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2013年5月21日火曜日

クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にクオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏登場。


クオルス株式会社 高波利幸氏
本文より~
運動神経抜群。アスリートとして軌跡。
勉強も、スポーツもできた。小学生の頃は、「体育の先生になれる」とみんなが言っていた。先生は、子どもたちの憧れだったのだろう。勉強も、スポーツもできる高波なら、「先生になれる」。この一言も賛辞だったに違いない。
春夏は陸上、冬はスキー、夏はもちろん水泳に精を出した。
中学は受験し、見事、国立大学の附属中学に進学している。頭が良かった証拠だろう。中学・高校では、勉強よりスポーツに傾倒した。なかでも陸上部で、800メートルという距離を走り、県の強化選手として全国上位レベルの記録を残した。
「大きな大会になると結果を残せず、悔し涙を流せた純粋な青春時代でした(笑)」。
高校では、バイクにも夢中になった。400ccのバイクを駆り、無断で学校に通学したりもした。暴走族というのではない。レーサーを目標にライセンスを取った。「かっこいい」、そういう一つの尺度が高波を動かすようになる。

飲食店経営者をめざして。
偏差値でいえば、地元では上から3番目ぐらいの高校だった。だから、大学に進学する生徒も多くいたはずだ。だが、高波は大学進学という道を進まず、料理の世界に入るため専門学校の門を叩いた。「良く通っていた喫茶店のオーナーに刺激されて…」と高波。進んだのは東京にある「服部栄養専門学校」だ。「服部栄養専門学校」はわずか1年制だったが、この1年のなかで、ヨーロッパに研修に出かけたことが高波の人生を決定づけることになる。当時、本人はそのつもりではなかったかもしれないが、その後「イタリア」が間違いなく、高波の人生のテーマになるからだ。「フランス、スペイン、イタリア、どの料理も良かったんですが、私にはイタリアがいちばんよく似合うような気がしたんです」。専門学校卒業後、イタリアレストランに就職する。  続く・・・・。

クオルス株式会社 代表取締役社長 高波利幸氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

5/20放送のNHK“プロフェッショナル 仕事の流儀”に俺のイタリアンの坂本社長登場。

今、“俺のイタリアン”、“俺のフレンチ”を経営されいてる俺の株式会社の坂本社長(ブックオフ創業者)が登場されていた。



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(今や業界でも知らない人はいないほど破竹の勢いある俺の株式会社)




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是非、俺の求人もよろしくお願いします。


“俺のイタリアン”“俺のフレンチ”へ人材を紹介しています。


俺の求人イタリアン
俺のフレンチ
コチラまで→“俺のイタリアン”への応募、“俺のフレンチ”への応募


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2013年5月14日火曜日

株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏登場。



ハートリンクカンパニー 丸山鉄二氏
本文より~


日本マクドナルドへ。


日本マクドナルドが銀座に華々しくオープンしたのは、1971年のことだから、丸山12歳の時である。丸山が住む神戸に出店するのは、まだずいぶんあとの話である。
この「日本マクドナルド」に丸山は就職することになる。「ナイトクラブでアルバイトしていたわけでしょ。ハンバーガーなど食べたこともなかった。ジャンクというか、ね。それでも給料がいいことは知っていたし、実は単位が足らなくて卒業見込証明書が出なかったんです。そんな状況だったから、とにかく卒業見込証明書が無くても採用してくれる太っ腹な会社を選んだわけです(笑)。まぁ、それが縁といえば縁でした」。
以来、23年間、丸山は日本マクドナルドの発展に貢献することになる。
藤田田氏というカリスマ経営者にも惹かれた。
直接会ったことは、それほど多くないが、期待もかけられた。
丸山は2001年から、アメリカ駐在員現地責任者として、アメリカ法人の副社長を務めている。藤田田氏が社長だから、社長と副社長の関係になったこともあるわけだ。薫風もうけた。
「日本マクドナルド」が外食のトップ企業に登りつめていくなかで、丸山はその最前線でがむしゃらにはたらいた。
「神戸を皮切りに大阪・岡山・広島・四国・大阪と転勤の連続で、とどめにアメリカにも行き、帰国の地が東京でした。マクドナルドのおかげでずいぶん勉強させていただきました」。
「ハンバーガー大学」では講師として教壇に立ったりもした。
小さい頃は、まさか日本マクドナルドに就職するとは思っていなかっただろうし、逆に入社してからは、そう簡単に退職するとも思っていなかっただろう。
ところが、日本マクドナルドを卒業する日がきた。
「簡単に言うならば、日本マクドナルドも世界のマクドナルドのFCの一つなんです。むろん、藤田さんがオーナーです。日本マクドナルドが、他国のマクドナルドに比べかなり自由に仕事ができたのは、藤田さんと米国マクドナルドの創業者が親密な関係であったこともありますが、実は、藤田田という大きな器に守られていたからなんです。しかし、私がアメリカに赴任した頃から、日本マクドナルドの業績に少し蔭りがみえはじめます。業績も悪化し、藤田さんが退任され、社長が代わります。八木さんが一時社長をされていましたが、日本マクドナルドが大きく変わっていくのは、原田さんが来られてからです」。・・・・・・つづく


株式会社ハートリンクカンパニー 代表取締役社長 丸山鉄二氏


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2013年5月8日水曜日

“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“つけめんTETSU”の株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏登場。



YUNARI 小宮一哲氏


本文より~


プロ野球選手になりたかった頃の話。


7時には家族全員が食卓を囲む。これが小宮家の日課だった。大手鉄鋼会社に勤めていた父は、厳格で、時間にも融通がきかなかった。クルマで出かけるにしても、少しでも時間に遅れるとおいて行かれるようなこともあったそうだ。
小宮家は、父と母と小宮と、3歳離れた姉の4人家族。小宮が生まれてすぐ香川県に移り住み、小学校に上がるまでそちらで暮らしている。父は厳格だが、家族は毎日、食卓を囲むような和やかな一家だったに違いない。
父は大手企業に勤めていただけに転勤もあったが、旨い具合に小学校に上がると同時に西東京市に引っ越すことができた。そから18歳になるまで、西東京市は小宮のホームグラウンドになった。
当時の小宮の夢を聞いてみると「プロ野球選手」という答えが返ってきた。一方で、早稲田や慶應のラグビー部のジャージに憧れ、中学受験に果敢に挑戦している。


高校進学、登校したのは3日のみ。


ラグビーをやりたかったが、中学受験に失敗し、進んだ公立中学にはラグビー部がなかったため、基礎体力を付けようと水泳部に入る。学力は優秀で学年では10番以内をキープしている。
しかし、徐々に勉強より、スポーツより、みんなでツルむことが楽しくなった。小学校の頃から優秀な成績はおさめたが、ケンカもめっぽう強かった。中学でも、ケンカは負け知らず。いつのまにか、花形選手のような存在になっていた。中3で、バイクを買うためにアルバイトを開始。母にはバレていたが、バイクを乗り回したりもした。
勉強はしていなかったが、学力には自信があったからだろう。
高校受験では、リベンジとばかりに早稲田、慶應を受けたが、それほど甘くなかった。それでも偏差値60以上のある私立高校に合格し、そちらに進んだが、登校したのは合計3日。夏には、退学届を提出した。
はちゃめちゃな行動と言えなくもないが、小宮にすれば行ってみてはじめて、高校に進んだことが意味のないことのように思えたのだろう。周りの生徒たちとも、馬が合わなかった。「中途半端に賢い奴ばっかりだった」と振り返っている。
学校を離れれば、自由の身である。それは自由であると同時に自律を余儀なくされることである。さて、小宮はこれからどんな人生を歩んでいくのだろうか。・・・。


株式会社YUNARI 代表取締役社長 小宮一哲氏


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2013年4月30日火曜日

株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏登場。



竹若 竹若 勝氏
本文より~


カーディーラーに就職。敏腕営業マンになる。


竹若の結婚は早い。大学時代から付き合い始めた奥さまと23歳で結婚。子どもも授かっている。そうなると、就職も生活の手段である。
紹介で、トヨタカローラ福岡に就職。東京はいったん棚上げとなった。
この会社での敏腕ぶりが、「凄い」の一言。「当初は、先輩といっしょに喫茶店でサボっているような奴でしたが、ある事故をきっかけに心を入れ替えました」。小さな事故ではなかった。心を入れ替えるだけで許されるものでもないとわかっていた。
ただ、「その人の分まで頑張らなあかん」といわれた。その言葉にすがるしかなかった。一方で人と人のつながりを重視するようになった。本人いわく「持ち前の要領の良さ」もあったが、誰もが竹若をサポートし、契約がどんどん取れるようになった。
新人賞をはじめ、数々のセールス記録も打ち立てた。数字をみればあきらかだが、当時月4台販売すればいいと言われていた。竹若は、そのなかで年間600台販売している。月で割れば50台という結果となる。
「もちろん、月によって違いますが、平均50台。割と有名にもなって、新人教育の講師も頼まれました。会社のなかでは昇格もはやく、昇格しても、今度は任された課がトップクラスの売上を記録していくんです」。
売上の秘密は周りの助けだった。竹若のためには、誰もが何かとしてあげたくなるようだ。・・・。


株式会社竹若 代表取締役 竹若 勝氏


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2013年4月23日火曜日

株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏登場。



横瀬武夫社長
本文より~


23歳のギブアップ。


「望んでいたわけではないが、ぼくはこれでよかったと思っている」、父はそういって息子の横瀬に店を閉めるよう促した。
「あれは、店をはじめて3年目のことです。私は、16歳から飲食の世界に入りました。父の店を2年、手伝いました。親子ということもあったし、私もまだ若かったから衝突もあって、何度か店を飛び出しました。18、19歳の2年間は親許を離れ、東京の焼鳥店で働いていました。20歳の時に名古屋に戻り、店をだしてもらいます。それが『鉄板焼き居酒屋 SHINOJIMA』です」。
最初の2年間は快調だった。
「オープン初月からお客様がつき、2年目になると電気代もガス代も、家賃も、材料費も、スタッフの給与も含め必要な経費をぜんぶ払っても100万円、残るんです」。
手元に残ったお金を数え、有頂天になった。
20代前半といっても経験は豊富。自信もある。人柄もいい。客にも従業員にも慕われていた。だが、経営はザル。原価30%だけがインプットされていた数字だった。そんな経営者にはきまって落とし穴があいている。
「3年目に入ってからです。いろんな人に誘われて、ゴルフはもちろん、外車も買って。夜な夜な遊びに繰り出します。そうなるともう店はダメですよね。私一人が、好き勝手な方向に突っ走って、振り返ってみたらもう誰もいませんでした」。
横瀬を慕っていたスタッフもいなくなった。常連客の足も遠のいた。代わりに店には、連日、閑古鳥が鳴いた。
父が訪れてきたのは、そんな時だった。
「あの時、兄にも大学に行かせるのに1000万円使った。だから、もういい。もういいから、ギブアップしなさいと言われたんです。ほんとうは私にも兄とおなじように大学に進んでほしかったんです。だけど、私は勝手に、この道を選択しました。それなのに、私の生き方も肯定してくれている父でした。だから、あの一言はよけいに心に響きました」。
人生最初の挫折。
まだ若い。まだ23歳。だから再起は図れる。いうのは簡単だが、当事者になればどうだろう。結婚も控えていたから、尚更、暗澹とした気持ちになったのではないか。
23歳、横瀬はギブアップし、天を仰いだ。・・・。


株式会社やぶやグループ 代表取締役社長 横瀬武夫氏


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今日のフジテレビ『めざましテレビの“ココ調”』は「オヤジ女子」。

今日4月23日(火)のフジテレビ『めざましテレビの“ココ調”は、「オヤジ女子を検証した内容でした。

そう思えば確かに増えたかも・・・。キイストンも仕事の姿勢に関しては男性よりよっぽど男らしい(笑) 


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(取材協力店舗:大井町ひもの屋) 

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2013年4月9日火曜日

有限会社鶏冠菜 代表取締役社長 池田健一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社鶏冠菜 代表取締役社長 池田健一氏登場。



池田健一氏
本文より~


住職か、商売人か。


熊本県八代市で生まれる。だが、八代市の記憶はあまりない。物心がつく前に横浜に引っ越しているからだ。
それでも、強烈な印象はある。八代市に住んでいた祖父のことである。「祖父は住職だったんです。小学校に上がってからも、母に連れられ何度か祖父のところに行きましたから、より印象が強いのかもしれません」。
「どんな総祖父かって? まちがいなく、こわい祖父でした(笑)」。ただし、こわくても、それがあたりまえだと思っていた。祖父とは、そういうもんだと思い込んでいたからである。
「いつか祖父の跡をついで住職になる」、そういう風にも思っていたらしい。当時、祖父から言われたことがある。小学校に上がるか上がらないかぐらいの時。
孫に向かって祖父は、言葉の意味を考えろと前置きし、こう言った。
「自我をなくせば、宇宙は自我になる」。
意味がわかるはずもない、この禅問答のような言葉に少年は耳も、心も傾けた。そして、必死に考えた。むろん、いまだ、その意味することはわからない。それでも「考えること」を少年に植え付けたのは、この一言だったに違いない。
そのことがあったからか、思考にふけることも多く、とにかく「かわった少年」だったそうだ。「教室でも1人でボンヤリ窓の外を観てものを考えているような少年でした。生死観といえばオーバーですが、祖父の影響もあって、そういうことを考えていました」。
ただし、ただの哲学少年ではなかったようだ。
住職になる。その一方で、商売にも興味を持っていた。親戚が全員商売をしていた。その影響もあった。早く仕事をして、金を稼ぎたいとも思っていた。のちに池田は親戚のなかで唯一のサラリーマン経験者となるのだが、これはもう少し先の話である。ともかく住職か、商売人か。この二者択一のなかで、池田は思考は膨らんでいく。・・・。


有限会社鶏冠菜 代表取締役社長 池田健一氏


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2013年4月3日水曜日

『ピンチをチャンスに変える考え方 from 飲食の戦士たち』4月4日発売開始。  

電子書籍第5弾“飲食の戦士たちシリーズ”『ピンチをチャンスに変える考え方 from 飲食の戦士たち』が4月4日、Amazon Kindle版+iBook版が同時発売します。※iBook版は2~3日後発売になるかもしれません。


今回は、3.11の東日本大震災から3年目になりますが、被災地と関係ある企業の経営者7社(8人)の生き様をお伝えします。


あわせて、飲食業界を代表して10社の経営者からメッセージも入れています。


尚、今回の電子書籍の収益金は寄付させてもらいます。


是非ともご覧ください。



第5弾 表紙0402


第5弾 扉 (3)


① カフェ・カンパニー株式会社 代表取締役社長 楠本修二郎氏


② 株式会社ドリームリンク 代表取締役社長 村上雅彦氏


③ 株式会社ねぎしフードサービス 代表取締役 根岸榮治氏


④ 株式会社幸楽苑 代表取締役社長 新井田 傳(ニイダ ツタエ)氏


⑤ 株式会社麺食 代表取締役会長 中原 明氏& 代表取締役社長 中原 誠氏


⑥ 株式会社ヨンナナプランニング  代表取締役社長 鈴木賢治氏


⑦ 築地海宝館グループ 株式会社山銀 代表取締役会長 山田孝之氏


プラス応援メッセージ


■ダイキチシステム株式会社 代表取締役社長 牟田 稔氏


■有限会社ジョカーレ・ヴィゴーレ 代表取締役 森川秀一氏


■株式会社ファンゴー 代表取締役社長 関 俊一郎氏


■ナッティジャパン株式会社 代表取締役社長 金杉裕正氏


■株式会社ビート・インターナショナル 代表取締役 渡邊剛志氏


■ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 池田 健司氏


■株式会社 飄香 代表取締役   井桁 良樹氏


■株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元 巳智雄(アキモトミチオ)氏


■株式会社subLime 代表取締役 花光雅丸氏


■株式会社紅花 代表取締役社長 青木四郎氏


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2013年4月2日火曜日

株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元巳智雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元巳智雄氏登場。



秋元社長
本文より~


サッカー少年は青年になり、「飲食」は天職だと思う。


いまでも秋元は、走る、走る。フルマラソンにも、トライアスロンにも挑戦している。だから、食べても太らない。飲んだあとに平気で、ラーメンも食べるそうだ。
改めて走りだしたのは、同業の経営者たちに誘われたこともあるのだが、もともと「スポーツが好き」という下地があったからだろう。
小・中時代にはサッカーをやり、いつもピッチでボールを追いかけていた。
代わりに勉強はあまりしなかった。中学卒業後、日大一高に進むのだが「勉強したのは、受験前の3ヵ月だけ」と言っている。
高校に入るとサッカーより、バイクや車が好きになった。大学は、浦安にある「明海大学」に進んだ。大学時代には、すでに数百万円もする車に乗り、実家のある草加市から浦安まで、毎日、車をかっ飛ばしたという。
「バイト先が銀座だったんです。だから、家と銀座と大学を車で行ったり、来たり。そうですね。大学より、バイトに行く回数のほうが多かったのは事実です(笑)」。
小さい頃から「飲食」というのが頭にあった。農業を営む、父母をみて育ったからだろう。サントリーとUCC出資の「プロント(1号店)」と出会うことで、その思いが具体化する。
愛想が良いと親からも言われていた少年が、「プロント」で大人たちの手本ともなる接客を行うようになる。
ところで、当時の「プロント」には、サントリーやUCCから有能な社員たちが集まり、フランチャイズビジネスの「仕組み」作りに奔走していた。
彼らの考えや行動は、秋元に何らかの影響を与えたはずだ。
ちなみに、アルバイトのスウィングマネージャーという肩書を持ったのは、「プロント」では秋元が最初。時給は、20年以上前の話にもかかわらず1300円、これにマネージャー手当1500円も支給されていたそうだ。
学生時代にホンダの「インスパイア」「レジェンド」といった高級車を購入できたのも頷ける。
秋元は、ますます「飲食を天職」だとも思うようになり、独立開業を志すようになる。・・・・。


株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 秋元巳智雄氏


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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



2013年4月1日月曜日

4月、今期はいろんなことに挑戦します。

おかげさまで、前期(2013.3月期)は予定通りの形で終えました。


業務面でも電子書籍を出すことができたり、海外ルートできたり、大学での講義・講演できたり、インターンシップの仕組みもできたし、まあ点数でいうと90点くらいですかね・・・。


しかし、今期はより形を強固なものにしていきもっと新たなことにも挑戦していきます。


キイストンは飲食店ではありませんので、飲食の経営うんぬんはコンサルでもありませんし専門分野ではありません。


しかし、人材採用ビジネスは20年以上やっていますので、“人を採る”を軸に飲食企業様に役立つサービスを実施していきます。


オーストラリア・シドニーに事務所を開設し、カナダ・トロントにも進出したい。


また、in-職hyperのリニューアルもほぼ完成したので新パッケージを作り上げたい。


大学にて、飲食経営者による講義も学校数をあと5校増やし年間で20名はやってもらえるようにしたい。


“飲食の戦士たちシリーズ”とは違うキイストンの書籍を今期中に2冊は出したい。


また、発展的な企業提携なら増やし、今までに無かったサービスを実施していきます。


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戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン



4月、『飲食の戦士たちシリーズ』第5弾出ます!!

★『有名企業に学ぶサービスの教科書 from 飲食の戦士たち』



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★『こんな社長の元で働きたい!元アスリート経営者に学ぶ仕事の極意
from飲食の戦士たち』



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★『スゴい人の法則!志さえあれば独立できる from 飲食の戦士たち』



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★『プロフェッショナルたちの仕事(じんせい)論~from 飲食の戦士たち~』



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2013年3月27日水曜日

株式会社アルカサバ 代表取締役 貞方邦介氏登場。

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貞方郁介氏


本文より~


福岡県久留米市にて。


福岡県久留米市といえば、ゴム工業が有名だ。タイヤの世界的なメーカーである「ブリジストン」も久留米市で創業している。この久留米市に貞方氏が誕生したのは、1967年のこと。久留米市はまだまだ田舎町で、貞方氏ももっぱら野原を駆けて遊ぶ少年だった。
父は長崎出身のサラリーマン、母は鳥取県出身。貞方氏は一人っ子で大事に育てられた。スイミングスクールに通っていたからだろうか。からだは丈夫で、病気らしい病気はいまだしたことがない。学校では人気者で、小学時代はリーダー的なタイプだった。それだけ聞けば、いまのリーダー像と重なるが、小学、中学、高校と「やすき」に流れていったこともある。
ところで、冒頭のスーパーカーの話は小学生時代に登場する。中学は、地元の学校に通いつつ、いつかはフェラーリに乗ると誓う。


悪ぶるのも、ファッションだった。


「遊ぶこと、反抗すること、それ自体がファッションだった」と貞方氏は高校時代を振り返る。バンドブームに乗り、エレキギターやバイクにハマり、学校にもバイクで通学した。学食で食べるなんて格好悪いとうそぶいて、学校を脱走したこともある。
お金が欲しくて、バイトを開始するのだが、バイト先選びの基準がいかにも貞方氏らしい。この時、貞方氏は大手のハンバーガーチェーンと地元のチェーンで悩むのだが、マニュアルに沿って教育されるのが大手のほう。「いまなら、間違いなくそちらに行くが」と断りつつ、当時は、「そういう発想がまったくなかった」と言って笑う。たぶん、マニュアルを必死で覚える姿を想像して格好悪いと思っていたのだろう。こういうのが当時の貞方氏の生き様だった。しかし、不格好な生き様ではない気がする。この当時から、しっかり物事を分析しているようにも思えるからだ。・・・。


株式会社アルカサバ 代表取締役 貞方邦介氏


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2013年3月20日水曜日

『武田あかねの食の応援団』今月のゲストは“グリーンロード 高原 良午氏”です。

『武田あかねの食の応援団』今月のゲストは便利で使い勝手のいい花屋。ロスをなくして適正価格の花を提供されている“株式会社 グリーンロード 代表取締役の高原 良午氏”です。


高原さん&武田


武田

お花をはじめたきっかけは?




高原社長

たまたま何かの拍子で花を買いに行ったんですよ。

とある町の小さな花屋さんだったんですけど、そのとき、花屋のご主人から、「何にしますか?」と言われまして。

何を買っていいのか分からないから来ているのに、こういうんだったら、業界のレベルが低いんじゃないか、と思ったんです。ここの業界レベルだったら、自分でも通じるんじゃないか、と考えたのが一つ。もう一つは、男性でも買いやすい花屋をつくりたい、という志もありましたね。

今でもうちに買いに来てくれるお客様は、男性が多いですよ。

武田

だって、お花は男性が女性にあげることが多いですものね。


高原社長

そうなんですよ。トータルでもみれば女性の方が多いですけど。お花が好きなのは圧倒的に女性ですから。



続きはサイトで・・・・。 コチラ


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株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏登場。

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フードゲート 内山
本文より~


100人規模の大ゲンカ。


成績は悪いほうではなかった。だが、中学2年生頃から悪友とも付き合い始めた。ケンカもした。正義感が強く、不遜な言動が許せなかったからだ。
「当時は暴走族とかが全盛期だったんです。だから、集団というのがあって、ある時などへんな噂が流れて100人規模のケンカに発展したことがあります。私は一方の首謀者とみられていました」。
素行もけっして良くはなかったが、それでも県内で言えば、真ん中よりやや上の高校に進んだ。だが、進学しても校内に内山の姿はあまりなかった。


みんなの下へ1人自転車で向かった。「京都へ」。


中学1年で剣道部は辞めたが、道場には高校1年まで通いつづけた。ところが、夏に首を脱臼し、こちらも辞めてしまう。これで、目標らしきものがなくなった。
「麻雀、パチンコが日課だった」と内山は当時をふりかえる。中学時代は素行が問題視され、修学旅行にも連れて行ってもらえなかったそうだ。この時、内山らしいエピソードを残している。
「修学旅行は京都だったんです。私は連れて行ってもらえないというんで、家出のようにして、ふらっと家を飛び出しました。修学旅行の1週間前です」。
目的地は京都。1人自転車を漕いで京都に向かった。先乗りしてやろうという魂胆である。
「途中でトラックの運転手さんに拾われたりして、無事、京都に到着。子どもだからできたんでしょうね。自転車1人旅です。でも、帰りは父に連絡して、新幹線で帰っちゃうんですが(笑)」。この出来事、一つを取り上げて「行動派」というのは先走り過ぎかもしれないが、ともかくエネルギー旺盛な少年だったことはたしかである。・・・・。


株式会社フードゲート 代表取締役社長 内山九十九氏


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2013年3月12日火曜日

株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “喜多方ラーメン板内”の株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏登場。



麺食 中原社長
本文より~


父と、自立と。


さまざまな商売をやった。中原ではなく、父であり会長である中原 明氏のことである。もともと北海道の酪農家の息子に生まれた明氏は大学進学で上京したものの、すぐに大学を中退。それ以降、ハンドバックや窓ガラスのサッシを販売するなどをして生計を立てた。結婚は早くて、長男の中原が生まれたのも、父、明氏がまだ21歳の頃のことである。
起業家精神旺盛な明氏は「信州そば中原」などを開業するが、なかなかうまくいかない。結婚したばかりの妻を店に残し、何度も修行に出かけた。その結果、料理職人として腕をあげていく。その一方で、一時期、会社組織に入り、フランチャイズ展開を任されるなどして経営ノウハウも吸収していくことになる。JR関連の子会社の役員に名を連ねたこともあった。のちに福島の名店「坂内食堂」に教えを請うため単身乗り込み、「喜多方ラーメン」を全国区にしたことは有名だ。
ただ、仕事に熱中すればするほど家庭を顧みる時間は少なくなる。「特に、会社を立ち上げる前後数年は家にもなかなか帰ってこなかった」と中原も語っている。たまに帰ってくると、「子どもにスグに雷を落とす怖い父」だったそうだ。
そういう環境のなかにあって、中原は小さな頃から自立しようと何度も己を奮い立たせていた。「父に反抗しているわけじゃないんですが、父にぜんぶ頭を押さえられているような気がしていたんです。でも、食べさせてもらっている以上、文句も言えません。だから、早く自立したかったんです」。
小学6年生の卒業文集では「将来、店をやる」と宣言したし、中学卒業時には「就職する」と先生に言い切った。稼いで家を出る、それが狙いだった。
そんな当時の中原には、父の会社を引き継ぐなど思いもよらない選択だった。


剣道一直線だった生真面目な少年が一転…。


ところで小学生から成績は優秀で中学校の入学式では、新入生の挨拶も任された。剣道の道場にも毎日通う、文武両道の少年だった。今でも付き合いがあり、「合宿の時には米を差し入れる」という関係の、この時の道場主は、中原にとってある意味、父親代わりだったそうだ。
「週6日は通いました。学校が終わればスグ道場に向かいます。けっこう強くなって、警察の道場で練習したり、大学の練習に参加させてもらったりしていました。でも、ある時、このまま剣道をつづけていっても警官か、消防士か、そういう将来しかないと思うようになって。それで中学3年の時にあっさり辞めてしまうんです」。
高校は県内でも指折りの進学校に進んだ。しかし、高校進学は、中原にとって気乗りがしない選択だった。すでに書いた通り、中学の先生には「就職する」と一度は言い切った中原である。
「できるならそうしたかった。でも、まだ子どもです。巧く丸め込まれたというか、結局、長い物に巻かれてしまったというか。そういうジブンもイヤで」。
中学に「志」を置いてきてしまった。そんな思いだったのだろうか。高校生になると勉強をする気もうせた。悶々とする日々がつづく。だが、けっして高校時代が楽しくなかったわけではない。
「私服が許された、自由な校風だったんです。朝、出席簿を付けるためだけに登校して、スグにふけるんです。パチンコに行って、そのままアルバイトです。イベント関連のバイトで1回、1万円ぐらいもらえましたから、パチンコの分と合わせると結構な額になりました」。
流されるままの生活。「楽しくない」ことはなかったが、「むなしさ」をかみしめるような日々だったのも事実である。・・・・・。


株式会社麺食 代表取締役社長 中原 誠氏


 


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メディアPR事業部発足から1年。

昨年、キイストン内にメディアPR事業部を発足。
主に“飲食の戦士たち”の社長取材とマスメディアとの情報交換を主に活動してます。

そこに抜擢したKを専任させましたが、それが各社とのパイプを太くしてくれました。

また、電子書籍もシリーズ化できました。

ありがたいことです。



2013年3月5日火曜日

“くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に “くら寿司”の株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏登場。


 
くらコーポレーション 田中邦彦氏


本文より~


幼少期。


田中は、1951年、岡山県の中南部にある総社市に生まれる。総社市は、倉敷市に隣接する山に囲まれた盆地だそうだ。戦後復員した父親が市内で八百屋を開き、生計を立てていた。当時の八百屋はいまでいうよろず屋のようで、商品は野菜だけではなかった。「仏前に供えるしきびが良く売れた」と田中は回顧する。
父親といっしょにオート三輪で、その「しきび」を採りに山に向かうことも少なくなかった。水冷のラジエーターがすぐにいかれ、その度に田中が水をもらいに走った。
記憶のなかにある父は、厳しく、何より怖い存在だった。そんな父から気づきの大事さを教わっている。
「ヒトが気づかないことに気づくこと」で差別化が生まれる。とりわけビジネスの世界では気づきは重要だ。「くら寿司」は業界他社に先駆け、さまざまなしくみを導入していくが、これもまた田中の気づきから生まれた発想に違いない。父は怖い存在だったが、大事な教師だったとも言える。
オート三輪に乗って父とともに観た風景も、田中の記憶に彩を与えている。小高い丘から市内を流れる高梁川を観るのが好きだった。地を這うように蛇行した川は、少年の目に自然の壮大さを映しだしたはずだ。


9×9ができない少年。


田中には2人の母がいる。産みの母と育ての母だ。1歳の時に、産みの母の下から絡みとられるようにして父に連れ去られた。不思議なことにその時の情景を覚えている。オート三輪からいつもと違う高梁川が観えたという。父親と産みの母親は田中が5歳の時に正式に離婚。3つ上の姉は、祖父の家で暮らすようになったが田中は育ての母の下で育っていく。
育ての母は父に負けず厳しかったが、少年から活発さを奪うような人ではなかった。山に川に、野球にチャンバラ。田中少年は、町中を所狭しと走り回った。「代わりに勉強はぜんぜんしなかった」と笑う。
当時のおもしろいエピソードがある。
「私が小学5年生の時です。授業参観が終わって、先生が『うちのクラスには小学5年生になっても9×9がいえない子どももいる』といったそうなんです。帰ってきた母が、『9×9が言えない子がいるんだってね、先生がそういっていたよ』と笑うんです。まさか自分の息子だとは思わなかったんでしょうね」。
会話のつづきはお察しの通りである。
気まぐれに「9×9を言ってごらん」と問うた母も、問われた息子も、次の瞬間には絶句したというのである。
勉強ができなかったわけではない。9×9を覚えると算数が好きになって6年生時には姉の教科書をひっぱりだしてきて、中学2年の数学まで理解できるようになっている。
とはいえ、むろん勉強漬けではない。多感な少年時代を机に向って過ごすことを強要するいまの父母たちに、田中の子ども時代の話は、どう映るのだろうか。
「私は、面接でね。キミ、昔カブト虫を採ったことがあるかい? と聞くんです。私にとっては、そういうのが原風景。そういう原風景といえる少年時代を過ごすことが大事だと思っているんです。少年時代は少年らしく生きる。大人になって振り返っても、楽しくなるような、そういう時代を過ごしていることで人は強くなれると思うんです」。
田中はそういう風に、言っている。・・・・・・。


株式会社くらコーポレーション 代表取締役社長 田中邦彦氏


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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



2013年2月27日水曜日

リクルートもパクる時代か・・・・。

“飲食の戦士たち”も皆さまのご協力&ご支援もあり、2013年2月末現在で第350回となりました。


心より感謝申し上げます。


企画を考えるのは簡単、しかし継続していくのは大変なことです。


やる以上信念が無いとこれだけ続きません。


今日、たまたまお客様調べてたら、なんと“飲食の社長たち”というサイトを発見。


調べてみるとホットペッパー? つまりリクルート・・・。


社長様のプロフィールも“飲食の戦士たち”そのままパクっています。


しかも途中で挫折してるし・・・(笑)


相手方がいらっしゃるので、そんなに簡単に社長取材って出来ません。今までキイストンのスタッフが、どれだけ多くのアポイント取ったことか・・・・・。


以前、エン・ジャパンの求人内容をそのままパクり、大問題になったし、これから上場控えているのに酷いもんです。


私も元リクルートだが、情けない!!


ただ、いいように考えると真似されるだけ認められている証拠かな。


創業者の江副さんがいらっしゃったら、たとえこんなことでも情けなく思っておられるだろうな。


 「検索」すると、タイトルも真似、検索結果も真似、社長プロフィールの真似、中にはそのままコピーされています。


一例).


キイストンの“飲食の戦士たち” http://in-shoku.info/foodfighters/vol53.html



リクルートホットペッパーの“飲食の社長たち”
http://interview.hotpepper.jp/2012/01/post-4046.html


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