2017年6月22日木曜日

6月22日、青山学院大学にてPJpartnersの南山 太志社長のゼミ講義でした。

6月22日、青山学院大学堀内ゼミにて前期最後の飲食経営者によるゼミ講義、本日はPJpartners(ピージェーパートナーズ)の南山 太志社長でした。
海外ブランドやっておられることもあってか、学生の皆さんも関心持って耳を傾けてました。
より多くの飲食経営者と学生との接点を増やし、それがキッカケでイメージ変わればうれしいです。

まだまだ道のりは長いですが・・・。

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2017年6月21日水曜日

山本五十六のあの名言。

今期中に20代の若手営業マン、あと2人ほしいな。
そのためには今の営業マンのレベルを引き上げないとダメです。


山本五十六のあの名言、
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」は
昔から心かげていることです。
ただ、もっと先があって
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」
「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」
だったんですね。
さらに
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 
不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 
泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 
男の修行である」
と。
やはり奥が深いです。


お客様から信頼され、売れる営業マンに育てていくには、
それくらいの覚悟がないとダメですね。
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2017年6月20日火曜日

株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田 眞氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マックスフーズジャパン 代表取締役社長 西田 眞氏登場。
本文より~

東京へ。

小学4年生の時に東京に引っ越した。それまでは佐賀県の多久にいた。「本籍は麻布十番です。でも、いろいろあって」。西田氏が生まれたのは1947年。戦後から2年経った時である。父親と母親は、中国から引揚船に紛れ込み帰国したそうだ。
「母は和歌山生まれなんですが、中国人なんです。だから、一時、中国に強制送還されていました。向こうで北京音楽大学を卒業して父と知り合います。祖父が商社を経営していまして、父が上海に赴任していた頃に知り合ったそうです」。
敗戦国の日本。2人だけではないが、たいていの人にとって、住みやすい国ではなかったはずだ。
「私たち家族は佐賀県の炭鉱の町で暮らし始めました。父が炭鉱ではたらきだしたんです。しかし、もともとちから仕事などしたことがない人でしたから1日はたらけば3日休むといった具合で、生活はけっして楽ではありませんでした。それで母が上京し、仕事を始めるんです」。
母親が就いた仕事は、歌手。TVに何度も出演された有名な方だそうだ。なんでもNHKの中国語の講師をされていたこともあるらしい。母のおかげで生活は安定したが、両親の間にはいつしか溝ができ、2人は別れることになる。
「母はとにかく忙しそうでしたね。当時はTVに出るより、地方巡業です。私も、弟だと偽って、いっしょに巡業したこともあるんです」。
なんでも結婚していることを黙っておられたそうだ。だから、弟。
「当時は、結婚していると言えない空気だったんです」と西田氏。ともかく、そうやって西田氏の東京生活がスタートする。
「勉強はできたほう」と西田氏。なかでも英語は得意で、中学校ではテストで98点以下を取ったことがないそうだ。高校は明治学院。英語、一つで突破した。
「私はそれから日大に進みます。スポーツはいろいろやっていまして。小学校では水泳、中学になってボクシングや剣道。剣道では2段を取って、高校では硬式野球。佐賀にいた時からわんぱく坊主で、ガキ大将です。体育会だったんですね。昔から(笑)」。
体育と英語。得意教科には、その2つが挙がる。「昔は中国語もできました。そうです。母から教わりました。兄弟は2人で、弟がいます」。
忙しい母に代わって、面倒をみてくれたのは、ばあやさんだ。明治生まれの彼女の躾は、容赦なかった。ただ、そのおかげで、西田氏の心の背骨はまっすぐに育った。

大学中退。飲食の道へ。

起業しようと思ったのはいつ頃ですか? という質問に西田氏は「高校の時からかな」と答えている。それでも母に懇願され、大学だけはと日大に進んだ。しかし、大学2年時に退学してしまう。
「私は中国人と日本人のハーフなんです」。卒業したら就職させてあげる、と超大手商社の名を挙げる知人もいた。「だけどハーフでしょ。うまくいっても課長止まり。それじゃハリがない。だから起業という道を選択したんです。飲食で独立したのは、アルバイト経験もあったからです。しかし、何の店をするかは、決めていませんでした」。
友人にフランスレストランを経営するオーナーシェフの二代目がいた。「彼にお願いして、お父さんに合わせてもらって、アドバイスをもらったんです。すると『フレンチも、和食も、20年、25年とかかる』というんですね。そんな悠長なことはできないということで、じゃぁ『もつ』はどうだということになったんです」。
当時、もつ料理店はけっして多くない。その少ないなかから、西田氏は新橋にある「もつ料理店」を選び、修業を開始する。
修業期間は1年半。ただし、ふつうの3年、5年に匹敵する濃厚さだった。
・・・続き

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2017年6月19日月曜日

父の日か…。

6月18日は父の日。
昨年の5月11日に父親が亡くなり1周忌も過ぎた今、父の日は切ないものだ。
私には子どももいないから、もらうこともない。
(生前1年前の父親/真剣を持ち楽しそうでした)
母が亡くなり母の日も寂しい気持ちはあったが、父の日も…。
寂しいもんではあるが、親がこの世から先に去るのは必然のことである。
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贈った側が感激させて頂きいました。

お世話になっておりますマンガ制作会社最大手のトレンドプロ様が事務所拡充のため移転されたので観葉植物お贈りしました。

そのお礼の手紙に感動しました。
温かいこの気持ちは人を動かしますね。
岡崎社長感謝です!!
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2017年6月15日木曜日

キイストン五人衆!!

キイストンを担う五人衆!!
よく資質のいい人材が揃いました、うちの宝物です!
営業未経験の新人であろうが経験積んできた中堅であろうが常に社長様相手に仕事をさせているため成長が早いです。
第3の営業マンでもあるTは今年1月より目標を大幅に上げたにも関わらず5か月連続達成中で、この半年で大きく成長してます。
現在新人の教育係も兼務させ、負荷を与えてますが負荷をプラスにしてくれてます。
第4の営業のSも大ネタを提案しています。

ある程度厳しくした後は、機会作ってやり、やらせることが一番!
3年後を見据え、さらに提案に必要なヒアリング力、ニーズに対応できる企画力、出来る人たちに合わせられるスピード、そして筋の通せる人間力を鍛えてます。

年内には営業マンをもう1人は増やしたいな・・・・。
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「そうだ、富士山に登ろう!」ということで今年もチャレンジ。

昨年、「そうだ、富士山に登ろう!」と軽い気持ちで臨んだ富士登山。
日が落ち時間切れで八合目で残念しましたが、今年はリベンジで富士山頂上制覇するぞ。

ということでトレーニング開始しています(笑)

2017年6月13日火曜日

株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社プラスワンマインド 代表取締役 藤原 肇氏登場。
本文より~

TVドラマに触発されて、ロスに渡った。

小さな頃に、和歌山に引っ越した。生まれは、大阪府高槻市である。「小さな頃、どんなことを考えていましたか?」と伺うと、藤原氏は、こう答えた。「子どもの頃から社長になりたかったんです。社長イコールお金持ちだと思い込んでいたからです」。どうして、お金持ちになりたかったのか。「うちは社宅だったんですね。今思えば、ぜんぜん貧乏でもなかったんですが、友だちの親が医者や不動産関係ばかりで(笑)」。藤原氏の父親は、超大手企業に勤務していた。けっして貧乏ではなかったが、社宅というだけでお金がないと思っていたのだろう。
「母親から女の子のように育てられていたもんですから、子どもの頃は、とにかく大人しい子どもでした。子どもの頃に着ていたのは、赤い服ばっかりなんです(笑)」。ところが、サッカーを始めて、大人しい少年は、たくましい少年にへんぼうする。
「小学2年生の時に、ちかくに住んでいたお兄さんに誘われて、サッカーを始めました。とたんに自我がめざめて」。才能があった。「サッカーは、ぶっちぎりで巧かったです。けっこう盛んなエリアだったんですが、5年生の時には、早くもレギュラーに抜擢されました」。
周りに認められることで、自信もつく。グランドを駆け回るたびに、評価が高まった。
「代わりに、学校の成績はぜんぜんだめ。だいたい勉強する気もまったくなかったもんですから、しかたありません」。小学5年生からレギュラーとなり、6年生になってからは、チームいちの注目選手だった。そのまま和歌山で暮らしていたら、また違った人生があったかもしれない。
「小学6年生の12月に、奈良県の生駒市に引っ越しました。小学生でしょ。転校生は、へんな目でみられます。まったくもってアウェーです。しかも、生駒にはサッカーという文化がない。なんじゃこれ!ですよね。サッカーを知らない町があるなんて思ってもいませんでした」。
それだけが原因ではないだろうが、中学に上がって、本人いわく、グレ、始める。中学校でもサッカー部がなかった。それも要因の一つだろう。高校の時には、学校に内緒でバイトもした。「プールバーで、深夜までバイトしていました」。
深夜までバイトはつづく。授業中の爆睡もつづく。
「転機は、一つのTVドラマを観て、訪れます」。「どんなドラマですか?」と聞くと「織田裕二の『お金がない』です」と笑う。ちなみに「お金がない」は、当時、毎週水曜日にフジテレビ系列で夜9時から放映されていたTVドラマ。1人の極貧青年が、出世するサクセスストーリーである。「学もない」「貧乏」という共通項があった。
「それで、『お金がない』といえばアメリカだと思って、高校3年の1月、卒業をする前に渡米しました。英語ですか?もちろんぜんぜんできません(笑)」。
強烈な、行動力だ。言い換えれば、無謀の二文字となる。
「ロスで3年くらいですね。日本人だから寿司バーで仕事をしました。給料はむちゃくちゃ安い。だから、お客様を口説いてヒモ生活をしていました」。危険とも隣り合わせだったそうだ。「スパニッシュには負けたことがないんですが、黒人には勝ったことがない。奴らはバネが違うんです。一つひとつのパンチが重い」。
銃で撃たれたこともあったらしい。至近距離から放たれた銃弾は、藤原氏の太ももを貫通した。おまけに言えば、運転していた車にも、鉛玉を叩き込まれたことがあるそうだ。そういう意味でも、ギリギリの暮らしだった。3年経って、奈良に帰った。

年間数千万円の利益。「天才」という二文字は、オレのためにある。

「うちに帰ると父親が、『一度でいいから大手で勤務してくれ』っていうもんですから、祖父のコネを使って、ウエスティンホテルに潜り込みました」。なんでも、おじい様は近鉄の重役をされていたそうだ。「ウエスティンホテルでは3年勤務します。祖父のコネで入社していなかったら、間違いなくすぐに退職していました。しゃれにならないほど、たいへんでした(笑)」。
ただし、しゃべり方、立ち振る舞い方などは、ぜんぶ、この一流ホテルで学んだ。つまり、藤原氏の基礎は一流ホテル仕込みである。
「目標だった黒服になることもできたんで、3年で退職します」。石の上にも3年。祖父に対する免罪符ともなっただろう。「その後は、ブライダルホテルで1年弱勤務し、焼肉屋の店長をしているときにヘッドハンティングされて、『牛角』の関西1号店の出店にかかわり、合計、5年勤務しました」。
当時の目標は、30歳までの起業。「30歳までどんだけ転職したろか、と思っていました」。ブライダルホテルを退職したのが25歳。「牛角」でも勤務する。30歳が近づいてくる。「当時、勤務していたのは、メガフランチャイズです。ビアードパパやビックリドンキーのフランチャイズもしていました」。様々な業態を体験し、その経験をもとに、宣言通り、独立を果たす。
「天王寺に、日本酒と米料理の店『銀シャリ』を出店しました。もちろん、オリジナルブランドです。酒はもともとは米でしょ。親和性が高いんです。2階20坪のお店でした。部下と嫁と合わせて4人でスタートです」。
好調にスタートし、2ヵ月目には早くも軌道に乗った。「あの頃は、もう天才だと思っていました」。2号店、3号店と出店を重ねる一方で、コンサルティングの仕事も殺到した。「お店自体は、それほどでもなかったんですが、コンサルの仕事に箔をつけるために私自身が店を経営していることが大事でした」。コンサルティングを行うことで、年間、相当な売上が立った。「天才」とうがった言葉もあながちオーバーに聞こえない。「北新地」がホームグランドになる。1日100万円を使おうが、問題はなかった。
しかし、宴は、いつまでもつづかない。
「リーマンショックで、ぜんぶいかれてしまいました。コンサルの仕事もなくなり、店もうまくいかない。月に400~500万円の赤字がでました。数ヵ月、がんばりましたが、最後にはスタッフに1ヵ月分の給料を払って辞めてもらって。店も叩き売りました」。
「タダでも良かった」という一言が当時の状況を良く物語っている。
数年間に亘り、億単位の金を動かしていた藤原氏だったが、結局、手元に残ったのは、たった数万円。
しかし、藤原氏の人生でいえば、そこからが、ほんとうの意味のスタートだった。
・・・続き

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2017年6月6日火曜日

株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏登場。
本文より~

ボーカルとグループ退団と。

「父は、日立造船の役員を経て、海外邦人医療基金という独立法人で専務理事をしていました。こういうのを天下りじゃなく、天上がりっていうらしいです」。
父親の話を聞くと、羽中田はそういって笑った。
羽中田氏が生まれたのは1956年6月29日。
造船が花形だった時代に、父親は日本を代表する「日立造船」という会社の中枢にいた。「うちでは、父をぜんぜんみかけませんでした。休みの日も仕事漬けだったのでしょう。文字通り、企業戦士です」。
父親も、そうだったように、息子の羽中田氏も慶応大学を卒業している。
「私は中等部から慶応です。中等部時代は、バスケットボールをするかたわら音楽もしていました。高等部になってバンド活動を本格的に始めます。『カシオペア』ってグループをご存知ですか? 私は、カシオペアの前身である『ジャジャ』でボーカルを務めていたんです」。
「カシオペア」というのは1979年にデビューし、アルバムなどの作品制作やライブ活動を行い、人気を博したバンドグループである。
「私が高校の時ですね。天才ギタリストと、天才ドラマーの出会いからスタートするんです。私がいた頃はジャジャというバンド名でした。グループは2人の天才がひっぱっていたんですが、彼らはストイックというか、ファンにチヤホヤされることにも関心がないみたいな。一方、私は、言っても音楽をやっていればモテるとか、多少、そういう浮ついた気持ちがあったのも事実で、大学2年の時に、方向性の違いが明確になって、私はグループを抜けました。違った言い方をすれば、首になったわけです(笑)」。
ストイックに音楽性を追求する。2人の天才たちほどでもないが、羽中田氏自身も、「TVとかにでて、チヤホヤされているグループを恰好悪い奴らだと思っていた」そうだ。
「私は高校に進んだ時に音楽で食べていこうと、いったん学校を休学します。しかし、結果的には、まだ、音楽で食べていくのは早いと断念しました。だから、休学の期間を合わせて1年を3回もやっているんです。ふつうは2回で追い出されるんですが、父がうまくやってくれていまして、それで3回です(笑)」。
つまり、1年生を計3回。そのぶん、学校に長くいて、友人もたくさんできた。
「バンドとか、何かと早熟だったんですね」と話をふると、羽中田氏は、にやりと笑って頷いた。「慶応っていうのは昔から、そういう風土があるんですね。先取りタイプが多いっていうのか」。
大学には、まず進学できるのも自由な時間を楽しむことに一役買っているのかもしれない。もっとも学部は成績順。羽中田氏は、法学部に進む。今でこそ文系の最高位であるが、希望していた経済学部にはいけなかった。大学2年で、高校時代からつづけていたバンドを卒業するのは、すでに書いた通りだ。
ところで、慶応時代、羽中田氏は2人のキーパーソンに出会っている。「セント・リングス」の青木氏と「ピザーラ」の創業者、浅野氏である。いずれ彼らは、羽中田氏の人生にも大きな影響を与えることになる。

憧れの広告代理店。2度目の挑戦。

「狙っていたのは、電・博です。で、それがだめなら、第一企画(現アサツー ディ・ケイ)だと思っていました」。今度は、就職の話である。電通はいいところまでいった。だが、最終関門が突破できない。博報堂もしかり。「親父のいとこが、第一企画のオーナーだったんです。だから、『最後はここだ、ここなら大丈夫』と高をくくっていたんです」。
第一企画(株)は、1999年に(株)旭通信社と合併して、現在は、株式会社アサツー ディ・ケイとなっている。「ところが、親父が根回しをしていて『息子が頼みにいっても、断れ』と。親父にすれば、広告代理店みたいなのは、まっとうな職場じゃなかったんです。親父は、自分と同じようにモノづくりのメーカーに就職させたかったのでしょう」。
まだまだ古い時代である。公務員が、就職先として幅をきかせていた時代でもある。しかし、その一方で、情報化時代を迎えつつあったのも事実だろう。
敏感な学生たちは「情報」を武器とするTVや広告代理店をかっこいい職業だと認識するようになっていた。羽中田氏もその1人。「そうですね。かっこいいだろうなと思っていました。今も昔も、そういうモノサシって、あるんじゃないですか」。
最後の砦である、第一企画の叔父のもとに出向き、けんもほろろに追い返された羽中田氏は、結局、化学メーカーである日産化学工業(株)に就職する。意に反した就職だったが、「石の上にも3年」という、当時、唱えられていた言葉を守り、3年、きっかりはたらいた。3年で、呪縛が解ける。
呪縛が解けた羽中田氏は、もう一度、「第一企画」を受検する。たまたま中途採用者を募集するという情報を友人から教えてもらったからだ。2000人の応募者なかで採用されたのは、たった15人。そのなかに羽中田氏もいた。本人は「裏口入社」と笑うが、たとえ、何らかの采配があったにしろ、その後の活躍は、すべての批判を一蹴するものだ。
「もともとは、小さなクライアントだった」と羽中田氏。先輩から放り投げられた、とあるクライアントが化けた。
「電電公社です。民営化される前は、広告って言っても小さな枠しか出稿されていませんでした。それで、新人の私にお鉢がまわってきたんです。ところが、数年後に民営化されて、とんでもない出稿量となります」。
正確な数字は伏すが、第一企画のなかでもいきなりナンバー2のクライアントとなる。民営化に寄り添いサポートしたのは、羽中田氏である。それだけの仕事をやってのけたのは、まぎれもなく羽中田氏の実力といっていいだろう。
「もう、そりゃたいへんでした。1日24時間、すべて仕事です。むろん、当時の話です。交際費はいくらでも自由になりました」。今振り返れば、広告が華やかかりし時代である。金が集まり、タレントたちが集まり、広告が時代の流れをつくった時代でもある。いつしか、その先頭集団に、羽中田氏がいた。
「私が退職したのは45歳なんで、合計18年いました。45歳の誕生日の翌々日に退職届を提出したんです」。

さらば、広告。華々しき世界。

華やかな広告業界から「飲食」という地味な世界に転身した裏には、やむを得ない事情もあった。
「まだ、第一企画に在職していた頃です。大学の先輩でもある『ピザーラ』の浅野さんに『できる』と言われて、妻を代表にして、ピザーラのFCを出店するんです。大学時代の同級生『セント・リングス』の青木が、私より早くピザーラのFCを展開していまして。ともかく、話がすごいんです。月商が1000万円、2000万円にもなる、と。その事実を知っているだけに、指を加えているわけにもいかなくて(笑)」。
いつかは独立しようと思っていた羽中田氏は興味を持ち、始めてみると、これが儲かった。飲食経験ゼロ、経営経験もゼロ。それでもわずか3年で店舗数は11店舗まで膨らんだ。「順風満帆。ただし、調子に乗りました」と羽中田氏。「ピザーラ」だけではなく、「かつや」のFCも出店。こちらも儲かった。ラーメン店もしたくて、「よってこや」のFCも出店する。自らは会社の外側にいて、経営は人任せ。とにかく、いきおいに任せて出店を重ねた。ブレーキを踏む人間はだれもいない。
「報告は受けていたんです。ただ、店をみることもなく、数字だけをみて鵜呑みにしていました。ところが、ある時、経営状態の危機を知るんです」。
それが45歳の誕生日を迎える直前のことだった。原因は、すべてを人任せにしていたことだ。都合のいいように加工された数字を、すっかり信じ込んでいた。
「店舗数も、それなりにありましたし。飲食っていうのは、儲かる時もそうですが、その逆もしかりで。いったん赤字になると底が抜けたようになり、ほかの店の利益まで垂れ流すことになる。もう、放ってはいけない。だれも、やってくれないわけですから」。
どちらかと言えば、消極的な選択だった。信頼して、任すことができる人間がいれば、好きな広告代理店の仕事を辞めるという選択肢はなかったはずである。しかし、消極的か、積極的かどうかは別問題で、今や目の前に片付けなければならない問題が山積みだった。
「それまでも、いっぱしの経営者のつもりでいました。本も読み、勉強もしました。しかし、サラリーマンと経営者はぜんぜん違う。勉強して本を読んでも、それは知識なんです。本当の意味での経営力っていうのは、実践でえらいことならないと身につかない。それを思い知らされました」。
おなじような話は、いろんな「飲食の戦士たち」からも伺っている。ともかく、そういうやむを得ない状況に追い込まれ、意に反して、羽中田氏はふたたび広告の世界から、離れることになる。
・・・続き
株式会社クラウドプロスパー 代表取締役 羽中田英治氏

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2017年5月30日火曜日

株式会社ザガット 代表取締役 栗原秀輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ザガット 代表取締役 栗原秀輔氏登場。
本文より~

2007年、ザガット設立。

「八丁堀の美味しい焼酎と魚料理の居酒屋」。ザガットのホームページを観ると飛び込んでくるショルダーフレーズである。店名も「茂助」「中俣酒造」「中俣酒造 館」「銀座中俣」と、今風に飽きた人には、興味をそそるネーミングだ。
一方、酒好きが興味をそそられるのは、110年以上の歴史を堪能できる「中俣家」の焼酎である。江戸時代、焼酎は、島津家御用達だったらしく、鹿児島県限定の販売で、今でも東京ではなかなかみることはない貴重な焼酎ということだ。
「中俣家は、母方の実家の家業なんです。私たちも、代々受け継がれてきた酒造りのスピリットを体感するために毎年秋に蔵に入り、芋の処理からすべての製造工程を体験しています」。今回、ご登場いただいた株式会社ザガット 栗原 秀輔氏は、そう語る。
栗原氏が、株式会社ザガットを設立したのは、2007年。双子の弟とともに、立ち上げている。「最初は、ふぐ料理屋としてスタートしました」。これが、2017年、現在からみれば10年前の話である。

2人の野球少年。

栗原氏が、生まれたのは1983年。4人兄弟の長男で次男とは、双子の兄弟である。
父親の身長を聞いて驚いた。「身長は194センチです」と栗原氏は笑う。父親も飲食の仕事をされていたそうである。
双子の兄弟は、小学生の時から野球をいっしょに始めている。
「鹿児島から東京に移り、中学からはシニアリーグでプレーしました」。所属したのは「世田谷西リトルシニアリーグ」。「プロ野球選手だった蓬莱昭彦さんが監督です。総監督は、あの西部の監督だった東尾さんでした」。栗原氏は、ショート。弟は、ファースト。入団して3年目には、全国大会にも出場している。
「最上級生になった最初の大会がさんざんだったんですね。それで、監督が怒って、鬼になりました(笑)」。なんでも、当初いた部員30名が、またたく間に15名くらいに減ったそうだ。人数は減ったが、そのぶん、濃くなった練習のエキスが、全員に行き渡り、チームは強化された。双子の兄弟は、ともに主力選手だった。
「私たち2人は、推薦で、日本体育大学荏原高等学校に進学します。ふつう高校の練習って、とんでもないわけですが、シニアの時の猛練習のおかげで、楽勝でした(笑)」。
当時、日本体育大学荏原高等学校では、全国から選りすぐりの選手が集められたそうだが、大会ではなかなか勝ち上がれなかったそうだ。「みんな、オレがオレがってタイプだったんですね。いくら個々の技術が秀でていても、これでは勝てない。いい勉強にもなりました」。

親父の背中。

高校を卒業しても2人は、野球をつづける。社会人野球である。「社会人までいくと、もうてっぺんがみえてくるっていうか。てっぺんに行く奴らってどんな奴かわかるんです」。在籍したのは、半年。「私といっしょに弟も退団しました。小学校から追いかけたプロの二文字を断念したのは、この時です」。
チームを退団した2人は、父親が経営していた飲食店で勤務するようになる。「これは、ちょっこっとです。それから、ふぐ料理屋で勤務します。2人で2年半くらい勤務して、独立。まず、『できることを』と思って、ふぐ料理屋を始めました」。
2人で貯蓄した400万円と国庫からの借り入れ1000万円でスタートする。株式会社ザガットを設立したのも、この時である。
「順調でした」と栗原氏。しかし、順調なスタートが、かえってあだになったのか、3店舗目を出店する時に、躓いてしまう。「慢心してしまったのかもしれません」。タイミング悪く、リーマンショックが重なる。
「でも、私たちはどんな状況になっても商売をつづけた親父の背中をみてきたわけで。商売はつづけてナンボ、だって思っていましたから、負けるわけにはいかない、と」。
経営者2人が先頭に立ち、歯を食いしばり、商売をつづけた。2年後には、新店を出店するまでに、業績も回復した。
その後、栗原氏は八丁堀を中心に店舗展開を行っていくことになる。それが「茂助」「中俣酒造」「中俣酒造 館」「銀座中俣」である。中央区という激戦区で勝ち残っていることからも、店のクオリティは想像できるだろう。
・・・続き
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4月の有効求人倍率1.48倍とついにバブル期(1.46倍)抜きました!!

本日、4月の有効求人倍率が発表されました。
なんと1990年7月に記録したバブル期の最高値1.46倍を上回る1.48倍に!
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170530-00050007-yom-bus_all

まさかこの時点でバブル期抜くとは私も想像してませんでした。
このままだと2020年のオリンピック前には軽く1.6~1.7倍くらいになり
首都圏では2.5倍超え、こと飲食業界の倍率となると5〜6倍になりそうです。

ちなみにバブル期の1990年はインターネット会社はまだ設立されてませんでした。

2017年5月25日木曜日

5月25日、青山学院大学堀内ゼミにてフォロインプレンディの氏家秀太社長がゼミ講義を。

5月25日、青山学院大学堀内ゼミにてフォロインプレンディの氏家秀太社長がゼミ講義を。
ラジオやテレビ、また書籍も数十冊の著者でもある氏家秀太社長の話はうちの担当も勉強になってました。
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新人営業マン加入しました!

キイストンに28歳の新人営業マンが加入しました!

巨人軍の坂本選手に似た秋田出身、営業未経験ですが、素直で人から好かれそうな人材です。
3年後にキイストンを支える営業マンの核に育ってくれれば・・・。

引き続き募集はしています。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2017年5月23日火曜日

株式会社パッション・インサイド 代表取締役社長 李 朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パッション・インサイド 代表取締役社長 李 朗氏登場。
本文より~

大学卒業までの話。

「蔵月(KURATSUKI)」「ひゃくてん」「にひゃくてん」「ただいま」、ネーミングもユニークな焼肉と串カツ、2つの業態、7店舗を展開しているのが、株式会社パッション・インサイド。今回は、その代表取締役社長である李 朗氏にご登場いただいた。
李氏は1975年に生まれる。祖父はパチンコ事業やタクシー事業を立ち上げた起業家。父は、その祖父からタクシー事業を引き継いだ事業家である。
「祖父はタクシーだけではなく、パチンコ事業なども手広く行っていました。その起業家の血が私にも流れているんだと思います」。
小さな頃から、父とはそりが合わなかった。反骨心が自立心を育てた。それが時には、悪友との付き合いとなって表れもした。
それでも成績は悪くなかった。中学時代は、2位、3位が李氏の指定席だった。
「頭がいいっていうより、ちゃんと勉強していたんです。勉強がきらいじゃなかったですからね。でも、一方では悪いやつらともつるんでいました。先生たちから見たら、ある意味、中途半端なヤローだったはずです(笑)」。
悪友との付き合いはエスカレートする。
「高校の1年の時は、今思えば、恥ずかしいんですが、悪友たちと、まぁ、いろいろやらかしてしまいました。それがもとで出席日数も微妙になっていくんです。一方で、親父が、こいつは日本にいてはろくなことはないと、私を海外に放り出すんです。いわゆる短期留学ですね。これが、高校2、3年の夏休みの話です」。
このような経緯もあり、無事高校を卒業。「大学に入ってからは体育会系の部活動に身を置き、学生生活を部活一筋で過ごすことになりました。それでもやはり傍では勉強をしていましたが」。

もう一度、海外留学。MBA取得。

「けっして頭がいいわけではない」と李氏は謙遜する。「学年でいい成績を収めることができたのも、勉強がきらいではなかったからにすぎない」のだそうだ。しかし、その一方で、「もっと好きな勉強に打ち込みたかった」という思いもあったようだ。
「そうですね。どこかに、そういう思いもあって、もう一度、留学するという道を選択します。ただし、今度はちゃんと留学して大学院に進み、MBAも取得します。もっとも、お金がなったものですから、就職が先でしたが。ありがたいことに難関だったNTTに入社することができました」。
NTTを選択したのは「寮があったから」だそうだ。しかし、どうしてお金がなかったのだろう。
「大学2年くらいから、親父から資金をストップされていたんです。だから、当時は、お金がぜんぜんなくって。面接の交通費はもちろん、リクルートスーツまでともだちに借りる有様でした(笑)」。
ともかくも、それで、NTTに就職。映画の配給会社を経て、留学を果たし、すでに語ってもらったようにMBAも取得して帰国する。しかし、またしても金がなかった。

「クリスピー・クリーム・ドーナツ」の立ち上げに参加。

「留学先で、資金がショートしてしまって、母親から借りるんですね。で、それを返さなければいけないということもあって、帰国後すぐに、就職。縁があって、『クリスピー・クリーム・ドーナツ』の立ち上げに参加しました」。
肩書は部長だったが、人事もやれば、店舗の契約までやった。もちろん店舗営業にも立っていました。獅子奮迅の仕事ぶりだった。「在籍したのはわずか2年弱なんですが、私にとってはかなり濃密な時間でした。仕事はいわば社長業のようなもので濃密な仕事の時間を過ごさせていただきました」。
寝食を忘れるとはまさにこの頃の、李氏のことである。「NTTにもいたわけですが、何十万人もの組織ですよね。私は当時から、ベンチャー的な会社ではたらきたかったんです。その意味ではまさにぴったりでした。私自身が1年間で、採用したのは60名にのぼりました。大組織にすれば、たった60名ですが、ゼロからの60名ですからね。スケールは小さくても、当時の私たちからすれば大胆な数字だったんです」。自分の働きが直に結果として出るのはやりがいがありました。
当時は立ち上げメンバーとは真夜中まで、酒を酌み交わし、とことん議論も重ね、ものすごいスピードの中で走っていました。今現在は他社で代表取締役についているような面々との時間は貴重でした。
様々な刺激を受けることもありましたが、やがて向かう方向の違いが、鮮明になったのも事実でした。
そして、李氏は自身の思いを形にするために、クリスピー・クリーム・ドーナツを離れることになります。
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2017年5月16日火曜日

さあ、今期もいろいろと新たなチャレンジしていくぞ~!!

2017年で創業から25周年迎えましたが、今期もいろいろと新たなチャレンジしていきます。

その第1弾として5月下旬〜6月上旬、ある飲食企業様に画期的なことやります。
メディアの方とも打ち合わせし準備も完了しました。
どうなるかはわかりませんが、これがうまくいけば少しは飲食業界に貢献できるかもしれません。

また第2弾、第3弾と立て続けに仕掛けていきます。
いずれも人材採用に関係することですので、楽しみです。
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タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”タイ料理の株式会社スパイスロード 代表取締役 木下修一氏登場。
本文より~

新宿、育ち。

一人の人間と、こうも濃密に付き合えるものだろうか。株式会社スパイスロード、現社長、木下氏の話を聞いて、そう思った。「私が、創業者の故涌井会長と知り合ったのは、30年ちかく前です。当時は涌井会長も不良オヤジでね」と笑う。なんでも高田馬場をふらふらしていた時に、偶然、アルバイト募集の貼り紙をみつけたのが付き合いを始めるきっかけになったそうだ。
木下氏は、1968年9月4日生まれ。鹿児島県の出水市出身である。
「何もないところ」というのは、どちらかといえば少し大きくなって帰省した時の記憶によるものだろう。というのも6歳の頃に新宿に移り住んだため、それまでの記憶はまるでないと語っているからだ。鹿児島弁も、まるでしゃべれない。
「当時の新宿はまだ大都市じゃないんです。箱根山があって、夏はセミが獲り放題。まだ、空き地もふんだんあったんです」。1970年代前半の新宿は、まだワンパク小僧たちにとって、天国だったようだ。
「スポーツは、野球です。当時は、誰もが野球だった。私が住んでいた団地だけで、チームがいくつかあって。中学になっても、部活ではなく、そちらのチームで野球をしていました」。
野球少年。当時の、ごくふつうの選択。

ホームグラウンドは、渋谷。

高校は、渋谷にある都立高校に進んだ。渋谷の街をぶらぶらするのが、高校生、木下氏の日課になった。
「部活動もしていないですし、勉強もぜんぜんしない。校風は自由で、制服なんていうのもない(笑)」。お気に入りはリーバイスのジーパン、ヘインズのTシャツ。「高校生の時は、バイトもしました。マクドナルドが長かったですね。週2~3回で、月5万円程度でした」。もっともバイト代は、センター街に消えた。
「日・東・駒・専なら、なんとかなると思っていたんですが、ぜんぜんだめでした(笑)。まったく勉強していないんだから、そりゃそうです。1年浪人したんですが、結局、駿台トラベル専門学校に進みます」。
ご両親は、大学に行かせたかったそうだ。「小さな頃から、勉強しろと言われたことがない」と木下氏。「それでも、2人とも大学に行っていないんで、『息子には』という思いはあったようです」と語っている。

一枚の貼り紙。

専門学校で知り合った友人が、オーストラリアでの留学経験を語る。話を聞いて、憧れた。だから面接でも「いずれ留学を」と話していたそうだ。面接といっても、就職の話ではない。冒頭で、書いた、創業者の涌井氏と出会った時の話である。
「専門学校に進んでも、そう勉強するわけでもなく、いつも通り高田馬場をブラブラしている時、偶然、アルバイト募集の貼り紙が目に入るんです。お店もはじめてみたような。『こんな店あったっけ?』と思ってのぞいていると、トビラが開いて、『いらっしゃいませ』と(笑)」。
「その時、声をかけてくださったのは、涌井会長のお母さまだったんです。急にトビラが開いて、そんな風に言われたもんだから、とっさに「アルバイトの募集をみて」っていっちゃうんですよね。それがすべての始まりなんです」。
専門学校を卒業するまでアルバイトをした。「その頃、会長とはそう話をするでもなかったですね。夕方、私が出勤する頃にはもう、飲みに行かれていましたから(笑)」。不良オヤジの伝説は、この頃から始まる。
「卒業しても、就職はしませんでした。最初は面接で言った通り、留学するつもりだったんです。涌井会長からは『うちに来い』っていってもらっていたんですが。まだ20代でしょ。かりに就職するにしても、もっと恰好いい仕事があるはずだって思っていました。でも、結局、留学もせず、教材の販売会社に就職します」。
販売成績は上々だったそうだ。給料の大半は歩合給。月100万円を超えるトップセールスもいた。木下氏は、そこまではいかなかったが、それでも、かなりの額となった。しかし、「だんだんと良心の呵責というか(笑)。精神的にもきつくなって」と木下氏。半年くらいで、その会社を退職している。
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2017年5月9日火曜日

株式会社ムーヴ 代表取締役 江戸勇雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ムーヴ 代表取締役 江戸勇雄氏登場。
本文より~

7人兄妹。

江戸氏が生まれたのは、1972年。すでに兄姉が5人いた。1年経って、弟が生まれたからぜんぶで7人兄妹である。「長女とは12歳、離れています。全員B型っていうのがうちの特長です(笑)」。全員が、マイペース型。
決して裕福な家庭ではなかったそうだが「父母は兄妹7人をノビノビ育ててくれました」。
江戸家の男子3人は、小学校から空手の町道場に通っている。
「中学では剣道です。高校は枚方高校に進み、器械体操を始めます」。
武道の次に器械体操?
「いろいろやってみたかったんですね。器械体操を始めたのは、今までとは違った筋肉を動かしてみたかったからです」。
ともかく、にぎやか。兄妹が7人もいるのだから、そりゃ、そうだろう。兄と姉、そして、弟。兄妹たちにも育まれ、江戸氏の人格はかたちづくられる。

ユースホステルで、進学を決意。

「大学進学はあきらめていた」と江戸氏。「それで、高校卒業後、うちをでて岡山県にあるユースホステルで住み込みではたらきました。その時に知り合った人といっしょに小豆島にあるユースホステルに移ります。こちらでも住み込みバイトです」。
大学進学をあきらめていた江戸氏だったが、ユースホステルに来る学生たちが、一様に進学を勧めた。「大学には進んでおいたほうがいい」と。「それで。そうですね。意をけっして1年、勉強して、奈良にある奈良産業大学に進みました」。
弁護士になるべく、法学部法律学科を選択したものの、卒業後すぐに弁護士になれるわけもなく、司法試験も簡単に受からない。「弁護士事務所でバイトをしながら」という道も、金銭的に余裕のない江戸氏にとっては現実的ではなかったそうだ。弁護士をあきらめなければならなかったことが、人生でいちばんの挫折だったと語っている。

イベントや催事のムーヴ、誕生。


大学生でありながら、起業する人は少なくない。江戸氏もいわばその1人。しかし、独立までの経緯は少し複雑だ。「学生時代にイベント会社でアルバイトしていたんです。それが縁となって、私が、責任者となって大阪支店をつくることになったんです。支店長と言っても、経営という意味では実質、社長です。この会社が、今のうちの会社、ムーヴの前身です」。
ホームページの沿革には、平成9年5月に、「クラスター大阪支店」として事業を開始。平成14年2月、有限会社ムーヴ設立とある。
ちなみに、当時の事業は、イベント・催事などの工事業である。「イベントや催事を専門にやっている工事会社は、そう多くありません。規模で言えば、ムーヴはトップクラスです」。
運動会、竣工式、祭り的なものには、かならずムーヴの仕事がある。元祖浪花のお祭り男である。
「一つ一つは、ぜんぜんたいした額じゃないんですが、数がハンパない。事業を開始して約20年ですが、この間、ずっと右肩上がり。スタッフは、常時2000~3000名在籍しています」。
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2017年5月8日月曜日

父親の一周忌(2016.5.11死去)終えました。

無事、5月4日父親の一周忌(2016.5.11死去)終えました。
昨年亡くなったのですが、もっと時間経った気がしています。
近所の桜満開でした
樒(しきび)の花久々に見ました

2017年5月4日木曜日

明日父親の一周忌。

昨年5月11日、父親が亡くなり早1年が経とうとしている。
今日は明日の一周忌のため、主人なき実家に戻って来たが、今にも父親があるかなの様になにも変わっていない実家。

やはり生まれて育った家は落ち着く。
ココで私自身の基礎が作られた。

母親も父親ももうこの世にいないが、本当に生んでくれたことに感謝でいっぱい。

偶然にも祖父は84歳5ヶ月で他界、父親も84歳5ヶ月で他界。
ということは私も生きても84歳5ヶ月までかな。
そう考えると、人生あとジャスト30年か。
この人生、もうカウントダウン。
日々一生懸命生きねば…。

2017年4月25日火曜日

株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グレートステージ 代表取締役 張 玉龍氏登場。
本文より~

きっかけは、アニメ。

今回、ご登場いただいた張 玉龍氏は1985年6月3日、中国の浙江省湖州で生まれた。湖州は上海から列車で1時間程度。沿岸都市で経済的にも発展しているそうだ。張氏の父は、湖州で従業員数80名の会社を経営している。
「私の家は、私ともう一人、妹がいます。一人っ子政策の時代なんですが」と張氏。一人っ子政策でも、そういうケースがあるのだそうだ。「ただ、学校で知り合った人たちは、やはりみんな一人っ子でした」。
1990年代の中国の様子はどうだったのだろうか。当時はたしか「世界の工場」と言われていたはずである。中国からすれば、欧米はもちろん世界の技術や文化をキャチアップしていた時代だったような気がする。
話は飛ぶが、張氏が来日したのは、氏が19歳の頃だ。1985年生まれだから2004年。それから6~7年間は一度も帰国しなかったという。
ところで、どうしてアメリカではなく、日本を選択したのだろう。
「小さい頃から、勉強はぜんぜんしないんで、お母さんによく叩かれていました(笑)。得意なのは体育だけ。中学校からバスケットボールを始めるんですが、なぜ、バスケットだったのかというと、実は、『スラムダンク』の影響なんです」と張氏。
『一休さん』『ナルト』『ワンピース』と日本でお馴染みの題名が次々と張氏の口から飛び出してくる。「日本語に関心を持ったのも、実は漫画がきっかけ。最初は日本語がぜんぜんわからなくて。それで、勉強しようと思ったんです」。
アニメが、日本と中国の架け橋となった一例だ。

来日。

張氏は高校時代から親元を離れ、日本語を教える学校に進んでいる。寮で暮らすことになり、ルームメイトは4名。うち3名が来日し、張氏ともう1人がいまも日本に残っているそうだ。
「高校を卒業した年に単身、日本に来ました」。
憧れの日本である。しかし、親戚も、知り合いもいなかったそうだ。「日本はどうでしたか」と伺うと、「湖州も都市なんですが、スケールが違いました。なかでも路線がすごい(笑)。山手線ってなんなんだって。感動もしました。年配の方に道をたずねたんです。すると、そのおばあさんは、わざわざ目的地まで連れていってくれたんです」。
張氏は、いまもその時のことを宝物のようにして胸にしまっている。「来日して、不安な時ですからね。日本人にとってはめずらしくないことかもしれませんが、私は、大きなぬくもりを感じました」。
来日した張氏は、日本語の専門学校に進む。
「2年制なんですが、私は向こうで勉強していたので1年生が免除され、2年生からスタートしました。それから、駿河台専門学校に入り直し、日本の歴史などを勉強します。そういう勉強をしないと大学にも進学できないからです」。
張氏は日本語を巧みに操る。英語もできるそうだ。
「子どもの頃は、勉強しないタイプでしたが、そういうわけにはいきません。一旗あげるまで中国にも帰らないと誓っていましたから、覚悟もぜんぜん違います。専門学校を出て東洋大学に進み、今度は経営を勉強しました。会社を興すためです」。
張氏は、教授に勧められて大学院にも通ったと言っている。

起業。

大きな志を持った青年が日本に来た。この「飲食の戦士たち」でも、中国や韓国、台湾など海外から来られた経営者を多数紹介している。張氏も、そのうちの1人である。
しかし、どうして張氏もまた「飲食」だったのだろうか。「日本に来てすぐにアルバイトを始めました。来日してから1週間たった頃には、もう店に立っていました。コンビニ、居酒屋、定食屋、イタリアン…。学校では経営を大局的に学び、お店では実践を通して勉強させていただきました」。
アルバイトでも職位がつくと、レジ閉めなどもできるようになり、経営状況がおぼろげにもわかるようになる。それが、手本ともなり、モノサシともなった。
「それで、これならいけるんじゃないかなと思って、私も飲食店を始めるんです。池袋に1号店を出店したのは、大学3~4年の時です」。
在学中に、起業する。張氏のパワーは、どこからでてくるんだろう?
「父からは、『やるなら、やりきれ』と言われていました。だから、6~7年間、家にも、中国にも帰らなかった。そう決めていたんで、とにかくやるしかなかったんです」。「てっぺんをめざす」と張氏はいう。そのために、日本のなかでも、いちばんの東京に来た。
起業は、必然の選択だったに違いない。


営業人材を増員します。

今年も営業を強化するため人材を増員します。
もちろん、3年後5年後10年後を見越して20代しか採用しません!!
一線で活躍する営業マンは20代にシフト出来たので、業務委譲の途中です。
やはり発想や創造、行動面含め可愛がられる20代が会社を引っ張ってくれれば・・・。

会社は今年25周年目でバックヤードで頑張ってくれているスタッフは皆10~20年のベテラン揃い。また、外部ブレーンも一流どころなので周りから教えてもらえる環境があります。


2017年4月24日月曜日

最近、マスコミの方々から経営者&飲食店の取材先相談増えました。

飲食の戦士たちも約600回を迎え、最近テレビや新聞、ネット等マスコミの方々から飲食経営者&飲食店の取材先相談増えました。
たまたまかもしれませんが、この1週間でテレビはキー局から4案件ありました。
その他新聞、ネット等入れれば8案件も・・・・。

ありがたいことです。
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