2011年12月29日木曜日

2011年もあと4日、基盤を作るのに精を出した1年だった。

激動の2011年も残すところあと4日となった。


おかげさまで、この1年で飲食経営者を取材した「飲食の戦士たち」は、259社と250社突破した。


この調子で行くと3月までには、取材総数300社は達成できると思う。


営業スタッフがコツコツ取材依頼をお願いし、ほんと顔ぶれもグレードアップした。


よく、これだけの社長様に登場頂けたもんだ。本当に感謝!!


この多くの社長様との接点が、各営業個人の成長にもつながり、いい商材&いいパートナー企業様とのご縁を授けてもらった。


2012年、大爆発しそうな予感がする!!


年賀状1
一足お先に、2012年の年賀状とは別バージョンを公開!!



2011年12月28日水曜日

株式会社柿安本店 代表取締役社長 赤塚保正氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社柿安本店 代表取締役社長 赤塚保正氏登場。


柿安
本文より~


高級フレンチレストランで流した涙の味。


父と母は、忙しい合間を縫って子ども達をよく外食に誘い出した。一つのエピソードがある。「家族で初めて銀座の高級フレンチレストランに食事に行った時のことです。フランス料理に連れていってあげるからお行儀よくしなさいと言われていたんです。どんな店かと思っていたら、フォークやナイフがやたらテーブルにならんでいる。どうやって食べていいかわからない。食べ方もわからず私はじっと下を向いていたんですが、それとは反対に妹はむしゃむしゃ食べ始めて、『おいしぃ、こんなの初めて』なんて歓声を上げるんです。その妹のハシャギぶりも恥ずかしくなったんでしょうね。泣き出してしまったんです(笑)」。恰好付けだったから、と赤塚はいうが、感性が豊かな証左だろう。負けず嫌いの片鱗も伺える。「でも、あのおかげで、店や食事にはルールがある、それだけのことなんだとわかり、どんな店に行っても物おじしなくなりました。そして、あれから父の食育がはじまったんです」。どんな食育だったのだろうか。・・・・・。


株式会社柿安本店 代表取締役社長 赤塚保正氏


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2011年12月21日水曜日

ウェンディーズ・ジャパン合同会社 最高経営責任者 アーネストM.比嘉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にウェンディーズ・ジャパン合同会社 最高経営責任者 アーネストM.比嘉氏登場。


比嘉
本文より~


父とは異なるチームプレイ重視の経営者をめざして。


比嘉に父親のことを尋ねると、ビジネスで最も影響を受けた一人という答えが返ってきた。ただし、偉大な父はワンマンな経営者でもあったそうだ。だから比嘉にとって経営者とはワンマンな人間とイコールだった。
おもしろいエピソードがある。「東京にいた時です。ある世界的な企業の大株主をホテルオークラに迎えにあがったんです。お顔を存知あげなかったことが問題なんですが、それ以上に経営者はワンマンでいかつい人っていう刷り込みがありましたから、父より凄い人なんだから<父よりワンマンでいかつい人>を勝手にイメージしていたんです。ところが、そんな人は約束の時間になっても現れない。ビジネスマンは時間にうるさいのにと首を捻っていたんです。更に15分待っても現れない。その時になってようやく思い込みだったのではないか、と気づき始めるんです。だって、目の前に容姿や風貌が父親とは正反対の男性がずっと座っていたんですから」。
比嘉には笑い話では済まなかった。「経営者は父のようにワンマンなタイプしかなれないと思い込んでいたものですから、父と正反対の性格だった私に企業経営は無理だろうなと思っていたんです。でも、この時、出会った経営者のおかげで初めて私も経営者になれるのではないかと希望が湧いてきたんです」。それまで性格ゆえに抑えていた起業家の血がたぎり始める。この時から父とは異なる<チームプレイ重視の経営者>をめざした比嘉の旅が始まった。・・・・。


ウェンディーズ・ジャパン合同会社 最高経営責任者 アーネストM.比嘉氏


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2011年12月19日月曜日

まさに、ひょうたんから駒。

この11月より、元リクルートで創業15年のお花屋(フラワービジネス)の高原社長率いるグリーンロードさんとキイストンと組んで、他社にはない付加価値を付けたサービスの強化図っていきます。


キイストンのスタッフがコツコツ社長取材のアポイントを取り、300社以上の飲食企業と接点作ってくれたことで人材サービス会社(求人広告&人材紹介)や飲食専門メディアのなかで社長との接点の数は断トツになりました。


また、グリーンロードさんは2,000社ものクライアントがあり、なかでも大手・有名企業が多く、すごい企業財産をお持ちです。


そのキイストンのクライアントの飲食企業様とグリーンロードさんのクライアントの企業様と接点を設けるとどうなるでしょうか?


そうなんです、双方のクライアントがメリット出る、おもしろい展開生まれました。


これからは協業の時代。


グリーンロードさんのようにお客様から信用あり、取引先の多い異業種の企業様とは一緒にやっていきたいです。


2012年、キイストン創業20周年を迎え、人材ビジネスとは別の柱を構築していきます!!



2011年12月16日金曜日

14日、フジテレビ“とくダネ”にリブセンス村上社長登場(密着取材で・・・)。

14日、フジテレビ“とくダネ”でリブセンスの村上社長の密着取材が放送された。


リブ上場


リブ街歩きリブ自宅

(この数メートル先で会ってました/ほんとに質素な自宅)


取材当日、2人で定例のランチミーティングしましたので、少し・・・・、いやかなり期待していましたが、映りませんでした(笑)


でも、いい内容だったんで、株価も大幅アップ。


インタビューでも話しましたが、「求人の革命のひとりはリクルートの江副さん、もうひとりはリブセンスの村上さん」とリクルートもリブセンスも知ってるので言える!!


リブ社内
いつも柴崎さんが映ってたんで思わず入れました。左が柴崎本部長



2011年12月13日火曜日

株式会社壱番屋 代表取締役社長 浜島俊哉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社壱番屋 代表取締役社長 浜島俊哉氏登場。


浜島社長
本文より~


CoCo壱番屋、オープニングに参加。


高校時代からお金ができると洋服代に使ったというからおしゃれなんだろう。たぶんに生き様にも表れている。「専門学校からは独立するために、いままでとは違った喫茶店でバイトをさせてもらったり、珈琲の卸会社でもバイトをさせてもらったりもしました。転々としていたと言ってもいいかもしれません」。3時間でケンカして、辞めたこともあった。「潔し」といえば恰好がいいが、忍耐不足と言われてもしかたがない。
「そんな時、高校生のバイト時代に知り合った先輩から、ある店を紹介されるんです」。それが、CoCo壱番屋の1号店だった。浜島はアルバイトといえど、創業メンバーの一人。だが、CoCo壱番屋は通過点に過ぎないと心に決めていた。「まずは3年。カレービジネスのノウハウも将来、きっと役立つだろう」と思い仕事を始めた。ところが…。「6ヵ月で退職しちゃうんです」。・・・・・・・。


株式会社壱番屋 代表取締役社長 浜島俊哉氏


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2011年12月8日木曜日

リブセンスの皆さんマザーズ上場おめでとうございます。

リブセンス様が、本日12月7日(水)に無事マザーズに上場されました。


リブセンス1リブセンス2
(7日放送のワールドビジネスサテライトより)


リブセンスの皆さんマザーズ上場おめでとうございます。


私も社員の皆さん同様、大変うれしいですし、すごく自慢です。


リブセンス社長の村上太一氏は、史上最年少の25歳1ヶ月で上場しましたが、
親の力やベンチャーキャピタルなどバックの力は一切無し。
自らのビジネスモデルとパッションで上場まで持っていったんで、本当に大したもんです。


前職はリクルートに在籍し、独立してキイストンを立ち上げましたが、
求人市場を築き上げたリクルートの江副さん、
その求人市場に成果報酬型を取り入れ、
今までの常識を覆したリブセンスの村上さんといい、
本当にいい環境に恵まれています。



2011年12月7日水曜日

株式会社大台フードプロジェクト 代表取締役社長 貝谷祐春晴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社大台フードプロジェクト 代表取締役社長 貝谷祐春晴氏登場。


大台
本文より~


目覚ましはキャベツの千切りの音


1945年、大阪で食堂を営む両親の元に生まれた貝谷氏の思い出は、キャベツの千切りの音だ。「朝目覚めると両親は揃って食堂で仕込みをしていました。そこから聞こえてくるキャベツを刻むまな板の音が朝一の定番でした」。幼少時代、食事のほとんどをその食堂で食べていたという貝谷氏の思い出の一品はやきそば。特に小学生の頃には本当に父親がよく作ってくれたという。
そんな貝谷氏の幼い頃からの変わらない趣味は読書。特に純文学といわれるジャンルが好きで、時間さえあれば本を読んでいたという。「いずれは自分でも書いてみようとネタ帳を作ってストーリーを書きつけていました」。本に関わる暮らしを夢見ていた貝谷氏は、家業を継ぐでもなく、会社員になるでもなく社会人となっていく。「人に雇われたり雇ったりという関係性の中で生きていくのがうまく想像できなかった」というように、どこかおっとりとした文学青年であったのかもしれない。
収入は市場や飲食店、印刷会社のアルバイトで稼いでいたが、組織やそこでの出世にはまった興味が持てなかったという。しかし26歳の時、転機が訪れる。父親の友人がスナックの経営に行き詰まり、貝谷氏に店を任せたいという話が持ち上がったのだ。・・・・。


株式会社大台フードプロジェクト 代表取締役社長 貝谷祐春晴氏


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2011年12月3日土曜日

12月中旬より被災地(宮城)での就職支援スタート。

被災地ポスター1
上記のポスターを20ヶ所、別で作成したチラシを各ヶ所に設置し、少しでも多くの被災地の若者の就職支援をスタートします。