2014年3月25日火曜日

「ル パティシエ タカギ」の株式会社ティー・ケー・ジー 代表 高木康政氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「ル パティシエ タカギ」の株式会社ティー・ケー・ジー 代表 高木康政氏登場。
本文より~

高校卒業、18歳の決断。

高校を卒業するということ。それは、たいていの人にとって、大きな意味を持つ。それまでとは違って、自ら進路を決定することに迫られるからだ。
むろん、大学受験のみがまっとうな進路ではない。ただ親からすれば、それを勧めるのが、まっとうなことなのだろう。
高木の父もまた、大学を受験せず、菓子職人になるという息子の決断を聞いて、「馬鹿をいうな」と怒鳴られたそうである。それから、互いに口もきかない日々が続いたそう。そして1ヵ月たったある日、もう一度決断を尋ねられ、高木はもう一度、「フランス菓子をやる、と答えた」という。
高木にすれば、進路を決定するうえで悩んだ末の結論だった。しかし、父にすれば、唐突すぎたのだろう。空白の1ヵ月間は、息子の思いを試す時間だったのかもしれない。
息子の決意を聞いて、父もまた自らの決断を口にする。
「やるなら真剣にやれ」「フランス菓子をしたいなら、フランスに行ける学校はどこだ?」。「辻調理師学校」とすぐに答えはしたが、躊躇する思いがないわけではなかった。入学金など諸々の費用がいちばん高かったからだ。
しかし「そういう問題じゃない」と父。「ただし、一つ約束しろ。もしフランスに行くことができなければ、菓子職人を諦めて大学に進学しろ」と、言われたそうである。
どういう思いでそれを口にされたのか。息子の決断を「良し」とされたのか、それとも…。
ともかく「辻調理師学校」を出発点にして、いまや菓子職人の頂点に立つ高木の飲食人生は、こうしてスタートした。

バターの香りに誘われて。

高木は1966年8月16日、東京都葛飾区に生まれる。
父はサラリーマンだったが、祖父はワイシャツ職人で、親戚は、萩焼職人という職人家系でもあった。
高木家は、高木が小学4年生の時に東京の葛飾から千葉に引っ越している。当時は光化学スモッグが激しく、妹が喘息を患ったための引越だったそうだ。
高木自身は、東京でも千葉でも変わらず、熱心な野球少年だったが、その一方で料理も好きな少年だった。
「私の母は、モノづくりが好きな人だったんです。菓子も手づくりしてくれていました。当時は、マドレーヌを良くつくってくれました」。
そのマドレーヌが、高木の人生をある意味決める、小さな、それでいて大きなきっかけとなる。
「マドレーヌを焼くたびに、オーブンからバターのすごくいい匂いがするんです」。
匂いに惹かれるように高木も母のとなりで菓子づくりを手伝った。
当時の様子を、高木はHPにも綴っている。
<少年の頃、母に内緒でつくったお菓子><帰ってきた母から、勝手に火を使って、と叱られる><しかし、お菓子を一口食べた母から、おいしいね、と言われた>と綴り、<母から人を喜ばすことの素晴らしさを学んだ>と結んでいる。
「おいしいね」、優しい母の一言は、少年の胸をふるわしたに違いない。
「中学3年生のときに『菓子職人になる』と母には言うんです。でも、その時、『高校くらい出ておいたら』と母が言うもので、そのまま高校に進学しました」。
高木は、頑なというより素直な心を持っている。人の意見を素直に聞く人なのである。ただし、大学受験は、何度言われても頑なに断ったようではあるが。・・・
続き
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2014年3月24日月曜日

少しずつですが、営業マンが成長してきました。

伸びてきましたね〜。


営業マンのお客様への関わりや動きが良くなってきました。
まだまだ実務経験こそ足りませんが、
少しずつ成功体験を付けていくと
頼もしくなってくれるはず。

今までキイストンで頑張ってくれた先人たちが、
基礎を作ってくれたんで、
個々の営業マンが実力を付ければ
業界でも頼りにされる強い組織になれるはずです。

そう言う意味では、
年月を積み重ねるって大きなこと。
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2014年3月19日水曜日

株式会社NATTY SWANKY 代表取締役 田中竜也氏/取締役社長 井石裕二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NATTY SWANKY 代表取締役 田中竜也氏/取締役社長 井石裕二氏登場。
本文より~

田中と井石の出会いの話。

2人の経営者。1人は田中竜也。高校を卒業すると同時に府中の人気ラーメン店「らいおん」にて修行を開始。そのラーメン店に客として、しばしば訪れていたのが、もう1人の経営者、井石裕二である。
同い年というばかりではなく、誕生日も1日違い。立場は違ったがともに「起業」を早くから考えていた2人である。
「2年くらいからです。それまでは、客と店の従業員だったんですが、少しずつ話すようになり、酒を飲みにいくような仲になります」と田中。
「出会った頃の私は、フリーターというかプータローみたいなもので、パチンコと麻雀で生計を立てていました(笑)」と井石。
井石は高校を卒業し、いったんは大学に進学したが、すぐに中退し、府中で1人暮らしをはじめたそうだ。
「大学もそうですが、サラリーマンも肌に合わないと思っていたんです」と井石。
その井石のまえに、起業をめざしラーメン店で修業をする田中が現われる。それまで、歩んできた道は違ったが、すぐに打ち解けたことは言うまでもない。
とはいえ、将来1つの会社をいっしょに経営するとは思いもしていなかったそうだ。

創業時の話。

「サラリーマンには向いていないと思っていたものの、21歳の時にある会社に就職しました。麻雀店でスカウトされたんです」といって井石は笑う。
むろん、麻雀店に就職したのではない。
「いっしょに卓を囲んだ相手の人から、どうも賢そうだからうちにこないかって誘われたんです」とのこと。
それからも田中の店にはしばしば訪れたが、「起業」という言葉を共有するまでには至らなかった。
「私たちが最初に資金を出し合って起業したのは、話をするようになってから6年後の26歳の時です。もともとは私1人でと思っていたんですが…」と田中。
資金がなく、ただしく言えば、貯めていた資金を他に回さなければならなくなり、起業しようにもまとまった金が用意できなかった、その時に…。
「『じゃぁ、いっしょにやろうよ』と井石が声をかけてくれたんです。そのほうが融資も受けやすいだろうからって」。
出資金は同額。ただし、職を持つ井石は外部取締役としてスタートする。 ・・・続き
株式会社NATTY SWANKY 代表取締役 田中竜也氏/取締役社長 井石裕二氏
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2014年3月14日金曜日

3月14日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”は「フライングガーデン」の野沢八千万(やじま)社長登場。

2014年にジャスダックに上場され、今年10周年、創業30周年を迎えられた爆弾ハンバーグでも有名な「フライングガーデン」の野沢八千万(やじま)社長、
3月14日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”にご登場いただきました。 (細見連載企画)
【フライングガーデンの野沢八千万(やじま)社長】

 
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2014年3月11日火曜日

株式会社綱八 代表取締役社長 志村久弥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社綱八 代表取締役社長 志村久弥氏登場。
本文より~

天ぷらの名店「綱八」の話。

さくっとここちよい音がする。
衣に包まれた、新鮮なネタの旨みがとたんにつたわってくる。天つゆでいただくのもいいが、塩もおつだ。
ホームページのクレドのなかに次の一文が載っていたので、引用する。
<我々にとって食材は『食財』です。旨いの源です。食財を大切に常に最高の状態でお客様にご提供します>。
食材を食財という。この思いがいい。食材が改めて、注目されるなかで貴い考えであるとも思う。
天ぷらといえば、アッパーなイメージが先行しがちだが、ランチだと昼膳が1260円で食せるそうだ。コストパフォーマンスもいい。
創業は、大正13年。創業者は、志村久蔵氏。
今回ご登場いただく、現、代表取締役社長、志村 久弥は、久蔵氏の孫にあたる。
店名について、おもしろい話も伺ったので掲載する。
「もともとは、網八(あみはち)だったんです。だけども、祖父が達筆すぎたんでしょうね。お客様が『網』じゃなく、『綱』と思って、綱八(つなはち)というんです。良く考えると響きも良く、『結ぶもの』として『綱(つな)』という字が、魅力的だと考えて、いまの『綱八(つなはち)』に変えたそうなんです」。
結ぶもの。なるほど「綱」は、つよく結われ、多くのものを結ぶ。創業以来、「綱八」が結んできたものも含めて、話を伺った。

「綱八」、高度経済成長期の波に乗る。

「祖父は、職人気質だった」と志村は語る。20歳まで祖父は存命だったので、志村も祖父のことは鮮明に記憶している。
「みなさんが職人と聞いて想像する通りの人です(笑)。店も、いわゆる『天ぷら屋』。基本的に無口で威厳のある人でした」。
「もともと曾祖父の代までは魚屋だったそうです。当時、新宿周辺には、天ぷら屋が多くあったそうです」。
創業当時は、「綱八」もよくある街の「天ぷら屋」だった。
もっとも職人気質の久蔵氏が揚げる天ぷらは、このうえなく旨かったに違いない。いまも受け継がれている、当時の「心」と「技」からも想像できることだ。
元来、町の天ぷら屋だった「綱八」が、世間一般に知られるようになったのは、父、圭輔氏によるところが大きい。
若い頃は、「東大」をめざしたというから、博学の人だったのだろう。大学卒業後、迷わず「綱八」に入社し、従業員として、寮で寝起きし、イチからすべてを学ばれたそうだ。
その父と祖父が一度、口論することがあった。
「マイシティ店を出店する時です。祖父は職人気質なんで、手を広げることに反対だったんです。逆に父は、チャンスだと思い、譲らなかった。それで口論になったんですが、結局、祖父が折れ、出店が決定。父は、時代を感じ取っていたんでしょうね。当時は、高度経済成長期です。マイシティ店を皮切りに、小田急店など次々と新店を出店し、成功を収めました」。
創業者から、2代目、経営者へ。個人商店から企業経営に大きく舵が切られたのは、この時である。・・・・
続き
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2014年3月8日土曜日

3月7日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”は「千房」の中井政嗣社長登場。

昨年創業40周年迎えたお好み焼き千房の中井政嗣社長、
3月7日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に登場いただきました。 (細見連載企画)


(千房の中井社長)
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2014年3月4日火曜日

広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏(マーシュ株式会社 代表取締役)登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏(マーシュ株式会社 代表取締役)登場。


本文より~

めざせ、パイロット!

「中学2年の時、トムクルーズ主演の『トップガン』という映画を観て、パイロットになろうと思った。」と桝谷は切り出した。
「中学を卒業するなり、パイロットなどを育成する学校に進学しました。これで、パイロットになれると思っていたのですが、現実はそう甘くなかったです。結局入学した8割が自衛隊に入隊するというから、そりゃ、違うだろうって思って。わずか3ヵ月で中退しました。」
「パイロット」という目標もなくなり、心にぽっかり穴があいた。

往復ビンタの日々。

小学校の時から問題児だった。「親が学校に呼び出られることも日常茶飯事だった」と桝谷は笑う。中学になってバレーボールを始めたが、生活態度は褒められたものではなかったようだ。
中学2年時には、学校をさぼって、春スキーへ行ったこともある。
スキー焼けした顔で登校すると、「どこへ行っていた!」と担任に詰め寄られた。「とっさに、『屋上です』といったのですが、ジョークが通じる相手じゃなかった。問答無用、廊下に出され、往復ビンタです(笑)」。
担任は、3年間、桝谷の担当を務めてくれた。互いに気心は知れている。直裁に、諭された。「おまえは勉強ができないから、技術を磨け」が担任の口癖となる。
今でもイカツイ風貌を覚えている。
「柔道をしているから、耳が腫れているんですよ。そのうえ顔に傷がある。はむかっても敵いそうにない。手も早く、何度もビンタを喰わされた。それでも愛情を感じていたのは事実です」と桝谷は目を細める。
担任に、坊主にされたこともある。素行をみかねてのことだろう。担任以外は、怖いものもなく、学校でも、学校以外でも、いきがっていた。
夜の歌舞伎町や大久保も、桝谷のホームグラウンドだった。「パイロットになる」という目標だけが、まっとうなことだったが、その目標も進学後3ヵ月で霧散した。
担任の往復ビンタより、痛かった。

救いの神は、唐揚げ。


中学時代の担任が太鼓判を押したように、勉強はできなかったし、好きではなかった。いまさらしようという気にもならない。スポーツにも熱中できなかった。堪え性がなかった、といえばそれまで。「何者か」になりたかったが、起動スイッチが入らない。そういう時代であった。
親父が「こいつは東京にいたらおかしくなる」と言ったことがある。「私は、だったらアメリカに行きたいと言ったのですが、『アメリカに行ったらシャブ中になって帰ってくる』と取り合ってはくれませんでした(笑)」。
姉からは、「あんたこのままいったらチンピラだよ。更生もできないよ」と諭された。忙しい両親に代わって育ててくれた姉の言葉は重かった。
「そんな時ですよね。なぜか、小学4年生の時のことを思い出したんです。」何を思い出したかといえば、「唐揚げ」だった。この1枚の記憶が、桝谷を人生の混迷から救い出すことになる。
「小学校4年生の時に、NHKの料理番組を観ながら唐揚げを作ったんです。私が初めて作った料理です。そして、みんなから初めて褒められて…」。
そういうことを思い出したという。それからも何度か料理をした。その度に、巧くいった。「料理」という文字が、「未来」という文字に重なる。
「当時はもう大卒が当たり前で、悪くても高卒でした。さすがに中卒はいない。」「中卒」というレッテルが付き纏うことはわかっていた。
桝谷は2つのことを決意した。
一つは料理の世界に進むこと。もう一つは、自分を叩き直そうということ。
その2つを叶えるために、「日本青年館」へ進むことを決意する。
ちなみに「日本青年館」は、東京・神宮外苑地区にあるホテルやホールなどを備えた複合施設で、財団法人日本青年館が運営している。1925年に青年団のための施設として開館したそうだ。
青年団という響きが、強くなろうと思う桝谷の胸を打ったのだろうか。ともかく、桝谷は料理の道に進むことを決意した。これが16歳の時である。
・・・・
続き

「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2014年3月2日日曜日

TBSテレビ『ニュースキャスター』でGosso横浜店/鶏冠菜(とさか~な)様が紹介されました。

昨日3月1日、TBSテレビ『ニュースキャスター』で
Gosso横浜店/鶏冠菜(とさか~な)様が紹介されました。

「8%消費税まで1ヶ月“駆け込み需要”のイマ」というなかで、
コースのお料理や自慢の『賞味期限は40秒 網レバー』などなど紹介されましたね。

鶏冠菜様、留学生採用や海外勤務希望者採用、
またアルバイトさんの卒業パーティーなどいろいろなことやっておられます。

これからが楽しみ。

(ビートたけしと安住アナ)
(Gosso横浜店)
(新コース料理メニュー)

 
(新メニュー)


 
 (賞味期限は40秒 網レバー)

(マネージャーの佐野さん)
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2014年3月1日土曜日

2月28日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”は「エスワイフード」の山本重雄会長登場。

名古屋の名物といえば今や手羽先!!
幻の手羽先の世界の山ちゃんことエスワイフードの山本重雄会長が
2月28日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に登場いただきました。 (細見連載企画)
 
(世界の山ちゃんエスワイフードの山本会長)
 
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