうか。
「そうですね。とはいえ、学校生活が楽しかったわけではなく、中学時代にぐれちゃいました。中学はなんとか卒業できましたが、高校は2校、どちらも1ヵ月で退学しています笑」。
1校目はサッカーの特待生で入学。いままでお山の大将だったと知る。これじゃ、いちばんになれないと部活を辞めた。特待生の権利がはく奪され、学校も退学することになる。
母親に諭され、2校目に進学するが、こちらも長くはつづかなかった。
「1ヵ月で3回停学になって、3回目で退学になりました」。
いきなりタイマン事件があったそう。
「TVドラマ、そのまんまです。橋の下に連れていかれて、20人はいましたね。それで、そのうちの1人とタイマンだと。笑っちゃうのが、顔を殴ってはいけないというルール付きだったんです。ヤンキーが多い学校でしたが、退学になるのはいやだったんでしょうね」。
勉強以外は何でもできた、その何でものなかに喧嘩も入っていたんだろうか。タイマンの勝利者は、本間氏。「それからまた、ヤンキーらとの付き合いがスタートしちゃうんです笑」。
「退学してから一念発起して、美容師になろうと専門学校に進みます。美容師はかっこいいっていう理由だったんですが。でも、これも1年くらいで辞めてしまいます。ちょうど16歳~17歳の頃です」。
この頃、本間氏は秩父から東京にでてきている。
「秩父にいたら、悪い縁も断ち切れないと悟りました」。
ただ、東京でも、まっとうな道を少し外れる。18歳。お金になると、歌舞伎町でホストを始める。「でも、まだガキでしょ。お酒も飲めないから、ぜんぜんお金にならない。ホストなのに日給5000円です笑。そこを半年で辞め、声をかけていただき、スカウトの仕事を始めるんですが、そこもトラブルを起こしてしまって、半年で退職します」。
東京のネオンは、まだあどけない本間氏にはまぶしすぎたのだろうか。それとも、闇の深さにイヤケがさしたのだろうか。とにかく、本間氏はいったん秩父にもどっている。
「秩父にもどって、フィリピンパブのボーイを始めます。秩父はやはり居心地がいいです。ただ、良すぎて、成人式ではしゃぎすぎてしまいます」。
詳細を聞くと「はしゃぎすぎ」程度ではない。
「行為はけっしていいとはいえませんが、母親と祖父の涙をみて、改心することができたのも事実です。私にとっては、一つのターニングポイントです」。
母と祖父の涙は、本間氏の「何か」を流したにちがいない。それは、本人にもはっきりとはわからない、わだかまりだったんじゃないだろうか。
家業でもあるホルモン店をつごうと、素直にそう思っている。
その準備だったのだろうか、その年、本間氏は「とり鉄」に入社している。
「そうちょうど20歳の時ですね。『とり鉄がいい』わけではなく、寮がある飲食店が『とり鉄』だったから。うすっぺらな志望動機ですね。でも、その小さな、ある意味、いいかげんな一歩が、私の人生の、新たな幕開けとなりました」。
「小笠原さんというトレーナーの方がいらして、初めて出会ったカッコいい大人が、この小笠原さんなんです」と本間氏はうれしげにいう。
なんでも、本間氏は金髪でホストのような格好で面接に臨んだそうだ。その時の面接官が、小笠原氏。2人の人生が交差する。本間氏をみて、小笠原氏が放った一言がかっこいい。
「髪を染め直して、髭を剃れば採用してやる」。
「当時は60店舗くらいの時。小林社長にも可愛がっていただきました。私は唯一のフランチャイズ『烏骨鶏専門店』の店長だったので、とくに気にかけていただいたのかもしれません」。
勉強ぎらいが、貪欲に勉強を開始。
「興味があれば、勉強できるもんですね」と笑う。
「とり鉄は、研修も充実しているんです。だから、希望者が募られたら、とにかく手を挙げていました」。業績を聞いて驚いた。10坪で月商600万円。通常、家賃の10倍が損益分岐点と言われている。10坪なら、坪単価がある程度高かったとしても、かなり利益があったはず。
「PLが開示されていましたから、利益をみて、なんじゃこれは、と。独立するきっかけだったことはたしかですね」。
ところで、やんちゃな本間氏はどこにいったんだろう。この頃の話からは、真面目で真剣な青年の姿しか想像できない。
とり鉄は2年で卒業。こちらは「独立」という目標を追いかけた結果の、卒業である。
「入社して2年。22歳の時に独立させていただきました。人生でいちばん影響を受けた人ですか? いうまでもなく、小林社長です。この仕事が好きになったのも、独立しようと思ったのも、小林社長のおかげです。もちろん、うちのおじいちゃんがいなければ今の私はありません」。
「祖父が経営していた2つのお店のうち業績が悪かった方を引き取って事業がスタートします。最初は、東京で、と思っていたんですが、実績もなにもない若造にお金を貸す太っ腹な金融機関はありませんでした。だから、祖父の店を引き取ります。売り上げは、それまでの倍にしました」。
昔の本間氏ではない。おじいさまは売り上げを抜かれたことを手放しで喜ばれたのではないだろうか。
「最初の3年は個人事業主でした。事業を始め、1年後の23歳の時には、銀行から1200万円をお借りして、秩父駅前に本店を移転オープンします。おなじホルモン店ですが、コンセプトをがらり変えました。ホルモンの大衆的なイメージは残したまま、クリーンで、おしゃれなイメージを打ち出しました」。
これは、新たな秩父のホルモン事情のはじまり。
月の営業利益が150万円。
「ありがたいことに、大繁盛です。1年もたたず、1000万円が貯まり、そのお金で2号店を出店します。こちらも成功して、そして法人化にふみ切りました」。
新たな出店にも、意欲的だった。
「ただ、つぎに2500万円かけ、熊谷に新店をオープンするんですが、こちらはぜんぜん。売上が200万円にもならないんです。大失敗ですが、飲食は人なんだと気づかされます。これは、そのあとの飲食人生にとって、大きな財産になりました」。
ホームページに掲げてある私の想い「人を育て、人を愛し、会社を愛する」は、この気づきから生まれたのかもしれない。むろん、それからも失敗はある。原価45%もかけ利益がでなかった肉バルもその一つ。しかし、失敗しても、つぎに進む。ホームページの沿革をみればわかるが、次々にオープンしていく。とくに2019年には5店舗をつづけてオープンしている。
2021年から新店オープンはないが、こちらはコロナ禍の影響だろう。コロナ禍がなくなれば、当然、またオープンラッシュがスタートするにはずである。今後の目標もうかがった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
5月27日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は「学食日本一」に貢献するORIENTALFOODSが学食によって大学の評価を高める『オリエンタルフーズ』様を取り上げました。
「飲食の戦士たち」を続けもう直ぐ900連載!
最初は社内含め誰にも評価されなかったですが、今ではキイストンにとっては大きな財産。
嫌なことでも、今じゃなく未来を見据え「継続は力なり」の精神でやってると認められます。
1年、2年で結果でなくでも、10年も続ければ評価されます。
もし悩んでる方いたらまわりの意見気にせず信念に従って継続することです。
まわりと比較せず、オンリーワン目指して頑張りましょう!
5月20日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は自家醸造クラフトビールと羊肉料理の店「シノバズブルワリーひつじあいす」としてリニューアルオープンされた『長岡商事』様を取り上げました。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にもぢょい有限会社 代表取締役 牧元利行氏登場。
『少年よ大志を抱け』という有名な言葉がある。
今回、ご登場いただいた牧元氏は、5歳にして「社長になりたい!」という「大志」を抱いた。大人が考えれば「社長になる」ということは、相当の覚悟が必要だが、そこは5歳、無邪気というか「カワイイ!」という言葉のほうがマッチしている。しかしながら、結果的には幼い頃に抱いた大志を実現、「初志貫徹」の見本のような人生を歩んできている。
幼いながらも「社長になりたい!」と思った動機、きっかけは実に他愛にないことだったと語る。
「母方の叔父が、内装業の社長だったんです。よく遊びにいったりしていたんですが、大きな家に住んでいましたし、子どもの目にも、なんとなく“いい生活”をしているように映ったんです」。
当然といえば当然だろう。子どもには企業にとって「社長」とはどのような存在なのか、どのような仕事をするのかは分からない。むしろ“憧れ”で十分だし、“憧れ”があったから、現在の牧元氏がある。
5歳にして「大志」を抱いた牧元氏は、1976年、千葉県茂原市に生まれた。ご両親はともに鹿児島出身とのこと。両親が知り合ったのは奈良県で、その後、千葉県茂原市へ。5歳年上の姉との4人家族。
「父は革細工の職人でした。父なりの考えもあったと思いますが、茂原に引っ越し日立製作所に勤めました。基本的には工場ですから三交代勤務でした」。
「田圃と山に囲まれた土地でした。小学校は3クラスでした」。どんな少年だったのか。
「やんちゃでもなかったですし、どちらかといえば、地味だったと思います。ただ、人を笑わせるのは好きでしたね。スポーツに夢中になったことはありませんでしたけれど、バドミントン部に所属していました」。やがて進学。
「中学校は7クラス、高等学校は4クラスでした。ただ、高校は将来のことを考え商業高校に進みました。ここで学んだ簿記や決算書などの知識は役に立っていますね。あっ!生徒会長ではないけれど生徒会にも所属していました」。
子どもの頃、両親から「勉強しなさい」と言われたことはなかったと振り返るが、父親には本を読むことを薦められた。「松下幸之助、本田宗一郎の著書や自己啓発関連の本を読みました。ただ、読むとお小遣いをくれたんですよね」。
「高校時代、学校はアルバイト禁止でしたが、“社会の営みを学びたい”“社会経験を積み重ねたい”“世に出たい”といった意識、願望があったのでアルバイトをしていました」。その勤務実態は、ハードそのもの。
「朝5時から8時までコンビニで働いた後、登校。授業が終わって夕方からコンビニと寿司屋とで週5日、働いていました。両親とも応援してくれました。ただ、母親は厳しかったですね。疲れて休もうとしたり、遅刻したりするときつく怒られました」
当時、時給600円で月収は10万円前後。どれだけハードだったかは容易に想像できる。高校生にとっては、いや、大人にとっても10万円は大金だ。「そのお金ですか?カラオケや友人に奢ったりして遣いましたね」。
家族の応援、叱咤激励を得てアルバイトにいそしんでいた日々、牧元家を不幸が襲う。母親が「胃癌」で他界した。高校3年の時だった。「ショックでしたね」。
高校卒業し就職。選んだのは、親戚の知人が経営していた原宿の寿司屋だった。
「就職先として飲食業という意識は特にはなかったですね。ただ、寿司屋になったら独立できるのではないかと思いました。住み込みでした」。が、あえなく半年で辞めることに。
「仕事が終わってから連夜、クラブ通いの日々でした。当然、仕事に影響が出ますよね。いわば挫折です」。
辞めたあと、具体的な考えや就職先も計画もなく、地元に帰った。
具体的な目標もなく地元に帰った牧元氏は、とりあえず警備員の仕事に就いた。その一方、「芸は身を助く」ではないが、思わぬチャンスが訪れた。当時は思ってはいなかったのだろうけれど、ある選択が、振り返ってみれば牧元氏にとってはターニングポイントになった。
「ダンスが好きだったんです。それでディズニーランドのオーディションを受けて採用されました。園内の掃除、清掃から園内を彩るキャストとして来園者の老若男女を楽しませる仕事を4年、続けました」。ここで運命的な出会い、副社長兼感動プロデューサーの多田氏と知り合った。
「独立しようと考え出したのは、この頃ですね。4年間で約200万円、貯めました」。
独立の意思は固めたものの、どんな職種で独立するかまでは決めていなかったが、「FC展開している企業にFC加盟店として独立することを考えました。いろんなFCを見てきたんですが、結構、冷たいんですよ。そんななか、“大吉兆”という焼鳥屋を運営している企業が親身になって相談にのってくれ、熱心に勧めてくれました」。
こうした経緯を経て“焼鳥屋台”を開業、23歳のときだった。
初期投資は400~500万円。今はなき千葉県東金市内の「スーパーセイフー東金店」の店頭で開業した。
「地域に愛される焼鳥屋を目指し、4年間、雨の日も風の日も、15時から24時まで吹きっ晒しの店頭で休みなく営業を続けました。初めのころの売上は1日10000円くらいでしたかね。その後、平均売上が140万円くらいにまで増えましたね」
お客さまに喜ばれた、愛された理由は「味」にあった。
「屋台の場合、普通は「半焼き」状態から仕上げるのですが、私の場合は、あえて「イチ」から、つまり「生」の状態から焼くので時間がかかるんだけれど、このほうが、断然、美味しいですよ」。お客さまはシビアです。
そして28歳。次へのステップへ飛び立つ。居酒屋業態「本千葉駅前の串屋横丁」を開業した。
「ドリーマーズという企業の中村さんがFC店を募集していたので、早速、門を叩き、ディズニーランドで同僚だった多田と、中村さんの店、「串屋横丁」に修業にいきました」。
多田氏に参加してもらうのには、極端に言えば「一緒にやれるのは、お前しかいない!」という牧元氏の熱意以外のなにものでもない。『三顧の礼』という、中国・三国志の有名な言葉がある。ある武将がある参謀役が戦いには欠かせないと判断し、三度にわたって口説いたという故事だ。牧元氏は多田氏を口説いて口説いた結果だった。
ただ居酒屋は甘くはなかった。接客ができなかった。「屋台とは違うんだ、ということが身に沁みました。鳥を焼くことはできるのですが、接客がまるでダメ。叱られてばかりの半年でした」。
お酒、料理を提供するだけ居酒屋が成り立つわけではない。お客さまにとって「心地よい時間」を過ごしてもらえる、「また来よう」と思ってもらえる接客が肝心だ。
半年、接客のノウハウを叩きこまれた牧元氏と多田氏。満を持して「本千葉駅前の串屋横丁」を開業。牧元氏28歳、多田氏27歳のときだった。
「ラーメン屋さんの居抜き物件で、1号店の“本千葉駅前の串屋横丁”を開業しました。開業当時は“順調なスタート”とはいえず日商7~8万円くらいでしたけれど14~15万円、ほぼ倍になりました」。
一方で、FC展開の弱点を知り、次なる展開はオリジナルブランドを考えた。
「FC店というのは、その仕組み上、どうしても大きな利益は望めません。やっぱり自社ブランドを持ちたいと思いました」。2年後、「元々、お客さまとして来てくれていた、サンマーフィーの鈴木氏の店で修業し、「オリジナルブランド」として3号店を開業した。
こうした積み重ねの結果、現在は、千葉市、蘇我、幕張で7店舗、1工場(セントラルキッチン)までに拡大した。
「昨年5月、コロナ禍でしたが、千葉市中央に焼肉店を開業しました。初めての試みですが、今後、焼肉業態も2~3店舗、拡大したいと考えています。場所ですが、千葉県愛が強いのか東京に進出する考えはなく、千葉市から東の東京より、市川とか船橋を考えています」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)