2023年10月30日月曜日

「2025年問題」まとめました。

 2025年問題は

5人に1人が75歳の後期高齢者(団塊の世代)になります。
2025年問題とは、超高齢化社会を迎えるにあたり、社会保障費の急増などが見込まれる社会問題です。 2022年から団塊世代が75歳に到達し始め、2025年には75歳以上の後期高齢者は人口全体の5人に1人と予想されています。 
そして、高齢者の増加により、年金・医療・介護のニーズが高まります。
顧客も高齢になるとお店に来られなくなり、飲食業界にも影響出てきますね。


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2023年10月29日日曜日

東スポ(餃子&からあげ)×REED(UOYAしげぞう&九州酒場ウオカツ)×府中競馬場。

東スポの東スポ餃子&東スポからあげ×UOYAしげぞう&九州酒場ウオカツ(REED)が11月のジャパンカップまで毎週末実施!!



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2023年10月26日木曜日

口ではやるって言ってやらないやつとは仕事したくない。

31年間キイストンやってるなかで、いろんな人材が入社してくれました。

まあ、やんちゃな人材もいれば、無口な人材、繊細な人材などなど個性的な人材もたくさんいました。

今でもキイストン卒業後も、当時一生懸命やってくれては人材は連絡くれたり、顔出してくれます。

まあ総じて直な人材か゜本当に多かったですね。

ただ、口ではやりますって言って、行動もしない、やらないやつとは仕事したくない。

その点、センスもなく、不器用でも一生懸命やる人材は人を動かすことできるので大好きです。


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2023年10月25日水曜日

自分の職歴。

顧問のお手伝いさせていただく前に自分の履歴書を最初お見せする時、あまりの職歴のシンプルさにビックリします。

なんと大学卒業後、リクルートに7年在籍し、その後キイストン設立し32年目で、現在に至ってます。

つまりリクルート退職後、転職歴ゼロで還暦過がました。

自分でも信じられないですが、継続する力はスゴくあるようです(笑)


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2023年10月24日火曜日

株式会社いろり千葉 代表取締役 篠 浩平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社いろり千葉 代表取締役 篠 浩平氏登場。


本文より~

大学時代までの篠氏の話。

チームも、本人も戸惑ったにちがいない。「母方の祖父が日立グループの社長をしていたこともあって、柏レイソルのユースに入団します。つまり、コネです笑」。
「ただ、入団してからが、たいへんです。周りはとんでもなくうまい連中です。そのなかに素人がポツンと放り込まれたわけですから」と笑う。ポジションはゴールキーパー。ゴールを脅かす相手選手はまずいなかった。
「小学4年からはじめ、小学5年で野球に転向します。さすがに、ね。ただ、野球はプロを目指し、高校までつづけました。体力をつけようと駅伝にもチャレンジしています」。
これは、今回、ご登場いただいた株式会社いろり千葉の代表取締役、篠 浩平氏の少年時代の話。「父が飲食店を経営していましたから、子ども時代から、飲食には慣れ親しんでいます」。
父親が独立したのは篠氏が中学生の頃。ともだちが来ると黙って料理をふる舞ってくれた。「父は、矢沢が大好きな人で、外見は怖そうなんですが、私にはむちゃくちゃ甘かったですね」。
「店を手伝いはじめたのは、高校くらいからです。その頃から、頭の隅っこに、将来、飲食っていうのがあったような気がします」。
「大学は二松学舎に進みます。私が住む、柏にキャンパスがあったので。もっともアルバイトをはじめてからは、キャンパスは距離以上に遠くなります笑」。
「アルバイトですか? 最初のアルバイトはスポーツクラブのインストラクターです。インストラクターって年配の人とも接するじゃないですか。その仕事のおかげで接客が好きになります。飲食はそのあとはじめた『土間土間』さんが最初で、2年くらいキッチンではたらきます」。
どこにでも、いる大学生。ただし、飲食へ、心は傾いていく。

インターン生、卒業を逃す。

大学時代は、アルバイトで明け暮れた。
「就活する時って改めて『何がしたいのか』ってなるじゃないですか。私の場合は、やっぱり飲食だなって。案外、早く進路が決まります。就職することになるクリエイトレストランツをはじめ、数社から内定をいただきました。飲食というのは決めていましたが、『これをやりたい』というのがなかったので、様々なブランドがあるクリエイトレストランツさんがいいなと思ったんです」。
「実は、クリエイトレストランツでは、長期インターンの時に八重洲に新店がオープンすることになって、手を挙げました」。
沖縄料理店とスペイン料理店が同時オープン。篠氏は沖縄料理店に配属される。その店には「人生で、いちばん叱ってもらった」という料理長と店長がいた。
「2人には、一生頭が上がらない」という。
「とにかく、憧れの存在でした。だから、叱られても落ち込むんじゃなく、ありがとうございますって感じです。チームマネジメントがすごくって、仕事をしている姿がやたら格好いいんです」。
人にも、仕事にも惹かれ、すっかりのめり込んだ。インターン生であることも頭から抜け落ちる。「そのおかげで、留年です笑」。
内定は出ていたが、いったん取り消し。「人事に1年待ってもらった」と笑う。「けっきょく、2年間くらいですね。普通、そんなに長いインターンなんてないですよね笑」。
2年目には時給も上がり、新入社員よりサラリーは高かった。本格的な料理も、その店で経験する。入社は1年遅れたが、準備万端。颯爽と、入社式に参加する。

飲食人のかたち。転職と、その思い。

「クリエイトレストランツに在籍したのは、合計、4年半です。本当は新卒1年目で回転寿司業態に配属予定だったが一度白紙になった為、表参道のフードコートからスタートして、2店目がカフェ併設のベーカリーです。単純作業も少なくありませんでしたが、たのしかったですね。ただ、インターンの時の影響かもしれませんが、居酒屋がしっくり来ていたので、当時の店長や料理長に相談して、居酒屋のブランドに異動させてもらいます。こちらが2年くらいです」。
店長が新店に異動することになり、一時的ではあるが、店長も経験している。
「私の尺度で言えば、店長っていうのは、いちばんお客さんを持っている人なんですね。だから、レシートの裏にお客様の情報を書き込んで、それを管理して、私のお客様づくりをはじめます」
同時に、日本酒にものめり込む。
挑戦と、経験が篠氏を飲食人にしていく。
「今時はヘンに聞こえるかもしれませんが、当時の思いは『もっと仕事がしたい』でした。クリエイトレストランツはむちゃくちゃいい会社なんです。ただ、私には『もっと、もっと』という気持ちがあって。元同期に、誘われゴールデンマジックに転職することになります」。 当時のゴールデンマジックは100店舗というゴールを掲げ、階段を駆け上がっていた真っ最中。まさに、もっと、もっと仕事ができる、そんなステージだった。
「30店舗くらいの時ですが、熱気は、ムンムンしていましたね。私が最初に配属されたのは、新宿三丁目の熱中屋です。こちらは、うまく行っていない店だったんでしょうね。それとも、期待されていたのか」。
「好きにやっていい」と言われたそうだ。席数60席、月商480万円。好きにするからには、480万円オーバーは、至上命題。
「配属の翌日に、壁紙を剥ぎ取って、黒く塗りはじめます。スタッフにすれば、なんだ? どうした?って感じですね。でも、そのインパクトが欲しかったんです。黒くすることで、店のイメージもかわります。私自身がセールしたい日本酒を用意して、POPもつくりました。私がやろうとすることが伝わると、スタッフの表情もかわります」。
たった1ヵ月で、480万円だった月商は680万円に駆け登る。
「全社で1位を取りました」。
「すごいのが来た」という噂が駆け巡り、篠氏の耳にも届く。

決意と、独立。

30歳までは独立する計画だったという。ゴールデンマジックに転職したのも、独立を視野に入れてのことだった。「熱中屋は居抜き中心でしたから勉強になるなと思ったんです。仕事量が多い分、給料が高かったですしね」。
独立を志す一方で、ゴールデンマジックが目標としていた100店舗を達成したいという思いもつよかった。だから、独立制度を使おうとも思っていた。
100分の1だが、存在価値は、けっして小さくない「1」である。
「ただ、なかなか独立制度が軌道に乗らず、2017年の年明け。元同僚らと、独立するかという話になって」。
2018年までの1年間を使って、準備を進めようと決意する。
「同僚と元同僚と私の3人でスタートします。私が社長になったのは、私の母親が出資者だったからで、私自身もそうですし、彼ら2人も、特別、経営をしたいと思っているわけではないので、うまくいっています笑」。
三者三様の飲食人、3人でスタートする。
店は彼らの舞台になる。客が沸騰する。別の元同僚たちも、次々、入店を希望する。
「店舗数がまだ少ないということもありますが、人に困ったことはないです。ただ、うちはスタートしたばかりですから、クリエイトレストランツさんのような体制を整えられません。休みも多くはありませんし、労働時間も短いとは言えない。だから、今、参加してくれているのは、私がゴールデンマジックに転職したのと、同じ理由で参加を希望する人たちです」。
サラリーマンではなく、飲食人。彼らの志に対し、高い「報酬」と、大きな「権限」を付与することが、篠氏の回答。ミーティングも月に1回程度だというから驚かされる。
「最近になって、月1回、全店休業して、みんなでバーベキューをしたりするようになっています。参加はもちろん自由ですが笑」。

・・・・続き

株式会社いろり千葉 代表取締役 篠 浩平氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

【第五話】飲食の戦士たち・再現動画 せい家 山内勝彦社長アップしました。

飲食の戦士たち 再現動画 〜社長たちの原点が、ここにある〜

【第五話】株式会社せい家 代表取締役社長 山内勝彦編アップしました。

【今回のドラマの概要】 旨いものを食べ歩く事を趣味とするグルメなサラリーマン「廣井」が、町田にふと立ち寄り、「家系ラーメン」のチェーン「せい家」の創業者が繁盛ラーメンチェーン「なんつッ亭」を買収した新店舗のオープン前に遭遇。 「せい家」の創業者、山内勝彦氏のラーメン事業家としての歩みは起業家精神とパワーにあふれていた。この度の「なんつッ亭」の買収はラーメン業界の新しい幕開けを喚起させる。 今回の成功のキーワードとは・・・。

【第五話】株式会社せい家 代表取締役社長 山内勝彦編 

 

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2023年10月23日月曜日

10月22日で丸31年、32年目スタート!

会社創業 32年目突入!ってほんと早いです。

若い時は長く感じた1日、1ヶ月、1年も今ではあっという間。

つまり、一生懸命人生を生き抜かないとあっという間に終わるな。

おかげさまで、コツコツやってきたのが今になって少しずつ開花し始めてきました。

そろそろ開花してほしいものです…(笑)


また、監督で4番・ピッチャーから監督で4番だけになった感じですから、早く監督に専念したい。


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2023年10月18日水曜日

2024年問題がもう直ぐ近づいています。

2024年問題は
飲食業界にも大きな影響出ます。


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2023年10月17日火曜日

『凍眠生酒』×『下鴨茶寮のまえ』最高級のペアリング 新時代の和食文化。

応援させてもらったいるテクニカン様の【凍眠生酒】。
下鴨茶寮様も急速凍結機・凍眠導入されていますが、今回は『下鴨茶寮のまえ』にて搾りたて生酒の『凍眠生酒』との最高級のペアリング実施。
うちの武田あかねも今までたくさんインタビューされました。


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株式会社壱番屋 代表取締役社長 葛原 守氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社壱番屋 代表取締役社長 葛原 守氏登場。 

本文より~

少年がねだったのはオーブンレンジ。

今回、ご登場いただいたのはカレー専門チェーン「カレーハウスCoCo壱番屋」を運営する株式会社壱番屋の代表取締役社長、葛原守氏。葛原氏が生まれたのは、1967年。東広島市のごく普通の家庭で育った。
「小さい頃から料理が好きで、幼稚園児の頃にはもうサンドウィッチを作っていた」と笑う。
料理はかなり本格的で、小学生になるとTVを観て小麦粉から「手打ちうどん」を作っている。中学に入学する頃には、オーブンレンジをねだったというから、筋金入り。
「オーブンレンジを買ってもらってからは、シュークリームもお手製」と言っている。
料理に興味があったからだろうか。高校1年から大手ハンバーガーチェーンでアルバイトをしている。
「ただしくは、私が、というより、友達がついてきてくれ、と。それで同行したら、君も名前を書きなさい、って言われて」。
友達はすぐに辞めてしまったが、葛原氏は辞めなかった。最初はポテトを揚げる担当だったが、1年後には、何でもできるスーパーアルバイターになっていた。
「大学生のバイトにも指導していました」と笑う。
飲食が向いている、と思ったのもこのとき。
「料理も好きだし、バイトで評価されたこともあって、料理の世界に進もうと調理師専門学校に進みます。手に職をと言っていた両親も大喜びです」。
「当時から、開業にも関心があったようで、私はすっかり忘れていたんですが、友達に言わせると、高校の時から『喫茶店の開業の仕方』などの本を読んでいたということです」。
料理人と独立開業。この2つが少年時代の、葛原氏のビジョンだった。

カウンターの向こう側に広がる羨望の世界。

「ただ、最初はフリーター生活を謳歌する予定だったんです」と葛原氏。専門学校を卒業する時の話。
「とりあえず一社は受けてみたんですが、受からず、これはダメだな、と。でも、父親の知人の紹介でホテルに就職できてしまったんです(笑)」。
希望していたフリーター生活が一転して、ホテルでの料理人生活がスタートする。 
バブル期のど真ん中ですね?
「当時はバブル経済の真っ只中だから、とにかく忙しかったですね。朝4時からスタートして、深夜まで仕事がつづくことも少なくありませんでした。朝食の準備から夜の宴会まで休む暇もありません。ようやく仕事が終わったとひと息つくと、先輩が『じゃぁ、飲みに行くぞ』って」。
「転職しようと思い始めたのは、ホテルの最上階にあったレストランで鉄板焼を担当したのがきっかけです。レストランの花形でもあるんですが、カウンターの向こう側には、私らと次元が違う人たちがいらっしゃるんです」。
「うらやましいじゃないですか? もちろん、そうなりたいと思うんですが、今のままだと向こう側に座るのは難しいんじゃないかと思ったんです」。
独立開業を目指して、まずは給与面で満足できる企業に入り資金を稼ごうと求人誌を読む。その中で高給だったのが、運送会社とココイチ。選択肢が2つに絞られる。
「運転には自信がなかった。その一方で、飲食は私のフィールドですからね。心の針がココイチに傾きます」。
確かに当時、「ココイチ」は積極的な採用を展開していたように記憶している。
「厳しい労働環境だったホテル出身の私からすれば天国でしたが、一般企業の出身者には、異次元の世界だったのかもしれませんね。辞めていく人の方が多かったです」。
そのなかで、葛原氏は異例の飛び級を続ける。
「いろんな意味で水があったんだと思います。私は商品の価格と、オーダーを厨房に伝えるときの略語を1日で全部マスターして、2日目からオーダーを取っていました。驚く方もいましたが、やろうと思えば誰でもできると思います。ココイチには、スキルに合わせた等級があって、当時は11等級がスタートラインです。通常、1か月後に10等級となり本格的にキャリアがスタートするのですが、私の場合は10、9を飛ばして翌月には8等級でした。いわゆる飛び級ですね」。
彗星の如く現れた大型新人だ。

夢を追いかけて中国へ。

「現在、全国にあるココイチの約90%がFCオーナーのお店です。私と同様、店舗で仕事を経験した人が、独立していくわけです。ある時、所属していた店舗の責任者に『この店でオーナーになったら、月にいくら儲かると思う?』と聞かれました。当時はそれがびっくりするような金額で、その時にココイチで独立してオーナーになろうと思ったのです」。
「ただし、簡単にオーナーにはなれません。順調だった私にも試練がやってきます。手先は器用で段取りもうまい。だから、昇格も早かったんですが、店舗の責任者になってブレーキがかかります」。
「天狗になっていた」と葛原氏はいう。
「閉店間際、混雑したタイミングでパートさんが急に辞めるといいにきて。ご飯も急いで炊いている中で、10分以内にお客様に提供しなければいけないのに17分もかかってしまいました。その現場をたまたま裏から入ってきていた部長に目撃されてしまうんです」。
これが原因で、降格。1回目である。
「すぐに昇格するんですが、今度はなかなか独立の道が見えません。最短2年で独立できると聞いていたので、絶対に最短で独立しようと思っていたんですけどね。それで辞めようと決意したのですが、部長に説得されて続けることにしたところ、辞めると言って周りに迷惑をかけたからと、再び降格。2回目です。結局2年では独立できませんでした」。
昇格しては、降格する。独立へ続く道が、太陽の下に現れては、消える。
「結局、3年くらい経って本部に残らないかと誘われ、6年ほどスーパーバイザーをやったあと、2002年に課長に昇進します。そして私が36歳だった2003年に、中国進出の話が社長よりオープンにされました。当時の浜島社長(現会長)の店舗巡回で岡山まで同行した際、手を挙げました」。
海外志向があったわけではないが「異国に行くのに、不安はまったくなかった」と言っている。
ちなみに、その時の社長命令は「3年で黒字にしろ」だった。
「3年で黒字にすれば、帰りの飛行機はビジネスクラスでもいいですか?」
「もちろんだ」
社長と約束を交わす。

肩書は「副社長」

「ハウス食品さんが一足早く中国にカレーレストランを出店していました。偶然、新幹線で、浜島社長と当時のハウス食品さんの社長がばったり会って、一緒に事業を進めていくという話になったそうです。その話に乗っかって私は中国に渡ります。総経理という日本でいう社長はハウス食品さんから来られ、私は副社長」。
中国に進出した飲食企業は少なくない。だが、成功例は少ない。
「カレーライスは当時、一部の居酒屋のメニューにはあっても、一般大衆向けの専門店はありませんでした。現地の日本人には喜んでいただけましたが、現地の方からは『あれはなんだ?』と(笑)」。
カレーライスの認知度自体、低かったようである。ただし、組織はうまく立ち上がった。
「中国人に対して、人前で叱るのはNGと言われていました。でも、私はそうは思いません。国籍は違っても人間は一緒です。みんなの前で叱られることを嫌がるのは、日本人だって同じです。大事なのは普段から信頼関係を築けているかどうかです」。
「役割もレジ係であればレジのみ、掃除係であれば掃除のみのように、一つだけを与えるようにとアドバイスされていました。これもそんなことはありません。トイレ掃除も私が率先してやりました。そうしていると『副社長、私がやります』という人が出てきました。でも、これは大事な仕事だから私がやるというと、『じゃあ、ローテーションで』という話になって。片言の中国語でしたが、とにかく会話しました」。
ランチタイムは、従業員との大事なコミュニケーションタイム。従業員と同じテーブルでカレー以外の弁当も用意して、一緒に語り、そして食べた。誕生日もすべて記憶して、サプライズでちょっとしたプレゼントもしたそうだ。
とはいえ、赤字は続く。
「1号店が赤字のまま、2号店を出店することになります。女性のお客様に興味を持っていただけるように、内装を思い切ってデートでも使えるようなカフェ風にしました。これでだめなら、日本には帰れないという強い覚悟でした」。
食に関して男性は保守的な傾向にあるというのが、葛原氏の持論。だから新しいものに敏感な女性をターゲットにして、内装だけではなく、メニューまで一新。
「内装は日本人のデザイナーに頼みました。感度の高い女性が惹かれるカフェ風のカレー専門店です。メニューも、ふわとろの卵をライスに載せて華やかな見た目にしたり、チキンクリームソースを掛けたりと工夫を凝らしました。これが大ヒットします。オープンから月1万人が来店。上海のテレビ局から取材があって、放映されるとさらに人の山です(笑)」。
中国に進出してから1年が経つ頃、台湾にも進出。
「中国で作ったパッケージで出店した結果、台湾でもいいスタートが切れました」。
3年で黒字にするという任務を遂行した。
「でね。ビジネスクラスの話を社長に話したら、『いいぞ、貯まったマイルで帰って来い』って(笑)」。

・・・続き

株式会社壱番屋 代表取締役社長 葛原 守氏

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2023年10月16日月曜日

なになに【暗殺者のパスタ】?

 天現寺のカフェでこんなネーミングのパスタ見つけました。

ネーミング次第で、SNSで話題になったり売上アップにつながります。

この世の中、アイデアや工夫、マーティング強ければ、十分大逆転出来ます。

アンテナ立てて、日々頭使わないとな。


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2023年10月11日水曜日

「下鴨茶寮」×「凍眠生酒」。

10月8日(日)、「下鴨茶寮のまえ」にて、テクニカンが独自の冷凍技術「凍眠」で凍結させた生原酒を楽しむ会に伺わせて頂きました。。

その凍眠生酒、もう直ぐ爆売れしますよ。
今のうちに多くの飲食店様つなげたいです。


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2023年10月10日火曜日

株式会社龍ノ巣ホールディングス 代表取締役 畑 博貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社龍ノ巣ホールディングス 代表取締役 畑 博貴氏登場。 

本文より~

バイクに乗ること、ジーパンを履くこと、ビートルズを聴くこと。

骨折回数47回。
「何か特別なちからがはたらいているんですよね。怪我をするたびに人生が軌道修正されるんです」。
アメリカに渡ろうとした時もそうだった。
「アルバイトでお金を貯めて、いざ、行くぞって時にモトクロスで事故を起こしてしまいます。大きな事故で貯めていたお金が入院代でなくなります。でも、そのおかげで飲食の道が開けます」。
愉快で、楽しい話ばかりではなかったにも関わらず、話はマイナス方向に進まない。ちなみに、モトクロスの話の続きではないが、中学時代から車に乗っている。
「でもね、ヤンキーとかそういうんじゃなくてね。純粋に車が好きだったんです」。
今回、ご登場いただいた龍ノ巣ホールディングス、代表取締役、畑氏は1971年生まれ。父親は大阪の鶴見区で祖父から受け継いだ工場を経営していた。
「照明器具をつくっていました。私も小さい頃から姉といっしょに手伝いをしていました」。
シャンデリアの筒にコードを通すような仕事。
「父はギャンブルが好きな人でしたが、仕事は真面目で、そこは尊敬していました」。
ものをつくる父親の背中は、畑氏に何を語っていたのだろう。
「父もそうですが、やはり母の言葉が今の私をつくっているような気がします」。
ギャンブル好きな父親が、仏壇に宝くじを供えたことがある。
「母は常々、『人の役に立つ仕事をしなさい』と言っていました。『お給料は役に立ったかどうかのバロメーターなんだ』とも。この時も、そういう話をして『宝くじが当たってお金持ちになっても、ろくなことにはならない』と、そう言いながらビリビリにしていくんです」。
母の覚悟は、子どもに届く。
「厳格な一面がある一方で、母はバイクに乗ること、ジーパンを履くこと、ビートルズを聴くことという3ヵ条を私に言い渡します」。
そして、畑少年は母親が思い描く青年になっていく。

オリンピックとアメリカ横断と飲食と。

「背泳ぎの選手でした。子どもの頃から続け、中学時代には全国で4位になっています。高校でも1年からインターハイに出場していました。オリンピックにも手が届く位置にいましたが、体育祭で怪我をしてしまいます。リハビリを重ね、その後も大会に出場しましたが、思ったようなタイムがでませんでした」。
柔道も、剣道も習ったが、続けたのは水泳のみ。
「オリンピックは当然諦めないといけません。高校を出て1年間は建築関係の日雇いのアルバイトに明け暮れます。好きだった車に関わる仕事をしようとアルバイトでお金を貯め、2年制の整備士専門学校に進みました」。
国産カーディーラーに就職する。
「国家資格もなかなかいい成績で取得できましたし、薄給でしたが仕事も順調で、この頃は人生を謳歌していました。ただ、今度は椎間板ヘルニアで仕事を続けられなくなります。就職して2年後のことです」。
何をやればいいかわからなくなった畑氏はアメリカ行きを決断する。バイクでアメリカ横断することが畑氏の思い描いた絵だったが、「今思えば、現実逃避です」と、この時の心境を自叙伝『かすうどん男』で語っている。
ただ、冒頭で書いた通り、事故で行けなくなる。
「今回も、怪我で急ブレーキがかかったわけです」。
飲食との出会いも『かすうどん男』で詳細に描かれている。友達に頼まれ、深く考えることなく飲食の仕事を引き受けることになる。「焼きそばを焼いていればいい」という話だったが、初めてのオーダーはとんぺい焼き。むろん、経験ゼロ。足がガタガタ音を立てていたそうだ。
「自信が全然なかったので、アカンかったら、練習したお好み焼きだして勘弁してもらうつもりだったんですが」。
2人組の客は、鉄板の向こうで「旨い」と唸ったらしい。
「たぶんお世辞。それでも、嬉しかったですね」。
安堵しただけではない。「旨かったな」という2人をみて、心臓が鼓動し、自然と頭が下がる。
「ありがとうございます…!」
畑氏の声が響く。
「こちらは、アメリカに行くまでの臨時店員の時の話。短い時間でしたが、お客様とのふれあいも含め、飲食に惹かれます。結局、オートバイの事故でアメリカ横断は断念しますが、これも『飲食に進め』というお告げだと。そう思うと、断念することの辛さより、わくわく感が大きくなるから人間って不思議ですね」。
「かすうどん男」では、この時の心境を「病院のベットで料理本を読み漁っていた」とうまく表現している。

焼肉ホルモン龍ノ巣オープン。

「飲食に進むと決意してからは、和・洋・中、いろんなところで修業をさせていただきます。あるラーメン店では『人を動かすこと』を知ります。その時読んだカーネギーの『人を動かす』や『道は開ける』は今でも私のバイブルです。また、エンターテイメント性のある居酒屋では、接客と経営を勉強させてもらいました。今、私たちが実践している接客の基礎となっています」。
畑氏が独立するのは1998年だから、27歳のこと。
「カーディラーを辞めたことも、アメリカ行きを断念したことも、どちらも構想外ですが、それがあったおかげで人生の深みを知ることができたように思います」。
さて、27歳。畑氏は「串かつ店」をオープンする。
ブレイクするきっかけとなった「かすうどん」の店は、2001年にオープンしている。
「かすうどん」とは、油かすをトッピングしたうどんの名称。「かすうどん男」で、かすうどんを初めて食べた時のことを「なんやこれ……!めちゃくちゃうまい……!」と雷に打たれたようだったと語っている。
かすうどんは、大阪名物の一つ。油かすは牛の腸をカリカリに炒め、食用の油を抽出した、文字通り残り油の「かす」であるが、これが旨い。コラーゲンも含まれているから実は女性にも大人気。
予想もしていなかった一杯のうどんとの出会いで、人生が変わる。
この「かすうどん」の店は、いい業者との出会いにも繋がった。その業者が鮮度のいいホルモンを卸してくれることになり、いよいよ「焼肉ホルモン龍ノ巣」がオープンすることになる。これが、2005年のことである

・・・続き

株式会社龍ノ巣ホールディングス 代表取締役 畑 博貴氏

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2023年10月3日火曜日

株式会社Mostfun 代表取締役 大崎拓実氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Mostfun 代表取締役 大崎拓実氏登場。 

本文より~

人気者になりたくて。

「小学2年生からかな」と、大崎氏。大崎氏とは、今回ご登場いただいた株式会社Mostfunの代表取締役。生まれは、1991年。このインタビュー時で31歳になる。
「小学2年生から周りを意識し、人気者になりたいと思った」そう。
「案外マジメな話で、学校でいちばんの人気者がスイカが食べられないって話を聞いて。そうか、と。彼を真似ているうちに、私もスイカが食べられなくなりました(笑)」。
小学校では野球をやっていたが、丸坊主がイヤで中学からバスケットボールに転向。スタメンに名を連ねる。
「中学になると人気者への憧れが加速します。今までは、人気者を真似ていただけだったんですが、それじゃいけない。頭になんないと、って」。
背丈は140センチ。
「ちっちゃかったですね。だから、体力ではトップになれないんで、頭で勝負するわけです。作戦を立てて。クラスでいちばんになりたいと思い始めます。あの頃、人気者っていうのはトップに君臨するもんだと勘違いしていたんです」。
中学生の頃から戦略家だった。コンサルタントの片鱗もうかがえる。ただ、詰めは甘い。
バスケ部を辞めると、風景は一変した。今までとは逆に大崎氏に対するいじめが始まったからだ。
いじめは、中学を卒業するまで続いたという。
「プライドもあって平然としていましたし、謝りもしなかった。でも、恥ずかしながら、あのおかげで、気づくことができたんです。人気者っていうのは、恐怖政治じゃ出来ないんだって。みんなを幸せにしてはじめてなれるんだって」。
高校は、東京の私学に進む。
「友達と離れたかったから、東京の私学に通い、180度違うキャラを演じます。まったく目立ちません(笑)。でも、今になって思うんですが、人間って当たり障りがないようにやっていると距離が縮まないんですね。今、1番付き合いがあるのは不思議なことに成人式前くらいに和解した中学の時の友達なんです」。
思春期は、一つの教訓を残す。

キャッチセールス。通称、キャッチ。

「大学は東京福祉大学に進みます。何か目的があったわけではなく、ただ、楽に進学できそうだったんで。大学時代はキャッチに明け暮れます」。
キャッチをはじめたのは19歳。19歳の学生が手にした月収は50万円。
「金を稼ぐって簡単じゃんみたいな。小学生のスイカの話じゃないですが、違う意味で勘違いヤローになっちゃいます。稼いだお金は、全部、使っちゃいます。大学生で月50万円あれば、結構、色々できますからね」
「それを2年間くらいやっていた時です。Tune upの社長、岩城さんに声をかけてもらったのは、そんな時です。それから岩城さんと起業します」。
キャッチセールスの会社というよりセールスプロモーションの会社といったほうがいいような立派なスケール。21歳の大崎氏は、100人のキャッチをマネジメントしていたというから驚く。
「都内だけではなく、広島や静岡と、1都5県に繰り出して行きました。その一方で、自社で飲食店もオープンします」。
どうでしたか?
「キャッチには飽きていましたが、この仕事にはのめり込みましたね。うちの会社はスケールもそうですが、スタッフの教育もちゃんとやっていて、言葉遣いや身だしなみからスタートします。研修を行なったり、マニュアルも作成してました」。
大学は?
「あ、そうですね。大学は、4年生になったばかりの春に中退しています(笑)。岩城さんは当初、大学生も続けられるって言っていたんですが、まったく無理(笑)。仕事だけでも、体がいくつあっても…って状態でしたから」。
Tuneupはその後、どうなるんですか?
「キャッチを2年やって、飲食を7店舗まで育てます。ちょうど27歳の時。私自身の給料はかなり貰っていたんですが、部下満足度があまり高くないなと感じていました。どうにかしてやりたかったんですが、やり方がわからない。その時、また、気づくんですね。俺って、そもそも勉強をしたことがないなって」。
たしかに、才能だけで食べてきた。
では、どうするのか。

2020年の、チャンス。

「7年間やってきて、その時私自身が思ったことは、組織が会社として成り立つ難しさを感じていました。これは批判でもなんでもありません。では、どうすれば良かったのか。その答えを探すために、飲食をターゲットにした評価制度や人事制度のコンサルタント会社に転職します」。
その会社に在籍したのはわずか1年だが、その1年が「めちゃめちゃでかかった」という。
「うちだけじゃなく、他社もみんな同じことで悩んでいることを知りました。創業の頃は金→物(業態)→人なんですが、事業が軌道に乗ると人→物(業態) →金にプライオリティが変わっていきます。人が重くなるんです。だから、人事の仕組みが大事になってきます」。
1年経ったとすると、29歳、いよいよ独立ですか?
「そうです。2020年、コロナがスタートします。今がチャンスだと思って、アクセルを踏みます。ただ、資金はなかったので出資者を募り、まず『ときわ亭』のフランチャイズに加盟して『0秒レモンサワー(R)のホルモン焼肉酒場ときわ亭』をスタートします」。
いかがでしたか?
「コロナ禍で、私がチャンスだと思ったのは、平時では出てこないような優良な物件が出てくると思ったからです。これには理由もあって、高い従業員満足を生み出していくためには好立地でないと計算が立ちにくいんですね。その一方、『ときわ亭』や『新時代』などを選択したのは、コロナ禍でも急成長するフォーマットだったこともそうですが、オペレーションが属人化ではなかったからです。そのおかげでコロナ禍にも関わらず『ときわ亭』や『新時代』といったフランチャイズ店を9店舗を出店しています」。
飲食店の経営以外にも、そのご経験を活かされた事業をされているとか?
「そうですね。時系列的には少し遡りますが、コンサルタント会社を辞めたタイミングで、アルバイトから社員採用が上手くいっている会社を見渡すと株式会社大地さんを思い浮かべました。そこで当時やられていた神田さんに、大して面識もないのに直接連絡しました(笑)」。
それからどうなりました?
「神田さんに手伝ってもらいながら、まずは仕組化するところから始めて、それがMostfunで20人ほど採用に成功しました。それでコレはいけると思って株式会社カンテラを立ち上げました。今は神田さんが代表を務めながら私も副代表を務め、現在15社ほど人事コンサルとして携わらせてもらっています」。

・・・続き

株式会社Mostfun 代表取締役 大崎拓実氏

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