2016年10月26日水曜日

10月25日発行の日刊ゲンダイに旭鮨總本店株式会社の丹羽豊社長が掲載されました。

10月25日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に旭鮨總本店株式会丹羽豊社長が掲載されました。

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日刊ゲンダイに気になる記事が出ていました。

日刊ゲンダイに大変気になる記事が出ていました。
私どもは人材採用(求人)の仕事をしていますが、飲食業界の大手2社比較では、1人採用するとその生涯給与額は1.5億円~2億円強かかるようです。

いろんな企業様の採用お手伝いしていますが、皆さん高い買い物している感あまりないですね。
来る人拒まず、よく聞きます。
理由は採れないかなとか・・・。

でも、最初にお金かけてでも人材を集めてを選んで採ならければ、後あと高くつきます!!
人の性格や資質はそんなに変わりませんからね・・・。
最初に投資されるか、後に投資されるか。
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旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”創業90周年の旭鮨總本店株式会社 代表取締役 丹羽 豊氏登場。
本文より~

やりだしたら、途中で逃げない。それが流儀。

群馬県国定村。今では伊勢崎市となっている。この国定村に、丹羽氏が誕生したのは、1956年である。兄と妹に挟まれた次男坊。運動神経が良く、中学時代から始めた卓球で群馬県の郡大会で優勝している。
「高校は前橋商業に進学しました。卓球が強い学校で、インターハイにも9年連続で出場しているような学校でした」。県立だから、むろん推薦で入学はできない。にもかかわらず同期には、中学時代に全国大会で1位や2位になったような選手がいたそうだ。
「そういう奴がいたもんだから、1年の時は入部を見送ったんです(笑)。でも、さすがに何もしないというのもなんだから、2年になって入部します。もともと巧い選手ばかりでしたし、1年の遅れがあったもんですから、なかなかいい成績は残せませんでした」。
それでも、当時は3年連続インターハイに出場している。県では群を抜いたチームだったのだろう。「練習は、それなりにきつかったですね。辞める奴も結構いました。私は2年からですが、最後までちゃんと続けました」。
1年のブランクは、肉体的にもハンディキャップとなったはずだ。おなじ練習をしても、疲労度は、1年分、異なる。それでも、やりだしたら、途中で逃げない。それが、丹羽氏の流儀なのだろう。
これから先を進めていくわけだが、我々は、度々、その流儀に、驚かされることになる。

旭鮨総本店で、寿司職人になるための、見習い期間がスタートする。

「私が鮨屋をやろうと思ったのは、なんといえばいいんでしょうね。何もやりたいことがなかったから、っていうのがいちばん正しい気がしますね」。
丹羽氏が鮨屋に入る経緯はこうだ。
「もともと鮨屋でバイトをしている奴がいたんです。もちろん、群馬で、です。そいつが『高校を卒業したら、東京の鮨屋で仕事を始めるからついてきてくれ』っていうんですね。それで、私もついて行って面談もいっしょに受けたら、家に帰った時には、その鮨屋から合格通知が届いていたんです」。
その鮨屋が、その後、40年以上勤務することになる「旭鮨総本店」である。
「それで、さっきも言ったように、『これだ』っていうものがなかったから、『鮨屋でもいいか』って、私が就職して。いっしょにいった奴は、結局、地元の鮨屋ではたらくことになったから、私1人が東京に向かうことになるんです」。
高卒で、鮨屋というのは、当時、どういう選択肢だったんだろうか。丹羽氏が18歳とすれば、1974年のことである。1970年、万国博覧会が開催され、食文化においても、「マクドナルド」や「ケンタッキー・フライド・チキン」が日本に登場する一方、「すかいら~く」などのファミリレストランも台頭する。飲食店の経営が近代化されていくのも、この頃からだ。
しかし、鮨屋は、まだまだ旧態依然とした、伝統文化に染まったままだったに違いない。鮨職人も、むろん徒弟制の時代だったはずである。
「旭鮨の創業は、1927年ですから、私が入社した頃ですでに50年ちかく経っていました。いわゆる老舗です。いい寿司職人がいて、その技を代々、受け継ぐことで、はじめて成り立つ商売ですから、私たちも、ある意味ちゃんと育てていただきました。いまはもう、そういうシステムではないんですが、当時は5年です。5年続ければ、見習い終了です」。
5年といえば、ずいぶん長い期間だが、伝統の技を受け継ぐというのはそういうことなのだろう。
「私の同期は、8名です。実は、この8名が全員、5年の修業を終え、見習いを卒業するんです。その後も含めていままでの90年間で、全員が辞めずに卒業したのは、私らが唯一なんです」。
いい勲章である。8人は寮生活。数名が1部屋でいっしょに生活した。どんな話をしていたんだろう。へこんだ仲間がいれば、励ましあい、逆に、いいことがあれば、全員で喜びあった、そんな関係だったに違いない。いずれにしても、「やりだしたら、途中で逃げない」という丹羽氏の流儀はここでも貫かれている。

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2016年10月19日水曜日

株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社壱OR八 代表取締役会長兼社長 増子竜一氏登場。
本文より~

パレスホテル入社、3年はしがみついてやる。

増子氏は、1976年1月27日、東京都豊島区に生まれている。父親は自営業を営んでいたそうだが、増子氏が小学2年生の時に廃業し、一家は、小平に移り住んだ。
「父は、無口な人で、家では母が主導権をにぎっていました。私自身は小さな頃からかぎっ子で、保育園も、夕方まで残っていました」。勉強はしなかったそうだが、スポーツには精をだし、中学卒業までサッカーを続けた。
高校は立川にある男子校。普通科だったが、大半の生徒が就職するような学校だったらしい。「飲食もいいかな、と思ったのは高校時代で、トレンディドラマに出ていたお洒落なお店を観て、憧れたのがきっかけです(笑)」。
三者面談で、「ホテルマンは、かっこいいぞ」と先生に勧められ、立川にオープンする予定の「パレスホテル」に入社を決める。ただし、思い通りにはいかないもので、最初の半年は、本社勤務となる。「本社で、何を勉強しろと言われたと思います? ふつう英語とかでしょ。でも、私が言われたのは、日本語でした(笑)」。
たしかに、と思う。今どき、大学をでても、ただしい日本語を操れる人は少ない。しかし、本人にとってはどうだっただろう。ともかく、「3年は、続けてやる」と思っていたそうである。

2つの店での、修業時代。

「私が配属されたのは、宿泊部です。TVで観たのは、格好いいバーテンダーだったんです。バー部門への異動を何度も希望したんですが、辞めるまでずっと宿泊部でした(笑)」。
それだけではないが、結局、4年でホテルを退職した。飲食業が念頭にあったのだろう。当時、吉祥寺で人気店だった、「チャールストンカフェ」のオープニングにスタッフとして参加する。これが22歳の時である。
「今では、住みたい町№1になって、すっかり昼間の町って印象ですが、当時の吉祥寺は、まだ夜の町だったんです。風俗もあったし、飲みや繁盛した。私も酒が好きで、吉祥寺って町も好きだったもんですから、吉祥寺で仕事を探しました。『チャールストンカフェ』は朝まで営業するカジュアルなイタリアンです。アルバイトからスタートして4年、勤務し、次に『ワイズテーブル』で勤務します。『サルヴァトーレ』の前身となるバール部門に配属され、こちらで2年間勤務しました。大きな声では言えませんが、当時は15時間勤務です。家にも帰れません(笑)。ただ、それで、仕事の筋肉がついた、と感謝しています。ともかく、これで、ホテル時代から数えて10年です。28歳で独立という目標も掲げていましたので、会社が上場する前だったんですが、2年で辞表だし、退職しました。」。
「チャールストンカフェ」も「ワイズテーブル」も、いい経験になった。「チャールストンカフェ」では、今なお、尊敬する先輩にも出会った。
「全体を盛り上げるというか、凄い人でした。その先輩に引っ張られるように、スタッフも、全員が真剣です。みんなで飲みに行っても、仕事の話。悔しくて、泣き出す女の子もいたほどです。それでも、チームワークは抜群。今でも、いちばん仲がいい連中かもしれません。そういう店をつくったのが、その先輩だったんです」。
いろんな意味で薫風を受け、刺激も受け、独立までの日々が過ぎた。「私は、料理人ではないんで、何をするかは、ある意味、フリーハンドです。バーもいいですが、とにかく料理をだす店をつくりたかった。それで、目をつけたのが、リゾットだったんです」。
「もともとイタリアンだったから、イタリアンといえばパスタやピザの専門店だな、と思っていた時に、アレ? リゾットがないぞ(笑)って。ふつう2~3品はあるでしょ。しかし、リゾット専門店がない。リゾットは、具によって何通りにも広がる楽しい料理なんです。よし、これで勝負しよう、と思い立ちました」。

初期投資は1500万円。

「ワイズテーブルを退職して、オープンするまで半年以上かかっているんです。というのも、なかなかいい物件がみつからない。だから、その半年は、パチンコ店でバイトをしていました(笑)」。
ようやく見つかったのが、吉祥寺の駅からそう遠くないビルの地下1階だった。「駅からそう遠くはなかったんですが、イタリアンをここでする? ってロケーションだったんです。イタリアンだから、女の子がターゲット。でも、近くには、風俗街があって、呼び込みのお兄さん方の横を抜けきらなければ、来ることができない(笑)。それでも、今思えば当時は、そういう町だけど、元気があり、人が多かったのも事実です。オープンするなら吉祥寺だと決めていたもんですから、ようやく空いた物件を手放すわけにはいきませんでした」。
家賃は安かったが保証金が20ヵ月とべらぼうだった。
「もともと四川料理店の居抜きだったんですが、内装が気に入らなくて、ぜんぶやり直しました。それで、かかったお金が1500万円です」。手元にあった軍資金は、300~400万円。残りは、金融公庫と信用金庫から借り入れた。「担保がたいへんだったんです。それぞれ500万円ずつの融資を受けたんですが、代わりに、実家を担保にしろ、と。そりゃ、親は納得できなかったし、猛反対です。父親が、事業に失敗しているから尚更です」。
土下座をして、事業計画書をみてもらって。ご両親にすれば、家を担保にすることはもちろんだが、事業リスクを背負う、その意味を、息子に教えたかったのだろう。
10年という時間の経緯を知っていても、迂闊な返事はできるはずがなかった。しかし、ご両親は、息子のやりたいという思いを尊重されることになる。

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2016年10月14日金曜日

株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏氏が登場。
本文より~

中学入学2日目、「大きなお世話だ」と吠えた。

今回ご登場いただく、株式会社クリエイト・レストランツ、代表取締役社長、池田宏氏は、1960年、山形県酒田市に生まれる。4人家族の2人兄弟。兄とは3つ離れている。
「子どもの頃から、影が薄かった」と池田氏は笑うが、中学入学して2日目、3年生に呼び止められている。本当に影が薄ければ、こうはならないだろう。
「入学して2日目です。3年生が『なまいきな奴だ』と言ってきたんです。『なんなんだ、こいつは』と思って『大きなお世話だ』って怒鳴り返しました。そこまではまぁ、よかったんですが、怒鳴り返したとたん、容赦ないパンチが飛んできて、ボコボコにされました(笑)」。
相手が悪かったそうだ。
「5年後、後楽園ホールで開催されていたボクシングの試合を観ていたら、その先輩というか、3年生がリングに上がって試合をしていたんです。そう、プロボクサーの卵だったんです。そりゃ、勝てません」。
未来のプロボクサーに吹っ掛けられたとはいえ、2学年下、しかも入学早々噛み付いたのだから、池田氏の中学生時代がほぼ想像できる。負けん気というか、怖いモノ知らずの性格もまた想像できる。

初ステージは、50円。ほろ苦いプロデビュー。

高校卒業、母の勧めもあって「東北電力」を受験し、内定をもらう。
「そうですね。あのまま、東北電力で勤めていたら、また違った人生だったでしょうね。むろん、内定をもらっていたんで就職するのが当然なんですが『いざ、就職か』と思うと、なんだか「まだ、働きたくないな』って思いが頭をもたげてきて。それで、内定を辞退して、3年生の年末から今までしてこなかった勉強を、なんとか開始して翌年、東洋大学に進学しました」。
 東洋大学を選択したのは、2人の好きな卒業生がいたからだ。植木等氏と、坂口安吾氏である。「今の人にはピンと来ないかもしれませんが、植木等は当時有名な歌手で、コメディアンです。坂口安吾は小説家です。私は、この2人を先輩にしたくて、東洋大学に進み、植木さんのようになりたくて、音楽サークルに入部します」。
 先輩が歌を歌い、池田氏がギターを弾いて、やがてプロデビューもした。もっとも、プロといっても観客1人に対し、100円支払うような契約だったらしい。「初ステージは悲惨でした。まだゼロのほうが、ある意味マシですよね。観客は1人。ステージが終わって、100円をもらって、2人で分けました」。1人50円のほろ苦いプロデビュー。母には、冗談で「ミュージシャンになる」といったが、信じてもらえるはずもなかった。

日本ケンタッキー・フライド・チキン、入社。

東洋大学を卒業した池田氏は、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社(以下、ケンタッキー)に就職する。何ができるのか、何をしたいのかが、自分でもよくわかっていなかったので「成長している会社」に就職したのが正直なところだそうだ。
ケンタッキーは、1970年3月、日本に登場する。同年7月、三菱商事とKFCコーポレーションの出資により日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社が誕生。同年、11月21日、名古屋市のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に1号店がオープンする。しかし、華々しいデビューとはいかず、半年で1号店は閉店に追い込まれている。
このあたりの経緯は、初代店長であり、のちに社長に就任される大河原毅氏を通し、お伝えさせていただいている。飲食の戦士たちの姉妹サイトであるクロスαをご覧いただきたい。
ケンタッキーは神戸三宮の「トアロード」に出店した4号店で、火が付き、軌道に乗る。池田氏が就職したころは、もっとも元気だった時代だろう。
三菱商事という商社がバックにある。資金力も、ネットワークもある。様々な事業も打ち出した。「私は、9年間、ケンタッキーで勤務します。最後の半年は、ハワイで勤務していました。ケンタッキーを辞めたのは、ピザハットを立ち上げることになったからです」。むろん、関連会社である。現在は、ともに日本KFCホールディングス株式会社の傘下に収まる企業である。

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株式会社クリエイト・レストランツ 代表取締役社長 池田 宏
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2016年10月12日水曜日

10月11日発行の日刊ゲンダイにラー麺ずんどう屋の橋本龍八社長が掲載されました。

10月11日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”にラー麺ずんどう屋のZUNDホールディングス」橋本龍八社長が掲載されました。
首都圏版しかいつも見てないのですが、関西・中部地方はモノクロなんですね・・・。
(ZUNDホールディングス橋本龍八社長)

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2016年10月4日火曜日

有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏登場。
本文より~

横須賀の町に抱かれて。

「母と2人暮らしだった」と今回ご登場いただいた有限会社「たのし屋本舗」下澤 敏也氏。3歳から大の祭り好き。25歳~45歳くらいまで神輿の頭を任されていたそうだ。
「小学校くらいから、母と私の2人暮らしです。父とはちょくちょく会ってはいましたが、母1人、子1人です。親戚も少なかったもんですから、心を通わせることができたのは友達だけでした」。
そのぶん、友達を大事にした。当時は、商店街もまだイキイキしていた。子どもたちは駄菓子屋にむらがり、歓声を上げた。大人たちも、そんな子どもたちを時には叱りながらも、目を細めてみていたはずだ。
下澤家は友達のたまり場。いつも下澤氏の周りには友人がいた。祭りもみんなといっしょだった。「祭りが大好きな理由は、どこかで、真剣な触れ合いを求めていたんだと思います」。
小学6年生の頃からはバイトもした。「お彼岸やお盆の時期に、お花屋さんでアルバイトしました。日給7000円。超破格です(笑)」。
中学は、私学の横須賀学院。「中・高一貫の学校です。ドアツードアで40分。中・高一貫ですから、当然、高校も横須賀学院です。ちゃらちゃらした、楽しい学校でした(笑)」。
中学時代には海の家でバイト。バイトで貯めたお金で7万円もするギターを買ったが、すぐに飽きてしまって高価な置物になった。
ところで、横須賀は、神奈川県の東南部、三浦半島に位置する。東は、東京湾、西は相模湾に挟まれた格好だ。下澤氏の家も海に近く、下澤氏も、高校時代、毎日、海で遊んでいたそうだ。
横須賀という町に抱かれ、下澤少年は、大きくなっていった。

「三浦半島」で、みつけたもの。

「大学だけは出ておこうかなと思って、受験します。進んだのは、関東学院大学の夜間です」。やりたいことがなかった。なにをすべきかもわからない。「そうですね。方向が決まっていたら、大学にわざわざ行かなかったでしょうね」。
昼間も、実は、夜もバイトに明け暮れた。だから、大学にはほとんど通っていない。知り合いのクリーニング店を中心に、添乗員や、ラーメン店でもはたらきました。
卒業後も25歳までクリーニングで勤務した。「その頃から独立は意識していました。クリーニング店を退職した後、30歳まで4年間、居酒屋で修業。調理も一通り覚え、いよいよ独立と、創作居酒屋を立ち上げたんですが、お客様がぜんぜんいらっしゃらない(笑)」。
当初は、「いつかは、横浜や東京へ」とも思っていたそうだ。創作居酒屋で、女子の目も意識して、料理もスタイリッシュなものにした。友達も、知り合いも、たくさんいたから、それはそれで、「なんとかなる」と思っていたそうだ。20席。いま思えば信じられないが、席が埋まることもなかった。見事に鼻を折られた。
「たしかに、みんな来てくれたんですが、だいだい夜中なんです。彼らが来るのは。で、朝まで(笑)。それはそれで楽しかったんですが、儲からない。半年くらいで、行き詰まりました。ヤバイと思った、そんな時、1人で三浦半島をぐるっとひと回りしたんです」。
「衝撃を受けた」と下澤氏はいう。「江戸前の穴子は旨いと聞いていました。でも、それだけじゃなかったんです」。
「三浦半島は、食材の宝庫」と、知ったのはこの時。太平洋に突き出した半島は、東が東京湾、先端が南で太平洋、西が相模湾と3方向が海に囲まれている。「東と西では、獲れる魚も違うし、同じ魚でも味が異なる」そうだ。「陸に上がれば、畑には野菜があるし、卵もある、もちろん牛肉も。海に囲まれているから土も豊かで、ミネラルが豊富なんです」。
そこに暮らしながら、そこを知らなかった。ただしく言えば、三浦半島に暮らしながら、三浦半島のかたちしか知らなかった。もう少し下澤氏的にいえば、「三浦半島の食材のちからを知らなかった」ということになるだろう。
「それからです。魚も、野菜も、オーバーに言えば切るだけ。それが、うちのメニューになりました。ところが、創作時代より、お客様がいらしてくださって」。
もう、オープンして20年以上になるが、実は、この日、インタビューしたのは1号店。大人から子どもまで、にぎやかな声が、インタビューテープに刻まれている。席はほぼ満席だった。
「そうですね。これが、三浦半島のちからだと思うんです」。むろん、下澤氏が仕入れる食材は簡単に手に入らない貴重なものばかりだ。
「東京で食べれば、価格もぜんぜん違いますし、なんであれ、やはり鮮度がまったく違いますから」。食材のストーリーまで語れるようになった。「この魚が旨いのはなぜか」といったストーリーは、「旨さ」を際立たせる調味料となる。しかし、この調味料こそ、そう簡単には手に入らない。


・・・続き
有限会社たのし屋本舗 代表取締役 下澤敏也氏
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