2019年9月20日金曜日

株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ゆかり 代表取締役社長 山下真明氏登場
本文より~

はじまりは、「甘党ゆかり」。

大阪には、いくつものお好み焼の店がある。老舗もあれば、モダンな造りの店もある。「ゆかり」が創業したのは昭和25年だから、むろん老舗である。もっとも山下氏に言わせれば少し様子が異なる。
「じつは、うちは最初、<甘党ゆかり>としてスタートしてるんです。その後、昭和40年に<パーラーゆかり>をオープンし、昭和44年に洋食業態<グリルらん>をオープン。いまのお好み焼専門店としてスタートしたのは昭和47年。ですから、ほかの有名なお好み焼店と比較するとずいぶん後発なんです」。
なるほど。
たしかに、創業は古いがお好み焼店としてスタートしたのは、1972年のこと。それだけに限れば、マクドナルドやケンタッキーより新しい。「そうですね。だから、たいへんだったと思います」。お好み焼店へのリニューアルを進めたのは、先代の社長。むろん、山下氏の父親だ。

原価率40%のお好み焼。

「いまでも、そうなんですが…」と言って、山下氏は、当時のことを話だす。
「当時といっても、私はまだ生まれていませんから聞いた話です。後発だから、『とにかく差別化しないといけない』ということで、食材にお金をつぎ込みます。いまもそうなんですが、たまごも高級鶏卵「ヨード卵」を使用し、小麦粉も特等粉で、きめ細かくケーキにも使用できるグレードです。むろん、ほかの食材もおなじ。だから、原価率は40%にもなっています。『粉もんは、儲かる』っていいますが、あれは、うちには当てはまらない話です/笑」。
もともと、パーラーやグリルだったから、コック出身のスタッフもいた。「だから、うちだけのメニューもつくることができました。たとえば、『塩焼そば』や『オムそば』は、うちが先駆けなんです」。
旨いからファンはついたが、利益はなかなか上がらない。
「それでも、私の父親が3代目となってから、3店舗から13店舗まで拡大します」。
とにかく関西人はお好み焼が大好きだ。
梅田の、たとえば東通りとお初天神に向かう道が交差した点に立てば、半径300メートルくらいに数店舗のお好み焼の店がある。
「ゆかり」だけで、4店舗。
東通りを東に進めば、左手に1つ。地下に入り、ホワイティを進めばそこに、もう1つ。お初に向かおうとすれば、右手にすぐあり、横断歩道を渡り、お初天神に向かいまっすぐ進めば、さらにあと1つ、といった具合だ。むろん、これだけあるにもかかわらず、行列ができる日もある。
すごいもんだ。原価率40%と大声でうたわなくとも、人は、それを見抜いているのだろう。ただし、老舗の「ゆかり」の社長が、まだ35歳とは、さすがに関西人でも想像できないだろう。

4代目候補が、栄養失調?

4代目となる山下氏が生まれたのは、1983年。高校の頃から音楽にハマる。
「高校1年の時の文化祭ですね。生演奏を聴いて、こりゃすごいや、と。それから音楽にハマり、勉強どころじゃなくなったから、入学当時は学年7位だったのが、卒業時は後ろから3番目と、勉強は散々でした/笑」。
ライブハウス、スタジオ…、異空間と音楽が、山下少年のこころを離さない。
「それで大学にも進学せず、音楽関係の仕事を始めます。ライブハウスだったり、スタジオだったり、レーベルの仕事をしたこともあります。給料は…、あれが雀の涙って奴なんでしょうね」。スーパーに行って、やすくなった麺を買い、すする日々。
「それでも音楽からは、離れられなかったですね」と苦笑いをする。「じつは、音楽を辞めたのは、ドクターストップがかかったからなんです。栄養失調です/笑。なんにも食べてないですからね」。
ストイックなところがある?
「そうですね。わりと没頭してしまうことはありますね。食いもんやの息子が栄養失調って、笑い話もなりませんが、そのおかげで、食べることの難しさや、たいへんさをからだで知りました。2代目、3代目の社長さんで、こういう経験しているのは、私くらいじゃないですかね?」。
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2019年9月19日木曜日

株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トッペミート 代表取締役 木原 徹氏登場
本文より~

結婚相手は、焼肉店の令嬢だった。

「親父が香港に転勤になったもんですから、中学3年間は香港です」と木原氏。
小学校までは津田沼だそう。
「高校から日本にもどって、千葉英和高校に進みます」。中学までは野球部で、高校時代はいわゆる帰宅部。「大学に進学するつもりはなかったですね。業種とかは決めていなかったんですが、とにかく社長になりたいと思っていました。ただ、まさか飲食で社長になるとは/笑」。
「じつは、この業界に入ったのは離婚した前妻がきっかけなんです。彼女の父親が焼肉店を経営していたもんですから。そうです。20歳で結婚し、21歳で2代目候補に就任です」。

7年目の決断。

7年間は向こうの親父さんとずっといっしょ。ずっと仕事の話ですね。思えば、その7年間があるからいまがあるんです。感謝しかないですよね」。
「かなりフリーハンドに仕事もさせてもらっていました。
しかも、まだ若い。意欲もある。
「7年つづけるわけですが、店舗拡大したい気持ちが強くなり、独立をします」。

開業…、だが。

「そうですね。仕事もないし、できることもない。ただ、独立しようと思っても、金がない。ただ、あの時は、独立しか頭になかったもんですから、母に頼み込んで、なんとかお金を用意することができました。会社を設立したのが、2010年。<「将泰庵」船橋本店>をオープンしたのが、2011年の6月のことです」。
「出店コストは、ぜんぶで1500万円くらいですね。初月ですか? だいたい300万円くらいでした。ぜんぜんよくないですね。それが1年間くらいつづきます」。
「月商が400万円あれば」と思っていた。100万円の差はでかい。
18坪、26席。11時~23時まで。アルバイト代がもったいなくて1人でキッチンも、ホールもした。客が少ないから、できたことだから、じつはシャレにもならない。
「1日も休みません。というか、休めない。いつまでつづくんだろ。そういうのは、頭のどこかにはあったと思います」。

選択肢は、「やる」、だけ。

「思っていたようにはいきませんが、むろん、『やるしかない』というか、『やらない』という選択肢はありませんでした。だからでしょうね。何ヵ月経ってもモチベーションは高かったですね。だいたい10ヵ月、経った頃からでしょうか。だんだんと観たことがあるお客様がいらっしゃるようになって。そりゃ、全力投球です」。
「いらっしゃいませ」。声のトーンもいちオクターブ上がる。
「2号店をオープンしたのは、2013年5月。本店をオープンして2年経った頃ですね。今の<「肉バルSHOUTAIAN」渋谷店>です。こちらも最初は苦戦します。とくに最初はアッパーな価格でしたから、ぜんぜんでした/笑」。
「浮上のきっかけはTVですね。あと肉フェスに参加したりして。最初のきっかけがないと。焼肉ですからね。おかげ様で、いまでは船橋本店で月商1300万円をキープしています」。
なんと、当初の4倍強だ。
TVはつよい。しかし、TVにでても、リピーターはつくれない。「そうです。スタッフもみんながいっしょになって頑張ってくれたおかげですね。1号店をオープンした時は、私1人で、キッチンも、ホールもやっていた時もあるくらいですからね。とにかく、感謝です」。

飲む? ハンバーグを?


木原氏が、メディアでも話題をさらったのは、「飲むカレー」じゃなく「飲めるハンバーグ」専門店をオープンしてからだろう。ネーミングが斬新だ。いくらやわらかいと言っても、飲むのをイメージできるのは「カレー」くらいまでだろう。 「あらびきハンバーグってあるでしょ。あれの逆をやってみようという発想です」。
これがヒットする。
2017年11月に「飲めるハンバーグ専門店」高田馬場店がオープン。マスコミも、黙っちゃいない。ハンバーグが飲める? 好奇心旺盛な消費者も、ほうっておくはずがない。
「話題狙いのオーバーな表現かも?」と思いつつ、ひとくち食べた人は、アレ?いま、食べたんじゃなく、飲んだ?と思うはずだ。じつは、それほどやわらかい。だから、ナイフやフォークじゃなく、スプーンでいただく。
「もともとは、お肉を余すことなく利用したいという思いで開発をはじめました。ええ、このハンバーグもA5ランクの国産黒毛和牛100%です」。
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2019年9月12日木曜日

新たな業務の柱を立てるために・・・。

新たな業務の柱を立てるため新規事情の構築でいろいろ動いております。
次世代を担ってくれる平均年齢28歳の営業メンバーたちにうまくバトン繋がれたら…。
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2019年9月10日火曜日

株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社コジマ笑店 代表取締役 小嶋崇嗣氏登場
本文より~

中学生、月数十万円、儲ける。

稲藁に移った炎で、鰹を炙る。これが、土佐の鰹のたたき。コジマ笑店の名物でもある。さて、今回は、そんなコジマ笑店の代表取締役、小嶋崇嗣氏にご登場いただいた。
小嶋氏は、1977年9月9日生まれ。2人兄弟の弟。兄とは6つ離れている。「親父はIT系の会社に経営していて、いっときは羽振りもよかったんですが…」と小嶋氏。
正確な記憶はないが、父の仕事がうまくいかず、父と母は別れ、母と子ども2人は都内から離れ西に向かったそうだ。これが小学生の頃の話。
「私が中学生になった頃には、兄はいませんし、母も夜まで仕事をしていましたので、我が家に人はいない。昔は母にピンタされたこともあったんですが、中学にもなると、こちらも大人ですからね。いろいろ認めてくれて、とにかく自由です。うちにも勝手にともだちが入って来たりして。そうそう、ともだちに料理をふるまって褒められたのも、この頃のことですね」。
アルバイトを始めたのも中学から。
「土建業です。給料はいいですよね、肉体労働ですから。当時は、財布にはいつも数万円入っていました。学校より断然、バイトが楽しかったですね。だって、いい月には数十万円です。学校に行ってられないでしょ。とはいても、学校に行かないわけにはいかないから、自動車の整備学校に進みます」。
なんでも小嶋氏、整備士の資格ももっているそうだ。

楽コーポレーションとの出合い。

自動車の整備学校を卒業したが、仕事に就いたのは、またしても土建業。「何しろ給料がだんぜんいいんです。月50万円っていうのもあったし。それに、でっかい建物が建っていく様子は、やっぱりすごくって。俺らの仕事ってかっこいいじゃんみたいな、ね」。
18歳になると、車の免許を取って、さっそく、チェロキーを購入した。「充実しているはずだったんですが…」と小嶋氏は笑う。
「なんでかな。ともだちが『楽コーポレーション』ではたらいていて、なんでかわからないんですが、一発でその姿に感化されちゃんです。まだ、ハタチになっていないんですが、『楽』って会社に酔っちゃたんでしょうね。土建業のほうはすぐ退職して、『楽』に入ります。もっとも最初の3年間はアルバイトです」。
衝撃は受けたが、社員になる気はなかったそうだ。
「そうですね。だいたい性格的に人の下ではたらくってことができないんです。だからって、アルバイトでもそうなんですが/笑」。
当時から独立は考えていましたか?
「ええ、経営に興味があったわけではありませんが、そんな性格なんで、独立はずっと考えていました。『楽』にいると、順番に先輩たちが独立していきますからね。そういう先輩の背中を観ていたというのも大きいんでしょうが」。

バイトから社員へ。

「接客が何より楽しかったですね。お客さんといっしょに楽しむっていうのが、『楽』ですから。ただ、給料は半分くらいになっちゃいましたし、よくやったと思います」。
「楽」では、接客だけではなく、調理も学んだ。それ以外にも、「経営的な数字も自然と修得できる」という。だから、独立するちからが数年で育つ。
「社員になったのは、『楽』でいちばん信頼していた先輩の店に異動した時ですから、私が23歳の時ですね。新店、立ち上げの時です。じつは、その先輩には辞めることを話していましたから、『どうせ辞めるんだったら、最初だけ手伝ってよ』って誘われたんです。ええ、まんまと騙されて、社員になります/笑」。
「ただ、立ち上げは初めてです。だんだんお客さんがついていく。そんな様子を観ているのは、最高でした。最初から爆発したわけじゃなく、だんだんお客さんとのコミュニケーションも深まって、そうやって常連さんが1人、また1人と。それがとても新鮮でしたね」。
飲食経営の楽しみとだいご味。経営のノウハウと同時に、小嶋氏は、そうした飲食ビジネスのもっとも重要な部分をを経験する。

下を育てるのが、独立の準備の一つ。

「26歳になって、もう一度、辞めようかなって思うんです。ただ、26歳で店長にも昇格して、それで腹を決めて馬車馬のように仕事をしました。だって、負けたくないし、期待にも応えたいでしょ。だから、売上を上げたい一心で頑張りました」。
月商のアベレージがすぐに引き上がった。しかも、アップ率150%。「800万円だったのが、1200万円以上になりました。店長で売上はかわるのか、ですか? かわります。とくに、『楽』は人対人ですからね。それだけお客さんは、我々のこともみてくださっているということですよね」。
もちろん、「楽」での経験はいまも小嶋氏の背骨を貫いている。
「私が独立したのは34歳の時です。だんだん、独立っていう時期が、わかってくるんです。だから、独立してもいいように下を育てます。もちろん、私もそうしました」。
「いっしょに」とねがうスタッフもいたが、「楽」からは、1人として連れていかない。小嶋氏の矜持だった。「いつまでもいい関係にいたいでしょ。15年くらいはたらいた会社なんだから」。
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珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場
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学生起業家、マクドナルドへ。

小さな頃から起業には関心があった。中央大学に進学すると、おなじ大学生でありながら、起業する人が現れる。いわゆる学生起業家だ。
「私が学生だった頃は、起業が流行っていました。私の周りにも起業する人が現れます。じつは、私も大学2年の時に飲食店をオープンしました。開業資金は、借金です/笑」。
卒業するまでつづけたが、なかなかうまくいかなかったようだ。
「就職すれば、さすがにつづけられません。それで、大学卒業直前にお店を閉める決断をします。残ったのは2,000万の借金です」。最初の起業は2年半で幕を閉じたが、むろん、いい経験ができた。
「私が就職先に選んだのは、日本マクドナルドです。マクドナルドって、最初はそう給料が高くないのですが、店長になると、ぐっと給料がアップします。店長になるには、平均6年くらいかかるのですが、借金があったから頑張らないわけにはいきません。/笑」。
ちなみに同期276人のなかで、いちばん最初に店長に昇格したのも友成氏だ。店長、昇格は25歳の時だったという。しかも、30歳でスーパーバイザーになっている。いっておくが、あのマクドナルドで、である。店長になるのも、難しい会社だ。早くて、10年かかると言われていたそうだ。会社からの評価が高かった証でもある。
そんな友成氏にアメリカへの転勤の指令が下りる。34歳の時だ。

シカゴへ行け。

「最初は『長野に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』って。それがシカゴです/笑」。
これから、友成氏のアメリカ生活がスタートする。
「最初の2年間は、シカゴの店舗で勤務していました」。仕事のかたわらで、じつはビジネススクールでMBAも取得している。
「会社からの指示ですか?」と聞くと「ぜんぶ自腹」と笑う。向こうの大学院は高い。数百万円かかったと聞いてびっくりした。ただ、この話を聞いて、友成氏という人物がイメージのなかで、はっきりと立ち上がる。まっすぐで、貪欲な人なのだ。
「3年目からは、アメリカの本社でプロフェッサーとして仕事をしました。世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」。友成氏は軽くいうが、むろん、異例の人事だ。世界でも数名しかいない抜擢だったともいえるだろう。 帰国したのは、友成氏が37歳の時。すでに、マクドナルドを代表するような青年に育っていた。

イギリスのサンドウィッチ店「プレタ・マンジェ」オープン。社長に就任。

「帰国した翌年ですね。私が38歳の時です。新たなグループ会社が立ち上がり、私がその会社の社長に就任することに決まります」。
社長になってオープンしたのは、イギリスのサンドウィッチのファストフード店「プレタ・マンジェ」。オープンは2002年7月。
「それまで遠い存在だった藤田田社長とも、この時いっしょに仕事をさせていただきました。会社は、2年半後に解散になりましたが、いい経験になりました。藤田さんっていうのは、とんでもなくすごい人です」。
2年半。この経験は、だれにもできるものではない。
「解散は、もちろん悔しかったですね。会社の指示だから、従わないといけないんですが。プレタ・マンジェのウリは合成添加物をいっさい使用していないサンドウィッチです。まだ、日本には早かったのかもしれません」。
従わなくてはいけない、と思ったものの、友成氏はあきらめ切れなかったのだろう。
「つくった組織の解散も忍びない。だから、思い切って私が会社を立ち上げました」。
このあと、新たなステップとして友成氏は、モスフードサービスの顧問に就任し関連会社の会長として、8年間、指揮をとった。
「いろんな愛着がありますね。起業した会社もそうですし、マクドナルドも、自分で立ち上げた会社も、もちろん、モスも」。
そんな友成氏が珈琲館に転職した経緯はこうだ。
「最初は、私の後輩を紹介しようと思っていたんです。ただね。話を聞いているうちにだんだんと興味がでてきてしまって。これは、私がなるべきだな、と。社長に就任させていただきました」。
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2019年9月5日木曜日

キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”キリンシティ株式会社 代表取締役社長 江田雄太登場
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ラグビーと江田氏と。

小学3年生から始めたラグビーは、30歳までつづけた。社会人になってからは会社のチームに所属する。大学の時には肩の脱臼がくせになり、2年時には手術をしている。
「いまのマネジメントにもラグビーは役立っています。スポーツはこれ一本ですから、私自身をつくってくれたのはラグビーと言っていいと思います。/笑」。
ポジションはスタンドオフ。ラグビーでは司令塔と言われているポジションだ。
「高校生の頃までは、小学校の先生になるのが夢でした。結局先生にはなりませんでしたが、ラグビーで母校の高校監督や、大学のコーチをしたことで、夢が叶った気持ちがしています」。
ラグビーと学生生活。
「大学2年の時、脱臼がくせになって手術するんです。手術に踏み切ったのは、残りの大学生活、最後まで思い切りラグビーがしたかったから。でも、手術したおかげで、社会人になってもつづけることができました。ええ、やってよかったですね」。
ラグビーの精神も、江田氏のなかに息づいていることだろう。
「One for all, all for one」。
経営にも、人生にも通じる言葉だ。

「スーパードライの横に淡麗を」作戦。

就職先の第一志望は、キリンビールだった。「ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから」に興味をもったからだ。
「入社して2年は、練馬区の営業担当。そのあと5年間、スーパーやディスカウントストアを担当します」。
当時、それまで首位を譲ったことがないガリバーのキリンビールを、スーパードライのアサヒがシェアで追い抜くという、衝撃的な出来事があった。
スーパーやディスカウントストアでも、キリンラガーに代わり、アサヒスーパードライが売れに売れていた。当然、ディスプレイのなかで、いちばん目立っているのもアサヒスーパードライ。
「そうなんですね。キリンの牙城が、アサヒさんによって崩されます。キリンも新商品を出したり、勝負をかけるんですが、うまくいきません。発泡酒の淡麗ができたのは、ちょうどそういう時でした。私は、この淡麗で勝負をかけます。とにかく、淡麗をスーパードライにぶつけたんです」。
どういうことだろう?
「スーパーにもディスカウントストアにも予め決められた棚割りがあるんです。ただ、お店ごとにも多少の裁量があるには、ある。私は品出しなど、とにかくスーパーの人たちといっしょになって汗を流して、心を通わせ、スーパードライの横に淡麗を置かせてもらったんです。スーパードライの横に淡麗を、作戦です」。
これが、一つのターニングポイントと江田氏も言う通り、仕事の喜びを見出だしたのは、この時だ。
「それぞれのスーパーやディスカウントストアで、淡麗が、日々、スーパードライのシェアを食っていくんです。この戦略は、やがて全国に広がります。ついでに、東京に、スーパードライを逆転した奴がいる、とも」。

長崎は第二の故郷。


「キリンビールっていうのは、老舗ですが、自由な風土なんです。だから、私もいろんなことを思い切ってできたし、東京の若造が生み出したスーパードライの対抗作戦も『いい戦略だ』といってシンプルに広がっていったんだと思います。このあと5年間は、飲食店向けの業務用で仕事をします。スーパーやディスカウントストアならキリンビールがゼロになることはないでしょ。でも、飲食店なら起こるんです。ゼロか、100か。痺れる仕事です」。
もともと営業職を希望していた江田氏だが、このあと7年半、マーケティング部に異動。本社勤務となる。
「そのあとが長崎支社です。営業現場にも戻りたいと思っていたので、大変ありがたい異動でした。長崎はキリンビールにとって、ゆかりがある土地ですしね」。
営業部長として赴任し、1年半後に支社長に昇格する。ここでも、アサヒと熾烈なバトルが繰り広げる。「3年半の間に、少しだけシェアを奪回できましたが、力が足りず、逆転にまでは至りませんでした。その悔しさは残っています」。
もっとも長崎はいまなお思い出、深い。
江田氏が、支社長になってタイミング良く、「47都道府県のキリン一番搾り」がリリースされる。「これは、各都道府県の食文化や風土、歴史を活かしたビールなんです。原料も県によって違います。そういうビールをつくって、地域に貢献しようというプロジェクトです。地域の方々にも開発プロジェクトに参加していただきましたので、交流も生まれます。『ビールの役割の多様性、うれしい時もそうではない時も、人の人生を豊かにするちから』。まさに、これですよね」。
このビールは、江田氏が支社長の2年間だけの限定商品だったらしい。このビールの開発、そして何より長崎の人々の温かさによって、江田氏は長崎に愛着をもつことができたのだろう。これも、ビールの多様性の一つ。江田氏は、「長崎が第二の故郷だ」といって、笑う。
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2019年9月4日水曜日

株式会社U-MORE 代表取締役社長 山﨑基史氏登場。

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サッカーも、野球もつづかない。好奇心旺盛な少年。

2年浪人して、学習院に合格した。そもそもは有名なアーティストに憧れて音楽に携わる仕事を目指し、日大芸術科への進学を希望していたが、学習院なら悪くない。人生でいちばんうれしかったことの一つと、山﨑氏がいうのも頷ける。
「学習院ってやっぱり、お坊ちゃまもいるし、頭の切れる人もいる。そんななかで下町育ちの私は、ちょっと浮いていたかもしれません。それでも大学時代は、いま思い返しても楽しいことばかりでしたが」。
山崎氏は1976年、京都市北区に生まれている。3人兄弟の真ん中。父は商社を経営し、社員数も一時は100人規模に達したそうだ。
「といっても、私が4歳の時に会社をたたんで東京に引っ越します。だから、京都弁はぜんぜんしゃべれないです。東京の下町育ちというのが正確です」。
当時、下町の状況はどうだったんだろう。
山崎氏が4歳といえば、1980年。経済はまだ活況ではなかったが、バブルの芽が少しずつ育ち始めた頃でもある。バブルを経て、下町の風景は一新したはずである。
「学生の頃は、何をやってもつづかなかったですね。サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて…」。
そういって山崎氏は照れ笑いするが、好奇心が旺盛だった証だったに違いない。

マスコミ志望。USENに就職する。

「大学では『放送研究部』っていう部に入ります。この部で部長も経験するんですが、私が部長の時に部員は100人に。これは、創設以来、最高の部員数でした。『放送研究部』っていうのは、ま、いろいろするわけですが、映像制作やラジオ番組の制作とか。私もそうですがTV局関係でバイトをする部員が多かったですね。マスコミとの距離がちかくなる、そんな魂胆で入部してきたメンバーもいたはずです。就職先も、希望は当然、マスコミ関係です。私も何社か受験するんですが、その時、就職したのが有線ブロードネットワークス社、もう少しわかりやすくいえばUSENです。放送関係ということもあったんですが、じつは、大学時代のバイトを通して、ショップのプロデュースにも興味があったからです」。
じつは、USENには「店舗事業部」という部署があった。
「そうなんです。USENに就職したのも、この事業部があったから。2年間は、BGMやヒトサラの営業だったんですが、3年目にこちらに異動しています。これが、いまの始まりですね」。
山崎氏は、プロデュースはもちろん経営にも興味があったという。「だから、当時のグループ会社も含め、転々とするんですが、どこに行っても経営陣をきびしい目でみちゃうんですよね」。
経営者の父親の遺伝子なのだろうか。
「ただ、私は、新人の頃からナンバー2がいいなと思っていたんです」。
「なぜ、トップじゃないのかって。だって、ナンバー2のほうが自由でしょ。社長は、社長の椅子に座っていてもらって、ナンバー2の私らが全部事業を動かしていくっていうイメージです。でも、まぁ、そううまくはいきませんね。そういうことはだんだんわかってきます/笑」。

好奇心と、勇気と。

山崎氏はグループ内の会社を含め、転々としたと言っているが、たしかに、子会社だけで6社と、たしかに少なくない。子会社を転々とし、様々なキャリアを積んでいくなかで、経営者としての評価も高まる。
「さきほどいったように最初は、ナンバー2がいいな、と思っていたんですが、トップじゃないとできないことってあるってわかってくるんですね。私が大嫌いな長い会議を止めさせるのもそのひとつ。トップじゃないから、なんともできない/笑。だから、トップもいいかな、と思うようになっていたんです。その後、グループから独立し現在のU-MOREの設立に合わせ代表取締役の依頼があった時には、すぐに『やります』と」。
旺盛な好奇心と、新たなことも怯まずはじめる勇気と。案外、サッカーをやってはやめ、野球をやってはやめて、と笑った学生の頃と似ている。
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2019年8月29日木曜日

8月27日(火)発行の夕刊フジに8月にOPENされた小松庵銀座店が取り上げられました!

8月27日(火)発行の夕刊フジに8月にOPENされた小松庵銀座店が取り上げられました

銀座で味わう『TOKYO蕎麦』
「始まりの蕎麦」で知る蕎麦の真骨頂

1922年創業の江戸前蕎麦の伝統を受け継ぐ「小松庵総本家」(東京都豊島区、小松孝至社長、)が、去る8月1日、中央区銀座の中心、4丁目交差点から2分ほどの場所に「小松庵総本家 銀座」をオープンした。
「人を結ぶ蕎麦」というコンセプトのもと、明るく柔らかな光に満たされた店内、3面が特殊ガラスで囲まれた麺打ちスペース、コンパクトなBARカウンター、壁にはアート作品がバランスよく展示され、テーブルや椅子も適度な間隔で整然と配置されており、心地よい空間が構成されている。またフロワー奥には茶室の躙(にじ)り口の戸を思わせる潜り戸を設けて内部にはピアノが据えられた「隠れ部屋」的な空間も大きな特徴にもなっている。
このような特徴を備えている同店では、「和食の職人のほかフレンチ、イタリアンの料理人たちが集まり、蕎麦という素材を大きな視野で捉え魅力を引き出そうという江戸前蕎麦とは違う『TOKYO蕎麦』に取り組んでいます」(小松社長)。
さらに小松社長は「どんな楽しみ方でも構わないと思いますが、産地も味わいも違う2種類の蕎麦を召し上がっていただき蕎麦の魅力を堪能する『はじまりの蕎麦』を提案しています。これは今までにない楽しみ方なので、ぜひ、味わっていただきたいですね」と続けた。
また「銀座」という立地を生かし、美術工芸分野といったような異業種とコラボレーションし『TOKYO蕎麦』に舌鼓をうちながら作品を鑑賞する催事、「隠れ部屋」での集まりや会合など、これまでの「蕎麦屋」にはない広範囲な取り組み、利用も考えられる。こうした可能性も「人を結ぶ蕎麦」という同店の思想に裏付けされたものの一つではないだろうか。
銀座のど真ん中。静寂で洗練された空間に身を置き、吟味をされた素材を使った蕎麦を食べる。こうした「贅沢な時間」を過ごしてはどうだろうか。

 (はじめの蕎麦)
  (奥の隠し部屋)
  (銀座店・店内風景)
 (小松社長と専務)

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8月27日(火)発行の日刊ゲンダイにグルメ杵屋の椋本充士社長の記事が取り上げられました!

8月27日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』にグルメ杵屋の椋本充士社長の記事が大きく載りました!
この5月、ORA(社団法人大阪外食産業協会)の第16代会長にも就任されました。
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K&BROTHERS株式会社 株式会社D.K INTERNATIONAL 代表取締役 岩谷良平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”K&BROTHERS株式会社 株式会社D.K INTERNATIONAL 代表取締役 岩谷良平氏登場
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初出馬、初当選。

「客引き禁止の条例をつくった」と岩谷氏は、議員時代の話をする。岩谷氏が大阪維新の会から出馬したのは2011年。岩谷氏が30歳の時。維新の会の面接では3つのことを聞かれたそうだ。
「選挙資金はありますか?」「ボランティア30人くらい集められますか?」「どこの地区から出馬しますか?」
最後の質問には、「どこでも行きます」と答えた岩谷氏はいわゆる落下傘候補者として大阪市東成区で立候補し、600票差で当選している。当然のこと、飲食店の経営者としては、異例の経歴である。
「東成区は、人口8万人。選挙資金は、借金でした。そうですね。4万枚の名刺を刷って一軒、一軒、ご自宅を訪問しました。おかげさまで当選し、4年間議員として活動させていただきました。客引き禁止の条例は、その時の話です」。
岩谷氏は1980年、生まれ。兄弟は10人いる。「私は5番目です。祖父が町工場をしていて、父親は不動産会社を経営していました。尊敬するビジネスマンの1人です」。
岩谷氏は、ビジネスマンではなく、弁護士をめざしていたようだ。「そうです。昔から弁護士になりたくて、法学部をめざします。ただ、早稲田の法学部に進学したものの、司法試験に落ちてしまいます」。
わずか1点足りなかったそうだ。「この時が一つ目のターニングポイントです。なにしろ、私にとって最初の挫折ですから」。その後、いったん父親が経営する会社に就職するも、半年で退社。今度は上野で行政書士事務所を立ち上げたが、仕事もなくたいへんだったと語っている。

政治家でなくても、できる社会貢献。

「行政書士を2年やりまして、そのあと出馬します。これが、2つ目のターニングポイントですね。議員を続けるつもりだったのですが、家業の都合で事業を引き継ぐ決心をしました。兄弟が10人もいますからね。もともと私が引き継ぐという選択肢は頭になかったんですが」。
1年目は専務としてはたらき、2年目からは社長となる。しかし、不動産よりも、飲食に興味が移る。「食べることが好きだったこと。多くの人に関われること。一度、始めると、これが楽しくて仕方なかった。それで不動産は兄弟が引き継いでくれたので、私は飲食に没頭します」。
ここまでが、岩谷氏の経緯である。多くの人に関わるという点で、飲食は政治の世界とどこか似ている。案外、影響力も似ていなくもない。マクドナルドやケンタッキーが日本にもたらしたものを想像すれば、あながち間違った比較ではないだろう。
岩谷氏が会社を設立したのは、2016年12月。このインタビューは、2019年6月に行っているので、現時点ではまだ3年も経っていないが、すでに店舗数は「Greenberry’s COFFEE」の9店舗をはじめ、20店舗まで広がっている。東京・大阪、神戸、奈良と半径も広い。
「Greenberry’sは、アメリカ版のコメダコーヒーのような存在なんです。FCを含め、100店舗まで展開できればいいな、と思っています」。
すごい話だ。
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スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”スタースリー株式会社 代表取締役 坂口文彦氏登場
本文より~

中学から全寮制の学校に進む。

4代目といえば、4代目。ホテルも、飲食店もあったが、いまはすべて手放した、と笑う。「小さい頃から、仕事を手伝っていた」と坂口氏。ホテルと我が家はつながっていて、我が家の玄関は、ホテルの厨房につづいていた。
「小学生までは、もちろん親元で育ちますが、中学からは寮生活です。広島市内にある中・高一貫の男子校に進みます。小学生の時に、近所の子が受験するというというから、じゃオレも、と。ホームシックはなかったですが、門限や上下関係、お小遣いにも制限があって。ええ、部屋は4人部屋です」。
中学の3年間は、寮生活。高校からは独り暮らし。早くから親離れしている。「最初は、私より、親のほうがさみしがっていたようですね」。
中学は、生徒数も少なく濃厚な付き合いだったが、高校になると生徒数はとたんに膨らんだ。進学校だったし、スポーツでも注目されている高校だったから。

大学卒業、修業スタート。

「大学は親が『東京の大学へ行け』というので、その時、初めて広島を離れます。大学ではアメリカンフットボールの同好会に入ります。大学時代は、あっという間だったですね。ただ、時間が経つのが早過ぎて、就活も何もしないうちに終わりかけてしまうんです/笑」。
「それで、どうしようかという時に、やはりホテルの4代目ですからね。広島にもどって、最初に就職したのは日本料理の喜多丘さんです。いくつかのお店をみて、ピンと来たもんですから。ただ、2人の兄さんがいたもんですから、紹介で、わりとゴリ押しで入社します。住まいは二段ベッドの2段目。兄さんのいびきが下から響きます/笑」。
「喜多丘」はミシュランで星を獲得している日本料理の名店だ。
「喜多丘にいたのは4年ちょっとです。料理の基本はぜんぶ、こちらで教わりました。ただ、私が就職してすぐ1人の兄さんがいなくなり、もう1人の兄さんも辞めてしまうんですね。それで、私1人です。ぜんぶ、私がやんなきゃいけない。だから、たいへんでした。でも、それが財産になったのも事実です」。
「辞めさせていただいたのは、昔から『海外に行きたい』という思いがあって。それがだんだん強くなって。それで色々調べて、ついにワーホリでカナダに行くことが決まったからなんです」。

MORIMOTOのオヤジ。

「もともと、森本さんとは2度お会いしていたんです」。ここで、坂口氏が「森本さん」といっているのは、世界的なシェフの1人である森本正治氏のことだ。
「『喜多丘』に2度いらしたんです。その時、うちの女将さんが、私が海外に行きたいのを知っていましたから、『この子、海外に行きたいんだけど、森本さんところはどう?』みたいな話をしてくださっていて」。
いろんな人が坂口氏を支援する。
「そうですね。そういうこともあって、森本さんが独立し、1号店の『MORIMOTO』をオープンする時に色々な人のご縁があり、カナダはやめ森本さんの下ではたらくことにするんですが、そう簡単にはいきません。ビザの関係もあって、私はけっきょくオープンから2ヵ月遅れで参戦です」。
「MORIMOTO」がフィラデルフィアにオープンしたのは、2001年11月のこと。
「とんでもなかったですね。森本さんは、もうすでに著名なシェフでしたから。客層も著名人ばかりですし…。そうですね、2005年からアメリカでも『アイアン・シェフ・アメリカ』っていう番組が始まるんですね。森本さんは、そちらでも鉄人を務めているんですが、それからはさらに拍車がかかりました。週末の売上は、とんでもなかったです/笑」。
「森本のオヤジの下で8年」と坂口氏。フィラデルフィア店のExecutive sous Chefにもなった坂口氏は、森本氏のエキスをたっぷり吸い込み、新たな人生をスタートする。
さらば、フィラデルフィアですね?
「まさに、そうですね」。
そう言って坂口氏は軽快に笑った。
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2019年8月26日月曜日

株式会社175 代表取締役 出野光浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社175 代表取締役 出野光浩登場
本文より~

スキーとサッカーと神のような指導者。

「月寒」と書いて「つきさむ」と読む。今回、ご登場いただいた株式会社175の代表取締役、出野光浩氏の生まれ故郷の地名である。出野氏は1983年12月28日に、この寒月月寒に生まれている。
「北海道ですから、私も小さな3歳頃からスキーを始めます。小学4年生頃までですが、大人が取るインストラクターの資格も取得しています」。
小さな頃から運動神経は抜群だった。ただ、北海道生まれなのに、寒いのが苦手。「それで、サッカーに転向した」とこちらを笑わせる。
チームは弱かったが、出野氏は1人、選抜にも選ばれている。
中学になっても、サッカーをつづけた。
進学したのは全国大会に出場するような強豪校。
ここで1人の神のような指導者に出会う。
「顧問の先生です。先生はサッカーのことより、普段の生活態度に厳しい人だったんです。練習だって2時間くらいしかしない。先生はサッカー経験もない。それでも、5年連続で全国大会に出場するようなチームを作るんですからね。とんでもない指導者でしょ」。
公立高校公立中学校だから、特別な選手が入学してきたわけではない。練習量もけっして多くない。にもかかわらず、みんながグングン巧くなる。
小学校では弱小チームだった面々が、ピッチを自在に駆け、大会で優勝する。何が何かわからなかったが、紛れもない事実だった。
先輩たちと比べ、出野氏らの代は、けっして強くなかったそうだが、それでも出野氏は推薦で北海高校に進んでいる。
「先生の教えは、いまも私の信念となっています。『やれば、できる人間として何が正しいか』です。じつは、盛和塾の稲盛和夫塾長さんの教えと共通してにも似てといるんです」。
時に訓話は1時間に及んだらしい。長い話だったが少年たちは黙って耳を傾けた。出野氏のチームメイトではないが、その長い訓話は、プロのサッカー選手まで生み出している。サッカー以外のどんな部活を指導しても全国に導くまさに、神のような指導者だ。

起業を志すまで。

出野氏が進んだ「北海高校」はスポーツの名門校だ。神の先生が育てた方が監督。ただ、名門だけあって、練習もハンパなかった。新入生100人が入部したが、3日で3分の1になったというから、練習のレベルも想像できる。
「1週間経った頃には5分の1の20人です/笑」と出野氏。
高校を卒業した出野氏は、自動車短期大学に進む。車の仕組みが知りたかったからだ。飲食のバイトをはじめたのは、短大に進学してから。
学生バイトだが19歳で店長になる。担当店舗の社員、アルバイトスタッフ約40名は全員年上、バイトからいきなり店長になったのだからナメられ人の管理の大変さを痛感し悩み10kgほど痩せたが水商売の原点を体に叩き込んだ。
「17歳くらいの時に、「社長になろう」と思っていたんです。きっかけは思考は現実化するというビジネス書を読んだこと。学生時代は全く勉強してこなかったのですが、ビジネス書にはまりました。飲食関係の仕事をしているうちに、そういう思いがだんだんと膨らんでいって…」。
サラリーマンというものに対しても、いささか抵抗があった。じつは、不動産会社に一度、就職しているのだが、やはり性に合わなかったらしい。
ともかく、心は起業である。

一品勝負という、羅針盤。

「上京したのは、21歳の時です。北海道では、飲食はもちろんですが、工場勤務、運送の仕事やの仕事などいろいろ経験しました。そのなかで、飲食業がやはりいちばんマッチしました。それで、独立という目標を抱いて上京します。最初に働いたのが、お台場にある中華料理店でした」。
店長として4年つづけた。その店で、独立の羅針盤を手にする。
それが、「究極に高めた一品」のちから。
「『究極の一品』のちからを知って、なら、好きだった担担麺で勝負しようと決めたんです」。
やるなら、とことん。
「175の創業は2013年なんですが、これは、その5年前くらいの話ですね。最初に思い浮かんだのは単純なことで、究極までこだわったらどんな担担麺が生まれるんだろうか、ということでした。戦略というより、純粋な好奇心ですね。最高の担担麺をつくって食べてみたいっていう」。
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株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社かどや 代表取締役社長 清家幹広氏登場
本文より~

愛媛県宇和島市。

「山の幸も、海の幸もあった」と「かどや」の社長、清家氏はいう。愛媛県宇和島市出身。1953年生まれ。「愛媛は、みかんでしょ。むかしはうちもみかん農家だったんです。ただ、私の父の代になって、『食』にかわるんです」。
清家氏の父親は7人きょうだいの長男だったそうで、もともと農家の跡取りである。
「父の弟、私には叔父ですが、その叔父といっしょにお菓子の製造・販売と食堂をはじめます。まだ戦後ということもあったんでしょうね。『これからは食だ』と10坪程度の食堂をはじめます。それが『かどや』のはじまりです」。
「最初は食堂と言っても素人の『うどんや』ですが、父が寿司を修業に行ったりしてメニューも本格化します。昭和40年代には、そのあたりではいちばん背が高いビルを建てていましたから、相当、儲かってもいたんでしょうね」。
地方といっても、父親は、それなりの事業家となる。
「ただ、小っちゃい頃は、食堂屋の子って言われるのが、イヤでした。中学までは家と店がいっしょでしたから、とくにそう思ったのかもしれません」。
とはいえ、その食堂屋のおかげで、不自由な思いはしたことがない。「中学はテニスです。バスケは高校からですね。当時ですか? 飲食には進みたくないと思っていました。朝から夜まで仕事でしょ。休みも年に数回。そういう父と母を観ていますからね、そりゃ、やりたいって思わないでしょ。ふつうは」。
いつしか、父親とは距離ができ、高校生になった頃からは口もきかなくなったらしい。ひたすら事業に打ち込む父親が、理解できなかったのかもしれない。

守りと攻め。父と子、それぞれの意見。

「大学は東京の『東京経済大学』に進みます。就職したのは、広島にある飲食会社です。そちらで2年はたらき、25歳の時に『かどや』に転職します。母が亡くなったのが、大きな理由です」。
母親がいなくなると「かどやもこれで終わり」と、囁かれたらしい。「かどや」にとって母親は、それほど偉大な存在だった証である。「たしかに、母の接客は心が行きとどいていましたね。いまでいえば、最高レベルの接客といってもいいんじゃないでしょうか」。
母親のためにも、「かどや」をこのままにはできないと思ったのだろう。「そうですね。2年ですが、飲食の経験がありますからね。じつは父とも、少しずつ話をするようにもなっていたんです。とはいえ、父は経営者であると同時に、職人気質の人でもあります。私は、料理もできないし、そもそも経営者志向ですからね」。
意見が衝突したことも少なくなかったそうだ。「まだ、私も若かったから、父の厳しい創業者精神が理解できなかった。今なら、もちろんわかることばかりなんですが(笑)」。
父親と清家氏。
清家氏は何度も出店しましょうと迫ったが、父親は頑なに首を縦にふらなかった。業績は悪くない。冒険を犯す理由はなかったのだろう。でも、業績だけの話なんだろうか。
どうしてでしょう?と話をふってみた。
「どうでしょう。とにかく出店したいと、それしか思ってなかったからでしょうね。それじゃだめだ、と。じつは、私をOGMの榊さんの講演に誘ってくれたのも父なんです。まだまだ、経営者として私の思いも、言葉も軽かったんでしょうね」。
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