2024年7月16日火曜日

株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏登場。

本文より~

看板メニューはネギ蛸。

たこ焼きは、旨くて、定番。だから、浮き沈みがない。むかしはソース味だけだったが、今は、しょうゆ、マヨネーズ、ポン酢、塩と、進化している。
ねぎと蛸。たこ焼きの主要なパーツは、やはり、このふたつ。ねぎは、彩りにもいい。「だったら、ねぎをあとから、ふりかけたらインパクトもあって、ええんちゃう?」。
青々したねぎが、たこ焼きにたっぷり散りばめられる。
「乗せ放題にしとったからね。ねぎをいっぱい仕入れて、最初は店で切っとんたんです。そりゃ、たいへん。評判になって、切る時間もなくなって(笑)」。
今ではねぎがトッピングされたタイプのたこ焼きもめずらしくない。
「絶対とは言えませんが、あれを最初に始めたのは、たぶん、私。もともと素人やから、できたんちゃうかなと思っています(笑)」。
たしかに、ねぎのトッピングは、異次元の進化。
今では、このスタイルも定番のひとつになっている。
「うちは、この『ねぎ蛸』が看板メニューです。ほかになかったからインパクトもあったんですが、いまは『ねぎかかっているだけやん!』みたいな(笑)」。
「それだけちゃうで、うちは、といいたいんですが」。
その後も、笑いながら、いろいろな話をうかがった。
社名の話になると、「中国の会社と間違われます」と、こちらの笑いを誘ってくる。さすが、関西人。で、「それだけちゃうで、うちは」のつづきはこうなる。
水は電解還元水、小麦とネギはもちろん、国産。主役の蛸は、新鮮な生蛸。「生の蛸をつかっているのは、めずらしいです。こっちのほうが断然、うまいんです」。
ただし、材料を厳選するぶん、原価が高くなる。「みなさん、粉もんやから、利益率が高いと思ったはるでしょ。でもね、うちみたいに水からこだわっていたら、原価は、想像以上に、高いんです。でも、そのぶん、おいしいって、いうてくれはるからね」。
関西弁が、耳にここちいい。飾らない人柄が、声にのってやってくる。さて、遅くなったが、今回は、「ねぎ蛸」が旨い、元天コーポレーションの代表、水野さんにご登場いただいた。

12歳から、働く人生。

「ちっちゃい頃は、おやじが商売をしとったんです。従業員も10人くらい抱えていましたから、ええ時もあったんでしょうね。でも、私が小学生にあがってから倒産して、両親は離婚。兄妹は、姉と弟の3人。みんなで母親についていって、ちっちゃいアパートで生活します」。
アパートがあったのは、「今里」。大阪のなかでも、ディープな街の一つ。
「なんでかしらんけど、今里だけ物価が安い。私は、中学から新聞配達を始めるんですが、今里はバイト代も安かった(笑)」。
新聞配達は、朝5時から。ねむい目をこすりながら、走り出す。
「勉強は、アホやなかったけど、『できる』ほうでもなかった。ただ、スポーツはできた。小学生の頃は今でいうボーイズリーグで野球をしていました。ピッチャーで6番。けっこう強いチームで、甲子園にでた仲間もいます。私もそれなりやったんですが、何しろ金がない。私学の強豪にいかんと、プロにはなれへん。だから、ふつうの公立に行って、バイト1本です」、
好きな野球と離れ、どんな思いで朝の町を走っていたんだろうか。
「あのね、大人になってもそうなんですが、苦労を苦労と思わない性格なんです。鈍感いうたら、そうなんでしょうが、母親の苦労をみていましたから」。
バイト代は、月2万円。うち1万円を母親に渡した。
「残り? 残りはあそんでたんやろね」。月1万円、中学生にしたら大金だ。ちなみに、水野さん。「12歳から、働く人生」と言っている。

となりは、6坪のたこ焼き屋さん。

高校に進学してからも、もちろん、「働く人生」は続く。
「学校が終わって、夕方5時から晩の10時まで喫茶店で仕事をしていました」。時給600円。1日3000円。30日働けば、けっこうな額になる。
子どもが大きくなるにつれ、お母様も、楽になっていかれたことだろう。
「それは、どうでしょうね。少しは楽になったんかな。母から、弱音を聞いたこともない。だから、ようわからんですね。自分で仕事をしとったから。真面目な人で、私ら兄妹にも『人の3倍働かな、あかん』っていっていました」。
小学生のボーイズリーグ時代の話。
「最後の試合だけ観に来てくれた」という。大好きな息子が投げる豪速球を、お母様は、どんな風に観ておられたんだろうか。
高校を卒業した息子は、さらに遠い存在になっていく。
「ゲーム喫茶を経営している会社に就職します。当時で月給23万円。むちゃくちゃ高い。せやけど、さすがにちょっとやばいんちゃうかって思うようになって。給料と、天秤にかけたんですけど、やっぱり、やばいと逃げ出します」。
<それから、どうしました?>
「25歳で独立するまで、職を転々としました。営業職が多かったですね。最初に起業したのは、ゴルフ会員権を売買する仕事です。これを、13年続けます」。
ちょうど、バブルの頃、さぞ儲かっただろうと思ってうかがうと。「波にのれんかった」と笑う。なんでも、お金がなかったから、大きなビジネスはできなかったらしい。
「でもね。会員権を買い取って、おっきな仕事しとった会社は、みんなつぶれました。私らは、そのぶん、長く仕事ができたと思っています。まぁ、長くは続けたけど、借金もできて、また、新聞配達からやり直さなあかんようになってしまうんですが」。
新聞配達ではなく、縁があって、フードコートの飲食店を委託されることになる。「ラーメンから丼まで、なんでもある30坪の、わりと大きなショップです。その隣にあったのが、たこ焼き屋だったんです」。
たこ焼き屋は6坪。だが、やたら儲かっている。

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株式会社元天コーポレーション 代表取締役社長 水野起業氏

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株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏登場。

本文より~

プール付き、2億円の豪邸。すべては、そこからスタートする。

今回ご登場いただいたアクトコミュニティの代表、柳瀬さんは1987年4月6日、名古屋市西区則武町生まれている。お父様はアパレル関連の会社に勤め、お母様は昼夜問わず仕事をする働き者だった。
「市営住宅で暮らす3人家族の一人っ子です。両親が共働きだったこともあって、5歳の頃にはカップラーメンを一人でつくっていました。勉強はしないで、外で遊んでばかりの少年でしたね」。
勉強はしなかったが、数学は好きだった。
「中学の頃、一戸建の夢をみて、調べてみたら2億円がいるとわかったんです」。
<2億円っていったら、かなりの豪邸ですね?>
「そうなんです。プール付きの豪邸です。40歳で子どもが小学校に上がるまで建てようと計画します」。
得意の数学でそろばんを弾く。
「2億円を借りるとしたら、最低でも年収は2,000万円が必要。そこから逆算すると、サラリーマンなんてとてもやっていられない、となったわけです」。
<だから経営者?>
「そうです。すべてはここからスタートしています」。

カウンターの向こうには、めざす未来のジブンがいる。

「経営者になるといっても、勉強はできなかったから学問がいらず、起業しやすい飲食をめざします」。15歳の少年が、ある意味、理論的にその絵を描いていたというから、驚くばかりだ。
「高校に通いながら、錦でバーテンダーを始めます。15歳から20歳までダーツバー、そのあともバーテンダーです」。この仕事が、柳瀬さんの経営者への道をリアルに開くことになる。
「バーには著名人をはじめ、ユニークな経営者がたくさんいらっしゃいました。カウンター越しなら、そのような方々も対等に接してくださるんです。すべてが貴重な経験でした」。
もっとも、仕事はハード。「月商1,000万円がノルマで、月末に達成が見込めないと帰れま10(テン)だった」といって笑う。
それでも月給は25万円。
「ぜんぜん見合ってないですよね。でも、独立のためのステップだと思っていましたから、給料に不満はなかったです」。
社会に出ても、中学の時に立てた志は忘れていない。
ちなみに当時、錦でもっとも有名なバーテンダーを1人挙げるなら、だれもが柳瀬さんの名を挙げたのではないだろうか。それだけ、目覚ましい仕事をしていたようだ。

生肉マーケットを再構築。「タテガミ」が、快走する。

イベントも開催したそうだ。芸能人やスポーツ選手とも出会った。「雑誌の編集者やTV局のプロデューサー、そういう人とのコネクションができて、彼らからも勉強させていただきました」。
情報発信の方法のことだろう。柳瀬さんにとってSNSは原動力の一つになっている。25歳、バーをオープンし、2,000万円の軍資金をつくり打って出る。
<タテガミ、ですね?>
「そうです。馬肉の『タテガミ』は、ちょうどレバ刺し、ユッケなどの生肉が問題なったときに、規制のない馬肉に目をつけスタートしたブランドです。『馬肉』ではなく『生肉』という大きなマーケットにチャンスがあると思ったんです」。
たしかに、レバ刺しやユッケが規制され、大好きな生肉が食べられなくなった人は無数にいる。ちなみに、馬肉は牛肉や豚肉と比べ、低カロリーで高タンパク。鉄分が豊富と言われている健康食。馬の生肉が規制されていないのは、牛や豚と違い、馬は体温が高く、雑菌が繁殖しにくいからである。
そこに目をつけ、オープンしたのが馬肉の「タテガミ」。グルメサイトで検索してみたが、さすが柳瀬さんが手塩にかけただけあって、とにかく高評価だった。
「『タテガミ』で、フランチャイズ化を進めます。バーで知り合った経営者の方々が参加してくださいました。ロケーションを間違えなければ、うまくという自信もありました」。
「タテガミ」が、快走する。だが、落とし穴があいていた。

バイブルは、ブログ。

予想通り大きなマーケットがあった。すべてが順調。柳瀬さんの戦略は、ことごとくヒットする。
<バイブルがあったそうですね?>
「そうなんです。株式会社subLimeの代表、花光雅丸さんのブログです。私は偶然、そのブログを知って、それから毎日、なめるようにしてブログを読み、花光さんの後を追いかけます。だから、今もそうですが、すべてが花光さん基準なんです」。
ブログを通して花光さんと出会ったのは、20歳の時。花光さんの生き様が人生の羅針盤となる。
「経営の師匠は、バーのお客様だった方と奥さんのお父さん。お二人とも尊敬できる経営者で、とても参考にさせていただいています」。
柳瀬さんのネットワークは広い。バーテンダーの時代、数々のネットワークを築いている。カウンター越しに培った人間観察力は、おそらく柳瀬さんの武器の一つ。

赤字からの大逆転。

「さきほどお話したように、バーで知り合った経験者の方々が加盟してくださって、『タテガミ』のフランチャイズ化も加速します。ただ、5年目。私が30歳の時に直営を含め、加速したことがあだとなって苦境に陥ります」。
<どういうことですか?>
「当時、『タテガミ』が15店舗あって、さらに事業スケールを拡大しようと、2018年の10月に愛知・国際センターに1億円かけて『肉のよいち』を立ち上げたんです」。
<現在、メインブランドの米が主役の焼き肉店ですね?>
「そうです。投資額が大きいわりにスタートがうまく切れませんでした。その一方で、『タテガミ』も同ブランドながら大衆店から高級店までバリエーションを広げ、出店エリアも一気に広げすぎて、スタッフの管理ができなくなって内部崩壊してしまいます」。
<資金的にはどうだったんですか?>
「借入金を返済しなければなりません。月300万円がショートして、半年で1,800万円の赤字がでます。バーを経営していた時に貯めた軍資金も使い果たし、自己破産ギリギリまで追い詰められました」。
やむなく撤退を開始する。10あった直営店のうち8店舗をクローズ。
「1年くらいは苦しかったですね。ただ、直営は減りましたが、逆に組織がスリム化し、フランチャイズの比率をあげるきっかけになりました」。
ため息はつかない。萎縮することなく、次に進むきっかけになったのは、間違いなく花光さんのおかげ。
およそ1年で、ビジネスを再構築。再び事業が加速する。ただ、その先にもう一つの試練があった。

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株式会社アクトコミュニティ 代表取締役 柳瀬雅斗氏

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2024年7月12日金曜日

株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏登場。

本文より~

イタリアへ。心躍らせ、夢膨らませ…

大学卒業と共にイタリアへ飛び立つ機上に、不安を抱えながらも“イタリア料理の料理人になる”と心躍らせ、夢を膨らませた平井氏がいた。
「イタリアンに魅せられたのは、大学時代~群馬県でしたが~、ホテルでの結婚式の配膳を3年間、その他イタリア料理店で、卒業するまでアルバイトをしたことがきっかけですね」。
「条件というほどではありませんが賄い付きのアルバイトを探し、イタリアンに限らず、とんかつ屋でのアルバイトを経験しました。アルバイトで得た収入は、全額といってもいいくらい食事に使いました。金額にして12~13万円くらいでしたか……」。
「ただ食べるばかりではなく、本を読んで勉強して友人に料理を振る舞うこともありました。作ったのは和食、イタリアン、フレンチなどいろいろでしたね。その本の中に落合シェフの本があったんです」。
就職活動もせず飲食業でのアルバイトに明け暮れていた平井氏に、イタリア行きという思わぬチャンスが訪れた。
「“イタリアに行きませんか”という募集があったんです。費用は90万円。内容は料理の専門学校に入って研修をしてレストラン配置というツアーで、半年間のプログラムでした」。
イタリア料理に魅せられ料理人になる夢を抱いていた平井氏は、迷うことなく応募した。
かくしてイタリアへ飛び立った平井氏。時計の針を戻し、その成長の過程を遡ってみよう。

子どもの頃、料理人になる芽が形作られていたかも…

うなぎの名産地として知られる静岡県浜松市に生まれ、清水市(現在は静岡市清水区)で育った平井氏、“食”とは幼い頃から縁が深かったようだ。
「現在、イタリア料理店を営んでいますが、飲食の道に進むきっかけは幼い頃にすでに芽生えたのかもしれませんね」。
―“食”に関する思い出を振り返ってみてください。
「小学校の頃、一番好きな食べ物は“エスカルゴ”でした。そう、フランス料理を代表する食べ物です。簡単にいえば“でんでん虫”“カタツムリ”ですね」。幼くしてすでに食通の萌芽が垣間見える。
「父親が食べ歩きが趣味だったようで、“○○の◇◇が美味しい”などという情報を仕入れると、家族全員、といってもボクは一人っ子ですから両親と三人で食べに行きました。月一回の家庭行事ですね」。家族揃っての食べ歩きは、地元、近隣に留まらず範囲は広かった。
「近場だけではなくクルマで30分、1時間かけてでも行きましたもの。ボクは連れていかれるだけでしたが、両親、特に父親は評判、話題になっている食べ物を食べてみたかったんでしょうね」。
昨今は、テレビ番組やSNSで紹介された有名店や話題になった飲食店へ時間をかけてでも訪れる人の行動を目にする機会が増えたが、当時は珍しかったのではないだろうか。その意味では、平井家は先駆的な家族だったとも考えられる。
「朝夕の食事は母親がつくっていましたし美味しかった記憶があります。お正月などは三段のお節料理でしたし、食べることに貪欲な家族だったかも知れません。こうした家庭に育ったためか、“美味しいものを食べたい!”という欲求とでもいうのか、現在のボクの原点になるのか、“食”に興味をもったのは子どもの頃からでしたね」。
「具体的には小学生の頃から、たとえば野菜炒めとか焼き魚とか、自分の食べるものは自分で作っていましたね。理由は、両親が共働きだったので自分で作るしかなかったんです」。
「そんなこんなで必然的に料理をしたり美味しい食事を摂ることが、特別なことではなかったと思います」。
「話は前後しますが、高校生までお米って、白ではなく茶色だと思っていました。ウチは貧しいからなのかと思っていましたが、実は玄米だったんです。これは健康食品の販売を手掛けていた母親の影響、考えでしたね。そのためか、お米に限らず普通のお菓子を買ったり食べたことがなかったんです。おやつも健康食品のお菓子でしたね」。
人間にとってもっとも大切な“食”と“健康”。こうした体験が平井氏が料理人になる原点となったのではないだろうか。料理人になることに何ら疑いもなく、当たり前の選択だったのだろう。イタリア行は当然だったであろうし、特別な選択でもなく必然でもあった。

巨匠と呼ばれるシェフに送った一通の手紙。

“食”と“健康”を重視する家庭で育ち、長じてイタリアの地を踏んだ平井氏。
「初めての試みだったのか、0期生という形で取り敢えずお試しでした。まず二か月間は専門学校で学びました」。
「15人ほどの日本人~職人だったり、店長だったり、イタリア語が話せる人だったり~が一緒で、経験のある方々ばかりでしたが、挫折感も委縮することもなく、そういう人たちの中に入れて貰えてことで、かえって“頑張ろっ!”という気、モチベーションになりましたね。恵まれたと思いますよ」。
「専門学校に通う最初の二カ月はホテルで、以後はレストランに派遣され三店舗で学んだのですが、一店舗目は一つ星の魚料理専門の店、二店舗目は郷土料理中心の店、三店舗目はイタリアで常に一位の評価を得ていた店で、四か月くらい仕事しました」。
―コミュニケーションは上手くいきましたか?
「半年ほど経ってからですかイタリア語が分かるようになり、考えていることなど相手に伝えることができるようにはなりました」。。
―イタリア料理の先駆者であり、一般社団法人日本イタリア料理協会名誉会長の落合努シェフに手紙を書いたとか……。
「ええ、当時、赤坂のイタリア料理店“GRANATA(グラナータ)”の総料理長を務めていた落合シェフの下で働きたいと思っていて、その思いを伝えるためにずーっと手紙を書いたんですが、四カ月くらいしてからでしょうか、落合シェフご本人から直接、電話~国際電話~をいただきました。嬉しかったですね」。
「落合シェフから、『最低でも一年は居ろ』と言われました」。ところが思わぬ話が耳に入ってきた。
「帰国したら落合シェフの下で働くんだと言っていたら、新しく入ってきた日本の方に落合シェフが“グラナータ”を辞めたということを教えられ驚き、落合シェフに電話したんです。そこで『まだ何も決まっていないけれど、帰国したら“グラナータ”に行け』と言われ取り敢えず安堵しました」。
こうして一年二か月に及んだイタリアでの修業を終え、帰国の途についた。

落合シェフの下で働ける日がくるまで。

2005年帰国。真っ先に会ったのは落合シェフだった。
「初めての出会いは、新宿駅東口正面の“アルタ”でした。ここしか知らなかったものですから……」。
「第一印象は、おっかない!って感じでした。“グラナータ”に連れて行っていただき『ここで働けよ』と勧めていただいたのですが、落合シェフが開業するまで実家で待機することに決めました。落合シェフのお誘いをお断りしたことになるのですが、どうしても落合シェフの下で働きたく、その理由を説明し、ご理解いただきました」。
飲食に限らず憧れの人の下で働きたいという気持ちは、広く職人の世界にあるものだと思う。そこにあるのは、執念というには軽すぎる、生涯を駆けた覚悟だ。
「半年ほどでしたが、いわゆるダイニングバーで働くなど勉強をしていました。ある時、“danchu”という有名な料理雑誌に落合シェフが銀座に出店する記事が掲載され、早速、連絡をとりました」。
「落合シェフから指定された日、足立区の東武鉄道竹ノ塚駅に降りたのですが、そこには落合シェフが不動産屋と一緒にいて、住むところを紹介されました。この日が落合シェフの下で働くことが決まった日になりました。2007年8月のことです」。

イタリアでの経験は、まったく役に立たなかった。

“LA BETTOLA da Ochiai(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ)“。1997年9月に、落合シェフが銀座にオープンしたイタリア料理店だ。予約でいっぱいの店と知られる有名店だ。落合シェフの元で働きたいと切望していた平井氏。念願かなって働くことになった。
「落合シェフを入れて6人。息子さんがホールを担当、スタッフは全員が料理人でした。“グラナータ”出身者で、技は凄いし意識は高いし、働く姿勢の違いを感じました」。
―いざ働いて、どうでしたか?
「結論から言えば、イタリアでの経験は役に立ちませんでした。“素人”と“料理人”の違いとでも言いますか……日々、理不尽なことだらけでしたし、先輩たちも厳しかったですよ。先を読みながら仕事を進めることが求められ、身に付けなければならず、ある意味、仕事の仕方を学ぶ毎日でした。その一方で、食材に対する考えなど暇があったら勉強する日々でした。“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“は、雪の日でも傘をさして並ぶ人がいるなど人気店だったこともあり、休憩時間なんかほとんど取れなかったですね」。
「先ほども言いましたが、当時は足立区に住んでいて、朝6時から夜中2時まで仕事でした。落合シェフはもっと前に終わっているのですが、私を家まで送るために、私の終業まで付き合って頂く毎日で…。それを先輩が見かねて、23時に帰していただくようになりました」。。 「“ラ・ベットラ・ダ・オチアイ“では4年間ほど働きました。お店を辞めた後、食べ歩きをし、東銀座にあった“Crattini(クラッティーニ)”というお店に勤めました。“クラッティーニ”を選んだのは、有名店など食べ歩きをしたなかで、一番気に入ったお店だったことと倉谷さんという有名なシェフがいらっしゃったことが決め手でした。ここには4年勤めました。当時、お店は乃木坂にあったのですが西麻布に移ることになったのですが、乃木坂の当時のオーナーが残ってくれということで、2年間勤めました」。
-独立を決意したのは?
「選択肢は二つありました。ひとつは“クラッティーニ”に戻る。もうひとつは別の職場を探すか、という道で迷ったのですが、先のふたつではなく独立を目指すという道を選んだんです。30歳までに独立しようと計画し、会社を設立しました。29歳のときでしたね」。
かくして、美味しいもの好き、料理好きの少年は、時を経て、経験を積み重ねて自分の店を持つことになった。

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株式会社ダル・マットグループ 代表取締役 平井正人氏

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オーシャンリゾート株式会社 代表取締役 足立嗣朗氏登場。

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本文より~

舞台は北海道、札幌。

出身地である伊達市は室蘭の近くにある。近くと言っても、北海道は広い。札幌からと比べて、近いということだ。ただ、すぐに札幌に移り住んでいる。父親の転勤で、実は福岡で暮らしたこともある。
スキーは当然、小学校から。冬には毎日山に通ったと言っている。
さて、今回インタビューに登場いただいたのは、オーシャンリゾート株式会社の代表取締役、足立嗣朗さん。スキーを始めたのは父親の影響で、小学6年生まで続けている。
札幌の少年たちにとって、スキーは身近なスポーツすぎた。
「大会にでる子もいましたが、中学くらいになると違ったスポーツもしたくなる。私はバスケットボールをはじめ、こちらは高校でも続けました」。
同じバスケットボール部でも、中学と高校ではまるで風景が違ったそうだ。
「中学はむちゃくちゃ校則が厳しい学校で、私自身、反抗期だったんでしょうね。大人は敵だ、って(笑)。もちろん、部活動も同様です。でも、高校は真逆で、自由な校風で、クラブの先輩らも優しくて」。
時には先輩たちと遊びに行った、と笑う。
「私たちの頃はベビーブームで、高校受験も大学受験も就職もそうですが、とにかく倍率が高い。私は、このあと札幌大学に進みますが、今だったら東京っていう選択もあったかもしれません」。
東京に行けば、競争はもっと激しくなる。
「大学ではバイト一本です」。
バイト先はホテルのビアホール。
「やたらと出勤できないかって電話があって、最高、月間27日バイトしています」。
素直な性格なんだろう。4年間続けている。
ちなみに、バイト仲間でグルメサークルを立ち上げて食べ歩いている。これは、今でもいい思い出。

社会は、思い通りにならない。

「当時、札幌って携帯電話をもっている人がまだ少なかったんです。私の中学時代のともだちが、携帯電話のセールスプロモーション会社を起業します。私も参加し、仲間10人でスタートしました。業績は悪くなかったですね。私も月50台くらいはセールスしていました。ただ、1年くらいでだんだんセールスが厳しくなる。飽和状態って奴ですね。そうなると、別の事業を始めなければなりません。その時、私と創業者の友人の間で方針が合わなくなって、私はいったん会社を離れます」。
足立さんは、そのあと、札幌で就職する。
「印刷やシステムを販売する100人程度の会社です。こちらには10年在籍しています」。
退職したのは、社長のワンマンにあきれたからというのが正直なところ。正義感も仇となった。
「Windowsが普及するなど、社会の仕組みにイノベーションが起こっている頃。乗り遅れないように事業を変化させていかないと先がない。だれでも気づくことに、社長や幹部連中が気づかない。私が提言しても、彼らの耳には届かない。あと何十年も仕事をする若手じゃないからです」。
この時、足立さんは実費で東京のお台場まで行って、展示会を見学。新たな知識・技術を仕入れるなどして、会社の業績にも貢献している。だが、1人舞台。社会は思い通りにならなかった。

もといた会社への資本参加で、飲食業スタート。

足立さんは、競争の激しい世代のなかで、社会に縛られない生き方を選択する。
「35歳ですね。今度もまた中学のともだちと3人で、IT関連会社を起業します。携帯電話の社長だったともだちから、サーバー管理の仕事を丸っと請け負うのが私たちの事業でした。むちゃくちゃ恵まれた仕事だったんですが、いつまでもあるわけじゃなかった(笑)」。
危うく路頭に迷うところを、携帯電話の社長が救う。「当時、彼は福岡にいたんです。それで、『札幌でもつ鍋をやれば面白いぞ』って。で、やろうってことになって。サーバーの会社はたたんで、友人の会社を私が引き継いで、飲食業をスタートします。これが平成26年で、私が37歳のときです」。
<もつ鍋屋ですよね?>
「そう。冬はいいんですが、お客さんからも夏はどうするの?って。『そりゃ、もつ鍋屋ですからね、もつ鍋です』って、笑いをとるしかありません」。
業績は悪くなかった。ただ、色々とあったらしい。
「平成26年にもつ鍋をスタートして、翌年に新ブランドをリリースします。それが、元祖串カツ恵美須商店です」。
大学時代、4年間ビアホールで働き、グルメサークルを立ち上げただけはある。飲食に対する感度は高い。
「札幌にはなかった文化の一つが昼飲みです。大阪に行けば、みんな昼から飲んでいる。2度漬け禁止の串カツなんて、典型ですね。昼でもお客さんであふれている。だったら、札幌にその文化をもってくれば、と。それが、私の戦略でした」。
北の大地に串カツ文化が広がるのか、と思い、早口で<どうでしたか?>と聞いてみた。

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2024年7月9日火曜日

株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏登場。

本文より~

野球は大好き、でも勉強は大嫌い。

小学生のころ親に「勉強しろ」と口うるさく言われ、それが嫌でどんどん勉強しなくなったという飯塚氏。彼の父は準大手ゼネコンの社長や会長を歴任するほどの人物で、父の弟たちも一部上場企業に勤めていた。サラリーマン家庭として成功をおさめた飯塚家本家の長男として誕生し、家族や親戚の期待を一身に受けていたことから、塾やスイミングスクールといった習い事にも通わされたという。
「でもサボってすぐ行かなくなりました」。
駅前のゲームセンターやおもちゃ屋へ直行し、2時間ほど時間をつぶして帰宅する。水着は駅のトイレで濡らすという用意周到さだった。そんな努力が功を奏したのか、ほぼ一年バレなかったというから大したものだ。
それほど勉強嫌いな飯塚少年が夢中になっていたもの、それが野球だ。ピッチャーだった飯塚少年は、鶴見区内の強豪チームがぶつかり合うオール鶴見のレギュラーにも選ばれるほど実力があった。しかし連日の厳しい練習に身も心も疲れ果て、小学校卒業時には野球に対する気持ちも萎えてしまっていた。
中学校に入ると、野球はおろか勉強もそっちのけで、とにかく遊んでばかり。親に「野球を続けろ」と言われることはなかったものの、日曜日のキャッチボールだけは父子のルーティンになっていた。平日は完全に仕事優先だった父とは取っ組み合いの喧嘩もしたが、週末のキャッチボールだけはずっと続いた。野球は父子を繋ぐ唯一のコミュニケーションツールだった。
― 厳しい練習は嫌だけど、やっぱり野球がしたい。甲子園に行きたい ―
やがて野球への衝動に突き動かされた飯塚氏は、中学最後の年に勉強を再開。その結果、甲子園出場4回、関東大会出場ほか、神奈川県大会で10回の優勝記録を持つ県内の私立高に合格した。朝から晩まで練習に明け暮れるうち、かつての遊び仲間とは自然と疎遠になっていった。

地獄の特訓で知った己の限界値。

飯塚氏が入学した高校は神奈川県200校のうちベスト8、時にはベスト4に残るほどの準強豪校。年中ナイター可能なグラウンドで、厳しい練習に耐える日々が続いた。部員は一年生だけでも100人はいたが、厳しさのあまり徐々に脱落していった。
中でも忘れられないのが、毎年冬に行われる3泊4日の伊東キャンプだ。
キャンプ中にボールを握ることは一切なく、とにかく朝から晩までランニングや筋トレを繰り返すというハードなメニュー。食事の度に嘔吐する者も後を絶たなかった。クタクタの身体を引きずりながらやっとの思いで宿舎に戻っても、先輩のユニフォームの洗濯を始めとする雑用が待っていた。
「もうあのころの記憶は曖昧ですね。それくらいしんどかったし、人生、あんなに辛かったことなんてなかった。でもあの経験で自分の限界値を知ることができました。それからはどんなにしんどいことがあっても、あの辛さに比べたらまだいける、もっと頑張れるって思うようになったんです」。
2年生になって野球部にとどまる者はせいぜい4割。その中に自分は残った、あの地獄の特訓を乗り越えたという経験は、飯塚氏を支える原動力へと変わった。

竜馬の生きざまに感動。

高校2年の春。冬の合宿を耐え抜き、一度は練習メンバーに選ばれた飯塚氏だが、その後メンバーから脱落。昔の友達と遊ぶ機会が増え、あの地獄の特訓に再び挑む気力も失い、秋にはとうとう野球部を辞めてしまう。
「でもやり切りたかったですね。人生でやり切ったって言えるのは、小学校の野球だけですから(苦笑)」。
卒業を間近に控え、父に「どこでもいいから大学には行ってくれ」と懇願されるが受験には失敗。昔のようにフラフラと遊ぶ日が続いていた。
浪人生活一年目の19歳の誕生日を迎えたある日のこと。友人宅を訪れた飯塚氏は、そこで『おーい!竜馬』というマンガに出会う。それまで歴史にはまったく興味がなかった飯塚氏だが、坂本龍馬や幕末の志士たちの生きざまに驚き、それらにぐんぐんと引き込まれていった。
「こんな歴史があったんだ。こういう志を持って、日本を良くしようとぶつかり合って、そして早く死んでいった若者がいたんだ。なのに今の俺はパチンコやって、遊んでばかり。いったい何をしてるんだろうってね」。
歴史に興味を持った飯塚氏は日本史を猛烈に勉強、二度目の受験に臨んだがまたもや敗退。IT系の専門学校に進むも、肌に合わずフラフラ……と辞めてしまった。
そんな飯塚氏を真の意味で変えたのが、飲食業との出会いだった。

「お金が好き」と思う気持ちが、自身の強みに。

飯塚氏は宅配ピザチェーンのFC店にアルバイトとして入社。その働きが評価され、アルバイトから正社員、店長へと昇格していった。全国のFC60店(当時)中40位前後だった鶴岡店を5位まで引き上げるなど、店長としての才覚を発揮。「まるで軍曹のようでしたよ」というくらい厳しい店長だったという。
― これまでのお話を伺うに、なかなか飽きっぽい性格だったようですが……なぜ続けることができたんですか? ―
「たぶん、お金が好きだったんでしょうね。今までどれだけ頑張っても、お金をもらうなんてことはなかったですから。頑張ってお金をもらう、そんな商売の楽しさを知ったのかな」。
頑張れば頑張るほど、その頑張りが数字に表れる嬉しさ、楽しさ。気が付けば9年の歳月が過ぎ28歳になっていた。そんな飯塚氏に2006年、独立・起業のチャンスが訪れる。あるFC店オーナーから上大岡店の譲渡を持ち掛けられたのだ。
店舗運営のノウハウは十分ある。資金に関しても、FC本部が名義変更に必要な300万円を無利子で貸すと申し出てくれ、本部のスタッフからも支援の声があがった。迷った飯塚氏は両親に相談するが、これまで何も言わなかった父親に大反対されてしまう。
「父からは、それこそ長い長い手紙を貰いましたよ。でも怖くて10年くらい開封できませんでした」。

飛躍のきっかけは韓国旅行。

両親の反対を押し切ってスタートしたピザステーション上大岡店。その滑り出しはお世辞にも順調とは言えなかったそうだ。同店にはベテランの社員も多く、いい意味でも悪い意味でもスタッフ全員が団結していた。そこに28歳の若い社長がやってきたのだから、あまり面白くはない。まるで全員が敵というくらいビリビリとした雰囲気が漂っていたという。
独立の翌年にはラーメン店を開業(現在は閉店)、2008年に『カーヴ隠れや』のFCとして横浜西口店をオープンさせた飯塚氏(現在はFCではなく直営店)は、その後も和風創作居酒屋や熟成肉の店、炭火焼ホルモンの店などさまざまな店舗を展開。しかし、これらの果敢な挑戦にもかかわらず、確実な手ごたえは得ていなかったという。
「独立して年数だけは経ったけど、正直軌道に乗ったって感じはずっとなかったですね」。
そんな株式会社YOSHITUNEの起爆剤となったのが、『韓国屋台酒場 韓兵衛』だ。きっかけは妻との韓国旅行。妻の友人が結婚式を挙げるというので、現地まで同行したのだ。初めて触れる韓国文化。日本人観光客は思っていた以上に多く、初めて触れる韓国の文化もこれまのイメージとまったく異なるものだった。その頃日本でチーズタッカルビの人気が高まっていたこともあり、「これはいける」と確信したそうだ。
『韓兵衛』のメニューは、ネイリストで調理師免許も取得している同氏の妻が担当。オペレーションが容易で利益率の高い『韓兵衛』は大当たりし、あっという間に同社の中核を担うブランドにまで成長した。併せて韓国食材や簡単な調理器具を販売するECサイトも立ち上げ、若者を中心にコアなファンを獲得している。

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株式会社YOSHITUNE 代表取締役 飯塚義一氏

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ウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏登場。

本文より~

先生を論破する少年。

授業は少年にとってつまらないものだった。ついていけないからではなく、すぐに理解してしまうから。教科書だってみていない。ノートは取らない。先生だって論破する。ちなみに、喧嘩もつよく、クラスの人気者。
これが、今回、ご登場いただいたウルトラキッチンの代表取締役社長、杉窪さんの小学校時代の話。
生まれは、1972年。両祖父母は石川県輪島市で輪島塗の職人をされていた。
歳が離れた兄2人は剣道だったが、杉窪さんは柔道。中学生から始めている。
「中学から柔道部だったんですが、めちゃくちゃ厳しくって、バリバリの縦社会。その時の、先輩・後輩の関係も私の背骨の一つとなっています」。高校は中学の柔道部のみんなといっしょに進学。柔道部が幅を利かせている学校だったらしい。
ただし、高校は2ヵ月で中退。
「その時の選択肢は美容師、土方、飲食、ヤクザの4択だった」と笑う。
消去法で、飲食の道に進んでいる。
飲食、と決めたあとの杉窪さんの行動は早い。すぐに大阪へ向かい、うどん屋で住み込みのバイトをはじめ、来春をまって辻調理師専門学校に進学する。
「専門学校は、ギリギリ卒業できたというのが正解」と杉窪さんは笑う。ギリギリといっても卒業にかわりはない。
専門学校を卒業した杉窪さんは、ケーキ屋さんではたらく。性に合ったのか「ケーキづくりがたのしくて、もっと早く出会いたかった」とまでいっている。
これで、飲食というくくりのなかで、進むべき道が絞られる。

クビの第一候補からの大出世。

「そのケーキ屋さんで4年勤務します。私は、高校中退なんで、社会的な信用がない。だから専門学校に通い、4年間仕事をつづけました。これで、信用が一つできたわけです」。
信用を得ることが目的だった。15歳の時に立てた戦略というから、恐れ入る。
「そのケーキ屋さんで仕事をしながら食べ歩いたなかで、いちばんおいしかったのが、つぎの転職先。神戸の有名なケーキ屋さんです。阪神淡路大震災があったあと、東京に行くんですが、神戸のお店では知識・理論、すべてにおいて劣っていることを痛感します」。
なんとか入社することはできたが、最初は、クビの第一候補だったらしい。
「だいたい知識がない。理論だってない。先輩たちが東京のどこどこがいいと話していても、わからない。その店を知らないというと、『なんだ、そんなことも知らないのか』って」。
そういうことがある度に、杉窪さんは、すぐに行動に移す。
「この時は、その日のうちに書店に飛び込んで、つぎの休日には新幹線の始発に飛び乗りました。で、東京で20軒くらい回って、話題に上がったショップのケーキをおみやげにもって帰ります」。
みやげを渡された先輩たちは目を丸くしたんじゃないだろうか。
シャレでもなんでもない。純粋なお礼の証。杉窪さんはそういう人。
「最初は、ぜんぜん、かなわなかった。じゃぁ、どうすれば差を詰められるか」。
杉窪さんは、尊敬はするが崇拝はしない、という。だから、尊敬する人は追い抜く対象になる。もっとも、その数は少ない。
小学生で先生を論破するだけあって、ブレない尺度をもっている。著名なシェフであっても、杉窪さんの尺度で測ると、相手にするレベルでないケースが少なくない。
ちなみに、当時の仕事は朝6時~22時まで仕事がつづき、休みは週イチ。ハードワークだったが、それでも休日は3時間、それ以外は最低1時間、本読むと決め、実行した。食べ歩きもつづける。
修業をつづける杉窪青年の姿を想像すると、修行僧のようなストイックさが思い浮かぶ。
ともかく、給料は、ほどなく2倍になる。クビの第一候補からの大出世である。

フランスに渡り、帰国後、名店のセールスを4倍にする。

杉窪さんが東京に向かったのは、22歳の3月のこと。東京では紹介されたショップで1年間勤務したあと、フランスの修業から帰国した神戸時代の先輩に合流し、たまプラーザのベーカリーで勤務する。
「フランスから帰国した先輩は、日本でもトップクラスのパン職人です。その先輩の下で、製パンの理論を学習します」。 
「半年間でマスターした」と杉窪さん。残り半年は、恩返しの期間と割り切り、合計1年間、勤務する。
この時、24歳。杉窪さんはわずか1年間だったが、この1年の経験が、「今の私の形成している」という。それだけ濃厚な1年だったということだろう。
ところで、杉窪さんは修業期間を「私」という資源の運用効率を高めるための期間と定義している。だから、余分なものは削ぎ落とし、時間やお金を投資するのは、コアな部分のみ。
「フランスに行くための、お金を貯めなきゃならなかったので、淡路島のリゾートホテルでシェフパティシエとして勤務します。家賃もいらないので、3年、資金も貯まり、いざ、フランスへ、です」。
フランスは、これが2度目。1度目は、2週間の視察。パティスリーを12軒、ベーカリーを20軒、ほかレストランやカフェ、花屋、雑貨店、美術館をみて回っている。
今度は、2年。フランス人のシェフたちとともに厨房に立った。杉窪さんは、ヒト、モノ、カネで、独立できたのは昭和の世界だと笑う。今は、情報、信用の5つのツールがなくてはならないということだ。
その意味では、スキルだけではなく、フランスではたらいたことは、情報、信用を一段とプラスしたことになるのではないだろうか。
パン職人として杉窪さんの輪郭が明瞭になっていく。解像度があがっていく、と表現したほうがいいだろうか。帰国後、杉窪さんは、たまプラーザでともにはたらいた先輩の下で、ふたたび勤務することになる。
「勤務したのは青山にある『d'une rarete』です」。じつは、杉窪さんは、この『d'une rarete』の3代目。伊勢丹にショップをオープンするなどして、年商を5000万円から2億円へ、4倍にしている。
経営者としても、杉窪さんの名が、知れ渡るようになる。
たぶん、何にでもなれて、何でも一流になれる人。これが、インタビュー後の感想。何をするのにしても、ルールを理解するのが早い。ルールがわかれば、傾向と対策で、突き進む。
ためしに、営業マンにもなれますね? と質問すると、「そうですね。できるような気がします」と笑う。「d'une rarete」には6年半いた。そして、独立。40歳のときだ。

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ウルトラキッチン株式会社 代表取締役 杉窪章匡氏

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2024年7月7日日曜日

東京豊島青果グループ「東京旭商事」様とのとの営業協力体制スタート!

東京豊島青果グループ「東京旭商事」様からのリリース

飲食店向け青果物流通の「東京旭商事」が、1,000名以上の飲食店経営者の人生ストーリーを紹介するWEBメディア『飲食の戦士たち』を運営する株式会社キイストンとの営業協力体制スタート!

~キイストンが蓄積した飲食業界の情報と人脈で、顧客開拓と新事業の展開を加速!~

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

株式会社ハミングバード・インターナショナル 代表取締役 青木聡志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハミングバード・インターナショナル 代表取締役 青木聡志氏登場。

本文より~

文武両道なのに控えめな少年時代。

飲食店を経営していた夫婦の3人息子の長男として誕生した青木聡志氏。小学生時代はリトルリーグに参加。4月生まれでほかの子供たちより体格がよかったこともあり、ピッチャーでありながらクリーンナップも任され、チームの主要メンバーとして活躍していた。しかし、骨格が出来上がる前に無理な投球を続けたためだろう。肘を壊したことから、小学6年の夏にリトルリーグ卒業とともに野球の道を断念した。
次に始めたのはバスケットボールだった。身長はそれほど高くはなかったが、持ち前の運動神経でメキメキと上達。入部1か月後にはスターティングメンバーにも選ばれた。続く中学校でもバスケット部に入部し、部活に明け暮れる日々だった。
運動神経抜群で、成績優秀。にもかかわらず、キャプテンなど人の上に立つような性格ではなかったという。当時の友人たちの青木氏評は、『何をやっても卒なくこなすタイプ』。いわゆる、クラスのバランサー的な存在だったのかもしれない。

人生初の挫折。

これまで大きな失敗をすることなく成長してきた青木氏。宮城県で毎年行われている高校入試対策模擬試験では8位という好成績を収め、誰もが彼の希望校入学は確実だと思っていった。同級生たちが志望校のほかに滑り止めを2~3校受ける中、青木氏が受験したのはたった1校だけ。それくらい自信があったのだが……
結果は、『サクラ チル』
人生初の挫折に、おおいに動揺し絶望する青木氏。誰もが彼を気遣い、腫物を触るようだったという。
「結局すべり止めとして受けた私立校に入学しました。あれを受けていなかったらどうなっていたかと思うと、ちょっと怖いですね」。
この時の体験は、少年期の大きな出来事として今でも鮮明に覚えている。

3代目としてとしての自覚。

翻って、家庭での青木氏はどんな子供だったろう。
1957年に、青木氏の祖父が仙台駅前に洋食店を開業。高度成長期ということもあって、店は大いに繁盛した。2代目として家業を継ぐことになった青木氏の父親は、修行先の東京で時流を見る目を養っていく。「この先、仙台でもパスタ屋が流行るはず」と考え、父親(青木氏の祖父)に提案するも、頑として受け付けてもらえなかった。パスタ専門店『ハミングバード』が仙台に誕生したのは祖父が亡くなった2年後の1980年、青木氏が5歳の時だった。
小学生時代の将来の夢は『社長』だったというくらい、家業を継ぐ意識はあったという青木氏。それはなにも家が金持ちで、ボンボンとして育ったからではない。
子供のころの父親のイメージはとにかく『怖い』。怒鳴るし、殴るし、顔つきも怖い。まさにヤクザの親分そのものだ。レストランの経営を巡って、両親はよくケンカをしていたが、子供たちには優しかった。だがその表情はいつも疲れていて、それを見るのは辛かった。
「長男の僕が家を盛り上げなきゃいけないって思ったんです」。
責任感の強い子供だったのだ。
子供に「ヤクザの親分」と評された青木氏の父ではあるが、もともと専守的で先見の明もあり、ここぞという時には果敢にチャレンジしていくような面も持ち合わせていた。親に反対されて叶わなかった自身の留学という夢を、自分の子供には見させてやりたいと思ったのだろう。青木氏がアメリカ留学を希望した時も、すぐに許してくれたという。幸いにも空前の円高時代で、月々の仕送りもしてくれた。

異国で開花したハングリー精神。

大学時代のアメリカでの体験は、青木氏の人生を大きく変えた。黙っていては、誰も話を聞いてくれない。自己主張をしなければ、何一つ物事が進まない。人種や出自に対する差別も平然と存在し、それに対する反発もあった。そんな環境で過ごすうちに、内に秘められていたハングリー精神はどんどん鍛えられていった。
「学校がない日は、朝から晩までアルバイトをしていたんですね。そしたら同僚に『あんたはフルタイムなんだから、この仕事もやらなきゃダメじゃない』って叱られたんです。僕は学生なんだからパートタイムでしょ?って思っていたので、驚きました。アルバイトと正社員って違うと言ったら、『あなたの可能性に自分でふたをしてはいけない』って」。
あの体験がなかったら、今の自分はなかったという青木氏。彼の経営者としての才覚は、アメリカが育ててくれたものだった。
このままアメリカで経験を積んで、将来は経営コンサルタントになりたい……そんな夢を抱くまで成長していた青木氏に、日本の父から国際電話があった。「3店舗の店の経営がどうしてもうまくいかない。帰ってきてくれ」と。
― あの父が弱音を吐いている。何より自分に助けを求めている ―
1998年7月。23歳だった青木氏は、電話を受けたその月内にアメリカを後にした。

経営の手本は一冊の本。

仙台に戻ってみると、親の会社は昔ながらの帳簿付けというアナログさ。まずは現状把握をということで、青木氏は父が購入したばかりだというWindows 98のエクセルに数字を打ち込むことから始めた。
当時3軒あった店のうち、20坪の店の業績はまあよかったが、14坪の店はトントン。元凶は98年に出店したばかりの仙台市一番町のイタリアンだった。70坪もあるこの店の借入金は一億円。オープン当初から閑古鳥が鳴く状態で、父は資金繰りに奔走していた。
右も左も分からないまま一番町店の店長に就任したが、古株の社員たちにしてみれば、社長の息子というだけで未経験の若造がポンと店長になるのは面白くなかっただろう。四面楚歌でのスタートだったそうだ。
青木氏はまずランチメニューに手を付けた。粗利ミックスを用いて目玉商品を開発し、利益を最適化。顧客が買いやすい価格を設定しつつ、原価をコントロールしていった。ランチタイムがうまく回り始めたところで、夜のメニューにも着手。「最初は四面楚歌でしたね」ひと月、ふた月と経つにつれ、その効果は客数の増加という形で表れてきた。
― その見事な手法は、どこで学んだんですか?
「清水均さんの『フードサービス攻めのマネジメント』シリーズです。著者の清水さんにもお会いしたことがありますよ」。
飲食業の経験もなければ知識もない、孤立無援の状態。頼れる知り合いや先輩もいない中で「まず教科書が必要だ」と思った青木氏は、本屋で手に取ったその一冊を繰り返し読み、本に書いてあることを片っ端からやってみた。債務を返済し終えたのは、入社3年目の2001年だった。

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株式会社ハミングバード・インターナショナル 代表取締役 青木聡志氏

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株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏登場。

本文より~

父と母と割烹料理店と。

「父母の背中をみて、将来はサラリーマンがいいと思っていた」と、今回ご登場いただい焼肉坂井ホールディングスの髙橋社長。ご両親は、三重県松阪市で割烹料理店を経営されていた。
「とにかく繁盛店だったものですから、そのぶん、忙しい。朝早くから夜遅くまで働く姿を見ていましたから、たいへんだな、と(笑)。私と、弟がいるんですが、私たち二人は、祖父母に躾けられ、育ったようなもんです」。
朝、真っ白だった割烹着が、帰宅される時には真黒になっていた。それが印象に残っていると、髙橋社長は言う。
「父は中学を卒業し、三重から包丁一本を持って大阪へ行き修業をしました。母と出会ったのは、その時で、結婚した後、三重に戻り割烹料理店をオープンしました」。
おじいちゃん、おばあちゃん子だった、と髙橋社長。しかし、父母といっしょに、グルメは堪能した。
「父にすれば、研究だったんでしょうね。でも、いろいろなお店に連れて行ってもらいました。もちろん、他の友達のように土日親子で行楽に行くってシーンはなかったですね。その他にも時々、店に行って、冷蔵庫からコーラやサイダーを取りだして飲む、それも楽しみの一つでした」。
さみしくなったら店に行く。仕込み中なら、お客様もいない。コーラを飲み、父母の姿を追いかける少年の情景が浮かぶ。
「父は料理人で、口数は少ないですね。寡黙な職人そのものです。代わりに、大阪出身の母は天真爛漫で、明るい性格。私は、顔は父にそっくりなんですが、性格は、母似。母譲りのコミュニケーションスキルは、私の人生でも武器の一つになっています」。

人生の旅が始まる。

高校は、三重高校。秀才が通う三重高校のなかでも、特別進学クラスに進学する。ただ、高校に進学してから勉強は二の次になったそう。
「旅行が好きで、寝台特急で東京に行ったり、と。もちろん1人で、です。食べるのも大好きでした」。
たぶん、好奇心も旺盛だったのだろう。そう言えば、小さな頃、「母に連れられ、母の実家がある大阪でマクドナルドのハンバーガーを食べたことがある」と話されていた。「美味しすぎて、フライドポテトの塩まで味わってましたね」と、笑いながら。
旅の先には、まだ、知らない美味しいものがある。そう思って、列車に乗り込んでいたのかもしれない。
三重高校を卒業した髙橋社長は、松阪大学(現、三重中京大学)に進学する。
「好きな『旅行』の行動範囲は更に広がりました。でも、大学でも勉強はそれほどしてなかったです(笑)」。
就職先は、三重銀行(現三十三銀行)。
「就職が決まってからですが、アメリカ、ロスアンゼルスに3ヵ月、留学します。ここで、私の人生のターニングポイントになるような出会いがありました」。
<三重銀行に就職される前のことですね?>
「そうです。まだ学生ですね。社会人になるまでの、大好きだった『旅行』の集大成といいますか、ロスアンゼルスへ行って、ホームステイをさせていただきました」。
アメリカは、どれだけ広いのだろう。どんな美味しい料理があるんだろう。好奇心で、心は高鳴るばかり。しかし、話を聞くと、髙橋社長の心をもっとも、ときめかせたのは1人の日本人だった。

日本の大手ハンバーガーチェーンの創業者と、ビバリーヒルズで。

「お会いしたのは、日本生まれの、あの大手ハンバーガーチェーンの創業者です。あるカフェで知り合って、ビバリーヒルズにある豪邸に招いていただきました」。
その時の、髙橋社長の頭の中を表現すると、「!!!!!!!!!!!」となるに違いない。「プールでしょ。温泉でしょ。それに、お隣さんはだれもが知っている超有名な映画俳優さん」。
<もしかして1対1で、ですか?>
「そうなんです。ありがたいですね。創業のきっかけとなったお話も伺いました。当時、父の仕事もすごいと思っていましたが、同じ飲食でも、こういう世界を手にすることもできるんだというのが、正直な思いでした」。
あの大手ハンバーガーチェーンの創業者と、1対1で会話できるなんて日本にいてもそうはできない。しかも、偶然、レストランで出会っただけ。「もう、本当にラッキーだったと思っていました」。
21歳のジャパニーズ。
「当時は、日本経済が絶好調。ロックフェラーセンターを買うなんてことが話題になった頃です。もっとも、その方に影響は受けましたが、やはりサラリーマンがいい。私の頭はまだ、少年の頃と変わりませんでした」。

人生の旅の始まりは、銀行員から。

予定通り三重銀行に就職した髙橋社長は、ビバリーヒルズの豪邸をイメージしつつ、上昇志向のかたまりとなって次々と、輝かしい実績を打ち立てる。
「ちょうどね。プロ野球の野茂さんが、MLBに移り、ドクターKと言われていた頃です。新人だった私に先輩が、“三重銀行の野茂”ってニックネームがつけられます。銀行の中では、トッププレイヤーで、トップスターでした」。と髙橋社長。
「しかしね。私はしょせん、地方大学出身です。そりゃ、地銀といっても一流大学出身の同期もいますからね。上司が目をかけるのは、結局、彼らなんです。私がいくらいい成績を残しても、学歴社会の中では、二流のままだったんです」。
頭ではわかっていたが、衝撃を受けた。これが、リアルな社会の構造だった。
「今だから言えますが、労働時間は長かったですね。当時、アルバイトの時給が500円程度だったと思いますが、私の給料を時給換算すると、250円くらいだったんじゃないかな。まぁ、そういう時代だったんですが」。
髙橋社長は「頑張れば一番になれる」と思っていたそうだ。それだけ、ピュアな青年だった。入行して3年、ピュアな青年は、銀行を後にする。

宅配ピザ創業。

一握りの野望と、母親譲りのコミュニケーションスキル。武器は、まだこの二つ。いや、正しく言うと、もう一つネットワークがあった。
「実は、銀行員時代、アオキーズ・ピザと新規で取引をさせていただいたんです。それがご縁で24歳の時に、アオキーズ・ピザのフランチャイズをスタートさせていただきます」。
父親から900万円ほどを借り、宅配のバイクや厨房の機器は出世払いと言って、後払いで譲ってもらったそう。「宅配需要が増えていったタイミングですね。素人でしたが勝算はもちろんありました」。
宅配ピザの状況をウオッチしていた結果だという。
「実際、儲かりました。投資資金はすぐに回収できました。ただ、そこがゴールじゃなかった」。
<ゴールはビバリーヒルズ?>
「そこまではいかなくてもね」。
掲げた目標を次々クリアする。
宅配ピザを16店舗、コメダ珈琲を7店舗出店している。
24歳で宅配ピザを始め、30歳でコメダ珈琲をオープン。37歳になるまで、苦労もしたことがない、という。「もちろん、最初は自ら色々やりました。ワンオペです。ポスティングもしましたし、デリバリーもしました。そういうのを苦労と言えば、苦労をしたことになりますが、そういうのはお客様の笑顔をみたら忘れてしまう苦労です」。
どうすれば、人が喜んでくれるか。これは、髙橋社長が起業した時から外食ビジネスにおいて、追いかけてきた重要なテーマである。

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株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏

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2024年7月2日火曜日

株式会社MOTHERS 代表取締役 保村良豪氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社MOTHERS 代表取締役 保村良豪氏登場。

本文より~

2001年、1人の青年がイタリアレストランを開業する。

24年前の2001年。グローバルダイニングの創業者、長谷川耕造氏から強烈な影響を受けた1人の青年が東大和にイタリアレストランをオープンする。
店名は「MOTHERS」。この「MOTHERS」の創業者が、今回、ご登場いただいた保村さん。1975年9月生まれだから、今回のインタビュー時で48歳。実は、2014年にも取材をさせていただいている。当時と比較し、この10年で活動領域がずいぶん広がった印象だ。
さて、保村さんのプロフィールは、前回のインタビューでおよそうかがっている。小学生~中学生までは生粋の野球少年。高校生になるとリーダー的な存在となり、参加者1100人を超えるパーティイベントをプロデュースしている。
19歳、グローバルダイニングの旗艦店の一つ「ラ・ボエム」で食事をしたことがきっかけで、グローバルダイニングで、アルバイトを開始する。のちに正社員となった保村さんは、アルバイトをするきっかけともなった、あこがれの先輩がもつ店長昇格のレコードを更新する。
グローバルダイニングで数々の実績を残した保村さんは、前述通り「MOTHERS」を東大和市にオープンしたのち、立川、吉祥寺にも、次々と新店をオープンする。ホームページの沿革を参照すると、2001年に創業以来、年を追うごとに出店スピードが加速しているのがわかる。
2018年と、コロナ禍の2022年には、年間で4店舗をオープンしている。
2018年の4店舗は、すべて新宿にある「HOTEL THE KNOT TOKYO」でオープン。ホテルはIDEEの創業者である黒崎輝男氏が、飲食部門は全てMOTHERSが提案する形でスタートしている。
今回の取材も、そこからスタートした。

ミッションは、にぎわいの創出。

「2017年、新宿にある『HOTEL THE KNOT TOKYO』さんから、ホテルの飲食のオペレーションを、というオファーをいただきます。実は、私たちで31社目だったそうです(笑)」。
「私たちといえば、この年、二子玉川に185席のCHICAMA(チカマ)をオープンしたんですが、回収が遅れていました。そのとき、お声をかけていただいたのも、一つのご縁だったのかもしれません」。
KNOT HOTELは日本にはまだ少ないライフスタイルホテル。ライフスタイルホテルとは、宿泊客だけでなく近所の方々や、会社員、主婦など様々なお客様が遊びに来る場所のこと。その起源はブティックホテルである。ちなみに、ブティックホテルとは、客室数が10~100室程度と比較的、規模が小さいながらも、独創性が溢れる独特なデザインや宿泊に留まらない付加価値サービス等をコンセプトにしているテーマ性のあるホテルのことである。
「オファーをいただく前から、私自身、このカテゴリーのホテルに興味があったんです。それに31社目だったからでしょうか。破格な条件だったので、快諾させていただきました」。
託されたミッションは、「にぎわいの創出」と保村さん。飲食店があることで、ホテルの価値が上がればいい。これがホテル側の本音。
単純に運営するだけではなくコンセプトからすべて、保村さんがデザインしている。ベーカリー、ティースタンド、ダイニング、レストランが、お披露目される。オープンしたのちの、業績を保村さん流に表現すると「炸裂」した。
食事を楽しみにする様々なお客様が、ホテルにやってくる。ホテルの価値向上とにぎわいの創出を、軽やかに創造してみせることに成功した。

飲食×〇〇が生み出すイノベーション。

このKNOT HOTELでの実績は、新たな地平をひらくことになる。実は、ステージもかわり、2020年には「THE KNOT HIROSHIMA」に、MORETHAN HIROSHIMAをオープン。2022年にオープンした4店舗のうち3店舗は「NOHGA HOTEL」内のイタリアレストラン、BAR、ベーカリーショップである。
この間には、「中國酒家 亭亭」など、新たなブランドをオープンするなど、積極的な出店がうかがえる。さらに現在では、ホテルの企画まで領域を広げている。保村さん曰く、「飲食からつくるホテル」が、その好例。
「実は、コロナ禍になる時に、台湾、ベトナムの出店を計画していたんですが、内装が入る前で、コロナ禍で頓挫します。それが逆に功を奏して、国内のオファーに必要なスタッフの配置が順調に進みました」。
2024年、現在、すでにホテル業界との強力なパイプができあがっている。それ以外にも、大手不動産会社などとの計画が進んでいる。運営委託の立ち位置で、MOTHERSが「ホテル経営を行う」という。
このようなフィールドへ進むことになったのは、コロナ禍のとき、飲食の負の世界を改めてのぞいたことが一つのきっかけになっている。
「コロナ禍の下で、人材募集をかけると600人の業界経験者から応募があったんです。評価いただいた点は喜ばしいことですが、そのほとんどが年収600万円程度の中間管理職でした」。
保村さんは、これを華やかな飲食の裏側だという。
「あまり光があたらない現実ですが、40歳を過ぎると受け皿がなくなる。コロナ禍が、この現実を浮かび上がらせたんだと思います」。
同時に、収入もある程度までいけば、そこで頭を打つ。これを保村さんは2つのブラックボックスだという。言い換えれば、飲食の負の世界。
「改めてその現実と向き合ったとき、私たちが行ってきたフラットな組織が、いかに正解だったかを思い知りました」。
保村さんは、このフラットな組織を「DAO(分散型自律組織)」だという。DAOは参加者同士が協力し合いながら組織を運営する方法。
従来の中央集権型組織とは異なり、分散型であるため、参加者全員が意思決定に関与できる。いうなら、スタッフ全員が、自走するということになるのだろうか。
ともかく、その結果、MOTHERSではスタッフ1人1人の価値が高い。昨年の、総スタッフ平均年収533万円、責任者の平均年収907万円がそれを証明している。
「簡単にいうと、みんなでよくなろうよ、という思想です」。
目指しているのは、高年収と、辞めなくて済む飲食会社をつくること。そして、この2つを実現するキーワードが、飲食×〇〇だ。
「飲食と、何かを掛け合わせることで、飲食にも、また、掛け合わせたもう一つにもイノベーションが起こる。私たちがKNOT HOTELと組むことで、生まれたイノベーションも、その一つです」。
たしかに、飲食×〇〇は消費者を動かすイノベーションになるのは、まちがいなさそうだ。

・・・続き
株式会社MOTHERS 代表取締役 保村良豪氏

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