2018年10月16日火曜日

株式会社BE FREE 代表取締役 林 卓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社BE FREE 代表取締役 林 卓氏登場
本文より~

14歳、旅のはじまり。

ある年の夏。三重県の伊賀上野市にある、近鉄線の駅のホームで1人の少年が電車を待っていた。「中学2年の夏のことです」。向かうのは、終着駅でもある「近鉄難波」駅。
「夏休みですから、旅行者だと思う人もいたと思いますが、ぜんぜんちがいます。大阪で暮らそうと思っていたんです。ハイ。あては何もありませんでした/笑」。
貼り紙でみつけた中華料理店に住み込みでやとってもらった。
「正体は、薄々、気づいていらしたようですが、黙認してくださったようです。仕事はホールじゃなく、キッチンでした」。この時から、料理の世界に入るのだが、それは、たまたまの話。異なる貼り紙をみつけていたら、違う仕事をしていたかもしれない。
「私が大阪に来たのは、音楽がしたかったからです。小さな頃は野球が好きで、小学3年くらいからは、四番でエース。実は、中学でも評価していただいて、1年の時から四番で、エース。スカウトの目にもふれていたようです。私自身も、プロ野球選手にって思っていたんですが/笑」。
何気なく観ていたテレビで、「X JAPAN」を観る。それが、すべてのはじまりだった。「YOSHIKIさんを観て、突然、何かが弾けて。まだ、野球もつづけていましたが、小学6年生からドラムも独学ではじめます。音楽への思いが、だんだん大きくなって」。
その思いを抑えきれなくなったのが、中学2年の時。
「このまま『伊賀上野』ではあかんだろうと、大阪に出るんです」。
それが、14歳。旅のはじまりである。

14歳の、ドラマー。

中学2年。ご両親も、よく許してくれたものだ。
「長男ですからね。私も反対されると思っていたんですが、ぜんぜんOKでした。ほんまにええんか?ってこっちが心配になるほどでした。でも、『行くからには、一切援助しない。ぜんぶ1人でやれ』と言われました」。
きびしくされたのは、息子の覚悟を大事にしたかったからだろう。その一方で、一度、言い出したら聞かない性格も、わかっていらっしゃったはずだ。
「学校には、時々、顔をだしました。ええ、先生も公認です。無事、卒業はできて、卒業証書は郵送されてきました。もちろん、高校なんて考えません」。
肝心の音楽のほうはどうだったんだろう。
「こっちもライブハウスの貼り紙でメンバーを募集しているところをみつけて。そうですね。特定のファンの方はいらっしゃいましたが。まぁ、そんな感じだったですね。なんといっても、大阪ですから、音楽の世界ではローカルです。メジャーなんて話になるには、やっぱり東京だと、19歳の時に1人、新幹線に乗りました」。
当時のメンバーは5人いたそうだ。全員18歳、オーバー。
年下の14歳の林氏をみんなが、かわいがってくれた。林氏のパートは、ドラムと、ボーカルだったそう。練習は、真夜中から朝まで。「独学ですね。楽譜を買うお金もなかったですから、耳で聴いて、それで楽譜をつくって」。

メジャーデビューをめざして、上京。

せっかく出会ったメンバーと別れてまで、上京する。それが、19歳の時の覚悟。
「まず、新宿ですね。もともと大阪でも、中華以外に少しだけイタリアンをやっていたもんですから、新宿のウエディングイタリアンのレストランで。そうですね、1年半くらいはたらきます。1年もいると東京のこともわかってきて、そりゃ、やっぱり渋谷だろう、と、渋谷のイタリアンカフェに移ります。ここで、すべてがかわりました」。
どういうことだろう。
「あくまで仕事は音楽のためです。ただ、その一方で、料理が好きになっていきます。14歳から中華でしょ。そして、イタリアンです。キャリアも、それなりにあるわけですから、自信も少しばかり出てきます」。
そんなある日のことだったそう。
「1人のお客さんが、『このパスタをつくったのは、だれだって』って凄い剣幕でキッチンまでずかずかやってくるんです。もう、怖くって。渋谷っていうのは、こういう怖い客がいるんかって/笑」。
ただ、すぐにわかったことだが、林氏が「客」といったのは、そのカフェを経営する会社の部長で、2代目社長候補だった。しかも、その会社は、林氏いわく「でかい会社」で、実際、日本の食に大きな影響力をもつ食品会社だった。
「こわごわ、『ハイ』っていうと。『そうか。ちょっとうえに行って話そうか』と言われて」。
一口のパスタが、林氏の、もう一つの人生の、はじまりだった。「その部長さんは、なんでも私のいうことを聞いてくれました。音楽のことにも理解を示してくれて。そのうえで、いろんな便宜を図ってくださいました。1人ではいけない高級なディナーを食べに連れてくれたり。いや、とんでもない待遇でした」。
・・・続き
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2018年10月12日金曜日

母親十三回忌と父親の三回忌無事済ませることが出来ました。

足首骨折したので春に予定していた母親の十三回忌と父親の三回忌でしたが、無事済ませることが出来ました。
なかなか実家に帰れなかったのですが、よく実家の夢見ました。
墓参りしろって先祖から言われてたと思います。

無事終えた時、ふと見ると墓石に、なんとカエルが・・・。
もう両親はこの世にいませんが、なにかほのぼのしました。

夕刊フジ『 OVER60(ロクマル)世代 応援企業 30 』第2回はトリドールホールディングス様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!
社員とパート数合わせると延べ3万人が働かれてるこの会社は、定年は65歳ですが、健康に支障なく意欲あれば1年更新で70歳まで延長できます。
やはり通勤時間も年齢重ねてくると近い方が良く、今回取材した岡さんも自宅近くにあった丸亀製麺で頑張っておられます。
また、10年勤めると永年勤続を表彰する制度もあり、皆さんの励みになってます。
しかし従業員延べ3万人っていうことは、私の田舎の旧北桑田郡(京北の人口が5,600人、隣の美山の人口が4,000人)でも人口1万人の弱たがら、単純に3倍強!
スゴい雇用創出企業ですね。
ライター
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年10月6日土曜日

10月7日、焼肉 牛将OPEN。

ラーナ復活!!
ラーナ氏のこの数年の大変さを誰よりも悔しさ知ってるがゆえ、10月7日のOPENは『嬉しい!!』の一言です。

焼肉 牛将
住所 東京都葛飾区堀切3-9-6
最寄り駅から 京成堀切菖蒲園駅下車、
左に出てすぐ線路沿いに、お花茶屋方面に直進していただき徒歩約2分、
堀切せんべいの先で平和橋通り出る手前です。

是非とも食べに行ってあげてください。
道畑社長、川上社長、小川社長、他関係者の皆様ありがとうございました。

10月5日より夕刊フジにて『 OVER60(ロクマル)世代 応援企業 30 』スタート。

10月5日より夕刊フジにて『 OVER60(ロクマル)世代 応援企業 30 』60歳以上の雇用に積極的な企業様を30社キイストンがご紹介していきます。
第一回はティオスグループ(石橋隆太郎社長)です。

従業員の平均年齢は44歳だがシニアの雇用率も高い。89歳の最高齢者をはじめとして、60歳以上の社員とパートは25人ほど。全従業員の約2割を占めています。
その筆頭が、前述の経理を担当している89歳の滝川千枝子さん。
その滝川さんに続くのが、ホテル支配人として日々フロントに立つ65歳の伊東美代子さんです。

また、この記事も弊社ライター土金氏(元編集プロダクション社長)、70歳です。
https://www.zakzak.co.jp/eco/news/181006/eco1810060001-n1.html

ライター
【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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9月26日発行の日刊ゲンダイに「株式会社ポッカクリエイト 」の上野 修社長の記事出ました。

9月26日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に「株式会社ポッカクリエイト 」(展開される『カフェ・ド・クリエ』)の上野 修社長の記事出ました。

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9月26日発行のFLASHに「株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事掲載されました。

9月26日発行のFLASHに和牛焼肉 食彩和牛しげ吉を経営されている株式会社シゲキッチン」の間宮茂雄社長の記事掲載されました。

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2018年10月2日火曜日

株式会社湯佐和 代表取締役社長 湯澤 剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社湯佐和 代表取締役社長 湯澤 剛氏登場
本文より~

1962年、生まれ。

「志願して、海軍に入ったような人」。
今回、ご登場いただいた株式会社湯佐和の社長、湯澤 剛氏は父親のことをそう言う人だといって笑う。躾もきびしく、とんでもなく怖い父親だったらしい。その父親が始めた中華料理店が株式会社湯佐和の源流である。
「戦後、日本食堂でコックになり、昭和35年くらいでしょうか。大船で中華料理店を始めます。これが、うちの始まりです」。
湯澤氏が生まれたのが1962年。つまり、昭和37年だから、その少し前に開業されたことになる。当然、店は忙しく、湯澤氏は、祖母に育てられたそう。
家族旅行の記憶もほぼない。
成績は優秀で、中学から全寮制の山手学院中学校に進んでいる。こちらでも成績はトップクラス。そのまま、山手学院高等学校に進み、学年トップを何度も獲得する。「高校2年の時に、1年間、留学します。だから、実は、2年を2回しているんです/笑」。
留年ではなく、留学で2年を2回。そういうことを勧める学校もあるんだと、少し驚いた。その後、湯澤氏は、早稲田大学の法学部に進み、キリンビールに就職する。

1987年、キリンビール入社。

「早稲田に進学してからは、学校にちかい高田馬場で独り暮らしをはじめます。大学から空手とサーフィンも始めました。そもそも、法学部に進んだのは弁護士になるためだったんですが、空手やサーフィンに熱中すればするほど弁護士という輪郭が薄れていきます」。同時に、周りの学生たちがすご過ぎて、「到底、こいつらには敵わない」と思ったことが、弁護士を断念する引き金になったそう。
「それからは、アルバイトや、そうそう株式の取引で資金をため、とにかく海外に行きました。ハワイやインドネシア、タイ、ヨーロッパなど。ええ、語学は大学時代に英検1級を取り、問題はそうなかったですね」。
大学を卒業し、1987年、キリンビールに入社する。
当初から海外勤務だと思っていたそう。しかし、現実は違っていた、と笑う。
「最初に名古屋に配属され、それから三重。海外に渡ったのは、1992年です。選抜され、研修生として、ニューヨークの人事部人材開発室に異動になりました」。
向こうでの暮らしは、日本食レストランやスーパーで勤務し、勤務後にニューヨーク大学の経営学部で勉強するというスタイル。住まいは小さかったが、マンハッタン、セントラルパークの真ん前だったそう。2年後、医薬事業本部の海外事業担当に任命され、帰国する。
将来を嘱望されていたのだろう。
しかし、1999年、飲食店を経営していた父親が他界する。これが壮絶な人生の幕開けとなった。

2代目、社長、40億円の借金を背負う。

「当時、うちの会社の店舗は33店舗まで広がっていました。年商は全体で20億円くらいです。社員は90名くらい。これだけみれば、そう悪い業績ではありません。しかし、私は父の会社のことを知らないし、そもそも飲食業の経験もありません。たしかに大手のビール会社にはいましたが、飲食店との接点も少ないほうですし、マネジメントの経験もない。だから、自ら進んで社長になろうとは思っていませんでした。ただ、父がいなくなったこともあって、決済など、相談されることが多くなり、なんとなく、なし崩し的に跡を継ぐことになりました」。
そんななかで、どうしても逃げ出せない「鎖」につながれていることを知ったのは、キリンビールから軸足をこちらに移した頃だろうか。
「借入金が、40億円もありました。順調に返済しても80年かかると言われた金額です」。
飲食の経験があれば、多少なりとも先は読める。経営の経験まであれば尚更、再生の道は描けたはずだ。しかし、どちらもない。あるのは40億円という途方もない借金の額だけである。
もっとも、こちらもリアルには想像できない額である。事業を引き継ぐことで、借金も引き継ぐというケースは少なからずあるが40億円というのは、断トツだ。毎月の返済だけでも、3000万円になったという。1時間換算4万円。
「でも、借金だけじゃなかったんです。社内体制がボロボロでした。酒を飲んで仕事するなんてことは彼らにとって常識で、何が正常か、異常かもわからなくなるくらいでした。ただ、そんな職人たちを切ることができない。だって、彼らがいなくなれば、お店が運営できないからです」。
「八方ふさがり」とは、まさにこういう時に遣う言葉だろう。借金に頭を押さえられ、周りには、傍若無人な職人たち。相談する相手もいない。
「唯一、妻がいました。彼女がいたおかげで乗り越えることができたんです」と湯澤氏は語る。
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株式会社ひらまつ 代表取締役社長 陣内孝也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社ひらまつ 代表取締役社長 陣内孝也氏登場
本文より~

フランス料理と少年。

「料理天国」というTV番組があった。1975年にスタートし、1992年までオンエアされていたから、長寿番組の一つに数えてもいいだろう。「料理バラエティ番組」の走りともなる番組だ。料理の監修は「大阪あべの辻調理師専門学校」だ。
「うちの母親が料理上手だったんです。PTAで料理教室を開いていたくらいで。その母の手伝いをしているうちに、私自身も料理の道をめざすようになりました。フランス料理に興味をもったのは、TV番組の『料理天国』がきっかけです」。
こう語るのは、株式会社ひらまつの代表取締役社長 陣内 孝也氏。
もう一度、「料理天国」に目を向けると、スタートが1975年。ちょうど、陣内氏が10歳の頃である。10代の前半で、料理に興味をもつ男子は、そういないのではないか。しかも、陣内氏が興味をもったのはフランス料理。ふつう、10歳の少年と、フランス料理は、そうつながらない。
中学に入り、陣内氏は吹奏楽を始めた。その一方で、この頃からすでに「辻調理師専門学校」に関心があったそうで、パンフレットも入手していたというから驚く。
「高校を卒業してから、大阪です。関東に『辻調理師専門学校』がなかったからです」。思い切った行動に映るが、それまでの陣内氏を知れば、当然の道だとわかる。
「当時は1クラス200人で、20クラスありました。そう、4000人ですね」。
4000人。調理師になる学生が、集った。
「大阪阿倍野の学校を卒業したあと、私はおなじ辻調理師専門学校のフランス校に進みます。秋のコースだったので、半年間です。フランスにある現地のレストランでも研修を受けました」。
10月に帰国。そして「株式会社ひらまつ」に入社している。

「ひらまつ亭」の仕事。

陣内氏が人生のたいはんを過ごすことになる「株式会社ひらまつ」についても触れておこう。
「ひらまつ」は1982年、西麻布にオープンした24席のフランス料理店「ひらまつ亭」が起源である。平松シェフと奥様、ほか2名の従業員でスタートしたそうである。
「当時は、フランス料理ブームだったこともあって、『ひらまつ亭』にはたくさんのお客様がおみえになり、ランチでも行列が絶えず、1日の売上は40~50万円になったと聞いています」と陣内氏。
1988年、広尾に移転し、拡張。1991年には初のレストランウエディング事業を開始。1993年には広尾に「カフェ・デ・プレ 広尾」をオープンし、カフェ事業をスタート。1994年に、法人登記し、現在の株式会社ひらまつを設立。それ以降も、クオリティの高い店舗を出店し、日本にフランスの文化を定着させていく。
印象的なのは、2001年、パリに「レストランひらまつ サンルイアンリル」をオープンしたことだ。更に翌2002年には、ミシュランガイドで一つ星を獲得している。オープン4ヶ月での星獲得はミシュラン史上最短ということだ。
更に現在では、株式も東証一部に上場。
高級飲食店での上場は世界をみても数少ない。
平松シェフは、「ひらまつ亭」という種を蒔き、日本にフランスの文化を育てた。その一方で、数多くのプロフェッショナルを育成してきた。その1人が、陣内氏というわけだ。
現在、平松氏は会長となり、陣内氏が社長となっている。また近年は「滞在するレストラン」というコンセプトでホテル事業を展開し、陣内氏もこれに尽力している。

料理人には、向かない、という一言で胸のつかえがとれた。

さて、陣内氏が入社したのは20歳で、平松氏もまだ30代半ば。「ひらまつ亭」は、平松シェフを中心に、若手のメンバー10名で運営されるようになる。
「私は、当然、料理人希望です。ただ、当時は、お客様と接することを勉強してからということで、1年間、ホールでサービスを学びました。案外、向いていたのかもしれません。そして、1年後から厨房に入ることになりました」。
人気のフレンチ「ひらまつ亭」の厨房だ。胸も高まったことだろう。ただ、厨房の世界はきびしい。
「料理が好きなだけでは務まらないきびしさを感じました。ですが、厨房内でうまく立ち回れないとシェフに怒られるんですが、先輩たちもいっしょになって怒られてくれたりしてね。ええ、とにかく、つながりがつよかったです」。
平松シェフは厳しい人だったが、それは料理だけではなく、人づくりにも妥協しなかったからだろう。
「給料は、ぜったい手渡し。そして、1人1人にちゃんと声かけてくださるんです。その心遣い一つからも、シェフが我々をどう思ってみているか。私たちはちゃんとわかっていました」。
「メンバーからすれば、オヤジみたいな存在で」と陣内氏。ただ、このオヤジと慕う平松氏から、ある時、辛辣な言葉をかけられてしまう。
「そうなんです。ある日、シェフから『ハッキリいうと、陣内は、一流の料理人になれないと思う』って、そう言われてしまいます。でも、その一方で『一流のサービス人にはなれると思うよ』と言われたんです」。
料理人には向かない、というのがその意味だろう。
「私も実をいうと、その頃、料理より、サービスに興味があったんです。ただ、料理人への気持ちがゼロじゃなかったし、怒られて逃げ出すようなことはしたくなかったので、意地で頑張っていたんです。だから、実はこの一言は私にとっては、救いの一言だったんです」。
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株式会社古久家 代表取締役社長 小林剛輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”  株式会社古久家 代表取締役社長 小林剛輔氏登場
本文より~

創業昭和22年。藤沢市民のソウルフード、その始まり。

「古久家」の歴史は古く、開業は1947年とある。一般的に言われる終戦の直後だ。酒問屋を営んでいた初代社長の小林三郎氏は「これから庶民は、甘いものを欲しがる」と、祖母の実家が穀物の集荷場をやっていたつながりで、新たに和菓子店を開業。これが「古久家」のルーツとなっている。
和菓子から「中華」に舵を切るのは、1971年のこと。和菓子の製造を中止し、店舗を中華料理・ラーメンに絞り「古久家」を展開する。
二代目の小林春代氏も、庶民目線を忘れず、1999年、ラーメンブームが到来し、ラーメンの価格が高騰するなかでも、低価格での提供にこだわり、一杯350円で提供する「中華そば寅」を開業する。振りかえれば「古久家」は、創業からずっと庶民の味方でありつづけたことがわかる。
さて、この「古久家」の三代目社長が今回、ご登場いただいた小林剛輔氏である。小林氏は、1971年10月18日、藤沢市に生まれている。ちょうど祖父が中華料理・ラーメンに舵を切る時だ。
「和菓子店を畳んだのは、私が生まれる直前だったそうです」と小林氏も語っている。
小さい頃の小林氏は、比較的大人しい性格で、料理が好きな少年だった。祖母とともに、「お手伝いさんにも育てられた」と言っているから、裕福だったのだろう。
実際、3歳時にグアムに行ったと言っているから、相当、経済的に恵まれていたはずだ(当時は、今のように海外旅行は一般的ではなかった。それだけ庶民にとっては高根の花だった)。

旅行好きは、母親譲り。

「私が小さい頃に両親は離婚します。母は当時から店にもでていましたので、私は祖母やお手伝いさんに育てられた感じですね。もっとも、母との思い出も多く、母が旅行好きだったもんですから、2人でよく旅行にでかけました」。
北海道や信州、グアムもそうだし、ニューヨークやパリにも足を伸ばしている。
小学校は、湘南学園。中学は、東海大学の付属中学に進学。エスカレーターで大学まで進学できるのが、決め手だった。中学からブラスバンドを開始。チューバを担当していたそう。高校では、生徒会長に就任。のちに制服が替わるのだが、そのきっかけをつくったという。
ところで、母がそうだったように、小林氏も旅行好きだった。小学4年から一人旅をしている。「ええ、ホテルを予約して、列車に乗って。そうですね。母に、『家出ではありません』と一筆書いてもらって」。思い立ったら旅に出る。それは今もかわらないらしいが、このエピソードからも、早くから自立していたことが伺える。
「料理も好きでした。誕生日にちっこい目玉焼き用のフライパンを買ってもらって、得体の知れないものをつくっていたそうです/笑」。

東海大学中退。

実は、小林氏には5つ離れた兄がいる。しかし、小さな頃から家業を継ぐのは、弟の小林氏という流れだったそう。「兄は自由人で、縛られるのが何よりイヤな人で、早くから継ぐ意思がないと言っていました。反面、私は料理も好きだったからでしょうか、いずれ会社を継ぐのはオレだと。18歳の時に、2代目の社長である母から問われ、意思を固めました」。
大学進学と将来の道を二つ同時に決定した。もっとも大学のほうは、中学生時代からの既定路線。ちかくにあった「すかいらーくグループ」の「藍屋」でアルバイト三昧。結局、3年間で取得したのは2単位で、自主退学している。
「大学には行っていたんですが、キャンパスの芝生のうえでゴロと寝そべって空をみているばかりで、授業には出ていなかったんです。どうしてでしょうね。やる気がぜんぜんでなくて/笑」。
反面、藍屋では3年間まじめに(本人談)勤務し、大手企業のノウハウを取得した。いずれそのノウハウを移植する予定だったに違いない。「21歳で大学を中退し、うちの会社に入ります。当時5店舗目を出店する時で、その店の店長としてのスタートです。最初はバイト時代につかんだノウハウを活かそうとして、いろいろ問題を起こしました/笑」。
三代目となるべく、入社したのが21歳の時。社長を引き継いだのが36歳の時である。
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株式会社TDG. 代表取締役 田邉勇人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社TDG. 代表取締役 田邉勇人氏登場
本文より~

静岡県沼津の野球少年。

沼津は、伊豆半島の付け根、愛鷹山の麓に位置する港町だ。目の前には駿河湾が広がっている。今回、ご登場いただいた田邉氏が、この沼津に生まれたのは、1974年。兄弟は2人。兄は秀才で、早くから跡取りは弟の田邉氏と決まっていたそうだ。
「うちは、酒屋です。兄貴は頭が良くって、有名な大学にも進んだスーパーエリートだから、沼津のちっちゃい酒屋はないだろうってわけで、出来の悪いぼくに、跡取りの役割が回ってきたんです」。
父親は身長が高かった。172センチ。当時の人では、たしかに高いほうだろう。息子2人も高く、兄は182センチ。弟の田邉氏は187センチある。
「昔から、背は高かったですね。小学校から野球をはじめて、高校までずっとつづけます。身長は、中学の時に、とくに伸びて、22センチ高くなりました」。
「朝起きると、景色がかわっていた」らしい。かわりに関節が痛かった。「昔のことですからね。科学的なトレーニングもないし、いまだったらもう少し違ったトレーニングもあると思うんですが」。
高校に進学する時にすでに180センチはあった。野球では、もちろん、ピッチャー。「スピードはいっても130キロくらいしかでなかったですが」。それでもたいしたもんだ。
「ええ、つよい学校ではなかったんですが、いっても毎日、野球です。そりゃ、高校までの人生の大部分が野球です。母親に兄とおんなじ塾に行かされたこともあったんですが、兄貴とは違って、ぼくは塾に着くなり爆睡です/笑」。

2代目、大喧嘩の末、店をでる。

二代目就任は既定路線だった。だから、高校を卒業後の進路も決まっていた。
「静岡市にある有名酒店で修業です。2tトラック8台あったかな。そのトラックで繁華街を走り回り、お酒を卸していました。修業期間は2年です。一般的な2代目の修業コースですね/笑」。
修業が終われば、実家にもどる。これも、既定路線。しかし、そこまでは、予定通りだったが、半年くらいすると、しばしば父親と衝突。雲行きが悪くなる。
「最初は、気を遣って黙っていたんですが、やるからには業績も上げたいじゃないですか。それに、修業先で、ちゃんとした経営を観てきたから、オヤジの古いところに気づいてしまうんですね。それで、意見するようになって。ちょうど1年くらい経った時に、大喧嘩です」。
勘当されてしまったそうだ。田邉氏も、悪くないと思っているから、頭を下げられない。「それで、無職です。最初は、得意だった簿記をいかして、会計事務所で勤務するんですが」。それも1年しかつづかなかった。
「田舎でしょ。職を転々とするのは、まだいけないことの一つに数えられていたんです」。
「それで、こいつはヤバいぞ」と、悩んだそうだ。では、何をするか。
「やるなら、やっぱり好きな仕事だな、と思って『スポーツトレーナー』をめざすんです。鍼灸もできるようにしたかったから国家資格を取得するつもりでした。でも、取得するには専門学校に行かなくっちゃなりません。でも、お金がない。だからといって、親を頼れない。それで、社会人なのに、もう一度、バイトです」。

キャバクラの虜になる。

「昼は、びっくりドンキーです。夜は、静岡でもトップクラスのキャバクラでボーイをしました。ええ、いちばん時給が高かったんです。この店が」。
昼はウエイター、夜はボーイ。時給の多寡だけではなく、田邉氏は次第に夜の仕事に惹かれていった。
「たしかに、序列もきびしいし、女の子からしてもぼくらは奴隷です。でも、女の子も、お客様も人間でしょ。それを巧くマッチングできたら、莫大な利益を生むんです。そんなビジネスのしくみがわかると、もう、辞められなくなりました」。
面白くてたまらない? 
「そうです。楽しいから、頑張ります。そしてら、評価されて、1ヵ月くらいで社員にならないか、と声がかかりました。それで、いちおう悩んだんですが、昼のバイトは辞めて、『スポーツトレーナー』も断念します。これが、ぼくが22歳の時の決断です」。

部長の座を捨て、独立をめざす。

この静岡でもトップクラスのキャバクラは、静岡の会社と東京の会社が共同で経営する店だった。オペレーションは、東京の会社が行っていたそうだ。
「この店で、尊敬する経営者に出会います。そう、共同経営の一方である東京の会社の社長と、ナンバー2の常務です。その会社も、いまからみれば、信じられないくらいちっちゃい時代です。実は、この会社にぼくは10年在籍し、部長になっています」。
社名はださないが、いまや大手企業の1社で、マスコミにも何度も登場している。「社長に惹かれた理由ですか? だって、ぼくより7つ上で、ぼくが23だから、社長は30歳です。そんな30歳の若造が、店にランボルギーニで登場するんです。もう、マンガでしょ」。
常務とともに、右腕、左腕になる。そして、常務が独立し、田邉氏も、会社を去る。
「けっして、社長ともめたわけではないです。いまも、飲んだりしますからね。ただ、すごい人をみてきたわけでしょ。オレも独立してやりたい、って。そう、10年経った頃に、そんな気持ちが抑えきれなくなったんです」。
これが、田邉氏32歳の決断。
・・・続き
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