2019年6月28日金曜日

6月26日、青山学院大学の堀内ゼミの講義はキリンシティの江田社長でした。

6月26日、青山学院大学の堀内ゼミの講義はキリンシティの江田社長でした。
江田社長は青山学院中等部からの青山学院大学OBで学生にわかりやすく講義していただきました。
青山学院大学の堀内ゼミ、2019年度飲食経営者による講義、残すはあと後期に2回となりました。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

ファンくる・パートナー感謝祭に江川と招いて頂きました。

昨日27日、ROI様主催のファンくる・パートナー感謝祭にお招きいただきました。
益子社長の配慮でご挨拶させて頂き、多くのご縁頂きました。
企業様のため、またパートナー企業様のため、すごくきめ細かい点は見習わなければ・・・。 

弊社は、ファンくるの活用として離職を少しでも減らせるよう定着面での活用をとお客様に話しさせてもらっています。
昔と違い少子化の今は親や先生から怒られ慣れしてないので、厳しくするとすぐ辞めますってなりますからね。
(パートナー感謝祭にて)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年6月26日水曜日

株式会社ドリームダブルコーポレーション 代表取締役社長 小林貴志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドリームダブルコーポレーション 代表取締役社長 小林貴志氏登場
本文より~

勉強熱心な小学生、中学受験する。

小林氏が物心ついた時には、ご両親は新橋や浅草、茅場町で喫茶店を経営されていたそう。そのあと足立区に引っ越し、居酒屋を営まれるようになる。
小学生の頃のことを聞くと、「明るくて、やんちゃだった」と笑う。もっとも、思い出すのは勉強のシーンばかり。受験勉強のことである。
「獨協大学の付属中学に進みます。子どもの頃は勉強ばかりだったんですが、さすがに、だんだんと勉強しなくなって。大学の頃は、もうまったくしなかった。大学は、帝京です。もう少し上を狙っていたんですが、勉強しなかったんだから、ま、当然といえば当然ですね/笑」。
中・高は硬式テニス漬けだった。大会にも出場し、それなりの成績も残した。「特別な目標はなかったです。とにかく、中・高の6年間はひたすらテニスです」。
周りは超がつく金持ちの子息。びっくりするくらいだった、と笑う。
「なかには、経営者の子もいましたが、すごいなと思うだけで、特段刺激されなかったですね。大学からは勉強そっちのけで、サーフィンばかりしていました」。
サーフィンはいまもつづけている。週イチ。365日、オールシーズン、とのことだ。

起業するなら「プロント」がいい。

大学卒業後は、スポーツ会社に就職したが、25歳で退職し、起業に舵を切る。経営者の父親をみてきたことも背景にはあるが、正確には「サラリーマンは窮屈でしかたない」が動機である。
「父親の影響も多少なりとも受けていたんだと思います。私が、起業のために選択したのも、父同様、飲食。なかでも、興味があったのがプロントです」。
プロントは、いうまでもないが、株式会社プロントコーポレーションが経営するCAFF&BARだ。都市型店舗が多い。「プロントのFCなら、CAFEとBARの両方を勉強できると思ったんです。でも、そもそも個人なんて相手にしてくれません/笑」。
それがわかっていても、あきらめない。「2年間くらい、本部でアルバイトをしました。それもあって、FCにはOKがでたんですが、プロントって投資額がハンパないんです。私の時も開業資金6000万円です」。
たしかに、個人を相手にしない理由もわからなくない。
「私が個人で500~600万円。それ以外は親からですね。うちも担保に入れたし…」。
悪い表現をすると、親を頼ったとなるが、そのぶん、背負ったものは小さくなかった。小林氏28歳。念願のプロントがオープンする。

FCで得た経験をもとに、オリジナルブランド開始。


「プロントは、CAFEとBARの、二毛作です。一つの店で、二つの業態を経験できる。私が、いちばん惹かれたのはそこです。もちろん、飯田橋に1号店を出店した時はさすがに苦戦もしましたが、なんとか頑張って、2店舗目を出店できるくらいにまでなります。そして、2店舗目が春日部に出店した『とり鉄』です。こちらもご存知のようにFCです。『とり鉄』は最初からいい具合にヒットします」。
「とり鉄」は投資額も、プロントの1/3くらいで済んだから、そのぶん、回収にも時間がかからなかった。ふたつのFCを軌道に乗せることで、小林氏の自信も、評価も高まる。
「そのあとも『九州熱中屋』など、FCを出店し、それから、オリジナルブランドを出店します。今年9月にも11店舗目を出店する予定の『ラッツ ダイニング』もオリジナルブランドの一つです」。
FCで得たノウハウを移植する。もともと、「FCだから、儲かるだろう」ではじめたわけではない。いい意味で、ノウハウを盗む覚悟があったから、実ったオリジナルである。
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2019年6月25日火曜日

有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏登場
本文より~

オモチャがつなぐ縁。

「小学校に上がる頃まで、ぼくだけ、おばあさんといっしょに台北で暮らしていました」と江野氏。江野氏は、4人兄弟の次男。「兄1人、弟2人。小さな頃の思い出ですか? そうですね。叔母がくれたおみやげを友人に売ったことがあるんです。それも、高値で/笑」。
叔母さんが買ってきてくれたのは、日本のオモチャ。
「ええ、叔母さんにバレたら怒られると思っていたんですが、逆に『商才がある』って褒めてくれたんです。そんなことがあってからですね。日本を意識するようになったのは…」。
日本製のオモチャを欲しがる子どもたちをみて、江野氏は、はじめて日本という国を意識する。むろん、この頃はまだ、日本で暮らすとはまったく思ってもいなかった。
「私は、小学校から卓球を始め、中学、高校と卓球をつづけます。高校では強豪校に進んで寮に入り、卓球をつづけます。あ、でも、特別、巧かったわけではないんです/笑」。
江野氏は、そう言ってけん遜するが、団体戦で全国2位にもなったこともあるというから、相当な実力だ。韓国や日本で行われた親善試合にも出場している。
「そうですね。親善試合がきっかけだったわけじゃありませんが、たしかに、この頃から留学を意識するようになりました」。オモチャの縁が、改めて日本と江野氏をつなぎはじめた証だろう。

来日と、だまし取られた900万円と。


江野氏が来日したのは、1994年10月。
「日本で暮らしていた叔母さんを頼って」と江野氏。なんでも、来日したその日からバイトをはじめたそい。「日本では大学に進学し、情報学科を専攻します」。
ちょうどウインドウズ95がリリースされる頃。いろんなネットビジネスがスタートする。商才のある若者は、その波に群がった。江野氏も、その1人だった。
「大学4年の時にネットビジネスで起業しようと思って会社を立ち上げるんです。ハイ、それがいまのうち『ネットタワー』です」。
「ネットタワー」。飲食にしてはめずらしい社名と思っていたが、それを聞いて納得した。「だけど、どういうわけか…。ボタンの掛け違いで、飲食の世界に進むことになるんです/笑」。
知り合いの華僑から「いっしょにビジネスをしないか」と誘われた。それが「タピオカ」との出合い。「最初は、タピオカの輸入などを考えていたんですが、華僑が経営していたのは神田にある東南アジアの料理店です。私はそちらで仕事を始めるんですが、『いっしょにしよう』と言ったタピオカのビジネスはぜんぜん前に進みません」
それどころか、いつのまにか店長に格上げされ、店を切り盛りするようになっていた。「ネットのビジネスの種がみつかればいいやって思っていたんですが、私も店が忙しくて、それどころじゃない。そうこうしているうちに3年くらいが過ぎ、オーナーが店を売却するといいだしたんです」。
「それで、飲食事業をスタートしたんですか?」と江野氏にたずねると、苦笑いしながら首をふる。
「私も店長をやっていましたから、愛着がありました。コックさんも私が連れてきましたから、店を閉めるのは忍びない。だから、『売却するなら、私に譲ってくれ』と、オーナーに交渉するんです」。
この時、江野氏は、オーナーに900万円を支払っている。
「でもね。だまされたんです。私だけじゃなく、いろんな会社とも契約していて。『だまされた』と気づいた時は、後の祭り。なんとか500万円はとりもどしましたが、残りは仕方ありません」。
それで、飲食にも進めなくなったわけだ。八方ふさがり。
さらに、つづきがある。
「それで、初心に帰ろうと『タピオカ』の輸入を計画します。でも、防腐剤の問題で輸入できません。どうしようか。その時『だったら、日本でつくれればいい』って思いついたんです」。
幸いというか、まだ400万円を貸したままのオーナーが工場を持っていた。「それで、一部をただで貸してもらって、タピオカの生産を開始します。ただ、生産が軌道に乗る前に、今度はオーナーはいなくなった。そして、あっちの人たちが『金を返せ』と押しかけてきました」。
「なんなんだ日本って国は…」。そう思ったんじゃないだろうか。
しかし、江野氏はまだへこたれない。
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2019年6月19日水曜日

夕刊フジの新連載「飲食FCで第2の人生」が5月17日(金)より連載開始。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」を17日よりスタートしました。
5月17日、24日、31日の3連載でフードフォーラムの千葉哲幸氏にFC(フランチャイズ)について語っていただきました。
zakzakにも同時掲載します。
  (No.1)
zakzak
 (No.2)
zakzak
 (No.3)
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株式会社にっぱん 代表取締役社長 近藤洋一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社にっぱん 代表取締役社長 近藤洋一氏登場
本文より~

1周たった4キロの小さな島。

父親はかっこいい漁師だった。イセエビ、アオリイカ、鯛、カサゴ…海の恵みは豊かだったが、生活は裕福ではなかったようだ。
「私は、宮崎県の小さな島生まれです。1周、4キロ。島の分校の生徒数は9人で、私の同級生はたった1人です。とにかく、台風が多かったですね。遊びっていったって、海と山しかないでしょ。だから、男子はだいたい野生児に育ちます」。近藤氏は3歳で泳ぎ、5歳の時にはモリで魚をついていたそうだ。
父親は島育ちだったが、母親は東京生まれ。東京で父親と知り合い、父親を追いかけるようにして、この島に嫁いだという。
「東京の祖父は、石油会社の役員です。母は、2人姉妹の長女。たいそうなお嬢様で、料理もしたことがなかったそうです/笑。もちろん、こちらでお嬢様なんて通用しません。母も父を手伝い、まっくろに日焼けします。そうですね。お金がないもんですから、東京の祖父母のところに行くのは、3~4年に1回くらいですね。小学生の4年の頃に一度妹と2人だけで行ったことがあります。母のぶんまで、切符が買えなかったんでしょうね。ええ、東京は、島とはぜんぜんちがう風景でした/笑」。
妹の手をにぎり、東京の街をみる。小学4年、10歳、1983年の東京。バブルの芽が育ちはじめた頃である。

島から来た野生児は、運動神経抜群だった。

もともとガタイがでかい。しかも、野生児である。わんぱくなイメージに思えるが、案外そうでもなかったらしい。母親に勧められたこともあって本好きで、じつはかなり勉強もできた。中学校には、船と自転車で通った。1クラス25人。同級生の数は25倍になったが、笑うほど少ない。
それでも、バスケットボールは県の大会で準優勝。卓球でも市の大会で準優勝している。「ハッキリ言って、運動神経だけは抜群でしたね。水泳でも、じつは大会新記録を更新しています。まあ3歳から海で泳いでいますからね。泳ぎは得意中の得意です」。
何をやらしても、誰よりも巧くできた。バスケに、卓球に、水泳に…、ただ本人はプロ野球選手になりたかったそう。「野球部がなかったんです。だから、カベあてが日課でした」。
もし都会でもおなじようなガタイになっていれば、才能ある選手として高く評価されていたにちがいない。
実際、名門の日南高校に進み、チームで野球をするのは初めてだったが、すぐに頭角を現している。背丈は183センチ。大学へ進学すると、堂々たる体躯から143キロのスピードボールを放った。

オーストラリアへ、ニュージーランドへ、波を切り進む。

「祖父母が東京だったこともあって、はじめから東京に行こうと思っていました。進んだのは、東京水産大学(現:東京海洋大学)です。大学では1年からエースで4番。3部リーグですが、奪三振王でした」。
東京に来て活躍する孫に、祖父も、祖母も目を細めておられたことだろう。
「ただ、2年の秋に肩を壊してしまいます。それが原因で3年の途中で野球から離れました。バイトは、1年の時から色々やりました。当時から鮨屋でもバイトをしていました」。
水産大学だから、1年間船にも乗った。オーストラリアやニュージーランドへ。マグロを追いかけたこともある。星で位置を確かめる訓練もした。
「大学を卒業する時には飲食を狙っていました。『にっぱん』に入社したのは、1997年です」。
2期生だったそう。同期は7名。「当時は、10店舗で売上は10億円くらいだったでしょうか。私は2年で本社勤務になります。経営企画室です」。
システムの導入、データの分析や数値管理…、経営陣からも高く評価された。上場の準備も中心となって進めた。何事も、順風満帆。しかし、落とし穴があった。

都会に、荒波が立つ。

「最盛期の売上は、55億円です。それが、35億円まで落ち込みます。資金の問題もあったし、無理な出店もあったんだと思います。いちばんは、いろんな計画が曖昧に進んでいたことですね。私は、財務も長く担当することになるんですが、異動した時には、ほぼドン底まで落ち込んでいましたから/笑」。
資金不足。銀行との交渉もうまくはいかない。組織もいつしか緩んでいた。「再生するのに5年かかりました。取引銀行も4行から30行にして、金利も大幅に下げます。人事でも大鉈をふるいました」。
「そうですね。いつからか『再生』という仕事をつづけてきたように思います。いま私が社長なのも、この時の経験を評価いただいた結果だと思っています」。
常務からいきなり社長に抜擢されたそうだ。それが2017年、この取材から2年前のこと。「6月19日に魚がし日本一30周年のイベントをやります。それが目下の大事な仕事でしょうか?」。近藤氏は、そう呟く。
また、働き方改革にはいち早く取り組み、定着率もぐんと良くなった。
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株式会社TGK 代表取締役 安藤隼人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TGK 代表取締役 安藤隼人氏登場
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立教大学までの話。

ふわとろ~。黄色い衣が「ふわり」と映え、一口食べれば「とろり~」とした食感が、幸福とともに口いっぱいに広がる。
オムライスの話である。
オムライスは、ごはんが用いられることからもわかる通り、フランス発祥のオムレツを日本人がアレンジしたものだ。もともとはケチャップをかけるのが一般的だったように思うが、いまはソースのバリエーションも数多くある。むろん、オムライス自慢の店も少なくない。そのなかで、あまたの競合を乗り越え、オムライス界の頂点を狙っているのが、今回、インタビューさせていただいたTGKの安藤隼人氏である。
安藤氏は、1980年、池袋に生まれているが、すぐに埼玉県所沢に引っ越している。性格はおとなしく、小学校~中学校までは喘息をわずらっていた。
「だから、走るのがキライだった」と笑う。
もっとも当時からスイミングに通い、中学では柔道をはじめているから、喘息以外に問題はなかったのだろう。教科のなかでは英語がいちばん得意だった。
「高校は立教高校に進み、バレーボールをはじめます。1ヵ月間ですが、イギリスにも留学しています」。ファミリーレストランなどでバイトをはじめたのもこの頃。大学はストレートに立教大学に進学。
「大学時代を表現すれば、のほほ~んですね。スノーボードのサークルに入り、大学には行かず、バイトに明け暮れていました。長期休暇になれば、バイトでもらったお金をもって、湯沢でスノボーばかりしていました」。
どこにでもいる大学生といえば、そうなる。
起業するとは本人もまだ思っていなかったことだろう。

2007年、独立開業。

「就活では、リゾート開発の企業を何社か受け、ホテル開発などを行っている会社に就職しました」。社名を伺い、検索してみると、ホテル事業、カラオケ事業、パチスロ事業など多岐に亘る事業を展開されていた。
「私は、カラオケ事業に配属されます。新卒では珍しいんですが、キッチンからのスタートです」。
カラオケといっても、料理は本格派。実際、キッチンで安藤氏を待っていたのは、レッキとしたフレンチ出身のシェフだった。「でも、料理はともかく、馬が合わない。おかげで1年半くらいは、まったく面白くなかったですね/笑」。
どんな料理を任されていたのだろう。
1年半くらいしてから、マネージャーが異動。代わりのマネージャーとは、いい具合に馬があった。
「ここから俄然、仕事が楽しくなってきました。合計3年半くらい在籍しています。上野、御徒町、六本木で勤務しました」。
それから、独立?
「そうです。2007年、25歳で独立します。9月に神田に1号店オープンしました」。

めざすのはオムライス業界ナンバー1。


「ま、正直にいうと、最初はノリみたいなものですね」。
儲かるみたいな?
「そうです。最初の出店が神田。だから、『神田たまごけん』です」。
坪数15坪、初期投資は1500万円。
どうでしたか?とうかがうと、「結構、難しかったですね。スタートした時は前職の同僚や知り合いなどに声をかけて。法人化したのは、2011年です。その年の1月に池袋店をオープンし、6月に神田店を閉店しています」。
そして、2015年2月に秋葉原に新店をオープン。「2017年からFCをはじめます。それで、現在8店舗です。もともとは、2020年までに50店舗の目標をぶちあげていたんですが、今は、現実的な目標としてあと5店舗はいきたいな、と」。
もちろん、めざすのはオムライス業界ナンバー1。
それはいまも昔もかわらない。
メニューをもう一度みてみる。酸味の利いたさっぱりとしたスタンダードなトマトのソースの「トマトオムライス」や、特製ハヤシソースの「ハヤシオムライス」などがあり、チーズなどのトッピングも楽しめる。全メニューにコンソメスープが無料でついてくる。さらに、卓上に置かれた自家製スイートピクルスは、食べ放題! このピクルス、グルメサイトでも評判がよかった。
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株式会社千吉 代表取締役社長 長縄竜彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社千吉 代表取締役社長 長縄竜彦氏登場。

本文より~

おかずは、漬物。

吉野家ホールディングスには、様々な企業が連なっている。「吉野家」「はなまるうどん」「京樽」…、そして、カレーうどんの「千吉」。
昔からこうだっただろうか。久々に「千吉」のホームページをみると、カレーのバージョンがマシマシになり、おばんざいメニューの種類も同様に、マシマシになっている。
今回は、吉野家グループのなかでも「カレーうどん」を切り口にした独自メニューで注目の「千吉」。その代表取締役、長縄氏にスポットをあててみる。
小さな頃の話をうかがうと、長縄氏は「極貧だった」と笑いながら切り出した。「もともとは兵庫県で、親父のほうの家族5世帯で住んでいたんですが、父親のギャンブルが原因で岡山へ引っ越します。ま、『引っ越す』ではなく、『逃げる』がただしい表現です」。
1週間、ご飯と漬物だけ。そんな時もあったそう。「貧乏といったって、子どもの頃はそれが当たり前ですからね。辛いとかそういうのではなかった気もしますが、まぁ、強烈な生活でした。ただ、漬物だけでも、人間、なんとか飯は食えます/笑」。
飯は食えたが、家族の間はどうだったんだろう。両親は、長縄氏が高校を卒業すると、離婚。長縄氏も、高校を卒業してから飛び出すように家をでている。
「たぶん、私が高校を卒業するまで離婚を待ってくれていたんでしょうね」。
長縄氏は小さな声で、そう呟いた。

自立は、貧乏からの脱出を意味している。

「いちばんうえの姉はやんちゃですが、2番目は大人しい。私もじつは、高校生までは大人しい性格だったんです。得意な科目は算数に美術に図工…、体育とかはそう得意ではなかったですね」。
高校は18キロ離れていたから、バイク通学が許されていた。
「私が、かわったのは高校2年の時。思春期だったんでしょうね。三角関係みたいなかんじで、親友と泥沼化しちゃうんですね。そういうのが重なって。ある意味、ふっきれたんでしょうね。もう、だれかを気にするのはやめよう、やりたいように生きよう、と」。
「そうですね。あの頃は恋愛も友情もなんなんだって。その一方で、貧乏から抜け出すことは頭から離れていません。だから、大学にも行かず就職しました。靴屋です」。
昔の話だ。休日は少なく、残業は山盛り。4年つづけて退職した。
大学に進んでいたら、卒業する時だ。もちろん、長縄氏に新卒の肩書きはもうない。

最初の、はなまる。


「あの頃は、とにかくハードな時代でしたからね。とはいえ、人間ですから、休みも欲しいし。それで、転職を考えたんです」。
それが、「はなまる」さんとの出会いですか?
「そうです。当時は、エイジェンスという社名です。エイジェンスはもともとアパレルの会社で、『はなまるうどん』は、会社の一事業部としてスタートします。店名の「はなまる」は、創業者が子どもの頃から『はなまる』をもらったことがないので命名したのは有名な話ですね。この創業者とお会いして、『この人と一生、仕事をするんだ』って。ハイ、運命的な出会いでした」。
「はなまるうどん」の1号店は、香川県の高松市にオープンする。
「当時は創業者と、もう1人の方と私の3人です。本業は、アパレルでしたから、事業部をわけて実験的に讃岐スタイルのセルフうどんを始めました」。
創業者に惹かれ、創業メンバーの1人として、長縄氏の「はなまる」人生がスタートする。
「最初は一杯180円だったんです。だいたい周りのお店もそうでしたから。コーヒーチェーン店の、コーヒー1杯分ですね」。
どうでしたか? 
「そうですね。正直にいうとだめでした。思っていた以上じゃなかった。それで、ある程度、ノウハウがたまった1年後に思い切って勝負にでたんです」。
それが、100円?
「そうです。2000年に1杯のうどんが100円です。そうしたら、朝10時開店で、12時には完売。もちろん、100円ですからね。利益もそうはでない。私らの人件費を正確に計算したら、どうなっていたでしょうね/笑」。
もっとも、この時からスタイルは確立している。うどんをオーダーし、てんぷらをチョイスし、おにぎりを取る。
「お1人様の単価はだいたい500円くらいでした」。
あっという間に「うどん」がなくなる。それは長縄氏たちの未来がひらけていくのとおなじ意味だった。
ともかく、消費者が最初に「はなまる」に「はなまる」をつけたのは、この時だろう。
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2019年6月18日火曜日

飲食の戦士たち、掲載社数加速中!

2月から毎週火曜2社掲載実施してますが、既に8月まで掲載日程詰まってます。
さらにまだ20社近くが未掲載で、取材がこれからもまだ20社ほどあります。

「飲食の戦士たち」を通じて社長ネットワークさらに加速させます!

皆には飲食業界ナンバーワンを!って言ってますが、社長接点ではナンバーワンとようやく断言出来るところまではきたかな。

さらに高みを目指し、地道にコツコツと800社、900社、1,000社掲載へ!
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2019年6月16日日曜日

シニアの方をどう活かすか。

60歳、70歳過ぎても今までその方がやられてきたキャリアを活かしたり、新たな働ける環境を整えたり、老後も働ける環境を作ることが大事。

今回、書籍の取材・ライディング、それに記事の連載を70歳の土金さんにお願いしてるが、私たちがやるよりもきめ細かく、若い時から鍛えられ基礎がしっかりされてるので、超安心してます。

そんなキャリアお持ちの方々が、キイストンを通じて仕事が増えたら最高に嬉しい!
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経営革新計画進めています。

業務の幅広げるため、経営革新計画進めています。
新たな業務もコツコツと実績作って、大きな柱になれば…。
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2019年6月12日水曜日

ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 佐藤治彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ジローレストランシステム株式会社 代表取締役社長 佐藤治彦氏登場
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野山と虫取りと。

1961年、大分県大野市三重町(現/豊後大野市)に生まれる。野山を駆け回り、虫取りにハマり、虫かごはいつも一杯だった。今回、ご登場いただいたジローレストランシステム株式会社、代表取締役社長、佐藤治彦氏の子どもの頃の記憶である。中学から軟式テニスをはじめ、郡でもそれなりに有名になった。
「高校は30キロ離れた竹田というところの高校に進学します。電車通学ですが、ときにはバイクでも通学していました。距離があるから許されていたんです」。
むろん、テニス部に入ったが1年でテニスを辞めた。テニスに集中できる環境でなかったことが理由である。おかげで、ぷくぷくと太り、体重は21キロ増になった。大学は、一浪して、明治大学へ。
農学部というから、野山を駆けた子どもの頃とだぶったりもする。
もちろん、この頃、「飲食の戦士」になるとは想像もしていなかった。「父が公務員、母が看護師だったからでしょう。弁護士や教師をめざすように言われていました。内心、いやだなとは思っていたんですが、まさか、飲食会社で社長になるなんて。たしかに想像外ですね/笑」
とはいえ、料理人をめざしたこともあったそう。「両親がいそがしくて。うちは料理が当番制だったんです。ええ、私の番もあって。料理って楽しいなとも思っていたんです」。
めざしていただけではなく、じつは大学時代、一度、アルバイトだが面接にも臨んでいる。「たぶん、いきがってパーマをかけていたのがアカンかったんでしょうね。ハイ、すんなり不合格です」。
だから、スイッチはまだ入らない。

小田急電鉄。

味の素などの食品メーカーを狙っていた。就活の話である。
「農学部ですからね。食品メーカーがいいかな、と」。しかし、実際に就職したのは、まったく異分野の鉄道会社、小田急電鉄株式会社である。
「たまたま、うちの学部に求人が来ていたんですね。ためしにエントリーしたところ、創業者が大分出身ということもあったんでしょう。無事、内定をいただきました」。
ただし、電鉄といっても採用されたのは園芸関係の総合職。実は、この仕事、定員はたった1名。佐藤氏が第1号で、それ以来、募集が行われたこともないらしい。「そうなんです。私が最初で、最後です/笑。もっとも、フラワービジネス自体は以前からつづいていて、本店の年商は4億円超。業界ではトップクラスです」。
以来、16年間、「花」のセールスをしていたという。どこに、どんな風に営業していたんだろう。「市場にも行ったし、海外から仕入れもした」そうだ。
「17年目から、電鉄の営業推進部に3年在籍します。むろん、大事な仕事ではあったんですが、私には性に合わなかったんでしょうね。商品を生み出す仕事に興味がわきました。そんな頃からですね。飲食をやってみたいなと思いだしたのは…」。

出向先は、ジローレストランシステム。

「食べることが好きだから」と佐藤氏はいう。多少のコネもなくはなかった。「当時、すでにジローレストランシステムは、小田急の子会社だったんです」。調べてみると、1994年に、小田急電鉄が筆頭株主になり、子会社化している。
「当時の社長が、荒井さんといって、電鉄からの出向者です。昔から知っていて良くしていただいていたんです。私なりの貢献方法として、ジローレストランシステムの店舗に足を運んではレポートを書いてお送りしていました。素人の意見ですが…。そういう積み重ねを経て、荒井さんに相談させていただいたんです」。
「たたかう準備ができました」。佐藤氏は、荒井氏を相手に、そう呟いたかもしれない。
むろん、小田急電鉄という大組織で生き残るのは難しい。それは、間違いない。ただ、飲食は、それ以上と言ってもいいのではないか。たたかわない者は、生き残ることすらできないのだから。
「ハイ、私も、出向です。でも、もう15年。出向というには長すぎますね/笑」。

2019年、社長就任3年目。


ジローレストランシステムに出向して15年というから、辞令が下りたのは2004年くらいのことだろう。
ホームページで調べてみると、<2004年、マ・マーフーズ株式会社を吸収合併し『サンレモ』4店舗を直営店とする。ピッツェリア『マッテオ』オープン/2005年、リストランテ『アベーテ』、豚肉料理専門店『豚道楽』オープン/2006年、カフェ『カフェ イル モ』、ピッツェリア『インテルヴァッロ』、パスタハウス『ラ コルタ』『トマティーナ』オープン、2007年/イタリア トスカーナのワイナリー・リストランテ『バディア ア コルティブォーノ』と業務提携し、1号店をオープン>とつづいている。
2019年5月現在で、社長に就任し、3年目を過ごしている。
「就任1年目は苦労しました。ただ、昨年の決算では、既存店が前年比100%をクリアしたんです。これは、過去30年くらいはなかったことじゃないかな、と。既存店の数字は、なんといっても営業努力の表れですからね」。
佐藤氏は、誇らしげに笑う。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏登場
本文より~

オヤジは、星一徹。

「星一徹みたいな親父」。村岡氏は、父親のことをこう表現する。食事のときに正座しないと殴られる。左官職人として、中学卒業時より丁稚奉公に出ており、昔ながらの頑固一徹、その環境下の中で育ったそうだ。
「私は、山口県のコンビナートの街、徳山市(現/周南市)で生まれました。1968年ですから、当時の徳山市はコンビナートに囲まれ、街の中心地はデパート、商店街と活気づいてた時代でした。徳山市は、山あり、海あり、川あり、と中心地から外れるとド田舎で、野球や、「アアァ~」って、そうターザンごっこもしました。」。
とにかく、幼少期は遊び盛り。勉強には目もくれない問題児だった。
「小学2年生の頃、母が乳がんで入院していた時期があり、その時ですね、おやつを食べたくて料理のマネ事というか、焦げたホットケーキを作った覚えがあります」。
むろん、料理人になるとは思ってもいない。
ただ、源流は案外、ここかもしれない。
中学生になってからは、テニスに没頭。学業は万年ビリから2番目だったが、幸か不幸かキャプテンに選ばれた。高校もかろうじて公立高校へ進学し、テニス部に入部。
「高校でも勉強はしませんでしたがというより、中学以上に勉強が分からなくて、毎日放課後マンツーマンでの課外授業が毎日の日課でした/笑」。
青息吐息で、卒業する。

「センスがある」とほだされて。

「高校時代のもう一つの思い出が、高校2年生から始めたアルバイトです。ええ、そのバイト先がその後の人生を左右する『中国料理 敦煌』です」。村岡氏によれば、当時から街で有名な中国料理店だったそうだ。
部活が終わると自転車をこぎ通う。当時の時給は450円、月2万円くらいにはなった。
「職場ですか? そうですね、当時の職人同士の喧嘩はしょっちゅうでしたが、バイトには優しいんですよ。当時私は16歳、大人の世界を始めて垣間見た瞬間でした」。
「バイト始めた半年は鍋洗いだったんです。でも、だんだん仕込みや、デザートまでさせてもらって、良く厨房の方に「センスあるな」なんて、みんなからヨイショされていい気になってね。考えてもみなかった料理の世界へと足を踏み入れたんですよ/笑」。
ただし、「センスがある」といった先輩は、あながちヨイショだけでいったのではないかもしれない。なにしろ、村岡氏はやがて総料理長を務めるようになるのだから。

いきなりの宣言。「今日から会社がかわります」。

もう一度言うと「敦煌」山口県中心に展開する老舗中国料理店である。歴史を少しだけ追ってみる。創業は1956年「五平太食堂」を開業したことに始まる。1966年に「株式会社五平太」を設立して法人化。1995年には、広島証券取引所に上場している(当時の社名は株式会社パオ)。その当時で中国料理敦煌は13店舗まで拡大。村岡氏は1986年新卒で入社している。当時の初任給は10万円、手取りで8万円くらいで、入社した初めの月だけ残業手当がつき、手取りで18万円もらえたが、その後は残業もつかなくなり、しばらく手取り一桁が続いたそうだ。
「当時はお金がなく、休みのたびに近所の魚屋へ魚をさばきに行っておこぼれをもらったり、近隣の敦煌へ賄いの時間を狙って「手伝いに来ました!」と賄いをごちそうになったりもしました」。
ジー・コミュニケーショングループ入りしたのが2006年。その時村岡氏は30歳。突然「本日よりジー・コミュニケーショングループ」となります」と宣言されたそうだ
そう、М&Aである。当時厳しい状況に置かれてた株式会社パオは、ジー・コミュニケーショングループとなり、会社が変わったのである。その時、社長に就任されたのが阿久津氏である(現株式会社ジー・テイスト代表取締役)。
たしかに、不安にならないほうがおかしいだろう。「翌日から改革ですと言われても。。。」。
改革の嵐はすさましく、結果もすさましかった。赤字続きの会社が翌年から右肩上がりのように増収増益で黒字化、現場はとにかくFLの徹底。無駄な経費の洗い直しの日々。現場は耐えきれず、去っていく人も多数。
村岡氏自身も日々変革の波に飲み込まれ様々な葛藤が続いたとのこと。従来の職人の勘に頼った経営から、綿密な計画の基に経営手法が変わったことで職人もきちんと数字が見れるようになったそうだ。

総料理長村岡氏、社長になる。

村岡氏も気づけば、総料理長の立場となり現場に立っていた。
この子会社、株式会社敦煌の社長に抜擢されたのが、総料理長だった村岡氏だった。肩書も料理長→エリアマネージャー→ゼネラルマネージャー→営業部長兼総料理長と、役職を重ねて行った。
ところがある日、来期から社長に就任させるから・・・と。
耳を疑った。「どういうこと?」
子会社にし、代表取締役として旗を振ってほしいと打診が来たのが2017年12月。3か月後には株式会社敦煌として設立するとのこと。
こうして2018年4月2日【株式会社 敦煌】が生まれ、村岡氏も代表取締役兼総料理長として就任した。
ここまでの道のりは平たんなものでは無い事は言うまでもない。経営悪化による、閉店、同じ釜の飯を食った同僚たちのリストラ等…
「ときには荒行もやった」と語るとき、唯一、言葉が乱れた。
・・・続き
株式会社敦煌 代表取締役 兼 総料理長 村岡秀治氏
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2019年6月9日日曜日

身体をフル充電!

土日の休みにしっかり身体の充電。
ハイチャージNEOと酸素カプセルでフルチャージ!!
そして天然温泉に…。


2019年6月5日水曜日

株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヒカリッチアソシエイツ 代表取締役 髙橋夕佳氏登場
本文より~

父も母もアマチュアオーケストラの奏者。

「らーめん」には顔があるといったら、「何をいってんだ、こいつ」と思われるかもしれないが、不思議とそう思ってしまう。とくに旨いらーめんは、いい表情をしている。
今回もまた、いい表情のらーめんと出会った。「焼きあご塩らー麺 たかはし」のホームページのメニューを観れば、私が言っていることも理解いただけるだろう。
品があるといったら失礼か。器もいい。具材もいい。いい、彩をしている。
この「焼きあご塩らー麺 たかはし」を経営しているのが、株式会社ヒカリッチアソシエイツの代表取締役、髙橋夕佳氏だ。
髙橋氏は、新潟市出身。28歳という若さで、起業している。
「父は、新潟ではそれなりの会社の2代目社長で、アマチュアですが、オーケストラの奏者です。母もおなじアマチュアオーケストラの奏者で、音楽の教師もしていました」。
髙橋氏も両親の影響を受け、小さな頃からピアノを習っている。裕福な家庭で、家族旅行もグアム、バリ、アメリカ、韓国など、海外へでかけている。
「勉強もできたほうです。小学3年から家庭教師がいたわけですから、できないとおかしいですよね。高校は新潟市内の進学校に進みます。大学は、新潟大学の音楽科です」。
最初は、絵に描いたようなお嬢様かと思ったが、そうでもない。骨もある。小・中・高と、応援団で副団長を務めたというエピソードからも想像いただけるだろう。英才教育をうけた音楽の道ではなく、東京にでて、ビジネスの世界に飛び込んだのも骨がある証かもしれない。
ともかく、大学を卒業すると、新潟を脱出。大手デベロッパーに就職する。

3児の母、起業する。

「デベロッパーで大きな仕事をするぞ、キャリアを積むぞって意気込んでいたんです。でも、1年目の10月末で退職します」。
どうして?
「じつは、子どもができたんです/笑」。
葛藤はなかったのだろうか?
「なかったと言えば、どうでしょうね。新潟の田舎の小娘にも、だんだん社会がわかってくる時期でしたから。ただ、わりと早く切り替えられました。23歳でしたし、20代で社会復帰すればいいじゃないかって、思って」。
キャリアウーマンのはずが、妻となり、いっときは新潟にもどっている。おかげで、3人の子宝にめぐまれた。それでも、髙橋氏は起業の道を選択する。
「そういう性分なんでしょうね。たとえば、新潟にもどると、専業主婦として平穏な毎日が続くわけです。それがストレスで、どうしようもなかった/笑。それで、もう一度、主人を説得して東京にきます。そして、28歳で起業。3人のママと、妻と、経営者のスタートです」。
どうして、らーめんだったのかと問うと、「もともと主人がラーメン店で仕事をしていたこともあるんですが、私も主人に連れられていっしょにらーめんを食べ歩いていたんですね。ある時、何かがひらめいて、『関東にないラーメン。これならいける。勝負しようと』と決意したんです。わりと簡単にスイッチが入るタイプなんですかね/笑」。そして、株式会社髙樹食研(現ヒカリッチアソシエイツ)を設立する。

開業が、ままならない。


髙橋氏が「関東にない」といったのは、トビウオから出汁を取った焼きあごのらーめん。新潟や山形にはラーメンの名店が複数ある。「これなら勝負できると思ったんです。もちろん、私自身は、経営も知らない素人なんですが、ひらめきですよね。それを大事にしたいと思いました」。
もっとも潤沢な資金があるわけではなかった。父親に借財を申し込んだが、にべもなく断られる。事業計画書を作成したが、銀行の融資は通らず、物件も決まらない。ご主人の親族が、貸してくれた350万円。軍資金はこれだけだった。
「350万円の軍資金で、開業できるお店を探します。もちろん、生活費でお金はでていくばかりです。だから、お店を探す一方で、派遣に登録し、生計を立てていました」。
1年経ったある日、ようやく低コストで出店できる「茗荷谷」の居ぬき物件に巡り合った。そして、2012年に1号店を開業する。
この1年間はなんだったんだろうか? ひょっとすれば、髙橋氏の思いを試す1年だったのかもしれない。計画通りには進まなかったが、思いは希薄することなく、むしろ、日々、凝縮されていった。1号店がオープンしたその日。髙橋氏は、天にも昇る気分だったのではないだろうか。
・・・続き
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