2017年11月29日水曜日

次世代へのバトンタッチするうえでも組織固めるため研修実施しました。

営業の人材の戦力が大変弱かったので、コツコツと飲食経営者の取材を続けた10年間。
会社としては悲しいかな、成長してませんでした。
ようやく営業人材が揃ってきたので、組織基盤作り次世代育成も含め外部から講師招いて1日みっちらと研修しました。
26年目、コストはかかりますが、外部の力も借りて熱くて強いオンリー企業にします。
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11月28日、日刊ゲンダイに「株式会社サガミチェーン」伊藤修二社長が掲載されました。

11月28日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に東証一部「株式会社サガミチェーン」伊藤修二社長が掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

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28日、千葉商科大学池田ゼミにプロジェクトM・村山有志社長講演されました。

11月28日、千葉商科大学池田ゼミ(2〜3年生合同)にて、24時間居酒屋『酔っ手羽』プロジェクトM様の事前課題発表会です。
各チーム分けし、事前に店舗に行って調査し強みと改善点を学生目線で発表してもらいました。

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2017年11月28日火曜日

株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏登場。

本文より~

スポーツ少年、ラグビーの日々で何を学ぶ。

山梨学院大学のちかくに学生の御用達でもある中華料理店がある。こちらが今回ご登場いただく雨宮春仁氏の実家である。
「私が3歳の時にお店を開いたそうです。もともと祖父が旅館を経営していて、そのちかくに店を建てたそうです」。
100席くらいある大きなお店なのに、夫婦2人で切り盛りされていたそうだ。だから、雨宮氏も小学校の頃から米を研ぎ、洗い物も手伝った。その一方で、スポーツに精をだし、小学生の頃は少林寺、水泳、バスケット、中学から野球、そして高校からラグビーを始める。
「ラグビーの早明戦を観て『これだ』って思って」と雨宮氏。「それで、山梨でいちばんラグビーがつよい日川高校に進学します」。
「ふつうはなかなか進めないんですが、お客さんに高校の先生がいたことと、私自身が相撲取りみたいにでっかかったもんですから」。ラグビー部の監督もOKしてくれて入学できたそうだ。
入ったはいいが、周りはバケモノのような生徒たちばかり。「私も90キロ。走れるデブたんですが。とても、とても」と雨宮氏。それでも、辞めずにつづけた。
2年時にチームは全国大会でベスト4に食い込んでいる。「あの時は、悔しかった。あと一歩で、優勝した伏見高校に勝てていたんです」。
「辛かった」とは思うが「やっていてよかった」とも思う。辛かった時を思い出しては、勇気を奮い立たせる。

大学進学。飲食に進むと決意する。

「ラグビーばかりで、全然、勉強しませんでした。ラグビーで就職できるちからもない。推薦をいただいた大学もあるにはありましたがトップクラスじゃない。それで、ちゃんと大学に進もうと思って勉強を開始するんですが、2年かかってしまいました」。
なんでも、予備校の先生に言わせると、「中学生程度の学力しかなかった」そうだ。ただし、やるといえばやる。さぼらず1日10時間、勉強した。いつしか、教師になりたいと思うようになる。
「それで教員免許が取れるということで、帝京大学に進みます」。
山梨からとびだし、独り住まいも開始する。アルバイトもしたが、授業をおろそかにすることはなかった。「教員免許を取るって宣言していましたから、それは取んないといけない。ただ、一方で、飲食にも惹かれていきました。ええ、そうです。アルバイトで、料理っていうか、その楽しみに目覚めてしまうんです」。
このあたりは雨宮家のDNAのなせる業なのだろうか。
「昔は、飲食なんて頭になかったんですが、たしかに、影響があったかもしれません。小さな時から米を研いでいますからね(笑)」。
教員免許は宣言通り、取得した。中学の社会科の先生らしい。ただ、卒業時に教師になることは選択肢のなかに残っていなかった。「就職活動すら念頭になかった。飲食でアルバイトをして、その店に就職しようと思っていたんです」。
雨宮氏が就職を前提に選択したのは、当時、府中にオープンした株式会社ラムラの和食ブランドである「土風炉」だった。
「こちらに6年勤め、とあるホテルに転職します。ただ、ホテルにいたのは1年くらいです」。
27歳くらいの頃から、「いつか7店舗を経営しよう」と思っていたそうだ。うち4店がラムラで学んだ「和食店」。残りの3店で異なった業態を展開するために「洋食を勉強したくて、転職した」という。
ラグビーの話もそうだが、これだと思えば一途に突き進む。それが雨宮氏の真骨頂だろう。

30歳で独立。40歳の時には7店舗を出店。これが、ゴール。

「ただ、そのホテルの料理が、言い方は悪いんですが、料理と言える代物じゃなかったんですね。缶詰だったり、チンするだけだったり。勉強する意味がないと思って、1年で退職し、もう一度、ラムラに戻りました」。
なんでも、尊敬する先輩から何度もお誘いがあったそうだ。
「ホテルの時は正直、収入もきつかったですね。手取りで10万円くらい。それじゃ暮らしていけないから、仕事が終わってからも、別の店でバイトしていました」。
朝7時に出勤し、夕方に仕事が終わり、それから深夜までバイトをする。体力があるからできたことだろう。「そういう時ですね。ラグビーをやっていてよかったなって思うのは。だって、当時と比べれば、それでも、全然、楽ですから(笑)」。  
スポーツを経験してきた経営者がよくいう一言である。スポーツのスパルタ体質は、けっして賞賛されるものではないが、その一方で、精神的にも、肉体的にもつよい人を育ててきたのは、事実だろう。ともかく、ラグビーで培った根性で、修業時代を乗り越える。
独立したのは、30歳の時だ。
「30歳で独立と思っていたので、こちらは目標通りですね。ただ、40歳まで7店舗というのは、2年遅れてしまいました」。
「言ったことは実現する」。それが雨宮氏の信念である。
「うそつきになりたくないんです」。いうならば有言実行タイプなのだろう。ただ、このタイプは、ともすれば大風呂敷を広げがちだが、雨宮氏はそうではない。
「お金儲けにも、株式を上場することにも、まったく興味がない」という。現在でこそ、2020年に10店舗という、当初の目標を超える出店計画を掲げているが、当初からゴールは「7店舗」と決めていたらしい。それ以上は、雨宮氏の頭になかった数字である。
「お金儲けだけだったら、1店舗だけの時がいちばんよかったかな」と笑って、「でも、お店ってお金儲けのためだけじゃないでしょ」とつづける。
「ちょっとお金が儲かり始めると、そっちばかりに興味がいって、それで店を潰してしまうオーナーもいるじゃないですか。みんな独立した時のことを忘れている。つくった料理をお客さんに食べていただいて『旨い』って言ってもらうのが、そもそもの始まり。この原点を忘れちゃいけないんです」。
たしかにそうだ、と思う。とはいえ、店を拡大し、利益を上げ、スタッフたちに、年齢や仕事に見合った給料を渡す。それも経営者のちからであり、責任でもある。「休みもそうですね。なんとか月8日にしていますが、そういうのも、より良くしていかなければならない。だからたいへんです」と今の心境を教えてくれた。
ゴールを駆け抜けた今の話をしたが、もう一度、話をスタートラインに戻そう。30歳で、独立。果たして、結果は?
・・・続き

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2017年11月24日金曜日

11月27日より文教大学(横川ゼミ)×長岡商事(下町バルながおか屋) コラボメニューを期間限定で発売!


神奈川・湘南にキャンパスを持つ文教大学横川潤教授のゼミの学生13人が、長岡商事(東京都台東区、前川弘美社長)が手がけるラムチョップ専門店「下町バルながおか屋」とコラボレーションして「かぶりつきラムチョップ 湘南味噌(みそ)チーズ」を考案した。11月27日から「下町バルながおか屋神保町店」(同千代田区)で発売する。
看板商品であるかぶりつきラムチョップの新テイストとして開発したもので、12月26日までの期間限定商品。1本400円(税抜き)。キャンパスの地元特産、湘南自然味噌を活用し、仕上げにバーナーで特製ソースを焼き上げている。
開発にはフードサービスを中心にマーケティングを指導しているがプロジェクトチームとして参加した。
完成した湘南味噌チーズ」の試食会風景


文教大学湘南台キャンパスにてプレゼン風景

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2017年11月23日木曜日

営業マン募集します!

営業マン増員!
現在エン転職にて募集中です!

いい人材と巡り逢いたいです。
・元気でポジティブな人
・自分は運が強いと思ってる人
・素直に謝れる人
・人が好きな人
・人の上(経営者)になってみたい人

DODA、マイナビ転職、そしてエン転職。
メディアを代え自社でも検証兼ね募集しています。

2017年11月21日火曜日

株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 伊藤修二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 伊藤修二氏登場。
本文より~

高校卒業までの話。

名古屋市東区。「1958年、それまで農業をしていた父親が寿司店に修業にいって、寿司店をオープンします。実家の下が寿司店です。そういう意味では、小さい頃から飲食店に慣れ親しんで育ちました」。
今回、ご登場いただく株式会社サガミチェーンの代表取締役社長、伊藤修二氏は1955年に名古屋市中川区に生まれる。父親が開業したのは伊藤氏が3歳の時。伊藤氏が「慣れ親しんだ」という通り、物心がついた頃には、すでに飲食店が生活の舞台となっていた。
「兄弟は2人で、兄がいます。私とは違って、兄は頭もいい。2つ違いですから、いろいろ比較されたような気もしますね」。
小学2年から始めた野球は、中学2年まで続けている。それからはサッカーに没頭する。野球では、四番ピッチャーでキャプテン。サッカーでは左のウイング。
「サッカーには、ハマりましたね。当時はまだ野球に比べれば、マイナーなスポーツだったんですが、たまらなく楽しかった。成績は、インターハイに一度だけ出場しています。もっとも1回戦で敗退してしまうんですが。それでも、忘れられない良い思い出ですね」。
そういいながら、伊藤氏は目を細める。
伊藤氏の一つの原点なのだろう。

ディーラーのトップセールスマンに。

いまや、大学進学率は限りなく100%に近いが、伊藤氏が高校を卒業する頃はどうだったんだろう。「高卒」という肩書きもまだ一般的だったのかもしれない。
「そうですね。私はキリスト系の名古屋学院高校出身です。名古屋の私立では、うえから2番目です。それでも、大学進学はあまり考えていなかったですね。もっとも私は、勉強もしていなかったから、当然といえば当然なんですが」。
サッカーを引退すると、今度はバイクにハマり、バイクのローンを返済するためにバイトもしなければならなかった。だから、勉強どころではない。
若狭湾から京都を抜けて、大阪をひと回りして…、旅の記憶も鮮明だ。
「それで、大学にはいかず文具用品のメーカーに就職します。就職はするんですが、しばらくして『東京に行け』って言われたもんですから、それは『いやだ』ということで退職します(笑)。某自動車メーカーの販売会社に転職したのは、そのあとです」。
もともとバイクや車は大好きである。スポーツで鍛えた反射神経もある。人当たりもいい。成績は、常にトップクラス。伊藤氏の顧客は、相当数いたはずである。伊藤氏を新たな人生に導いた女性も、お得意様の一人だった。

サガミ創業者から、誘われた35歳。

「私が、サガミチェーンに入社するのは35歳です」。西暦でいえば1991年のことである。「私のお得様が、サガミチェーンの会長の妹さんだったんです。私のことを評価してくださって、再三『サガミに来ないか』と誘っていただいたんです。家族もいましたから、気軽に転職できません。1年間、悩みました。悩んで、悩んで、やってみようか、と」。
創業者の紹介といっても特別な待遇はなかった。むしろ、批判的な目と、プレッシャーがあった。年齢的にも35歳だ。「けっこうきつかったですね。朝7時からスタートし、翌日の3時、4時まで。休みも月1回しかなかった時もありました。ま、覚悟はしていましたが、いろんな人の目もあるわけで。特に創業者の紹介ですからね。プレッシャーも相当なもんです」。
それまではトップセールスマンとして、会社に君臨していた。35歳、いちばん脂がのっている時でもある。その席を投げうってきたにしては、待遇も微妙である。
「ええ、何度も『辞めようかな』って思いましたよ。でもね、私が辛い顔をしていたんでしょうね。パートナーさんが、『伊藤さん、元気ないけど辞めようと思ってない?』って聞いてくれるんです。『うん、辞めようと思っている』っていったら、『大丈夫、伊藤さんなら絶対店長になれるから。私、いっぱい観てきたらわかるんだ」って。もうジーンと来ますよね」。女子高生にも諭された。「『伊藤さんが辞めたら、面白くないから、私も辞めます』って、『おい、それはだめだ』って。でも、そういう一言一言が、私を元気づけてくれたんです」。
いま思えば、「伊藤」というサガミチェーンの7代目社長をつくったのは、その時の、パートさんや学生さんだったのかもしれない。ちなみに、このあと、伊藤氏は半年で副店長となり、2年目からは人事も兼務するようになる。
・・・続き
株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 伊藤修二氏

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2017年11月14日火曜日

株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。
本文より~

伊豆の白浜。

父親の実家は、総理にもなった故橋本龍太郎氏の実家と隣同士だったそう。「ひいじぃちゃんは竜太郎さんのお父さんと一緒に貴族議員になったそうです」。それで「いまでも橋本家とはご縁がある」という。今回、ご登場いただいた株式会社TonTonの代表取締役、今川氏は1985年岡山県倉敷市に生まれる。
小学生時代、何度か転校し、横浜に定住するようになる。スポーツはサッカー。小学生からはじめ、中学3年までつづけている。
面白いのは、高校1年の時の話。名付ければ、「ナンパ大作戦で、仙人に出会う」的な、そんな感じ。
「あれは高校1年の夏休みです。なんもしていないから、暇なんです。で、ともだちと、『ヒッチハイクしねぇか』って話になって。『それなら、静岡駅まで行こう。オレ聞いたんだよ。静岡駅は日本一のナンパスポットらしいんだ』って話が進んで」。
ともだちと2人。町田インターに立ち、「静岡」と書いた画用紙を掲げ、ヒッチハイクするも、スルーの連続。「1時間半やってもダメだったんで、いったん万葉の湯って温泉に寄ってから、どうするかってトボトボ歩いていたら、カーショップのおっちゃんが、『坊主たちどこ行くんだ』って声をかけてくるんです。ヒッチハイク用の画用紙をもっていたからでしょう。それで正直に『ぼくたち、日本一のナンパスポット、静岡駅に行くっす』と答えたら、『ちげぇよ、いま伊豆の白浜がいちばんなんだ』って」。
「作戦変更です。今度は海老名インターまで行って。そしたら、すぐにトラックが止まってくれて。最終的には『伊豆まで行く』っていう、ヘンなおっちゃんに乗せてもらって、無事到着。もっとも、その人はひげが長くって、その人もヘンなんですが、弟さんが、どうも『仙人』なんだそうで、なんかだんだん山のなかまで入っていくし。ちょっとしたサスペンスでした。でも、仙人なんて、うそだと思っているでしょ。ぼくらも、そうだったんですが、なんでか、真実を知りたいっていうか。その人といっしょに道なき道を上り、人間より大きな石を登って。すると、ある時、視界が急に広がって、眼下に小屋が観えるんです。そこは仙人さんの住まいで、民族衣装をきた仙人が、ほんとにでてきました。ぼくらもう、びっくり仰天です」。
車に乗せてくれた兄のほうは、六本木でトゥモローと言われているらしく、弟のほうは、仙人というより、ヒッピー文化を継承している人だった、そうだ。
ともかく、そうして伊豆に流れ着く。目的のナンパは、まだ先の話。「初日は駐車場で、ゴロ寝です。2日目に、いろいろあって、向こうの旅館の息子と知り合って、そいつの旅館で世話になりました。結局、これがきっかけで23歳まで夏になる度、伊豆に行って海の家で仕事をするんです。ぼくの人生にとって、伊豆の白浜は、消すことができない砂浜になりました」。

ビジネスなんてちょろい?という素敵な勘違い。

「今まで暮らしていたのは、ホント『小さな村のなかだった』と、伊豆で仕事をするようになって悟ります。白浜というか、海には、いろんな奴がバイトに来るわけで。性格もそうですが、出身も違う。そりゃ、視野が広がります」。
同年代の奴らとも先輩と慕う人にも出会った。海の家のバイトも今川氏に向いていた。売り子で「ナンバー1の記録を持っている」という。なんでも一杯600円のやきそばで、合計180万円という記録をつくったらしい。営業の才覚は、当時から頭一つ抜けていた。
「で、高校を卒業して、ケーブル工事の会社に就職するんですが、9ヵ月で退職。DJの仕事をやったりして」。
実は、高校を卒業したら、先輩たちが立ち上げるクラブに就職する予定だった。しかし、確約されたわけでもなく、結局、話は立ち消えになり、消去法的に就職したのが工事会社。その会社を辞め、DJを始め、こちらは10年つづけている。
「もっとも、一方でスカウトのバイトなども始め、小銭ができたんで、ともだちみんなでお金を出し合って、洋服のブランドを立ち上げたんです。『これを着てクラブに行けばイケてる』って言われるような服です。先輩が経営するセレクトショップのブランドとして販売してもらうんですが、これが、バカあたりで。同い年なんで、みんな、23歳くらいの時だったかな」。
初月から、200~300万円も儲かった。通帳にはみたことのないような数字がならんでいく。「案外、ちょろいじゃん」。そう思っても、まぁ、仕方ない。
「初月からロケットスケート、あれが勘違いの始まりっすね。そして、もう天狗でしょ。10ヵ月くらい経って、それ以上に甘い話が転がりこんできて、のっかっちゃったんです」。
「世話になった先輩を裏切ることになるとは思っていなかった」そうだが、結局、裏切り者のレッテルを貼られる。「それで気づくんです。これは、ちょっとヤバイことをしてしまった、と。それで、ビジネスを立ち上げたともだち5人、全員で抜け出すんです。お金も、ブランドも置いてきちゃいました」。
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2017年11月10日金曜日

飛田柑橘園にてみかん狩りを堪能しました。

11月の3連休天候も良かったので、湯河原にみかん園を経営するキイストン卒業生の飛田君の飛田柑橘園に行き(押しかけ)、特別にみかん狩りを堪能させてもらいました。
飛田君作った季彩オイル(香味オリーブオイル)はなんと「おもてなしセレクション2017」金賞を獲得しました。
 (湯河原にある飛田みかん農園にて)

2017年11月8日水曜日

株式会社オリエンタルフーズ 代表取締役 米田勝栄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

都ホテル時代。1年目にして、銅メダル獲得。天才、現る?

東京都日野市。今回、ご登場いただいた株式会社オリエンタルフーズの米田社長は、1974年、この日野市に生まれる。父親は、ゴルフ関連の商社に勤め、のちに起業。兄は地元で飲食店を経営。兄弟は3人で、兄、姉、米田氏という順番。「末っ子だから甘やかされた」と米田氏は笑う。
専門学校を卒業し、進んだのは有名な「都ホテル」。
「当時、『HOTEL』っていうTVドラマがあって、そのドラマに影響されてホテル業界に進もうと専門学校に入りました。ただ、ホテルといったって、そう詳しくなかったもんですから、先生に『ココとココを受かったんですが、どっちがいいですか?』ってたずねているんですね。先生は、『そりゃこっちの、都ホテルだろ』って」。
米田氏にとって、ホテルにバーがあることを知らなかった。手に職をつけたかった。ただし、都ホテルの配属は希望制ではなかった。だから、バーに配属されるように、いろんな手を駆使したそうである。
「当時、都ホテルのバーは、都内でも5本の指に入るといわれていました。にもかかわらず教育方針は、ほかのバーとは異なり、若い頃からカウンターに入れて、やらせるというスタイルで進められました。私も1年目からカクテルをマスターし、実は、1年未満のキャリアで全国大会にも出場させていただき、銅メダルを獲得しました」。
米田氏は淡々というが、凄いことである。会場として選ばれたのは、帝国ホテル。その会場に集まったのは、選りすぐられたキャリアあるバーテンダーばかり。しかも、応募総数全国2000名。ふつうなら1年目の小僧など出番がない。かたい扉が閉ざされている。しかし、米田氏は、その門を1年足らずでこじ開け、しかも堂々3位に入賞し、銅メダルを獲得している。天才、登場である。しかし、本人は「あの時は、結構、緊張しました」というばかりだ。

オーストラリアで、関西弁の社長にまくしたてられる。

「都ホテルからスタートし、実はいろんな仕事についています。バーテンダーですか? そうですね。最初の1年でそれなりの結果を残すことができたことと、どうしても海外で生活経験をしたくて、それで、『都ホテル』を去りました」。
「それから、オーストラリアに渡りました。ええ、ワーキングホリディです。もともと、私は桜美林高校なんですが、その学校に進んだのも、英語が好きだったからなんです。いつか、英語が公用語の世界で生活したいと思っていたもんですから、この時、思い切って」。
思い切りすぎて、所持品はトランク一つ。知り合いもおらず、準備もないまま、オーストラリアに飛び立った。「いま思えば、あの時の1年がぼくを育ててくれたと思うんです。あれがなければ、いまこうしていることもないような気がします」。
「凝縮した1年だった」と米田氏はいう。知り合いもいないから、店の裏口をノックし「はたらかせてくれないか」と聞いて回った。そのうち、一つの店が、快諾してくれたそうである。その店は「YUTAKA」という日本料理店だった。
「オーナーが関西の人で、ぼく以外スタッフも全員、関西人です。関西弁と関西のノリに圧倒されました(笑)。ただ、みなさん、あたたかくて。生き様もそうですし。あの店で学んだことは、いまもぼくの一つの原点となっています」。
人の優しさも、味わった。シェアハウスを転々とし、慣れない土地での暮らしが、いつしかからだに馴染むようになっていた。
「今、うちの会社では、バングラデシュの人や、バリの人にはたらいてもらっているんです。あの時の、ぼくを助けてくれた人たちと同じように、彼らをサポートしてあげたくて。だって、ぼくといっしょでしょ」。
勇気をだして、異国の街に来た。たしかに、行為は、おなじ。国は違っても、人間はたぶん根っこはみんないっしょなのだ。

様々な、寄り道。

オーストラリアに向かってから、1年が経ち、帰国する。
「帰国してから、西新宿の新宿アイランドタワーにある『SPICE ROAD』という多国籍の料理店で勤務します。私は、フロントとバーを担当していました。勤務したのは2年半です。それから、半年ばかり親父の仕事を手伝ったりもしましたが、次に選んだ道は、恵比寿にあるカフェの立て直しです。そちらを半年くらいで立て直し、五反田のレストランで、4年勤務しました」。
その後、義理の兄の会社でも勤務している。「IT会社です。最初はサラリーマンもやってみたいと思って入社させてもらったんですが、半年もしないうちに、合わないなって」。
飲食にカムバックしたくなったそうだ。
「その時、義兄に『辞めるのはいいが、飲食に戻るなら1億円くらい売る仕事をやれ』ってハッパをかけられるんです。ええ、いまでもよく覚えています。あの言葉が、励みにもなりましたしね」。
飲食か、それ以外か。義兄の一言で、米田氏の迷いは吹っ飛んだのではないか。しかし、飲食といっても、どうカムバックすればいい?
「まず、知り合いから、バーを任せてもらって。ハイ、業務委託です。そのあと、これが起点にもなるんですが、東洋大学の学生食堂のなかにあるある店舗の経営が思わしくないので、『立て直して欲しい』というオーダーをいただくんです。それで、深夜の2時までバーをしながら、早朝から大学に行って、という生活がスタートします」。
米田氏が、担当すると魔法がかかったように、とたんに店は再生した。「いえ、特別なことはしていないです。ただ、ハンバーガーやサンドイッチ、ピザがメインだったのを、米モノにしたんです。学生は、いっても米です。米なら大盛りも有ですからね(笑)」。簡単にいうが、結果は凄まじい。それまで最低3万円だった日商が、最高15万円になったそうである。
・・・続き
株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏

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2017年11月2日木曜日

株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

竹下ブラザー。めざすはメジャーデビュー。

ドリンク150円。ビールは250円。つまみは100円から、高くても300円まで。センベロと言われる店は、おしなべてコスパが高いが、群を抜いている。まさに、のんべぇの天国である。
今回は、この、のんべぇの天国、立ち飲み居酒屋「ドラム缶」で、いま注目の敏腕経営者、竹下 大介氏にご登場いただいた。
「私は、1978年7月生まれです。出身は千葉の行徳。父親は不動産業に勤務していまして、母親は、不動産会社に勤めていました。2つ下に弟がいます」。
なんでも小学生の頃から両親のレコードをひっぱりだし、耳を傾けていたらしい。好きだったのは、ドラマの影響もあって「長渕剛」。中学生時代からはギターをはじめ、かなり真剣にパンク・ロックに酔っていたそうだ。
「2つ下の弟も私に刺激されて、パンクにハマって」
兄弟2人でメジャーデビューをめざすようになる。ちなみに兄がギター、弟がボーカル担当だった。

高校進学。ただし夏服、知らず。

「当時はロン毛だった」と竹下氏。音楽はファッションであり、生き様でもあったのだろう。
パンク的、生き様?
「そういうわけでもないんですが、ちょっとは突っ張っていました(笑)」。
話を聞くと、「ちょっと」どころではない。
なんでも、校内で起こった千葉VS横浜のバトルに竹下氏も参戦し、「合計30~40人の無期停学者のなかの1人になった」という。しかも、「停学中に関わらず、学校にいた」ことがバレて、竹下氏は退学になる。
「けっこう、怒られましたね。両親から」。
そりゃ、そうだろう。
「それまで好き放題でしょ。仲間もヤンチャな奴ばかりです。高校は茅場町の商業高校だったんですが、志望動機は東京にでたい。それだけ。で、私のように千葉から通っている生徒と、逆に横浜から通っている生徒が、それぞれ派閥をつくり、結局、バトルして、みんな仲良く無期停学になってしまったんです」。
それが、入学そうそうの話らしい。だから、夏服には一度も袖を通したことがない。
それもあって、この時ばかりは、さすがに反省した。そもそもバイクを駆って、ケンカに明け暮れるタイプではない。何より音楽。音楽さえあれば生きていけるタイプだった。
「それまでのヤンチャな仲間と別れ、まっとうに生きようと、『東京ディズニーランド』でアルバイトをはじめました」。「春に面接で落ち、夏にもう一度受け、拾ってもらった」そう。
「春と同じ面接官だったんですが、二度目だったにかかわらず『じゃ、今度はやってもらおうかな』って」。
「いい人だった」と竹下氏は当時の面接官を思いだし、目を細める。
恩は忘れない。
「結局、アルバイトのまま7年間、勤務しました。そう22歳まで。この間に、実は音楽のほうでも、いろんな出来事があったんです」。
・・・続き

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2017年11月1日水曜日

10月31日発行の日刊ゲンダイに「とんきゅう株式会社」矢田部社長の記事出ました。

10月31日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に茨城県つくば中心にとんかつのとんQ展開されている「とんきゅう株式会社」矢田部武久社長の記事出ました。
(日刊ゲンダイより)

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