2024年4月10日水曜日

株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏登場。

本文より~

サーファーならだれもが知っている「ジャスティスサーフボード」。

サーフィンを好む人なら誰でも知っているらしい。今回、ご登場いただいた南澤さんの父親が起業された「ジャスティスサーフボード」。日本発祥のブランドではではいちばん有名だとのこと。
もっとも南澤さん自身はサーフィンをしないというから、親子といっても趣味がちがう。本社を地図で探すと、房総半島の付け根にあった。1時間程度で、外房に行けるとのこと。
企業の沿革は以下の通り。
1983年11月「Radix surf shop」オープン。1992年1月「justice surfboard」設立。2001年12月「音波 勝田台店」オープン。2003年9月「音波 千葉富士見店」オープン。2014年11月「音波 船橋店」オープン。2016年1月「日本再生酒場 千葉富士見店」オープン。2018年5月「バイロンベイミートパイファクトリー」スタート。
南澤さんは現在「音波」などの飲食事業に注力している。今後は、基本、飲食をメインに事業を進めるとのこと。ホームページをみればわかるが、主要ブランドの「音波」は「波をイメージした大人の上質な空間」だ。
さて、事業の紹介はこれくらいにして、いつも通り南澤さんにスポットをあて話を進めよう。
南澤さんは1989年6月16日、千葉県の八千代市に生まれる。
中学受験し、東邦大学付属東邦中学に進んでいる。千葉県トップクラスの進学校である。
「いとこに刺激されて私も中学受験をします。東邦大学付属東邦は中高一貫制で医学部に進む生徒が多い学校です」。
「私自身は、医学に進むというよりも」と笑う。
なんでもゲームセンターが南澤さんの中学時代のステージ。ゲームが相棒だった。この頃の体重はすでに80キロ。堂々たる体躯だが、コンプレックスもあったそうだ。原因は「レモンティの飲み過ぎ」といってこちらを笑わせる。
「東邦は進学校だったんですが、私からするとランクを落として受験した学校だったので、1年生の頃は成績も上位だったんですが、2年生の頃からね」。
苦笑するその表情からもなんとなく、南澤さんの青春の1ページが想像できる。

中央大学から東京工業大学大学院へ。

「今は65キロくらいなんですが、高校時代も80キロ。レモンティと言いましたが、中学時代から父親に外食によく連れて行ってもらったので、それも原因の一つのような気がしています」。
好きな食べ物は?と聞くと、「唐揚げに餃子」との答え。とにかく、食べることが好きだった。
大学は中央大学。
「理工学部です。今の体格になったのは大学時代で、めちゃめちゃ痩せました」。甘い恋がダイエットにいい、というようなキャッチフレーズを書いた著名なコピーライターがいたが、もしかすると女子を意識しはじめたからかもしれない。
「大学まではこれといった目標はなかったです。サーフィンが大好きな父親のような趣味もなかったし、どちらかというと将来、大手に就職できればいいなと漠然と思っていたくらいです」。
父親の事業にも、関心はなかった。
「中央大学を卒業したあとは東京工業大学の大学院に進みます。この頃は、ちょっとした学歴コンプレックスがあった気がします」。
中央大学で学歴コンプレックスと言われると、こちらの立場がない。
「当時偏差値でいうと70くらいの高校だったもんですから、私立なら早慶です。私も当然、早慶狙いだったんですが、見事、不合格。1年間、浪人して再チャレンジしたんですが、けっきょく中央だったんで(笑)」。
そう聞くと、わからなくもない。頭のいい人は、いい人なりに悩みがあるんだろう、と納得する。
「大学では、テニスサークルに入って、キャンパスライフを謳歌します。スリムになったことで、春もやってきましたし(笑)」。
<人生の波に乗り始める?>
「そうですね。女性との付き合いも、いい意味で人生の肥やしというか、そういうものになっていますね」。
ちなみに、南澤さん。
ジュノンボーイになり損ねている。
「原宿とかで声をかけてもらうことがけっこうあったりして。ジュノンのオーディションを受けて。残念なことに不合格でした」。
特技を披露することになっていた。頭が真っ白になって、「今でも何をやったか、思い出せない」そうだ。むろん、こちらも青春の1ページ。もっとも人生の勝負は今から。

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株式会社ミッション 代表取締役 南澤一輝氏

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2024年4月9日火曜日

株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏登場。

本文より~

子どもの頃、料理人になることをぼんやりと考えていた。

今回ご紹介する馬場氏は、幼い頃の夢を実現したひとりだ。22歳でイタリアに渡り5年間の修業を重ね27歳で帰国。現在、 “Tharros(タロス)”(東京都渋谷区)など3店のイタリアン・レストランを運営している株式会社OBIETTIVOの社長である。
「生まれたのは1971年、新潟県長岡市です。正確には長岡市から20㎞ほど離れている油揚げで有名な栃尾市ですが……」。
「1971年ですから、第二次ベビーブームの年にあたります。世代論でいえば“団塊ジュニア世代”に相当します」。ちなみに1971年生れの人口は、約200万人だそうだ。
いずれにしろ子どもの多い時代に生まれ、育ち、生きてきた。
―料理人になることが、夢にみた職業のひとつだったとか……―
「祖母が保育園の給食担当だったことも影響したのか小さい頃から料理を作ったりしていました。ぼんやりですけれど将来、料理の世界で生きていくことも考えていましたね。ただし、料理を作るといっても“ママゴト”の延長のようなものですが……」と馬場氏は語る。

初めての料理は、テキスト片手に見よう見まねで作ったホットケーキ。

―先ほど、小さい頃から料理に関心があったと仰いましたが……―
「祖母の影響もあるのでしょうが、NHK“きょうの料理”という料理番組があり、番組のテキストがありました。今でもこの番組、続いていますよね」。
―最初に作った料理、覚えていますか?―
「ホットケーキです。テキストを読んでみると創造力がかき立てられ、見よう見まねでホットケーキを作ったのが最初ですね」。
―初料理以後、作る種類、メニューは拡大したのですか?―
「拡大したというほどではないですけど、その後は、みそ汁やカレーなど、時々、手伝ったりしていました。ただ、こうした経験を重ねて調理することの楽しさを覚えたことが、振り返ってみれば飲食の世界に飛び込んだ根源だったと思います」。
小さいながらも、しっかりした萌芽が形作られていた。

“モノを作る仕事”に就く。その候補の一つが料理人。

「実は中学校入学と同時に転校したんです。友人も少なく新しい環境へ溶け込む術や一人でいることの術を転校を経験したことで習得したのかも知れませんね」。
「“孤独”というとちょっとカッコイイですが、“孤立”しているわけではないので苦にはならなかったですね。ある意味、“孤独は美徳”と思っていた節がありますね」。
―たったひとり、ということですが“ひとりの思い出”ってありますか?―
「高校最後の夏休み“ひとり卒業旅行”と題して日頃愛用していたロードレーサーで長岡から北海道・札幌まで自転車で行きました。走行距離にして約1000㎞でした」。
“孤独”を愛した馬場少年も卒業後の進路を選ばなければならなくなった。
第一義的には大学進学。試験に合格する保障も確証もない。不合格だった場合の身の振り方も考えておかなければならない。そこで候補に挙がったのが、“自動車の整備士”“理工系の大工”“料理関係”の三つ。共通しているのはどれもが“モノを作る”職業ということだった。
結果的に受験は失敗、そして三つのなかの一つ、子どもの頃から漠然と考えていた料理人になるため調理師を目指し大阪へ。

長岡から大阪、そして東京へ。料理人の階段を昇りはじめる。

「高校生の頃、将来就きたいと思っていた職業から料理人になることに絞り込み、大阪の調理師学校に入学しました。寮生活でした」。
―料理人といっても和食もあれば洋食もあると思いますが……―
「入学した学校はフランス料理専門カレッジでしたし、このフランス料理を目指していました。学んだ期間は1年間でした」。
―学校時代の思い出ってありますか?―
「フランス料理店でアルバイトをしていました。忘れられないのは寮のおばさんです。なにかと気を配ってくれましたし、卒業後、就職先の紹介もしてくれました。ただただ感謝ですね」。
おばさんの紹介で就職したのは、東京・松濤にあったフランス料理“シェ松尾”。 長岡から大阪へ、そして東京へ。プロの料理人という夢の実現に向けての第一歩だった。

仕事に専念できない自分がいた。これではダメだ!

―実際に料理人になった感想は?―
「仕事は拘束時間が長くおまけには薄給で大変でした。反面、拘束時間が長かったことで却って貯金することの術を学びました」。
ただ、ここで悪い癖が出てしまう。
「雪国の長岡市で暮らしていましたから、当然のごとく中学・高校の頃はスキーを楽しんでしていたんです。そうした環境で育ったためか、秋になるとスキー熱に襲われ、どうしてもスキーがしたくなり、いても経ってもいられずに8カ月で退職、スキー・インストラクターの道を目指し山に籠ってしまいました。場所は妙高高原です」。
―かなり大胆な選択、決断ですねー
「とは言え、春には当然のごとく雪は溶けてなくなってしまうわけですから、春になると下山して東京へ戻り、フランス料理店“ビストロダルブル”に勤務しました。3~4年は働くつもりでいたんですが、雪の便りを聞くと、またまた“スキー熱”が……」。
―またスキー病ですか?―
「そうなんです。身体の奥底に根づいているんでしょうか、また山籠もりをしました」。
夏場は料理人として東京で働き、冬はスキーのインストラクターとして妙高高原で働く生活が3シーズンほど繰り返していたが、このまま継続するか疑問を抱いてもいた。
「中途半端だと思いだしたんです」。
こうした繰り返しのなかで偶然とはいえ、馬場氏の運命を変えてしまう出会いがあった。

イタリアに行こう!本格的なイタリア料理を学ぼう!

「イタリアに出会ったんです。出会ったというのは大袈裟かもしれないなぁ。でも魅力を感じたことは事実ですね」。
―どんなきっかけだったんですか?―
「イタリアに詳しい方にで出会ったんです。現地のスキー事情やイタリアの食文化などを聞いているうちに、未知の世界だったイタリアへの興味がフツフツと湧いてきたんです。それと……」。
―別の理由も?―
「フランス料理もいいけれど、もっとシンプルにできるものはないかな、イタリア料理をやってみたいなと思っていたことも背景にありました。また当時、都内にはイタリア料理店が少なかったことも要因でした」。
こうしてイタリア、イタリア料理への関心が強くなり、“イタリアへ行く”ことを考え出したのだが、観光旅行でも物見遊山な旅でもない。生きるために、学ぶために行くのだ。常套句になってしまうが、馬場氏の胸中にあったのは“不退転の決意”“覚悟”だ。
―準備に邁進した?―
「覚悟して決めてしまえば行動するのみです。当然ですが資金がなければコトは始まりません。それと最低限の会話ができるくらいの語学力も必要です」。
馬場氏は、(スキー熱を断ち切って?)東京に戻り恵比寿のイタリア料理店、同じく広尾のイタリア料理店でもアルバイトを始めた。昼はキッチン、夜はホールと休む暇なく働き、さらにイタリア語教室でイタリア語を学ぶ生活に明け暮れた。明確な目的、動機、さらには若かったから、過酷な日々にも耐えられたのだろう。
こうして貯めた資金と会話力を身に付け、1993年5月26日、イタリアへ旅立った。22歳のときだった。

差別的な扱いも受けたイタリア武者修業の日々。

南ヨーロッパ、地中海に面した長靴のような形状で南北に長い国、イタリア。イタリア料理は素材を生かした素朴な料理が特徴で、地中海に面する地域では魚介類を使用した料理が、北部や内陸の地域では肉や乳製品を使った料理が多いという。またイタリア料理は、フランス料理の原型になったとも言われている。
馬場氏が修業第一歩に選んだのは、トスカーナ州のシエナ。この街は中世の雰囲気に溢れ、大聖堂やピサの斜塔で名高い街である。
―いよいよ念願のイタリア料理を学ぶことになったのですが、最初の職場は?―
「“カーネエガット”というシエナ・トスカーナ料理店でした。この店のオーナーの奥様がつくる母の味に感動しましたね」。
「その後、シエナ料理“フオーリポルタ”などで勤務し、女性シェフが作るトスカーナの古典料理を学びました」。
―シエナで3年学び、1996年にはサルデーニャ島(イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島)に移動なさったようですが……。ここでは、どんな料理を学んだのでしょうか?―
「“サンディーラ”という料理店に勤務し、魚介を中心としたサルデーニャの地方料理を学びました。同じ年、シチリア島の魚介漁師レストラン“ラ ムチャーラ”勤務したのですが、この店は目の前が漁港で新鮮な食材を扱えることに感動しました」。
―翌年の1997年には一旦帰国されていますが……―
「ええ、東京・竹芝のナポリ料理“マーレキャーロ”に勤務して、当店のシェフから伝統的なナポリ料理を伝授されました。1年後の1998年、再度、イタリアに渡りました」。
―サルデーニャ島の料理店に勤務されたようですが……―
「リゾートレストラン“ラ グリッタ”に勤務しました。ここは、ヨーロッパのバカンスの雰囲気に溢れる岬に先にあるレストランで、魚中心の料理を学びました」。
―翌年には、同じサルデーニャ島 レストラン“コルサーロ”とサルデーニャ島の南西側に浮かぶ五番目に大きな島サン.ピエトロ島の“トンノ ディ コルサ” に勤務されていますが……―
「コルサーロ”は島一番の三ツ星レストランです。“トンノ ディ コルサ”はマグロ専門料理店でマグロ料理のレパートリーを学びました」。
―料理を学ぶほかにイタリアでの思い出、ありますか?―
「給料は少なかったですね。それと人種差別を受けたこともありましたね」。
―人種差別って?どんな?―
「根拠はわかりませんが、日本人というだけで暴言を吐かれたり、子どもが中指を立ててきたり、この街から出ていけみたいなことはありましたよ。でも、学ぶことも大きかったですね」。
1999年、辛いことも差別されたこともあったけれど、イタリア料理人としての5年間の修業が終わった馬場氏。イタリアの味を携えて帰国した。27歳になっていた。

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株式会社OBIETTIVO 代表取締役 馬場圭太郎氏

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2024年4月2日火曜日

株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏登場。


本文より~

高校をたった3ヵ月で卒業したやんちゃ少年の就職先。

ひょうきんで明るい少年だった。
「どちらかというと落ち着きがない、そんな小学生だった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた京都の名店「すぎうら」の代表取締役、杉浦茂樹さん。
「小学校ではサッカーをしていたんですが、中学校では帰宅部です。帰宅部といっても当時は不良がたくさんいて。私もどちらかというとそちらのグループにいました。その結果、高校は通学時間がめちゃくちゃかかる、遠く離れた学校の農業科です。とてもじゃないが、普通科に行けるレベルじゃなかったです(笑)」。
ただ、入学しても高校に通ったのは、たったの3ヵ月。
「遊び呆けて、父親に家を追い出された」とも言っている。
「私も家をでたいと思っていましたからね。これ、幸いです。ただ、お金もないし、寝床もない。それで、求人誌を買って、駅のホームで片っ端から電話をして仕事を探します」。
公衆電話しかない。10円玉がすごいスピードで落ちていく。
「なんでもよかった」と杉浦さん。
「とにかく、住まいと、お金」と笑う。
次から次に断られるなかで、面接をすると言ってくれたのは、宇治の仕出し屋さんだった。無事、採用され、兄弟子と5人の寮生活がスタートする。兄弟子といっても年は離れている。最年少の杉浦さんは、玄関でからだを丸めて眠った。
面接のその日にパンチパーマは刈られている。

料理人、杉浦、スタート。

「初任給ですか。今のみなさんには想像できないと思いますよ。額面6万円、手取りはたった3万円です(笑)」。
遊ぶ暇もなかったから、それでもなんとかなった。
「お世話になった会社は仕出し屋、活魚料理屋を経営されていました。社長さんには可愛がっていただいて、ヨットで和歌山から沖縄まで、1ヵ月かけ連れて行ってもらったこともありました。船酔いがひどくて。経営も、ヨットもおなじで、いったんスタートしたら簡単にはもどれないってことを身をもって教えていただきました」。
器用だった。仕事をすると、それがわかる。21歳、兄弟子を抜いて店長になる。料理もする、仕入れもする。店長というより、店主。「13坪、月商500万円くらいのお店でした」。これが、人生、初めて任されたお店。ただ、「昨日までの先輩が部下になったので、やりにくかった」と苦笑いする。
実家との関係はどうなっていたんだろう?
「就職が決まった時に、連絡をして出入りが解禁されました(笑)」。
「とにかく、父親は褒めず、母親はからだを心配してくれていました」。
たぶん、どちらも愛の証。

京味で「修業」。26歳で、独立。

「7年ほど勤め、独立する専務について退職します。ただ、専務の下ではたらいたのは1年くらいでした。給料が出たり、出なかったりで。こちらを辞めたあと、京都の有名な料亭で仕事を始めます。この料亭での3年間勤務するんですが、私を料理人に育ててくれた3年間でした」。店名は、京味。名前を聞いただけで、3年間が想像できる。
独立には、お父様も一役買っている。
大手企業を早期退職し、開業資金をつくってくれたそうだ。
「父の援助もあって、独立したのは26歳の時です。平成6年。四条烏丸に『すぎうら』をオープンします」。
物件の取得価格を聞いて、驚いた。さすが、四条烏丸。「土地・建物込みの居ぬき物件で4000万円だった」と杉浦さん。大きな投資である。
「客単価で言うと6000~7000円を想定していました。居酒屋以上、割烹未満がコンセプトです」。
<いかがでしたか?>
「それが、なかなかうまくいかず、苦戦しました。京都は認めていただくまでがしんどいですね。とにかく、知っていただこうとビラを撒いて、チラシのポスティングもしました。ただ、風景がかわるきっかけは、ランチです。700円で1種類の日替わりです。原価率50%。一つの賭けだったわけですが、そのおかげでだんだんと『すぎうら』が認知されて行きます」。
<軌道に乗るわけですね?>
「そうです。でも、実は一波乱あります。私は料理に専念して、ほかすべて家族に任せていました。父親も経理のような仕事をしてくれていました。新たに出店したい私と、堅実な父親は、やはり衝突してケンカが絶えませんでした。最終的には、両親に出ていってもらいます」。
今度は、杉浦さんが、お父様を追い出す格好になる。ただそれは、息子である杉浦さんの成長の証だったのかもしれない。

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株式会社すぎうら 代表取締役 杉浦茂樹氏

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株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏登場。

本文より~

飲食店を経営するようになるとは思いもよらなかった?

ヒトは、子どもの頃、あるいは成長してからも思い描いた職業に就けるとは限らない。むしろ、考えもしなかった職業を選ぶ、就くことのほうが多いかもしれない。
―飲食業には、さほど興味はなかったようですが……―
「そうなんです!20歳代半ばまで飲食業だけはやらない!って思っていたのですが……」と語るのは、都内を中心に“炭火焼ホルモン ぐう”“もつ焼よし田”“焼肉冷麺 てっちゃん”など17店を展開する株式会社ユニバーサル・ダイニングの代表取締役 呉 成煥氏。その呉氏に、紆余曲折を経て飲食店を運営するに至るまでの顛末を伺った。
―飲食業になりたくなかったのには、何か特別な理由でもあったのですか?―
「特別というほどのことではないですね。実家の母親がお好み焼き店を経営していまして苦労していたんですね。その苦労を間近で見ていましたから……。将来、どんな職業に就くか分かりませんでしたけど、飲食業は考えなかったですね」。
呉氏が生まれたのは東京都台東区。
「両親とも在日韓国人なんです。ですからボクも小学校から高校まで朝鮮学校に通っていました。兄弟は二人、2歳上の兄がいます」。兄は日本の大学を卒業し、23歳の頃からアメリカ、ドイツで暮らし、現在はパキスタンで生活しているとのこと。
「小学校5年のときかなぁ、両親が離婚したんです。兄とボクは母親に引き取られ育てられました」。
父親との別れ、お好み焼き店を経営している収入で二人の子育てに全力を傾注した母親との生活。
「衣食住には困りませんでしたけど、貧困家庭でした」。また在日韓国人であるがゆえに味わった辛さ、差別など多くを語ることはない。
―差別的なことって?―
「就職では不利でした。たとえばパチンコ店、朝鮮韓国系の金融機関、不動産業など仕事の道が狭く限られていました。現在は改善されたのかも知れませんが、いわゆる大手企業や公務員、金融機関などでは就職試験を受けることすらできなかったですから」。
子どもの頃は、どんな子だったのだろう。
「勉強は嫌いでしたね。大体、勉強した記憶がないですよ、頭悪かったし……」と語るが、“頭が悪い”というのは謙遜で、真に受けるわけにはいかない。また、勉強が嫌いで学業成績が芳しくないからといって卑下する必要もない。
「学校は友だちに会いに行く場所でしたし、暴走族を相手に喧嘩ばかりしていましたね。 
それと、小遣い稼ぎを目的にアルバイトをしていましたね」
―ところで、サッカーが好きだったということですがー
「ええ、好きでした。サッカー選手になりたかったですね。ただ、高校生にもなると自分の実力が分かってくるんですね。いつのまにかサッカー選手になるという夢は消えました」。
高校卒業後、勉強嫌いでサッカー選手の夢が消えた呉氏が次に選んだのは、大学受験のため予備校に通うこと。
「サッカーに熱中していたばかりに基礎的な学力がなく、ついて行けなくなってしまいました」。半年で予備校を中退。知り合いの会社が経営していたビリヤード屋では働くことになった。

不動産会社経営から考えもしなかった飲食業経営に。

ビリヤード屋で働くことになった呉氏に迷いが出た。「このままでいいのか……」
「2年ほどアルバイトしていたのですが20歳くらいになったとき、“ちゃんと就職しなくては”と考えるようになりました。ビリヤード屋が嫌だとか、続けられそうにないとか、そんな気持ちではないんですけれど……」。
―ある意味では揺れていたようですが、どなたかに相談されたのですか?―
「職場の先輩に包み隠さず相談しました」。
―先輩はなんと?―
「“今は不動産の景気がいいから不動産をやれば”と……。時期としてはバブル全盛期か、その少し前、バブルの兆候が見えだした時期です」。
―いわゆるサラリーマンですか?―
「まぁ、スーツを着て仕事がしたかったという気持ちもありましたね」。
こうした経緯を経て不動産屋に就職するのだが、就職にあたってちょっとした試練があった。否、理不尽な扱いを受けた。
「先ほど、在日朝鮮人ということで差別的な扱いを受けたことがあったと言いましたが、あからさまな差別を受けたんです」。
―どういう差別ですか?―
「B-ing(ビーイング)という就職専門誌があり、その中から選んで応募したのですが、朝鮮人というだけで7連続、落とされたんです。ところが日本人の友人の履歴書内容で応募したら一発で受かったんです。世間の風は冷たく露骨な差別ってあるもんだと知りました」。
高校を卒業してビリヤード屋から不動産屋。今度は、不動産屋が倒産してパチンコ屋と予期せぬ転職が続いた27歳のとき、不動産事業に本腰を入れる覚悟で「アセット・インベスター」という社名の不動産会社を2003年9月、友人と立ち上げた。後日、この会社が株式会社ユニバーサル・ダイニングの母体となった。
この時点では飲食業の「い」の字も考えたことがなかった、むしろ忌避していた感さえあった呉氏が、皮肉なことに不動産業に取り組んだことで飲食業に進むことになった。

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株式会社ユニバーサル・ダイニング 代表取締役社長 呉 成煥氏

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2024年4月1日月曜日

4月1日、今期がスタートしました。

4月1日、キイストン33期目の2024年度がスタートしました。前期も昨年に続き、おかげさまで黒字で終わりそうです。

今期は各部署で目標決め、自分たちで考えていけるように頑張ってくれてます。

イストンだからこそ」を追求し続け食業界になくてはならない企業になる~一つでも多く倒的に強い武器を持ち、クワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~』

営業マンを最低2人、理想では3人くらいほしいです。

営業マンが少なくてもちゃんと売上は作れるようになってきましたが、若くて次世代を担う人材を採るぞ!!


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月26日火曜日

株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏登場。

本文より~

校門で、ラグビー部、監督にスカウトされる。

高校入学初日の校門で、ラグビー部監督にスカウトされる。
合計16人の巨体が激突する。ラグビーのスクラムの話である。今回、ご登場いただいたラムバリオンの代表、高田社長はフォワードで、スクラムを組む時にはロックのポジションだった。
ラグビーを始めたのは高校になってから。校門で、ラグビー部の監督に声をかけられたのがきっかけ。高校入学時ですでに187センチあったから、声をかけたくなるのもわかる。
「そもそも野球の推薦で入学した高校なんです。監督にはその話もちゃんとしたのですが、それは俺がなんとかするからと言って(笑)」。
そんなきっかけで始めたラグビーだが「今の私があるのは、この時、声をかけていただいた監督のおかげでラグビーに出会えた事」。
そう言いながら、高田さんは少年時代を振り返る。
生まれも育ちも墨田区吾妻橋、浅草まで徒歩5分の下町で育った。
「野球を始めたのは、小学校から。中学でも野球をつづけ、そのおかげで修徳高校から推薦をいただきました。ただし、校門で運命が変わったのは、すでにお話した通りです」。

ラグビーで、友を得る。

「小学生時代はどちらかというと大人しいタイプでしたが、中学1年の時で180センチメートルありましたから、黙っていても目立ちます。野球はやっていましたが、夢や目標がある訳でも無く、友達とつるんで、フラフラしていた頃です。ラグビー部を始めてからは、ラグビー漬けの毎日で休みも時間も無くそのおかげで真っ当な道に進めましたね」。
毎日 練習、練習だったそう グランドは、荒川の土手。
「学校のグランドは野球部やサッカー部に独占されていて。私らラグビー部は、荒川の土手がグランドです。練習は暗くなってボールがみえなくなるまで。ナイターの設備はありません。土日は監督のツテで、明治大学の八幡山のグランドで練習させてもらいました。強豪チームとも練習試合を重ねます。あれが、いやだった(笑)」。
「なにしろ、勝ち目がなかった」と高田さん。
ときには、明治大学、ラグビー部の1年生と試合が組まれたそう。ラグビーで言えば、エリート中のエリートだ。
「試合になるわけがありません。ただ、負けても終わらない。ノーサイドになっても、監督は怒っている。で、『もう一試合お願いしてこい』って。永遠に終わらないんですよ」。
「辞めたい気持ちもありました。けど怖くて言えないんですよ」。と笑う。もちろん、そのおかげで今があり、今の友もあるそうだ。
「高校を卒業して進んだのは、立正大学です。体が大きいおかげで、色々な大学からもお誘いをいただいていたんですが。立正大学にルートがあって、先輩もいたので選びました。私の代では私を含め3名が進みます」。
ラグビーを通して、何を得たかとの質問には「自分の役割をしっかりこなした上での+@の力がチームに貢献すると言う事と、苦楽をともにしたかけがえのない一生の仲間」と回答している。

背負い投げで、上司を投げ飛ばす。

大学を卒業した高田さんは、大手飲食チェーンに入社、デリバリー部門に配属される。
「新卒の同期は20人。直営店が200店、FC350店の全盛期だった頃で、売上も高かったですね。私が配属された茨城県は、平均に遠く及びませんでした。北関東や東北っていうのは当時まだ、ハレの日に食べるものといったイメージだったんです」。
<のちにその店舗を買い取られているんですよね?>
「そうなんです。すごく思い入れがあって。ただ、最初に配属された店は、こちらには数ヵ月しか勤務していないんです。上司と馬が合わず…ついつい」。
なんでも、背負い投げで、投げ飛ばしてしまったそうだ。
「若気の至りというやつですね(笑)。ただ、この背負い投げで、また私の人生が動きます」。
当然、退職と覚悟を決めていたそうだが、当時の上司に退職の旨を話すと「辞めなくていい。郡山に来い」と思いがけない言葉が返ってきた。
「そこからですね。本当の意味で、私の社会人としてスタートしたのは」と高田さん。
「その上司の下で、むちゃくちゃ仕事をしました。2年くらい休んだ記憶はないですね。まだ出店が少なかった東北に、新規出店の立ち上げをして、そして、3年して、東京に戻り、新卒の研修担当を経て、スーパーバイザーとして本部勤務になります」。

本部のいうことを聞かない、本部スタッフ。

<会社には何年勤務されていたんですか?>
「14年です。名古屋にも転勤しています。もちろん、そのまま勤めるという選択肢もあったんですが、大きな転機が、、いや事件がありまして」。
<どういうこと?>
「社歴も重ね、中堅社員になり、FCのオーナーの二足の草鞋を履いているし調子に乗っていたんです。ある日、部下から『高田さんは、何も言われなくていいですね』って言われたんです。私にすれば、そりゃそうですよ。そのぶん、実績を上げているんだから。だから、上司からも何も言われない。勝ち誇って、オレには自由にする権利がある、と思ってました(笑)。いろんなことで横柄さがでていたんでしょうね。そんな時に同期で一緒に切磋琢磨して昇格していった友人から『みんな高田さんの振る舞いに迷惑しているよ』と言われて、初めて、私の横柄な振る舞いに気づくんです」。
ハンマーに殴られたようだった、とも言っている。
「関係者全員に土下座して謝りたいくらいです(笑)。気づくと恥ずかしくて仕方なかったです。この時、私はすでにFC店のオーナーでもあったんです。この店が、さきほどいった茨城県の店舗です。FC店を管理・指導するスーパーバイザーと、FCオーナーという2つの顔をもっていて、オーナーのほうに心が傾いていたんでしょうね。本部側ではなく、FCオーナー側とのバランスが崩れ、思考がFC側になってしまっていたんです」。
それに気づいたから、恥ずかしかった。もう戻れない所まで来てしまったなと。
「会社はずいぶんと引き留めてくださったんですが、残るという選択肢はもうなかったです」。
会社を卒業。それは、独立を意味していた。

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株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏

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有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏登場。

本文より~

コックさんの絵を描く。

アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴに旨いラーメン店がある。「Menya Ultra」。この「Menya Ultra」を経営するのが、今回、ご登場いただいたニシキダイナーの遠藤社長である。
もともとアメリカと縁があったわけではない。出身は秋田県大館市。秋田県のなかでも、北部にあり、青森もすぐそこ。
「ご想像通り、田舎です(笑)。裏に畑があってカボチャ、じゃがいもを育てていました。夏野菜は、ぜんぶ収穫できて、お米も含めて、自給自足。消費できない分はJAにお願いしていました。小・中とか水泳や野球などスポーツもやっていましたが、食べるのがとにかく好きで、母親にくっついて、ごはんをつくるのをみていました」。
小学5年生の時には天ぷらの研究をしていたというから、筋金入り。「食材は、そこらへんにありますからね。ちなみにラーメンの文化は、あまりなかったです。そうそう、子どもの頃に将来なりたい職業として、コックさんの絵を描いていました」。
父母と兄の4人家族。
「私のなかでは、兄の存在が大きいです。兄は私より5つ年上です。やんちゃなタイプで、私が高校生の時、自宅の隣にあった喫茶店を間借りしてラーメン屋を始めます。東京で有名ラーメン店で修業をしてきたそうです」。
「これも私のターニングポイントの一つ。ただ、兄は、ラーメン屋を辞めてトラックの運転手に転身します。私自身は高校を卒業し、道路公団に就職するんですが、1年で退職してしまいます」。

ほっかほっか亭の経営、開始。

「仕事を辞めたのは、重度の皮膚症だったからです。中・高の頃から病院に通っていました。頭皮がケロイドになったりします。就職したのは、有料道路を管理する会社だったんですが、ハードな仕事だったからでしょうか。症状がひどくなって、1年で退職します」。
頭皮がケロイドになり、かさぶたのようになって剥がれ落ちる。大学病院をいくつも回ったそう。
「その後、地元のペンキ屋に就職が決まりましたが、初日で逃げ出しました(笑)。その後、飲食関連の会社で経理の仕事をするんですが、給料9万円。治療代も払えなかったので、そちらもやはり退職します」。
兄が、ふたたび、遠藤社長を誘う。
「日産の下請けの浜松工場です。季節労働者というんですが、私たちからすれば出稼ぎというイメージです。給料は破格の40万円。前職が9万円でしたから、その額に目を丸くして、私もついて行きます。たいへんな仕事でしたが、通院もしながら、こちらの仕事もつづけます」。
「仕事は真面目にするほうなんで、評価もいただいて正社員にならないか」と誘われたと言っている。
「今の仕事とは、ぜんぜんちがいますが、じつは、そう仕事をしながらも、コックになりたいとは思っていたんです。道路公団の入社式の日にコックになりたいから、4年で辞めると言っていたくらいですから」。
「季節労働者を辞め、秋田にもどったのは21歳の時です。出稼ぎで貯めたお金と父親からもお金を借りて『ほっかほっか亭』を始めます」。
なんでも、昔、アルバイトをしていた店が売りに出されていたらしい。
「5店舗、同時に売り出されていたんですが、そのうちの2店舗を私と兄、それぞれ1店舗ずつ買い取ります」。
兄は能代市の店舗、遠藤社長が大館市の店舗。一緒に本部に研修を受けたそう。契約金200万円、買取額は500~600万円だったというからかなり、思い切った出資である。

1994年、快挙と伝説の数々を生む「らーめん錦」オープン。

「ほっかほっか亭は原価とロイヤリティを合わせるとかなりのパーセントになって、固定費と人件費を払うとほぼ残りません。最初のお店は、売上も前任者の倍にはなったんですが、7年間やりクローズ。じつは2店舗目も出店していますが、こちらはロケーションがまずかったです。デリバリーを増やして、なんとか売上を確保していきます」。
兄と弟が、経営する秋田の「ほっかほっか亭」。
「私もけっこう大変でしたが、兄のほうがさらに大変でした。私の大館市の店自体も大家さんの都合で取り壊すことになってしまいます。『ほっかほっか亭』をするなら貸さないと言われたので、じゃぁってことで、兄といっしょにラーメン店を始めることになります。これが『らーめん錦』の始まりです」
教えていただいた年表をもとに話を進める。
1994年、秋田県大館市に1号店「らーめん錦」オープン、1997年、秋田県大館市に2号店「らーめん錦」オープン(現:大館錦本店)、2003年、秋田県北秋田市に「麺屋うるとら」オープン、2008年、秋田県秋田市に「らーめん錦 秋田本店」オープン。東北で初めて、サークルKサンクス×錦「コラボカップラーメン」を発売するが、即完売となる。
2009年、秋田市に「らーめん錦 秋田分店」オープン。
東北じゃらん3月号の特集に掲載され、「東北+新潟の究極のラーメン」秋田県部門第1位にかがやき、東日本放送主催「あなたが選ぶ東北ラーメンランキング」東北6県内で第3位に入賞している。
2010年には、大館市に「つけ麺屋 焚節」オープン。東京ラーメンショー 2010に初出店し、行列第一位の伝説をつくる。2011年、東京ラーメンショー 2011にて、伝説はつづき、2年連続行列第一位。
2012年、秋田市に「ニシキ土崎分店」オープン。東京ラーメンショー 2012に出店し、3年連続で行列第一位。翌年の2013にも出店し、4年連続、行列第一位、そして、遂に売上杯数ダントツ第一位の偉業を達成している。
これだけではない。大つけ麺博 日本一決定戦2にて、行列が途切れず「ブース閉鎖」という快挙まで達成している。知名度も広がり、2014年には、長野県・軽井沢・プリンスショッピングプラザに「らーめん錦 濃熟鶏白湯」オープンしている。
秋田を代表するラーメンから、日本を代表するラーメンになっている。

・・・続き

有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2024年3月25日月曜日

2024年キイストンのスローガン決定。

2024年度(4月~)キイストンのスローガンは


「キイストンだからこそ」を追求し続け
飲食業界になくてはならない企業になる
~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、
  ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月21日木曜日

営業研修に是非社長取材同席を(笑)

前職では営業マン時代も営業課長時代もかなり売ってましたが、今のやり方なら倍ほど売れてた気がします(笑)

「飲食の戦士たち」の社長取材通じ、ヒアリングの大事さ知りました。

社長取材同席、これ外部の営業マン研修に使おうかな…。

1,000連載(残19社)という圧倒的な数の社長記事は財産です。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月20日水曜日

新しいことが進む時。

“これは行ける”って思い、社員にこれ行けると思うがどうや?っていうとまず、それスゴくいいですね!はなく、悪気のないネガティブな回答が多い。

ただ、それこそがチャンス!と最近とらえてます。

多くの人が気づかないので他でやってないのは本当にチャンス!

自社でいうと“エム採用”の時も“飲食の戦士たち”の時も、求人以外の複数の収益の柱を立てた時も、「また細見さん、儲からない慈善事業やってる」って感じでした(笑)

アイデアが出ることでチャンス到来!!

なので自分でやってみることを今後も大事にしていきます。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月19日火曜日

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

本文より~

氷川丸、船上のビアガーデン。

ハレの日は、ファミリーレストランにでかけた。「外食の記憶っていったらそれくらいですね」と子どもの頃の記憶を探る佐藤さん。株式会社バリューテーブルの代表取締役社長である。
「小さな頃はやんちゃなタイプでした。べんきょうは好きじゃなかった。高校は私立なんですが、試験が2教科だけだったので(笑)」。
50人のクラスが20クラスあったというから、マンモス校。卒業生には、人気タレントの、あの出川さんもいらっしゃるそうだ。「インパルス堤下は同級生」と笑う。
残念だったのは、男子校だったこと。だからではないが、高校の夏から、舞台は飲食に移る。
「高校1年の夏に、ともだちと『バイトしよう』ってことになって、氷川丸のビアガーデンではたらき始めます」。
氷川丸は、山下公園に係留保存されており、夏になると、船上ビアガーデンがオープンする。
「これが、私にとって飲食との出会いです。ビアガーデンは夏だけなんですが、評価していただて夏が終わってからも、土・日だけバイトをさせていただきます」。
横浜、育ちは、バイト先もおしゃれだ。
「3年になってから、ちょっとちがったバイトも経験してみようと、コンビニでもバイトをしますが、氷川丸でサービス業の楽しさを刷り込まれたんでしょうね。大学じゃなくて、日本ホテルスクールという専門学校に進学します」。

シアトルのBARと、バーテンダーと。

日本ホテルスクールのホームページをみると、日本で唯一ホテルがつくった学校で、「国際感覚と英語をのばす」とあった。
「通常は2年で卒業なんですが、私は1年間、海外留学に行くコースに入ります」。
計3年。もちろん、印象に残っているのは、海外留学。
「アメリカのワシントン州シアトルにいきます。日本でいうと北海道と緯度がいっしょですから、寒いですね。ホームステイです。アメリカは、刺激的でした」。
ある日、ホームステイ先のアメリカ人にBARに連れていかれる。カウンターの向こうで、客と会話し、左右に動く。シェーカーをふり、カクテルをつくる。そんなバーテンダーの姿に、魅了されたという。
「今でも、目に浮かびますね。ホテルスクールなんで、基本は、ホテルに就職するのが既定路線なのですが、私はBARで仕事をしたいと、そちらに進みます。もちろん、明確なビジョンがあったわけじゃありません」。
帰国して、山下公園ちかくのBARでアルバイトを開始する。学校はあと1年。
「週末になると、横須賀のネイビーたちも来るようなBARでしたね」。BARと言っても100人くらい収容できるスケールだったらしい。
「実は、銀座のBARを希望していたんですが、色々あって、邪魔くせぇと思って、ふだん行かないパチンコに行くんです」。
10万円、勝ったらしい。
「こりゃ、すげぇ、と、ともだちを誘って、当時まだ20だったので、その年代がいくようなBARじゃなかったんですが、気が大きくなって(笑)」。
<それで運命の扉が開く?>
「そうですね。酒の勢いもあったんでしょうね。スタッフに仕事したいというと、親切な人で、オーナーにつないでくれたんです」。
「上質というより、やんちゃなBARだった」と佐藤さん。20歳の少年にとってはアメリカでみたBAR同様、キラキラしていたのではないだろうか。
「楽しかったですね。日本のBARも、アメリカに負けてはいません。客層も、さっき言ったようにネイビーたちも来る。人種も、語学も、一様ではない。そういう世界観にも魅了されていきます。もっとも当時は、将来の思いも漠然としたもので、学校を卒業してからも、流されるようにそちらでバイトをつづけます」。
シェイカーをふる。客と会話する。グラスをみがく。カウンターのなかを自在に動く。人脈もできる。「色々な出会いがあり、付き合いも広がっていきます。ちがうBARでもバイトをしたりして。本牧にあった、焼酎バーも印象に残っています。自分で焼き鳥を焼くんです。もう、こちらもなくなっているんですが」。
氷川丸からスタートした、飲食人生。ここまでが、第一章。

25歳のビジョン。

「25歳の頃ですね。このくらいになって初めて、将来を真剣に考えるようになりました。飲食は楽しい。だから、この道を進むと決めていたんですが、楽しいだけでは将来がちゃんと描けない。とくに、数字ですね。経営に関することもいる、と薄々感じていたんですが、おざなりになっていました」。
漠然としていた将来像が、焦点を結び始める。
「それで、一念発起して、東京の飲食店で仕事をしようと一人暮らしを始めます」。
横浜生まれの佐藤さんにとっても、東京はキラキラしていたそうだ。そして、当時まだベンチャーだった会社のトビラを叩く。
「実は、そちらは3日でやめているんです(笑)」。ベンチャーで、体制がまだ整っていなかった、と笑う。
<そのあと、どうされたんですか?>
「飲食人生の第二幕があがるはずだったんですが、いったん、ちがう道に進もうかな、と。ただ、もう、ちがう道というのも、たいへんでしょ。それで、ワンダーテーブルに転職します。こちらは2年。これは計画通りです」。
面接で「2年で辞める」と、言ったそうだ。つまり、2年で独立するということ。
「ワンダーテーブルさんで、P/Lなどの数値も勉強できました。それで26歳の時ですね。退職し、1年間、物件探しを始めます」。
もちろん、物件探しも、事業計画書作りも初めて。
「結婚もしていたのですが、1年間、奥さんといっしょに私の実家で生活をします。何しろ、お金を遣いたくなかったので。奥さんには、感謝ですね」。
公庫にも借り、父親にも援助してもらい、27歳でイタリアンカフェをオープンする。
「横浜から3駅いったところに南太田っていう駅があって、住宅街なんですが、そちらで創業します。ほぼスケルトンからなんですが、ともだちにサポートしてもらったので、比較的、安く、オープンできたと思います」。
13坪18席、初期投資1000万円。
「いまウルフギャングで料理長をしているやつがいて。由比ヶ浜のダイニングで知り合ったのですが、彼をさそってスタートします。ただ、1年半くらいで海外にいっちゃったので、そのあとは私が料理をつくっていました」。
<いかがでした?>
「業績は、想定通りでした」。
<つまり、悪いわけではないが、特別、いいわけでもない?>
「そうですね。地域密着で、食べるのに困るようなことはなかったんですが、このままつづけても、物足りないと思うようになって。実は、3年目の更新の時に、クローズしてしまうんです」。
<それはもったいない!>
「ただ、まだ若かったですし。当時、スペインバルが流行りだしていたんです。もともと私の飲食人生は、BARに憧れてスタートしていますから、そちらをやってみたいな、と」。
<それでクリエイト・レストランツですか?>
「そうです。ちょうど30歳の時ですね。まだ、岡本さんが社長だった頃で、今、思うと、まだまだ始まりの頃でしたね。こちらで8年間、修業させていただきます」。
私が今あるのは、クリエイト・レストランツのおかげ、と佐藤さんは言う。濃密な8年間だった。ネットワークも広がる。しかし、本格的な葛藤ははここからスタートする。

・・・続き

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏

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株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

本文より~

高萩村いちばんの、

1941年2月20日生まれで、現在83歳になる。
「村いちばんの貧乏で、住む家もなくってさ。親戚の家を転々としていたから、じつは出身地も正確にわからない」という。
ただ、会長が村というのは高萩村で間違いなさそう。ウイキペディアで調べると「高萩村(たかはぎむら)は、かつて埼玉県入間郡に存在した村」とある。日高市の東部と言えば、およそ位置が想像できる人もいるだろう。
会長は4人兄弟の長男。「兄弟全員、中卒」と、苦笑する。戦争で負傷したお父様に代わって、お母様がゴルフのキャディをして兄弟四人を育てられている。
母を真似て、長男の会長もキャディのバイトをした。
キャディをしたおかげで、人間をみる目ができたらしい。
「だって、朝初めて会った人と4時間もいっしょにいて、その人たちの様子を観て、どうしたらいいかを判断するんだよ。チップをくれるかどうかも、大事だからね」と笑う。
人生初のコーラは、アメリカ人のお客さんからいただいた気の利いたチップだったらしい。
1941年生まれだから、中学生になっても戦争の跡は残っている。戦闘機の格納庫だったところで勉強したこともあるそうだ。そういう話を聞くと、思い浮かんでいた映像が、とたんにモノクロになった。

職を転々と。

「とにかく、お金がないから、早くはたらかないといけない。だから、中学を卒業して、就職します」。県をまたぎ、板橋区にあった小さな工場に向かった。面接に行くにも、電車はつかわない。お父様と、自転車を漕いで向かったそう。
「3時間はかかったんじゃないかな」と笑う。
お父様にも苦労をかけて就職したが、1ヵ月後、会長は実家にいた。
「住み込みだったんだけどさ。実は、逃げだしてしまったんです」。今や大会社の会長といっても、当時は、まだまだ少年だ。
「つぎに就職したのは、ベアリングの工場です。時給15円」。こちらは、1年でリタイア。大手のメーカーに勤めて、バイクをつくったのは、そのあと。
「夜勤のアルバイトだったんですが、工場長から『正社員の試験を受けてみなさい』って勧めていただいて、学歴がないから受からないと思っていたら合格しちゃって。でも、どこか冷めていて、やっぱり飽きちゃうんです」。
仕事は転々としたが、だからと言って下を向いたことはない。
「転職は悪くない。だって、1度きりの人生でしょ。我慢して一つの仕事をつづけても、つまらないだけ。私は、色々な職を経験して正解だったと思っている」。
会長はニヤリと笑う。

オープンしたラーメン店は、1年でクローズする。

「ともだちが暇なんだったらラーメン店で仕事をしてみないかと誘ってくれたのが20歳の時。だから、20歳の時に初めてラーメン店で仕事をします」。
「それまでは?」とうかがうと、会長はつぎのようにいう。
「キャバレーのボーイってわかるかな? バーでもはたらいた。当時は、『水商売』って言ってね。イメージはよくなかったね」。
まだまだ青二才。仕事もそうつづかない。だが、今度は少し様子が異なった。
「ラーメンもそうだし、チャーハンもそう。みんなこちらで教えてもらいました。でも、それだけじゃなくって、ツケを、初めて知るんです」。
「ツケのからくりを知って、その頃から、キャッシュフローに目をつけていた」と会長はいう。現金ビジネスのストロングポイントを若いなりに見抜いたっていうことだろうか。
スーパーの警備員から声をかけられたのは、このラーメン店で働いいていた時。
「ラーメン店をやるから手伝ってくれないか」。
「向こうさんがお金をだして、店は私がきりもりします。ただ、ロケーションが悪くて、申し訳ないことに1年でクローズしちゃいました」。
会長の前に、大家さんがひょっこり現れたのは、その頃のこと。

キミが店をやらないか、天からの声。

「私らにしたら、大家さんなんて金持ちでしょ。だから、好きでもなかったんだ。挨拶だってろくにしない。だけど、どこかで、向こうは私の仕事をみてくれていたんだろうね。『店をやらないか』って誘ってくださったんです」。
青天の霹靂。
「そう、思ってもいなかったからね。ただ、いい話だけどさ。そもそもお金がない(笑)」。
「でね。正直に『お金がありません』って言ったら、大家さんがなんと保証人になって銀行からお金を借りてくださったんです。私が27歳で、大家さんが50歳くらいの時かな。でもさ、おんなじラーメンなんだから、私がオーナーになったって、急に流行るわけがない(笑)」。
リニューアルオープンしたものの、やはりうまくいかない。
「待っているだけじゃダメだ。デリバリーだね。それをやろうと思って。1人じゃ無理だから」。弟さんをスカウトされたそうだ。
「弟が、市役所に御用聞に行ってくれたりしてね」。
市役所からの注文は、日によってかわったが、「タンメン1杯」「チャーハン1つ」だったそう。売上は、タンメン1杯分、チャーハン1つ分だけ、改善した。
<弟さんと二人三脚ですね?>
「そうだよね。私ら兄弟はみんなそうだけど、さつまいもだけで、育ったからね。逆境にもつよいんだ。さつまいも1つあれば、食いつないでいける(笑)」。
その後、会長は深夜営業に活路をみいだし、売上は上昇。ただ、勧められるまま、始めたスナックが大失敗。「妹まで呼んだのに失敗したって噂が広がって。恥ずかしくなって。ラーメンもいっしょ辞めちゃいました」。

「来々軒」創業。

もちろん、これで幕が閉じるわけはない。第二ラウンドの幕があがる。いや、むしろこれが第一章の始まり。
<つぎにオープンしたのが、創業の「来々軒」ですね?>
「5坪の小さい店だったけど、大宮のちかくだから、ちかくに風俗店もあってね。デリバリーの注文もいただいて。でも、1人じゃできないでしょ。だから、さ」。
ふたたび、弟さんが、仕事を始める。
「今度はさ。お袋が弟に『やめておけ』って言っていたらしいです(笑)」。
<でも、来てくださったんですよね?>
「そう、兄弟のきずなですね。そこに、もう1人、ラーメンの修業をしたいという人がはいって、3人になる。そうなると、さすがにキツキツになって。で、来々軒2号店をオープンします」。
ちなみに、ラーメンの修業にきた高橋という青年が、のちに会長とともに社長を務めている。
「弟もいたんだけど、資金繰りからスタッフの募集まで、ぜんぶ私1人でやっていました。今でいう店舗開発も、仕事の一つです。ある日、初めて蕨駅に降りた時かな。貸店舗って貼り紙があって。最初はラーメンはだめだって言われたんだけど、ピンと来たから交渉してさ」。
「その店は今でも、やっている」と会長は笑う。
ところで、会長曰く、「当時は、ラーメン店が株式を公開するなんて、だれも思っちゃいなかった」そう。「だから、みんな独立するんだな。弟も、独立するって言ってたからね。でも、私は3人でやれば、絶対、大丈夫だって。絶対、時代はかわるからって」。
「『騙そうとしている』っていうからさ。大宮駅まで連れて行って。駅からでてくるサラリーマンを観察させます。どうだって。だれもが手ぶらだろって。昔は10人降りてきたら、3人は弁当をもっていたんです」。
<もってないとしたら? どこかで食べますよね?>
「そう、そういうこと。もうさ、時代は動いてたんだよ」。

・・・続き
株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏

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2024年3月15日金曜日

「飲食の戦士たち」の社長取材は日々勉強。

何連載と「飲食の戦士たち」の社長取材をやってきてますが、いつも勉強させて頂いてます。

取材の場面は多くの人に聞かせたいな・・・。

「飲食の戦士たち」

「飲食の戦士たち」再現ドラマ版

戦略型総合人材採用会社キイストン

2024年3月13日水曜日

株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏登場。

本文より~

報酬は、30円。

「創業は私の両親です。私が生まれた時には、すでに創業していました。私の父は新潟生まれ。15歳で上京して、米軍基地でアルバイトしたあと20代の時に新宿にある鶏肉専門店に丁稚奉公に入り、鶏を解体する技術を修得します。母ともそちらで出会い、そして、2人して独立したそうです」。
父が24歳、母が21歳の時。
「母の実家は豪農で、ブドウや桃、プラム、スイカなどを育てる広大な畑をもっていました。私も、夏休みや冬休みになると、母の実家に行き、養豚場や養鶏場を走り回っていました。じつは、父が就職した鶏肉店の社長夫人の妹が母でした。独立した2人が大井町で『鳥利商店』を創業したのが、昭和30年。その3年後に長男の私が生まれます」。
髙波さんが生まれたのは1958年。当時の大井町は、どんな町だったんだろうか?
「ニコンが拠点を構え、その従業員が通勤する道が”光学通り”と呼ばれるほど、サラリーマンの町でした。創業当時は、私らが住む住居と合わせても8坪ほどの店だったそうです。両親ははたらき者で、朝は遅くても7時には仕事をはじめていました。夜の9時にご飯を食べて、またそこから11時くらいまで仕事をつづけていました」。
髙波さんを連れてどこかに行く時間もなかった。代わりに手伝いは子供の頃からさせられたそう。
「『30円やるからアルバイトしろ』と言われ、店頭で焼き鳥を焼いたり、少し大きくなると解体もさせられました」。
言うなら、これが親子のコミュニケーション。
「中学受験をして、暁星に進みます」。暁星といえば、むろん、名門。エリートの子どもたちが通う学校だ。もっとも、髙波さんの第一志望は麻布中学。こちらは不合格。
「麻布に行けなかったんで、私じゃなく、父がショックを受けます。私を麻布に入れて、東大に入れることが父の目標だったみたいです。だからか、大学受験の相談をした時「もうお前には諦めている」と言われました(笑)」。
もちろん、髙波さんにはどうすることもできない。暁星で青春を謳歌する。
念のため確認してみたが、ご本人は、東大をめざしたことはないそうだ。

渡米。

「一浪して、法政大学には入るんですが、3ヵ月で辞めてアメリカに行く準備を開始します。7月から営業の仕事を始め、8ヵ月はたらき160万円貯めて、海を渡りました」。
向かった先は、カリフォルニア州ロサンゼルス。
「アメリカに行く目的ですか? それはアメリカのビジネスをみたかったから。私が学生時代だった1970年代は、マクドナルドの日本1号店のオープンや、「アメリカンドリーム」という言葉がもてはやされたり、ビジネスと言えばアメリカでした。私も商人の子。本場アメリカのビジネスを自分の目で見てみたい、と思いました。父の跡を継ぐつもりは全くなかったんですが、いずれは自分で商売をしようと決めていたんです」。
出発3日前。父にアメリカに行くと告げた。「お前のことは諦めている」と言われたあの日から、親子の仲が悪くなり、どうせ反対され喧嘩するならその期間は短い方が良いと考えた。お父様は一言、「そんな行き方をするなら日本に帰ってくる所はないと思え」とおっしゃったそうだ。
誕生日の3日後にアメリカに向かったと言っているから、帰るところがなくなったのは、誕生日だったはずである。
「ロサンゼルスに友人のお母様がレストランを経営しており、そこで働かせてもらっていました。しかしそれでは、そのレストランのビジネスは分かっても、アメリカのビジネスは分からなかった。その時、もう一度学校に行く必要性を感じました。とはいえ、働きながら卒業できるほど甘くはありません。そこで、「日本に帰ってくるところはない」とまで言われた父に、その場しのぎで、『帰国したら家業を継ぐから、支援してほしい』と手紙を書きました。父はお金を工面してくれ学校に入学しました」。
「読み書きはできましたが、スピーキングやヒアリングがてんでできない。日本の英語学習のウイークポイントですね(笑)。向こうでは、ロングビーチにあるブルックスカレッジっていう2年制の大学に入るんですが、言葉がわからないから話すこともできません。それでも毎日睡眠時間は3時間で猛勉強し、1年後には、夢も英語でみるようになっていました」。
すっかり、アメリカに慣れた証。学校を好成績で卒業し、ニューヨークに2年。「当時のニューヨークは、ファッション、ビジネス、ミュージックすべてが街中にあふれていました」。
ウエイターや、リムジンのドライバーで生計を立てていたらしい。
「あの頃は、永住権を取って、アメリカ人になるつもりでした。物価は、当時からむちゃくちゃ高かったですね。西では、アパートにプールっていうのもふつうでしたが、東だと、それが許されるのは超金持ちだけです。当時私が暮らしていた街は、見るからに怖そうな人も多く、物騒な目にあったこともあります」。
日本の青年がアメリカで、アメリカンドリームにチャレンジする。その絵を想像すると、エールを送りたくなる。

・・・続き
株式会社プレコフーズ 代表取締役 髙波幸夫氏

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