2013年7月30日火曜日

有限会社リヨンブルーアンテルナショナル 代表 安生 浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社リヨンブルーアンテルナショナル 代表 安生 浩氏登場。
本文より~

少年の趣味は、映画観賞。

1969年10月19日、東京都足立区北千住に男3兄弟の次男として生まれる。「兄とは2違いだから、良くケンカもしました」と幼少の頃を思い出して笑う。一方、弟は5つ違い。3人兄弟は、父の影響で、3人とも剣道を習い始める。
「父親が道場を開いていたんです。多いときには100人も生徒がいました。私たち兄弟も習いに行くんですが、私は中学になるとバスケットボール部に入り道場には通わなくなりました」。
実家は、「足立区でいちばん売れていた酒屋」だったそうである。店でもそうだが、家のなかにもいろんな人が出入りして、父親と食卓を囲んで酒を酌み交わしていたそうである。にぎやかな食卓が想像できる。
食卓、同様、自由奔放な家庭だったようである。「両親からは『勉強しろ』など口うるさいことは何一つ言われたことがない」とのことだ。
小さな頃のことを伺うと、「ちょっとかわった奴」という言葉が返ってきた。なんでも、映画も独りで観に行くような少年だったとのこと。高校までこの傾向があり、もっぱら洋画専門だった。
中学ではすでに述べた通り、剣道から、バスケットボールに転向。中学最初のテストは散々だったが、悔しくて、次のテストからは学年で10指に入るまでになる。「金髪の女性と結婚する!」。洋画好きもあって、そういう淡い思いを抱いていたそうだ。

サーフィンにハマった青年時代。

日大一高に進学した安生は、アメリカンフットボールを始める。部活動に明け暮れる毎日だったそうだ。そのまま日大に進み、こちらでもアメフトをつづけた。
日大の「三島校舎」は、静岡県三島市にある。三島校舎を選択したのは「国際関係学部」があったから。当然、独り暮らし。バイトもすぐに始めた。この時のバイトが、外食との出会いだったと言ってもいい。
「宅配ピザの走りみたいなお店でした。ご夫婦で運営されていたんですが、バイトの私たちにも優しく接してくださって。大学の4年間ずっとご厄介になりました」。
大学時代にはアメフトとバイト、そしてもう一つ、サーフィンにも熱中した。次第にサーフィンがいちばんになる。20歳の時には10万円を握りしめて、オーストラリアに飛んだ。向こうでもサーフィンに明け暮れた。
波にハマった飲食店経営者は、案外、多い。この「飲食の戦士たち」のなかでも、何人かいる。共通しているのは、仕事より、何より、「波乗り優先」だったことである。
「私は、大学を卒業して、旅行代理店に就職するんですが、社会人になってサーフィンを封印するどころか、むしろいままで以上にのめり込んでいきます。自宅とは別に鵠沼にわざわざ部屋を借りたほど。社会人5年目の時についに決断して、会社を辞めます。そうです。サーフィンで食っていこうと、腹をくくったんです」。
「30歳まではサーフィンやる!」と決めた。アルバイトで生活費を賄い、四六時中、波に乗った。試合にも出場した。だが、その度に、上には上がいることを思い知らされた。・・・続き
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株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政惠子様登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政惠子様登場。
本文より~

父の背からみた大きな船の話。

大好きな父に手を引かれた少女は、港に停泊した巨大なタンカーを眩しそうに仰ぎみた。
「まだ子どもでしょ。父がぜんぶ造ったんだと思い込んでいたんです。すごいなーって」。
福政は、子ども時代をなつかしげに思い浮かべ、笑った。
福政には、妹が1人いる。「妹と違って、私は、ファザコン」と福政。いつも父にくっついていたから「金魚のフン」と言われていたそうだ。
その父は、日本鋼管(現、JFEホールディングス)に勤める技術者で、タンカーを造っていた。冒頭の少女が仰ぎ見たのは、進水式のことである。
福政が生まれたのは三重県の松阪市。松坂牛で有名だが、今回、改めて調べてみると「伊勢商人を輩出した商業町」だったそうである。
ところで、技術者の父はとかく「ものづくり」が好きだった。「製図用のボール紙を買いに行かされたこともある」と福政。福政も父をまねて、いろんなものをつくって遊んだ。
父と比べ、母はいつもきびしかった。朝は、5:30には起床し食卓についていなければならない。しかも、正座が基本だったそうである。

小・中学生の頃の話。

「少しずついろんなことがわかる年頃でしょ。要領も身に付きます。私は父の影響で、小さな頃から外国の映画が大好きだったんです。でも、躾けに厳しい母の手前ゆっくり観ることもできなかったんです。それで、母が仕事に出てから、もう一度寝直したり、学校を休んで、映画を観たり(笑)」。
ちゃっかりしている。もちろん、怠けていたわけではない。学業は、優秀。先生たちからは、優等生のハンコを押されていた。しかし、母からみれば、まだまだ足らずであったようだ。「あなたは、20面相よ」。家と学校で顔が違うということを母は20面相と称した。まだ小さかったこともあって、何気ないこの一言が胸に響いた。「理不尽な」という思いで胸が痛んだのも事実である。
「ルールは疑え」と胸に刻んだのもこの時の一言があったから。物事の隠された本質は何かを考える癖もこの頃から。
ただし、悶々と思考にはまる少女ではない。活発な少女だった。小さい頃は近所に男の子しかおらず、いつも男の子にまじって、遊んでいた。しかし、中学に上がるようになると、異性は遊びの対象だけではなくなってくる。・・・続き
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ミストラル代表の武田が載った広告、出続けてます!!

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顔ツボ化粧品ホームページ http://kaotsubo.co.jp/media/list.html
株式会社ミストラル(フードビジネスにより特化した人材紹介)

2013年7月25日木曜日

『cuisine francaise NARITA YUTAKA』

いよいよ7月29日(月)オープン!!

(成田シェフ・川越シェフのお店で元料理長・28歳)
(落ち着いた店内)  (2階にはちょっとした隠れ席)
(ゆっくり楽しんで食事してもらえます)

マスコミ向けのレセプションで料理を振舞う成田シェフ
  
(東京都目黒区中目黒 1-10-23 リバーサイドテラス 103)
フードリンクニュースより→ココをクリック
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2013年7月24日水曜日

8月、新サービス&継続企画を実施します。

8月も新サービスとして、飲食企業様の従業員様向けのサービスをスタートさせます。
乞うご期待ください。




併せて、海外就職説明会の第4回8月27日(火)を実施し、
昨年に続き、調理師会場でin-職hyper(いんしょくはいぱー)の求人冊子配布も実施します。
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学ぶ。

“学ぶ”機会をいくら会社が作っても、
本人がやる気、成長したい気持ちがないと何の意味も無い。

“学ぶ”を怠っていると年齢を重ねていくごとに同年代の人たちと大きく差が出てくる。
やはり20代や30代の時に“学ぶ”を継続してきた人は、報われている。

私自身、もともと運だけはいい。
そんな私でもイメージ通り行かなかった時が数年あった。

実力がなかったんでしょうね。

悪い時に、なにをするかでその後大きく変わる。
“学ぶ”を継続し、一歩一歩前に進んでいると時間が自信に変えてくれる。

可能性ありながら、“学ぶ”ことをせず、
勝手に自分自身で能力の過信、また努力なしで虚勢張ってる人見てると、
その後どうなるかある程度わかるたげに哀しくなる。

キイストン関係者、私のまわりにはそうなってもらいたくない。
しかし、黄色信号の人材はいるかも・・・(笑)
でもご安心、自らが気づけばまだ遅くない。

今から1年1年、なんでもいい“学ぶ”を継続し苦手を克服すれば大丈夫。
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2013年7月23日火曜日

株式会社アティックプラニング 代表取締役社長 五味 啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アティックプラニング 代表取締役社長 五味 啓氏登場。
本文より~

選択肢を広げる選択。

父は、東大から国鉄に入社した国家公務員。母は山梨出身で、母の父、つまり祖父は鉱山会社を経営する敏腕事業家。実家は武田信玄に兵糧米を納めていた由緒ある家柄で、地主だったそうである。
兄弟は3人。五味は長男である。
高校生になるまで父が転勤する度に、家族5人で引っ越した。茨城県出身だが、関西にも6~7年住んでいる。
あちこちに引っ越したが、どこにいっても成績は群を抜いていた。
「長男ということもあったと思う」と断りつつ、「とにかく期待も寄せられ、勉強も強いられた」という。習い事も多くさせられたが、そのなかでバイオリンは、本人の意思で長く習っていたそうだ。「勉強はできたが、スポーツは苦手」。そんな少年だったという。
「子どもの頃は、両親とも勉強しろと、ともかくうるさかった。ところが、大学に進学したとたん何も言わなくなるんです。父は良く『いい大学に入れ、そうすれば選択肢が広がる』とそんな風に言っていました」。子ども時代は、「ゲームやスポーツもやらず、テレビすら見ない生活だった」と語っている。
とはいえ、小・中は公立。ただの英才教育とは少しちがう。雑多な生徒たちのなかで、五味の人間教育も行われていた気がする。

いちばん最初に内定をもらった会社へ。

中学を卒業すると、早稲田の付属高校に進んだ。父母にとっては一つの既定路線だったかもしれない。ただし、五味本人は意外な事実を知ることになる。
「小・中まではスポーツはできないけど、頭はいいほうでした。ところが、高校に入るとぼくより頭のいい奴がいっぱいいるんです。でも、代わりにスポーツがぜんぜんできない(笑)。『アレ? オレってスポーツできるんだ!』って高校で初めて知ったんです。それで初めてスポーツ部に入りました。バスケット部です」。
当時は、高校から入学した生徒は、ストレートで早稲田大学に進学できるシステムだったそうだ。だから、早稲田大学への進学はもう間違いなし。自由な校風だったこともあって、文字通り青春を謳歌した。
その大学時代は、バイトもしたが、思い切り遊んだ4年間だったそうだ。ただ、4年経っても、これといった目標はなかった。卒業後、JTBに入社するのだが、それも「いちばん早く内定をもらったから」だそう。選択肢は多かったが、心が定まっていなかった。・・・・続き
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“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあの“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。
本文より~

「貧しさ」と「豊かさ」。

坂井は、戦時下、両親の故郷である、鹿児島県出水市で生まれている。3人兄弟の長男。3歳の頃に父を亡くし、母方の実家で幼年期を過ごす。出水市は鹿児島県の北西部にあり、熊本県は目の鼻の先だ
母一人で支える家計は、けっして楽ではない。「白米」の代わりに「ひえ」や「あわ」が食卓に上り、「さつまいも」は“つる”まで食べていたそうだ。弁当箱には、蒸した「さつまいも」が一つだけの時もあった。恥ずかしくて、弁当箱の蓋で隠しながら、食べた。
もっとも当時は日本全体が貧しく、坂井家だけが特別だったわけではない。自然に恵まれていたぶん、食べることには困らなかったほうだろう。
山には山菜があり、川には魚がたくさんいた。仕掛けをつくって、鳥を獲ったこともある。むろん、獲った魚や山菜は、食材になる。
畑からは「キュウリ」や「ナス」「トマト」を頂戴した。それを清流で洗い、採りたてを食す。
「ぼくはこういう自然のおいしさを口にして育ったんです」と坂井。「貧しさ」の反面、「豊かさ」にも包まれていた。
「運動神経は良かった」と坂井。「かけっこ」の大会に出ては、賞品を獲得した。ノートやエンピツ、それが兄弟たちの筆記用具になった。
母には「人に後ろ指を指されることだけはするな」と育てられた。もっとも坂井はこう言っている。「ちっちゃい頃はやんちゃだったから、けっこう母の言いつけに背いて、後ろ指を指されるようなこともしていましたよ(笑)」と。
こちらを笑わす気配りも忘れない人である。

コック服に憧れて。

「貧しかったけれど、ひもじい思いはしなかった」と坂井はいう。ただ、「まんぷく」という意味ではなかったのだろう。「料理人になれば、とにかくひもじい思いはしないで済むだろうと。これが、料理人をめざすきっかけの一つになった」とも言っている。
むろん、それだけではない。母からは「手に職をつけろ」と叩き込まれていた。料理にも興味があった。母の代わりに台所に立つことも少なくなかったから。中学生になると、早くも坂井家のシェフを務めていたそうだ。
「幸いなことですが、ぼくは手先が器用なんです。だから、料理もうまかった。つくるのも、たのしかったし」。たのしいと言っても、食材は限られている。台所に立って、家族を喜ばすために悪戦苦闘している、坂井のすがたが思い浮かんだ。
「ところで、何故、フランス料理だったんですか」と尋ねてみた。
「そりゃ、恰好よかったからですよ。コック帽をかぶってね。最初は、貨客船のコックに憧れていたんです。客船のコックになって世界を周ってやろうとね」。
「ぼくは恰好から入るほうだから」と坂井。料理人⇒フランス料理は、恰好いいコック服よって、つながっていたようだ。
坂井は、いったん高校にはいったが、1年の2学期で退学してしまう。家計を案じれば、勉強に費やす時間がもったいなかったし、はやく料理人になりたいとも思っていたからだ。
ちなみに、料理人以外にもう一つ目標があった。「宮大工」だそうだ。「料理人になってなかったら、宮大工になっていた」と坂井は当時の思いを語っている。・・・続き
フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
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2013年7月17日水曜日

本日発売の“美ST”に弊社の武田が取り上げられました。

本日7月17日(水)発売の“[美ST] 9月号”(光文社)に弊社の武田あかねが取り上げられました。
(7月17日(水)発売の“美ST”に掲載されてます)

(顔ツボ化粧品ホームページ / 広告)

(ソロモン流ホームページより)

こちらは、7月7日(日)放送の“ソロモン流”(テレビ東京系)にて、PRプロデューサーの殿村美樹(弊社の武田の姉)が出ました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/solomon/back/130707.html

恐るべし、武田姉妹!!

2013年7月16日火曜日

「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。
本文より~

「味噌屋」の息子の少年時代。

田所は、人口わずか1~2万人の小さな町、福島県白河市、通称「中通り」で産声を上げた。実家は、明治から続く「味噌」の製造店。兄妹は、4つ下に妹が1人いる。
「代々、続いていましたが、そんなに大きな味噌屋ではありません。父は、別に仕事を持っていたぐらいですから」と田所。
規模の大小はともかく、この味噌屋が田所を育てたことになる。むろん、朝餉には旨い味噌汁が出されたことだろう。
田所に少年時代を振り返ってもらった。
「そうですね。子どもの頃は、ぜんぜん勉強しませんでした。テストでは30点取ればいいほう。勉強に興味がなかったから、寿司職人になりたいと思っていたんです」。
勉強より、スポーツが得意な少年だった。
特に小学校から始めた野球では、メキメキ頭角を表し、キャッチャーで打順も3番など、主要なメンバーとしてプレイした。
「高校では、県でベスト4。チームはそれ止まりでしたが、私は、それなりに評価され、社会人野球からも誘っていただきました。いただいたんですが、私も高校生になるとバイクに熱中したりして。もう、野球はいいかなと思っていたんです」。


野球とバイクと好きな子を追いかけて。

野球は好きだったが、勉強はイマイチ好きになれない。バイクに熱中し、ろくに学校にも行かなかった。だから、卒業の段になっても、単位が足らなかった。社会人野球の話ももらったが、それどころでもなかったのが実情である。
「いい先生というか、まぁ、おかげで卒業できたんだけど、真冬の2月にプールですよ。25メートル泳いだら単位をくれるっていうんです。それで、海パンになって(笑)」。
25メートル無事、完泳。それで、無事に高校も卒業することができた。進路は、決めていた。「好きな子が東京に行くっていうから、とにかく私も東京へと」。・・・・続き
「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏
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株式会社スマイルリンクル 代表取締役社長 森口康志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社スマイルリンクル 代表取締役社長 森口康志氏登場。
本文より~

なんにでも興味があったんです。

「習字、算盤、英会話、スイミング、ソフトボール、そういえば合唱団にも入っていました」とスマイルリンクルの森口社長。「足が速くて、勉強もできたので、とにかく女の子にモテましたよ(笑)」と子どもの時代を振り返る。
子どもの頃の森口社長はなんにでも興味を持ち、試してみないと気が済まないタチ。かわりに「熱しやすく、醒めやすい」ほうだったという。
中学では野球部に所属。しかし、中学二年になると、つっぱった生徒たちのグループに入り、そちらに関心が移る。
「ヤンキーですよね。とにかく学校の内でも、外でもつっぱっていた。大人への反感と、憧れと言えば理屈っぽくなりますが、ともかくそういう年齢だったんです。タバコに、バイクに、喧嘩の日々。その時代はヤンキーがモテたっていうのもありますね(笑)」
悪友とツルみ始めたのは中学に入ってからだが、中学を卒業する頃には森口少年も立派なヤンキーになっていた。
とはいえ、このヤンキーは、周りの仲間と違いそこそこ勉強もできた。

25万円もするステレオに釣られて。

中学三年になっても、ヤンキー生活が忙しく、勉強もスポーツもそっちのけ。高校の進学が迫っても焦る気持ちはなかった。ところが、三者面談の際、無謀な高校名を挙げると、父親と教師が反応した。
「親父は、高校名を聞いてそうかと喜び、合格したら、当時25万円もしたステレオを買ってやると言い出したんです。とても欲しかったもんですから、ぼくもその気になって、勉強を開始したんです」もともと、頭はいい。やればできる。目の色が変わった。
すると、教師が手を差しのべてくれた。
「当時はまだ20代後半だったと思いますが、ちょっと変わった、でも、とても立派な先生でした。ソリコミ、パンチパーマの僕たちに向かってその先生は、『そんな格好をするおまえらの気持ちがわからん』といって、翌日から自分も剃り込み、パンチパーマにしてきたような人でした」
「そんな先生が、僕が突然、勉強を始めたのをみて、『一緒にやったろう』と。毎日、先生のボロアパートでつきっきりで教えてくださったんです。そのおかげで僕は、希望通り、三者面談で到底入れないと言われたランクの高校に合格。ステレオも手に入れるんですが、それもこれもその先生のおかげ。今も感謝の気持ちでいっぱいです」
「やればできる」そう気づかせてくれたのが、この時の先生だった。だからこそ今でも感謝している。・・・続き
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本日16日の『めざましテレビの“ココ調”』は阿波尾鶏様で収録でした。

本日16日の『めざましテレビの“ココ調”』にて阿波尾鶏様が登場されました。
この「六本木 阿波尾鶏」を経営されている本間社長の記事はコチラです。
(CANVAS様が経営されている阿波尾鶏にて)

(いつも化粧してない女性がかわいく変身すれば・・?)




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2013年7月10日水曜日

千葉商科大学のサービス創造学部・池田ゼミにて

昨日の7月9日(火)、千葉商科大学のサービス創造学部・池田ゼミにてオーグードゥジュール グループの岡部氏(オーナーギャルソン)に講義していただきました。
学生がなかなか接点の少ないフレンチレストラン。
そのなかでもミシュラン獲っておられる店含め8店舗されているので、学生も興味深々でした。
いつも謙虚でサービス精神旺盛な岡部さんありがとうございました。
また、池田先生この様な場を提供頂き感謝申し上げます。
(ゼミ講義にて)
(岡部さん)
(講義風景)
(池田先生と岡部オーナーギャルソン)     (ノリノリ?) 
余談ですが、その後インターンで勉強したいと学生から希望ありました。
皆がハッピーになればうれしいですね。

  
     
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