2016年11月29日火曜日

株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏登場。
本文より~

小松庵。

3代目である。「祖父が小松庵を創業したのは、大正11年です。祖父から、父へ。そして、私で3代目です。ただ、3人とも性格が違うし、方向も違います。小松庵のDNAは、たしかに継承してきましたが、表現はバラバラです」。
 職人堅気の祖父は、店舗展開に消極的だったが、父親はむしろ出店を積極的に行った。「ある意味、祖父に対するアンチテーゼだったかもしれません」。
蕎麦職人から、経営者へ。2代目の挑戦である。
1992年には、池袋メトロポリタンに出店。1994年には、恵比寿ガーデンプレイスへ。1996年には、新宿高島屋へ出店。2000年になってからも5店舗出店するなど店舗展開を図っている。
一方、孫である3代目小松氏は、先祖返りの部分もなくはない。「私自身、職人ではありませんが、『職人』の考えかたや、在りようにはつよくこだわっています」。
職人の仕事は、「文化をつくる仕事でもある」と考えているからだ。次の言葉からも、小松氏の考えが透けてみえる。
「蕎麦屋は、蕎麦をだしていればそれでいいのか。そんなことを考えているわけですから、やっぱり私も、先代たちとはちょっと違いますね(笑)」。
小松氏が生まれたのは、1953年である。生まれは、駒込。すでに、祖父は「小松庵」を創業されている。「祖父の時代は、とりわけ同族経営の時代です。母は、新潟から嫁いできましたが、祖父にすれば働き手が1人増えたくらいにしか思ってなかったんじゃないでしょうか」。
従業員ならまだしも、家族だから余計始末に悪い。「年間365日いっしょです。逃げられない。家族旅行っていっても、社員旅行でしょ。しかも、社員といっても親戚ばかり。母は、長男の嫁ですから、親戚からも冷たい目を向けられていました」。
創業者である祖父に反発できる者はだれもいない。孫の小松氏にとっても、怖い人だった。小松氏も、小学校に上がる頃には、母同様、働き手の1人となった。
「勉強していたら、祖父に殴られるんです。『頭が良くなったら、蕎麦屋をつがなくなる』というのが祖父の言い分。たしかに、あの時は蕎麦屋になんかなるものか、と思っていました」。祖父は、そんな小松氏の気持ち察し、はがゆい思いをしていたのかもしれない。
「ある日、母が『いっしょに逃げよ』といいました。でも、私たちは、逃げ出さなかった。どこかで、小松庵という店に惹かれていたんだと思います」。
祖父が亡くなり、父が2代目になってからも、母は店のために良く働いた。それをつぶさにみていたのは、小松氏ら子どもたちだけではなかった。「私が、銀行関係の方とお話しするようになった時に言われました。『あなたのお母さんは、ほんとうに良く働く人だ。小松庵を支えてきたのは、間違いなくお母さんだ』ってね」。
ちなみに小松氏母は、今もお店に出られることがあるそうだ。
時代は、大正から昭和、平成と移っている。新潟から嫁いできた母がみた当時と比べ、「駒込」の風景はもちろん、「小松庵」もまた、まったく違う姿をしているはずだ。

蕎麦屋の3代目の挑戦。

大学時代まで、ぱっとしなかった。外交的でもない。女子とわいわい騒ぐということもできないタイプだった。「大学で初めて、生涯の友ができた。それが、今の妻です(笑)」。
小松氏は、青山学院に進学。青学で始めたオーケストラで知り合ったそうだ。「それまで、何か楽器をしていたかというと、ぜんぜんそんなことはなかったんですが、突然、やろうと思ったんですよね。なぜか」。踏み込んだ先に、奥様がいた。音楽にもむろん惹かれた。文化への傾倒も、この頃に始まったのかもしれない。
「怠け者だが、凝り性」と小松氏は自己分析する。怠け者のほうはともかく、凝りだしたらとまらない。余談だが、30歳から始めたテニスでは、コーチを務めるまでになっている。その頃には、だれかれともなく言葉を交わす外交的な性格になっている。これも、たぶん奥様のおかげである。
小松氏は、1977年、同大学の理工学部、物理科を卒業している。大学出身の飲食経営者は少なくないが、理系というのはめずらしい。「ものごとを論理的に考える癖がついてしまっている」と笑う。だから、知り合った頃には、偏屈な奴と思われる時もあるそうだが、交流が深まれば、たいていの人は小松氏に好意を持つ。「経営者の多くは、現象を観る。私が観るのは、原理です」。
心ある人は、小松氏の言葉にいつか耳を傾けるようになる。ある会合に参加した時もそうだった。最初は、言葉がまるでかみ合わなかった。ただ、「2年で本質的な議論ができるようになった」と小松氏はいう。
「旨ければいい」。それでは「旨い」という現象にしか、目が向いていない。店は、存続しなければならないし、儲からなければならない。そうしなければ、文化を継承する職人も、生まれない。
「蕎麦屋は、少なくなっているんです。『それは、なぜか』を根本から考えないといけない。つまり、減少という事象のみに目を向けるのではなく、原理から考えないといけない。労働環境もそうでしょう。でも、それだけではない。文化や、時代背景など、実は、社会の体制にまで手を突っ込んでいかなければ、解決できない問題なんです」。
むろん、蕎麦屋が自らできることは限られている。だからといって、放っておくことはできない。3年前リニューアルした「総本家 小松庵 駒込本店」は、小松氏のひとつの挑戦だ。
ネットなどで確認いただきたいが、蕎麦屋という外観ではない。小松氏自ら「蕎麦屋っぽくないようにした」と豪語する。外観は、高級レストランに近い佇まいである。「つくりたかったのは、非日常」。けっして安くはない。ランチでも3500円。それでも、客は溢れる。
「蕎麦っていうのは、旨いだけでは経営が難しいです。旨いのはもちろんですが、それだけではだめってことです。安ければいい、でもない」。では、どうすればいいのか。その答え探しのために、小松氏は、新たな挑戦を開始したに違いない。


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株式会社小松庵 総本家 代表取締役社長 小松孝至氏
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2016年11月25日金曜日

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。

11月24日、青山学院大学堀内ゼミにて楽観の伊東良平社長の講義でした。
20代前半時にピースボート内の調理スタッフとして世界一周旅行の経験が今の伊東良平社長を形成されてるようです。
これからの海外展開がとても楽しみです。
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株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。
本文より~

石原家の話。

蕎麦屋といえば、古風な造りが頭に浮かぶが、蕎麦「石はら」は和モダンなイメージで、なかでも3店あるうちの1店舗でもある学芸大学店は、「蕎麦カフェ」といった趣だ。旨い蕎麦はもちろんだが、蕎麦前と言われる「だしまき玉子」や「蕎麦がき」などのつまみも、これまた旨い。
つまみで一杯やりながら、蕎麦で〆る。これが、江戸っ子の流儀なのだ。
さて、今回、ご登場いただくのは、その粋な蕎麦「石はら」の店主であり、株式会社石はらの代表でもある石原誠二氏である。
石原氏は1966年、東京都世田谷区で生まれる。
「兄が生まれ、1歳違いで、私が生まれました。お金がなかったから、2人も育てられないと、私は一時、捨てられる運命にあったそうです(笑)」。
むろん、そんな親の事情を知っていたわけではないが、「父親がオレをみる目が、兄を見る時とは違う」と思っていたそうだ。望まれなかったわけではないが、石原家に、それだけの余裕がなかった頃の話である。
「事実を知ったのは、ずいぶん大人になってからです。知ったからといって、何かがかわるわけもなかったですが、なんとなく、それまでのことが腑に落ちたのは事実です」。
親子で好きな球団がわかれていた。最初は、石原氏だけが巨人ファンで、父母兄は、阪神ファン。石原氏1人が違う球団を応援していることを知って、母は、石原氏とおなじ球団を熱心に声援するようになる。
1対3という構図は、母にとっても辛い構図だったのかもしれない。

高校進学で一波乱。

「兄も、私もそうですが、小学校の頃から番長みたいな存在でした。兄は、あることがきっかけで、中学から性格がかわるんですが、私はそのまま。野球もつづけ、中学時代には区の大会で準優勝しました。私はキャチャー5番です」。
遊んでもいたが、部活にもまじめに取り組んでいた。高校でもつづけるつもりだったが…。
「ぜんぶ、すべっちゃったんです(笑)。3校くらい受験したんですが、ことごとく(笑)。そうなると、中学浪人です。あの時は、ちょっとやばかったですね。でも、最終的には2次募集で、ある私立高校に合格します。それが、実は、たいへんな高校だったんです」。
入学したのは、2次募集の石原氏らをいれて350名。たばこの煙がもうもうとたち込め、授業にでてくる生徒も少なかった。「野球部もあるにはあったんです。でも、グラウンドが小さかったのと、戦績を聞いて辞めました。弱すぎなんです(笑)」。
学校の成績は、最初だけトップテン入りした。2次募集で進学しただけに、最初からその高校を狙っていた生徒たちとはさすがに差があった。
「最初の頃だけ」と笑うが、もともと石原氏は、頭の回転が早いほうだ。
「親父がばくちばっかりやっていたもんですが、子どもの頃からいろいろつき合わされて、そのおかげで計算はめっぽう早くなったんです。小学生の時は、クラスでいちばん頭がいいって子にも、算数だけは負けませんでしたから」。
しかし、むろん、勉強はしなければだめになる。卒業時には「真ん中くらい」になったのは、勉強をせずに済ましたからだろう。大学には、進む気もなかった。

居酒屋が専門学校だった。

「兄はいろいろ買ってもらっていたと思いますが、私はぜんぜんでした。だから、中学3年の頃からアルバイトをはじめ、そうですね、高校を卒業する時には7~80種類のバイトを経験していました(笑)」。賭け事も経験する。なかでも麻雀は得意だった。
ところでバイトでもらったお金はどうしたんだろう。貯金とかしたんだろうか。
「それがぜんぜんです。もらったぶんだけ使っちゃいます」。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、子どもでもそうなのだろうか。
「私は結局、大学にはいかず、専門学校に進むんですが、こちらも、なかなか気が入りません。とくに居酒屋のバイトを始めてしまったもんですから、朝3時に帰宅という日がつづいて、正直にいえば、1年で学校にいったのは10回くらいで、結局、退学してしまいました」。
今思えば、居酒屋が専門学校だったのかもしれない。「この時、お客様から、『この仕事に向いているね、キミ』って言われるんです。あの一言がいまに生きていると思うんです」。

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2016年11月17日木曜日

11月15日、千葉商科大学にてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。

11月15日、千葉商科大学・サービス創造学部池田ゼミにてネオ・エモーションの桑田士誉社長が講義されました。
事前課題「6つの事例検証」を7チーム(2〜3年生30人強)に分かれて学生たちが自分たちの考えを発表し、桑田社長がそれに関して説明されました。
濃いです。
(池田ゼミの学生さんと桑田社長)
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11月16日、インターシップに来てくれた文京学院大学の報告会に参加させてもらっています。

本日16日、文京学院大学の報告会に来ております。
8月22日から2週間、文京学院大学の学生2名(大内君と片山君)と京都女子大学の学生1名(鈴木さん)のをインターンシップとして受け入れました。
文京学院大学様とはもう4年以上なります。
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2016年11月15日火曜日

株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏登場。
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「たばこ」と父の鉄拳制裁。

鈴木氏は、1971年10月23日、岐阜県の現山県市に生まれる。
「山県市は繊維の町で、うちの家も祖母の代から縫製加工業を営んでいました。父は苦労人で、母と見合いで結婚し、婿養子として事業を継ぎます。私自身は、小さな頃から裕福な家庭だったものですから、苦労知らず、でした。勉強もできたし、小学校の頃から児童会長などの役職にも就いていました。周りのみんなが、持ち上げてくれていたんだと思います」。
中学でも成績は良く、みんなに慕われた。高校は、自由な校風に惹かれ「岐阜北高校」に進学する。
「父との思い出はいっぱいあるんですが、いま思い出すのは、高校1年の時のことです。たばこを吸っているのがばれて、目の玉が飛び出すくらい往復ピンタを食らいました。いま思えば、あれだけはったら、父の手も痛かったはずですよね」。
もともとは温厚なタイプな父親なのだという。
「でも、あの時は違った。父親は小さな頃から苦労しているから、社会のルールに従わないと烈火のごとく怒りだすんです」。

「嘘はつくな」「友だちは大事にしろ」。父親はそう言いつづけたそうだ。その躾が、いつしか鈴木氏の背骨となり、からだを貫くようになる。

DCブランドと鈴木氏。

「大学は愛知大学へ進みました。大学ではアルバイト三昧です(笑)」。高校時代から、洋服が好きだった鈴木氏は、当時、流行っていたDCブランドショップで勤務する。
「ファイブフォックスのコムサデモードです。大学1年の時から3店舗を掛け持ちしていました。というのも、アルバイトなんですが、売上が群を抜いていたんです。それが評価されて、社員が休みの時になると駆り出されるんです」。
「名古屋パルコでしょ。岐阜パルコと、栄ノバっていうDCブランドの商業ビルがあって、その3店をぐるぐる、ぐるぐる(笑)」。
服も好きだし、面白いように売れたから、仕事が楽しくないわけはなかった。そのうえ、会社からの評価も高い。しかし、人間関係にイヤケがさした。
「私が担当していたのはレディースだったんです。スタッフは大半が女性です。う~ん、ちょっと…、いや正直に言えば、当時は、かなりドロドロしていました」。
それで退職し、今後は、喫茶店でアルバイトを開始する。喫茶店というと古めかしい響きだが、こちらも、コムサデモードに負けずおとらず時代の最先端だったようだ。「いまでいえばカフェのハシリですね。名古屋でも有名なお店でした。この店で勤務していたことで、稲本とも出会うんです」。

クラブ・ディスコで出会った1人の青年。

「ナンパのための基地としていたクラブ・ディスコがあって、その店のバーテンダーが稲本だったんです」。
当時、「プリンセス大通り」は、夜になるとナンパ通りと化していたそうだ。喫茶店で勤務していた鈴木氏は、友だちとともに、夜な夜な、このナンパ通りに出没する。その時、行動の起点となったのが、そのクラブ・ディスコだった。
「稲本は、当時、プロダクト・デザインの仕事していたんですが、夜になるとクラブに現れ、バーテンの仕事をしていたんです。その時、初めて彼と出会いました。彼は、名古屋造形短大出身。現在の専務も、同じ大学で、稲本とは先輩・後輩。当時、稲本が25歳で、現専務が23歳。私が21歳の時でした」。
20歳を超えたばかりのとんがった学生をみて、稲本氏はどう思ったのだろう。2人は、しばらくして、打ち解けるようになる。
「私は、父との約束で『出会った人を徹底的に大事にしろ』という言いつけを守っていましたから、稲本との出会いも絶対大事にしようと思っていました。とはいえ、こんなに長い付き合いになるとは思ってもいませんでしたが」。
出会いは、人を育てる。ただし、それは、いかに、出会いを大事にするかで決まるのかもしれない。

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株式会社ゼットン 代表取締役社長 鈴木伸典氏
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2016年11月8日火曜日

アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

大学合格まで。

「大阪の吹田市で万国博覧会が開かれた時は、ちょうど大阪にいた」と伊丹氏は子ども時代を振り返る。「1970年ですよね。小学4.年生でした」。太陽の塔を中心に、各国の館が並び、日本中から人が訪れた。アメリカ館の「月の石」をみるために、数時間におよぶ行列ができたそうである。
もともと伊丹氏は、岩手県で生まれている。小野田セメントに勤めていた父が、典型的な転勤族で、東京、富山、大阪、ふたたび東京と渡り歩き、家族も転々とした。伊丹氏が言う通り、万国博覧会が開催された1970年は、ちょうど大阪で、しかも、開催市の吹田で暮らしていたそうだ。
「いまではマンションが林立したような街ですが、当時はまだ山もあり、田畑も多かった。遊び場には、苦労しませんでした」。なんでも、「万博につづく秘密の抜け道もあった」そうだ。
兄弟は、2人いる。伊丹氏が末っ子で長男とは7つ、次男とは2つ離れている。「上の兄2人が優秀だったもんですから、なにかとコンプレックスがあったのは事実ですね。もっとも高校までは、だれだれの弟っていうことで得していたような気もしますが(笑)」。
親子5人、落ち着いたのは、2度目の東京で暮らし始めてからだ。東京にもどったのは、伊丹氏が小学6年生の時である。「それからは転勤なしですね。あっても、親父1人の単身でした。両親はもともと、三重県。母方は、住職です。これは、のちに私の問題にもなるんですが、ともかく、小学6年生で東京にもどって、落ち着きます。中学を卒業するまでは、サッカーをしていました。次男がサッカーをしていたので、その影響です。ただし、兄の時とは違って、試合では1回も勝っていませんが(笑)」。
高校でも、サッカーをつづけようと思ったが、巧い選手ばかりで、「気後れして、入部を見送った」と笑う。「中学までは兄のあとを追いかけていたんですが、高校はそうはいきません。彼らとちがって、勉強もそうできなかったから。次男は、慶応に進みましたが、私は、明治。それも前日に、読んでいた箇所がそのまま出るといった奇跡もあって、です(笑)」。

就職と倒産。


「大学受験の時にはもう一つの選択肢がありました。さきほど言った母方の住職の話です。お寺を継ぐ人がいなくて、どうだということになったんです。いま思えば、悪くはないんですが、大学もそちらのほうに行かないといけないし、祖父には申し訳なかったんですが、辞退しました。いまそのお寺は、私たちとは関係のない方が住職をされています」。つまり、住職という道を捨てて、選んだのが、明治大学だった。
どんな大学生でしたか? と伺った。「そうですね。大学では、放送研究会に入りました。50人くらいいて、うち3分の1が女子です。あの頃は、真剣にスポーツアナになりたいと思っていました。野球観戦に行って、ネット裏で、1人実況中継を行っていました」。
ラジオを聴くのも、大好きで、それも勉強だった。スポーツアナをめざし、テレ朝を受検したが、惜しくも不合格。スイッチを切り替えた。
「それで就職したのは、TVとはまったく関係のない、大沢商会(一部上場企業)です。入社できたのは良かったんですが、2年目くらいの時に倒産してしまいます。1部上場企業の大型倒産でしたから、当時は、結構、大きな波紋を呼びました」。
配属されたのは、経理だったから、ある程度、推測できる位置にいたが、それでもまだペイペイである。「そうですね。倒産するとは思っていませんでした。2月に倒産し、残務処理やなにやらで5月くらいまでは勤務していました」。
ところで、伊丹氏は「転職マニアだ」と自嘲するが、これが、最初の転職の引き金となった。

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2016年11月1日火曜日

株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏登場。
本文より~

父と少年。

母の出身が奥多摩だった。夏になると、その奥多摩に行き、アマゴ釣りなどに興じた。
父は、鎌倉市の大船で中華料理店を営んでいた。その父について、湯澤氏は「先見の明があった」と語っている。中華料理店を出店する一方で、回転寿司や吉野家とフランチャイズ契約を結んだ。
「まだまだフランチャイズが一般的ではなかった時。吉野家にしても、フランチャイズビジネスは、まだアーリーステージの頃でした」。
「事業欲がつよかった」とも言っている。「とにかく、投資ですね。バブルの頃には見事に踊った口でした(笑)」。最盛期に、店は60店舗まで拡大した。「100億円をめざす」。それが父の口癖だったそうである。
ところで、湯澤氏が生まれたのはバブルのはるか以前。出身は神奈川県である。兄と妹、弟の4人兄弟。仲のいい兄妹だった。むろん、裕福である。「外食も良く行っていたほうです。デニーズができた時も、早速親子で出かけました。父と接する時間は多くありませんでしたが、短い時間でも、いい思い出ができるように気を使ってくれていました。それがわかるから、やっぱりいい父ですね」。
そんな父親の教育方針は、自主・自立。
「つまり、放任ですね。兄が良くできたぶん、弟の私は、規格外でもいいかと思っていたんじゃないですか。中学時代に、ともだち5人と自転車をこいで、2泊3日の旅行に行ったりしましたが、特別、注意もされませんでした」。

自転車でかけた中学時代、アメリカに向かったのは、高校1年の時。

中学時代の話。
「私は、出会った1人のともだちにすっかり魅了されました。彼は、自転車競技をやっていて、私もいっしょにレースに出たりもしました。それで、自転車旅行にもでかけたりもしたんです」。
箱根まで往復100キロの日帰りも、決行した。中学生でなくても、かなりの距離である。ともだちと5台の自転車をならべ、走り抜いた。山中湖にも向かった。手製のテントをひろげ、樹海で泊まったこともあるそうだ。
「もし、彼と出会っていなかったら、絶対、そんな旅は、やっていませんよね。そういう意味でも彼は、私の人格形成のなかで、重要な役割を果たしてくれたと思っています」。
何にも縛られない自由な生きざま。それが、中学時代に、湯澤氏がみつけた人生のコアではなかったか、と思う。高校に進学して、さっそく、海外に向かったことも、顕著にそのコアの影響が表れている。
「そうなんです。高校に入ってすぐに、アメリカに向かいます」。
湯澤氏は、長男ではなかったので、父の料理店を継ぐ気はなかったそうだ。しかし、父のほうはどう考えていたんだろう。兄と弟を違ったように教育する。それは、いずれか1人でも、という計算があったからかもしれない。父親が渡米を勧めたのも、弟、湯澤氏に兄とは異なる期待を寄せていたからかもしれない。
「向かったのは、アメリカと南米です。とくに南米は、たのしかったですね。たぶん、自転車で、箱根や浜名湖まで出かけた中学生の時代に、冒険心も育まれていたんでしょう。向こうではバイトをしながら、糊口をしのいで、約2年半過ごしました」。
アメリカはもちろん南米は、湯澤氏の期待にたがわず、冒険に満ちていたはずだ。いったん、冒険を終え、帰国した湯澤氏は、父が経営する会社に入社した。
冒険は終わり、現実の日々が始まった。

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株式会社千里 代表取締役、面白法人カヤック 顧問 湯澤大地氏
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