2015年11月25日水曜日

本日11月24日、日刊ゲンダイにアイネットグループの岩田社長が全面カラーで掲載。

本日11月24日、日刊ゲンダイにアイネットグループ岩田社長が全面カラーで掲載されました。
なんとこの岩田社長はスター誕生で山口百恵と同じ大会で一緒に合格されました。
それが今では飲食店舗40店の経営者に・・・。



なんと“近江の国の子守唄”というCDも出されます!!

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2015年11月24日火曜日

11月24日、千葉商科大学・池田ゼミは株式会社そらの都築社長の講義でした。

11月24日、今年度最後の今年度最後の大学講義は、千葉商科大学・ サービス創造学部の池田ゼミは株式会社そらの都築社長の講義でした。
前回好評だった事前課題で学生参加型の講義でした。
大学生(19〜21歳)の意見は、新鮮で斬新かつ、非常に面白かったです。

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LA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”LA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。
本文より~

別荘で、産声をあげた落合氏。

1947年、落合氏は祖父が所有する鎌倉の別荘で生まれた。別荘を所有していたことからも想像できる通り、祖父はかなりの資産家だったそうだ。
「鎌倉生まれ、足立区育ちです」と落合氏。「当時、祖父はメッキ工場を営んでいて、かなり裕福でした。私の父と母が結婚したのは18歳の時で、母は19歳で私を生んでいます。一児の父になっても、父は定職に就かなかったそうで、私も含めて家族3人が、祖父に扶養されているようなものだったと聞いています」。
日曜日になると親子3人、自転車で浅草や上野に遊びに出かけたそうだ。「そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だったんです」と氏は語っている。

子どもの頃、なりたかったのは商社マン。

いままでインタビューしてきたシェフたちは、たいてい「子ども時代から手先が器用だった」といった。落合氏にも聞いてみたが、氏は「釘も打てず、ノコギリも上手に使えず、絵もへたくそだった」と笑い声をあげた。料理にも特段、「関心はなかった」という。
成績は優秀。小学校5年生から四谷大塚に通い、日大付属中学に進学している。
「将来は、商社マンになりたいと思っていたんです。父のように慕っていた叔父も『それがいいぞ』と言ってくれていたし…。商社マンという仕事を正確に把握していたわけじゃないんですが」。
落合氏と同年代の人に、子ども時代の話を聞けば「海外生活など思いもつかなかった」という答えが返ってくるだろう。それほど当時、「海外」は遠い存在だった。落合氏にしても、「海外で暮らす」ためには、商社で働くという手段しか思い浮かばなかったのではないだろうか。
ともかく「いい大学に入り、大きな商社に入って、海外へ羽ばたく」。落合氏の夢は、未来へと広がっていた。

「もうやってられるか」と吠えた日のこと。

「成績が良かった」と書いたが、これは周りの期待に応えようと健気に努力した結果だったかもしれない。氏は、高校時代のことと言いながら、「私は成績が優秀だったので、みんなから期待されていたんですよ。当時は、その期待に応えようと、私も頑張ってきたわけですが、だんだん『どうでもいいや』って思うようになっていくんです」と語っている。
落合氏が高校に上がる頃には、すでに祖父が事業を失敗していたこともあって、以前のように裕福というわけにはいかなかった。それでもまだ動産、不動産は沢山あった。「父が食べ尽くすのに、一生かかったくらいにはね」と落合氏は、苦笑する。
「もっとも堪えたのは、祖母が亡くなったことです。特に、父の3回目の離婚が、祖母の死に直結していたこともあって、かなりショックを受けたんです」。
落合氏にとって祖母は、特別な存在だった。裕福な環境だったが、父が何度も離婚を繰り返すなど複雑な家庭環境のなかで、いつも落合氏を支えてくれていたのが祖母だったからである。落合氏と落合家を結ぶ糸がプツリと切れてしまったようだった。
「もうやってられるか」。
落合氏は、空に向かって吠えた。

高校、中退ス。

高校1年、落合氏は、中退を決意する。親に轢かれたレールを走るのはもう懲り懲りしていたから。もちろん、「いい子」も卒業だ。「ただ、目標もなく、中退なんていうのが悔しくてね。それで職人だ、コックだって言ってね。実は、口実が欲しかっただけなんだ」。
父が、日本橋にある、知り合いのレストランオーナーを紹介してくれた。とりあえず、目指すはフレンチの料理人。動機はともかく、自ら決めた初めての道だった。

ホテルニューオータニの厨房に立つまでの話。

「初めてですから、比較はできなかったんですが、『何か違うな』と思ったんです」。父が紹介してくれた店での話である。
「素直にその気持ちをオーナーに伝えました」と落合氏。すると、オーナーは落合氏の思いをしっかり聞いて、別のレストランを紹介してくれたのだという。
「紹介してもらったのは、『トップフード』というお店です。幸いにも私は人にとても恵まれました。この店の方々もみんないい人ばかりで。しかし、この店もあとにすることにしました。そして、最終的に『ニューオータニ』に落ち着きました」。
「ホテルがいい」という知人のアドバイスが決め手だったそうである。ともかく、落合氏の人生の前半を彩る「ホテルニューオータニ」時代が幕を開ける。

・・・続く
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2015年11月19日木曜日

ビッグカメラ有楽町店に武田の出てるPOPやパンフレット、動画が・・・。

ビッグカメラ有楽町店の美容家電コーナーのTESCOMのPOPやパンフレットに武田あかねがたくさんいました(笑)

また、1階のスマホ・ケータイコーナーではSONYのXperiaのVPがたくさん流れてますが、キメの「だから私はXperia」にも武田あかねが出てます。

11月19日、青山学院大学にて濃厚鶏そば 麺屋武一 (テイクユー)の大澤武社長の講義されました。

11月19日、本日は青山学院大学・堀内ゼミにて、濃厚鶏そば 麺屋武一 (テイクユー)の大澤武社長の講義されました。
数あるラーメン店店主のなかでも異例の経歴の持ち主。大手企業の社員と飲食店経営者の二足の草鞋を10年近く履き続けたうえに、その経験をもとに講師やプロデューサー的な仕事も行い、起業家のためのノウハウ本も数冊出されています。
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2015年11月17日火曜日

東海エリアが熱い!! 株式会社AJドリームクリエイト 代表取締役 蓮川昌実氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社AJドリームクリエイト 代表取締役 蓮川昌実氏登場。
本文より~

小さな頃から「飲食」を志した少年。

蓮川氏が生まれたのは、1973年。出身は、愛知県日進市である。蓮川氏の父親が30歳の時にこの市に「焼鳥居酒屋」をオープンする。
「もともと母方の祖母が焼肉やホルモンの店をやっていたこともあったんでしょうね。それに感化されたのか、30歳の時に父が脱サラして焼鳥居酒屋をオープンするんです。それまでは、トヨタ系列のディラーで勤務していたそうです」。
「オープン当時から繁盛していたそうです。私も小さな頃から店に行き、小学校の頃には手伝いもしていました。この頃から、将来は『飲食』と思っていました」。
「親がたのしく働いているのをみて」「ものづくりにも興味があって」「直接、お客様に喜ばれる仕事だから」。
「どうして、飲食を好きになられたんでしょう?」と質問すると、蓮川氏は、飲食に惹かれた理由を前述通り3つ挙げた。いずれも純粋な動機である。観察眼もまた鋭い少年だったに違いない。
ともあれ、小さな頃から飲食に馴染み、店に溢れる笑顔に惹かれた少年は、大人になっても「志」を忘れず飲食への道をあゆむことになる。

個人経営ではなく、組織にして。少年の希望は広がる。

「飲食という事業に惹かれる一方で、たいへんさも、もちろんわかっていました。夏休みもありませんしね(笑)」。
蓮川氏自身、夏休みになっても、どこにも連れて行ってもらったことがないから、その点がクローズアップされる。
「それで、考えたのが企業化です。父親も、祖母も個人店だったんで、それはそれで楽しいんでしょうが、自由がきくようで、きかない。だから、私は、そうじゃなくって、ちゃんと休みも取れるように企業化すればいいと思ったんです。それで、大学を出て、名古屋市内の居酒屋チェーンに就職しました。チェーン店なら企業としてもしっかりしている。そのノウハウも盗めると思って…」。
話は就職時までいっきに飛ぶ。

有名なチェーン店に就職。しかし、半年でリタイア。家業の立て直しに奔走する。

就職したのは、名古屋でも有名なチェーン店舗。名証2部上場の企業でもあった。ところが、およそ半年で退職してしまう。
「半年と言っても、 がむしゃらにやっていたのでかなり勉強もできましたし、当時、うちの店の調子が悪かったものですから、立て直しに向かいました」。
当時、蓮川氏の実家の焼鳥居酒屋は、低迷を余儀なくされていた。バブルが弾けたとたん、600万円だった月商が半分程度に落ち込んでしまったそうだ。
「バブルの時は良かったんです。どんな店でも、繁盛しましたから。でも、バブルが弾け、選別の時代が始まった」。
客が減ったのは、バブルが崩壊したせいばかりじゃない。理由も、薄々わかっていた。
BGMは、昔通りの演歌。マグロは、近所のスーパー購入した代物。それでいて「焼きなす」600円。たしかに、高いし、こういってはなんだが、素人にも低迷の理由がわかる。
蓮川氏はそれらを次々見直していく。
「いちおう、仕入れも勉強していましたので、市場まで行って新鮮な魚を買い付けてきました。料理にもこだわると、お客様も元通り増え、雰囲気もいっぺん。元の600万円の月商にもどるにもそう時間がかかりませんでした」。

・・・続き

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2015年11月15日日曜日

父親が脳梗塞に…。

父親が9日の月曜日、初期の脳梗塞で入院しました。
いつもとあまり変わらない様子だったのですが、水曜朝に急に容態が悪化し、意識がなくなり、酸素マスク付け、瞳孔が開いた状態になってしまいました。

脳の腫れがひどいらしく、意識もなく呼吸してるだけですが、父親の手を握ってたら生命力感じるんで、奇跡を信じてます!

病院に2日付き添って泊まってましたが、仕事のアポイントも複数入ってるため一旦東京に戻りました。
少しだけ呼吸が安定してきただけなので、まだどうなるか予断を許しません!

2015年11月10日火曜日

有限会社サンカンパニー 代表取締役 山川大輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社サンカンパニー 代表取締役 山川大輔氏登場。
本文より~

高校卒業までの話。

深谷市は、埼玉県の北部にある。この市に山川が生まれたのは1975年のこと。父は料理人で、山川が小学6年生の時にこの地に中華料理店を開業している。
「私は長男で、妹が2人います。男は私だけですが昔から跡取りということは考えていませんでした。ただ、料理人の父の背中をみて育ちましたので料理には関心があった。といっても、料理を勉強しようと思うのは、まだまだ後の話です」。
小学校の頃の山川は、サッカー少年だった。中学生になってバレーボールに転向する。学業の成績は、平均レベル。つまり、真ん中くらい。「高校生を卒業する時期になって初めて、父といっしょに店をやろうということになったんです」。

父と店を開業するが、意見が合わず、衝突。

高校を卒業後は静岡にある、大手メーカーに就職し、1年間勤務した。
「別にどこでも良かったんです。親父が2人で始める新しい店をみつけるまでという期限付きの就職でしたから」。
1年後、父から「店がみつかった」と連絡が入った。親子2人、ちからを合わせてスタートした。
「でも、親父は職人気質です。料理の腕は凄いんですが、経営にはそれほど関心がなかった。それで、衝突することも多くなって、結局、私は店を離れます」。
思い入れもあった。父を立てなければいけないことも理解していた。でも、店のことを考えると、意見を曲げられなかった。「それで、いったんすべてをリセットしようとオーストラリアに向かいました。一度、行ってみたいと思っていたんです」。

オーストラリアで、20代の起業を決意する。

山川が向かったのは、オーストラリア大陸の北東岸にある、海に面するケアンズという港湾都市である。
「たくさんお金があったわけじゃないから、アルバイトしながら生活していました。現地の人たちと交流したことも、海外から日本という国をみたことも、いい経験になりました」。
滞在したのは1年ほど。山川は「オーストラリアで20代での起業を決意した」と言っている。
数ある転機のうちの一つ。「帰国し、とりあえず『資金だ』と思って、食料品の移動販売を始めました」。
1年間、海の向こうで存分にリフレッシュした後である。やる気も、満々。「人の3倍は働く」と決意し、目標に向かって、がむしゃらに突き進んだ。
2年間で2000万円貯蓄したというから驚きだ。
「そのうち1000万円は結婚資金に充てて、残り1000万円で開業する腹積もりでいました」。この時、山川はまだ23歳である。

父から店を譲り受けて。

結局、山川は27歳で独立する。父の店を引き継いだ格好である。
「移動販売を辞めてから、数ヵ月、いろいろな料理店を食べ歩きました。イタリアンにも興味があったものですから、都内にもひんぱんに出かけました。でも、ここだと思ったのは都内ではなく、熊谷にあるイタリアレストランでした」。
「そちらで3年間、修業させていただきました。ちょうど3年経った頃、親父が『店を建てた時に借りた融資もすべて返済した』というんです。それで『店を手放して農業をしたい』と。ただ、契約を解除するには、いったんスケルトンにしなければなりません。それだけのお金はなかったんですね。で、私にどうだ、と」。
「タイミングが良かったです。幸い、資金もあったので、『じゃぁ、そうするよ』って。もともと親父と2人でやろうと思って作った店です。私が、ちゃんとするまで親父が守り抜いてくれていたのかもしれません」。
うがった見方をすれば、父は、息子に譲るために「農業をしたい」と言ったのかもしれない。同じ店に2人いれば、また衝突するかもしれないと考えて。
ともあれ、山川は父から店を譲り受けた。もっとも大半は改装した。山川27歳、2002年のことである。店名は「楽食空間 山」。中華とイタリアンの創作料理店である。

・・・続き

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2015年11月6日金曜日

今回自社人材募集、妥協しません!

キイストンの次世代を担う人材(ダイヤの原石)を見つけるため、
妥協しない自社求人やってます!

面談も20代ながら営業幹部たちの視点と人材感、そして意思に任せ面談させています。
最後の面談に私が会うって感じですが、厳選して人材を選んでくれてるのでなかなか社長面談まで来ません!

どうでしょうか、20代のみに限定募集してますが約100人以上応募あります。
これ、普通に年齢制限なければ軽く300〜500人は来てますね!

おかげさまで、社長面談に来た人材は素直でホスピタリティある人材。

やるね、うちの若手営業幹部は。
キイストンを1から10、または1から100にしてくれる人材育ってくれ社長交代出来れば…。

社長候補は複数いても別会社作ればいいし…。

2015年11月4日水曜日

2015年11月2日月曜日

東海エリアが熱い!! 株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏登場。

東海エリアが熱い!!
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“飲食の戦士たち”株式会社オー・エム・フードサービス 代表取締役 山本義之氏登場。

本文より~

目立つことも大好きな少年、山本。

山本氏が生まれたのは、1975年。父は、公務員。兄弟は男ばかりの3人で、山本氏は次男。小さい頃から、運動も勉強も人並み以上だったそうで、「家に近い」という理由だけで受けた高校は、地元でも有数の進学校だった。
「父と母がケンカをしているのをみたことがないんです。父は、温厚で、子どもたちに対しても怒ったことがありません。私は、高校在学中に『起業しよう』『社長になろう』と決めていましたから、大学に進学するつもりはぜんぜんなかったんですが、それに対しても何も言わず、温かく見守ってくれる人でした」。
「どうして、そんなに早く社長になりたかったんですか?」と直裁に聞いてみた。
「音楽をやっていたこともあって、ミュージシャンになろうと思っていたんですが、冷静に考えれば無理だな、と(笑)。でも、人に使われるのはイヤだったんで、残された道は社長しかないと思ったんです」と言って笑う。
目立つことも大好きだった少年の選択は、「社長」と言う職業を選択するに至った。ちなみに、その高校から、就職を希望・選択した生徒は400名中、数名だったそうだ。

100万円超の月収と、小っちゃいお山の大将という危機感。

「最初に就職したのは、建設関係の会社です。就職情報誌で、いちばん給料が良さそうな会社を選びました」。
雑誌には20~50万円以上という風に書かれていたらしい。面接に行くと「もちろん、最初は20万からだ」と言われた。それで、「50万円になるのはいつ頃かと」聞く。
「資金を貯めるのが目的だから、聞かずにはおれなかったんです。すると、2~3年くらいと言われ、よし、だったら俺は半年で50万円もらえるようになってやろうと思ったわけです」。
資金を貯めるという目的もあったが、金遣いもハンパではなかった。カマロをキャッシュで買ったのも、この頃。
「有言実行通り、仕事を徹底的に覚え、半年で親方の立場になり、50万円程稼げるようになりました。更に2年後には、独立して仕事を請け負うというかたちで、100万円を超える月も少なくありませんでした」。
たしかに、収入は高かった。20歳で、100万円。天狗になっても可笑しくない。しかし、山本氏は、危機意識を持ち続けていたそうだ。
「このままでは、小っちゃいお山の大将にしかなれない」。

文字通り、人の3倍やり抜いたディベロッパー時代。

名古屋でも有数のディベロパーに転職したのは、もう少しダイナミックな仕事をしたかったからだ。「ディベロッパー」という言葉には、山本氏が求める大きさがあった。
「23歳の頃です。営業という仕事は、やったこともない。だから、一度挑戦だという思いもあったんです」。
驚くことに、このディベロッパーでも、すぐに頭角を現す。サポートは仰いだが、1ヵ月目に初契約をいただいてから、退職するまでのおよそ3年。一度も契約がゼロの月がなかったそうだ。むろん、記録的な実績である。
「給与は、固定給が16万円。あとは、歩合です。私の場合は、契約をたくさんいただけたんで、給与もそれなりに良かったです」。才能というのもあったのだろう。ただし、それだけではない。陰の努力もある。
「ほかの営業マンが、300枚のチラシを刷っているところを、私は1000枚刷って撒いていました」。夜、1000枚のチラシを持って、ポストに向かう。いわゆるポスティング。
 地道な努力は、お金になって返ってきた。
3年後の25歳、「飲食」と心に決め、独立のため会社を辞めた時には2000万円くらい貯まっていたそうだ。

・・・続き

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