2021年7月28日水曜日

株式会社オーチャードナイト 代表取締役 宮澤英治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社オーチャードナイト 代表取締役 宮澤英治氏登場。

本文より~

お店をやってみたい。

学生時代は古着屋が大好きで、原宿や高円寺に出向いては、当時流行していたリーバイスなど、アメカジの古着を探し回っていた。古着の、現行品にはないオリジナリティやデザイン、その希少性に魅了され、いつか自分の選んだ商品をお店に並べてみたいと思ったのが、商売や起業を考えた最初であった。古着を購入する為に始めたのは、飲食業のアルバイト。東京大学の学食での仕事が最初であった。

バーテンダーとの出会い。

高校卒業後は夜間の大学に通い、昼間は働いた。勤務先は、東京駅近くのリーガルシューバーというお店。八重洲に二店舗あったうちの、アウトレットを扱うお店で、限られた物を売る事とその接客を楽しみながら2年間働いた。靴を買っていくお客様の接客だけでなく、シューケアー用品の販売、履きこんだ靴のリペアなど、アフターケアもしつつ長くリーガルシューズを履くお客様との接客はとても勉強になった。
しかし、昼に編入学になったのを機に辞め、また飲食店でアルバイトを始める。
「いろいろやりましたが、選んだお店は洋の業態ばかりでした。欧米のものが好きなんでしょうね」という宮澤氏に、元バーテンダーだった店長との出会いが待っていた。
仕事終わりによくバーに連れていってもらう中で、バーテンダーがカクテルを振る舞う姿に惹かれていった。バーカウンターでのきめ細かいサービスや、お客様の目の前でカクテルを仕上げるバーテンダーがとても特別な存在に見え、興味が沸いた。
幼い頃は絵ばかり描いていたと父に言われたことがある。欧米の文化やデザインが好き。自分でオリジナルのものを作るのが好き。そんな宮澤氏がバーテンダーを目指すことになったのは、運命だったのかも知れない。

狭き門。

バーテンダーになりたいと思ったものの、未経験の宮澤氏にとって、ホテルのバーや個人経営のバーなどに入るのは難しく、狭き門だった。暫くは、日本バーテンダー協会(NBA)の支部長がいるお店にご縁があり、客として通った。そこで、NBAに加入すれば、「お酒の研修に参加できる」「カクテル大会に出られる」「人脈ができる」と教えてもらい加入。そこで大会の練習をみて頂いたり、オリジナルカクテルのレシピを見てもらうなど、可愛がってもらった。
後に日比谷Bar(環境開発計画)がバーテンダーの育成と独立支援をしているとのことで入社したが、初めてのキッチン業務に慣れるのが遅く、中々カクテルを作らせてもらえなかった。「先の見えない日々が続き、辞めたいと思ったことは何度もあった」と、辛い時期だった事を振り返る。

カクテルコンペで優勝したものの…

時は過ぎ、日比谷BARで一通りのBAR業務をこなしていくうちに「新天地で働きたいたい」と思うようになり、西新宿の高層ビル街にある「響」という創作和食のお店でオープニングスタッフとしてバーテンダーをしていた。飲物はビール、日本酒、焼酎がメインのお店ではあるが、それも勉強と受け入れて、たまに入るカクテルの注文を楽しみながら作っていた。
2003年には、サントリーカクテルコンペティションに出場。2000~3000の書類応募数の中、最終選考会の舞台に残り、食前酒部門で優勝する。有名なバーテンダーの方々に混じって表彰され、海外の蒸留所や世界的に有名なバーを視察できる研修旅行にも参加できた。これがきっかけとなり、当時200店ほどの飲食店を経営していた大手外食グループのダイナックに入社。八重洲にある「アリーズバー」というお店に配属され、後に新店舗新業態である「銀座水響亭」というお店に移る。立地等を考えても、会社にとってもかなり重要なお店であったはずだ。BARのオペレーションを立ち上げたものの、そこでもバー業務だけでなくスタッフの教育や予約などの店舗管理まで幅広い業務を任される日々は、「カクテルを作る」仕事から遠ざかるということだった。「カクテルが作りたいのにバーカウンターに立てない」二度目の思うようにならない時期を経験した。「会社を辞めたいとまでは思いませんでしたが、正直お店のスケール感や日々変化していくスピード感についていけず、自信を失いかけていた時期もありました」。
ただ、この二度の辛かった経験は、それを乗り越えた時に自分のレベルが確実に上がっていくことも教えてくれた。バーテンダーとしての心持の上では、守破離(しゅはり)の言葉通り、「伝統を重んじつつも、型を崩し、また離れる」重要さを身をもって痛感できたのは大きかった。苦労したキッチン業務は然り、カフェやレストランでの経験や、アイデア満載で時代の流れに順応し、頭脳や数字的理論で経営していく熱い上司と働けたこと、バーテンダー以外のシェフ、パティシエ、ソムリエなどと同じ空間で働けたことで、不思議と既成概念にとらわれず、色々なカクテルを描けるようになっていった。

転機となった世界大会。

その後「アリーズバー」に戻り、着実にお店を育て、カクテルの創作にも力を入れていた。
お店の運営もカクテルの調合と同じく“バランス”を大事にしていた。飲食店ではよく言われるQSCにそって、である。飲食店は一度来ていただいたお客様に再度足を運んでいただくかが肝であり、初めてお会いしたお客様にいかにして記憶にとどめてもらうかを、カクテルを提供するまでのストーリー(過程)に重きを置いていた。365日、お客様の五感に訴えかけていくのは飲物だけでなく、それを取り巻く様々なモノ、コトが重要であった。
2009年、シンガポール・ラッフルズホテルで開催された「ヒーリングチェリー・カクテルコンペティション」では、ヨーロッパ、アメリカ、アジアから約20名のバーテンダーが参加するなか、日本人ではただ一人出場し、見事優勝を収める。この大会はバーテンダーとファッションデザイナーがコラボレーションした珍しい大会で、バーテンダーは、課題にあったドレスを選び、そのアクセサリーになるカクテルを作るというものであった。カクテルのコンセプトは、アーティストとしての共通項から、自信に満ち溢れた職人の姿をカクテルに表現した。この世界大会での優勝が、「日本と世界で通用した自分のカクテルを次は自分のお店で試したい」気持ちを決定的にし、2010年には念願の独立を果たし「Bar Orchard Night」を開店。「オーチャードナイト」は、果樹園の騎士というフレッシュフルーツカクテルをコンセプトにした、世界大会優勝を頂いたカクテルの名前から。バーテンダーオーナーになりたいと夢見た日から、10年以上の月日が流れていた。

・・・続き
株式会社オーチャードナイト 代表取締役 宮澤英治

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2021年7月26日月曜日

24日(金)、宮迫YouTube内の「有頂天レストラン」第三弾が配信されました。

24日(金)、宮迫博之の超大型料理番組『有頂天レストラン』第三弾がYouTubeにて配信されました。
ガチの5分料理と究極の丼バトルです。
おもしろいので是非ご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=ChIfcKFz4tU
 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

キイストン(細見)の書籍3冊。

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切り口は別として、あと2冊、計5冊は出しておきたいです。
特一瞬”シリーズがいいかな(笑)
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2021年7月22日木曜日

株式会社ドムドムフードサービス 代表取締役社長 藤﨑 忍氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドムドムフードサービス 代表取締役社長 藤﨑 忍氏登場。


本文より~

専業主婦からの転身。39歳。初の社会人に。

4人兄妹の長女。兄2人と、妹が1人。父親は、区議会議員や都議会議員を歴任。母方祖父も都議会議員をやっておられたそうだ。その一方で、ご両親は、祖父が開業したお煎餅屋や保険会社を経営されていたという。
「0私は小学校から青山学院(初等部)に入り、青山学院女子短期大学を卒業しました。短大を出て、すぐに結婚。じつは39歳まで専業主婦だったんです」。
旦那様も、区議会議員。政治家一家である。専業主婦といっても政治家の妻。旦那様をバックアップされていたにちがいない。小さい頃から、政治家の父親の背中を見てきただけに、政治家の有り様も理解されていたはずだ。
学生時代の話をたずねると、「高校ではハンドボールをやっていて、今でも当時のメンバーとは仲がいいんですよ」と笑う。
どうして、専業主婦を辞められたんですか?という質問には「夫が病になり、私が働かなければいけなくなったから」という返答。なんでも「渋谷109」のブティック店長が、「新たなキャリアの始まり」だそう。
初、社会人ですね?
「そうなんです。風景がガラリと変わります。私が働いていたブティックは、友達の母親が経営されていて、後継者を探していらっしゃいました」。
およそ5年勤務。政治家だけではなく、経営の才も譲り受けていたんだろうか。仕事は好調で、5年間で年商は倍になる。

アルバイト、4ヵ月のち、1号店オープン。

「5年目に会社の方針が変わり、私自身は退職し、44歳の10月から翌年の2月までの4ヵ月、居酒屋でアルバイトをしました」。
経営者候補から一転、アルバイトへ。
どう思われていたんだろう?
「私が働かないと生活ができないですからね。ただ、アルバイトを続けるつもりはなく、最初は、渋谷109にアパレルショップを出店しようと計画していました。でもね。競争率が高い」。
それで、新橋ですか?
「そう。しかも、ブティックじゃなく、居酒屋です/笑」。
45歳、藤﨑氏は、『ニュー新橋ビル』に『そらき』をオープンする。
「8.5坪の小さなお店です」。
そこがヒットした?
「ありがたいことに、ご好評をいただいて、1年半後には2店舗目をオープンする運びになりました。2店舗目は、当時、流行っていたイタリアンバルです」。
創業時、ブティック時代の部下を1人誘っている。
「その子が、もう独り立ちできる経験を積んでいたんですね。だから、私も新たな道に進もうと決心できたんです」。
どういうことだろう?

日本最古のハンバーガーショップ。

じつは、このあと藤﨑氏は、今回の主題となる「ドムドムフードサービス」に入社している。「ドムドムハンバーガーは、ダイエーの創業者、中内功さんが創業された日本で一番古いハンバーガーショップです」。
調べてみると、創業は1970年。東京町田にオープンした1号店が、日本に初めてオープンしたハンバーガーショップだとわかる。翌1971年、銀座にマクドナルドがオープンしているから、たしかに、ドムドムハンバーガーがいちばん古い。
「90年代には、店舗数が400もありましたが、私が関わることになった2017年には36店舗まで縮小していました(現在は27店舗)。その時、ドムドムハンバーガーを買い取り、再生に乗り出したのが、㈱レンブラントインベストメントという会社です。そちらの専務からお声がかかりました」。
<うちのハンバーガーの味をみてくれないか?>。
そんな一言だったらしい。
「私のお店のお客様でした。味と接客をいたく気に入っていただけ、ハンバーガーだが、味をみてくれないか?と。まさか、社長になるなんてその時は思っていません」。
藤﨑氏、50歳の時の話。
「先ほども言ったように、創業時から一緒にやってきたスタッフが独り立ちできるようになっていましたので、じゃぁ、『そらき』は彼女に任せて、私は『違うことをしてもいいかな』と、アドバイザリー契約を結びました」。

ドムドムハンバーガーの再生。そのはじまり。

昭和生まれの人間にとって、「ドムドムハンバーガー」は、一度は聞いたことがあるハンバーガーショップ。むろん、藤﨑氏にとっても知らないショップではなかったはず。
しかし、その名は、平成の時代になり、だんだんと忘れていく。そのなかで、再生の一部を託された藤﨑氏には、どんな決意と関心があったのだろうか?
「商品開発と接客のトレーナーというのが、私の最初のミッションでした。その後、社員になり、新店がオープンする際に店長を務め、翌年から東日本エリアのスーパーバイザーに就任しました」。
スーパーバイザーに就任するまでの経験は、1年弱。それ自体、大抜擢だ。
「たしかに、39歳まで専業主婦でしたからね。前職が好調だったものの、経営経験は2店舗だけ。むろん、再生の経験もありません。今、私のことを『すごい』と言ってくださる人がたくさんいますが、私にすれば、私を誘ってくださった専務が一番すごい」。
たしかに、オファーした専務は、すごい。

ごいっしょに。

翌年からスーパーバイザーとして奮闘したものの、決算が赤字だったことを知り、ショックを受ける。「赤字決算は予想していましたが、経営メンバーじゃないので、結果だけ聞かされるんです」。藤﨑氏は「経営に直接アプローチ出来なければ再生に関わる意味がない」と思ったそう。
「そう、だから、私にも決裁権を、と言い続けたんです。結果、その年の8月に『取締役社長に』というお話を頂きました。もちろん、社長になるとは思っていませんでしたから、青天の霹靂です/笑」。
それは、そうだろう。責任の重さがちがう。ふつうなら、ひるむところだ。しかし、藤﨑氏は再生のリーダーという要職に、むしろ前向きに就くことを決意する。
店舗数が少なくなったといっても、昭和の人間ならだれもが知るハンバーガーショップ。それだけに再生のゴールは、数字の話だけではないだろう。
「2018年8月に社長に就任し、3年で黒字化を達成致しました。その結果はもちろん、数字は大事な指標の一つですが、一方で、私がずっと考えてきたのは『ドムドムハンバーガー』がどこに向かっていくかでした」。
ブランドコンセプト?
「そうです。毎月、新商品をリリースして、美味しいとおっしゃっていただくことが出来ました。併せてイベントにも積極的に参加しました」。
新メニューとイベントへの参加は、消費者への直接的なアプローチである。「じつは、こういうアクション・チャレンジをする度に、想像以上のリアクションを頂戴するのです」。
SNSとかで?
「ツイッター等も含めてです。 新商品発売の度に店舗へ また イベントにも足を運んでくださる方が沢山いらっしゃるのです。2020年で『ドムドムハンバーガー』は50周年でした。たしかに、一時期と比較すると店舗数は激減していますが、それでも、これだけの反響をいただけるっていうのは消費者の皆さんに守られ、育てられてきたことの証。それ自体が『ドムドムハンバーガー』の立ち位置なんじゃないだろうかって思ったんです」。
だから、「消費者に寄り添う」というコンセプトも生まれたわけですね?
「私は、飲食店の美味しいは当たり前と思っています。だったら、どうするか。答えは、『おいしい』の先を行く商品を開発していくことなんです。そのプロセスの中で大事なことは、お客様に寄り添うことだと、それが『ドムドムハンバーガー』なんだと。そういうことをブランドのコンセプトに置きたいと思っています」。
スタッフはもちろん、消費者も置き去りにしないということでもある。
いうならば、「ごいっしょに」だ。
「さぁ、ごいっしょに。食事を楽しみましょう。『ドムドムハンバーガー』を育ててまいりましょう」。ドムドム党、党首の一言が響いてくるようだった。

マスクは、起爆剤ではなく、接客剤。

ここで、大ヒットしたメニューを一つ挙げろと言われれば、間違いなく、2019年、発売の「丸ごと!! カニバーガー」を推すことになる。「ソフトシェルクラブ」を、贅沢にまるまる一匹挟んだハンバーガーだ。税別900円だが、SNSで消費者を巻き込み、大ヒット。
「そうですね。カニバーガーのような新メニューがドムドムハンバーガー再生の起爆剤です。50周年を迎え、黒字化も見えてきた、2020年には、大々的にイベントも行い、再生への道を、より確かにするはずだったんですが、コロナ禍の下、イベントも断念しなければいけなくなりました」。
「さぁ、ごいっしょに」といっても、どう進めばいいのか。ふたたび、模索がはじまる。
意外な突破口だった。
「じつは、コロナ禍の下で最初に話題になったのは、ハンバーガーじゃなく、マスクだったんです/笑」。
マスク?
「そうです/笑。マスクが不足している時期があったでしょ。あの時に、スタッフを守るためにロゴ入りのマスクを作ったんです。でも、スタッフばかりじゃなく、皆、マスクがないと悩んでいらっしゃったんで、少しでも役に立てればと、レジの横で販売をひっそり開始したんです」。
「ところが すぐに長蛇の列が出来てしまった」と藤﨑氏。SNSで、いきなり5万の「いいね」がつくほどだったというから、列の長さもイメージできる。
「逆に密を作ってしまったわけで、これじゃいけないと、すぐにオンラインにチェンジします。それでもどうでしょう。累計15万枚までいったんじゃないでしょうか」。
どんな商品なのだろうと検索してみた。「楽天」で販売されているようだったので、クリックするとドムドムハンバーガーの「ぞう」のロゴがついた、かわいく、おしゃれなマスクがクローズアップされた。マスク不足が解消した現在でも、これなら一つ欲しくなる。
いうまでもなく、このマスク。売り上げを狙ったわけではない。少しでも「人のために」という思いからスタートしている。いうならば、起爆剤の一つではなく、消費者と向き合う、ドムドムハンバーガーの宣言であり、消費者との接客剤の一つという気もしなくはない。

・・・続き
株式会社ドムドムフードサービス 代表取締役社長 藤﨑 忍氏

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2021年7月15日木曜日

株式会社PLEIN 代表取締役 中尾太一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社PLEIN 代表取締役 中尾太一氏登場。 

本文より~

サッカーとマクドナルドと。

小中高とサッカーに明け暮れた。両親は、ともにリクルートでバリバリと仕事をする姿が印象的で、教育熱心。
中学時代からたくさんのビジネス書を読まされていたそうだ。
「サッカーは小学校からはじめ、高校まで12年間続けました。中学・高校では副キャプテンを務めていました」。
人生の分岐点は?と聞くと、「料理学校に進学すると決めたこと」と予想外の答え。
てっきり大学進学が既定路線と思っていたがなぜ?
「そうですね。私もそう思っていて、高校1年から予備校にも通っていたんです。サッカー部の引退後、燃え尽きてしまって受験勉強にどうしても身が入らず、受験から逃げる様に何となくマクドナルドでバイトはじめます。親には部活をやっていた時間をバイトするだけで、勉強と両立するからと苦しい言い訳をして無理やり始めました。笑」。
それが、きっかけ?
「そうなんです。たまたま食べるのが好きで何となく始めたのですが、サッカーに注いでいた情熱をバイトに注ぎました。たった3ヵ月でマネージャー候補になり、表彰などもされました」。
それはすごい。
「ひたむきさというか、今思うとそういうのが認められたんでしょうね。ただ、こっちは、それが何であれ、評価されたのがうれしくて、フードビジネスに向いていると思い込んでしまったんです/笑」。
構想はふくらみ、マクドナルドのような従業員が楽しく働ける食の会社をつくるのが、目標になる。
18歳で生涯の仕事に出会ったと思った。しかし、教育熱心なお父様は、飲食の道に進むことを許してくれるのだろうか?

料理人、中尾の、はじまり、はじまり。

「高校を卒業し、調理師学校に進むんですが、きっかけは、父親の一言です」。
どう言われたんですか?
「18歳の時に父親に、フードビジネスで経営したい話をすると、最初は反対されました。飲食業界は大変な仕事。もしやるのであれば、職人的な専門性があって、ビジネススキルの両輪がある人が成功すると思う。食のプロフェッショナルスキルを持ったジェネラリストになるキャリアを積むなら、大学ではなく調理師学校にいってもよい。食の世界で料理とビジネスを両立出来る人になりなさい』と言われます」。
父親の事は尊敬していたので、言われた言葉に納得した。
「大学進学を辞め2年制の調理師学校の服部学園に進学しました。飲食業を極めるために料理を始めようというきっかけです」。
「服部では、和・洋・中、全ジャンル勉強させてもらいました。ただ、ジャンルが決められなくて、その時、アドバイスいただいたのが、『それならフランス料理をすれば』だったんです。フレンチなら他の料理に応用が利くと言われた事が理由です。今思えばその選択は正しかったと思います」。
そうとは聞いていないが、素直な性格なのかもしれない。
卒業後、中尾氏は2つの会社を経験している。
「就職したのは、星野リゾートです。軽井沢のホテルブレストンコートで、フレンチを研鑽します。ただ、料理の一方で、業務の改善にも自主的に取り組みはじめるんです」。
中学時代に読んだビジネス書やマクドナルドのアルバイトの経験から?
「そうですね。周りからはヘンな新人と思われていたはずです。恥ずかしながら同期入社の中でも出来も悪かったです/笑。ただ出来ない分、休みの日も黙々と料理・経営の勉強をしたり、ひたむきには働いていました」。
ただ、そのヘンな新人を上層部はしっかりとみていたようだ。3年目にはグループ全体の料飲部門を取りまとめる、本社のグループ統括へと異動している。グループ統括は、役員直下のポジション。
「星野リゾートは、すごく楽しかったですね。環境に恵まれて全国各地でたくさんの事を経験させて頂き社会人としての礎を築いて頂きました。このあと、『Soup Stock Tokyo』を展開するSmilesに移ります」。
転職の理由は何だったんですか?
「星野リゾートとは非日常な体験を創る会社だったので、日常を豊かにする事業を経験したかったからです。Smilesに転職したのは、ちょうどレストラン事業をはじめるタイミングで、社風にも共感し新規事業にチャレンジしたいと思って転職を決意しました。」
起業の疑似体験ですね?
「smilesは、とてもいい経験になったと思います。魅力的な人、事業に溢れていました。 ただ、あまりにも楽しすぎて、起業のタイミングを逸してしまいそうだった」といっている。

25歳の挑戦と、閑古鳥。

25歳で株式会社PLEINを設立する形で起業した。 「18歳の時から、20代のうちに500万円貯金出来たら起業すると決めていて、とても良い2社で働けたお陰で目標通り500万円貯金できたのでチャレンジしようと思いました。表参道の地下にオープンしたのが、1号店です。駅から離れた地下の店舗。どこの不動産からも物件を貸してもらえず、希望のエリアで取得できるのが、その店だけだったんです。業績ですか? 最初の半年くらいは、ぜんぜんだめでした」。
何度も閉店・倒産を覚悟したそうだ。
「軍資金は18歳からコツコツと貯金して貯めた500万円のみ。身内の工面なども全て断り、事業計画書を持って銀行に何度も足を運び、融資をもらって起業しました。とにかくお金がなかった」。
ぜんぜん届かなかった?
「毎月100万円以上の赤字です。従業員に給与も払えないので創業当初はバイトもしました。だからといって、お金ももうないし、どうすることもできない。守られていた会社の看板を外すと自分が何もできない事を嫌という程痛感しました」。
綱渡り?
「そうです。お金もノウハウも人脈もブランド何もない。ただ自分を信じて美味しい料理と、おもてなしを愚直にすることしかできません。ちょうど4ヵ月目くらいでしょうか。グルメサイトの評価がだんだん上がってきて、雑誌にも取り上げられて」。
地下へとつづく階段を降りる人が、後をたたなくなる。1年過ぎた頃には、13坪の小さなお店で平均月商400万円をオーバーしたという。最高月商は1店舗で800万円。
言っておくが、24時間・年中無休ではない。創業時から全従業員の週休2日制を貫くために定休日を週2日設け、ディナー営業のみでこの実績。
閑古鳥は飛び立ち、毎夜、ただしくいえば、週5日、夜になると、歓声があがった。
2店舗目も麻布十番に順調に出店した。しかし、3年目に、コロナが待っていた。

コロナ禍で、新たなチャレンジ開始。

「じつは、3店舗目以降を出店したのは、コロナになってからなんです」と中尾氏。コロナ禍の下で、逆に出店を加速している。
「コロナで、生活様式も、ニーズも、すべてがかわると思うんです。コロナが2年つづくとすると、もう今からやらないと遅いと思っています。事業成立のためのいわゆる助走期間がいりますから守るために攻めないといけない」。
スパイスカレー専門店も、そうした試みの一つですか?
「そうです。アフタヌーンティー専門店もスタートしています。コロナ禍でも豊かな食を提供出来る様チャレンジをしています」。
なるほどの戦略だ。しかし、資金は大丈夫なんだろうか?
「コロナ禍ですがお客様、従業員、取引業者様に恵まれて、順調に新規出店を出来るくらいの経営を実現できています。厳しい世の中ですが限られた経営資源を従業員の給与や生活を守りながら、関わる人が食を通じて豊かになる未来を創る投資に使いたいと考えています」。
コロナ禍でも成長は止まらず、創業4年目でグループ従業員数は2021年5月現在24名、15名の正社員を抱える中小企業になった。
5店舗になった今も全店舗定休日を週2日設けながら、週休2日制を維持し、仕事のやりがいとプライベートのバランスを目指した運営体制を日々磨いている。
「たしかに、コロナはたいへんですが、我々のようなチャレンジャーにはいまがチャンスでもあります」。
1992年生まれの29歳。たしかにまだ守りに入る年齢ではない。どんな挑戦をつづけていくのだろうか。

・・・続き

株式会社PLEIN 代表取締役 中尾太一氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年7月14日水曜日

7月13日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにて「0秒レモンサワーときわ亭」等展開されてるGOSSOの藤田社長の講義でした。

7月13日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにて「0秒レモンサワーときわ亭」等展開されてるGOSSOの藤田社長の講義と学生から発表会でした。

学生からの提案は気づきが新鮮で参考になることが多いですね。

日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけたバッカスがいる店”に「ジャックポットプランニング」の中川洋社長が推薦の3店舗が載りました。

6月26日(土)~7月10日(土)の3連載の日刊ゲンダイ “飲食のプロが見つけた、バッカスがいる店(旧 グルメ社長の食い倒れ日記)”「ジャックポットプランニング」の中川洋社長が推薦の3店舗が紹介されました。

今回、緊急事態宣言の影響で変則になり、5連載予定が3連載となりました。

2021年7月11日日曜日

7月9日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」第10回は『ハブ』様のHUB×mixiの業務提携取り上げました。

7月9日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は英国風パブ「HUB」・「82」を全国に約100店舗展開するハブと、SNS「mixi」やスマホアプリ「モンスターストライク」でお馴染みのミクシィが業務提携って?!

その『HUB×mixi』様の取り組みを記事にしました。

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2021年7月7日水曜日

有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏登場。 

本文より~

剣道と柔道とマージャンと独立。

「よしかわく~ん」は、昭和の時代に流行った青春ドラマに登場する名セリフ。主演は千葉県のもと知事、森田健作氏。「中学の頃、森田健作さんに影響されて、剣道をはじめます。そう、その『よしかわく~ん』です」。今回ご登場いただいた有限会社倶楽部二十九代表取締役、酒井敏様氏がそう言って笑う。 酒井氏が生まれたのは1958年。父親も、兄も銀行員というお堅い家系。「わたしは次男だからでしょうね。自由奔放というか、大学を卒業し、スーパーに就職するんですが、社会人のスタート地点からして、父や兄とは畑違いです」。 自由闊達。中学から始めた剣道も、高校では柔道に。高校3年の時にマージャンにハマり、一浪もしている。「マージャンはけっこうつよい。でも、大学は一回落ちて、一浪して獨協大学に進みます。こちらでも柔道部に入るんですが、ヘルニアになり退部。あとはバイト三昧。そうそう、20歳の時に、ある飲食の社長さんと知り合うんです。いま思うと、それが私のターニングポイントですね」。 駆け引き、心理戦のマージャンに長けた酒井氏ではあるが、純粋な青年でもあったのだろう。社長の真剣な生き様に、まっすぐに惹かれる。「独立をハッキリと意識したのは、あの時」とも言っている。

頑張るなら、ほかで頑張れ! 初めての洗礼。

就職したスーパーは上場もしていたから、お堅い父親もいちおうOKだったのだろう。「父親は銀行を勧めてくるんですが、頭よりからだをつかう仕事のほうが向いていると思って、スーパーに就職するんですが、からだはともかく、だれも頭をつかわない/笑」。
就職していきなり浮いてしまったそうだ。
「最初はね、将来、社長になってやるくらいに思っていましたから勉強もしたし、休日には市場調査にも精をだしました。ほかにそんな奴だれもいない。やろうぜ、といってもだれもついてきません」。
あげく上司から、「やる気をだすな、頑張るなら、ほかでやれ、独立しろ」と言われたという。いきなりの洗礼である。「23歳の頃だから、1年目。スタートダッシュで躓いた格好ですね/笑」。
エンジン全開がいけなかった?
「そうですね。けっきょく7年、勤務するんですが、あの一言で、独立を行動に移すことになるんですから、エンジン全開だったことに間違いはなかったんじゃないでしょうか」。

独立の道、険し。

「飲食は潰れない。だって、食べるものには困らないから/笑」。行動に移すといった、酒井氏は、飲食をターゲットにマーケティングを重ねる。「東京中の飲食店を食べ歩きました。仕事帰りはもちろんですが、休日も歩き回ります」。
答えはあったんだろうか?
「神田にいい店があったんです。最初は、いいな、やりたいなと思っていたんですが、そのちかくに大手の珈琲チェーンがオープンするとすぐに潰れてしまったんです。答えではないですが、その時に、フランチャイズの力を知ることになるんです」。
それがFCオーナーになるきっかけ?
「25歳です。独立しろと言われてから、貯めたお金が250万円。でも、有名なFCに加盟するには、一桁以上たりません。愕然としました。オレはなにをやってきたんだ、と思って」。
お金がないことより、プランの甘さに泣いた。初めての挫折だった、と酒井氏。「あの時ね、稲盛さんの『だめだと思った時が、スタートなんだ』が頭に浮かぶんです。どこかで読んでいたんでしょうね」。
酒井氏は、頭を打ったことで、逆にギアチェンジし、独立に向け、加速することになる。

地獄のはじまり。

珈琲チェーンも、ドーナツチェーンも開業資金が高い。ただ、あるハンバーガーショップは、なんとかなる額だった。「むろん、銀行に行くんですが、融資はつぎつぎ断られます」。 7つの銀行に断られ、8つ目の銀行がはじめて耳を傾けてくれたそう。父親を1年かかりで説得し、保証人になってもらって、5000万円を借り入れることができた。 ただし、酒井氏いわく、それが地獄のはじまりだった。「父親から休みなく働けと言われていました。私ももちろん、そのつもりです」。 独立したのは、30歳。体力も、気力も充実している。「銀行への返済が毎月50万円です。ほかの経費をひくと、私の給料は15万円。これが、独立したあとの初任給です。休みは年2~3日、あるかないか。1日15~16時間、働き詰め。それでも、給料は15万円のママでした」。 借金がなければ、とっとと逃げ出していたかもしれない。 「40歳で、借金は返済できましたが、ちょうどバブルが終わります。その時、私の年収はオーナーなのに、180万円です。風邪をひいても休めず、からだも、精神的にもボロボロになって、両親からも辞めたほうがいい、と」。 「人生のどん底。地獄と絶望の10年だった」と酒井氏。地獄だとしても、希望があればいい。しかし、「絶望」の二文字はそれもなかったことを物語っている。

牛角FC1号店オーナー。

じつは、ここからの話は、ホームページでくわしく語られている(「大金星誕生物語」)。そのなかでも、語られているが、牛角の創業者、西山氏との出会いが新たなターニングポイントになる。
「たまたまご縁があり、『いっしょに牛角を育てていきませんか?』と声をかけてくださったんです。牛角といっても、まだ認知度がない。何しろ、私がオープンした牛角浦安店が、初のFC、そう、1号店です」。
牛角の記念すべきFC1号店。「最初は半信半疑です。ほかにモデルはないんですから。でも、すぐに『?』は『!』にかわります。月商1800万円。これはマックスの数字ですが、びっくりするしかないですよね。しかも、17~24時ですから」。
むろん、「牛角」のビジネスモデルが、驚く月商を産んだのは間違いない。ただ、いかに優れたモデルであっても、経営するのは、やはり人だ。酒井氏の10年間の悪戦苦闘が花開いたと言えなくもない。
「いっしょに育てよう」という西山氏の言葉は、本部の経営者とFC店のオーナーというちがいはあっても、文字通りの意味となった気がする。

・・・続き

有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井敏様氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年7月1日木曜日

7月1日付で江川広太が株式会社ミストラルの取締役社長に就任しました。

 【ご報告】

7月1日付で江川広太が株式会社ミストラルの取締役社長に就任しました。
人材紹介業含め求人全般を全て権限委譲していきます。
若くして社長業やることで、いろんな苦労あると思いますが、皆さん育ててやってください。
引き続きよろしくお願いします。
また、本日ミストラルは3回目人材紹介業の免許更新書類受理されました。
(社長業務を江川に託します)
(江川&武田のミストラル経営陣)