2021年2月25日木曜日

三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏登場。


本文より~

琲が、育てた少年。

大学時代は紅茶党だったが、今では日に、7~8杯は珈琲を飲むそうだ。今回、ご登場いただいた三本珈琲の代表取締役社長、山本聡氏のこと。珈琲をこよなく愛する人だ。
「両親は2人とも(株)木村コーヒー店(キーコーヒー株式会社の前身)で勤務していまして、そこで出会って結婚します。父親が同社を辞め、独立したのは26歳の時だと聞いています。祖父は、小田原の農家。母親は、住職の娘です」。
長男の山本氏が生まれたのは、1961年。兄妹は3人。弟と妹がいる。
「親父はとにかく、厳しかったですね。怖いくらい。ずっと敬語でした。もっとも一番下の妹には、まるで態度が違っていましたが/笑」。
父親が独立し、初出店したのは、1957年。横浜市中区宮川町に、有限会社三本コーヒー店として創業されている。当時は、ラーメン一杯と、珈琲一杯が同じくらいの値段だったそう。
「タクシーの初乗りも同じくらいだったと聞いています。当時は、珈琲が嗜好品の一つとして、嗜まれるようになった時代だったのでしょうね。弊社も、順調に業績を拡大していきます」。
ホームページの沿革を見ると、工場の建設や、名古屋、大阪への進出など、事業拡大の様子がうかがえる。
一方、山本氏のほうもまたスクスクと育つ。「小学校は関東学院です。中・高は浅野学園。大学は明治。本当は同時に合格していた関西学院大学に行きたかったのですが、親に反対されて/笑」。
どんな子ども時代だったのだろうか?
「そうですね。部活はやらない。続かないから/笑。運動も、勉強もそこそこできたほうですね。今振り返るとリーダーシップもあって、割と目立った生徒だった気がしますね。組長なんかもしていましたし。そうそう、中学時代に、親に勧められてですが、1ヵ月アメリカでホームステイします。実は、結婚してからも1年間、ニューヨークで暮らしています」。
入社してからニューヨーク? 中学生のホームステイも斬新だが、ニューヨーク滞在も、ユニーク。目的は、海外の大学を卒業することだったそう。

12億円のパビリオン。

「人生のターニングポイントを一つ挙げるとするなら、ニューヨークでの1年と、そのニューヨークから帰国することになった時のことですね」。
どういうことだろう? 実は、三本珈琲は、1989年に開催された「YES’89(YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89)横浜博覧会」に「MMCコーヒー地球体験館」を出展している。山本氏がいう、ニューヨークから1年で帰国することになった理由だ。
「パビリオンをつくるなど、総事業費12億円の事業です。その事業の指揮をとるために帰国します。準備1年、開催1年、計2年。普通はできない体験です」。
12億円とは、相当な額だ。当時、パビリオンを出展した企業を調べてみたが、日本石油や日本IBM、東京ガス、日立や松下の各グループなど、錚々たる顔ぶれ。ちなみに、この時、三本珈琲が出展した「地球体験館」は熱帯雨林や南極、砂漠などを疑似体験できるパビリオンだったそうだ。
「新卒のタイミングで、弊社の東京支社という位置づけでエムエムシー株式会社を設立してもらいます。友人3人と1人番頭をつけてもらって営業を開始しました。その後はニューヨークを経て、横浜博覧会のため、帰国したのが27歳の頃。東海大学さんに監修をお願いするなど、スケールとしても初めて体験することばかりでした」。
むろん、結果は大盛況。子どもたちに、地球という、天体のスケールを教えることができたに違いない。しかし、当時の売上高は20億円程度。12億円の投資は財政にも影響したことだろう。実際、影響は、しばらく尾を引いたそうだ。
それでも、3代目となる山本氏を育てた投資とみれば、どうだろう。当時、山本氏が、わずか1年で帰国させられた理由も理解できる。山本氏は「父から会社を継ぐようにとは言われたことはない」というが、お父様の頭には、もうこの頃から山本氏を社長にする青写真が描かれていたのかもしれない。

機動力は、ショップ事業。

「けっして、いい時ばかりではなかった」と山本氏はいうが、カフェやレストランのショップ事業だけではなく、本業である珈琲豆の卸事業があるぶん、業績の揺らぎは少ない。
その事業の卸先を伺うと、日本はもちろん、外資系の有名なホテルの名も次々と挙がった。ただ、その一方で、機動力となっているのは、店舗事業である。
人材ビジネスの大手企業「リクルート」で勤め、4年前に入社した山本氏の長男は、店舗事業が、この数年で変わったと言う。
「韓国では、当時スターバックスより店舗数の多かったカフェチェーン『カフェベネ』とフランチャイズ契約を結び、日本法人としてスタートします。おかげで、羽田や成田といった空港内好立地に出店できました。最初に出店したのも、羽田と成田、そして赤坂です」。
韓国の俳優も来たということだ。
「当時、弊社の主要ブランドの『三本珈琲店』は、ロケーションは最高だったのですが、メニュー、オペレーション、デザインなど改善の余地が大いにありました。それもまた『カフェベネ』のおかげで、すべて刷新することになりました。残念なことに、『カフェベネ』は韓国の本社が民事再生されてしまいますが、それでは、私たち独自でやろう、と。私が、本格的に店舗事業部に関わることができるようになったタイミングでもありましたので」。
店舗事業が、改めて、機動力となった瞬間。出店にも拍車がかかった。2020年、現在、総店舗数は、34店舗だが、ここ数年の伸びがとくに目覚ましい。羽田に13店舗、成田に4店舗。横浜CAILや小田原ミナカなど商業施設内にも出店してきている。日本の玄関口に、三木珈琲のショップが並んでいる。しかも、おしゃれな。
「事業のターニングポイントを挙げるとすれば、『カフェベネ』のフランチャイズになったこと」。そう分析しているようだ。

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三本珈琲株式会社 代表取締役社長 山本 聡氏

2021年2月20日土曜日

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてサガミホールディングス様を3連載で掲載しました。

夕刊フジ「飲食FCで第二の人生」にてサガミホールディングス様を2月5日、12日、19日の3連載で掲載しました。

取材は千葉哲幸氏によるものです。

(2月5日発行 電子版/カラー)
(2月12日発行 電子版/カラー)
(2月19日発行 電子版/カラー)

2021年2月17日水曜日

有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

本文より~

スノボにハマり、プリンスホテル退職。

「大学も、専門学校も頭になかった」と高校時代を語ってくれたのは、有限会社レストランバンクの代表、林 秀光氏。1975年生まれの44歳(2020年のインタビュー時)。
「早く自立したかったですね。なりたかったのは、パティシエか、庭師か、料理人か。けっきょく、『守口プリンスホテル』に就職します。周りは、大卒ばかりでびっくり」。1人暮らし、開始。「守口プリンスホテル」の、正確には製菓部に就職したそうだ。
これで、大好きな「苺のショートケーキ」が、好きなだけ食べられるが、志望動機。製菓部といっても、料理人。ホテルといっても、きびしさはハンパないはず。うまく、スタートできたんだろうか?
「めっちゃめちゃ面白かったです。その頃の私は、料理も、菓子づくりも無縁な、どこにでもいる高校3年生といっしょ。びっくりしますが、『ボール』がわからなかった」。
ボールって、あのボール?
「そうです。『ボールを取ってくれ』と言われて、『?』です/笑。さすがに怒られましたね。とにかく、そんな風に、マイナスのマイナスからのスタートだから、逆に面白かったんだと思います。フランス語もそう。なにもかも新しい」。
林氏は、こちらで、3年半修業する。ちなみに、「守口プリンスホテル」は松下電器が経営元だったそう。つまり、林氏も、松下の社員。松下幸之助氏の著書も読んでいる。
ところで、めちゃ面白かったのに、どうして辞めたんですか?
「じつは、スノーボードにハマって。21歳の時ですね。山ごもりしたくなって辞表をだしました/笑。で、長野の山にこもって2日目に鎖骨骨折です。アホでしょ/笑」。
鎖骨骨折で、1シーズン棒にふることになる。だけど、のめり込んだら止まらないのが、林氏の性格。「日本じゃ無理だから、アメリカに行って、雪山へGOです。雪山を追いかけ、行ったり、来たりの、スノボ人生。悪くなかったですね」。

彼女の一言。

「当時、仕事をしていたのは、堀江の服屋さんの奥にあった小さなバーです。シーズンオフの間、店長をさせてもらっていました」。
仕事は面白かったですか?
「バーの仕事も、めちゃ面白かったですね。『お酒って、面白いやん』って。ケーキの時も、スノボの時もそうですが、一度、ハマると止まらない。勉強もしました」。
「妻と知り合ったのは、25歳の頃。北堀江のカフェで出会います。24時間営業のカフェで、私は19時~翌朝7時までの、夜の店長でした。店長といっても特別、経験を積んだわけじゃなく、ただ、マジメにはたらいていただけです。でも、マジメな人がぜんぜんいてなかったから、それだけで評価されました/笑」
「独立を決意したのは、27歳。決意できたのは、妻の強烈なプッシュがあったおかげです」。
どんなプッシュ?
「彼女は、起業家の娘なんですね。だからかもしれませんが、『私と結婚するんやったら、店もってこい』みたいな/笑」。そりゃたしかに強烈。しかし、そのおかげでいまがある。数多くのスタッフとの出会いも、この一言がはじまり。
「27歳で決意し、独立したのは28歳の時です。芦屋で『焼炉端ばたばた』をオープンしました」。なんでも、ケーキやシュークリームで、と思っていたらしいが、製菓は難しいとなって、炉端になったらしい。
その落差が、林氏らしくもある。

しかし、くすぶりはつづく。

「焼炉端ばたばた」は、どうだったんだろう?
「それが、まったくで/笑。2000万円かけたんですが、日商ゼロの日もふつうにあったくらい」。「あの時は、どうしようもなかった」と林氏。借金があったから、前に進んでいただけ。
「ただ、最低限の売り上げはありましたから、大きな赤字にはならなかった。だから、ぎゃくにやめられなかった」。少額といっても、毎月、赤字が累積する。「希望もなにもなかった。あったのは、絶望感だけです」。
相当、きびかったんですね?
「炉端は、初めてでしょ。最初から、無謀だったんです。知識も、経験もなにもないから、何もできない」。できることと言えば。
「お顔とお名前は、必死で覚えました。注文されたお料理も含めて。名刺をいただいたら、下の名前までインプットです」。それでも、簡単に売り上げアップとはいかない。ただし、あの時の模索は、貴重な財産になっている。
「そう思わないと、やっていられませんよね/笑」。
少なかったが、お客様のなかには、富裕層も、有名人もいた。何しろ、芦屋である。そのなかに、いまも「恩師」と慕う人もいた。
「『お前は目がいいからいける』と言いつづけてくれた人です。偶然なんですが、私が昔から憧れていたケーキショップのオーナーでした」。「すごく紳士だし、人柄がいい」と、べたぼれの様子。
「ショップも、いいんですね。ペンキのカラーもいい。そうそう、それで聞いたんです。『このペンキはどうしたんですか?』って。そうしたらね。『日本になかったから、フランスまで行って買ってきた』って。すごいでしょ」。
読書家で、あそびも格好いい人。こんな人になれたら、いい。人生の目標もできたにちがいない。しかし、くすぶりはつづく。

世界6位で、世界がかわる。

少し上向きになったのは、塚口にオープンした2店舗目の「アレグロ」をオープンしてから。林氏、初挑戦のイタリア料理である。「当時、イタリアンが流行っていたんですね。もちろん、シェフを採用する余裕はない。だから、料理担当は私です。もちろん、イタリア料理なんてしたことがない。でも、これがけっこううまくいって」。
ランチがいい。ただ、ディナーはイマイチ。
「パスタくらいしかちゃんとできなかったですからね。ディナーの料理は…、どうだったんでしょうね/笑」。
上向きはしたが、起爆剤とはいかなかった。3店目は、アレグロの前にだした「じんべえ」。
「じつをいうと、3店とも似たり寄ったりでパッとしなかった。閉店まではいかないけど、大儲けともいかない。でも、あれを境に一転します」。
あれって何ですか?
「天満に、4店舗目を出店します。ピッツァを窯で焼くことができる店を手に入れたんです」。
ピッツァ?
「ナポリのピッツァをやりたくてね。で、それも勉強して、じつは、私、世界6位なんです」。世界的なコンクールで、世界6位になったそう。
「あれは、33歳の時です。それまでギリギリだった数字が、翌日から2割アップ。しかも、全店です。ピッツァとまったく関係ない『じんべえ』まで/笑」。

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有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年2月9日火曜日

株式会社moon・up 代表取締役 上月隆弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社moon・up 代表取締役 上月隆弘氏登場。

本文より~

コンピュータ専門学校、中退。

奈良には昔、ドリームランドという遊園地があった。奈良市内にあったから、たいていの奈良県民は行ったことがあるはずだ。今回、ご登場いただいた、奈良県生まれの、株式会社moon・upの代表取締役、上月氏も「ドリームランドでよく遊んだ」と言っている。
上月氏が生まれたのは、奈良県生駒郡平群町。大昔、平群氏という豪族の本拠地だった場所である。「父と母は、生駒山の向こう側、東大阪出身です。私は、平群で生まれ育ちます。高校から、大阪の清風高校に進み、片道1時間20分の電車通学を経験しました」。
清風高校は、仏教学校で、毎朝、般若心経を読まされていたらしい。むろん、刈上げ。「1年目は、勉強していたんですが、2年になると都会の誘惑にまけて/笑」。
「関関同立は、いちおうぜんぶ受験したんですが、全部落ちました/笑。1年、浪人したんですが、イヤになってそれもやめて。それから、独り暮らしをはじめます」。
なんでも、アフリエイト広告で生活費をまかなっていたそう。「そう、それで本格的にエンジニアの道を進もうとコンピュータの専門学校に進学。でも、4年制なのに1年半で辞めてしまいした/笑」。
どうして?
「じつは、コンピュータの世界より、飲食の世界に惹かれたからです」。

華やかな「飲食」の世界に魅了される。

専門学校に進んでから、「学費だけは」と、飲食のバイトで授業料をまかなっていた。「その結果、まさか、こっちに進むなんて/笑」。こっちとはむろん、飲食のこと。
「株式会社大地が経営していた『土間土間 梅田店』、ここが、私にとって飲食の世界への入り口でした。そうですね。大地自体は、メガフランチャイジーのような飲食会社になるんですが、まだ3店舗目くらいしかなかった頃です」。
当時は、まだ水道工事がメイン事業だったらしい。
「ただ、『土間土間』は、全盛期。うちの店の月商も2300万円をくだったことがなかったです。そりゃ、会社も飲食に注力するようになりますよね。私も、『土間土間』に惹かれます」。
専門学校はマニアックで寡黙な連中の世界だった。だからだろう。華やかな飲食の世界が、異次元の世界のようにまぶしく映った。
20歳で社員になった。むろん、専門学校は、自主卒業。「4年は、関西で仕事をしました。私が24歳くらいの時、『だれか、東京に行かないか』って話があって。私が手を挙げ、首都圏初のオープニング店舗で、店長を務めさせてもらいました」。
正確にいうと上京したのは、上月氏25歳の時。西東京の保谷で、上月氏にとっても、記念すべき1号店がオープンする。

株を買い取り、完全独立。

「私はのちに首都圏の統括部長になります。業績は悪くなかったですね。保谷の1号店は、住宅街だったんですが、好調でした。『近隣住民に愛されて、長く商売をする』という大地のセオリーを、そのまま実践することができました」。
この保谷店を起爆剤に、東京への進出が加速したのは、首都圏統括部長という上月氏の肩書きからも明らか。「私は、部長を務めたあと独立します。最初は完全子会社としての独立でした。ええ、そうです。運営委託のようなイメージですね」。
社長だが、思い通りにならない。
「スタッフの給料を上げようと思っても、親会社にお伺いを立てないといけない。だんだん、そういうフラストレーションもたまり、散々悩むんですが、けっきょく、会社の株をぜんぶ買い取らせていただきました」。
想定より、かなり高い買い物だったらしいが、言われたまま支払ったそうだ。2017年、このインタビューより3年前のこと。

つよみは、オペレーション能力。

「オリジナルブランドはつくらない。あくまでフランチャイズで勝負します」。
上月氏は、はっきりとそういう。
「うちのストロングポイントは何と言っても、運営力ですから、これを最大限いかすには、このスタイルがいちばん。ただ、今回のコロナ禍で思ったのは、飲食の一本足打法でいいんだろうかということです」。
たしかに、そうだ。実際、物販など「食」に関わる別の道を模索する会社も少なくない。なかには、まったく異なる業種にチャレンジする会社もでてくるかもしれない。
「現在(2020年)、8期目です。昨年の売上は7億2000万円で、利益は4000万円程度。今年はきびしくなりますが、まだ危機的な状況ではないです。目標はかわらず、年商100億円」。
業績がアップすると、いさんでオリジナルブランドをリリースする会社もあるが、上月氏は、その道を進まない。慎重さもあるが、自社のつよみを十分に把握しているからだろう。そこが、上月氏のつよみでもある。
「じつは、いまだ採用に困ったことがないんです。いまの社員は、ぜんぶアルバイトから。景気がいい昨年、一昨年も、うちを選んでくれる人がいたなんて、経営者としてはやっぱりうれしいですね」。
アルバイトが社員になる。これは、会社の良し悪しを示す一つのバロメーター。それがMAXまで傾いている。そういう意味では、100億円はまだまだだが、つくりたい会社はもう出来上がっているのかもしれない。あとは、いまの人という資産を活かし、加速していくだけ。
ちなみに、上月とは、新月から次第に満ちて満月になるまでの月のこと。いまはどれくらい満月にちかづいているのだろうか。満ちる、その時が楽しみだ。

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株式会社moon・up 代表取締役 上月隆弘氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年2月5日金曜日

株式会社サンドライブ 代表取締役 坂本昌弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンドライブ 代表取締役 坂本昌弘氏登場。

本文より~

自衛隊、卒業まで。

株式会社サンドライブの代表取締役 坂本昌弘氏が生まれたのは1979年。バブルに向かい、経済が突き進んでいく頃。「父親は、東京の高尾で『彦酉(ひこどり)』という飲食店を経営していました。母と結婚するまでは、いろんなところを転々としていたそうです。そういう父だから、子育ても、放任主義」。
放任だったかどうかはわからないが、坂本氏は、ご両親の下で、とにかくスクスクと育った。小学3年から野球をはじめ、高校までつづけている。
「スポーツをしていましたから、からだは丈夫です。だからというわけではないですが、大学進学時に、両親から自衛隊に行くよう勧められます。特に私は色々考えずに、学びたいことややりたい仕事もなかったので、自衛隊に入隊しました」。
なんでも、一定のルールとして、いったん横須賀駐屯地に入隊し、試験を受けて、適性のある部隊に配属されるそうだ。坂本氏は立川にある「航空通信科」に配属されている。興味がわいて調べてみたが、「通信科」のミッションは、「部隊間の通信確保、電子戦の主要な部門を担当」とあった。
「給料は手取りでだいたい16万円。先輩から教わった通り、月に8万円貯蓄しました」。3年7ヵ月在籍したというから、42ヵ月×8万円の計算。
「父親が飲食店を経営していましたので、いずれ、親父のあとを、と、これは昔から思っていました。だから、自衛隊を卒業し、飲食業に向かったのは、自然な流れです」。

レインズ、アルバイト開始。

「自衛隊を辞めて、相模原に帰ります。こちらで、『とりでん 相模原』でアルバイトをはじめました」。
「当時の現場のトレーナーや店長さんが凄い勢いのある方でした。そんな人の下ですからね。最初から恵まれていました。それに、自衛隊もそうでしたが、学歴も、ぜんぜん関係ない。アルバイトに店長代理を任命するくらいですから、社員も、バイトもない。ちからがあれば、評価される」。
そこが、面白いと思ったそうだ。
「店長になれば、もっとちからが試せると思って2002年の7月に社員になります。最初は副店長として、『歌舞伎町店』。当時の上司で店長は、現在、株式会社ジー・フィールドの社長をされている原田智昭さんです」。
権限が移譲されることも面白かったが、多士済々のプレーヤーがいたことも、面白かったのではないか。
ちなみに、結婚相手もいた。「結婚は2008年です。社内恋愛でした。子どもはまだ小さいですね」。お子さんの話になると、目じりが下がった。

「やる」と決めたら、一直線。

人生のターニングポイントは?と伺うと、「歌舞伎町店で原田氏と出会ったこと」との返答。
原田さんが独立し、私があとにつづきます。
創業店舗は、埼玉県の松原団地内。ホームページには<最初は、大手チェーンの運営委託業として、埼玉県草加市で和風居酒屋(かまどか松原団地店)を創業。その後「居酒屋かまどか行徳店」のフランチャイズオーナーとして営業を行いました>と書かれている。
やがて、行徳店をリニューアルし、「彦酉」をオープンする。そう、父親が高尾で経営されていた、あの「彦酉」。
「『オリジナルでやる』と決めたら、もうそっちにしか頭が回らなくて」。

・・・続き

株式会社サンドライブ 代表取締役 坂本昌弘氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン