2014年11月4日火曜日

世界のレストランのTETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”TETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏登場。
本文より~

子ども時代から憧れた海外。

独創的だった。それは小さな頃からである。「考えるのが好きな子どもでした」と世界の「TETSUYA」こと和久田哲也が、そういって笑い声をあげる。
「私は、子どもの頃からボーっとするところがあって。いまでも危なくて車を運転できないんですよ」とも。魚の買い付けにも、運転手付きの車で通っているそうだ。「ボーっとする」というのは放心するという意味ではなく、いったん気になれば、そちらに心が奪われるということを意味しているのだろう。
和久田が5歳の時、東京オリンピックが開催され、9歳の時には、万国博覧会が開催されている。子どもたちが、世界に目を向けはじめたのは、この年代からだろう。
もう一つ、世界と和久田を結ぶエピソードがある。
「私が生まれた浜松は田舎町だったんですが、キリスト教の教会があったんですね。だから、ブロンドのキレイな女性がいたんです。とはいえ、私の小さい頃は、まだまだ外国人とは距離があって、道で出会っても目を伏せてしまいがちだったんです。でも、私は全然平気。キレイな女の人をジーッと観ていたんです。そしたら母親に、『失礼なことはしないの』と怒られて…」。
まだ円が360円の時である。世界は、まだ抽象的なものに過ぎず、概念的であった。畏怖する対象とまでは言わないが、確かに外国人と接するだけで気おくれしたものだ。
そんな時代にあって、和久田少年は、海外、また外国人と正面から対峙していた。
「外国が好きでね。だから『兼高かおる』さんの、TV番組『世界の旅』をいつも観ていました。小学校へ入学するときにはもう、交換留学生に興味があったぐらいです」。
小学生の時には、すでに「どういう手段で海を渡るか」ということを考えていたというから、同年代の者からすれば、それだけでも大きな「驚き」である。

100万円を貯めて、オーストラリアへ。

大学には、浪人して入った。 「現役で合格したんですが、浜松を抜け出して自由になりたくて。それで、いろいろ言って東京で1年間浪人します。1年後、晴れて大学生になるんですが、ともかく海外に行きたかったんです。だから、バイトも3つ掛け持ちで…」。
吉野家でバイトしたこともあるそうだ。新聞配達もした。新聞代の回収が巧くて、バイト代は、一時跳ね上がった。
「それが原因というか、前から勤めている人より断然給料が多くなって、居づらくなって辞めてしまいました」と笑う。
ともかく、目的額の100万円が貯まった。
「当時はオーストラリアのビザが取りやすかったんです。それもあって、まずオーストラリアへ、と思っていたんです。ただ、ビザは取りやすかったんですが、往復のチケットと100万円持っていることが条件でした。だから、バイトに精を出して…。代わりに大学には通わなかったな(笑)」。
渡航費も、100万円もなんとかなった。
「往復のチケットがいるというのは、戻ることが前提ですよね。でも、私はもちろん見せかけです。日本に戻るつもりはなかった。かといって、オーストラリアに居続ける気もなかったんですが。ところが、もう30年以上です(笑)」。
無事、海を渡りオーストラリアへ。片言の英語で、不動産屋に行ってアパートを見つけた。
「ギリシャ人がオーナーの不動産屋でした。彼も移民だったんです。だから、異国人の私に優しくしてくれました。ある時、私は親しくなった彼に、こう言いました。英語を安く教えてくれるところはないだろうかって」。
いま思えば、すべてがその一言から始まっている。
「よし、わかった。連れてってやる」。
人のいいオーナーは、自ら車を運転し、和久田を乗せて連れていってくれた。
レストランだった。

レストランで習ったものは、英語か、料理か、生き様か。

「私は、料理をつくるのが好きだったわけでもないし、方法も知らなかった。ほんとにたまたま、『英語の学校だ』と、その不動産屋のオーナーに連れて来られたのが、レストランだっただけなんです。あとで話を聞くと、彼もそうやって言葉を覚えたからということでした。確かにサラリーも貰えるわけですから、言うことがない(笑)。ともかく、その時、対応してくれたシェフが『じゃぁ、明日9時に来い』と。それが私の飲食人生のスタートでした」。
「確かに、いい『学校』でもありました(笑)。店にはアイルランド人がいて、彼から英語の勉強方法も教わりました。『とにかく、片言でもいいから、会話しろ』『わからなくても聞け』と。そう言われたもんだから、ラジオは始終、そうですね、寝ている時もつけっぱなしでした」。
和久田には、こういうところがある。一度、これがいいと思えばそのスタイルを貫く。修業時代の話もそうだ。有名な料理店を食べ歩いた結果、クレジットの額は当時の和久田からすれば、天文学的な数字になっていたという。
ともかく、いいと思ったら、やる。それも徹底して。だから、ひょんなことで連れて行かれたレストランも、市井の英語学校だと思い込み、レストランの仕事にも精を出した。
「1ヵ月は皿洗いと海老の皮剥きが仕事だった」と和久田。ところがある日、2人のシェフが軽い事故にあってしまい、数日間休んだ。途端に人手が不足し、和久田にも皿洗いと海老の皮剥き以外の仕事が回ってきた。
「あれもやれ、これもってことで、魚の捌き方も初めて教わりました。日本人というのは器用なんでしょうね。私も、すぐに出来るようになって、だんだん雑用の割合が減って、シェフを手伝う割合が多くなりました」。
「1日ずつ雑用の仕事が減って、シェフの手伝いが多くなっていくんですから、そりゃ、楽しい。英語も少しずつ上達する。あっという間に、1年が過ぎました。しばらくして、今度は皿洗いをしていた頃のマネージャーと偶然会って、うちに来ないかと誘われたんです。シェフに相談すると、『あの店はいいから、行け』と。それで、そちらで5年間、勤務します」。
修業のため、高級店に足繁く通っていたのもこの時だろう。5年後、27歳の時に前職で同僚だったアイルランド人から声をかけられた。「いい店が空いた。一緒にやらないか」。2人して、5000ドルを出し合った。共同出資。
オーストラリアに日本人が、店を構えた。最初の一例となるのだろう。


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