2017年11月14日火曜日

株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TonTon 代表取締役 今川博貴氏登場。
本文より~

伊豆の白浜。

父親の実家は、総理にもなった故橋本龍太郎氏の実家と隣同士だったそう。「ひいじぃちゃんは竜太郎さんのお父さんと一緒に貴族議員になったそうです」。それで「いまでも橋本家とはご縁がある」という。今回、ご登場いただいた株式会社TonTonの代表取締役、今川氏は1985年岡山県倉敷市に生まれる。
小学生時代、何度か転校し、横浜に定住するようになる。スポーツはサッカー。小学生からはじめ、中学3年までつづけている。
面白いのは、高校1年の時の話。名付ければ、「ナンパ大作戦で、仙人に出会う」的な、そんな感じ。
「あれは高校1年の夏休みです。なんもしていないから、暇なんです。で、ともだちと、『ヒッチハイクしねぇか』って話になって。『それなら、静岡駅まで行こう。オレ聞いたんだよ。静岡駅は日本一のナンパスポットらしいんだ』って話が進んで」。
ともだちと2人。町田インターに立ち、「静岡」と書いた画用紙を掲げ、ヒッチハイクするも、スルーの連続。「1時間半やってもダメだったんで、いったん万葉の湯って温泉に寄ってから、どうするかってトボトボ歩いていたら、カーショップのおっちゃんが、『坊主たちどこ行くんだ』って声をかけてくるんです。ヒッチハイク用の画用紙をもっていたからでしょう。それで正直に『ぼくたち、日本一のナンパスポット、静岡駅に行くっす』と答えたら、『ちげぇよ、いま伊豆の白浜がいちばんなんだ』って」。
「作戦変更です。今度は海老名インターまで行って。そしたら、すぐにトラックが止まってくれて。最終的には『伊豆まで行く』っていう、ヘンなおっちゃんに乗せてもらって、無事到着。もっとも、その人はひげが長くって、その人もヘンなんですが、弟さんが、どうも『仙人』なんだそうで、なんかだんだん山のなかまで入っていくし。ちょっとしたサスペンスでした。でも、仙人なんて、うそだと思っているでしょ。ぼくらも、そうだったんですが、なんでか、真実を知りたいっていうか。その人といっしょに道なき道を上り、人間より大きな石を登って。すると、ある時、視界が急に広がって、眼下に小屋が観えるんです。そこは仙人さんの住まいで、民族衣装をきた仙人が、ほんとにでてきました。ぼくらもう、びっくり仰天です」。
車に乗せてくれた兄のほうは、六本木でトゥモローと言われているらしく、弟のほうは、仙人というより、ヒッピー文化を継承している人だった、そうだ。
ともかく、そうして伊豆に流れ着く。目的のナンパは、まだ先の話。「初日は駐車場で、ゴロ寝です。2日目に、いろいろあって、向こうの旅館の息子と知り合って、そいつの旅館で世話になりました。結局、これがきっかけで23歳まで夏になる度、伊豆に行って海の家で仕事をするんです。ぼくの人生にとって、伊豆の白浜は、消すことができない砂浜になりました」。

ビジネスなんてちょろい?という素敵な勘違い。

「今まで暮らしていたのは、ホント『小さな村のなかだった』と、伊豆で仕事をするようになって悟ります。白浜というか、海には、いろんな奴がバイトに来るわけで。性格もそうですが、出身も違う。そりゃ、視野が広がります」。
同年代の奴らとも先輩と慕う人にも出会った。海の家のバイトも今川氏に向いていた。売り子で「ナンバー1の記録を持っている」という。なんでも一杯600円のやきそばで、合計180万円という記録をつくったらしい。営業の才覚は、当時から頭一つ抜けていた。
「で、高校を卒業して、ケーブル工事の会社に就職するんですが、9ヵ月で退職。DJの仕事をやったりして」。
実は、高校を卒業したら、先輩たちが立ち上げるクラブに就職する予定だった。しかし、確約されたわけでもなく、結局、話は立ち消えになり、消去法的に就職したのが工事会社。その会社を辞め、DJを始め、こちらは10年つづけている。
「もっとも、一方でスカウトのバイトなども始め、小銭ができたんで、ともだちみんなでお金を出し合って、洋服のブランドを立ち上げたんです。『これを着てクラブに行けばイケてる』って言われるような服です。先輩が経営するセレクトショップのブランドとして販売してもらうんですが、これが、バカあたりで。同い年なんで、みんな、23歳くらいの時だったかな」。
初月から、200~300万円も儲かった。通帳にはみたことのないような数字がならんでいく。「案外、ちょろいじゃん」。そう思っても、まぁ、仕方ない。
「初月からロケットスケート、あれが勘違いの始まりっすね。そして、もう天狗でしょ。10ヵ月くらい経って、それ以上に甘い話が転がりこんできて、のっかっちゃったんです」。
「世話になった先輩を裏切ることになるとは思っていなかった」そうだが、結局、裏切り者のレッテルを貼られる。「それで気づくんです。これは、ちょっとヤバイことをしてしまった、と。それで、ビジネスを立ち上げたともだち5人、全員で抜け出すんです。お金も、ブランドも置いてきちゃいました」。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2017年11月10日金曜日

飛田柑橘園にてみかん狩りを堪能しました。

11月の3連休天候も良かったので、湯河原にみかん園を経営するキイストン卒業生の飛田君の飛田柑橘園に行き(押しかけ)、特別にみかん狩りを堪能させてもらいました。
飛田君作った季彩オイル(香味オリーブオイル)はなんと「おもてなしセレクション2017」金賞を獲得しました。
 (湯河原にある飛田みかん農園にて)

2017年11月8日水曜日

株式会社オリエンタルフーズ 代表取締役 米田勝栄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

都ホテル時代。1年目にして、銅メダル獲得。天才、現る?

東京都日野市。今回、ご登場いただいた株式会社オリエンタルフーズの米田社長は、1974年、この日野市に生まれる。父親は、ゴルフ関連の商社に勤め、のちに起業。兄は地元で飲食店を経営。兄弟は3人で、兄、姉、米田氏という順番。「末っ子だから甘やかされた」と米田氏は笑う。
専門学校を卒業し、進んだのは有名な「都ホテル」。
「当時、『HOTEL』っていうTVドラマがあって、そのドラマに影響されてホテル業界に進もうと専門学校に入りました。ただ、ホテルといったって、そう詳しくなかったもんですから、先生に『ココとココを受かったんですが、どっちがいいですか?』ってたずねているんですね。先生は、『そりゃこっちの、都ホテルだろ』って」。
米田氏にとって、ホテルにバーがあることを知らなかった。手に職をつけたかった。ただし、都ホテルの配属は希望制ではなかった。だから、バーに配属されるように、いろんな手を駆使したそうである。
「当時、都ホテルのバーは、都内でも5本の指に入るといわれていました。にもかかわらず教育方針は、ほかのバーとは異なり、若い頃からカウンターに入れて、やらせるというスタイルで進められました。私も1年目からカクテルをマスターし、実は、1年未満のキャリアで全国大会にも出場させていただき、銅メダルを獲得しました」。
米田氏は淡々というが、凄いことである。会場として選ばれたのは、帝国ホテル。その会場に集まったのは、選りすぐられたキャリアあるバーテンダーばかり。しかも、応募総数全国2000名。ふつうなら1年目の小僧など出番がない。かたい扉が閉ざされている。しかし、米田氏は、その門を1年足らずでこじ開け、しかも堂々3位に入賞し、銅メダルを獲得している。天才、登場である。しかし、本人は「あの時は、結構、緊張しました」というばかりだ。

オーストラリアで、関西弁の社長にまくしたてられる。

「都ホテルからスタートし、実はいろんな仕事についています。バーテンダーですか? そうですね。最初の1年でそれなりの結果を残すことができたことと、どうしても海外で生活経験をしたくて、それで、『都ホテル』を去りました」。
「それから、オーストラリアに渡りました。ええ、ワーキングホリディです。もともと、私は桜美林高校なんですが、その学校に進んだのも、英語が好きだったからなんです。いつか、英語が公用語の世界で生活したいと思っていたもんですから、この時、思い切って」。
思い切りすぎて、所持品はトランク一つ。知り合いもおらず、準備もないまま、オーストラリアに飛び立った。「いま思えば、あの時の1年がぼくを育ててくれたと思うんです。あれがなければ、いまこうしていることもないような気がします」。
「凝縮した1年だった」と米田氏はいう。知り合いもいないから、店の裏口をノックし「はたらかせてくれないか」と聞いて回った。そのうち、一つの店が、快諾してくれたそうである。その店は「YUTAKA」という日本料理店だった。
「オーナーが関西の人で、ぼく以外スタッフも全員、関西人です。関西弁と関西のノリに圧倒されました(笑)。ただ、みなさん、あたたかくて。生き様もそうですし。あの店で学んだことは、いまもぼくの一つの原点となっています」。
人の優しさも、味わった。シェアハウスを転々とし、慣れない土地での暮らしが、いつしかからだに馴染むようになっていた。
「今、うちの会社では、バングラデシュの人や、バリの人にはたらいてもらっているんです。あの時の、ぼくを助けてくれた人たちと同じように、彼らをサポートしてあげたくて。だって、ぼくといっしょでしょ」。
勇気をだして、異国の街に来た。たしかに、行為は、おなじ。国は違っても、人間はたぶん根っこはみんないっしょなのだ。

様々な、寄り道。

オーストラリアに向かってから、1年が経ち、帰国する。
「帰国してから、西新宿の新宿アイランドタワーにある『SPICE ROAD』という多国籍の料理店で勤務します。私は、フロントとバーを担当していました。勤務したのは2年半です。それから、半年ばかり親父の仕事を手伝ったりもしましたが、次に選んだ道は、恵比寿にあるカフェの立て直しです。そちらを半年くらいで立て直し、五反田のレストランで、4年勤務しました」。
その後、義理の兄の会社でも勤務している。「IT会社です。最初はサラリーマンもやってみたいと思って入社させてもらったんですが、半年もしないうちに、合わないなって」。
飲食にカムバックしたくなったそうだ。
「その時、義兄に『辞めるのはいいが、飲食に戻るなら1億円くらい売る仕事をやれ』ってハッパをかけられるんです。ええ、いまでもよく覚えています。あの言葉が、励みにもなりましたしね」。
飲食か、それ以外か。義兄の一言で、米田氏の迷いは吹っ飛んだのではないか。しかし、飲食といっても、どうカムバックすればいい?
「まず、知り合いから、バーを任せてもらって。ハイ、業務委託です。そのあと、これが起点にもなるんですが、東洋大学の学生食堂のなかにあるある店舗の経営が思わしくないので、『立て直して欲しい』というオーダーをいただくんです。それで、深夜の2時までバーをしながら、早朝から大学に行って、という生活がスタートします」。
米田氏が、担当すると魔法がかかったように、とたんに店は再生した。「いえ、特別なことはしていないです。ただ、ハンバーガーやサンドイッチ、ピザがメインだったのを、米モノにしたんです。学生は、いっても米です。米なら大盛りも有ですからね(笑)」。簡単にいうが、結果は凄まじい。それまで最低3万円だった日商が、最高15万円になったそうである。
・・・続き
株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2017年11月2日木曜日

株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドラムカンパニー 代表取締役 竹下大介氏登場。
本文より~

竹下ブラザー。めざすはメジャーデビュー。

ドリンク150円。ビールは250円。つまみは100円から、高くても300円まで。センベロと言われる店は、おしなべてコスパが高いが、群を抜いている。まさに、のんべぇの天国である。
今回は、この、のんべぇの天国、立ち飲み居酒屋「ドラム缶」で、いま注目の敏腕経営者、竹下 大介氏にご登場いただいた。
「私は、1978年7月生まれです。出身は千葉の行徳。父親は不動産業に勤務していまして、母親は、不動産会社に勤めていました。2つ下に弟がいます」。
なんでも小学生の頃から両親のレコードをひっぱりだし、耳を傾けていたらしい。好きだったのは、ドラマの影響もあって「長渕剛」。中学生時代からはギターをはじめ、かなり真剣にパンク・ロックに酔っていたそうだ。
「2つ下の弟も私に刺激されて、パンクにハマって」
兄弟2人でメジャーデビューをめざすようになる。ちなみに兄がギター、弟がボーカル担当だった。

高校進学。ただし夏服、知らず。

「当時はロン毛だった」と竹下氏。音楽はファッションであり、生き様でもあったのだろう。
パンク的、生き様?
「そういうわけでもないんですが、ちょっとは突っ張っていました(笑)」。
話を聞くと、「ちょっと」どころではない。
なんでも、校内で起こった千葉VS横浜のバトルに竹下氏も参戦し、「合計30~40人の無期停学者のなかの1人になった」という。しかも、「停学中に関わらず、学校にいた」ことがバレて、竹下氏は退学になる。
「けっこう、怒られましたね。両親から」。
そりゃ、そうだろう。
「それまで好き放題でしょ。仲間もヤンチャな奴ばかりです。高校は茅場町の商業高校だったんですが、志望動機は東京にでたい。それだけ。で、私のように千葉から通っている生徒と、逆に横浜から通っている生徒が、それぞれ派閥をつくり、結局、バトルして、みんな仲良く無期停学になってしまったんです」。
それが、入学そうそうの話らしい。だから、夏服には一度も袖を通したことがない。
それもあって、この時ばかりは、さすがに反省した。そもそもバイクを駆って、ケンカに明け暮れるタイプではない。何より音楽。音楽さえあれば生きていけるタイプだった。
「それまでのヤンチャな仲間と別れ、まっとうに生きようと、『東京ディズニーランド』でアルバイトをはじめました」。「春に面接で落ち、夏にもう一度受け、拾ってもらった」そう。
「春と同じ面接官だったんですが、二度目だったにかかわらず『じゃ、今度はやってもらおうかな』って」。
「いい人だった」と竹下氏は当時の面接官を思いだし、目を細める。
恩は忘れない。
「結局、アルバイトのまま7年間、勤務しました。そう22歳まで。この間に、実は音楽のほうでも、いろんな出来事があったんです」。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 


2017年10月24日火曜日

株式会社そら 代表取締役 都築 学氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社そら 代表取締役 都築 学氏登場。
本文より~

兄と競ったチョコレートの数。

愛知県豊田市はトヨタ自動車が本社を置く企業城下町である。人口は名古屋市に次いで多い。この豊田市で、都築氏のご両親は居酒屋を経営されていたそうだ。
「実家に併設したような居酒屋です。もともとこの店はお好み焼き店で、ほかに喫茶店も2~3店経営していたそうです」。
兄弟は2人。3つ離れた兄がいる。子どもの頃からスポーツも、学校の成績も悪くなかった。記憶にあるのは、バレンタイン・デーのチョコの数。兄にはいつも負けていたそうである。
人気者。親の影響で始めた空手を7年。定番の野球やソフトボールも巧みにこなした。
「そうですね。いろんなスポーツをやりました。中学ではテニス。高校ではソフトボール。初めてやる種目でも、そつなくこなし、すぐ飽きていました」。高校3年からはスノーボードにもチャレンジする。スキー用品を買いたくて、新聞配達やゴルフ場のボール拾いを始めたのもこの頃。
むろん、成績もいい。進学した高校は、今や豊田市のなかで2番目の偏差値の高校となっている。

チームアルペンにあこがれて。

「大学は愛知工業大学に進みます。豊田市からすぐなんで、うちから通っていました。専攻は電子工学です。電子レンジやオーブントースターなどを研究していました」。
大学には通っていたが、ホームグラウンドはキャンパス外。サッカーにスノボにサーフィンにバイト。これらが生活の中心。
「サッカーは市民リーグで、大学とは関係のないチームです。バイトはプールの監視員に、ユニクロやコンビニ、花屋さん…。大学3年の時、ふと『何をするために大学に来ているんだろう』『意味があるんだろうか』って、かなり真剣に悩みんだこともあるんです(笑)」。
大学の生徒たちと交わるチャンスが少なく、コミュニティはバイト先やサッカーチームのなかでできあがってしまっていた。それでも、なんとか大学は卒業。アルペンに入社する。
「アルペンといったら販売会社ってイメージが強いと思うんですが、実は製造業なんです。私はチームアルペンにあこがれて就職しました」。
チームアルペンとは、アルペンのなかでもよりすぐりの開発メンバーたちが、アスリートたちといっしょに世界を回ることを指すそうだ。
「スポーツではいろいろな意味で目立っては来ましたが、いつのまにかサポートする仕事に惹かれていたんです。だから、チームアルペンとしてアスリートをサポートし、世界を回る。悪くないと思ったんです」。
・・・続き
株式会社そら 代表取締役 都築 学氏

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年10月17日火曜日

株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。
本文より~

ロボットから飲食。

島根県の安来市は県の東端に位置し、鳥取県との県境にある。遠藤氏が、この安来市に生まれたのは1983年。3人兄弟の長男。
「親戚も含め、みんなお堅い仕事をしています。祖父が国鉄、父も普通のサラリーマン。叔父さんの1人が飲食をやったそうですが、失敗して店をたたむことになって。だから、私が飲食の道に進むのは、みんな反対。とくに祖父が大反対していました」。
子どもの頃は、優秀な生徒だった。父の勧めで剣道をする。中学時代のスポーツは、テニス。理数系が好きで、ロボットに興味津々。高校は、松江工業高等専門学校に進んだ。5年制のいわゆる高専である。
「そこを4年で辞めちゃったんです。ロボットより、興味がわくものができてしまったから」。
それが飲食だった。
「3年時にモンテローザさんの白木屋で調理のアルバイトを始めました。その時のエリアマネージャーに憧れるんです」。
もともと料理好きだったこともあってか仕事も楽しくなってくる。「こりゃ、飲食がいいや」。それで、モンテローザに就職。とたんに、大反対を受ける。しかし、反対を押し切った。

彼女の怒り。

「入社したとたん転勤です。岡山とか、いくつか回りました」。
店長にもなる。ハタチの時には給料も30万円を超える。
「そうなっても、祖父とかからは反対されていました。『いまからでも遅くはない。消防士になれ』って(笑)」。結局、アルバイト時代を含め3年。退職のきっかけは、その時のエリアマネージャーと合わなかったからだそうだ。
「それからいったん島根に帰ります。その時、母から『それだけ料理が好きなら本格的にやってみたら』と言われて、『服部栄養専門学校』へ進みます。ただ、『服部栄養専門学校』を選択したのは『東京に行きたい』という下心があったからなんです」。
島根から東京。距離で言えば1000キロくらいは離れているだろうか。
「東京ではむろん、独り暮らしです。1年間、『服部栄養専門学校』で勉強して、有名な割烹に就職しました。ただ、心が定まってなかったんでしょうね。1年で、逃げ出してしまいました」。
それから、転々とする日々がスタートする。入社しては、数日で辞める。そのたびに、なにか言い訳を探した。
「そういうのをみかねて、今のカミさんで、当時、付き合っていた彼女に真剣に怒らるんです(笑)」。
彼女の怒りで、お尻に火がついた。

師匠は、本の中にいる。

「ちゃんと怒られたことで、奮起して『外食計画株式会社』へ就職します。こういっては外食計画さんに申し訳ないんですが、当時、気づいたのはどこでもいっしょだってことでした。つまり、私自身の問題ってことに気づいたんですね。それで、逃げずにちゃんとやっているうちに、5年半が経ちます」。
もともと飲食で独立とは思ってもいなかった。しかし、いつしか30歳で独立と思うようになっていたそうだ。「外食計画さんには感謝しています。飲食の面白さはもちろんですが、何もできなかった私にいろいろなチャンスをくれた会社だったからです」。
最初は、魚もちゃんと下せなかったらしい。それでも、料理長にしてくれた。「とにかく『やってみろ』っていうタイプの会社だったんです。ま、バックに総料理長がいましたから、そういうこともできたんでしょうが」。
有名な割烹で勤務したと書いたが、仕事といえば「野菜を洗う」ことと、「煮物をタッパーに詰める」ことだけだった。それで1年で辞めた。だから、正直、何もできない。
「でも、なんとかしないといけないと思って。ええ、総料理長にも助けていただきましたが、独学です。実は、スッポンの下し方まで、私は本から学んでいるんです」。
独学は、ある意味つよい。試行錯誤しながら、独自の「水炊き」も開発する。これが、独立後のメイン料理となる。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年10月16日月曜日

夕刊フジの“トップ直撃”に「株式会社プロジェクトМ」村山 有志社長が掲載されました。

本日10月16日発行の夕刊フジの“トップ直撃”に24時間居酒屋酔っ手羽など経営されている「株式会社プロジェクトМ」村山 有志社長が掲載されました。
(夕刊フジの“トップ直撃” by著 細見昇市)

夕刊フジと酔っ手羽がコラボ! 
夕刊フジとのコラボメニューとしまして10月より酔っ手羽でコラボセット販売中。

夕刊フジ+ビールorサワー+酔っ手羽餃子+伝説の手羽先+冷やっこの5点セットで
何と合わせて980円なんです!
一人で飲みに来ても、読みながら飲めるのでダンディーな人になれます (笑)
更にお得なコラボこれだけじゃないです!


さらに電子版の夕刊フジを購読してる人は・・・・
酔っ手羽の世界一お得なクーポンをGETできます!
世界一というぐらいなので本当お得な内容!
何とビールが何杯飲んでも10円なんです!
そんなクーポンをゲットできます。
コレを気に是非!
是非とも夕刊フジ電子版を購読してください。
尚、夕刊フジ1部も単品販売中~です。

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

9月7日からはじまった渋谷クロスFM『Lavocのハッピー経営塾』に出ました。


【Lavocのハッピー経営塾】2017.09.07放送分 

MC 平田啓 (株式会社Lavoc 代表取締役)・ 溝口夕子 ・砂野安里 

ゲスト 細見昇市 (株式会社キイストン 代表取締役)

2017年10月11日水曜日

株式会社キングス ノウ 代表取締役 山田一希氏登場。

本文より~

飲食の遺伝子。

小学生の頃の作文には「パン屋さんやコックさんになりたい」と書いていた。
パン屋さんになりたいと書いたのは、父親がパン屋さんに勤めていたから。コックさんになりたいと書いたのは父親が弁当屋を開いたからである。
「弁当屋は、ほっかほっか弁当が登場する前に、惣菜と手作りのお弁当をお出ししていたんで、かなり儲かったそうです」。
店の前には行列ができた。いまでも「兄妹2人が私立に行けたのは、その時に儲かったからだ」と口酸っぱく言われるそうである。飲食の遺伝子も刷り込まれる。

遺伝子がいざなう。

「アルバイトもとにかく飲食ばかりでしたが、まだ『飲食で』とは決めていたわけではありません。大学2年の時にグローバルダイニングでアルバイトをするようになって、意識がかわります。きっかけは知人に代官山のレストランに連れていってもらったことです」。
「代官山」「レストラン」「アジアンテイスト」。
連れていってもらったレストランには、当時の先端が詰まっていたようだ。
「アジア料理にももちろん魅了されたんですが、何より接客です。気遣いといいますか、そういうのに感銘を受けたんです」。
いままでとはまるで違う世界観だった。アルバイトといえど、飲食経験が長いだけに違いは一目でわかる。次の日に履歴書をもって押しかけた。
「ええ、相当、厳しかったですね(笑)。ただ、アルバイトでも時給が1500円とか。当時の話ですから、相当高かったんじゃないですか」。
ハードだが、楽しかった。遺伝子がふるえた。大学を卒業できたのは、不思議なくらいである。

グローバルダイニング。観たこともない世界。

月1のミーティングにはアルバイトも参加できて、意見もする。むろん、肩書がものをいう世界ではない。これもまた山田氏にとって観たこともない世界である。
「大学で没頭したことを一つ挙げれば、このアルバイトです。3年時には、お台場に異動します。もともといたのは世田谷の店だったわけですが、お台場は、おなじ系列でも客層も違うし、ある意味、ショッキングでした」。
21歳の心は、益々、わしずかみにされた。就職したのは、むろん、グローバルダイニングである。
グローバルダイニングは、いわゆるコンセプトレストランである。「モンスーンカフェ」「ゼスト」「ラ・ボエム」「権八」など、知らない人はいないだろう。
「社内は、いわゆる実力主義です」。
実績の良し悪しにより、評価にも天と地の開きがあった。そのなかで山田氏はめざましい実績を残していく。さすが、飲食のサラブレッドである。
「独立という思いを固めたのは、26歳の頃にゼストで統括のポストになり、経営者にちかい仕事をさせていただいたから。それで、経営に興味を持ち始めたんです」。
「オレがしたいことはこれだ」。心が定まった。「30歳で独立しよう」。

いよいよ独立。ただし、資金なし。

「グローバルダイニングを卒業したのは、29歳の時です。といっても資金もないので、最初は運営受託や業務受託を行い、資金を貯めました。私自身の店をオープンしたのは、独立して3年目の2009年です」。
店名は『串だおれ』。いまも主力ブランドである。
「それからイタリアンの店や、中華も出店します。でも、いちばんは、この串カツメインの居酒屋でした」。「串だおれ」が生まれた背景も伺った。グローバルダイニングで運営してきたコンセプトレストランとは、いささか趣が異なるからだ。
「はっきり言うと、社員のアイデアなんです。社員に『何がいい?』って聞くと、『串カツでいきましょう』っていうんですね。ちょうどハイボールが流行っているから、『串カツとハイボールだ』と」。
「半信半疑だった」そうである。それでも、本場大阪まで足を伸ばしてみた。「東京には、そういう文化がなかったから、最初、串カツと聞いて、『二度付け禁止のアレ?』って聞いたくらいです。で、大阪まで行ったんですが。、それでもぴんと来なかった(笑)」。
だが、御徒町の駅前。相手はサラリーマン。しかも、2階。レストランで勝負できるとも思わなかった。「2階だったのは、むろん家賃が安いからです。それで、立ち飲みスタイルにして『串だおれ』をオープンします。この店が、うちの基盤をつくってくれたんです」。
・・・続き
株式会社キングス ノウ 代表取締役 山田一希氏

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

10月10日発行の日刊ゲンダイに「株式会社FOOTOP」山本優輔社長の記事出ました。

10月10日発行の日刊ゲンダイの“社長の私生活”に北の国バルを展開されている「株式会社FOOTOP」山本優輔社長の記事が掲載されました。
(日刊ゲンダイより)

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年10月4日水曜日

ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏登場。
本文より~

やんちゃ坊主。音楽に夢中になる。

今回、ご登場いただくのは「やきとん ひなた」などを8店舗展開する「ひなた株式会社」の辻 英充氏である。出身は長崎。物心がついた頃には、すでに父親はいなかったという。
「姉弟は4つ上の姉1人です。母は縫製工場とかではたらいていました。小さい頃、ぼくらは祖母、祖父にも育ててもらっていました」。
「勉強はキライだった」と辻氏は笑うが、代わりにスポーツは大好き。小学生の時から野球部に入り、副キャプテンを務めている。もっとも同年代の子どもをいじめているのを監督にみつかるなどして、いつも怒られていたそうだ。「やんちゃだったんですね。昔は」と笑う。
中学でも野球をつづけたが3年になる前に退部した。「小学生の時の監督よりおっかない監督で、殴る蹴るは当たり前。3年になると本気モードになるのがわかっていたから、その前に逃亡したんです(笑)」。
高校は工業系に進む。その頃から音楽に傾倒し、かなりマジメに音楽に打ち込んだ。20歳くらいまでは、真剣モードである。

音楽。その熱、なかなか冷めず。

「高校を卒業して、東京の企業に就職しました。東京に行ったのはバンドをつづけたかったから。ボーカル以外のメンバーみんなで上京しました」。
高校生の頃は、九州大会に出場するなど評価を集めた。自信はあったが、東京ではなかなか芽がでなかったそうである。会社には2年勤め、退職。バンドは自然消滅する。
「それでいったん長崎に戻り、白木屋とライブハウスではたらきました。この時が最初ですね。飲食っていいなと思いったのは」。
ただし、まだバンドへの思いは捨てきれていなかった。それで、福岡へ。
「福岡でも、飲食の仕事をはじめます。もちろん、食べていくために。ところが、就職した会社の社長がパワフルな人で、益々、飲食っていいな、格好いいなと。関門海に転職したのは、21歳の時です。ふぐ料理をやりたくなって、転職したんです」。
音楽の代わりにみつけたのが、「飲食」というもう一つのライブ。

ふぐ料理人に。


「最初は、大阪でと思っていたんですが、ちょうど関門海が東京に進出していた時で、就職したら『東京に行ってくれ』と。私にしたら『また、東京かよ』って感じです(笑)」。
当時は関門海がもっとも勢いがあった時でもある。配属は新橋。ところでどうして「ふぐ」だったんだろう。「なんとなくかな。これだっていう理由はありませんでした。免許を取ったのは、関門海に入社して2年目です。こちらに10年間いました」。
関門海ではすぐに料理長をやらせてもらったそうだ。長崎の先輩もいて可愛がられた。今まで人のいうことを聞かなかった辻氏が、心酔する。「ただ、料理長になるとやっぱり我が出てきて、マニュアルを守らず左遷されちゃいました(笑)」。
マニュアルがうるさかった。それが性に合わなかった。だから、守らない。シンプルな理由である。しかしそれがバレて、左遷だったそうである。いかにも辻氏らしいエピソードである。
「それで、ちょっと頭を打つんです。料理も客観的にみればパッとしなかったし(笑)」。ただ、それで改心する辻氏ではない。「ちょうど上場を控えて小型店を出店していた時です。中板橋店を立ち上げる時に立候補して、店長になったんです」。料理長から店長へ。なんでも、辻氏が初、だったそうだ。
小型店だからか社員は、店長1人。だれも注意する者はいない。
「結構、やる気になって、今度も好き勝手しました」。本気になればなるほど、我が強くなる。「酒も銘柄モノを仕入れて、売上は小型店のなかで1、2位だったんですが、原価とか経費がかかり過ぎて(笑)」。
小型店では、業務委託の道を選択した。業務委託となれば雇用関係はなくなる。企業にすれば、負担が軽くなる。ただ、報酬となり収入は多少上がったが、あくまで給料制である。「固定で40万円くらい」だったそう。その後、社内FC制度ができ、手を挙げた。今度は正真正銘の店主である。しかし、儲からない。そういうしくみだったといえばそれまでだが、だんだんやる気までなくなっていく。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年9月28日木曜日

株式会社FOOTOP 代表取締役 山本優輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社FOOTOP 代表取締役 山本優輔氏登場。
本文より~

北海道からの贈り物。

「北海道」という響きから想像するのは、雄大な自然と豊かな恵み。どこまでもつづく道。何ヘクタールもある農園。トウモロコシ、じゃがいもなどの農産物。厳冬の海から次々と陸揚げされる毛ガニなどの海産物。とにかく「北海道」は旨い。
その北海道から送られてくる数々の食材を用いた料理と旨いワインを楽しめるのが、直産酒場「北の国バル」。今回、ご登場いただいた山本優輔氏が経営する株式会社FOOTOPのメインブランドだ。北海道出身かと思って、そう伺ったが、「埼玉出身だ」と笑う。
「知り合いが、北海道で大学の先生をしていて、ある町の町おこしにもかかわっているんです。以前から、そちらの食材を使って『東京で何かできないか』って相談されていたんです」。
もともとは話をふられても、はぐらかしていたそうだが、起業しようとした時に「北海道」がオリジナル業態のキーワードに躍り出たという。
「北海道フェスタとか、どこもかしこも北海道っていえば盛り上がるじゃないですか。にもかかわらず、北海道の食材メインに謳った飲食店が少ない。前職では300店舗の出店を前提にブランドを開発していたもんですから、食材の量の確保とかが難しくて、相談されてもできなかったんですが、独立すれば、そこは自由です。これしかないな、と。その知り合いともう一度、話をして」。
産地直送の食材は、とにかく旨い。北海道となれば、尚更だ。シーズンを感じながら食すと、その美味しさは一段と増すだろう。
では、もう一度、北海道からの贈り物を想像しながら、「飲食の戦士たち」らしく、山本氏の足跡を追いかけてみることにする。

福祉の道を進むため、東北福祉大学へ。

山本氏は、1974年5月22日、埼玉県久喜市に生まれる。子供どもの頃から運動神経がよく、スポーツでは目立った少年だった。小・中・高とバスケットボールをつづけ、高校の時にはベスト8まで勝ち進んだ経験もある。
大学は野球やゴルフでも有名な「東北福祉大学」へ。もっともスポーツではなく、純粋に福祉を勉強するためだったそう。
「子どもの頃、特別学級の子どもと仲がよかったんです。でも、高校の時、偶然、町で出会ったんですが、彼はぜんぜん覚えてくれていなくって。それが、福祉を学んでみようと思ったきっかけです。福祉の大学は、名古屋と東京と仙台しかなくって。東京の大学がだめだったもんですから、名古屋と仙台どっちにするかってことで、仙台を選んで東北福祉大学に進みます。名古屋のほうを選択していたら、どうなっていたんでしょう」。
仙台。アパートは大学から自転車で20分くらいの距離。車を駆れば、同じくらい時間で雪山に到着した。

散々なデビューとプロへの道。

「飲食でバイトを始めるのは、大学時代。同じように大学でスノボーデビューをするんですが、散々なデビュー戦でした」。なんでも、怪我までして担架で運ばれたそうだ。「それが悔しくって」。
もともと運動神経はいいほうだった。だから、許せなかったのかもしれない。「その年のお年玉で、用具一式をそろえて。そこからですね。本格化したのは」。
プロになる。いつしか、そう思うようにまでなった。実際、スチール撮影のモデルになったり、レポートを書いたりして、それなりの報酬も受け取った。
「大学を卒業しても、もうスノーボードです」。
夏は、南半球の「ニュージーランド」に渡った。渡航費など最低限の費用はスノーボードのメーカーからでたそうだ。「1~2年目ですね。最初は言葉もしゃべられなかったですが、少しは意思疎通もできるようになって」。
「当時は英語も普通にできた」と笑う。ただ、いつまでもスノボーの世界に浸っているわけにはいかない。報酬があるといっても生活はカツカツである。
「27歳になった時点で、貯金ができるようになっていなかったなら、あきらめようと思っていました」。
実際は、26歳のシーズンで骨折し、プロの道は断念した。山本氏はかなりあっさりとそう言ったが、苦渋の決断だったにちがいない。
雪山を滑走する、翼を折った。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年9月21日木曜日

2017年9月19日火曜日

株式会社imprise 代表取締役社長 大野博司氏登場。

本文より~

親戚たちが住む、不思議なアパート。

東京都足立区出身。両親が小さな頃に離婚し、その後は、母が女手一つで育ててくれた。兄弟は2つ下の弟と10歳下の妹。ただ、階を降りれば、親戚の子がいたりした。
「祖母が所有しているアパートに、母方の親戚がみんな住んでいたんです。だから、階を降りれば親戚の子がいたりして。今思えば不思議な空間ですね。建替えはしましたが、今も親戚のほとんどはそこで暮らしています。学校は、小・中とも私立です」。

14歳、中学、退学?

「正確にいうと覚えていないんですね。義務教育だから卒業はしているはずなんですが」と前置きしつつ「卒業式の記憶がない」と笑う。
「そうです。1年の時は勉強もしていたんですが、中学2年生の時ですね、地元で通っていたボクシングジムの先輩に誘われて、初めてクラブに連れて行ってもらって。あれで、私の人生が180度かわりました」。
初めてみる風景。音楽と空間に魅了された。
「格好いいなぁって。それからほぼ毎日通います」。
中学2年。大人びた格好をしても、14歳である。からだも小さい。表情にも幼さが残る。
「スタッフの人もみんな可愛がってくれるんです。今はダメだと思いますが(当時もダメですが)そのうちクラブでバイトもするようになって。時給は300円でした」。
14歳。学校生活を送っていた少年が、いきなり大人の世界に迷い込む。しかし、それは森のなかを探検するように楽しかった。
「私が初めて、イベントをプロデュースしたのは94年だから、14歳ですね。一番多くのイベントをプロデュースしていたのは96年、97年です」。その頃になると月に20~25本のイベントを動かしていたそうだ。
「私のイベント・パーティは、ストーリーを大事にしていました。アーティスト有りきではなく、イベントのコンセプトを練り、ストーリーを組み立て、そのストーリーにあったアーティスト・パフォーマーをブッキングし、照明一つにも気を配り、イベントごとの空気をつくりだす。その短い時間のために何ヶ月も準備して、ということが楽しくて仕方ありませんでした」。
97年でも、まだ17歳。学園祭が精一杯の年頃に、早くも大野氏はプロデューサーとして頭角を現す。生意気だったのだろうか。それとも、純粋だったのだろうか。
「私が、16歳~17歳といえば、パーティ・ブームの頃です。私も担がれて、いろんな雑誌に掲載されました。ただ、私が大事にしたかったのは、音楽や空気です。そう思っていても、いろんな、たとえばミーハーな気分でパーティを企画する、そういう学生さんたちとひとくくりにされてしまって、だんだん(私がやりたいことと社会が求めることに)方向性の違いを感じるようになっていきます」。

19歳で、足を洗う?

「足を洗うという表現はヘンですが、わりとしっくりくるような気もしますね。ともかく19歳でいったん業界を去ります。結婚もきっかけとなりました」。
19歳で早くも引退。
「大手の中古車買取会社の下請けの会社で洗車のアルバイトをはじめました。何しろ、中卒ですから(笑)」。
元請けの買取店店長に声をかけられて、名古屋に赴く。洗車を毎日やっていた頃、名古屋の店舗が東海の旗艦店でエリアマネージャーもおり、アルバイト(営業)として入社させてもらった。人生初の営業だったのだが、とたんに才能が目覚めたようだ。なんでもアルバイトにもかかわらず、全国トップクラスの営業成績を残したらしい。
「アルバイトでも月収は40~50万円だったものですから、たぶん、社員にしたほうが、経費が浮くと思われたんでしょうね」。正社員の初任給は20万円。たしかに、経費は、半分で済む。ところがインセンティブがつくようになると、その額は10倍に膨れ上がった。
足を洗って、とたんに高収入なサラリーマンになる。ここが大野氏の凄いところだ。もっとも、才能と書いたが、それだけではない。努力も凄い。先輩のトークをノートに書き写す。それを繰り返し、言葉にし、セールストークをみがきあげた。雀荘から出てくるお客様を雨の中2日間待ったこともあります。その後お買上げいただき、スーツもいただきました。
「もう、寝る間もなくという感じでした。それでも楽しくて仕方なかった。何も知らないから、先輩のセールストークがどんどん自分のものになっていくんです。テクニックに長けてくると、面白いように買い取り、売れました」。
ただ、「いくらでも売れること」が、退職の引き金となる。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2017年9月15日金曜日

各専門分野のブレーンと商材が更に増えました。

誰と仕事をするか、どれだけ強い商材を扱えるか。
これが整えば自ずと結果は出ます。

ありがたいことに、徐々にですが各分野のプロ集団をブレーンに持ちました。
また商材もほぼ整いました。

人材も3年前よりレベルアップしており、そろそろ攻めに転じたいと考えています。

武田あかね、いろいろ出てます。

うちの武田あかねですが、現在ネスレ(Nesle)、JR東日本、英国adlens、TESCOMリッチスタイル、コスメティックカタログ等、イメージモデルで出演しています。
また先日、TBSの“好きか嫌いか言う時間”にもゲスト出演しました。

2017年9月13日水曜日

さあ、次世代を担う営業マン募集開始!

5月に1人採用したNの頑張りもあり、更にもう1人下半期スタートにあわせ採用します。

この10月22日で25周年ではありますが、営業マンは皆20代!
※ひとり今年30歳になりましたが(笑)

キイストンの顔となり企業様とやり取りする20代の営業マンが活躍できる背景には、後ろで支えてくれる10〜20年勤続のスタッフのおかげでもあります。

この10年コツコツ飲食の企業様との接点を増やすことに専念してましたが、機が熟し出来たのでいよいよ攻めに転じます!

そのためにも今の営業レベルをもっと上げ、かつ人数増やします。
また、来期からは新卒採用を本格的にスタートさせる予定です。

今回は前回のDODAから、マイナビ転職の一番大きなサイズで募集かけました。

求人広告代理店でもあるキイストン自ら効果も確かめる意味で求人メディア変えマーケティングも兼ね実施してます。

いい人材とご縁ありますように…。

5年後、10年後見据え飲食業界で必要とされる企業に導きたいと考えてます。


2017年9月12日火曜日

株式会社ノヴァリンク 代表取締役 川筋祐次氏登場。

本文より~

三人兄弟の次男坊。

「マハラジャ」。 ひと昔前、一世を風靡したディスコの名称である。名づけ親はデヴィ夫人。連日、連夜、若者たちが集い、カクテル光線の下で、乱舞した。
「私が入社したのは、マハラジャの最盛期です。もともと事務方として入社し、経理をしていました」。今回、ご登場いただいたのは、そのマハラジャ出身。株式会社ノヴァリンク代表取締役の川筋 祐次氏である。
「私は、母方の実家である山形で生まれました。三人兄弟の次男坊です。親父は鹿児島出身で、東武鉄道の路線バスの運転手でした」。父親は典型的な九州男児。18歳になるまで、怖くてまともに会話もできなかったそうだ。

「山形は母の実家で、私が育ったのは、東京と埼玉。小学2年生から坂戸市で暮らし、いまも実家はそちらにあります」。
いまでは親分肌の川筋氏だが、子ども頃はどうだったんだろう。
「中学校までは野球をしていました。兄も、そうだったもんですから。ただ、兄は高校でも野球をしますが、私は、中学で卒業。帰宅部に甘んじます(笑)」。ただ、進学した高校は、スポーツ学校だった。

4500名のマンモス校。

「大宮にある高校で、超マンモス校でした。生徒だけで4500人はいたかな。普通科が20クラス、スポーツ科が6クラス、私が通っていた自動車科が6クラス」。
自動車科?
「当時は、車とかバイクとか乗り物が大好きでした」。好きが高じてバイクの免許をこっそり取って、それがばれて停学になる。厳しい父親は、怒らなかったのだろうか。
「そういうのは、ぜんぜん。厳しかったのは躾です。挨拶とか、返事とか。『ひとに迷惑はかけるな』『嘘をつくな』『人との付き合いは借金をしてでもしろ』。口酸っぱく言われたのは、特にこの3つです。ただ、親父より学校が厳しくて」。
さすが4500名をコントロールする学校である。ルールも、校則もハンパなく厳しかった。だから、高校を卒業すると糸が切れたたこのように、舞った。

赤い車に惹かれて。

「大学には進学しませんでした。かといって、就職するわけじゃない。ぷー太郎って奴です」。幸い、大学生になった友達も多い。遊ぶ相手は困らなかったそうだ。
「10ヵ月くらいフラフラしていました。だいたい私は天性の次男坊なんです。だから、何も考えない(笑)。そろそろ就職をしないといけない雰囲気になって、コカ・コーラに就職します。ただそれも制服が恰好よかったからなんです」。
川筋氏が、就職するのは高校を卒業した翌年2月ことだった。「赤いルートカーに乗ってね。当時は、女子高生たちが手をふってくれたりしたもんです。もっとも仕事はハードです。いまのようにペットボトルもないし、缶もスチールです。酒屋にコカ・コーラを卸すだけでたいへんでした。でも、いやじゃなかった。何しろ、給料もよかったから」。
この仕事はおよそ3年つづけた。

転職先は、六本木。マハラジャを経営する「ノヴァ・インターナショナル」。

「マハラジャを展開するノヴァ・インターナショナルに転職したのは、その次です。私は事務方だったもんですから、本社の六本木勤務です。事務方だけで70~80名くらいいました。それだけマハラジャがすごいことになっていた時代です」。
レジにお金が入り切らず、段ボール箱に札束を投げ込んだのはこの頃のことだそう。連日、連夜、マハラジャに莫大な金が落ちた。「もっとも私は営業じゃなく経理だから、気楽なもんです。朝9時~夕方6時まで。アフターファイブが何より楽しみってタイプでした」。
ちなみに「マハラジャ」は1980年代のバブルを象徴する高級ディスコである。会社をいくつもに分割し、全国チェーンを実現した。その核となるノヴァ・インターナショナル株式会社の代表は、菅野諒氏。「最後の20セント」「深海魚」「泥棒貴族」などの名店を次々、オープンさせた稀代のクリエイターである。
・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)