2024年4月26日金曜日

4月25日ガーデン川島社長、東京理科大と東工大大学院にて講義。

4月25日東京理科大&東工大大学院にて教授されてる北澤氏のゼミに屋に家系の壱角家ラーメンや山下本気うどんなどの飲食店経営されているガーデン川島社長の講義に、キイストンの営業マンと一緒に同席させていただきました。
東京理科大にて登壇
後列より事業風景を撮影
熱量が違いますね。
上段の講義が東京理科大、下段の講義が東工大大学院
この日2講義目、もう慣れられた。
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年4月24日水曜日

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏登場。

本文より~

15歳。マックでのアルバイトが飲食業初体験。

「沖縄県那覇市の出身です。ただ、厳密に言うと戸籍は世田谷区の池尻大橋なんです」と出身地を語る當山氏だが、余談ながら付け加えると「池尻大橋」というのは駅名であって、地名も橋もない。おそらく世田谷区池尻もしくは目黒区大橋、東山だと思う。
「5歳までは千葉県の松戸で暮らしていたのですが、両親の離婚に伴い父親と妹は沖縄に、1年後、ボクも沖縄に移転しました」。
―「鯉一」というお名前ですが、どう読むんですか?―
「“りいち”と読みます。鯉の滝登りの諺からきている言葉のようです」。
離婚後、2人の子どもを引き取って沖縄に移り住んだ父親。職を転々とし、おにぎりの移動販売や沖縄そば店を開業するなどに挑んだが残念なことにどれも上手くいかなかったようだ。ただ、決して裕福な環境ではない状況下にあって父親は苦労を重ねながらも、2人の子どもたちに愛情を注ぎ慈しみ育てた。
「実家は古い平屋で隙間風が吹き抜けるような住まいでしたが、年に1、2回ほど回転寿司に連れていってくれたり、凄く嬉しかったですね」と思い出を拾い集める。
幼くして味わった両親の離婚。再婚を躊躇し結局は断った父親。それぞれに“大人の事情”があったのだろうが當山氏は多くを語ろうとしないし、ましてや訊くことでもない。
小学校から中学へ、そして高校へ。
「思い出というほどではありませんが、小学校4~5年生の頃は野球をしていました。また、いわゆる反抗期というのも記憶にありませんね」。
中学卒業後、地元の県立高校へ進学。そして、高校進学と時を合わせるかのように、地元のマクドナルドでアルバイトを始めた。

時給590円。働き収入を得る喜び。

「求人誌をみて“すぐ稼げる”ということで応募、採用されました。時給は590円でした。収入は、平均的には6万円くらい、夏休みは10万円ほどになりました」。働く=収入を得る。アルバイトを通して「稼ぐ喜びを知った」と當山氏。
―6万円であれ10万円であれ、大金です。特に高校生にとっては大金だったのではないかと思いますが、差し支えなければ使用先を……―
「高校の授業料、お弁当代、洋服を買ったり、交際費~未成年ながら主に飲み代ですが~に費消しました」。マクドナルドでのアルバイトは高校1年の4月から高校3年の卒業ギリギリまで3年間続けた。
「最終的にアルバイトの上の地位、トレーナーレベルまで昇格したんですよ。卒業後、進学はまったく考えていなくて就職するという選択でした」
「そう遠くないうちに、卒業のタイミングで沖縄を出てみたいと思っていたので愛知県の会社で働くことにし、応募しました」。

東京への思いを叶える資金を確保。

20人ほどの仲の良い友人とギリギリで卒業。進学の意識はなく働くことを優先的に考えていたが、学校で就職斡旋はなく自分で探すことになった。
―どのような方法で探したのですか?―
「職探しのために友人と職業安定所(ハローワーク)に行きました。希望を伝え紹介されたのが、愛知県刈谷市に本社を置く自動車メーカーのトヨタグループに属する自動車部品メーカー『デンソー』という会社でした。ボクらは西尾市の西尾製作所に配属されました」。
―どんな生活でしたか?―
「いわゆる季節工になるのかなぁ、仕事自体は単純作業でしたし交替制の勤務で寮生活でした。部屋は個室があてがわれ、食費以外の生活費、家賃とか水道光熱費などは全額会社負担でしたから、それなりに貯金することができました」。
―収入は?―
「月収35万円くらいだったですね」。
半年間働き沖縄へ戻ったのだが、東京への思いが立ち切れず、資金を確保するために再度、愛知県へ二度目の出稼ぎに故郷を離れた。
「結局、二度の出稼ぎをしたのですが、一度目は自身の欲求を満たす私利私欲のため、二度目は東京に行くための資金確保のためでした」。資金は溜まった。
いざ、東京へ!

資金を手に沖縄を発ち、1900㎞離れた東京へ。

沖縄県那覇市から東京までの距離は、約1900㎞弱。この距離を乗り越え、手にした資金を携えて高校時代の友人3人と上京。住まいは西東京市の田無に3人それぞれ部屋を借り東京での生活がスタートした。20歳のときだった。
「上京して驚いたのは、ヒトの多さでした。渋谷駅前のスクランブル交差点の人の波にビックリしカルチャーショックを受けましたね」。ちなみにこの交差点を渡る人数だが、正確に数えたわけではないので大雑把な数字になるが、一説によれば約3000人が一度に行き来をするらしい。
「アパレル関係の仕事に就きたかったんです。ただ、コトは簡単ではなく上京後、半年くらい、貯金が200万円ほどあったので、ほぼ毎日、友人と飲んでいましたね。上京した動機でもあるアパレルの仕事もなかなか見つからなくて……」。
―仕事がなければ収入もないわけで、いくら200万円あっても目減りしたのでは?―
「コンビニのアルバイトや美顔器のキャッチセールスなどで収入を得ていましたが、田無に友人と一緒にいても何も変わらない“東京のなかの沖縄”だと思って、環境を変えようと思いました」。
―どうされたのですか?―
「思い切って下北沢に引っ越しました」。
単独で生活拠点を構えた當山氏に、少しずつ「光」が見えてきた。念願だったアパレルでの仕事に就くことができた。
「アクセサリーショップの仕事、これはマルイのメンズ館でしたし、東京駅丸の内の新丸ビルにオープンしたブランドのオープニングスタッフとしてのアルバイトなどでした。ただ給与など待遇は決して良くなかったし、苦労していましたね。そこで得られた結論は“アパレルでは稼げない”ということでした」。
一方で、経済的に不都合な問題も抱えていて、環境を変えたいとも思っていた。

「好きなことしたら……」。飲食の道へ繋がった友の言葉。

逃げるようにして横浜に住んでいた友人の部屋に転がり込んだ。そこで友人がかけてくれた言葉が、飲食業へ進み生涯の生業(なりわい)となるきっかけになったと當山氏は振り返る。
―どんな言葉をかけてくれたのですか?―
「基本的には甘やかしてくれました。そして、こう言ったんです。『好きなことに取り組んでいるキミでいて欲しい』と……」。友の言葉に揺さぶられた。
―具体的にどんなアクションを起こしたのですか?―
「横浜のクラブのオープニングスタッフとして採用されました。その後は中目黒や神泉のカフェやレストランで働きました。大したことをした記憶はないのですが、この時期に“飲食業の楽しさ”を知りましたね」。
4~5年経ってカフェの店長に。27歳になっていた。
「飲食業の面白さ、楽しさを体感して飲食業で独立することを考え出しましたね。ただし、
すぐに独立したかったのですが、無謀なことは避けたかったので、ご縁のあったアドバイザーに相談しました」。
―アドバイザーはなんと?―
「『独立するなら29歳か31歳が良い』とアドバイスいただきました」。

・・・続き

株式会社トーヤーマン 代表取締役 當山鯉一氏

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株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏登場。

Yahoo!ニュースにも記事が出ました。

銀座の400席・フード150品目のブッフェレストランが大盛況 40歳中国人女性経営者の手腕とは

本文より~

アニメを観て触発され、親近感が醸成された。

2002年、ひとりの中国人女性が成田空港に降り立った。女性の名は、孫芳。ここから日本での歩みの第一歩が始まった。
「中国内陸部に位置している河南省の出身です。内陸部とはいえ奥深い地ではありませんが、北京や上海と比べると、さほど裕福な地ではありません」。
広大な中国にあって河南省の面積は日本の約半分、人口は一億人ほどだ。重要な農業生産地域でもあり“中国の食糧庫”と称される地である。また中国古代文明の発祥地のひとつであり、先史時代の裴李崗文化や仰韶文化などの遺跡があるためか「現在は旅行業、観光業が発展しているようです」とのこと。
実家は飲食業を営んでいたという。
「父親が料理人でしたから一店舗ですけど、いわゆる中国の“B級グルメ”と呼ばれる店を経営していて母親が手伝っていました。飲食が身近な世界だったですね」。この小さな経験が日本で花開くことを、当時本人は自覚していない。
「生まれたのは国が推奨する“一人っ子政策”の時代でしたけれど、妹と二人の弟の四人でしたから、ちょっと恥ずかしかったですね」。
日本と同じ中学校までの9年間の義務教育を経て高校へ進学。その頃から日本に興味を抱いたようだ。
―きっかけになったことでも?
「アニメですよね。ドクタースランプやクレヨンしんちゃんなどのアニメが刺激になりました。日本て、どんな国なんだろう、行ってみたいなと思うようになりましたね」。
小さな好奇心から始まった日本への興味。やがて小さかった興味は大きく膨らみ、日本の大学へ進学することを決意。日本語学校で一年、英語専門学校で同じく一年、そして昭和女子大学で二年学び、目白大学への進学を果たした。
「日本語は、N1レベルまで学びました」。“N1レベル”というのは、日本能力試験の最高難度、ビジネスレベル以上である。かなりの努力家であることが伺える。

異国の生活の苦労やホームシックを乗り越え、新しい自分に目覚める。

「四人で来日し、住んだのは新大久保です。これは、中国を立つ前から確保していました。ただ新大久保への行き方が分からなくて迷っていたとき、親切な男性が、交通機関の案内や乗り換えなど教えてくれたんです。とても助かりました。日本人て、親切だし優しいなぁと感じましたよ」。
―日本の生活で不慣れな点など、ありましたか?
「最初は不慣れなことが多く、一年目はしばしば帰りたいと思いました。ホームシックっていうやつでしょうね。ただ二年目になると日本語も上手になったし、友だちもできて慣れてきました」。
―生活費などは、どうしていたのですか?
「中国語の先生や居酒屋でのアルバイトなど、複数の仕事で得た収入で暮らしていたんですが…」。
―「が…」とは?何か問題があったのですか?
「一緒に日本に来た四人とひと部屋で暮らしていたんですが、行き違いもあればコミュニケーションが上手くいかないことや何気ないことでも軋轢がありました。時々、喧嘩もしましたし…」。こうした生活は長くは続かず、結局は一年で解消した。ちなみに孫さんを除く三人は、その後、帰国したという。
ひとりになった孫さん。僅か短期間だったが、自分が変わったこと、変われたことを実感したという。
「大人になったように感じました。中国にいた頃はわがままでしたが、両親への感謝も芽生えましたし、自立すること、自律することなど、しっかりするようになりました。言ってみれば独立心が旺盛になったと感じましたね」。そして、こう口にした。
「日本に来て変わったと思います」。

銀座に高級中華料理を低価格で提供できる店を開業。

「大学を卒業して、メディア関係の会社に就職しました」。
4年間ほど勤めた頃、会社に不満があったわけではないが、独立したいという思いで退職。飲食業を開業しようと決心。中国人留学生として来日してから11年、29歳のときのことだ。
「元々は飲食業を目指したわけではないんですが、飲食業を始めようと決めたのには、三つの理由がありました」。
―ひとつ目は?
「会社勤めの頃ですが、取引先との会食で銀座の高級中華料理店に行く機会がありました。高級なだけあって味は素晴らしいんだけれど価格の高さが気になったんです。同じレベルの食材を使った高級中華料理を低価格で提供できないかと考えたことです」。
―ふたつ目は?
「飲食店に慣れ親しんでいた、ということです。先ほども話しましたが両親が小さいながらも大衆食堂を営んでいました。そこに集まる近所の人やお客さんの楽しそうな振る舞いや一生懸命に働く両親の姿を日常的に目にしていましたから……」。
―最後のみっつ目は?
「留学中に飲食店でアルバイトをしたことがあったのですが、上司が優しい人で、かつ仕事の取り組み方など丁寧に教えてくれたことが、自分の生き方の指針にもなったことです」。
―飲食業として独立・開業するための資金の準と開業場所は?
「資金は来日してから貯めていた自分の貯金と実家からの援助で準備し、場所は銀座。7丁目に『銀座芳園』をオープンしました。ちょうど10年前の2014年1月です」。
「ただ物件探しは苦労しました。なかなか貸してくれなかったんですよ。どうにか借りられたのが9階建てビルの6階、30坪ほどの広さでした。コンセプトは、開業前から考えていた“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”でした」。
比較的短期間で経営は軌道に乗ったが、最初の半年は苦労したと創業当時を振り返る。
「ただ、“高級食材を使ってリーズナブルな価格で提供する”というコンセプトが口コミで広がったり、メディアで紹介されたこともあって、認知度が一気に高まりました」。

“禍を転じて福と為す”。コロナ禍だったからこそ、チャンスを掴めた。

認知度の高まりは、次の拡大、展開の起爆剤としてプラスの機動力を発揮する。
「2016年、四川料理が好きだったこともあり、同じく銀座に2号店として創作四川料理の店をオープンしました。お陰さまで盛況でした」。
「中華料理を知ってほしい」という孫さんのイズムが受け入れられ、3号店を銀座に、4号店を本郷に出店、そこに“新型コロナウイルス禍”が襲い掛かった。
「“新型コロナウイルス禍”は、3号店も4号店もオープンしてから間もない頃でした。家賃が高く銀行から借り入れして維持していましたが、結局は撤退しました」。
当時、政府が飲食業だけではなく、新型コロナウイルス禍でダメージを受けた企業に補助金を用意したが申請が遅かったために受けられず、資金面を考え、止む無く撤退したという。
「お客さんが来なくなり2店舗を閉鎖しましたし、スタッフも出勤できなくなり営業に支障を生じました。振り返るととても辛かったですね」。
だが、苦境の中に、ひと筋の光が差し込んだ。
「大家さんから自身が所有するビルのテナントがすべて撤退してしまったので、家賃は無料(!)でいいから一年間、借りてくれないか、という好条件の話があり快諾しました」。居抜き物件だったため什器備品が揃っており、費用が看板を変える程度の費用で済んだ。
「この店は、高級中華料理店とは真逆のスタイル、つまり人との接触を減らすためにセルフ方式を採用し、低価格を前面にした大衆酒場として開業しました」。
こうした経験、それは賃料を下げても早く貸したい貸主と安く借りたい借主との需要とが合致すれば、好条件で居抜き物件を使えることを教えてくれた。
「この方式で取り組んだことが、店舗拡大の大きな要因でしょうね」と孫さん。
以後、2022年9月、高田馬場に『孫二娘 潮汕牛肉』をオープンしたのを皮切りに、『孫二娘 潮汕牛肉火鍋』(上野)、『乾杯500酒場』(新橋、船橋)、『ホルモン専門店 乾杯500酒場』(蒲田)<『北京ダック専門店 銀座芳亭』(銀座)と短期間で出店を重ね、創作レストラングループへと変貌を遂げた。
そして2024年2月、高級食材を目玉にした大型ビュッフェレストラン『海鮮ブッフェダイニング銀座八芳』が銀座にオープンした。

・・・続き
株式会社FANG DREAM COMPANY 代表取締役 孫 芳氏

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2024年4月23日火曜日

いろいろ動きあり。

今期は「飲食の戦士たち」1,000連載達成!があるためキイストンの認知度アップのチャンスです。
新人が営業しやすいように、いろんな形で動いていきます。
現在ネタを仕込み中。
早く社員が育ち、後ろで支えるフィクサーになりたい(笑)

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2024年4月22日月曜日

金沢八景にて、海釣り参戦!!。

海釣り参戦!!
金沢八景にて・・・。
妻の友だちの人たちで釣りクラブ主催に連れてい行ってもらいました。
至れり尽くせりで、沢山アジ釣れました。
最高の釣り日和でした。

 

森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

 昨日は森浩美さん主宰の朗読劇「家族草子」、の最終日に行ってきました。

いつも感動もらってます!
朗読劇と言っても「家族草子」は、台本を手にしながら演技をするという、朗読と芝居を融合させたもので、家族愛にホロっとします。

主宰者の森浩美さんプロフィール
作詞家・作家。
田原俊彦「抱きしめてTonight」・森川由加里「SHOW ME」・SMAP「青いイナズマ」「Shake」「ダイナマイト」・Kinki kids「愛されるより愛したい」・ブラックビスケッツ「タイミング」等、作品総数約700曲。
また、家族を題材にした「家族の言い訳」「こちらの事情」「夏を拾いに」「ほのかなひかり」「こころのつづき」等のロングセラー小説多数。近著に「家族連写」「終の日までの」。

2024年4月17日水曜日

クリーンライフ大野宗社長が、タイトル『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』の書籍を出版!!

私どもが応援してる完全ゴキブリ駆除の掲げ「駆除技術日本一」へ邁進されている“クリーンライフ”大野宗社長が、『営業をしなくても仕事がやってくる G駆除業者のすてきな話』を出版されました!!

【各プレスからのニュースリリース
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株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 河野博明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワンダーテーブル 代表取締役社長 河野博明氏登場。


本文より~

少年のコンプレックス。

今回、ご登場いただいたワンダーテーブルの河野社長が、愛知県岡崎市に生まれたのは1974年のこと。「大学で東京にでるまで、岡崎です。剣道をつづけ、小学校の頃はバレーボールもしていました。実を言うと、今、180センチあるんですが、小学校の頃は横が…」。
けっこうな悩みだったそう。
「だって、体育の授業で、私ら太っている組は別プログラム。ダイエット体操が始まります(笑)」。それは、傷つく。生徒のためといっても、今なら、大問題。
「コンプレックス? ありましたよ。卒業写真、うちは、プールサイドで撮影だったんです。今みても笑うんですが、1人、必死で、お腹を凹ましている生徒がいるんです(笑)」。
ご両親がスポーツを勧めたのも、スリムな体型にしたかったからかもしれない。ただし、原因は母親にもある。「母は、美味しいものにはお金を惜しまないって人で、週末は決まって外食に連れて行かれました」。
小学生が食べる楽しみを知ってしまったわけだ。それでも、中学生になって体型がかわり始める。
「当時はちょっと荒れた学校で、バイクが校舎内を走っていました」。
咆哮するバイクのあとを、先生たちが追いかける。
「だから、校則がきびしかったんです。男子はみんな坊主。少しでも、伸びていると帰されます」。
制服だったが、下は、体操服の白いズボンで、登下校する。思春期の少年たちには、確かにつらい。押さえつけようとするから、バイクで乗り込む生徒も現れる。
「竹刀をもった先生って、今じゃTVの世界でしょ(笑)」。
河野社長も、多少、「悪さ」をしたが、ま、許される範疇と言うことにしておく。「成績は悪くなかったですね。高校は進学校に進みました」。
だが、そこで、息切れ。

学生時代のワンシーン。古着の買い付けに、アメリカへ。

「高校では、さすがに勉強しないとついていけません」。
大学受験。
浪人して、河合塾に通い出したが、ともだちといっしょあそびに行くのが日課になる。
「実は、2年目は、志望校だった名古屋の大学も受かったんです。でも、田舎もんでしょ。気持ちはやはり東京。華やかな世界に憧れてしまうんです」。
田舎者には、そういう習性があると言いたげ。大学に合格したことで、東京へのキップを掴んだことになる。
「大学に入ると、ソッコーで、テニスサークルです。キャンパスライフの王道ですからね(笑)」。
上京してすぐに、ともだち4人と、有名なディスコに向かった。残念なことに1人だけドレスコードにひっかかっている。
「残りの3人で、ディスコに潜入して、お立ち台にいる女の子に声をかけて」。
ボディコンのお姉さんと、デートの話がまとまった。

レストランの、作法。

しかし、人間、何がきっかけとなるか、わからない。ボディコンのお姉さんをナンパしたことで、河野社長の運命が動きだす。
「東京での初デートです。格好つけて、行ったこともない高級なレストランを予約します」。
ドレスコードの存在を知ったから、服装にも気を遣った。みたこともない世界が広がる。
席につき、メニューを開ける。
顔が青くなる。
「ぜんぶが、呪文です(笑)」。
腹を決め、呪文を唱えると、カクテルが現れた。
「お酒は、お酒好きの母親に似て弱くなかったんですが、アルコールがつよかったのか、初めて尽くしのシチュエーションがいけなかったのか、たった3杯でベロベロになっちゃいます」。
相手の表情にピンを合わすこともできなかった。
「むちゃくちゃ恥ずかしかったですね。その女性とはもちろん、それきりですが、このことがあって、レストランでスマートにふるまい、飲食できるスキルがないと、東京生活を楽しめないと思うんです」。
<ひょっとして、それでワンダーテーブルに?>
「正確には、ワンダーテーブルの前身ですが」。
失態を演じたレストランと同様の、おしゃれなダイニングレストラン。バイトを始めると、これが、面白い。「芸能人もいらっしゃいましたしね」。
合計5年、勤めている。
「評価も悪くなかったです。料理人が権力をもっているんですね。私は、ホールです。時々、厨房から『これ、売ってこい』って声がとんでくるんです。それをお客様にオススメして、オーダーをいただくと、堅物の料理長もほめてくださって。大学では勉強もしない落ちこぼれです。でも、レストランでは、いい評価がいただける。最高でしょ」。
たしかに、悪くない。
「それにね」と河野社長。
「お金をいただいているのに、『おいしかったよ、ありがとう』っていってくださるんです。最初に、この一言を聞いた時、衝撃が走りました。東京にでてきて、いちばんの衝撃だったかもしれません」。
飲食に魔性の一言があるとすれば、この一言だ。
大学生活と充実したアルバイト。成績では落ちこぼれだったかもしれないが、絵に描いたキャンパスライフ。ただし、キャンパスライフにも消費期限がある。

河野社長と、「ロウリーズ・ザ・プライムリブ」と。

「大学の卒業でやらかした」と河野社長は笑う。なんでも、卒業旅行から帰るとポストに、大学から1通の通知が来ていたらしい。「留年の通知でした。1単位たりなかった。あるアパレル会社に就職が決まっていたんですが、もちろん、あと1年、大学です。卒業できていたら、私の人生は、ぜんぜんちがっていたでしょうね。翌年、飲食店に就職します」。
副社長が外国人だったから、興味が惹かれたと河野社長。
「ただ、ワンダーテーブルとはちがったんですね。観光立地でリピートしないであろうお客様相手のサービスをしていて、違うと感じたんです」。
これが、めざしていたものか、自問自答する河野社長に、ワンダテーブルから、もどってこないかとオファーがとどく。
さて、河野社長といえば、やはり「ロウリーズ・ザ・プライムリブ」の話は外せない。
「ロウリーズは、アメリカのビバリーヒルズで創業したプライムリブ専門店です。日本では、赤坂、恵比寿、大阪の3店舗を展開しています」。
河野社長は、アメリカまで研修に行き、30歳前半で従業員120人規模のロウリーズの支配人に抜擢されている。
だが、はじめてつまづく。スタッフをコントロールできない。「あの時は、キツかったですね。私が若かったからだと思いますが、総スカンをくらって(笑)」。
若いからではなく、組織マネジメントができないからだ、と気づき、組織マネジメントを徹底してマスターする。「ただ、大阪に行くと、組織以前の問題で(笑)」。
赤坂のロウリーズは、連日満席で、月商1億円。しかし、170坪、234席がある大阪店の初日ランチは2組だけだったそう。河野社長は、天を仰ぐしかなかった。
「ロウリーズのおかげで、色々、勉強することができました」。
営業部長に昇進、2023年になって、社長にならないかと打診される。

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株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社スターティングオーバー 代表取締役社長 荒木裕伸氏登場。

本文より~

社名に込めた想い~出会いを大切にしたい!

2017年に設立した“株式会社スターティングオーバー”。
同社は現在、チャーハン専門店“炒王”の炒王事業(4店舗内1店舗は休業中)、鶏料理専門店“鶏千”の鶏千事業(5店舗)に加え、カレーうどん専門店“千吉”の千吉事業(10店舗)の三事業20店舗を展開している。
今回は、社長の荒木裕伸社長に、今日にいたるまでの歩みを振り返っていただき、併せて将来の事業展望を語っていただいた。
―“スターティングオーバー”という社名にされた意図、どのような想いを込めて命名されたのですか?―
「とてもシンプルな英語ですが、直訳すると“新しい始まり”を意味する名詞です。別段特殊な言葉ではなく、日常生活やビジネスシーンなど、さまざまな場面やシーンで使用されているようですが、“新しいスタートを切る”“初めからやり直す”という使い方もあるようです」。
―“新しい始まり”とは?―
「より多くのお客さま、従業員や加盟店さまなどの多くの仲間、多くの取引さまとの出会いをスタートさせ大事にしたいという想いから命名しました」。
―吉野家ホールディングス傘下だとのことですが……―
「そうなんです。わたくし、吉野家に勤務していたのですが、『吉野家ではできないことをやって行こう』というプロジェクトで始まった事業なんです」。
荒木氏が吉野家に入社するまで、そして入社後から“スターティングオーバー”立ち上げまでの足跡を辿ってみよう。

目立ちたがり屋とひっこみ思案とが同居した性格。

「広島県三次市で生まれました。周りは山と田圃だけの田舎です。位置的にいえば島根県との県境になるんですが、冬は腰のあたりまで雪が積もることもありました」。
中国地方のほぼ真ん中に位置し、北部は中国山地、南は平坦な農業地帯が占める三好市。
当地は、内陸性の気候のためか夏の日中は気温が上がりやすいが熱帯夜になることは少ないが、冬は雪が積もり東北地方の県庁所在地、仙台や福島に匹敵するほどの寒い土地のようである。
―どんな街なんですか?―
「住んでいた当時、近くにコンビニはなかったですし、ジャスコのようなショッピングセンター内にマクドナルドではなくドムドムバーガーがあった程度でした」。
小学校は1クラス、中学校は2クラスと小規模な学校で、徒歩で30分かけて通学していたとのこと。
「学科では数学が好きでしたが、小学校の頃には料理も好き出したね……」。
―料理が好きだった?―
「はい!カレーのスパイスを買ってきて、勝手に作っていましたしパンやシュークリームなどを作ったりしていました。やっぱり好きだったんですね」。将来、飲食業で生計を立てることになるとは思わなかっただろうが、小さな芽が吹き出していた。
―どんな子どもでした?―
「相矛盾することが同居していたというか、表裏一体のように備わっていたのか、目立ちたがり屋でしたが、反面、引っ込み思案でしたね。だんだん恥ずかしさを自覚し表には立たなくなりましたが……」。

[初]吉野家体験の先に進みたい路が浮かび上がってきた。

高校は広島市内の城北学園に進学。実家を離れて寮生活を送ることになった。
「先ほども言いましたが数学が好きでした。受験は5科目だったのですが、中学のときに受けた模擬試験では数学以外はほとんどダメで、受からないと思っていたんですが、受かりました。校則はありましたが、髪色や服装に一定のルールがある程度で、比較的自由な校風でした」。
―高校時代の思い出ってありますか?―
「二つの大きな思い出があります」。
―ひとつは?―
「数学以外はまるでダメ。その数学も嫌いになってしまい勉強は挫折しましたが、自転車競技部に入って、自転車競技~トラック競技ですが~に没頭しました。インターハイにも出場しました」。
―二つ目は?―
「全寮制ではありませんでしたけど、寮生活ですね。部屋は個室でした。当時のことですから今と違って上下関係が厳しく、連帯責任でビンタを喰らうこともありましたよ」。
現在であればパワハラやコンプライアンス問題などに匹敵するような理不尽なことも体験した寮生活だったが、結果として集団のなかでの人間関係を学んだし暴力否定派になったと振り返る。
頬に受けた痛みは無駄ではなかった。
高校卒業、そして大学進学。近畿大学・和歌山キャンパスにあった理工学部に入学したのだが……。
「一年で中退したんです。理由は吉野家の牛丼を初めて食べたことなんです。そぅ、高校までは吉野家を見たことがなかったんですが、感動しましたね」。

吉野家は天職だ!19歳にスタートした吉野家人生。

吉野家に魅せられてアッサリ中退。19歳だった。その決断に驚愕するばかりだが、驚くのは、現在にいたるまでファースト・コンタクトの衝撃が刻んだ“吉野家愛”を貫きとおす荒木氏のブレのなさだ。
「退学して、吉野家でアルバイトを始めました。業種は関係なくアルバイトをすることが初めてでして、接客も楽しかったですし、自由になるお金が手に入ることも社会人の仲間入りしたようで嬉しかったですね。新鮮でした」と振り返る。
―せっかく入学した大学を中退すること。アルバイトとはいえ吉野家で働くことに関してご両親には相談、あるいは報告されたのですか?―
「大反対はなかったように記憶しています。決め手は“吉野家の仕事は天職だ!”ということで説得したんです」。
“天職”とまで言える人は決して多くはない。吉野家で働くということが荒木氏の性格、考え方、価値観などとフィットしたのだろう。人間と仕事の最良の関係が生まれた。羨ましい限りだ。
「当時、アルバイトの店長はいませんでしたから、社員になるより店長になりたかったですね」。
「お世話になった店長やSV(スーパー・バイザー)の方々が23歳くらいの方が多く、大卒で新卒入社なら自分も同じようになれるという思いがあり頑張り、1年間、アルバイト店長を務めました」。
―若い店長ですが、苦労しませんでしたか?―
「年上の従業員も多く、若かったこともあり苦労はしましたが、虚勢を張りながら対応してきました」。察するにあまりある。
そして2001年、アルバイトから吉野家HDグループに入社、晴れて社員になった。22歳のときだった。
やがて大きな転機が訪れた。

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2024年4月10日水曜日

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

本文より~

サーファーならだれもが知っている「ジャスティスサーフボード」。

サーフィンを好む人なら誰でも知っているらしい。今回、ご登場いただいた南澤さんの父親が起業された「ジャスティスサーフボード」。日本発祥のブランドではではいちばん有名だとのこと。
もっとも南澤さん自身はサーフィンをしないというから、親子といっても趣味がちがう。本社を地図で探すと、房総半島の付け根にあった。1時間程度で、外房に行けるとのこと。
企業の沿革は以下の通り。
1983年11月「Radix surf shop」オープン。1992年1月「justice surfboard」設立。2001年12月「音波 勝田台店」オープン。2003年9月「音波 千葉富士見店」オープン。2014年11月「音波 船橋店」オープン。2016年1月「日本再生酒場 千葉富士見店」オープン。2018年5月「バイロンベイミートパイファクトリー」スタート。
南澤さんは現在「音波」などの飲食事業に注力している。今後は、基本、飲食をメインに事業を進めるとのこと。ホームページをみればわかるが、主要ブランドの「音波」は「波をイメージした大人の上質な空間」だ。
さて、事業の紹介はこれくらいにして、いつも通り南澤さんにスポットをあて話を進めよう。
南澤さんは1989年6月16日、千葉県の八千代市に生まれる。
中学受験し、東邦大学付属東邦中学に進んでいる。千葉県トップクラスの進学校である。
「いとこに刺激されて私も中学受験をします。東邦大学付属東邦は中高一貫制で医学部に進む生徒が多い学校です」。
「私自身は、医学に進むというよりも」と笑う。
なんでもゲームセンターが南澤さんの中学時代のステージ。ゲームが相棒だった。この頃の体重はすでに80キロ。堂々たる体躯だが、コンプレックスもあったそうだ。原因は「レモンティの飲み過ぎ」といってこちらを笑わせる。
「東邦は進学校だったんですが、私からするとランクを落として受験した学校だったので、1年生の頃は成績も上位だったんですが、2年生の頃からね」。
苦笑するその表情からもなんとなく、南澤さんの青春の1ページが想像できる。

中央大学から東京工業大学大学院へ。

「今は65キロくらいなんですが、高校時代も80キロ。レモンティと言いましたが、中学時代から父親に外食によく連れて行ってもらったので、それも原因の一つのような気がしています」。
好きな食べ物は?と聞くと、「唐揚げに餃子」との答え。とにかく、食べることが好きだった。
大学は中央大学。
「理工学部です。今の体格になったのは大学時代で、めちゃめちゃ痩せました」。甘い恋がダイエットにいい、というようなキャッチフレーズを書いた著名なコピーライターがいたが、もしかすると女子を意識しはじめたからかもしれない。
「大学まではこれといった目標はなかったです。サーフィンが大好きな父親のような趣味もなかったし、どちらかというと将来、大手に就職できればいいなと漠然と思っていたくらいです」。
父親の事業にも、関心はなかった。
「中央大学を卒業したあとは東京工業大学の大学院に進みます。この頃は、ちょっとした学歴コンプレックスがあった気がします」。
中央大学で学歴コンプレックスと言われると、こちらの立場がない。
「当時偏差値でいうと70くらいの高校だったもんですから、私立なら早慶です。私も当然、早慶狙いだったんですが、見事、不合格。1年間、浪人して再チャレンジしたんですが、けっきょく中央だったんで(笑)」。
そう聞くと、わからなくもない。頭のいい人は、いい人なりに悩みがあるんだろう、と納得する。
「大学では、テニスサークルに入って、キャンパスライフを謳歌します。スリムになったことで、春もやってきましたし(笑)」。
<人生の波に乗り始める?>
「そうですね。女性との付き合いも、いい意味で人生の肥やしというか、そういうものになっていますね」。
ちなみに、南澤さん。
ジュノンボーイになり損ねている。
「原宿とかで声をかけてもらうことがけっこうあったりして。ジュノンのオーディションを受けて。残念なことに不合格でした」。
特技を披露することになっていた。頭が真っ白になって、「今でも何をやったか、思い出せない」そうだ。むろん、こちらも青春の1ページ。もっとも人生の勝負は今から。

・・・続き

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏

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2024年4月9日火曜日

株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

本文より~

子どもの頃、料理人になることをぼんやりと考えていた。

今回ご紹介する馬場氏は、幼い頃の夢を実現したひとりだ。22歳でイタリアに渡り5年間の修業を重ね27歳で帰国。現在、 “Tharros(タロス)”(東京都渋谷区)など3店のイタリアン・レストランを運営している株式会社OBIETTIVOの社長である。
「生まれたのは1971年、新潟県長岡市です。正確には長岡市から20㎞ほど離れている油揚げで有名な栃尾市ですが……」。
「1971年ですから、第二次ベビーブームの年にあたります。世代論でいえば“団塊ジュニア世代”に相当します」。ちなみに1971年生れの人口は、約200万人だそうだ。
いずれにしろ子どもの多い時代に生まれ、育ち、生きてきた。
―料理人になることが、夢にみた職業のひとつだったとか……―
「祖母が保育園の給食担当だったことも影響したのか小さい頃から料理を作ったりしていました。ぼんやりですけれど将来、料理の世界で生きていくことも考えていましたね。ただし、料理を作るといっても“ママゴト”の延長のようなものですが……」と馬場氏は語る。

初めての料理は、テキスト片手に見よう見まねで作ったホットケーキ。

―先ほど、小さい頃から料理に関心があったと仰いましたが……―
「祖母の影響もあるのでしょうが、NHK“きょうの料理”という料理番組があり、番組のテキストがありました。今でもこの番組、続いていますよね」。
―最初に作った料理、覚えていますか?―
「ホットケーキです。テキストを読んでみると創造力がかき立てられ、見よう見まねでホットケーキを作ったのが最初ですね」。
―初料理以後、作る種類、メニューは拡大したのですか?―
「拡大したというほどではないですけど、その後は、みそ汁やカレーなど、時々、手伝ったりしていました。ただ、こうした経験を重ねて調理することの楽しさを覚えたことが、振り返ってみれば飲食の世界に飛び込んだ根源だったと思います」。
小さいながらも、しっかりした萌芽が形作られていた。

“モノを作る仕事”に就く。その候補の一つが料理人。

「実は中学校入学と同時に転校したんです。友人も少なく新しい環境へ溶け込む術や一人でいることの術を転校を経験したことで習得したのかも知れませんね」。
「“孤独”というとちょっとカッコイイですが、“孤立”しているわけではないので苦にはならなかったですね。ある意味、“孤独は美徳”と思っていた節がありますね」。
―たったひとり、ということですが“ひとりの思い出”ってありますか?―
「高校最後の夏休み“ひとり卒業旅行”と題して日頃愛用していたロードレーサーで長岡から北海道・札幌まで自転車で行きました。走行距離にして約1000㎞でした」。
“孤独”を愛した馬場少年も卒業後の進路を選ばなければならなくなった。
第一義的には大学進学。試験に合格する保障も確証もない。不合格だった場合の身の振り方も考えておかなければならない。そこで候補に挙がったのが、“自動車の整備士”“理工系の大工”“料理関係”の三つ。共通しているのはどれもが“モノを作る”職業ということだった。
結果的に受験は失敗、そして三つのなかの一つ、子どもの頃から漠然と考えていた料理人になるため調理師を目指し大阪へ。

長岡から大阪、そして東京へ。料理人の階段を昇りはじめる。

「高校生の頃、将来就きたいと思っていた職業から料理人になることに絞り込み、大阪の調理師学校に入学しました。寮生活でした」。
―料理人といっても和食もあれば洋食もあると思いますが……―
「入学した学校はフランス料理専門カレッジでしたし、このフランス料理を目指していました。学んだ期間は1年間でした」。
―学校時代の思い出ってありますか?―
「フランス料理店でアルバイトをしていました。忘れられないのは寮のおばさんです。なにかと気を配ってくれましたし、卒業後、就職先の紹介もしてくれました。ただただ感謝ですね」。
おばさんの紹介で就職したのは、東京・松濤にあったフランス料理“シェ松尾”。 長岡から大阪へ、そして東京へ。プロの料理人という夢の実現に向けての第一歩だった。

仕事に専念できない自分がいた。これではダメだ!

―実際に料理人になった感想は?―
「仕事は拘束時間が長くおまけには薄給で大変でした。反面、拘束時間が長かったことで却って貯金することの術を学びました」。
ただ、ここで悪い癖が出てしまう。
「雪国の長岡市で暮らしていましたから、当然のごとく中学・高校の頃はスキーを楽しんでしていたんです。そうした環境で育ったためか、秋になるとスキー熱に襲われ、どうしてもスキーがしたくなり、いても経ってもいられずに8カ月で退職、スキー・インストラクターの道を目指し山に籠ってしまいました。場所は妙高高原です」。
―かなり大胆な選択、決断ですねー
「とは言え、春には当然のごとく雪は溶けてなくなってしまうわけですから、春になると下山して東京へ戻り、フランス料理店“ビストロダルブル”に勤務しました。3~4年は働くつもりでいたんですが、雪の便りを聞くと、またまた“スキー熱”が……」。
―またスキー病ですか?―
「そうなんです。身体の奥底に根づいているんでしょうか、また山籠もりをしました」。
夏場は料理人として東京で働き、冬はスキーのインストラクターとして妙高高原で働く生活が3シーズンほど繰り返していたが、このまま継続するか疑問を抱いてもいた。
「中途半端だと思いだしたんです」。
こうした繰り返しのなかで偶然とはいえ、馬場氏の運命を変えてしまう出会いがあった。

イタリアに行こう!本格的なイタリア料理を学ぼう!

「イタリアに出会ったんです。出会ったというのは大袈裟かもしれないなぁ。でも魅力を感じたことは事実ですね」。
―どんなきっかけだったんですか?―
「イタリアに詳しい方にで出会ったんです。現地のスキー事情やイタリアの食文化などを聞いているうちに、未知の世界だったイタリアへの興味がフツフツと湧いてきたんです。それと……」。
―別の理由も?―
「フランス料理もいいけれど、もっとシンプルにできるものはないかな、イタリア料理をやってみたいなと思っていたことも背景にありました。また当時、都内にはイタリア料理店が少なかったことも要因でした」。
こうしてイタリア、イタリア料理への関心が強くなり、“イタリアへ行く”ことを考え出したのだが、観光旅行でも物見遊山な旅でもない。生きるために、学ぶために行くのだ。常套句になってしまうが、馬場氏の胸中にあったのは“不退転の決意”“覚悟”だ。
―準備に邁進した?―
「覚悟して決めてしまえば行動するのみです。当然ですが資金がなければコトは始まりません。それと最低限の会話ができるくらいの語学力も必要です」。
馬場氏は、(スキー熱を断ち切って?)東京に戻り恵比寿のイタリア料理店、同じく広尾のイタリア料理店でもアルバイトを始めた。昼はキッチン、夜はホールと休む暇なく働き、さらにイタリア語教室でイタリア語を学ぶ生活に明け暮れた。明確な目的、動機、さらには若かったから、過酷な日々にも耐えられたのだろう。
こうして貯めた資金と会話力を身に付け、1993年5月26日、イタリアへ旅立った。22歳のときだった。

差別的な扱いも受けたイタリア武者修業の日々。

南ヨーロッパ、地中海に面した長靴のような形状で南北に長い国、イタリア。イタリア料理は素材を生かした素朴な料理が特徴で、地中海に面する地域では魚介類を使用した料理が、北部や内陸の地域では肉や乳製品を使った料理が多いという。またイタリア料理は、フランス料理の原型になったとも言われている。
馬場氏が修業第一歩に選んだのは、トスカーナ州のシエナ。この街は中世の雰囲気に溢れ、大聖堂やピサの斜塔で名高い街である。
―いよいよ念願のイタリア料理を学ぶことになったのですが、最初の職場は?―
「“カーネエガット”というシエナ・トスカーナ料理店でした。この店のオーナーの奥様がつくる母の味に感動しましたね」。
「その後、シエナ料理“フオーリポルタ”などで勤務し、女性シェフが作るトスカーナの古典料理を学びました」。
―シエナで3年学び、1996年にはサルデーニャ島(イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島)に移動なさったようですが……。ここでは、どんな料理を学んだのでしょうか?―
「“サンディーラ”という料理店に勤務し、魚介を中心としたサルデーニャの地方料理を学びました。同じ年、シチリア島の魚介漁師レストラン“ラ ムチャーラ”勤務したのですが、この店は目の前が漁港で新鮮な食材を扱えることに感動しました」。
―翌年の1997年には一旦帰国されていますが……―
「ええ、東京・竹芝のナポリ料理“マーレキャーロ”に勤務して、当店のシェフから伝統的なナポリ料理を伝授されました。1年後の1998年、再度、イタリアに渡りました」。
―サルデーニャ島の料理店に勤務されたようですが……―
「リゾートレストラン“ラ グリッタ”に勤務しました。ここは、ヨーロッパのバカンスの雰囲気に溢れる岬に先にあるレストランで、魚中心の料理を学びました」。
―翌年には、同じサルデーニャ島 レストラン“コルサーロ”とサルデーニャ島の南西側に浮かぶ五番目に大きな島サン.ピエトロ島の“トンノ ディ コルサ” に勤務されていますが……―
「コルサーロ”は島一番の三ツ星レストランです。“トンノ ディ コルサ”はマグロ専門料理店でマグロ料理のレパートリーを学びました」。
―料理を学ぶほかにイタリアでの思い出、ありますか?―
「給料は少なかったですね。それと人種差別を受けたこともありましたね」。
―人種差別って?どんな?―
「根拠はわかりませんが、日本人というだけで暴言を吐かれたり、子どもが中指を立ててきたり、この街から出ていけみたいなことはありましたよ。でも、学ぶことも大きかったですね」。
1999年、辛いことも差別されたこともあったけれど、イタリア料理人としての5年間の修業が終わった馬場氏。イタリアの味を携えて帰国した。27歳になっていた。

・・・続き

株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏

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2024年4月2日火曜日

株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。


本文より~

高校をたった3ヵ月で卒業したやんちゃ少年の就職先。

ひょうきんで明るい少年だった。
「どちらかというと落ち着きがない、そんな小学生だった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた京都の名店「すぎうら」の代表取締役、杉浦茂樹さん。
「小学校ではサッカーをしていたんですが、中学校では帰宅部です。帰宅部といっても当時は不良がたくさんいて。私もどちらかというとそちらのグループにいました。その結果、高校は通学時間がめちゃくちゃかかる、遠く離れた学校の農業科です。とてもじゃないが、普通科に行けるレベルじゃなかったです(笑)」。
ただ、入学しても高校に通ったのは、たったの3ヵ月。
「遊び呆けて、父親に家を追い出された」とも言っている。
「私も家をでたいと思っていましたからね。これ、幸いです。ただ、お金もないし、寝床もない。それで、求人誌を買って、駅のホームで片っ端から電話をして仕事を探します」。
公衆電話しかない。10円玉がすごいスピードで落ちていく。
「なんでもよかった」と杉浦さん。
「とにかく、住まいと、お金」と笑う。
次から次に断られるなかで、面接をすると言ってくれたのは、宇治の仕出し屋さんだった。無事、採用され、兄弟子と5人の寮生活がスタートする。兄弟子といっても年は離れている。最年少の杉浦さんは、玄関でからだを丸めて眠った。
面接のその日にパンチパーマは刈られている。

料理人、杉浦、スタート。

「初任給ですか。今のみなさんには想像できないと思いますよ。額面6万円、手取りはたった3万円です(笑)」。
遊ぶ暇もなかったから、それでもなんとかなった。
「お世話になった会社は仕出し屋、活魚料理屋を経営されていました。社長さんには可愛がっていただいて、ヨットで和歌山から沖縄まで、1ヵ月かけ連れて行ってもらったこともありました。船酔いがひどくて。経営も、ヨットもおなじで、いったんスタートしたら簡単にはもどれないってことを身をもって教えていただきました」。
器用だった。仕事をすると、それがわかる。21歳、兄弟子を抜いて店長になる。料理もする、仕入れもする。店長というより、店主。「13坪、月商500万円くらいのお店でした」。これが、人生、初めて任されたお店。ただ、「昨日までの先輩が部下になったので、やりにくかった」と苦笑いする。
実家との関係はどうなっていたんだろう?
「就職が決まった時に、連絡をして出入りが解禁されました(笑)」。
「とにかく、父親は褒めず、母親はからだを心配してくれていました」。
たぶん、どちらも愛の証。

京味で「修業」。26歳で、独立。

「7年ほど勤め、独立する専務について退職します。ただ、専務の下ではたらいたのは1年くらいでした。給料が出たり、出なかったりで。こちらを辞めたあと、京都の有名な料亭で仕事を始めます。この料亭での3年間勤務するんですが、私を料理人に育ててくれた3年間でした」。店名は、京味。名前を聞いただけで、3年間が想像できる。
独立には、お父様も一役買っている。
大手企業を早期退職し、開業資金をつくってくれたそうだ。
「父の援助もあって、独立したのは26歳の時です。平成6年。四条烏丸に『すぎうら』をオープンします」。
物件の取得価格を聞いて、驚いた。さすが、四条烏丸。「土地・建物込みの居ぬき物件で4000万円だった」と杉浦さん。大きな投資である。
「客単価で言うと6000~7000円を想定していました。居酒屋以上、割烹未満がコンセプトです」。
<いかがでしたか?>
「それが、なかなかうまくいかず、苦戦しました。京都は認めていただくまでがしんどいですね。とにかく、知っていただこうとビラを撒いて、チラシのポスティングもしました。ただ、風景がかわるきっかけは、ランチです。700円で1種類の日替わりです。原価率50%。一つの賭けだったわけですが、そのおかげでだんだんと『すぎうら』が認知されて行きます」。
<軌道に乗るわけですね?>
「そうです。でも、実は一波乱あります。私は料理に専念して、ほかすべて家族に任せていました。父親も経理のような仕事をしてくれていました。新たに出店したい私と、堅実な父親は、やはり衝突してケンカが絶えませんでした。最終的には、両親に出ていってもらいます」。
今度は、杉浦さんが、お父様を追い出す格好になる。ただそれは、息子である杉浦さんの成長の証だったのかもしれない。

・・・続き

株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏

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