2010年6月30日水曜日

株式会社ドリーマーズ 代表取締役社長 中村正利氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ドリーマーズ 代表取締役社長 中村正利氏登場。


中村
本文より~


インターネットブーム。ネットバブルもまた崩壊する。


インターネットは年々、巨大な姿を現し、その重力に引かれるように何人ものネット起業家が誕生する。ネット関連というだけで多くの資金が、設立間もない会社にも集まった。「最初はホームページの作成などをやっていたのですが、4年目に『yahoo』のような検索エンジンを思いつき、壮大なチャレンジを開始することにしたんです。まず、1回目の増資で1億2000万円を集め、最終的には試算した6~7億円まで増資を行う予定でした。1回目の増資は成功するのですが、そこでネットバブルが弾け、増資が困難になり、資金がショートしてしまうのです」。壮大なチャレンジは最初でつまずくことになった。31歳。すでに結婚もしていた。開発を念頭に抱えたエンジニアの人件費は巨費にのぼった。中村は白旗をあげた。「4年で会社を潰した」と中村はいうが、会社自体は潰れていない。正確にいえば休眠。できた借金4000万円も、数年かかったが完済している。ちなみに、会社が立ちいかなくなったことを奥さまには話していなかったそうだ。だから、店をやる、といった時もネットの会社が、飲食業にも進出するんだという風に思われていたそうだ。心配はかけまいとする中村の気持ちが透けてみえる。・・・。


株式会社ドリーマーズ 代表取締役社長 中村正利氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社カトープレジャーグループ 代表取締役 加藤友康氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社カトープレジャーグループ 代表取締役 加藤友康氏登場。


カトー
本文より~


命と引き換えても、の気持ちで取り組んだ事業の再生。


20歳の青年が20億円の負債を抱えた。その決断は断崖から飛び込むほど勇気がいったに違いない。1986年、時代はバブルに向かって走り始めた頃。加藤の事業再生という冒険が始まった。加藤は、就任後、経営に関わる全ての事項を精査し、事業も峻別する。23歳。事業の再生は次の段階に。メインとなる事業への資金のシフトである。
24歳の加藤は、「うどん店」の再生に着手する「麺匠の心つくし『つるとんたん』」の始まりである。加藤の父は讃岐うどんの香川出身。だが、父の「うどん店」は、どこにでもあるうどん屋とかわりなかった。この店を、このコシのある讃岐のうどんと大阪のダシをあわせた「うどん店」につくり変えたのである。これが月商1200万円を売り上げる人気店になる。大阪府茨木市で再生したホテルに続き、うどん屋の見事な再生に注目が集まる。加藤は、ホテルのオーナー、うどん店の店主ではなくプロデューサーとして認知されていく。デザイナーやプロデューサーといった人たちとも交友が広がった。少し違和感があった。加藤は自ら融資を受け、また自ら資金をかき集め、生き残るためにリニューアルを行ってきた。その資金には命と同じ重さがあるはずだった。だが、自らの資金でない彼らのなかには託された何億ものお金を軽く扱う風潮がみて取れた。「何でこんなに気軽にやってんだ」、思わずそんな言葉が口をつく。 ・・・。


株式会社カトープレジャーグループ 代表取締役 加藤友康氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏登場。


福しん
本文より~


経理専門学校を卒業し、上場子会社に。その後、パチスロと戦うシビアなプロの世界へ。


中学になるとさらにPC熱は加速する。お年玉を貯め、新たなPCを購入。ゲームを開発するなどして楽しんだ。その頃「福しん」は6店舗になっている。高校生の時の記憶で一番印象に残っているのは「文化祭の委員長を務めたこと」だという。大学祭に匹敵するような、1週間にわたるロングランの文化祭を高橋はきっちり取りまとめた。当時、高橋は「福しん」でアルバイトを始めているが、「将来、事業を引き継ぐ気持ちはなかった」ようだ。その後、経理の専門学校に進み、2年間勉強した後、ある建設会社に入社。上場企業の関連会社だっただけに、厳密な決算を教わり、学べることも少なくなかった。ただ、建設会社につきものの、独自の「商習慣」には、なかなかついていくことができなかった。社会には、表もあれば、たしかに裏もあった。24歳で高橋は退職。その後、1年間、パチンコ店で勤務し、今度は「パチスロ」のプロになった。シビアな世界だ。高橋は、「強い信念で勝てると思い、冷静に打ち続けることを学んだ」といっている。ちなみに「スロットマシン」は、あらかじめ設定が数段階に分かれているそうだ。むろん客は知ることができないのだが、決まった絵柄の出現頻度から、割り出すことができるという。これが勝ち負けのカギを握る。いったん「これだ」と思った台があれば、後は根気と信念の勝負。予測の「精度」を限りなく高め、「信念」で揺れる心を抑えきる。小さなマシンとの戦いだが、それこそ弱い自己との戦いでもあったようだ。高橋に、休みの日は何をしているのかと聞いた。すると「パチスロですかね」という答え。「こちらは趣味でやっているから、楽しめた」という。プロの厳しさがこの一言からも伺えた。ちなみに年収は数百万円にもなったという。そのような生活をしている時、父から「『福しん』に入るように」と頼まれた。社長含みなら断っていたかもしれないが、上場を控え、組織の内部を固めるためと言われ快諾した。だがこれが、とんでもない話だった。 ・・・。 


株式会社福しん 代表取締役社長 高橋 順氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社ライブフードプロデュース 代表取締役 小林一也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ライブフードプロデュース 代表取締役 小林一也氏登場。


ライブ
本文より~


世界の6大会計事務所への就職


中央大学に合格した小林氏は、朝8時から社用トラックでルート営業を行ない、夜6時から10時まで大学に通うという生活を送った。化学を専攻し半導体材料の研究に携わったため実務にも役立ち、大手上場企業から町工場まで多くの取引先から可愛がられた。しかし、世の中の流れから、取り残されるような感覚が年々増していった。20歳そこそこの野望を抱く青年は物足りなさを感じるようになる。「自分自身が経済の先端にいるような、世の中を動かしているような仕事がしたい!」。一度思い立つと行動せずにいられない小林氏は、4年勤めた会社を退職し、その後1年間大学での研究に専念し(1年留年した)コンサルティング会社、プライスウォーターハウスコンサルタントに就職する。
商社からなぜコンサルへ? きっかけは大前研一氏の著書『企業参謀』だったという。経営者の教科書とも言われるこの本に甚く感動した小林氏は、自らがコンサルタントとなって企業経営者、ひいては日本経済を元気にしたいと考えるようになったのである。社内で飛び交う英語には苦戦を強いられたが、政府系ITコンサル、企業の会計周りの業務改善といった複数案件に携わり、後半はプロジェクトマネージャーとして活躍。6年間勤務した後、今度は「自らが実際の企業参謀役となるため」に上場準備で経営企画室メンバーを求めていた大手外食チェーンに転職する。飲食事業との出会いである。・・・。 


株式会社ライブフードプロデュース 代表取締役 小林一也氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



2010年6月27日日曜日

飲食企業の社長様から紹介増える。

飲食の企業様から同業の社長を紹介してもらう機会が増えた。


大変うれしい話である。


これもキイストンの社員が、汗水流して必死にアポイント取り、頑張って関係を作ってくれた財産である。


まずは相手に利益を与えてこそ、仕事や紹介が来る。


少しはお客様に認められてきたことかな。



2010年6月23日水曜日

有限会社アズザクロウフライ 代表取締役 小林信秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社アズザクロウフライ 代表取締役 小林信秀氏登場。


アズザ
本文より~


開業資金、100万円。20歳の独立は成功するのか。


1995年、ハタチの時、小林は、初の店をオープンする。雑居ビルの5F。8坪の店だった。資金はアルバイト時代に貯めた100万円のみ。普通なら断念すべき金額だったかもしれない。実際、普通のテナントでは、無理な額だ。だが、小林は、事務所物件に目をつけ、交渉し信じられないコストで開業した。吉祥寺の駅から数分。家賃は16万円程度だった。ともかく、そういう風に小林の1号店はオープンした。本音というと、「ただ友だちと飲みたかった」だけだった。当時、店主のかたわら、アルバイトも続け、昼間はレストランの厨房でアルバイト。夕方5時~1時までが、「BAR」の店主兼、バーテンダーだった。「最初はともかくお金がなかったから、前日の売上金を持って、新しいお酒を買い増した」。それでも初月の売上は46万円。雑居ビルの5F。1Fに看板もないバーの初月の売上と考えればたいしたものではないだろうか。飲み友達が、お客様だった。実は、店の内装も、友人たちが行なっている。小林はたしかに店主なのだが、仲間内でつくった、最初は、そんな店だったといっていい。ところが、オープン月を起点に右肩あがりが続き、8年後には最高月商300万円の店に育っている。いまも基幹店の一つだ。 ・・・。 


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社絶好調 代表取締役 吉田将紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社絶好調 代表取締役 吉田将紀氏登場。


絶好調
本文より~


飲食業との出会い。教師を超えた存在をめざす。


クラブを退部した吉田は、アルバイトを始める。個人経営の鮨屋だった。その店の大将と出会うことで、一つの転機が訪れる。「親方は『厳しくも、あたたかい』という言葉がぴったりの人でした。叱られもしましたが、誉めてもらえることも多く、それが嬉しくて。はたらくことの意味やたのしさを教えてくれたのもこの店の親方です」。何より、この親方と出会ったことで、吉田は「教師」にならずとも、「人にものを教える道」があることを知る。教壇の上からではなく、同じ立ち位置で肩をならべ、共に一喜一憂することで、教育の濃度が増すことも覚えた。「お客様を喜ばせる」という共有の目標があればなおさらだ。教師よりも、むしろ教育者でいられるのではないか、と吉田は飲食に惹かれ始める。ところで、飲食店の経営者にはいろいろな出目があり、飲食業に惹かれていく過程もまた千差万別だ。だが、興味を抱くきっかけだけを辿れば、大差ない。そのようななか、「教育」という観点から興味を抱き始めた、吉田のような例はきわめてめずらしいケースといえるだろう。大学2年、教師になるはずだった吉田は、教師ではなく、飲食の道に進むことを決断した。父は「自分の人生だから自分で決めろ」と言ってくれたそうである。・・・。


株式会社絶好調 代表取締役 吉田将紀氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社三光マーケティングフーズ 代表取締役社長 平林 実氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社三光マーケティングフーズ 代表取締役社長 平林 実氏登場。


三光
本文より~


アメリカから押し寄せたファストフード。平林は、起業に走る。


平林の世代は団塊の世代とも言われる。学生運動が盛んな時代である。平林が入学した大学も休校状態がつづいた。平林は休校を利用し「定食屋」でアルバイトを行い、資金づくりに精を出した。時は1971年前後。1971年は「マクドナルド」の1号店が銀座三越にオープンした年。愛知県では「ケンタッキー・フライドチキン」の1号店が開店している。アメリカの進んだシステムが輸入され、日本の「食文化」に新たな幕が上がった年でもあった。平林は、そうした時代の移り変わりを皮膚感覚でとらえていく。大学を卒業した平林は和食割烹店で3年間修業し、1975年に奥さまと共に神田駅のガード下に4坪の定食屋を開いた。ここで注目したいのは、神田駅のガード下という立地だ。その後、平林は駅前超一等地を抑え、次々と出店を重ねていくことになるのだが、その戦略の突端がこの1号店の出店場所からも見て取れる。多店舗展開も早く、1年半後に2店舗目を「下北沢」に出店。3店舗目も立ち上げた。その間、「定食屋」は「牛丼とカレーの2品を扱う店」にかわっていた。・・・。


株式会社三光マーケティングフーズ 代表取締役社長 平林 実氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社サクセスストリート 代表取締役社長 大和淳二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サクセスストリート 代表取締役社長 大和淳二氏登場。


サクセス
本文より~


吉本の育成所に駆け込んだ青年時代。


半年間の少年院暮らしを経て、社会復帰した大和は大阪に行く。18歳。昔から人を笑わせることが好きだったからと、吉本の育成所に入った。同期にはいまや有名な芸人もたくさんいる。「最初はギャラもないんです。エキストラに選ばれて1日ロケに行っても、貰えるのはチョコレート一つだったり。年収300円なんて先輩もいました(笑)」。それでも思いを捨てきれず、舞台に立つ日を思い描き続ける人間ばかりだった。だが、大和は「スパっとあきらめるのも勇気」という先輩の一言で、1年と少しで養成所を後にした。「才能を少しでも自覚していれば辞めなかった。10段階評価で喩えるなら、最低の1点だった」というのが自己評価だ。ちなみに、人を笑わせるコツはテンポと間だという。「街角に立って、いざ人を笑わせようとするとリキミ過ぎるのか、間が悪くなり誰も笑ってくれなかった」そうだ。だが、この養成所時代に学んだテンポと間が、焼肉店での「客との言葉のキャッチボール」に生かされていくのだから、人生に無駄はない。ちょうど20歳になった大和はいったん福岡に帰ったが、その時、大阪でのアルバイト先だった焼肉店の専務から電話が入った。「正社員として戻ってこないか」。その会社が、関西のカリスマ的な経営者今吉氏が立ち上げた商売人道場「元気ファクトリー」だった。・・・。



2010年6月16日水曜日

19日(土)、飲食店苦戦か?

サッカーワールドカップ、対カメルーン戦の視聴率が、午後10時50分スタートの前半は、関東地区で平均視聴率44・7%を記録。さらに同11時48分からの後半は関東45・2%を叩き出したようだ。


いくら飲食店にテレビ設置しても、高視聴率が予想される19日(土)の対オランダ戦は午後7時からTV中継なんで、飲食店は苦戦が予想される。


ただ、日本が勝てばお祭り騒ぎで居酒屋へGOとなるかも・・・。
 



株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁氏登場。


駒八
本文より~


「駒八おやじ」の産みの親は、奥様だった。


八百坂は、学生時代3年近くニュートーキョーでアルバイトを続けた。仲間もでき、社会人との交わりもできた。ビールを運びながら徐々にたくましい大人になっていく。大学卒業後、商事会社の外商部に勤務。そこで奥様と出会い結婚。やがて居酒屋「駒八」を開業することになるのだが、八百坂自身はためらっていたようだ。売上成績も良く、「後十年も経てば家を買えるぐらいになっているだろう」という目算もあった。「父親がサラリーマンだったこともあって、それではおもしろくないなとも思っていたんですが、給料も悪くありませんでしたし安定していましたから。かみさんにも、もう少しこのままで、なんて話していたんです」。ところが、奥様が八百坂の本心を代弁するかのように、独立を迫る。そのおかげで、八百坂はサラリーマン生活に終止符を打つことになる。いうならば奥様は、「駒八おやじ」の産みの親でもあったわけだ。 ・・・。 


株式会社 駒八 代表取締役社長 八百坂 仁氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



東急グルメフロント株式会社 代表取締役社長 木村知郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に東急グルメフロント株式会社 代表取締役社長 木村知郎氏登場。


東急グルメ
本文より~


兄が諭した一言でコンプレックスが消える。


少し時代を巻き戻し、大学進学を目の前にした当時の話もお伝えしよう。実はこの時、木村は、周りの声が気になってしかたなかった。「兄はもちろんですが、親戚もみんな出来がよく、悪くて『早・慶』という感じでしたから。私は成蹊大学に行きたかったんですが、なかなかふん切れなくて」。そんな時に、木村は初めて兄に気持ちを打ち明けた。「すると兄は『何を気にしているんだ、行きたいところに行けばいい』と言ってくれたんです」。あれ、なにか違うなと、木村は思ったのではないだろうか。自分が気にしてたのはなんだったんだろうか、とも。ともかく、その一言で、兄に対するコンプレックスまで一気に消し飛んだそうだ。木村を長年覆っていた一つの殻が破れた瞬間だった。ゼミの教授の話が、その後の木村を形作ったと話したが、この時点で木村の人生がリセットされていたこともまた大きな意味を持つのではないだろうか。 ・・・。 



2010年6月10日木曜日

6000人退社のリクルート?

日経のビジネスリーダーにこんな記事出ていた。


以下の通り


未公開株譲渡事件、ダイエー傘下入り、そして――。今春、創業から50年の節目を迎えたリクルートが3度目の正念場を迎えている。業績が急速に悪化、この1年で6000人が退社するという異常事態に直面する。リクルートに何が起こっているのか。



従業員の4分の1が退社



 「利益を確保するために人を切る。“普通の会社”になったリクルートに未練はなかった」。リクルートのグループ会社を昨年退職したOBはこう打ち明けた。


ココ見て


現在、いろんな飲食の経営者と話させてもらっているが、ホットペッパーのキャンセル、また掲載費大幅カットされている。ナンバー1であってこそリクルートであったのに・・・・。




2010年6月9日水曜日

株式会社喜代村 代表取締役社長 木村 清氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社喜代村 代表取締役社長 木村 清氏登場。


寿司ざんまい
本文より~


生活費を捻出するためのアルバイトが、木村の進路をかえる。


通信教育生ながら、木村の勉強ぶりはすさまじかった。2年生までに3、4年で学ぶ講義も受けさせてもらったそうだ。受けると決めた司法試験まで後、半年ぐらいになった頃だろうか。生活費がなくなりかけ、百科事典を販売するアルバイトを始める。これが木村の一つの転機になった。27万円という文言に誘われ、始めたアルバイトだったが、コミッションセールスだったため1ヵ月やってもらったのはわずか4万円。家賃と生活費に消えていった。昼飯を買うお金もない。どうすればいい。試験も迫ってくる。そんなある日、公園のベンチに座る木村の元に子どもたちがあつまってきた。何をすればいいかわからない木村がブツブツと商品の百科事典を読んでいたからだ。木村は耳を傾ける少年少女たちの姿がかわいらしくなり、読んであげていると、その親たちが興味を持ち出した。ワンセット、ツーセットと売れ始める。これが評判になり、1.5ヵ月で500刊も販売することができた。この販売数のおかげで「印刷まで間に合わなくなってしまった」という。当時の営業部長まで木村のやり方を真似始めたぐらいである。だが、このアルバイトは早々に辞めている。約束通りの給与が支給されなかったからだ。この後の、1974年、木村は水産会社に通信教育を受ける学生の身分で入社した。この仕事が木村のその後を決定づけることになるのだが、入社当時は、まだ司法試験合格があくまで目標だった。・・・。 


株式会社喜代村 代表取締役社長 木村 清氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社ナナシフードサービス 代表取締役社長 平 英樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ナナシフードサービス 代表取締役社長 平 英樹氏登場。


ななし
本文より~


大学2年で中退。友人が起業した会社の飲食部門を任される。


さて、物理学を学ぶために選択した大学だったが、勉強よりもアルバイト三昧の生活を送るようになる。飲食店のアルバイトを通し、平は次第に「経営」に興味を傾けていく。2年生で中退。微分・積分より、「ビジネス」を考えるほうがたのしくなってきたからだ。100円バーガーショップの社員として1年、その後、ラーメン店で2年間修行した後、友人が起業した会社の飲食部門を任され、役員として勤務し始めた。業態は、中華ラーメン店。平の修行が実る。だが、「1年間、休みはなし、それどころか満足に寝た記憶もない」。立ち上げ早々の、厳しさが平にのしかかる。それでも、この会社に勤務した9年間で、平は店舗数を7店舗まで拡大している。35歳になった時、一つの区切りだと退職した。友人と意見が食い違うようになっていたのも事実である。 ・・・。 


株式会社ナナシフードサービス 代表取締役社長 平 英樹氏


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



2010年6月5日土曜日

求人サイトの『ジョブセンスLink』の評判が良すぎて・・・。

現在、各企業様に案内させてもらっている採用成功報酬型正社員求人サイトの『ジョブセンスLink』の効果がバツグンにいい。


なにせ、採用してはじめて料金がかかる課金型の成功報酬の求人サイトだけに飲食業界はもちろん、ベンチャー、少人数の企業様にはもってこい。


前職リクルートにいて、その後独立し約25年求人に携わっているが時代は変わった。


おかげで人材紹介の単価が上がらなくで・・・(苦笑)。



『ジョブセンスLink』のお申込みはこちらまで。  


お問い合わせ・申込みフォーム



魅力ある飲食社長たちを続々取材中。

やはり、飲食の社長は大変人間味がある。だからこそ、もっともっと発信したい。


ここ最近取材させてもらった社長様。


カフェカンパニーの楠本社長、三和ホールディングスの茂山社長、一蘭の吉冨社長、黒田屋アグリトーレの平林社長、ROSの野村社長、スプラウトインベスメントの高橋社長、ダイヤモンドダイニングの松村社長、ウィーズの小西社長、カスタマーズディライトの中村社長、マックスコーポレーションの遠藤社長。


実は飲食の社長は大卒の方も多い。上記の社長の中には早稲田大、明治大、立命館大、日本大出身者も・・・。



2010年6月2日水曜日

株式会社鳥一フーズ 代表取締役社長 山崎洋資氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鳥一フーズ 代表取締役社長 山崎洋資氏登場。


鳥一
本文より~


一番鶏が鳴く朝5時、物流センターはもう起きだしている。
誰よりも早く会社に行き、遅く戻る生活を強いられた。


「おまえがいままで何不自由なく暮らせたのは、みんなのおかげだ。だから、誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰れ」。鳥一フーズに入社したときの、父の一言だった。鶏肉の卸である鳥一フーズの朝は早い。それこそ一番鶏なく朝5時には人が集まり、物流センターからは鶏肉を積んだトラックが次々出発していく。そんな朝をいの一番で迎えるのが山崎の日課になった。ところで、山崎は23歳で結婚、2人の娘を持つ父だ。このインタビューに応じてくれた2010年4月、長女は19歳に、次女は16歳になるという。娘のまえではいまも子煩悩な父の顔になる。だが、当時はまだ子どもたちも生まれたばかり。かわいい盛りの子どもたちともなかなか接することができないほど、山崎は仕事に追われていた。経済がついに逆回転をはじめ、日本全体が負のスパイラルに巻き込まれ始めた頃、鳥一フーズもまた左手前になっていくのだ。「妻や娘たちを食わしていくには、はたらくしかなかった」と山崎。いつの間にか父の命令でそうするのではなく、自ら誰よりも早く会社に向かうようになっていた。 ・・・。 


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



株式会社マークフィールド 代表取締役 市原克俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たちに株式会社マークフィールド 代表取締役 市原克俊氏登場。


マークフィールド
本文より~


 


上場企業への就職、そして転職


大学を卒業した市原氏は、一部上場の大手ゼネコンに就職。理由は「営業になれば億単位の仕事ができる」だったが総務部事務課に配属されてしまう。35歳にならないと営業職に就けないと知った市原氏は転職を考えるが、知り合いの外国車のトップセールスに諭され留まったという。「まずは社会人としての基礎、人脈を作るべき」。市原氏は上場企業という大組織で、礼儀や上下関係を学び、実務力をつけていくことにした。
その決断は奏功した。ある上司に可愛がられた市原氏は総務課に移り、創業者のお世話係というめったにできない経験をする。第二次世界大戦経験者の創業者と、戦車や戦闘機が好きで400以上のスケールプラモデルをコレクションしている市原氏は、年の差はあれ話が合った。お酒や美術品など桁違いの楽しみ方、セレブの生活を覗かせてもらったことは貴重な経験になったという。
そして“石の上にも3年”を全うした市原氏は、念願の営業職に就くため集中力で取得した宅建を武器に大手不動産会社に転職。これまでの思いを一気に注ぎ込むような夜討ち朝駆けのハードな営業活動で、たった入社半年でベスト30に食い込んだ。「休みは2カ月に一度。例えば手書きのオリジナルチラシを作り人の3倍まきました」。結果がすべての一匹狼の世界。売上げが立てば立つ程、周りからの風当たりは強くなり、社員同士の火花散る戦いも激しくなっていく。・・・。 


PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)



2010年6月1日火曜日

『食べログ』、『twitter』との連動機能を拡充

『食べログ』が、『Twitter』との連動機能を拡充し、ユーザーがクチコミを投稿した際に、『Twitter』にも自動的に表示できるように
しました。


『食べログ』にクチコミを投稿すると、『Twitter』にも自動的に、クチコミのタイトル、評価、クチコミページへのリンクなどが表示されるよう
になります。
実際に訪れたレストランの感想が、『Twitter』にも投稿されることで、情報交換が手軽にでき、レストラン選びに活用いただけます。


本機能に関するご説明ページ:http://tabelog.com/help/twitter/


※本機能利用には『食べログ』、『Twitter』両サービスへのユーザー登録(無料)が必要です。
また、『食べログ』へのユーザー登録後、『食べログ』のマイページにて、『Twitter』連携機能の利用設定が必要です。


『食べログ』Twitter公式アカウント:http://twitter.com/tabelog 


(カカクコムプレスルームより)



キイストン初の「ノーネクタイ運動」スタートします。

「地球温暖化、そして、経費削減対策」を目的に夏の期間「ノーネクタイ運動」スタートします。


設立以来初めての試み。


時代と環境によりマッチ。


ノーネクタイ