2023年12月28日木曜日

株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏登場。


本文より~

野球と、堀場少年。

堀場さんは1989年東京の町田市に生まれている。ご両親とも仕事をされていたこともあって、鍵っ子だったそう。日大三高で野球をされていたお父様の影響もあったんだろう。堀場さん自身も小さな頃から野球をしている。サードやセカンドが定位置。
「小学校から甲子園に出場することが目標だった」という。高校は駒沢大付属高校に進んでいる。目標は甲子園。ただし、東京でベスト16が最高とのことだ。
1年時、野球部には70人くらいが入部したが「1週間で20人になった」と笑う。厳しい練習についていけない選手もいた。かなわない選手をみて退部を選択した部員がいたかもしれない。
堀場さんは最後までつづけている。「リタイアは、ダサいと思っていた」そう。レギュラーにはなれなかったが、試合に出る、出ないではなく、自分で決めた道を簡単に諦めるようなダサい人間になりたくなかった。才能はなかったがやると決めた時の覚悟なら負けない。
「父親は広告代理店を経営していましたが、リーマンショックの時に倒産し、今は町田でバーを経営しています。私が大学1年生の時で、『大学を辞めたほうがいいか』と母に相談したところ、つづけなさいと諭されました」。
だから、奨学金だけではなく、アルバイトにも精を出した。これが、今につながっている。

こころざしは、飲食で独立。

「大学は駒沢です。進学はエスカレータですが、学力順に学部が決まります。現役時代は600人中500番台だったんですが、引退してから成績がグングン上がって最終的には100位以内に入り法学部に進んでいます。大学時代はアルバイト中心でした。今まで野球漬けでしたから、アルバイトも初めて。最初にアルバイトをしたのが町田商店(現ギフト)さんでした」。
1号店だったというから、面白いに決まっている。
「ほかには、沖縄料理店でもはたらきました。ニライカナイというお店です。社長は山岸雄人さん。カリスマ社長です。こちらでは、株式会社カオカオカオの新井勇佑さんもアルバイトをされていました」。
広いようで、飲食の世界は狭い。新井勇佑さんにも、「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。新井さんも「ニライカナイで天才と出会った」とおっしゃっている。堀場さんがいうカリスマ社長、山岸雄人さんのことだろう。
「大箱のチェーン店舗、個人店、中堅企業、上場企業と経験できたのは財産になっています」。
大学を卒業した堀場さんはGlobridgeに就職している。実は、Globridgeの社長である大塚誠さんにも「飲食の戦士たち」に登場いただいている。その時のインタビューで大塚さんはGlobridgeの目標は企業家の育成と輩出だとおっしゃっていた。
堀場さんも「条件とかはどうでもよかった。外食ベンチャーで、かつ成長できる環境かどうかでGlobridgeを選択した」といっている。正反対からみているが、両者の狙いは一致している。
2人の思いはどのようにして交差するんだろうか。

新入社員、6月に海を渡る。

「当時、Globridgeは3年で独立を謳っていました。私たちが新卒3期目で、同期は130人程度です」。 大量採用ですね?と聞いてみた。 「そうですね。大量採用だからなんとか目立たないといけない(笑)」。 たしかに、130分の1のママでは先がない。 「私が入社してすぐに、海外で新規事業がスタートするといったプランが明らかになります。新卒にもチャンスをいただけたので、すぐに立候補しました。立候補したのは年次に関係なく50人くらい。そのなかから4人が選ばれ、その4人のなかに残ることができました。だから、4月に入社して、6月にはシドニーです」。 堀場さんと、堀場さんの同期、2年目と中途採用者の4名がシドニーに渡っている。海外事業の推進と、それを行うことでの英才教育が開始されたといっていい。 「シドニーでは4人で暮らします。私にとっては初海外でしたし、語学が得意ってわけじゃない。選考では、話をもりにもって(笑)」。 ただ、もりにもったのは、堀場さんだけじゃなかったようだ。 「海外での経験はもちろん、新たに事業をスタートさせた経験なんてだれにもありませんでした。すべて手探りです。海外戦略のため立ち上げた『ふじやま製麺』といううどん業態を開始します。 ただ、右も左もわからない。文化、商習慣、好み。試行錯誤の連続です。今は、弊社に譲渡いただき月商1500万円くらいを叩きだしていますが、スタートした頃は、1日の来店数は30人くらい。月商は200万円にも届きません」。 右も左もわからない。ただっ広いオーストラリア。観光ならコアラも笑ってくれるが、ビジネスでは、そうはいかない。

片道切符と、オーストラリアでの事業と。

4人に渡されたのは片道切符。早々と1名が抜けている。逃げ出すのはかっこ悪いという思いと、挑戦できる環境を与えてくれた大塚さんへの感謝の思い。そして結果を出して恩返しをしたいという思いが強くあった。だから堀場さんは離れない。 「お寿司やうどんっていう日本食のカテゴリーに興味はあっても、やはりオーストラリアは肉なんですよね。日本とおなじでは、うまくいかないことに気づきます」。 ショップはフードコートの一角にあった。オーストラリアの人々が、『ふじやま製麺』を通りすぎる。 「どうすればいいか。メニューをカスタマイズしていきます」。 堀場さんが、その『ふじやま製麺』を買い取らせてもらったというのは、入社して、つまり、オーストラリアにきて7年目のこと。すでに書いたが、現在は月商1500万円というモンスターショップだ。 「社長の大塚さんからもいろいろなアドバイスいただき、『ふじやま製麺』とは異なる新ブランドもリリースします。それが、日本でも出店しているKen-Chan Curryです」。 チキンカツカレーがメインメニュー。チキン、つまり、肉がオーストラリア人の嗜好にフィットする。 「コロナでいったん日本に帰国します。現在、日本で2店舗、オーストリアで4店舗展開しています」。 「ふじやま製麺(Fujiyama Noodle Bar)以外は、すべてKen-Chan Curry(日本ではケンちゃんカレー)だ。試行錯誤の末に生まれ、オーストラリア人の胃袋をつかまえた新ブランドである。今後、日本ではこのケンちゃんカレーをフランチャイズで展開していくとのこと。ただし、堀場さんの事業のメインとなるフィールドは海外。片道切符はまだにぎりしめたまま。

・・・続き

株式会社REBEL 代表取締役 堀場健太氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2023年12月19日火曜日

株式会社どろまみれ 代表取締役 礒部剛宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社どろまみれ 代表取締役 礒部剛宏氏登場。

本文より~

エルサルバドルと、インドネシアと。

所沢の農園から毎週新鮮な野菜を運ぶ。泥がついた採れたての野菜は、格別に旨い。これが「どろまみれ」のネーミングの由来。さて、今回、ご登場いただくのは、「どのまみれ」の代表、礒部剛宏さん。父親の仕事の関係で3歳から小学6年生の夏になるまで、ほぼ海外で暮らしている。
「父親は建築系の仕事をしていました、私が3~5歳の時はエルサルバドル、小学3~6年の時はインドネシアです」。
エルサルバドルで暮らしていた4歳の頃は「スペイン語がペラペラだった」そう。「もちろん、今ではぜんぜんしゃべれない」と笑う。
インドネシアではメイドさんも、ガードマンさんも、運転手さんもいた。住まいは父の会社のご配慮もあり、豪邸。
「インドネシアでは、裕福だった」と目を細める。
「ただ、TVが映らない。電話も簡単にはつながらない。友達と遊ぼうにも、運転手さんにお願いして、車で30分です。だから兄弟は、私を筆頭に4人いるんですが、だたっ広い庭でやきいもを焼いたり、木に登って果実を獲ったり」。
なにもないぶん、創造力が鍛えられた。
「物価は日本の1/10。暑いのは暑いですね。毎日、Tシャツ、短パンです」。
祖母が日本から送ってくれたキン肉マンの消しゴムは、今も記憶に残っている。

日本での暮らしがスタートする。

「小学6年生の夏に帰国します。インドネシアで通っていたのは日本人学校だったので、それほど困った記憶はないです」。
<気候とかはちがいますよね>
「気候だけじゃないですね。インドネシアは日本と比較すれば、まだまだ衛生管理は行き届いていないし、交通も不便です。だから、日本のほうがいいって子もいたんだと思いますが、私は気候も含めて、インドネシアが大好きでした」。
「勉強も問題なかったですね。実は勉強に関しては向こうのほうが進んでいるんです。生徒たちが優秀だからでしょう。もっとも親は心配していたんでしょうね。中学ではスパルタな塾に放り込まれます(笑)」。
<そのおかげですか? 高校は進学校に進まれていますね>
「スパルタでしたからね(笑)。自由な校風に惹かれ、日野台高校に進みます。この高校時代に居酒屋を知って、ハマってしまいます。もちろん、お酒は飲めないので、数回しか行っていないんですが」。
「自宅に友達を招いて、居酒屋ごっこをした」そうだ。
<それが、今の原点ですか?>
「ですね(笑)」。

ダイナック、入社。

「独立をいつ頃から考えていましたか」と聞くと「大学時代にはもうそれしか頭になった」と礒部さん。「昔からサラリーマンは無理だなって思っていたんです。就職はサントリーのダイナックです。サントリーグループだったことと、多彩なブランド構成に惹かれて」。
<独立のためですね?>
「そうです。ただ、多くの人のように何歳で独立とは決めていません。十分なスキルをマスターすることが、第一に私がめざすところでした。ダイナックには8年います」。
<いかがでしたか?>
「勉強になりましたし、人との出会いもありました。『飲食の戦士たち』にも登場していますが、絶好調の吉田は同期で、今も付き合っています。彼とは、いい意味で、昔から刺激し合う間柄です」。
ダイナックでは同期のトップ2だったようだ。
「私は新宿のダイナミックキッチン&バー響で、ダイナックの全店舗のなかで最高の売上、利益をだしています」。
ボーナスは破格だったが、礒部さんにすると物足りなかった。独立するための、食べ歩きだけでもかなりの額を遣う。そういうことには、まったくケチらない。
「料理人とも、毎晩、朝までです。そうやって、コミュニケーションを取りました」。コミュニケーションの総量をあげていく。心が動き、目標に向け、一つになる。
「私らは、料理人と歳も離れています。当時の料理人の世界はハンパじゃなかった。ホールのスタッフだってなかなかのもんです(笑)。彼らと呼吸を合わせていかないといけません。最終的には、アイコンタクトだけでこちらの考えが伝わるまでになりました」。
礒部さんは、実践を大事にする。
「料理も私がわからないと意味がありません。だから、食べ歩きもしました。食べてないものを、料理人にとやかくいうこともできませんからね」。
食べることもたたかいだったんだろう。絶好調の代表、吉田将紀さんとは、戦友だ。2人して、食べ歩いた記憶は今も鮮明。

ダイナック、退職。

30歳、ダイナックから独立する上司に誘われ、スタッフとして参加する。
「焼き鳥です。私自身は焼き鳥を焼きたかったんですが、なかなかさせてもらえませんでした。いっしょにスタートした料理人がすごい人だったので」と笑う。
「店じゃさせてもらえないんで、店で覚えて、うちで料理を作ってみるの繰り返しです(笑)」。
ダイナックというバックボーンがなくなると、様々なものが変化する。離れて初めて、わかることも少なくなかった。資金繰りも、その一つ。ただ、それだけではなかった。「色々なことを経験し、怖いものがなくなった」という。
そして、35歳で独立。正確には、35歳になった2009年の9月。今の四谷本店。18坪30席の空中席。今では、食べログ「焼き鳥百名店」にも名を連ねている。
「ダイナック時代の部下だったスタッフ(現専務)と2人でスタートします」。
閉店は、朝3時。専務と2人、アルバイトは2名。「朝3時にクローズして、お客さんがいなくなって、片付けしてから2人してバイクで帰ります」。オープンが9月だから、朝はもう寒い。
<いかがでしたか? 四谷は飲食にとって厳しいエリアと聞いています>
「ですね、お客さんからも『泥だらけは来年まであるかな』って。『お客さん、違います。泥だらけじゃなくって、どろまみれです』なんていいながら。でも、私自身は最初にみた時から、インスピレーションですが、ここならと。何より四角い箱っていうのが飲食にはいいんです。空中階でしたが、専用の階段もあって。ただ、オープンして2ヵ月は厳しかったですね。お金はなかったんですが、飲食サイトにも広告をだして。中学・高校・大学時代の友達も、親戚も、ありとあらゆる人に連絡して来てもらいました(笑)」。
12月の宴会シーズンを経て、ようやく軌道に乗り始める。常連さんも1人、2人と。「8ヵ月経った頃に満席になり、以来、コロナ禍をのぞき満席がつづいています」。

・・・続き

 株式会社どろまみれ 代表取締役 礒部剛宏氏

 PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社吉祥吉ホールディングス 代表取締役会長 CEO 赤木清美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社吉祥吉ホールディングス 代表取締役会長 CEO 赤木清美氏登場。


本文より~

丑年、サーロイン、肉の三拍子。

今回ご登場いただいた赤木会長は、1961年2月9日に生まれる。
「1961年は丑(うし)年。昭和に直すと36年でサーロイン。それでね。私が生まれたのが2月9日やから、肉(29)」。
<丑年、サーロイン、肉の三拍子ですね?>
「そうなんですよ。でも、漁師の子やしね。最初は肉やなくて魚です(笑)」。
赤木会長が生まれたのは、山口県の漁村。
「萩の隣町です。きょうだいは多いよ。姉と兄が2人ずつで、私が末っ子。兄たちは、やんちゃやったけど、姉も、みんな末っ子の私を可愛がってくれました」。
「王子だった」という。
実は、赤木会長には2人の母がいる。
「きょうだいの実父と私の実母が早くに亡くなったので、私を育ててくれたのは実父と育ての親となる母。実母の妹と、私の実父はきょうだいから見たら父の弟にあたります」。
赤木会長を、父はあたたかく見守り、母は励まし続けた。
「今、私がいるのは、父はもちろんですが、やっぱり母のおかげです」。
たっぷりの愛情が、赤木会長を育てていく。そして、王子は、王子のまま大きくなっていく。

カッター部、キャプテン。

「まぁ、やんちゃでしたね。夏は浜で、冬は田んぼで野球ばっかりしとった気がしますね。ちっちゃかったけど、やんちゃなぶん、運動神経はいい。母はそれが自慢やったみたいですね。母が喜んでくれるのが嬉しくて、運動会ではいつもいちばんでした」。
校庭をトップで走る王子は、兄姉にとっても自慢だったに違いない。
「高校は水産高校の漁業科に進みます。萩ですからね。漁のなかでもフグが盛んです。だから、高校に漁業科もあるんですが、生徒は漁業科だからではなく、やんちゃでバカばっかり。私もアホでしたが、上には上がいるもんです(笑)」。
野球部ではなく、カッター部に入部する。
「最初は好きな野球にしようと思っとったんですが、グランドに行ったらバカでかい奴ばっかりで。これはいかんと思って、カッター競技に鞍替えです」。
<カッター競技?>
「カッターっていうのは手漕ぎのボート競技です。漕ぎ手は12人。艇長と掛け声の艇指揮の合計14人で漕いでタイムを競います」。
調べてみると「大切なのは14人の息をぴったりと合わせること。つらい練習も全員で乗り越えることで、結束力を高める」とあった。
「部員は30人ほどいて、私はキャプテンでした。きつい練習はさせていたんですが、どういうわけか結果がでない。1キロのレースやのに、練習では何キロも漕がすからあかんかったとわかったのは卒業してからです」。
沖の向こうに行くと、教師の目も届かなかった。だから、漕いだ。一服するのは海のどまんなか。

転職回数、12回。引っ越し回数、21回。

「海は、ちっちゃい頃から私のフィールドです。進路はもちろん漁師です。兄たちは漁師になって3年で家も建てていました。でも、私が卒業する頃には、漁もだんだん下火になってきて。兄たちから漁師はやめておけって諭されます。といっても、漁師以外なんになる?ってなるわけです。兄たちも答えなんかもっちゃいない(笑)」。
<どうされたんですか? 漁師の、それ以外は>
「漁村にいたら、漁師しかないですね。だから、町を離れて、奈良に行きます」。
<奈良ですか?>
「ある人と知り合ったのが縁で、奈良県の中央市場の魚屋に就職して、寮で暮らします。朝3時出勤、朝は早いですが、昼には仕事終了です。あの頃は、やんちゃの延長線上にいましたからね。奈良の弱小暴走族のヘッドになって。寮にもメンバーらが来るようになって、さすがに迷惑をかけちゃいけないと思って、12月の末に退職します。アルバイトを経て、京都王将に転職するんですが、こちらも4ヵ月で退職」。
転職回数は12回だと、赤木会長は、なぜか自慢げにいう。
「魚屋もやったし、八百屋もやった。佐川急便も5年くらいやっています。佐川急便を辞めたのは28歳の頃かな。もう子どももいました」。
その後、フルコミッションの営業に転職。広島、仙台、札幌を転々とする。
「転職は12回だけど、引っ越しは21回」とこちらを笑わせる。

DDIセルラーで、広島、仙台、札幌と転々とする。

「佐川急便さんでの仕事は朝5時から夜7~8時まで続きます。今流にいうとブラック中のブラックですが、当時は、佐川急便以外でも長時間労働っていうのがけっこうあったように思います。佐川急便の場合は、かわりに初任給が45万円で、その後は天井知らずです。なかでも私の給料はトップクラスになっていきます」。
やんちゃだったが、仕事はマジメ。手も抜かない。
「給料はいいんですが、まったく貯蓄しない。だから佐川急便を辞めて、フルコミの営業に転職した時には、妻をさすがに不安にさせてしまいました」。
<どういうことですか?>
「当時、私がいたのは広島です。広島の佐川急便で5年勤めて、今度はDDIセルラー(auの前身)の営業を始めます。こちらがフルコミッションです。28歳で、妻も子どももいました。営業は初めてでしたが、携帯電話が登場した頃だからブルーオーシャンです。ただ、佐川急便のノリで、『ハンコください』ってやっていましたから、そりゃだれもハンコをくれません(笑)」。
2週間、成約ゼロ。奥様に心配をかけまいと、金策に奔走した。
「あの時は、けっこうきつかったですね。ただ、女神といえる人が現れるんです。友達の知り合いの保険の外交員さんです。DDIセルラーの話をすると面白そうだっていうんですね。でも、『だれも買ってくれない』と弱音を吐くと『ついてらっしゃい』と言って、彼女のお客様先に言って、なんとDDIセルラーの営業をやってみせてくれるんです。そりゃ、目からうろこです」。
ハンコをくれではうまくいかないとわかり、赤木会長なりに工夫もしたという。「ただ、今度はトークが長かった(笑)。彼女は要点だけをパッパッと。すると、『わかった』って。おいおい、これでいいんかって感じです(笑)」。
<真似る?>
「そうなんです。するとバンバンとハンコをいただけるようになって、広島のマーケットはだいたい征服して、今度は仙台にいきます。仙台もだいたいカバーすると、今度は札幌です。こちらで知り合った人と、会社も立ち上げています」。
「ただ」、と赤木会長。
「札幌でも100%近いシェアを獲るんですが、大阪に比べると全然。マーケット自体が1/10程度です。だから、200万円の資金をもって、単身大阪に乗り込みます」。
エネルギッシュだ。「乗り込む」が、「カチ込む」にも聞こえなくない。

神戸牛で、東京進出。

<大阪ということは、だんだん神戸牛に近づいてきましたね?>
「大阪まで来ましたからね(笑)。ただ、最初はセルラーです。業績は悪くありませんでした。基本的に波に乗るのがうまいんです。神戸牛との出会いは、あるメディアから『神戸牛を扱っているか』って問い合わせがあった時に、かっこつけて『扱ってます』って答えてしまったのがきっかけ。その時には、海鮮料理店を経営していたんです」。
<言われたら断れない性格だそうですね?>
「いや、正確には、ええかっこしいなんでしょうね。実はセリに行って神戸牛を買うんですが、払えるお金があるわけありません。でも、かっこつけて。あとで金策に走り回るんです」。
<神戸、大阪で話題になり、昨年は東京にも進出されました>
「去年の7月に日本橋と芝大門にオープンしました。オープンして『なんでや』って唸ります」。
<なんでや?>
「今の仕事をはじめて、それなりに苦労はしましたが、関西でもまぁまぁ評価をいただいて、初めて東京に乗り込んできたわけです」。
赤木会長にいわせれば、「ゴルフのツアーでいける」と確信したそうだ。
「山梨で女子のゴルフツアーが開催された時に、うちも出店するんです。それまで関西では外国人客がメインだったんですが、やっぱり東京はちがうなって。日本人が次々とオーダーしてくれるんです。神戸牛いうたら日本最高峰です。ブランディングもできている。でも、高価ということもあって客受けでいうとインバウンドが中心。でも、東京なら日本人相手でもいけると思ってしまったんですね」。
「もうアホですよね。紹介をいただいたということもあったんですが、いきなり東京のど真ん中。日本橋と芝大門。芝大門は閉めましたが、日本橋はまだ残しています。今、スタッフもそろって、これからってところですね」。
アホだと言ったのは、正直な思いだったかもしれないが、当然、それくらいで赤木会長は下を向かない。むしろ、「日本橋と芝大門がだめだったから、今がある」という。

・・・続き

株式会社吉祥吉ホールディングス 代表取締役会長 CEO 赤木清美氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2023年12月15日金曜日

一輪花。

生花は本当に優しい気持ち、穏やかな気持ちにさせてくれる。
今年もあと少し、今この時この時を大事に過ごしたい。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
 

株式会社FULL AT TABLE 共同経営 鈴木成明氏、矢吹通康氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社FULL AT TABLE 共同経営 鈴木成明氏、矢吹通康氏登場。

本文より~

異なる世界と別々の道。

<矢吹さんのご実家は海の見える街で、次の駅は、瀬戸内海の対岸にあるわけですね?>
「そうなんです。私が生まれたのは倉敷市の児島というところで、瀬戸大橋を渡る本州最後の駅が、児島って言うんです。次の駅はもう四国です」。
父親は水島コンビナートで勤務。母親は保育士さん。姉がいて2人姉弟。
「父親は、仕事から帰ってきたら釣りに行ったり、畑をやっていたりました」。
田舎といえば田舎。
「高校までバレーボールをしいていたんですが、高校の途中でリタイアします。真剣なクラブじゃなかったこともあって、だんだん距離を置いてしまったんです。それからは結構遊んでしまい、おかげで大学も一浪して入ることになりました」。
<鈴木さんは、どちら生まれですか?>
「私は、矢吹と違って、もとから東京です」。
「それもど真ん中の渋谷だよね(笑)」。
「そう。ただ、渋谷といっても新宿が近くて。授業が終わったら新宿のゲーセンへGOです(笑)」。
鈴木氏の母親はスナックを経営されていたそう。父親は元料理人。
「男同士ですが、私も2人兄弟の弟です。その兄とは11歳、歳が離れています」。
母親が忙しい分、料理は父親担当だったらしい。
「元料理人ですからね。何を食べてもおいしかった。兄弟2人とも飲食に進んだのは母親の影響はもちろんですが、父親の料理を食べて育ったからのような気がしています」。
岡山の倉敷市児島に生まれたのが矢吹氏で、渋谷生まれが鈴木氏。距離にすれば、800キロくらいだろうか。月明かりとネオンの明かり。波の音と雑踏の足音。東京への憧れと、満員電車の苦痛と。
2人はまだ異なった世界で、別々の道を進んでいる。

2人の出会いと、異なる道へ。

<矢吹さんと鈴木さんは大手の居酒屋チェーンで出会ったそうですね?>
「そうです。2人とも表参道にできた大手居酒屋チェーン店のオープニングスタッフとしてアルバイトを始めます」。
「あの頃はそのチェーン店の全盛期で、とにかく忙しかった。ただ、オープニングですからね。私と矢吹はたまたま歳が近かったですが、歳が離れている他のアルバイトともみんな同期って感じで楽しかったですね」。
<最初から同じ大学だって知っていた?>
「いえいえ、全然知らなくって。ただ、いろんな話しているうちに、ヘンに共通の話題があって。あれ?って」
「え?!鈴木くんも駒澤!?みたいな(笑)」。
<それで、急速に距離が縮まるわけですね?>
「う~ん。そうでもなかったかな(笑)」。
「え?そうだっけ?結構ふたりで遊びましたよ。(笑)私は大学を卒業して、そのままそちらのチェーン店で社員になるんですが、鈴木はヒップホップでDJをやり、プロを目指します」。
<DJ?>
「大学時代に音楽に出会って、30歳まで続けます。生活はギリギリでしたが。アルバイトをしながら食べていきます」。
<鈴木さんがジェイプロジェクトでアルバイトを始めるのはいつ頃ですか?>
「28歳の時ですね。まだ東京で2店舗だけの頃でしたから、ある意味いちばん熱かった頃かもしれません。新田社長(現ジェイグループホールディングス会長)はもちろん、マネージャーもみんな、とにかく格好いい。スター揃いでした。2年間アルバイトをして、すっかり惚れ込んでしまって、30歳で音楽にケリをつけて、就職します」。
「料理も音楽も一緒だって気づいたんだよね?」
「そう。どちらも人を動かすでしょ」。
「親父さんの影響もあるんでしょうが、鈴木くんはチェーン店の時からキッチンでした。もともと、鈴木くんは私と違ってクリエイティブなんです」。
<矢吹さんは、そのままチェーン店に就職されましたが、そのあとどうされたんですか?>
「矢吹は矢吹で、結構、波瀾万丈というか」。
「その会社で、飲食は飲食でもぜんぜん畑違いのシステム部に27歳で異動します。何千人も動かすシステムの開発担当として。そのあと30歳の時にアプリを開発するITベンチャーに転職します。たまたま大手ハンバーガーチェーンのシステム開発という案件があって、私のキャリアが評価されたんだと思います。そちらに4年いて、実は34歳で独立してIT会社を起業します」。

飲食のチカラが、2人を結びつける。

なんでも起業した矢吹氏は、ベトナムに渡りエンジニアと2人でアプリの開発をしていたそうだ。ジェイプロジェクトの一員となって東京で汗を流す鈴木氏と、ベトナムでアプリ開発に明け暮れる矢吹氏。
「鈴木くんは結構マメなところがあって、時々『どうしている?』って連絡をくれるんです」。
「だから、お互いの状況はわかっていましたが、当時は共同で飲食店を経営するなんてまったく思ってなかったですね。私の場合、飲食で独立というのは延長線上ですが、矢吹はなんといってもITですからね(笑)」。
<矢吹さんは、どうして飲食に戻ってこられたんですか?>
「起業した会社なんですが、実はこの会社を2年くらいで売却します。その頃、ベトナムはとても活気があって経済も立ち上がってきたところでしたから、これはITより飲食をやったほうがいいなと。売却したことでお金もありましたし。帰国して、『ベトナムでドーナツショップをやりたい』という話を知り合いにしていると、有名なベーカリーを経営している知人が『ドーナツもパンの一種だから、うちで勉強したらどうだ?』って、言ってくれて」。
<IT会社の社長から、ドーナツ店のオーナーですか?>
「ですね(笑)。飲食にもIT同様のベンチャー企業をつくるパワーがあると思ったんです」。
飲食のチカラが、2人を結びつける。
「最初から一緒にやろうっていう話ではなくって。鈴木くんが独立するって聞いたので、うちの創業店ともなる今の目黒の店舗を紹介したんです」。
「矢吹は当時から飲食のコンサルをしていて、あるオーナーに相談された物件の話を私に紹介してくれたんです。ただ、私は私で、出店の計画を進めていたので、話はなくなりかけていたんですが。矢吹が一緒にやろうと言い出して」。
「私と鈴木くんはタイプが違うんですよね。得意分野も違うし。そういう2人だから一緒にやったら、いい化学反応が起こるんじゃないかと。それで、ベトナムのドーナツはいったん置いといて(笑)」。
「私がやりたかったのは『やきとり』だったんです。ただ、中島っていうパンのシェフが加わってくれることになって。だから、創業店はパンとワインのお店になりました」。
<パンとワインの目黒FLATですね?> 「そうです」。

・・・続き

株式会社FULL AT TABLE 共同経営 鈴木成明氏、矢吹通康氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2023年12月5日火曜日

株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏登場。

本文より~

父親と、野球の話。

目が覚めると父はもう仕事に出かけていた。
「父親は結構、波乱万丈の人生を送っています。水産関連の会社を起こし、現在はその会社をバイアウトして顧問を3社ほどやっています。私が小さな頃は、とにかく大変だったようで、午後10時くらいに帰宅して午前3時にはもう出かけるといった生活を送っていました。思い出は、日曜日の朝に一緒にコンビニに行ったくらいです(笑)」。
2023年11月のインタビュー時、お父様もまだ63歳というからお若い。
「もともと長崎出身で、裕福な家の出だったようです。ただ、祖父が人に騙され地元にいられなくなって上京したといっています。父は大学を中退し独立。父もまた人がよく、人に騙されるなどして苦労したそうです」。
ちなみに、お父様が通われていた高校は、長崎の海星高校。ヤクルトに入団し、サッシーの名称で親しまれた酒井圭一元プロ野球選手の出身高でもある。父親と交流があり、それが縁でヤクルトファンになったという。
ちなみに、お父様が創業した会社の社名は「かいせい物産」。祖父が批判され地元にいられなくなった際に、学校がかばい続けてくれた。その恩を忘れず社名に母校の名を付けられたそうだ。お父様の人柄がわかるエピソードでもある。
さて、父親が奮闘する一方、息子の宮﨑氏は、どうだったんだろう?
「野球は小学生の頃から始め、松坂大輔さんが所属していたチームでプレイします。中学生になるとクラブチームからオファーがあって入団。中2でベンチ入りもするんですが、3年になってなぜか3軍の子がいきなりレギュラーになったことに納得ができず、練習にも行かなくなってしまいました」。
大人の身勝手さ。理由を聞くとこちらまで、やるせなくなってしまう。
「周りから説得されて卒業までは続けましたが、もう野球を続ける気持ちはなくなっていました。高校は父の母校から声をかけていただくんですが、入部テストだけ受けて、進んだのは木更津の全寮制の高校です」。

逃亡先は、オーストラリア。

<大学時代の宮﨑さんを教えてください>
「アルバイトばっかりですね。色々、転々としていたんですが、大学2年の時に株式会社MUGENの内山正宏社長が経営されている『なかめのてっぺん』でアルバイトを始めます」。
<熱気ムンムンですよね? どうして、なかめのてっぺんに?>
「父が周りから『社長』と呼ばれていたこともあって、小さな頃からその響きに憧れていたんです。また、起業するなら飲食で、とも思っていましたから、そのために、アルバイトも飲食中心です。でも、アルバイトだからかもしれませんが、いずれもぬるい(笑)」。
<ひょっとして、厳しさを求めて、「なかめのてっぺん」に?>
「父親に、大学卒業までもう2年しかないので、ぬるい感じじゃなく、ちゃんと修業できるような店を紹介してくれって頼みます。それじゃぁと紹介されたのが内山社長だったんです」。
<たしかに、ぬるくはないですね(笑)>
「今度は、内山社長から店長に『宮﨑さんとこの息子だから、厳しく躾けてやってくれ』っておふれが回っていたんでしょうね。むちゃくちゃ厳しい指導が続きます。怒られているんじゃなく、叱られているんだとわかっていても、毎月、胃腸炎です(笑)。でも、言い出しっぺは私ですから、辞めるに辞められません。だから、悶々とした日々を送り、結局、オーストラリアに逃亡します」。
「海外に行きたい」というのが、逃亡の言い訳。逃亡さえできれば、オーストラリアでなくてもどこでもよかったに違いない。
「向こうでも飲食でアルバイトをします。1年半した頃でしょうか、日本人ですが、向こうで知り合った人とハンバーグレストランを共同でオープンします。私にとって、『飲食』=『なかめのてっぺん』でしたから、ショップをオープンすれば客が来ると思い込んでいたんです」。
<でも、来なかった?>
「ええ、ぜんぜん(笑)。20坪程度の小さな店だったんですが。結局、給料も支給されることなく、2~3ヵ月で潰れてしまいます」。
<異国だから、どうすべきか悩みますね?>
「そうです。その時、父と一緒に内山社長がいらしてくださるんです。そして、顔をみるなり『大丈夫か』って」。

現実を知った青年の覚悟と宣言。

「内山社長が『3ヵ月したら戻って来い』って言ってくださいます。『ただし、戻ってくるならアルバイトのような立場じゃないぞ』って」。
<それでどう答えられたんですか?>
「NOという返答はもちろんありません。オーストラリアでは、ほんとうの意味で『飲食の厳しさ』を知りました」。
<それと比較すれば、『なかめのてっぺん』も、厳しいうちに入らない?>
「そうです。父親のように社長になるんだろうなと思っていただけで、覚悟がまったく足りなかった。逃亡先のオーストラリアで初めて現実を知って、何が足りなかったかを知ります。ただ、それで凹むことはなかったです。厳しすぎる現実が、逆に、私のなかで闘志を生みます。その意味では、オーストラリアでの経験も、私にとってはいい経験でした」。
覚悟を決めた宮﨑氏は、内山氏に宣言している。
「社員にしてください。最短記録で店長に昇格します」。
お父様の宮﨑成人氏は、あるインタビューを受け「困難は人を成長させるからこそ、諦めてはいけない」とおっしゃっている。そういう意味で、息子の宣言を聞き、目を細めておられたのではないだろうか。わざわざオーストラリアまで出かけた価値もあったというものだ。

最年少、最短の新記録と、独立。

宮﨑氏は、宣言通り、最年少、最短で店長に就任している。「もちろん、昔と同じようにハードでしたが、ハラが決まれば、見える風景も、言葉の受け止め方もぜんぜん違ってきます」。
罵声を受けても、それが気付きにつながれば、罵声が、貴重なアドバイスになる。
「内山社長の下で4年お世話になり、28歳の時に卒業します。ただ、コロナ禍が始まり、起業は先送りです。沖縄や川崎で知り合いの新店の立ち上げをサポートしたり、出前館などでエリアの調査もしました。実は、もう一度、サラリーマンに戻るか、でも、戻ったら、次はないな、と思っている時に、内山社長から背中を押していただいて、29歳、2021年の3月に炉端焼きを錦糸町にオープンします」。
<コロナ禍の只中ですね?>
「補助金も下りませんでしたから、通常営業をするしかなかったです。SNSで地元の方を中心にフォローして、通常営業をピーアールしていきました」。
<コロナ禍のオープンです。戦略はあったんですか?>
「戦略という意味では、コロナ禍かどうかは関係なく、地元の人をお客様にと思っていました。価格帯は、当時、錦糸町にはなかった4000円~5000円です。ちょっと高めだけど、それ以上に価値があることをコンセプトにオープンします」。
<難しいロケーションですよね>
「そうですね。錦糸町のオーナーに聞いたら、全員、『あそこはやめておけって』。『12月でも500万円が精一杯』という腰を折るようなアドバイスもいただきました(笑)」。
ただ、無理と言われると、逆に闘志がわくタイプ。
「東京といっても、錦糸町は下町なんです。ここらで育った人は街を出ない。それを知っていましたから。SNSで彼らをフォローし、発信していきました」。
<どうでしたか?>
「18坪だったので、損益分岐点は330万円に設定していました。ところが、オープン初月から1000万円をオーバーです」。
コロナ禍の下の飲食難民を救った格好だが、すべてがちゃんと計算されている。
コロナ禍で打って出たことも、結果としては幸いした。

・・・続き

株式会社Pay it Forward 代表取締役 宮﨑元成氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2023年12月1日金曜日

中学校の同窓会ありました。

先日、中学校の同窓会あり、京都に日帰りで行きました。

同窓会は7年前に小学校以来ですが、雰囲気変わってても会うと直ぐ記憶が蘇りますね。
皆の集合写真載せたいのですが、出したくない人もいると思うので無で…(笑)
幹事の一瀬夫婦、服部夫婦、東夫婦の皆さんご苦労さまでした。