2015年1月28日水曜日

株式会社一幸 代表取締役 北見一幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社一幸 代表取締役 北見一幸氏登場。
本文より~

セントバーナードを愛車がわりに通学。

「大きな製鉄所(新日鐵住金君津製鉄所)ができるらしい」。ずいぶんと昔の話。そんな話を耳にした祖父は、知人と共同出資し、ある旅館をオープンした。この旅館が、今回登場する北見の、最初の一歩を踏み出すステージとなる。むろん、オープン当初の記憶はない。おそらく北見が生まれる以前の話である。
北見が生まれたのは、千葉県木更津市。今ならアクアラインが誕生したおかげで、東京からも1時間圏内だが、当時は房総半島をグルリと回らなければいけなかったから、倍以上の時間がかかったのではないか。
北見家の旅館も、この市にあり、ビジネスホテルとしてにぎわった。東京など、通勤圏外からの仕事客も少なからずいたことだろう。北見が、子どもの頃には祖父母に代わって両親が旅館を切り盛りしていた。
「特別、繁盛しているような旅館じゃなかったんですが、借金もないし、食べていくのは困らなかったようですね」。
小さい頃の記憶も、思い起こしてもらった。「そういえば、幼稚園の頃、セントバーナードに乗って通っていましたね」と言って爆笑。運動神経も良く、成績も悪くない。生徒会長ではなかったが、リーダー的な存在だったそうだ。「○○旅館の○○くん」。旅館のおかげで、わかりやすい存在だったに違いない。

高校2年生、北見、中退す。

両親が旅館に住み込みで勤務していたこともあって、北見はきびしい祖母の下で躾けられた。小学生の頃までは、先生からも優等生と認められていたのではないだろうか。ところが、中学になると豹変する。
「当時は暴走族というのが全盛期で、私も、バイクに乗ったりしてね。中学からグレて、高校2年で『さよなら』しました。その世界とはね」。
ついでに学校からもオサラバした。中退である。
「当時は、北見と言ったら、少しは名が知られるくらいになっていたんです。でも、あることがあって、暴走族を辞めることにしました。それが、高校2年の時のことです」。 学校も退学した北見は、料理人の世界へ進んだ。いずれ両親の跡継ぎとして、旅館を切り盛りする時のためでもある。
「高校を辞め、ある意味、ドロップアウトしてしまったわけですが、それでも同い年の奴には負けたくないという思いは強かったですね。だから、料理人になるからには真剣にやろう、と」。
最初の修業先は、同じ木更津にある和食のホテルだった。

寿司屋は、天職。

「こちらも、うちの旅館同様、家族経営のような店舗でした。だからでしょうか。とても優しく接していただきました」。
見よう見まねで仕事を覚えた。それですぐに2年、経った。
「ある日、寿司屋の板前さんから声をかけてもらって、今度は、寿司屋で修業することになったんです」。手先が器用だったからだろう。それまでは軍艦巻きしか経験がなかったが、やってみると寿司もすぐに握れた。
「寿司屋で修業させてもらったのは、私の人生の、一つのターニングポイントですね。なにしろ天職だ、と思いましたから」。
ともかく、北見は人が好きだった。これは小学生の頃、リーダーをしていた時からかわらない。深夜、バイクで駆けたのも、友との語らいが好きだったからだろう。「カウンターってあるでしょ。カウンターの向こうには社長さんや、部長さんとかがいらして。ふつうだったら話せないような人と向かい合って、会話するわけですよ」。こんなに楽しい仕事はないと思った。だから、天職だとも言い切る。しかし、寿司屋で勤務して2年。天職の寿司屋から去らなければならない事件が起こった。

・・・・続き

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2015年1月23日金曜日

1月23日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝”は、「プレジャーカンパニー」の望月大輔社長登場。

1月23日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)は、「プレジャーカンパニー望月大輔社長を取り上げました。
24歳でグローバルダイニングにバイトで入られたことから、この世界に・・・・。
今や超勢いある会社です。
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一流のビジネスマンになるためには…。

人材を伸ばすのは、はやり人材です。
前職リクルートでの人脈、経営者の皆さん、それにまわりの勉強熱心な人たちと接することで、うちの社員も成長してもらいたい。
やはり若手中心に、もっともっといい人たちと会わさなければ…。


2015年1月20日火曜日

株式会社マルコパスタ 代表取締役 マルコ・パオロ・モリナーリ氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マルコパスタ 代表取締役 マルコ・パオロ・モリナーリ氏登場。
本文より~

イタリア北部ノヴァラの空の下で。

今回、ご登場頂くマルコ・パオロ・モリナーリ氏は、1966年1月4日イタリア北部ノヴァラの伝統的イタリア料理を伝承するモリナーリ家の5代目として生まれる。ノヴァラは、イタリア北部、アルプスの麓にある町だ。
「豊かな自然に囲まれた、ある意味、贅沢な町でした。モリナーリ家は、この町で代々続く料理店で、フランスとイタリアをミックスした料理を出していました」。
マルコ氏は4人兄弟の末っ子。父にも影響されたのだろう。7歳の時に最初の料理を作っている。
「母の誕生日にケーキを作ったんです。初めてフライパンを握ったのもこの時です」。マルコ氏は、父の背中を追いかけていたそうだ。
「父を見て、料理人になりたいと思いました。母の為に初めてケーキを焼いた時から、父の背中を追う旅が始まったのかもしれません」。

小学生のマルコ氏は、日本に興味を持つ。

「7歳の時にはもう、世界を変えられるのは自分だけだという気がしていました。7歳と言えば向こうでも小学生です。授業が終わってから進んで厨房に入り手伝いをしました。もっとも『危ないから』って包丁だけは触らせてもらえませんでしたが(笑)」。
早くから日本にも興味があったそうだ。「興味を持ったキッカケはマジンガーZやアトムです(笑)」。なんと、「水戸黄門」も見ていたそうだ。長じるとカワサキやホンダ等、日本製のバイクにも興味を持った。
後に料理人となり、改めて日本という国を意識するのだが、その下地は小学生の時に既に存在していたようだ。

13歳から始まった修業の旅。

早熟ということではないと思う。だが、マルコ氏は13歳の時に早くも修業の道を歩み始める。父が亡くなり、子どもなりに「家計に負担をかけまい」と思ったことが、マルコ氏の背中を押した。
「父が亡くなってから母は、仕事に出かけるのですが、それ以外にも野菜や鳥を育て家計の足しにしていました」。兼業農家というところだろうか。「仕事に行く前に、作業をしていましたので、肉体的にも大変だったはずです。私たちも甘えているわけにはいきませんでした」。
最初の修業先は、ミラノにあるフレンチレストランだったそうである。少年の目に料理の世界はどう映ったのだろうか?
「正直、いじめを受けました。でも、私はめげすに取り組みました。そして、色々なことが分かりました。シェフの世界でも魂を持ってやっている人と、サラリーマンタイプの人の2種類の人がいるんだと知ったのもこの時です」。
「シェフが目をかけてくださって、半年後、フランスの有名なレストランを紹介していただきました」。
紹介されたものの、行けと言われただけで、マルコ氏自身は紹介先の情報をまったく知らなかったそうだ。貰ったチケットを懐にしまい、段ボールのスーツケース一つ持って向かった。行先はパリ。780キロ先にあった。

・・・続き

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2015年1月16日金曜日

2015年1月14日水曜日

賛否両論 店主 笠原将弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”賛否両論 店主 笠原将弘氏登場。
本文より~

大人びた少年、笠原。

おばあちゃん子だった。今回、ご登場いただく笠原の子ども時代の話である。「両親が焼鳥屋を経営していたものですから、父も母も忙しくって。それで、私は祖父母の家に預けられて育ちました」。
「子どもの頃から大人びていた」というのが笠原の少年時代の自己評価だが、それも、おばあちゃん子の証かもしれない。時代劇や落語を楽しんだ。これはまさに祖父母の下で育った影響である。
授業では、国語と日本史が好きだった。一方、理数系の科目には関心が無かった。好きではないものには、関心が向かないタイプだった。
とはいえ、中学では学級委員長も生徒会長もやった。好きだからなったわけではなく、なり手がいなかったから。このあたりも大人びていた証である。
小学6年生からバレーボール部に入部。小さい頃から高かったという身長を活かして、中学でもバレーボール部員として活躍。ムードメーカーも買って出た。そういう性格だった。
このバレーボールは高校まで打ち込んでいる。
「お店が忙しい時には手伝いました」と笠原。ただ、店を継ぐという意識はそれほど無かった。とは言え、大学に行ってサラリーマンになるというイメージも全く持てない。進路について、料理人である父に相談したことがある。

父に問いかけた、就職相談の話。

「パティシエのワールドカップがテレビで放映されていまして。それが『格好いいと思った』と父に話たんです。そしたら、『それもいいが』、ということになって」。
父にすれば、同じ料理人でもフィールドが異なった。だから、「パティシエも格好良くていいが、日本料理はどうだ」という話になった。
小さな頃から父の仕事を観てきた笠原である。仕事をしている父の姿に何度も目を奪われたことがある。
「日本料理はどうだと言われて、改めてそうだ日本料理も格好良いなと思い直しました。そして、素直に『そちらの道に進みます』と」。
その言葉を聞いて父は、内心微笑んだのだろう。
「日本料理だったら一流の店を紹介する。そして就業をするのなら厳しい店のほうがいい」と息子の決意に、早速応えた。
一流且つ厳しい。どちらにも符合する名店をすぐに探し出した。その店が、「東京吉兆」である。
かくして笠原の「吉兆」時代がスタートする。


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2015年1月13日火曜日

2015年も明治神宮に!!

1月11日、毎年恒例の明治神宮に朝8時に初詣。
やはり早朝は気持ちいいですね。
創業以来ずっと祈願しています。
同じこと繰り返し出来ることがありがたいです。やはり、継続するこの日々コツコツって大事ですね。
その後、佐野厄除け大師に行き、2015年万全のスタートになりました。
(明治神宮)
(佐野厄除け大師)

2015年1月12日月曜日

求人広告のノウハウ伝授。

求人広告の営業をやりもう直ぐ30年になります。
前職のリクルート時代からよく売ってましたが、
実は効果にこだわり成果を上げてきたことが大きかったと思います。

効果にこだわる!

単に広告取るのではなく、求人応募数を高め効果にこだわると人以上に売れてる様になってました。

効果アップ出来れはお客様は離れない!

教えていかねば…。

2015年1月9日金曜日

1月9日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝”は「すしざんまい(喜代村)」の木村清社長登場。

2015年スタートの1月9日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)は、4年連続でマグロ初競りで落とされた「すしざんまい(喜代村)の木村清社長を取り上げました。
2015年、皆さんが商売繁盛になりますように・・・。
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2015年1月8日木曜日

“引き寄せの法則”

本部スタッフ、幹部クラスの人材がいたらなって思ってたら突然現れました。
人材採用をトータルで提案したいと思っているとこれまた話を頂きました。
インターンシップで学生入れようと思ってると
これまた前回インターンシップやってくれていた友だちがやりたいと来てくれました。
まさに“引き寄せの法則”。

いつも明るくコツコツ継続していると必ずいいこと起こりますね。

2015年1月6日火曜日

株式会社ゴリップ 代表取締役 勝山 昭氏登場。

本文より~

学校にいる意味がない?

勝山氏は1976年2月2日、京都府伏見市に生まれている。父は建築関連の職人。兄弟は3人で、勝山氏は3男。皆に可愛がられて育ったそうだ。
小学校の頃の夢は何ですか?と伺うと「社長」という答えが返ってきた。あながち空想ではなく、小学校の頃から、当時流行っていたTVゲームを売買していたそうだ。
「小学校4年の頃です。ファミコンが流行っていたんですね。それで私もファミコン通信の本を良く読んでいたんです。すると『あなたのファミコンのカセット買います』という広告が掲載されていて。それで、兄に内緒でファミコンを送ったんです。すると、当然ですが、ちゃんとお金がもらえました(笑)。それで、今度は、友だちの家に行って。まず私が友人からファミコンを買って、それを業者に売って儲けていました(笑)」。
小学生に似合わないほどの「商魂」である。
「祖父のDNAです。祖父は韓国から日本に渡ってきました。フロンティア精神に溢れ、ベンチャー精神もまた旺盛な人でしたから」。なるほど、頷ける。
ところで、フロンティア精神、ベンチャー精神と簡単に口にしても、人は既定のものにすり寄りたくなるから、実際に発揮するのは大変なことだ。既定路線を歩む人が圧倒的に多いのはそのためだろう。しかし、勝山氏は高校3年目にして、早くもその既定路線と決別する。
「高校3年の春です。担任に進路を聞かれた時の事です。『どうするんだ』と言うので、『商売をしたい』と答えたんです。『だったら、少しでも早い方がいい』と。たしかに、学校にいる意味が無いと思ったんです」。
「それで、退学の道を選びました。そう、学校を辞めてしまいました。家族は何も言わなかったですね。だいたい私が父から言われていたのは、『女の子とご飯食べるときは絶対に男が払うこと』、それだけでした(笑)」。

23歳、独立。しかし…。

高校を卒業して、父と同じ設備関連の仕事を始めた。決して楽しい仕事ではなかった。理不尽な事もあった。頭も下げた。今まで知らなかった父の姿を知ることにもなり、改めて父の偉大さを知ったのもこの頃。それでも、この仕事で独立するために頑張った。23歳になった。経験は5年。その時、念願の独立を果たすことになる。
「設備の仕事って、現場では最も下に見られるんです。大工がいるでしょ。彼らが、事務所でご飯を食べている時に私らは入ることができないんです。『設備屋が、何しに来たんだ』って怒りだすわけです。年齢も関係ない。独立してからも、こちらは社長なのに、現場での立場は私が一番下だから、例えば大工をやっている15や16の金髪の若者からもタメ語で話をされるんです」。
仕事だと割り切っていたからできた。たまたま父と同じ現場にいた時、父が若者にひたすら頭を下げているのを目撃した。カッとなった。一方で父は偉いとも思った。また、2人でタッグを組み、偉そうな相手をぶっ飛ばしたこともあった。
ともかくも、独立をした状況で従業員も1人抱えた。韓国に初めて渡ったのもこの頃の話である。
「以前から興味があった韓国へ行ったのですが、言葉も全然話せませんでした(笑)。でもね。当時は、まだ『日本』っていうのは一種のブランドだったんです。交差点で可愛い子に日本語で声を掛けまくっていると、ちょうど日本語を勉強している子とかに会えたりしたんです。短い期間でしたが、友達が一杯できました」。
もちろん長期滞在というわけにはいかなかった。しかし、その短い期間に心が変化した。「韓国に行ったことで、友達も沢山できて。まぁ、みんな同年代だったのですが、そういう彼らを見ていて、俺の人生これでいいのかな、と疑問を持つようになったんです」。
「いいわけがない」。それが、結論だった。
当時、勝山氏がやりたいと思っていたのは、貿易の仕事だった。その道に進むため、起業した会社をわずか8ヵ月で畳むことにした。「私は20万円だけ取って、残りは1人いた従業員に全部あげました。道具類も全部です。身軽になった状態で私はもう一回、韓国に向かいました」。


・・・続き

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2015年1月5日月曜日

2015年、本年もよろしくお願いします。

新年、明けましておめでとうございます!
年始にフル充電しましたので、2015年は飛ばします。
今年は有限である時間を悔いと無駄のない1日1日過ごしたいと考えてます。
また同時に次世代を育てていく所存でございます。
今年もよろしくお願いします。
2015年1月1日1時頃です

増上寺より

森鴎外 水月ホテルより
神田明神
浅草寺
東京スカイツリー
2015年1月3日