2020年6月25日木曜日

役員人事に関するお知らせ

キイストンは、2020年6月23日開催の定時株主総会及び取締役会において、下記のとおり決議いたしましたので、お知らせいたします。


役員選任
代表取締役 細見 昇市(重任)
取締役 武田 あかね(重任)
取締役 山本 美代子(重任)
執行役員 江川 広太(新任)
執行役員 国谷 淳平(新任)
監査役 渡邊 武(重任)

前から今期スタートに役員昇進決めてました。
まさかのコロナですが、このタイミングも新任役員にとっては成長のチャンスかもと思ってます。
キイストンはこれから組織力を強め、さらに業務拡大に努めます!

2020年6月23日火曜日

株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場
本文より~

東京進出と、不動産事業の本格始動。

前回(2011年)、ご登場いただいてから9年が経つ。すでに50歳を超えたが、益々、意気軒昂だ。2011年、当時と比べ、事業も格段に厚みを増している。
2013年、ホームグラウンドの千葉から離れ、東京に初進出。「湯島にある不動産を買いました。おなじ年の9月には日本橋に2つの大型不動産を購入し、以前からやりたいと思っていた不動産事業を本格的にスタートさせます」。
飲食では9月に「FRENCH BAR KOUZO」、10月に「BISTRO KOUZO」、11月に「炙りや幸蔵」を次々、オープン。翌2014年1月には、社名も現在の「株式会社バンズダイニング」に変更する。
「バンズは『絆』という意味です。お客様との絆、従業員との絆、地域やお取引先様との絆を大事するという、我々の事業理念を表現しています」。
グループの事業は、前述の不動産に加え、製造業も行い、飲食と合わせて、三本柱の構成となっている。
「ストックビジネスの不動産事業を行っているから、飲食事業のアクセルも思い切り踏み込める」と塙氏。いわば、これが、塙氏のビジネススタイルである。
「飲食にとって、家賃は大きなコスト。千葉で飲食をやっていた頃から、もったいないと思っていたんです。でも、ビルを所有していると、家賃の意味も違ってきます。無駄にならない。たとえば、融資を返済する原資になるわけです。だから、多少の無理もできる。フローとストックをぐるぐる回すことで、事業的にも、経営的にも安定成長が実現できる。それが、うちの戦略です」。
いまや30物件以上の不動産を、都内や仙台を中心に所有しているというから驚かされる。経営者であると同時に、すでに自他ともに認める資産家でもある。
飲食店でいえば、現在合計22店舗。うち9店舗が、自社物件で営業を行っている。むろん、オーナーの意向に左右されず。フリーハンドで経営できるのも大きなメリットだ。
それにしても、2013年から現在(2020年)まで、7年しか経っていない。大胆な戦略が功を奏した結果だが、そう簡単にできるものではない。実際、この7年の軌跡の向こうには、塙氏が「東京のおじさん」という師匠の存在がある。
「母方の親戚で、仲人でもあり、うちの会社の会長です。私の人生にとって、いちばん大きな存在ですね」。たしかに、この「東京のおじさん」がいなければ、「塙スタイル」のビジネスは、とっくにとん挫していたかもしれない。

宴が終わり、生活費は1日300円。

塙氏は、第一回の東京オリンピックが開催されてから3年が経った1967年、千葉に生まれている。小・中は勉強と部活、生徒会に明け暮れ、成績はいつも校内で1、2を争っていたそうだ。
大学は、慶応義塾大学。卒業後は、大好きな千葉に役立ちたいと、千葉県の県会議員の、議員秘書になっている。将来は、政治家という目標があったのかもしれない。
秘書時代は5年に及ぶ。ただし、この間、バブルが弾け、宴が終わる。多くの企業が行き先を失うなかで、今まで躍進をつづけていた父親の事業もまた破綻する。
「私は秘書をつづけながら、父の事業を継ぐんですが、その時、会社にあったのは総額8億円の借金と揉めごとだけでした/笑」。
8億円。いくら坊ちゃんだったといっても、20代の若者にイメージできる額ではない。社長になり、最初にしたのは、「金融機関詣」と塙氏。ひたすら頭を下げ、返済猶予をお願いしたという。
「でもね、頭をさげても、うまくはいくわけじゃない。当時の会社は年間4000万円の赤字を垂れ流していました。利払いだけで月360万円です。生活費も捻出できなくなり、1日換算300円です」。
缶コーヒー3本も飲めない。
「でもね。昔から人が大好きだったんですね。だから、救われた。経営していたお店に出るとイヤなこともぜんぶ忘れることができたからです」。
塙氏、25歳の時の話である。
秘書の仕事もおろそかにできない。もちろん、継承した事業もだ。
「心を込めた」と塙氏はいう。
「飲食店も、父の事業の一つです。学生時代からバイトをしていたもんですから、ある意味、バイトの延長です。だから、こんな事態にならければ、お客様がいかに大事な存在か気づかなかったかもしれませんね」。
「『おー、がんばっているな』。お客様からいただく、その一言がどれだけ私のパワーになったことか」とも語っている。
とはいえ、店をでれば、現実が襲いかかる。
不安と将来のビジョンを描けない長く厳しいトンネルの中で、もがき苦しんだ。
しかし塙氏は「泥水をすすり、ゴキブリにでもなってやる」と強い意志を持って、爪に火を燈しながら身を粉にして働き詰めに働いたそうだ。
その結果、4000万円の赤字を垂れ流していた会社が、翌年には3000万円の黒字を叩きだすまでに回復している。このパワーもまた凄い。
数年をかけて借金の返済も進み、2002年には銀行が融資をしてくれるまでになったそうだ。
資金もそうだが、何より諦めない心や経験、そしてお客様や人材、人脈という大事な財産ができたのが大きかったのではないか。「絆」の始まりは、この時かもしれない。ともかく、このようにして8億円の債務超過を抱えスタートした塙氏の苦難の第一幕は閉じる。以来、塙氏の店は、千葉でもっとも愛される店に育っていく。
そして、冒頭の2013年の話につづく。

「眠れない日々の話」のつづき。

窮地を脱し、快進撃を始めた塙氏だが、その裏では、眠れない日々がふたたび始まった。
「2013年ですね。冒頭でも言いましたが、不動産事業を本格化させる一方で、新たに飲食店も6店舗出店しました。この投資で、7億円の借金が追加されました」。
25歳の時の8億円に匹敵する額。「のるか、そるか」の一大勝負を挑んだのは、むろん、塙氏自身。
「あの時は人生でいちばん、きつかったですね。励ましてくれるのは、おじさん1人です。成功者の言葉ですから信じないわけではないんですが、返済しようにもお金がない。だから、また借りる。借金が、どんどん膨らみます。おじさんがいくら『大丈夫だ』って言ってくれても、このまま破綻してしまうんじゃないかって」。
夜も眠れない。
「実は、2番手だったスタッフが辞めてしまうんです。追い打ちですね」。何につけ、口うるさくなったからだと塙氏。今では、冷静に反省もできるが、当時は、そんな余裕もなかったはずだ。
どうなる、どうすればいい。
「5年くらいつづいたかな。ただ、慣れってあるんです/笑。案外、大丈夫じゃないかなって。そんな風になっていた時かな。テレビを観ていて…」。
IOCの総会でTOKYOと宣言される。2020年、東京オリンピックが決定した瞬間だ。経験者である「東京のおじさん」の言葉は正しかった。
「もう、狂喜乱舞ですね」。ついに、ストックビジネスの花が開く。「これで、助かった。もう大丈夫だ、と。奥さんを起こして、もう大丈夫だから、と/笑」。
いうまでもなく、不動産価格が上昇する。
・・・続き

2020年6月18日木曜日

6月16日(火)発行の日刊ゲンダイに千房ホールディングスの中井貫二社長の記事が掲載されました。

6月16日(火)発行の日刊ゲンダイ「社長の私生活」に千房ホールディングスの中井貫二社長の記事が掲載されました。
本来なら3月か4月の掲載予定でしたが、日刊ゲンダイ編集サイドが、コロナの影響を考慮し、全面解除されたタイミング見て今回の掲載になりました。

武井港区長からお礼状頂きました!

休校中の先生方にお弁当のデリバリーさせてもらった港区立の幼稚園・小学校・中学校(全40校)に、
製造元の阿賀テック株式会社様(代表取締役:森桂一、所在地:新潟県阿賀町)と連名で、
新潟県阿賀町の廃校を利用して製造されている微酸性次亜塩素酸水「agaキレナーレ」を合計400リットルを寄付させて頂きました。
創業以来ずっと港区で経営やってますので少しでも港区のお役に立てば・・・・。

うちの江川、役員としての初仕事です!
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000009.000007856.html
(左より弊社・江川、阿賀テック・蔭山様、赤坂中学校統括校長・高松様)

2020年6月16日火曜日

株式会社サンメレ 代表取締役 多治見智高氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンメレ 代表取締役 多治見智高氏登場
本文より~

10×10はヒットの公式。

「ガイアの夜明け」にも取り上げられたというから、ご存じの人も多いだろう。「茶割」の話である。「茶割」は店名であり、お店のコンセプトは「100種のお茶割りと100種の唐揚げ」。
100種類というと、頭がこんがらがるが、10種類のお酒と10種類のお茶、これが掛け合わさって100種類になるそうだ。
「茶割をはじめたのは、レストラン事業を開始して数年経った2016年9月です。それまで、じつはいろんな仕事をしていたんです。レストランもその一つ。でも、その頃、そろそろ本格的にレストラン事業に専念しようと思って。それで始めたのが『茶割』です」。
「茶割」。
そのアイデアはどこから来たのだろう?
「ちょうどレモンサワーが流行りかかっていたんです。 それで、お茶割り、つまりお茶で割ったお酒も絶対、流行ると」。
最初から、確信めいたものがあったようだ。そこがすごい。
「おかげさまで、狙い通りです。もちろん、お酒だけではなく、100種の唐揚げも注目されています」。
10×10=100。たしかに、100種類のお酒というのは、種類の多さだけでも興味がそそられる。しかも、掛け合わせて生まれるのは、言えば私オリジナル。これは、流行る。
10×10は、たぶんヒットの公式だ。

女子にまじって。

10歳になると、父親の単身赴任が始まり、週末くらいにしか会うことがなかったという。「だから、教育はもっぱら母親です。私は一人っ子ですから、母の影響がすごいと思います」。
母親は専業主婦。1対1。「普段、父がいないわけですが、だからといって、ごちゃごちゃ干渉してくるような母じゃなかったですね。もっともテストの点数が悪いと叱られました」。
「それ以外は、割と自由だった」と多治見氏はいうが、一つだけびっくりする禁止事項があった。「ドラゴンボールやスーパー戦隊といったファイト系のテレビは禁止されていました。だから、小学生の頃の友達は女の子のほうが多いですね」。
女子といっしょに折り紙などをしていたのだろうか?「男の子と一緒だと、どうしても仮面ライダーとかの話になるでしょ。ついていけない/笑」。
こういう話を聞くと、どうしても軟弱というイメージになりがちで、実際、そういう子供時代を想像していたが、全然違っていた。
「父の影響もあって、小学生の頃から自転車レースを始めています。小学校の頃は全然でしたが、中・高の時には、大会で優勝も経験しています」。
ちなみに、父親は大学病院に勤務する医師。その息子は、小学校の頃から、成績が群を抜いていた。秀才で、自転車レースに出場して、女の子たちと過ごす。「モテないわけはないですね?」と質問してみると、「小学校の頃の話ですからね。中学からは、男子校ですし」と割とそっけない返答だった。

自律教育と濃厚な時間と。

「私服で、自転車で通える学校に行きたくて」。
それが、志望動機なんだそう。その単純な理由で進んだのが、「武蔵高等学校・中学校」いうまでもなく、東京でもトップクラスの高校だ。調べてみると政治家や学者はもちろん、有名な映画監督も卒業されていた。
濃厚な、6年間だった。なんでも、のちにスタートする「ゆとり教育」の手本となった学校でもあるらしい。
「自転車レースは続けていました。学校ではいろんな部を転々として最後は書道部でした。うちの学校は校則が、まったくない。自ら調べ、自ら考える力を持て、と言われていました。
生徒のなかには坊主頭やドレッドもいましたね。ふつう中・高一貫といっても、高校では外部から生徒を取ったりするでしょ。うちは、そうじゃなく内部進学だけ。だから思春期の6年間を限られた仲間だけで過ごすわけで、そりゃぁ、濃厚になりますよね/笑」。
勉強のスタイルも変わっていて、歴史では、ある一人の人物だけに焦点をあて、授業が進んだそう。「だから、東大とか、そういう大学に進学する生徒も多いんですが、大半は浪人を経てってことになる。じつは、私も現役の時の大学受験は、失敗しています/笑」。
ところで、この学校の教育方針を聞いていると、お母さまの教育方針に似ていると思った。そこに、あるのは「自律」という共通項だ。人が育つ上で、一番大事な項目かもしれない。

起業家の片鱗。

「進んだのは、慶応大学です。じつは、秋にもう一回、試験があるんです。帰国子女向けなんですが、それをつかって半浪人で進学します。学部は通称SFCという総合政策学部です。この学部は起業家精神というか、ベンチャー気質もあって、じつは私も学生の頃から業務委託で仕事をしていました」。
どんな仕事をしていたんだろう?
「教授の紹介で、デザイナーのような仕事をしていました。名刺の肩書きはデザイナーの時もあればマーケッターとか、いろいろです」。
通信キャリアの大手や、日本のトップメーカーの仕事もやっていたそうだ。
「それで、大学時代に友人とデザインの会社を興すんですが、なかなかうまくいきませんでした。ただ、卒業する時には、さっきの話になりますが、委託でいろいろと仕事をさせてもらっていたんで、そのままというか。就職はしていないんです」。
デザイナーやマーケッターだけではなく、ミュージシャンもやっていたという。「ジャズのようなものです。それが縁で、飲食の世界に入ります」。
音楽と飲食。たしかに、つながりはなくはないが。
「定期的に演奏をさせてもらっていたお店があったんですが、オーナーがその店を閉めるというんですね。それは、困ると。そういったら、『じゃぁ、やれば』という話になって」。
じゃぁ、やれば? 念のため、飲食のアルバイト経験はあるのか確認してみた。「全然、無いです。一度も、無いです/笑」。
大学時代から起業家の片鱗があったが、音楽と飲食店の経営は、全然違う。さすがに無謀ではないのだろか?
むろん、これは邪推に終わった。多治見氏は、飲食店の経営を見事にやってのける。そればかりか、「茶割」という新たなカテゴリーも生みだしている。これから、多治見氏がどこへ向かうのだろうか?
・・・続き

2020年6月11日木曜日

同級生から自宅で採れた野菜を送ってくれました。

高校の同級生で野球部で3年間一緒に甲子園目指した福本より、「どやねん、大丈夫か?」と自宅で採れた新鮮な野菜とお米や漬物などを送ってくれました。

コロナの影響で墓参り(3月19日命日の母親、5月11日命日の父親)で実家にも戻れないなか、本当に野菜もそうですが、気持ちが嬉しいです。
他の同級生も心配してくれ、いろいろ送ってくれます。
会社や社会ではキイストンの細見として振る舞っておりますが、田舎の同級生の前では細見昇市になれます。
こうして、田舎があるのは幸せです。
在宅テレワークが、今や当たり前になったので、実家からテレワークで仕事できる日が来るのも近いかも…。
(同級生の福本、この採れたて送ってくれました)

2020年6月10日水曜日

株式会社Non-Stop Dining 代表取締役社長 工藤 徳将氏/岩崎 純平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Non-Stop Dining 代表取締役社長 工藤 徳将氏/岩崎 純平氏登場
本文より~

竜馬に刺激され、工藤氏は、海を渡る。「次は帰ってくるな」は、岩崎氏の親父の一言。

「わしには、天がついちょる。」
「竜馬がゆく」のなかで、司馬遼太郎は坂本竜馬に、そう言わせている。この「竜馬がゆく」を、人生のターニングポイントに挙げる人は少なくない。
今回、ご登場いただいたNon-Stop Diningの共同経営者の1人、工藤氏もその一人だ。
「私は、小学校の頃から県の選抜に選ばれるような、サッカー少年だったんです。勉強もわりとできた方で、高校はサッカーで有名な県立八千代高校に進みます」。
もちろん、めざすはJリーガー。「日本のゴールはオレが守ると思っていたんですが、、高校時代、ライバルにまけてしまって。ええ、初めての挫折ですね。これじゃ、プロにもなれない、とじつは2年くらいで部も辞めてしまいます」。
目標を見失う。
「大学もいろいろあって1浪します。そのとき、『竜馬』という人を知ります。ええ、もちろん、『竜馬がゆく』を読んで、です。竜馬と比べたら、ぐちぐちしているオレってなんて小さい奴なんだって。はい、そうです。このあとアメリカに渡るんですが、それも竜馬の影響ですね」。
工藤氏は、1浪のあと、語学学校に留学し、のちにカリフォルニア大学に進んでいる。カリフォルニア大学といえば、ソフトバンクの創業者、孫正義氏の出身校でもあるそうだ。
その頃、もう1人の共同経営者である岩崎氏は、キャバクラの黒服だった。「私は、石川県の小松市出身です。高校を卒業して、いったん小松製作所に就職するんですが、そのあと東京へ。20歳から黒服を、そうですね、1年3ヵ月くらいしていました。それからは、田舎と東京を行ったり来たり。3回目にとうとう親父から、次は帰ってくるな、と/笑」。
目標がなかったわけではない。何かをやりたいと、漠然と思ってはいた。
「それ、つまりやりたいことが、なかなか形にならなかったんでしょうね。すぐ上の兄は、石川で料亭に就職し、そのあと東京のプリンスホテルに転職したりするんですが、私には、そういう具体的なプランもなかった」。
とはいえ、寝ずに3ヵ月で100万円をためたりしている。ガッツは、むろん、あった。「24~26歳くらいまでは、上野にある和食の店で料理の修行をしました」。
この頃にはもう、「独立」という文字が頭にあった。「工藤とは、グロブリッジという会社で出会うんですが、私がその会社に就職したのは、3年で独立させる、というフレーズに惹かれたからなんです」。

ベンチャーで、2人が出会う。

「大学を卒業したのは24歳です。じつは、大手の食品メーカーや電機メーカーにも受かっていたんですが、それらを袖にして、中堅のメーカーに就職しました」。
工藤氏の話を聞くと、「大手だからいいとは限らない」という発想ができる軸をもった学生だったことがわかる。「就職した会社は、いちおう中堅クラスだったんですが、いきなり副部長からスタートさせていただきました。もちろん研修があって、その後に副部長としてという流れです」。
ただ、1年とちょっとで辞めている。
「そうなんです。約束通り、管理職として仕事もさせていただくんですが、上は上で、ちゃんと詰まっていて、そこから先に行くには、何年もかかると思ったんですね。それで、退職させていただきました」。
「大企業より、中堅だ」と思って入社したが、歴史のある会社で、キャリアアップするのは、やはり、なかなか難しい。ならば、と選択したのが、バリバリのベンチャー企業「グロブリッジ」だった。
「工藤と会ったのは、入社して1~2ヵ月くらいしてからですね。有楽町の立ち上げの時だよね」「そうです。ぼくらは同い年だし、転職した時期もだいたい同じなんです」。
知り合ったときの工藤氏の印象を岩崎氏にたずねると、とにかく、熱量がある奴という答え。横で、工藤氏が「私の、岩崎の印象もまるでいっしょ」と頭を上下する。
2人は、当然、いい友になり、いいライバルにもなる。
「私は、1年くらい経って海外事業部に配属されるんです。オーストラリアのシドニーで2年ちょっとかな」。
「ぼくらは2人ともグロブリッジに合計3年半くらいですから、岩崎は、大半、向こうですね」。
「当時は、いわゆるそういう時代でもあったので、仕事もかなりハード。厳しかったですね。それでも、辞めようとは思わなかった。もちろん、独立はしたいと思っていましたから、店を黒字化したときに、一度、上司にその話をしています」。「売上でいえば、ぼくら2人がたいてい1位か、2位だったよね」「そうだな。昇格も早かった。2人とも早くから店長会議に参加するようになっていて、独立の話をしたのは、会議のあととかだったよね」。
日本と海外と離れていたが、思いはおなじ。「連絡は、もちろん取り合っていました」。やがて、グロブリッジを卒業する日がくる。ベンチャー企業を卒業し、ベンチャー企業をつくる。2人の戦いが始まる。

2つのエンジンを搭載したベンチャー企業。

ホームページを観ると、トップページに「創業から4年間連続で成長率200%の急成長。ワクワクする未来を自分の力で切り開く」という文字が掲載されている。
この取材を行ったのは、2020年。2人が独立してまだ4年目のことだ。早くも4業態、6店舗を出店している。描く目標もバカでかい。「でっかい夢を描いて何が悪い!?」、これもトップページに書かれた一言だ。
「1号店を出店したのは2016年の1月です。ええ、それが、『蔵どり』門前仲町本店です。今年で4年目ですが、業績は、おかげさまで好調です。正社員の募集も開始して、いま13名くらいかな」「そう。まだまだですが、社員を採用するとね。やっぱり、大事にしなくっちゃ、と思います。平均年齢は、30ちょいかな」。
給料は33万2千円。悪くないというより、いい。すごく、いい。
「私は、大学時代、アメリカに渡って、外に出たからか愛国心っていうのが、すごくあるんですね。日本のなかにいたらわからない。岩崎もオーストラリアに2年いましたから、そういうのは、わかってくれると思うんですが」。
「私は、海外といっても、仕事漬けでしたからね。日本とそうかわらない/笑」。
それでも、2人は意気投合している。
「ひょっとしたら、最終の目標が違うからかもしれませんね。私は、日本をよりよくしたいんですよ、もっと盛り上げたい!って感じで。その手段が、私の場合は飲食でして。なので、最終は飲食業をもっと誰もが憧れる仕事にしたいなって。」「岩崎は、ブランドをつくるのが好きなんです。工藤に比べると現実的ですが、10業態10店舗を目標にしています」。
創業10年で年商10億円。これが最低の目標だという。株式の上場も、むろん、視野に入れている。「今年は4億円くらいですね」。今年を入れ、あと7年、難しい数字ではないだろう。
とはいえ、飲食の仕事は、難しい。カベにぶつかることもあるだろう。その時、隣に友がいる。それは、何より心強い事実。いわば、二基のエンジンを搭載しているようなものだ。だから、止まらない。ノンストップで、この会社は駆け上がっていく。
・・・続き

2020年6月9日火曜日

株式会社Non-Stop Dining 代表取締役社長 工藤 徳将氏/岩崎 純平氏登場。

本文より~

竜馬に刺激され、工藤氏は、海を渡る。「次は帰ってくるな」は、岩崎氏の親父の一言。

「わしには、天がついちょる。」
「竜馬がゆく」のなかで、司馬遼太郎は坂本竜馬に、そう言わせている。この「竜馬がゆく」を、人生のターニングポイントに挙げる人は少なくない。
今回、ご登場いただいたNon-Stop Diningの共同経営者の1人、工藤氏もその一人だ。
「私は、小学校の頃から県の選抜に選ばれるような、サッカー少年だったんです。勉強もわりとできた方で、高校はサッカーで有名な県立八千代高校に進みます」。
もちろん、めざすはJリーガー。「日本のゴールはオレが守ると思っていたんですが、、高校時代、ライバルにまけてしまって。ええ、初めての挫折ですね。これじゃ、プロにもなれない、とじつは2年くらいで部も辞めてしまいます」。
目標を見失う。
「大学もいろいろあって1浪します。そのとき、『竜馬』という人を知ります。ええ、もちろん、『竜馬がゆく』を読んで、です。竜馬と比べたら、ぐちぐちしているオレってなんて小さい奴なんだって。はい、そうです。このあとアメリカに渡るんですが、それも竜馬の影響ですね」。
工藤氏は、1浪のあと、語学学校に留学し、のちにカリフォルニア大学に進んでいる。カリフォルニア大学といえば、ソフトバンクの創業者、孫正義氏の出身校でもあるそうだ。
その頃、もう1人の共同経営者である岩崎氏は、キャバクラの黒服だった。「私は、石川県の小松市出身です。高校を卒業して、いったん小松製作所に就職するんですが、そのあと東京へ。20歳から黒服を、そうですね、1年3ヵ月くらいしていました。それからは、田舎と東京を行ったり来たり。3回目にとうとう親父から、次は帰ってくるな、と/笑」。
目標がなかったわけではない。何かをやりたいと、漠然と思ってはいた。
「それ、つまりやりたいことが、なかなか形にならなかったんでしょうね。すぐ上の兄は、石川で料亭に就職し、そのあと東京のプリンスホテルに転職したりするんですが、私には、そういう具体的なプランもなかった」。
とはいえ、寝ずに3ヵ月で100万円をためたりしている。ガッツは、むろん、あった。「24~26歳くらいまでは、上野にある和食の店で料理の修行をしました」。
この頃にはもう、「独立」という文字が頭にあった。「工藤とは、グロブリッジという会社で出会うんですが、私がその会社に就職したのは、3年で独立させる、というフレーズに惹かれたからなんです」。

ベンチャーで、2人が出会う。

「大学を卒業したのは24歳です。じつは、大手の食品メーカーや電機メーカーにも受かっていたんですが、それらを袖にして、中堅のメーカーに就職しました」。
工藤氏の話を聞くと、「大手だからいいとは限らない」という発想ができる軸をもった学生だったことがわかる。「就職した会社は、いちおう中堅クラスだったんですが、いきなり副部長からスタートさせていただきました。もちろん研修があって、その後に副部長としてという流れです」。
ただ、1年とちょっとで辞めている。
「そうなんです。約束通り、管理職として仕事もさせていただくんですが、上は上で、ちゃんと詰まっていて、そこから先に行くには、何年もかかると思ったんですね。それで、退職させていただきました」。
「大企業より、中堅だ」と思って入社したが、歴史のある会社で、キャリアアップするのは、やはり、なかなか難しい。ならば、と選択したのが、バリバリのベンチャー企業「グロブリッジ」だった。
「工藤と会ったのは、入社して1~2ヵ月くらいしてからですね。有楽町の立ち上げの時だよね」「そうです。ぼくらは同い年だし、転職した時期もだいたい同じなんです」。
知り合ったときの工藤氏の印象を岩崎氏にたずねると、とにかく、熱量がある奴という答え。横で、工藤氏が「私の、岩崎の印象もまるでいっしょ」と頭を上下する。
2人は、当然、いい友になり、いいライバルにもなる。
「私は、1年くらい経って海外事業部に配属されるんです。オーストラリアのシドニーで2年ちょっとかな」。
「ぼくらは2人ともグロブリッジに合計3年半くらいですから、岩崎は、大半、向こうですね」。
「当時は、いわゆるそういう時代でもあったので、仕事もかなりハード。厳しかったですね。それでも、辞めようとは思わなかった。もちろん、独立はしたいと思っていましたから、店を黒字化したときに、一度、上司にその話をしています」。「売上でいえば、ぼくら2人がたいてい1位か、2位だったよね」「そうだな。昇格も早かった。2人とも早くから店長会議に参加するようになっていて、独立の話をしたのは、会議のあととかだったよね」。
日本と海外と離れていたが、思いはおなじ。「連絡は、もちろん取り合っていました」。やがて、グロブリッジを卒業する日がくる。ベンチャー企業を卒業し、ベンチャー企業をつくる。2人の戦いが始まる。

2つのエンジンを搭載したベンチャー企業。

ホームページを観ると、トップページに「創業から4年間連続で成長率200%の急成長。ワクワクする未来を自分の力で切り開く」という文字が掲載されている。
この取材を行ったのは、2020年。2人が独立してまだ4年目のことだ。早くも4業態、6店舗を出店している。描く目標もバカでかい。「でっかい夢を描いて何が悪い!?」、これもトップページに書かれた一言だ。
「1号店を出店したのは2016年の1月です。ええ、それが、『蔵どり』門前仲町本店です。今年で4年目ですが、業績は、おかげさまで好調です。正社員の募集も開始して、いま13名くらいかな」「そう。まだまだですが、社員を採用するとね。やっぱり、大事にしなくっちゃ、と思います。平均年齢は、30ちょいかな」。
給料は33万2千円。悪くないというより、いい。すごく、いい。
「私は、大学時代、アメリカに渡って、外に出たからか愛国心っていうのが、すごくあるんですね。日本のなかにいたらわからない。岩崎もオーストラリアに2年いましたから、そういうのは、わかってくれると思うんですが」。
「私は、海外といっても、仕事漬けでしたからね。日本とそうかわらない/笑」。
それでも、2人は意気投合している。
「ひょっとしたら、最終の目標が違うからかもしれませんね。私は、日本をよりよくしたいんですよ、もっと盛り上げたい!って感じで。その手段が、私の場合は飲食でして。なので、最終は飲食業をもっと誰もが憧れる仕事にしたいなって。」「岩崎は、ブランドをつくるのが好きなんです。工藤に比べると現実的ですが、10業態10店舗を目標にしています」。
創業10年で年商10億円。これが最低の目標だという。株式の上場も、むろん、視野に入れている。「今年は4億円くらいですね」。今年を入れ、あと7年、難しい数字ではないだろう。
とはいえ、飲食の仕事は、難しい。カベにぶつかることもあるだろう。その時、隣に友がいる。それは、何より心強い事実。いわば、二基のエンジンを搭載しているようなものだ。だから、止まらない。ノンストップで、この会社は駆け上がっていく。
・・・続き

2020年6月7日日曜日

無事、休校中の港区立の各校へのお弁当デリバリー終了しました。

何か飲食企業様や会社のある港区にお役に立てば…と港区議会議員の七戸じゅん先生にご相談からスタートした休校中の港区立の幼稚園・小学校・中学校40校の先生方へのお弁当デリバリーは3週間でしたが、大変多くの学校の先生方から喜んで頂きました。
この期間、長岡商事様とコジマ笑店様の各社長が自ら学校への配達して頂きました。
ご苦労さまでした!!

2020年6月5日金曜日

協賛頂き、フェイスシールドをお贈りしてます。

以前のように安心して外食ができるように、飛沫防止対策としてフェイスシールドを飲食店へ無償で提供するプロジェクトをスタートしました。
今週からフェイスシールドをお贈りしてます。

2020年6月2日火曜日

株式会社ZENIBA 代表取締役 茂木良仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ZENIBA 代表取締役 茂木良仁氏登場
本文より~

16歳、居酒屋でバイトスタート。

野球をやりたくて工業高校に進んだ。横浜で名門と言えば「横浜高校」だが、「私立には行くお金もなかったから」と、茂木氏。しかし、進んだ高校では、疲労骨折など、怪我も重なり、夏過ぎには退部している。
「試合でバントのサインが出たんですが、スルーしちゃって/笑。ま、怪我も重なったんですが、だんだん野球への情熱が薄れてしまったのも事実ですね」。
もともと茂木家は、名家だったそう。「祖父の代の話ですが、恵比寿の名家で、土地もかなりあったと聞いています。戦争のバタバタで取られてしまったと言っていました。また、母方の祖父は近衛兵で、天皇に仕えていたそうで、こちらも名家だったということです。うちの『ZENIBA』は、この母方の苗字をいただいています」。
ZENIBA? 「銭場」と書くんだろうか? 調べてみると、案外、同じ苗字の方がいらっしゃることがわかった。「祖父の代までは名家でしたが、うちは裕福じゃなかったですね。兄弟は2人。私は弟です」。
退部したあと、すぐにアルバイトをされたそうですね?
「そうなんです。はやくお金を儲けたいと思っていましたから。いま思えば、これも野球を辞めた理由かもしれません。それではじめたのが飲食店のバイト。16歳でスタートしました」。
むろん、大学進学は早々に射程から外れる。
「当時は今ほど、大学進学ってことじゃなかったと思いますね。私は、図面を描く会社に就職し、1年間働きます。1年間働いてみて、やっぱり違うなと思って、高校時代にバイトしていた飲食店で、今度は正社員で採用してもらいました」。
これが、茂木氏の本格的な、飲食の世界への一歩となる。

月商10ヵ月で3倍。しかし、あの店には敵わず。


「そちらのお店では、ほんとうに色んなことを教えていただきました。飲食の楽しみを知ったのも、むろん、こちらのお店です。色々な事を経験させて頂きました。1店舗目から8店舗まで、休みも無く出店に携わらせてもらいました」。
「私もまだ若造でしたしね。ただ、月商400万円の店を10か月で1200万円にするなど、結果を残してきたのも事実です」。
10ヵ月で3倍、それはすごい。
「まだまだ会社を大きくしたかったんですが、出店スピードが止まって、退社することにしました。
それが31歳の時ですね。私としては、『やり切った』という思いもあったんです。時間、情熱をぜんぶ、仕事に注いでいましたからね」。
「ただ、それだけ頑張っても月商は1000万円~3000万。当時、遥かにそれを上回るモンスター店があったんです/笑。そう、グローバルダイニングの『恵比寿ZEST』です。日商だけで、小さな店の月商ですからね。どうなっているんだ?って、それが知りたくて」。
それで、グローバルダイニングですか?
「そうです。とはいえ、こちらは1年で、つぎにタスコシステムに転職します。タスコシステムは北海道発の飲食店で、私が担当したのは『暖中』です」。
両社での仕事はどうだったんだろう?
「グローバルダイニングは、オペレーション一つから全然違う。いい意味で衝撃でしたね。当時は、同じ恵比寿にあるカプセルホテルが、私の住まいでした/笑。タスコシステムには、フランチャイズの仕組みを知りたくて転職したんですが、こちらのサービスはハンパなかったですね。さすがに両社とも学ぶことばかりでした」。
学び尽くして、独立ですか?
「結果として、そうですね。そのあと、一度、元々の店で仕事をします。『よし臓』を立ち上げたのは、この時です。そして、そのあとに完全に独立し、大井町で『よし臓』2号店を始めます。この『よし臓』のフランチャイズビジネスを推進するためにつくったのが、株式会社ZENIBAです」。
ホームページによれば、設立は2007年とある。むろん、設立時から、ビジネスは順調に立ち上がる。
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