2026年8月13日木曜日

次から次へと自然な流れで現在に至ってます。な

実はキイストンは、昔から「誰もやっていないこと」に挑み続けてきた会社です。
今から33年前、全国の求人メディアを横断して取り扱う代理店がまだどこにもなかった時代。私たちはすでにその先駆者として、一歩先を走っていました。
さらに2001年には、ケータイに特化した採用ページ「エム採用」をリリース。
この取り組みが非常に画期的だったため、当時すべての求人メディアから大きな注目を集めることになります。
その後、さまざまな逆風もありましたが、私たちはめげずに「エム採用」を継続していきました。転機が訪れたのは、リーマンショックが起きた2008年のことです。当時、特に取扱いの多かった飲食業界へ一気に舵を切る決断をしました。
そうして誕生したのが、飲食業界に特化した求人サイト「in-職(いんしょく)hyper」です。
そして、その付録的な編集企画としてスタートしたのが「飲食の戦士たち」でした。
まさかこの企画がここまで長く続き、多くの反響を呼び、キイストンの認知度を大きく押し上げる看板コンテンツに成長するとは、当時は誰も想像していませんでした。

さあ、これからおもしろくなってきそうです!

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年8月10日月曜日

横浜家系ラーメン「壱角家」様、連続コラボとはスゴい!!

 横浜家系ラーメン「壱角家」様、ヒプノシスマイク -Division Rap Battle(と『ペルソナ』シリーズ30周年の連続コラボとはスゴい!!

『ペルソナ』シリーズ30周年(コラボ期間8/21~10/4)

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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BS10プロ野球中継の「応援メシ」今シーズンあと8試合提供します!

8月7日(金)日ハムVS楽天試合の「応援メシ」はKIWAMI様でした。

KIWAMI様は超おすすめの“極み盛り”にてジャパンフードセレクション・グランプリ受賞され、解説の小笠原氏に提供されていました。

ご縁を頂き、BS10プロ野球中継の「応援メシ」に昨シーズン後半から参画させてもらいましたが、今シーズンはあと8試合提供となりました。

皆さんに喜んで頂けるように頑張ります。

KIWAMI阿波社長と解説者の小笠原氏
ジャパンフードセレクション・グランプリの“極み盛り”
お通し食べ放題で超人気の“もつ煮込み”

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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なかなか帰省できませんが・・・・・。

先日、実家のある京北下町・高野地区の墓掃除には借りて頂いてる星野さんが私の代わりに参加してもらいました。
その午後には姉が一足早くお盆でお墓参りに・・・・。

東京に住んでるため、両親が亡くなってからは、なかなか帰省できないので本当にありがたいです。
おかげで仕事も好調で感謝です。


 


2026年8月7日金曜日

おもしろい展開やる時が来た~!!

やっとキイストンの新しいことにチャレンジするベンチャースピリッツである、おもしろい展開やる時が来た~!!


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏登場。

   “飲食の戦士たち”株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏を取り上げました。

本文より~

京平さんは、大学進学のため、バイトに精をだす。

父にも母にも敬語を使っていた。弟たちからは「京平さん」と言われていた。曽祖父が起こした達川グループは、地元の京都府福知山では有名な企業グループだった。
「ただし、うちは富豪でもなんでもなかった」と断った後、「それでも、父には『お父さん』じゃなく、『社長』。母には『母』でも『達川』でもなく、旧姓で話しかけていました」という。
ちょっと変わった話が、始まった。
「兄弟は私を筆頭に男4人。弟たちも私には『京平さん』でした」。
「父は私が2歳の時に、祖母が経営していたお好み焼き店を継承して、飲食業を本格的にスタートします」。
お父様が飲食を開業したのは、やはり、福知山。
その福知山が、今回、ご登場いただいた、株式会社Numbersの代表取締役、達川 京平さんの生まれ故郷。
生まれは1999年。2026年のこのインタビュー時点で、まだ27歳。この年齢も少し頭に入れて読み進めて欲しい。
「父の飲食業は、福知山から北近畿に広がります。私が高校生の時には20店舗ありました」。
息子たちと、一緒に会社も育っていった。
父の教えは「兄弟全員、船主になれ」だった。船主はもちろん1人。「兄弟で、おなじ会社を経営するな」という教えである。この教えを小学生の兄弟は、頷きながら聞いていた。
「私は、小学校から水泳やバスケットボールをやって、勉強もそれなりにやって、福知山のなかでは進学校に進みます」。
<将来、船主ですもんね?>
「そうです、そうです。ただ、高校生の時には、起業とかそういうことじゃなくって、田舎者だから東京に憧れて。大学は『青山か、明治か』なんて考えていました。実は、東京の大学に進むために、中学生の時からバイトでお金を貯めていたんです」。
4人兄弟だから、高校も公立。父母の言うことは、絶対。反対されても行けるよう資金を準備した。その額、300万円。
「父のカバン持ちもしていて、飲食の経営者にもお会いしました。こちらは将来の起業のためですが、父の会社の書庫にあった『日経レストラン』や『月刊食堂』など、外食の経営本を片っ端から読んでいました」。
<大学進学と起業。まずは大学進学ですね?>
「ふつうなら、そうなんですよね」と、達川さんは笑う。

社長は、高校3年生。

「小さな頃から父の仕事をみていましたし、店でアルバイトもしていたんで、飲食だったらだいたいわかるんです。高校生くらいになると独学の効果もあって、解像度が上がってきます。すると、父の店の問題点にも気づいて『オレなら』という気持ちになっていくんです」。
「根拠はまったくないですが、自信だけあって。実は、高校3年生に進級した春、父を説得して、業務委託で飲食事業をスタートするんです」。
<高校3年の春? 学校は?>
「高校は続けました。もともと禁止されていたアルバイトも、私だけ特別にOKだったんです。その延長で(笑)」。
「居酒屋を経営します」と聞かされた先生は、さぞ目を丸くされたことだろう。
「うちの社長は、高校生」。
やはり、おかしい。
「お酒を飲めないのに、お酒を勧める高校生だった」と言って、笑う。
創業メンバーはご近所さんの幼馴染。今もナンバー2として、達川さんをサポートされているが、当時は2人とも高校生。
「さすがに、高校生2人ですから、父のところからサポートで、スタッフさんに来ていただいていました」。
家賃は15万円。父には月60万円を支払った。
しかし、どうして、進路が大きくかわったんだろう?
出向で来られていた方は、達川さんを「社長」と呼んだのだろうか?
それにしても、大学に通いながら社長になった経営者にはインタビューで度々、出会ったが、高校生で社長になったのは、今回の達川さんが初めてかもしれない。
果たして、高校生社長はどんな結果を残すのか。経営は空想のなかで、経験したのみ。店の業績は、下降気味で、月商100万円前後で推移。駅から徒歩30分のロケーション。
常連さんは、少年の店主を受け入れてくれたのだろうか?
話を急ごう。

父が設定した、高いハードル。

「実は、その店は父の会社の創業店で、さっき言った祖母が経営していたお好み焼屋だったお店です。突然、店長が姿を消し、月商も下がって100万円程度だったので、『倉庫にするか』『社員に譲るか』という話があって、それが私の耳にも入るんです」。
<思い出のあるお店だった?>
「創業店といっても、私が2歳のときですから、思い出うんぬんじゃなく、『やってみたい。オレなら業績をあげられる』って。眼の前にニンジンをぶら下げられた馬の気分で、もう、大学どころじゃなくなったんです(笑)」。
<高校生によくお父様もOKをだされましたね?>
「簡単じゃなかったです。父からは『社員に委託するよりハードルを上げる』と言われました。社内で、独立希望者も少なくなかったから、当然ですね。それで、月商100万円程度の店で、家賃15万円、使用料で月60万円です」。
<固定費75万円?>
「当然、赤字です(笑)」。
社員の給料もある。大学に進学するために貯めていた300万円を運転資金に回した。それが、みるみる減っていく。
「でも、ぜんぜんビビってなかったです。父がバックにいるとか、そういうんじゃないですよ。実際、バックにいたわけではないですし。オレなら、絶対、いけるって」。
高校生が、赤ら顔の大人たちに料理をだし、酒を勧める。福知山、ローカルなエリアだ。なかには、おなじ高校出身のお客様もいて、盛り上がったかもしれない。交わされたのは、部活の話か、未来の話か、酒の話か。
<お店に来たら、お客様も若返ったんじゃないですか?>
「15坪の小さな店です。お客さんとの距離はめちゃくちゃちかいです。影響は、あったかもしれませんね(笑)」。
おっさんと高校生がカウンター越しにキャッチボールする。
「当時の福知山ですから口コミです。いけるかどうかは、カウンターの向こうにいるおじさんたち次第です。まさか、高校のともだちに来てもらうわけにもいきません(笑)」。
<業績は上がりましたか?>
「なかなか上がらなかったですね。半年くらいで貯金が底をつき、首が回らなくなりました。でも、タイミングを測ったかのように、その頃から、ぐっと業績がアップしていくんです」。
高校生、実践にもとづいた戦略、戦術はない。
「週イチだったお休みをやめて、毎日17時~24時までフルタイムで働きました。父のところから出向で来ていただいていたんで補助輪付きですが、なんとか、かんとか、軌道に乗り始めます」。
「月商は350万円になった」という。
自身は給料もとらずに資金をプールして、出店を重ねた。
「未成年ですから銀行が貸してくれない。だから、3店舗目までは自己資金でオープンしていきます」。
<4店舗になったときは、さすがに高校を卒業されていますよね?>
「ええ、そこは、当然」。
<改めて、大学に進むという考えはなかったですか?>
「ないですね。ますます飲食に惹かれて、有名な飲食の経営者のブログを読み漁っていました」。
友達も、お酒を飲める年齢になっている。飲食店の若きオーナーを、友達は、どういう目で見ていたんだろう?

・・・続き

株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏登場。

  “飲食の戦士たち”有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏を取り上げました。

本文より~

スジャータに就職するまでの増子さん。

「キャプテンで、エースで4番」。
「小学校の頃の話だけどね」と増子さん。今回ご登場いただいた有限会社マイプロジェクトの代表取締役会長だ。
「中学ではショートで5番。ちょっと遊びの方向に進んじゃって。1年くらい幽霊部員みたいな時があって。でも野球が好きだったからね。3年になってもう一度、グラウンドに戻って」。
「いろいろあったな」と笑う。
「中学1年で初恋。高校に入って彼女ができて。高校は市立工芸高校っていうんだけど。入学してすぐ喧嘩で停学になって、合計3回くらいかな停学になっています」。
校則はゆるく、比較的自由に楽しめたが、停学以外にも、難関が一つあった。
「追試があってダメだったら、退学。私はギリギリクリアしましたが、実際、今も付き合いがあるんですが、ともだちの何人かは追いだされています」。
高校を卒業した増子さんは、スジャータ(名古屋製酪株式会社)に就職する。
「高校に求人が来るでしょ。頭のいい奴からとっていくんです。最初はチョイスできるけど、私はもう最後のほうだからね。でも、スジャータはとてもいい会社だったよ」。
<残り物に福がある?>
「そう、まさにそんな感じ」。

営業マン、増子さん。

「成績はいいほうでした」。学校ではなく、営業成績の話。表彰もされているそう。
「レストランにトラックで注文された商品をとどけて、そのときに営業もするのが定番のスタイル。営業数字より、人間教育っていうか、そういうのを大事にする会社だった気がします。スジャータには24歳までいたから、6年か。長くいたよね」。
じつは、増子さん。中学生の頃から「将来、社長になる」と思っていたそうだ。
「おぼろげだけどね。勉強はしなかったけど、歴史は好きで、とくに成り上がる豊臣秀吉とか、坂本龍馬とか。そういう偉人の本を読んでいたからじゃないかな」。
「それに、人に従うのが、どうもできない人でした」。
だから、6年もサラリーマンをつづけられたことは、異例。ちなみに、人に従うのが苦手なことは、高校生のときのバイトで証明されている。
「全然続かないんです。態度が悪いんでしょうね。すぐ、くびになっちゃう(笑)」。
「スジャータを退職することになったのは、ちょうど神戸の震災があって、お客さんに誘われたんです。『神戸に行って解体業をしようぜ』って」。

神戸と、黒塗りのベンツと、建築業と。

「震災があった年の6月には神戸に行った。誘ってくれた飲食店のオーナーは『いかん』と言いだしたんで、行ったのは、私1人。向こうで、解体業のチームに入りました」。
<いい会社だったのに、なにが増子さんを動かしたんですか?>と聞くと、「スジャータという看板がないなかで、なにができるかやってみたかったんです」と回答。
24歳。ピュアな青年だった。
「仕事はあったけど、500万くらい借金ができた」というのは、神戸での話。
<なんでまた?>と聞くと、私らは10人くらいのチームでやってたんですが、そりゃ、いろんな奴がいるんです。サギ師みたいなのもいた。借金ができたのは、そのチームをまとめていた親方が、借金を抱えて飛んじゃって、私がアホで、その保証人になってたからなんです」。
<どうしたんですか? そんな大金?>
「幸い、親方の仕事を引き継ぐことができて、ほかにもいろいろと紹介してもらって。まぁ、向こうは借金を返済させるために、せっせと紹介してくれたわけんだけど(笑)」。
「それでもマジメにやってたからでしょうね。仕事の幅も広がって、じつは建築の仕事もはじめたんです」。
<借金はどうなりました?>
「1年くらいで無事返済できたかな。返済が終わって自由になって。もう、神戸はこりごりだって、名古屋にもどってくるんです」。
「解体の作業中だから昼頃かな。黒塗りのベンツが現場のちかくで止まって、『増子っていうのどれだ?』って。『オレです』っていったら、ベンツに乗せられちゃって。500万円の返済がスタートです」。なんて、おっかない話もしてくれた。
<神戸を離れるのに仕事はどうしたんですか?>
「後輩にクライアントごとパスしました」。
もったいなかったが、早く神戸からおさらばしかたった。
カネの鎖が取れて、名古屋に、無事、帰還。さて、その後は、どうなっていくんだろう。

マイ(MY)プロジェクト、スタート。

「建築の勉強とかをしたかったから、リフォームの営業をします。成績は悪くなかったから、いいお金にもなって、だんだん仕組みもわかるようになって。適切な値段で営業したら、オレでも会社ができるんじゃないかって思うようになってね」。
「それで、吉田ってやつを誘って、増子のMと、吉田のYをとって、MYで、マイプロジェクトを設立するんです。でも、吉田は飲酒運転で事故って亡くなっちゃうんです。すぐあとに、良くしてくれていた中学校からの先輩も亡くなって。神戸での経験もそうですが、この出来事で人生観がめちゃくちゃかわりました」。
それでも増子さんは後ろを向かなかった。
「いい仲間がたくさんいたからね。こっちに戻ってマイプロジェクトをつくったのは1996年。20代の後半だったかな」。
「初年度は数千万円だったけど、2年目には1億円になって」。
スジャータ時代のネットワークを使って、業績はアップをつづける。ついに、4億円。
「でさ、今度は、自分でやりたくなっちゃって。売り上げも4億円になったんで調子に乗っちゃってね。最初に鉄板のお店をオープンするんですが、見事にこけます。つぎに、セルフうどんの店を引き取って、セルフパスタに変更して再オープンするんです。こっちはしばらく健闘するんですが、けっきょくクローズします」。
「そのときね。業者の人に聞くんです。『なんで失敗したと思いますか』って。そしたら『社長はやりたいことをやっているだけ』だの、『ロケーションを考えていない』だの、『人使いが悪い』だの。もう、コテンパンにやられたんです」。
「彼らは、もう店をしないと思っているから、もう関係もないでしょ。だからズケズケ言ってきます」。
「聞き方によっては悪口なんだけど、ありがたかったね。私には救いの言葉でした。『そうか、そうなんだ』って」。
転んでもただじゃ起きない。それが増子さん。MYプロジェクトもまた、そんなやわな会社じゃない。
・・・
続き

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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