2018年4月28日土曜日

株式会社デイジイ 代表取締役 倉田博和氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社デイジイ 代表取締役 倉田博和氏登場。
本文より~

デイジイ朝日堂。

「親父やお袋が、うちの職人さんたちに手を焼いているのを観ていたから」。
パン職人を志す。その始まりは、小さな頃にあった。倉田氏のご両親は、倉田氏が生まれた1962年にデイジイ朝日堂(現川口店)を創業されている。
「登校する前によく手伝いをしていた。パンは焼けないから、苺を洗ったり卵の殻をむいたり。あぁ、小学校の頃からだよ」。
同い年の、店といっしょに育っていく倉田氏。店も同様に少しずつ売り上げを伸ばしていく。
「サンドウィッチがいちばんだったかな。親父もお袋もパン職人じゃないから、そのぶんアイデアを凝らして、カツサンドを作ったり、焼きそばサンドにしてみたり。いわゆる惣菜パン。アレは、よく売れたんじゃないかな」。
実は、倉田氏の母方は、親族のだいたいがパン屋で、ベーカリーショップの一族なのだそう。「自分が半年くらい経営の勉強に行った船橋の叔父さんのところもその一つ」。もちろん、川口市には、デイジイ朝日堂だけである。

生活指導員と部活顧問。

中学になってバレー部に入った。生活指導員でもある、国語の教師に勧められたからである。「今じゃ、できないけど、当時は殴るのも許容範囲で、いちばん自分が教育されたかな(笑)」。
倉田氏はエースアタッカー。「わりと強い学校で、北区ではいちばん。都大会にはいつもでていたし、一つ下は、全国大会にもでている」。
この教師の影響で、本を読むようになったそう。もっとも勉強はあまりしない。
「この頃もそうだよな。職人さんが休むと自分が仕事しないといけないから、いつも予定が立たないし、嫌な思いもした。だけど、うちの親父は人の悪口はぜんぜん言わない人だからね。でも、自分からみていると、結局技術があることは大事だと痛感した。だって、うちの親父は職人じゃないから、その分苦労を知ってる」。
小学校の頃に思っていた漠然とした思いが、「言葉」となってかたちを現す。キーワードは「職人」の二文字だった。だから、「いつか職人にならなくっちゃ」という思いがあったのも事実である。

無期停学で、西ヨーロッパへ。

「高校にはもちろん進学したよ。高校でも生徒会長にもなったりした。でも、もう部活はしていなくって。だから、まぁ、いろんなことができるわけで、あることがきっかけで無期停学になっちゃうんだ」。
1週間に1度、校長室に登校して、珈琲を淹れて、校長先生といっしょにお菓子食べて話をする。
「ちょっとしたケンカだったんだ。自分は首謀者でもなんでもないのに、いつの間にか首謀者に祭り上げられてしまっていたんだよね。で、その責任を取らされたってこと。でもまったくの無実。それが真相なんだけど。当時はもうどちらでもいいかなって」。
「それに、停学のおかげでいいこともあった。自分の人生のターニングポイント」。
倉田氏、実はこの停学の期間を利用し、西ヨーロッパに渡っている。
「ま、いろんな理由があるけど、とにかく行ってみたいなと思って。1週間に1度、校長先生とお菓子食べるのが、仕事みたいなもんだから、暇だった」。ヨーロッパは、イタリア、スペイン、フランス、デンマーク、イギリスを転々とする。
「飛行機の中で、知り合った人が向こうで『画廊』やっている人でね。当時のローマ法王とも話ができるってすごい人だったんだよな。その人にいろんな店に連れてってもらった。チーズ、パスタ、もう、『ほっぺが落ちる』じゃなく、『度肝を抜かれる』くらい旨かった。まさに衝撃だった」。
スペインでも、フランスでもおなじような、衝撃を受ける。「まだ、イタリアンも、フレンチも、今ほど日本に定着してない時代だからな。でもまぁ、そういう時代に言葉も知らないのに、よく行ったもんだ。ま、お金が潤沢にあるわけじゃないから、いつも、どの国に行っても、スーパーに行ってパンを買って、公園でブランコ乗って食べていた」。そんな時は、決まって空を見上げて、中島みゆきを歌った。「あれが、いうなら自分が海外に行く、始まりだった気がする。だから、自分にとってあの1ヵ月は、人生のターニングポイントなんだ」。
高校を卒業すると、倉田氏は迷うことなく、「日本菓子専門学校」に進む。

職人、実家へ、凱旋す。

「当時は、出席日数もギリギリで、担任泣かせの生徒だったと思うよ。なにしろ担任本人がそう言っているから、間違いないだろ」。
当時の担任の先生は、今校長となり、出席日数ギリギリだった倉田氏は、縁あって、今や同校の講師を務めている。
「ともかく、学校に行くまでいろんな誘惑があるんだよな、これが。ま、いい生徒じゃなかったのは、たしかだよな(笑)」。
「それからどうしたって? 2年制だったから、2年間、その学校に通って。反省もするんだよな。それで、ともだちがいない関西に行けば、自分もちゃんとするだろうって。そう思って、1人、関西に行って、もう、職人になるって決めていたから、いろんなパンやケーキを食べ歩いて。それでいちばん旨かった、京都山科にある『ローヌ』ってお店でお世話になるんです。計5年ですね」。
「今じゃうちもそうなんだけど、スタッフにドイツ人やスイス人もいたりしてさ。国際色も豊かなんだよね。ま、それだけ店主がすごい人だった。あの5年も、自分にとっては貴重な日々。そりゃ、感謝している」。
5年の修業を経て職人となった倉田氏が、両親が経営する「デイジイ朝日堂」の軒先に立ったのは、25歳の時である。
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2018年4月19日木曜日

株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏登場。
本文より~

どんぶり勘定が許された幸せな時代。

子供の頃、裕福な家庭だったそうだ。中国、福建省。今回、ご登場いただいた株式会社創業新幹線の陳 建(Chin Ken)氏は1976年12月21日、この福建省に生まれている。陳氏によれば、福建省は事業家が多く、海外に渡る人も多いエリアらしい。たしかに陳氏の父親も事業家だし、陳氏もまた日本に渡り、事業を興している。
「父親が経営していたのは食用油の会社で、事業が傾き始めたのは1997年くらいからでしょうか。東南アジアから密輸入した安価な油が大量に出回りはじめたのです」。
同時に政府による金融の引き締めもスタートした。父親が手がけるファンドの運用がうまくいかなくなる。陳氏は、高校を卒業し、いったん父の会社に入社するのだが、2年後には事業が立ち行かなくなったと言っている。
「たしかに外的な問題もありました。それは事実です。ただ、父親の経営にも問題があった。厳しくいえば『ザル経営』だったのです」。
当時の中国はどんな時代だったのだろう。香港返還と世紀のイベントがつづき、自由経済が促進され、世界の工場から消費大国になりはじめた頃だろうか。しかし、日本もかつては、そうだったように、どんぶり勘定の経営がまかり通っていたようだ。それでも、利益が確保できていた幸せな時代だったとも言える。
しかし、状況はいっぺんし、「経営専門知識」なきものは、淘汰される時代となる。

長男が背負った一家の未来。

「父親の会社が倒産し、私がいろんなものを背負って来日したのは24歳の時です。法的な意味での借金は完済できたのですが、道義的な意味での借金が残っている。私はすでに結婚し、子どもいたのですが、妻子を残し、1人、最新の経営を学ぶために日本に向かいました。当然、借金の返済も目的です。長男ですから、妹や2人の弟の学費や留学の面倒もみなければなりません」。
当時、購入していたマンションを売って、渡航費用を捻出した。
「日本に来て、まず日本語学校に入学します。それからダイエーの中内さんが創立された『流通科学大学』に進みます。学費はほとんど奨学金でまかないました」。
アルバイトで得た収入はほとんど仕送り、借金の返済に充てた。借金返済まで、来日してから丸々6年かかったいう。その額を聞いてびっくりした。
奥様もやがて来日されるが、それまでは「1年に1度しか会うこともできなかった」という。どれほど苦労されたことだろう。「どうでした? たいへんでしたか?」そう尋ねると、陳氏は笑いながら首をふった。

夢を持つだけで、人間は幸せになれる。

「小さな頃の性格ですか? 一言でいえば負けず嫌い、それは間違いないですね。実家も当時は裕福でしたから、長じてからも、なかなか人に頭を下げられなかったですね。姉のご主人が裁判官だったこともあって、もともと私は弁護士を目指したかったが、父に家業を継ぐようにと言われ断念しました。だから、向こうでは大学にも進んでいないんです」。
アルバイトに精をだす一方で、授業で学んだことをバイトで実践する。そこで得た成果を今度は、授業にフィードバックする。経営学が陳氏のなかで色彩を濃くする。まさに覚悟のたまものだろう。今どきの日本人の学生と比較することすら、申し訳なくてできない。
「日本に来てからも、たいへんだったのはたしかですね。でも、私はそう思ったこともないんです。だって、毎日、眠ることができたし、何より希望がありましたから。中国にいた頃、そう最後の3年間くらいは、もう夢を持つこともできませんでした。『これからどうなるんだろう』。そう考えると夜も眠れない。それから考えれば、夢を持つことができるだけで、人間は幸せになれるんです。それを知ることができたのですから、向こうにいた苦しかったあの3年間にも意味があったような気がします」。

陳氏が手繰り寄せた未来の糸。

大学を卒業した陳氏は、ソフトブレーン株式会社に入社する。アルバイト先で仕入れた話が、そのきっかけ。「当時は、いつか中国に帰って父の事業を再興したいと思っていました。でも、大学で学んだだけでは実践がともなっていませんから、いったん日本の会社に就職しようと考えていたんです。その時に知ったのが『宋文洲さん』です。みなさんもよくご存じだと思います。TVにもよく取り上げられていますし、『やっぱり変だよ日本の営業』などの本も出版されていますからね。私も、そのアルバイト先で宋さんの話を聞き『やっぱり変だよ日本の営業』という本があるのを知りました。せっかく日本に学びにきたのに、『日本の営業がおかしい?』ってどういうことだろうって。宋さんに興味を持って、彼が創業したソフトブレーンに入社しようと決意したんです」。
ソフトブレーン株式会社は、営業支援システム(CRM/SFA)やコンサルティング、教育などのサービスを行う、いまや東証一部上場企業である。ちなみに、その創業者、宋文洲氏は、成人後に来日した外国人として初めて日本の証券市場(東証マザーズ)に上場を果たした人物でもある。
エントリーした学生は2400人。うち採用されるのはわずか40名足らず。しかも、新卒者と言っても、陳氏は年齢も高い。しかし、そういったハンディをもろともせずに、見事、狭き門をくぐり抜け、陳氏は実力で未来の糸を手繰り寄せた。
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株式会社創業新幹線 代表取締役 陳 建(Chin Ken)氏
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2018年4月11日水曜日

株式会社テアトルダイニング 代表取締役社長 石見 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社テアトルダイニング 代表取締役社長 石見 淳氏登場。
本文より~

少年、石見。

京都はいうまでもなく、日本を代表する観光都市である。今では鮎も遡上するという鴨川が街の真ん中を流れ、歴史的な建造物も数知れずある。石見氏が生まれた東山区は鴨川の東側に位置し、「音羽山 清水寺」もこの東区にある。生まれは1968年。東京オリンピックが開催されたのが1964年で、当時は高度成長期の真っただ中と言っていいだろう。
兄弟は3人で、弟と妹がいる。小学校で野球をはじめ、中学ではいったん断念。高校から再デビューを果たしている。その理由を伺うと「風呂上り、鏡に映るやせっぽちなからだを観て、これはやばいと思って」とこちらを笑わせる。身長が高かったから余計にそう映ったのだろう。
長髪を丸め、入部した野球部は土日の休みもなし。そもそも中学時代、スポーツをやっていなかったから体力もない。ついてくだけで最初はふらふらになったそう。それでも粘り強く3年間つづけている。それが自信になったことはいうまでもないだろう。「でも、野球漬けでしょ。ガタイは、デカクなりましたが、勉強のほうが/笑」。就職する友人も少なくなかったが、石見氏は大学進学を志す。もっとも勉強していなかったぶん「初挑戦の年は受かる気がしなかった」らしい。
浪人1年目、予備校に入る。「でも、入って満足しちゃうんですね。当時、その予備校に入れば四流大学なら合格したようなもんだという噂があって、それを鵜呑みにしてしまったんですね」。その結果、浪人2年目に突入。「おふくろの暗い表情をみて、さすがにまずいと。もう浪人2年目だから、それなりの大学にも進まないとシャレにならないと、はじめて受験勉強っていうのを始めます」。
いやいや今まではなんだったのか?
「それで、どこに進学されたんですか?」「関西大学です。入学が決まってさっそく1年早く進学している友人に、楽勝で、単位が取れるのはどの授業だって聞きまくって」。進学が決まれば、あとは無事4年で卒業するだけ。要領よく、楽勝に。
「最初はテニスのサークルに入るんですが、2年浪人しているでしょ。みんなに気を遣われて。それがイヤになって。そこからですね。スキーにハマったのは」。大学生活を一文で表現するなら、バイトに、スキー。そしてもう一つ、毎年夏に行った北海道めぐり。授業に向かうスタンスは「卒業できればそれでいい」だった。関西大学を入学し4年後、とりあえず手にしたのは、「関西大学卒」という肩書き。

映画小僧の就職。

「つぎは就職です。実は、これもぜんぜんやる気がなくって。ノウハウ本を買って、ステレオタイプの志望動機を言うわけです。そりゃ、わかりますよね、向こうも。こっちだって、受かる気がしなかったですもん」。
ある大手での面接。「ぶっちゃけ、やる気がない」といった。面接官も「だろうね」と。その会話で開き直った。「そうなんですよね。それで、改めてどうするかとジブンに問いかけた時に、はじめてジブンをみつめなおして、何が好きか思い出してみたんです」「それが、映画ですか?」「そうです。小学生の頃から映画を観るのが大好きで。だから、映画の会社を受験してみようと思ったんです」。
実は石見氏、根っからの映画好き。映画小僧でもあった
。 そして、東京テアトル。「ふつうなら、あかんかったと思うんですが、ちょうど関西で事業を拡大しようとしていた時期だったもんですから、その枠で採用してもらいました」。
好きな映画。映画通という自負もあった。だが、入社したら、好きのレベルがぜんぜん違った。

好きのレベルがまったく違い、映画小僧の名を返上する。

「私だって年間100本くらいは観ていたんです。でも、上司とかは年間365本。それも、すべて映画館です。話にならないと思いました。私は言ってもTVやビデオで、観るくらいでしたからね」。
好きの尺度が違った。もっとも、最初に配属されたのは六甲にあった遊園地。阪神淡路大震災でクローズされるまで、こちらで勤務する。
「それから、宇都宮にある、宇都宮最大の映画館勤務です。希望を聞かれたんですが、宇都宮ってあんなに遠いなんて思ってもなかったもので。関西の私からすれば首都圏みたいなイメージだったんです」。東京から東北新幹線で1時間。宇都宮最大の映画館を観て、あ然とした。
「宇都宮にはオリオン通りっていうメインストリートがあるんですが、そこが半ばシャッター通り化されていて、その向こうにデンと古ぼけた映画館があって、娯楽の伝統なんて書いてある。映画が好きで入社したんだからと、気持ちを落ち着けるのがたいへんでした/笑」。
昔々、映画事業はドル箱事業だったらしい。ドラム缶に札束を投げ込み、あふれる札束を押し込んでいたような時もあったそうだ。しかし、石見氏が入社した当時、映画事業はすでに斜陽産業の仲間入りを果たしていたらしい。配属された宇都宮の映画館でも、各席に備え付けられた自慢のスーパーウーハーが、ところどころで潰れてしまっていた。「直す資金もなった」と笑う。
「2年程度つづけるんですが、映画館のスタッフって、当時はやることもなくって。毎日、おなじルーティンで飽きてきちゃったんですね。それで、本社に異動願いをして、一時は経営企画に入り、予算の編成などもしていました。そして、もう20年になりますが、飲食事業に進みます」。
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有限会社ウェルバランス 代表取締役 黒田将嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ウェルバランス 代表取締役 黒田将嗣氏登場。
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中学生に、群がる客たち。

銚子という地名は知っているが、「千葉のどこにある?」と質問されて、すぐに回答できる人は案外、少ないのではないか。銚子市は関東平野の最東端に位置し、利根川を越えれば茨城県となり、太平洋に突き出した格好をしている。その銚子は醤油でも有名だが、漁業も盛んで、銚子漁港は現在、水揚げ高、日本一だそうだ。実は、今回、お話を伺ったウェルバランスの代表、黒田氏は、この銚子市の出身。この銚子の漁港で仲買を行っている幼なじみとタッグを組んで飲食事業をスタートしたという。黒田氏は、1970年生まれ。2018年現在。もっとも脂がのりきっている年代でもある。
黒田氏は、中学1年生の時から魚屋で仕事をしている。寿司屋を経営する両親は貧しくもなかったので、その理由を聞いてみると、「一度やると仕事が楽しくなって」とのこと。なんでも客受けも良く、店の業績アップにも貢献したそうだ。
「観光客が来て、魚を選んで買って帰ることもできるし、2階の食堂で調理してもらうこともできるお店ってあるでしょ。私がバイトをしていたのは、そんなお店です」。
春休み。夏休み、冬休み。黒田氏が店頭に立つことで、店はいつもより繁盛した。中学生ながら「月給10万円くらいあった」と笑う。
中学1年からスタートしたこのアルバイトを、黒田氏は高校を卒業するまでつづけているから、かなり気に入っていたのだろう。いまの原点をつくったのも、この時期に違いない。
「東京に出たかった」のは、美容専門学校に進んだ理由の一つである。もう一つは、単純に「姉がその道に進んでいたからだ」という。「親も『美容専門学校に進むならお金をだす』と言ってくれていたんで」。お金をだしてもらうぶん「テクニックはマスターしようと思っていた」と律儀なことをいう。
目的は、そう明確ではなかったが、東京への旅立ちで「起業」に向けて走り出したと表現してもいいだろう。もっとも、この時、銚子とふたたび縁ある仕事をしようとは思っていなかったはずだが。

手取り3万円の美容師時代。

「美容学校は1年です。卒業して、当時人気の美容室に就職しました。芸能人やTV関連の方なども良くいらっしゃるようなお店です。そちらに5年ほどいて、それから一時、TV局の方に誘っていただいて、ADの仕事をします。はい、どちらもかなりきつかったですね/笑」。
5年というから、美容師を辞めたのは24歳の時だろう。その理由を聞くと「お客さんがついたんです。それを一つの区切りにしようと思って」とのこと。普通なら、逆のように思えるが、それまでの苦労話を聞くと納得できる点もある。「月給は7万円くらいで、いろいろさっぴかれて手取りは3万円くらい。それで仕方なく、アルバイトも掛け持ちです。ただ、親に授業料をだしてもらっているぶんの元はとらないといけないと思って」。
客がつくことで、一人前。そこまでくれば、元は取れたという理屈である。だから、美容師を辞めた。いくらなんでも、月3万円はきつい。「それからADの仕事を、そうですね、1年くらいやって。もう一度、美容師をはじめます。もっともこの時は、アルバイトです。私にとって時給のいいアルバイトが美容師だった、理由はそれだけ」。
実は、当時、黒田氏は脚本家の勉強をしていたそうだ。そちらで食べていくのが黒田氏の、当時の野望だった。先生にもついて学びもした。しかし、そう甘くない。
「もともと起業も視野にありました。それで、もう17年前になるんですが、中目黒で、起業します。ええ、最初は美容室です。知人を誘いオープンし、美容師の道を先に進んでいた姉も合流してくれます。ちっちゃなスペースの美容室ですが、芸能人もいらっしゃるようになり、今も、たくさんのお客様がいらしてくださっています」。
なんでも、今現在も「週に2回は店にでる」という。美容師でありながら、飲食店の経営までする。タレント顔負けの凄腕である。

仲買人の幼なじみといっしょに走り出したもう一つの事業。

現在、黒田氏は、美容室のほか、飲食事業として「魚屋さんじゅうまる」など5店舗を経営している。なかには数坪の店もある。小さいからこちらは「丼」のお店。いずれもメインは、魚。「鮮度が違う」というのは、某グルメサイトに載っている評価の一つ。
「会社を設立したのが、12年前で、1号店を出店したのは11年前です。銚子で仲買人をしている幼なじみといっしょにスタートしました」。
「仲買人」といっしょということは、中間業者を通さず市場から直接、仕入れ、販売するころができる。これが黒田氏が始めたビジネスモデルである。今でいう「6次産業」の走りともいえるだろう。根っこにあるのは、やはり中学の頃からはじめた魚屋のアルバイトである。
「そうですね。その頃、漠然としていたものが一つのかたちになったような気がします」。鮮度の違いを知り、鮮度のいい魚がどれだけお客様に喜ばれるかを知っていたから進んだ道でもあるのだろう。
鮮度のいい魚はたしかに旨い。しかし、そうそう気軽に食べることはできない。わざわざお客さまが、三軒茶屋の「さんじゅうまる」までやってくるのも頷ける。
そうやって、特段の修業もすることなく、スタートした飲食事業だが、美容室同様、こちらも人気になり、TVの取材なども受けている。理由はやはり鮮度のいい魚の旨さだろう。
ただ、口コミをみるとそれだけではなく、サービスのポイントも高い。ここにも、実は、黒田氏という人間の本質が表れている気がしてならない。
それで思い出すのは、やはり中学1年生で大人たち顔負けの売り上げをたたき出した黒田氏の過去である。
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株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ウインドウ 代表取締役 臼井大士氏登場。
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交野市出身。

大阪府交野市出身。小学校ではソフトボール、中学ではバレーボール。いずれでもキャプテンを務め、運動神経も、勉学の面でも秀でた少年がいた。それが今回、ご登場いただく臼井氏である。生年月日は1977年8月14日。
「父親も、母親も松下電器(現パナソニック)で勤務していました。父親は松下電器が運営する高校に進み、卒業後も事務方としてずっとあゆんできた人です。鳥取に6年、台湾にも単身赴任していました。そういうこともあって、たまに帰ってくる父が大好きでした」。
中学でバレーボールをはじめたのは、姉の影響。高校も実は姉の勧めで、公立ではなく有名私立「東海大付属仰星高校」に進んでいる。「できればバレーボールをつづけたかったのですが、スポーツ科と進学科は、そもそも授業時間から違っていて、つづけたくてもつづけられなかったんです」。
スポーツでも、進学でも有名な高校に、よくあるといえばあるコース分けである。「高校2年の時ですね。母が病気で倒れ、幸いなことに全快したんですが、それがあって医学の道を選択します。今までは、どちらかといえば方向性がなかった私ですが、一念発起して医学部をめざしました」。
医学部をめざすというのだから、学力は相当高かったはずである。ただ、進んだのは京都の龍谷大学。希望の大学には進むことができなかったらしい。
「コネがないと、選択肢は国公立しかありません。推薦で、ある大学の薬学部も受けたんですが、数点足らずで」とのこと。「それで、思い切って文転して、経営学部に進んだんです」。
医師は諦めたが、経営という観点からも人の役に立つ仕事ができると思ったから。「そもそも経営にも興味があった」と話している。

卒業後、もう一度医学の道を志すが。

「大学に入って、やっぱりスポーツをしたくなって、それではじめたのがアメフトです。もっともサークルで練習は週2回。大会では、いつも最下位か、最下位の一つうえが定位置でした。それでも、いい経験ができたと思います。アルバイトもできたし、フィールドを思い切り駆けることもできましたから」。
ポジションはランニングバック。
ところで、臼井氏は「料理に天賦の才がある」と姉にほめられていたらしい。「う~ん、なんでしょうね。もちろん、飲食の道に進むとは思っていませんでしたが、小学校の頃からTVの料理番組をみて、なんとなく。もっとも、つくっていたのはチャーハンとかですね。大盛りの/笑」。
だから、母が入院した時も困らなかったそう。料理は姉ではなく、臼井氏の担当だったようだ。
大学を卒業すれば、ふつう就職ということになる。しかし、臼井氏は時間を巻きもどそうとする。
「やっぱり、医学というのが頭のすみっこにあって。それで、臨床検査技師になるために3年制の医学関係の専門学校へ進みました」。再度、一念発起。ただ、思いはそう長くつづかなかった。「周りの生徒とは年齢も違うわけで馴染めなかったというのが正直な気持ちですね。3ヵ月で退学してしまいました」。
医学部をあきらめ、龍谷大学に進むとき、友人から「すぐにあきらめるんだ」と言われた。その言葉も、どこかわからないが心のすみにずっとひっかかっていた。だから、改めて医学の道に進みはじめたが、再度、挫折。「ひきこもりになってしまった」と笑う。

飲食へ。

家に居座りつづけること数ヵ月。「だんだんお金もなくなるわけで。そうですね。そのおかげで、次の道に進めました」。お金のために「なか卯」」でアルバイトを始めたのは、この時。年齢は23歳。「このなか卯で、飲食の仕事を始めてから、いままで一筋といえば一筋。一時、生命保険会社でも1年半勤務しているんですが」。
アルバイトで入社し、半年後には、正社員となり店長に昇進する。「学歴も何も関係がない」という一言に惹かれたそうだ。どこかに学歴のコンプレックスがあったのだろうか。龍谷大学卒といえば、悪くはないのだが。医学部をめざしていた本人には肯定できる学歴ではなかったのかもしれない。もっとも、仕事を始めてから、臼井氏に対する評価は極めてたかかった。実家を後にし、主に名古屋で勤務している。
「なか卯にいたのは、5年くらいですね。辞めた理由は、自分を曲げられなかったからです」。「なか卯」を退職し、いったん生命保険会社で勤務をスタート。1年半後、今度は、飲食事業の経営支援サービスなどを行う会社に転職した。社名は、リンク・ワン。臼井氏によれば、業績はすでに下降線をたどっていたらしい。それでも社員数200名。経営する飲食店も少なくなかった。
もともと経営学にも興味があった臼井氏である。「飲食」と「経営」と言う言葉が、文字通り「リンク」するはずだった。しかし、当時、東証マザーズに上場していた会社は、民事再生の道をたどる。
「いま、私どもが行っているスープカレーや海鮮居酒屋といったブランドも、リンク・ワンから譲り受けたもの。親会社は、コンピュータのメーカーでもある株式会社マウスコンピューターを擁する株式会社MCJ。国産で、高性能なコンピュータということで、ご存じの方も多いのではないでしょうか。とにかく、その株式会社MCJが受け皿になってくれたんです。私も、その時に、転籍します」。
カレー食堂「心」、大阪鶴橋お好み焼き「わっはっはっ風月」、地魚屋台「浜ちゃん」。この3つが現在の主力業態である。
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2018年4月3日火曜日

写真週刊誌「FLASH」に掲載されました。

飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
先日、写真週刊誌「FLASH」に私の記事が掲載されたんですが、
ヤフーニュースにも出ました。


内容は以下の通りです。

飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで

4/5(木) 11:05配信
SmartFLASH

飛び込み営業の鬼だった男が「求人業界」で勝ち抜くまで


社長は社長を識る。取材した社長700人超、ネットワークが築かれ、仕事が生まれた――。

 京都市の北、かつて京北町と呼ばれた地域は、2005年に京都市右京区に編入合併された。細見昇市さん(55)は、北山杉で有名なこの町で生まれ育った。祖父の若いころは、町を流れる桂川に筏を浮かべ、北山杉を市内まで運んだという。

 実家は農業と林業を生業とし、小さなころから稲掛けや畑作業などの手伝いをした。長男だったが、小学校の卒業文集には「将来は世の中に役に立つ社長や政治家になる」と綴った。

「いちばん上が姉で、その後、兄が生まれましたが、未熟児ですぐ亡くなりました。母にとってお産は危険だったので、兄が生きていたらたぶん僕は生まれていなかったと思います。

 小学生のときにノストラダムスの大予言が流行りました。兄のことや、何度か事故で死にそうになったことがあり、小さいながらに人生は一回で、与えられたものという気がしていました。それなら人の役に立ちたいと思い、それが社長を目指す動機になっていきました」

 社長になるためには度胸も体力もつけるべきと考え、高校では野球部、大学ではボクシング部に入って鍛えた。大学4年生の就職シーズンに、英語も話せないのに『地球の歩き方』1冊を持って1カ月間のインド旅行をした。

「サラリーマンになるのがいいのか迷ったときで、自分を試したのですが、思いどおりに旅行ができた。それで自分が思った生き方をするべきだなと自信がつきました」

 就職活動はしていなかったが、たまたまリクルートがアルバイトを募集していて、いろいろな経営者に会えると書いてあった。勉強になると思い、面接を受け採用された。

「当時のリクルートはほとんどがアルバイト。それで正社員になろうと思いました。ところが正社員になるのには、2年間営業成績が一番でなければ無理だという話です。

 正社員にこだわったのは、それにもなれないようならしょせん独立なんて無理。だからなにがなんでもやってやろうと。新人時代の半年は毎日求人広告を出してくれる会社探しで、約400社に飛び込み営業をしていました」

 大阪勤務の後、京都勤務となったが、やることは同じ。会社をたくさん回るうちに勘が磨かれ、営業のコツもわかるようになり、成績はほとんど1位だった。

 そして2年3カ月でリクルートの正社員になった。次なる目標は市場規模の大きい東京。ちょうどリクルート事件が起きて東京の業績が落ち込み、テコ入れで転勤が決まった。

「新卒社員より早く、27歳で営業課長になりました」
 
 しかし、独立して社長になりたかった細見さんは1992年、結婚を機に(株)キイストンを設立し、リクルートの代理店を始めた。念願の社長。29歳のときが人生の転機となった。

「1992年はバブル崩壊が本格的に始まった年。週に1600件ぐらいあった求人が、翌年には450件ほどに落ち込みました。独立に対して文句も言わず、厳しいときはこっそり自分のお金を出してくれた妻に感謝しています。毎日飛び込み営業を繰り返しているうちに、京都時代のお客様を含め仕事が入るようになり、少しずつ軌道に乗りました」

 次に目指したのは株式上場。ところが、札幌証券取引所で株式公開価格まで決まりかけた2006年にライブドア事件が起き、その影響で結局承認されなかった。

「上場するために人を増やし、営業的にも無理をしたため客が離れてしまった。そこで少人数でも対応できるように方向転換をしました」

 銀行から借り入れをしてなんとかやり繰りした。そして、成果報酬型の求人サイトとの出会いと、求人ニーズの高い飲食業界に特化したことで業績が上向いた。

 飲食業界の社長にインタビューするサイトを立ち上げたことも大きかった。毎週更新し、取材した社長は700人を超える。ネットワークが出来て新たな仕事が生まれ、マスメディアとも仕事を始めた。

「社長になりたいなら、いま目の前にあることを一生懸命やる。捨てる神あれば拾う神もある。だから “絶対あきらめない” こと」

 細見さんの言葉だけに、説得力がある。
(週刊FLASH 2018年4月17日号)