2019年11月5日火曜日

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイに「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が載りました。

10月15日(火)発行の日刊ゲンダイ・『社長の私生活』に会長兼社長(夫)急逝で「世界の山ちゃん」率いる株式会社エスワイフード山本久美社長の記事が大きく載りました!
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11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」はシーウェイズ山本社長にFC加盟のメリット語って頂きました。

11月1日(金)発行の夕刊フジ「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて酒屋からコンビニ、そして飲食FC(牛角、串カツ田中、肉汁餃子製作所ダンダダン酒場、大衆ビストロ煮ジル)を4業態6店舗されてるシーウェイズ山本社長からFC加盟のメリットと成功体験を語って頂きました。
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株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場
本文より~

末っ子に、注がれる愛情。

「兄妹の愛情がすごかった」と大久保氏は笑う。姉と兄、計4人。大久保氏だけが、ポツンと歳が離れている。
「正直に言うとね。ちょっとほっといて欲しいなって思った時があるくらいです/笑」。
小学生の頃はサッカー、中学は帰宅部、高校でもう一度サッカーをはじめている。
ともかく、一番下の弟は、愛情いっぱいに育てられる。
「大学は、渋谷に近く、遊びにも苦労しないだろうって理由で『駒沢大学』に進みます。高校3年から、ボクシングも始めています」。
大学なかばまで、プロを目指していたそうだ。実際、ジムの関係者から「プロになれる」と太鼓判も押されていたという。「でも、だんだんビジネスに興味関心が移るんですね。だから、ここは就職だと。そうですね。あのままボクシングを続けていたら、どこまで行けるかわかりませんが、それなりにいい成績は残せていたんじゃないかなって思いますね」。
じつは長兄も、運動神経が良く、野球を続けていればプロにも行けたのではないかという。末っ子の贔屓目ではなく、大久保家の人は、だいたいが運動神経に恵まれていたようだ。

飲食と大久保氏をつなぐ決定打となった、その日の出来事。

ボクサーではなく、就職に舵をきった大久保氏は、「最初に内定をもらった」という理由で、とある大手不動産会社に就職している。
「その時には、すでに飲食に興味をもっていたんですが、すぐに飲食ではなく、いったん一般の会社に就職してみようと。だから、最初からずっとやっていくつもりはありませんでした」。
飲食に興味をもったのは、いつ頃?
「よくあるケースだと思うんですが、私も飲食に興味をもったのは大学時代のアルバイトです。『幸楽苑』さんや『マルバラーメン』さん、『しちりん』さんでもアルバイトをしました。どれもたのしかったですが、とくに『しちりん』さんですね」。
このしちりんで、初めて尊敬できる先輩にも出会った、と大久保氏。仕事の取り組み方から、遊びまで、全て教えてもらったそうだ。
そんな先輩が退職することになる。大久保氏も、就職が決まり、同じ日に店を辞めることになった。
その日、サプライズが起こる。
常連が次々とやってきて、その日はすぐに40席が埋まったそうだ。挨拶に立つと、花束を贈られ、名刺入れをもらったそう。頭を下げる大久保氏に、常連たちは、どんな言葉を投げかけたんだろうか。
「あの時ですね。心底、飲食って素晴らしいと思ったのは…」。この日の出来事を、飲食に入る決定打だったと大久保氏は語っている。

偶然の出会い。エー・ピーカンパニーと大久保氏と。

とはいえ、最初に就職したのは不動産会社だった。「結局在籍は、1年間だけなんですが/笑」。不動産といっても仲介などではなく、土地オーナーへの営業、会社の中でも一番ハードな部署だったらしい。
「1年間ですが、走りつづけたといっていいと思います。業績は同期で一番です。退職のきっかけは、1年目の2月ですね。ダイヤモンドダイニングの記事を読んで、飲食店の経営に興味がわくんです。もともと飲食はいいなと思っていましたからね」。
それで、退職?
「そうです。3月末には退職しています」。
「小さいベンチャー企業を10社ほど受けた」と、大久保氏。ある企業の採用担当者から、「グルメキャリー」という飲食専門の求人誌を読むように勧められた。そのなかに、エー・ピーカンパニーが載っていた。

エー・ピーカンパニー時代の幕開け。

「エー・ピーカンパニーには、第二新卒として入社します。それから11年間勤務します。取締役になったのは、2011年の27歳の時です」。
早い出世である。
「入社して、その7月に『わが家』葛西店の立ち上げに携わります。副店長を経て店長に就任。当時の上司は、今、『ギョウザ マニア』を経営されている天野さんです」。
大久保氏は、社長である米山氏はもちろん、この天野裕人氏にも影響を受けたと語っている。天野氏について補足すれば、エー・ピーカンパニーの黎明期から勤務され、中国進出統括部長や執行役員などを歴任されている。
「塚田農場がオープンしたのは、2008年です。八王子が1号店です。名刺のサービスや就職支援、アルバイトへの400円の権限移譲などは、私のアイデアです。そういう意味ではいくつかのことは、残せたかなと思います」。
控え目に語るが、大久保氏の業績は、エー・ピーカンパニー1社に留まらない。飲食店経営者には、「飲食店ができること」を再認識させ、アルバイトを育てるノウハウと戦略は、様々な企業の経営者にトレースされている。
ちなみに、大久保氏は31歳で副社長となり、様々なメディアで「カリスマ副社長」と語られるようにもなる。なかでもアルバイトに対する取り組みは高く評価され、「アルバイトをやる気にさせる」独自の経営モデルは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」といった有名なTVでも紹介されている。
話は違うが、私はいまだ「部長」止まりだ。部長まではスピーディーに駆け上がったが、最近、足が遠のいている。もちろん、こちらは名刺のサービスの話。私の周りにも部長級の人間が多い。まんまと、大久保氏の戦略にはまり、なおかつ、楽しませてもらっている連中だ。
我々が部長で立ち止まっている間に、大久保氏は、さっさと次のステージへと進んでいた。2018年6月、エー・ピーカンパニーを退職、同年7月にミナデインを設立し、社長に就任する。

独立、開業。「烏森百薬」、オープン。

大久保氏が独立し、新店をオープンするというニュースは、業界内外で注目を集めたに違いない。実際、様々なメディアで取り上げられている。
出店場所がまたいい。サラリーマンの聖地「新橋」。屋号は「烏森百薬」。
新橋を選んだ理由は?と質問すると、「この街が好きだから」というシンプルな回答だった。たしかに、この街の、雑然としていながらカオス的な表情には、隣町の銀座とはまた違った趣がある。
「うちの店があるのは、烏森神社の参道です」。
JR新橋駅、烏森口をでて広場を抜け、路地に入ると「烏森百薬」がある。シックな佇まいも「烏森」という響きに似合っている。
「今は新橋と、千葉県佐倉市のユーカリが丘で2店舗を運営しています。FCも3件決まっています」。
「烏森百薬」がカフェと居酒屋という2つの顔を持つのと同様に、この「里山transit」も、昼はファミレス、夜は居酒屋という2つの顔を持っている。二毛作といえばわかりよい。
「烏森百薬」にしろ。「里山transit」にしろ。大久保氏が打ち出す飲食店には明確なコンセプトがある。そのことをうかがうと、「お店の形態は出店する場所によって考えている」とのことである。
そういう意味では、最初に新橋を選択したもう一つの理由が浮かんできた。「新橋」という聖地でできること。それを、サラリーマンとOLたちと、そして愛すべき「のんべぇ」たちと、一緒に実現する。実際、大久保氏がオープンした「烏森百薬」には、面白い仕掛けが施されている。

今日もサラリーマンとのんべぇたちは、セレクトショップで、食と酒を堪能する。

「烏森百薬」に話を戻せば、食のセレクトショップなんだそう。最初は「セレクトショップ」と聞いてどういうことなんだろうと思ったが、詳しく聞いてなるほどと合点がいった。
「メニューのうち、うちが作っているのは、数点だけなんです。それ以外は、私がオススメのお店から仕入れています」。つまり、自前のモノが少ない。
「作業も効率的ですし、うちが頑張って作るより専門店が作ったモノのほうが旨い。それをセレクトして仕入れることで、いいサイクルが生まれます」。
もちろん、作り手が明記されているから、安心だし、仕入先の業績にも貢献している。エー・ピーカンパニーの六次産業的な発想とは異なるが、アプローチは似ていなくもない。
店の運営に関しては「少しだけ勝つこと」を意識しているという。定番の唐揚げや餃子にも、なんらかをプラスアルファするようにしている。それが少しだけ勝つことに繋がっているのだろう。
「料理のバリエーションもシレっと増やしている」といたずらっ子のように笑う。飲食の仕事が好きで仕方ないのだろう。
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「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場
本文より~

キャプテンシーの源流。

「守山に引っ越したのは小学3年生の時かな」。静岡県生まれの山本久美氏が、愛知県名古屋市の守山に引っ越したのは、小学3年生の時というから1976年くらいのことだろうか。
「姉が1人いるんですが、大人しくて頭のいい姉とは違って、私は子どもの頃から大のお転婆でした」。じつは、久美氏の母の父、つまり母方の祖父は、プロゴルファーの先駆けだったそう。「祖父の隔世遺伝なのかもしれないんですが、私は子どもの頃から運動神経が良かったんです」。
スポーツなら何をやってもできたのだろう。負けたこともない。
バスケットボールでもそうだった。
「小学生からバスケットボールを始め、私がキャプテンだった時には区大会で優勝もしました」。
コートを自在に駆ける少女時代の久美氏が目に浮かぶ。背番号は「4」。いくつかの試合のプレーが中学の先生の目に留まり、引き抜かれる。
「引き抜かれるっていうと、ちょっと語弊があるんです。私学じゃなく、公立ですから。だけど、私はバレーをしたかったんですね。でも、あの手この手で誘われて」。
最初に言っておくと、彼女が通ったのは普通の公立中学だが、バスケ部だけ様子が違った。地区も、県も、東海というエリアでも勝ち抜き、全国で何度も優勝している。しかも、彼女が3年でキャプテンだった時には、練習試合を含め、敗北したことは一度もなかったそうだ。
「選手を育てるのがうまい先生でしたし、選手たちも公立にいるような子じゃない。私の時もクラブチームから優秀な選手が次々、入部しました。私が小学校の時に区大会で優勝したって言っても、まるで格が違います。入部したての頃は、彼女らがやっている練習が、何をしているのかもまったくわからなかったくらいです」。
負けん気が顔をだす?
「そうですね。小学校の時からスポーツは得意でしたからね。得意なことで負けたくない。そうは思いましたよね。でも、敵わないような子ばかりです」。
それでも結局、中学でもキャプテンに?
「ハイ、3年生ではキャプテンナンバーの『4』をつけて出場していました。ただ、私より巧い子はいました。入学して少しすると、その学年のキャプテンを先生が決める感じでした。ですから1年の時から学年のキャプテンをしていました。特に問題がなければ3年ではチームキャプテンとなります。キャプテンナンバーの『4』番をつけていました。じつは私は高校でも大学でも、バスケットボールを続けるんですが、ずっとキャプテンなんです/笑」
なんと、久美氏のキャプテンシーの源流は、ここにあったのかもしれない。
いずれにしても、中学時代から全国優勝を遂げるチームを背負い、つらい練習に耐え、キャプテンとして選手たちをまとめ、引っ張った。いまに通じる、これは事実である。

背番号4の涙。

「2年生の時、3年生へのお仕置きに、先生が2年生と3年生のユニフォームを取り替えさせ、私達2年生が若い背番号をつけたことがあるんです。私は2年生のキャプテンだったので『4』番のユニフォームを着せられました。4番なので、チームキャプテンになるわけです。2年で背番号『4』をもらった時は泣きました。だって、先輩たちにしたら『なんであいつなんだ』ってなるわけですよ」。キャプテンだから指示を出さなければいけないのだが、指示をだそうとすると、先輩たちに怒られ、ださないでいると、また文句を言われた。
「辛かったですが、今思えばいい経験ですね。でも、もう一度経験したくはないですけどね/笑」。
バスケと久美氏の関係は、じつは、大学を卒業してからも続いている。
「私は教師になりたくて、愛知教育大学に進み、卒業します。就いたのは、小学校の教師です。じつは、赴任した小学校にバスケットボール部があって、コーチをするんです。その時、結構、できる子っていうか、運動神経がいい子どもが多くって」。
だんだん彼女自身、前のめりになっていく。
「それで、ちょうど私が受け持った時に、市では優勝してしまうんですね。5年生たちがすごく巧かったんです。それで、昔の恩師にクラブチームに誘われて。でも、クラブチームって言ったって、昨日まで普通の小学校の生徒たちです。『愛知県だけみても、強豪なんていくらでもあるんだからね』って。そうハッパをかけながら、私自身は、県大会でも勝ち抜くのは無理だと思っていました。でも、親御さんも盛り上がっちゃって」。
結果は、久美氏の予想のはるか上。こちらでも、市も、県も、東海エリアも、勝ち抜き、全国に進んで優勝までしている。負けることはなかった。クラブチームのコーチ就任1年目のことというから、頭が下がる。
「私もエキサイトしていましたね。たぶん、きついことも言ったんでしょうね。相手は男の子だったし…」。子どもたちからすれば、オニだったかもしれない。
「でも、その子たちとは、今も食事をしたりするんです」。

怒らないけど、許さない。教育の流儀。

教師は11年続けた。退職したのは「世界の山ちゃん」の創業者である山本重雄氏と結婚したからだ。でも、先生という仕事は精神的にハードだと聞く。辞めたいと思ったことはないんだろうか?
「一度だけ、あるんです。ある学校に赴任した1年目の話です。5年生の担当でした」。
それまでのやり方がまったく通用しなかったという。
「だって、子ども達の反応がぜんぜん違うんです。勉強だけなら、教え方を変えればいいですが、大変なのは生活指導ですね。接し方を間違えると子ども達は私の話を聞かなくなり、学級崩壊に発展しかねません。1人の男の子がいて、その子が特にね。でも、私は、その子に教師というか、大人とはっていう、何か大事なことを教えられた気がしているんです」。
怒らないけど、許さない?
久美氏から聞いた言葉を投げかけた。
「そう。怒らないけど、許さない。私はそれを一貫して行いました」。
「たとえば…」と久美氏。
「給食でトウモロコシが出るとしますよね。食べ終わった後に、ナイロン袋を回して芯を捨てていくんです。彼は、袋を待つのがイヤだったんですね。面倒だから。そこで横の子の、机の上に置いちゃうんです。それを取り上げて、もう一度、彼の机に置きます。ええ、私がです。すると今度は、床に落とす。今度も拾います。だって、絶対、妥協してはダメだから。それから、ゴミ箱に入れるんですね。でも、『生ゴミだから、そこじゃない』って、戻します」。
廊下にも捨てられ、校舎の外のサンにも投げられた。それをぜんぶ取り、生徒の机に戻した。許しはしないが、怒らなかった。絶対。そう心に決めていたから。
「彼は、最後に4階の窓から校庭まで投げますが、それも、私が取りに行きました。心を少しずつ開いてくれたのは、あの時からでした」。
教室の運営はうまくいったんだろうか?
いや、そういう次元ではないんだろう。運営だけなら、もっと上手な方法があるはずだ。久美氏の生徒たちへの思いが、この話に凝縮しているように思う。
「でも、その頃の子達とはもう今は会ってないんですよね」。
最後の一言は少しさみしそうなトーンだった。
ともかく、先生という職業はいつの時代も尊いということを、久美氏の話を聞いて改めて知った。いわば、ここまでが、久美氏の第一章である。

名古屋で世界を知る。

「『世界の山ちゃん』を知ったのは、大学生の時です。就職しているお友だちが『面白いお店があるから行こうよ』って。ええ、そのお店が『山ちゃん』だったんです」。
「う~ん、印象ですか? そうだなぁ。ほうれん草をナマで食べさせたり、ね。ちょっと変わったお店かなっていう印象ですね。 まさか、その店のオーナーと結婚するとは思ってもいなかったですけどね/笑」。
そりゃぁ、そうだろう。
恋の軌跡も聞いてみたかったが、話は、3年前。つまり、2016年まで進む。夫であり、「世界の山ちゃん」の創業者であり、当時は会長だった重雄氏が亡くなり、妻の久美氏がバトンを受けた年である。
「最初は、何が何だかわからなかったのが本音です」。
重雄氏が亡くなったのは突然のことだったらしい。
「そうですね。突然だったから、尚更ですね。会長(重雄氏)が、やってきたことをどうすれば守れるか。私だって、結婚してから専業主婦だったわけですから、仕事のことなんてわからない。だけど、今守れるのはあなたしかいない、なんて言われて」。
葛藤も、あったそうだ。だが、決意する。
友達に誘われ、初めて知った「世界の山ちゃん」。何十年かけ、その「世界の山ちゃん」の真ん中に立つことになる。「やるからには、夫の遺志を受け継ごう」。久美氏は、そう誓った。
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株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社goonies 代表取締役 鈴木正史氏登場
本文より~

飲食に進むまでの歩み。

父親は、川崎で魚の卸をされていたそう。母親は、保険の外交員。ともに忙しい。
「親父は深夜に仕事に行き、母は夜遅くまで外交員の仕事をしていました。私は3人きょうだいの真ん中です」。
姉と弟。
「両親が忙しいこともあって、自分の食べるものは自分でつくるのがうちのルールでした。そういう意味では、昔から料理に慣れ親しんでいます。今と違い、当時は料理が好きではなかったですが(笑)」。
小学校の低学年から剣道をはじめ、4年から中学1年まで野球をつづけ、中学2年からサッカー。「高校からは帰宅部です」と笑う。
スポーツは好きで、今でも野球は大好きだが、勉強は好きになれなかった。
「高校は野球の強豪校に行きたかったんですが、学力がない/笑。それで、一般校に進み、帰宅部というわけです」。
なるほど。好きといっても、そうそううまい具合にはいかない。
「じつは、ファッションが好きで、高校卒業後にはアパレルメーカーで仕事をしていたのですが、折からのアパレル不況で服が売れません。26歳の時、アパレルの先は暗いといわれ、転職を決意します。といっても、つぎの仕事は銀座のクラブのボーイ。将来をしっかり見据えていたかといわれると『?』なんですが」
ただ、この選択で、人生の道がみつかる。

赤羽に、おしゃれな肉バルがオープンする。

「最初の独立は30歳の時です」。
最初の独立?
「そうなんです。最初は、幼馴染を含めた数人で独立して、レストランをはじめます。じつは銀座でばったり幼馴染に出会って、彼に誘われ、飲食の会社ではたらいていたんです。それで、彼を含め、数名でいっしょに独立です」。
しかし、なかなか思うような業績は上げられなかった。「立地がよくなかったですね。2年経って、クローズします。今考えると当然のなりゆきです(笑)私自身は、それからも知人の紹介で居酒屋ではたらきます。今度は料理も勉強しました。最後に就職したのが、もつ鍋の会社です」
株式会社アキナイ。もつ鍋の名店「もつ福」を展開されている会社だ。
「この会社に在職していた時に、もう一度独立を考えます。資金も貯め、37歳の時に2度目の独立を果たします」。
それが、赤羽ですか?
「2011年の7月ですから、震災の年ですね。当時の赤羽は、思っていたより活気がなかった。治安も、今一つです。今では飲食店も多いですが、うちがオープンした当時は、それもごくわずかです」。
たしかに、いまの赤羽は、昔の赤羽とは様子が異なる。
「ただ、うちはオープン初月から600万円を売り上げます。赤羽のこのあたりには、ワイン業態がなかったんですね。好調な理由は、それもあったと思います」。
奥様も貢献している。「妻の前職の関係で、何人かの芸能関係の人からお花をいただいたんですね。あれは、インパクトがありました」。
名前をうかがうと、たしかに、赤羽の住人はびっくりしたはずだと、へんに納得する。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にてTHS様の純生食パン工房HARE/PAN (ハレパン)10月18日(金)、10月25日(金)で2連載させて頂きました。


2019年10月24日木曜日

9月21日(土)から日刊ゲンダイ“グルメ企業社長の食い倒れ日記”は5連載でコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。

9月21日(土)~10月19(土)の5連載の日刊ゲンダイグルメ企業社長の食い倒れ日記はコジマ笑店・小嶋崇嗣社長でした。
(9/21掲載)
 (9/28掲載)
  (10/5掲載)
   (10/12掲載)
   (10/19掲載)
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株式会社ネオ・エモーション 代表取締役会長 石橋幸男氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネオ・エモーション 代表取締役会長 石橋幸男氏登場
本文より~

海のことは知り尽くしている。

三浦半島の先っちょに、城ヶ島という小さな島がある。戦国時代に、ある武将が城を築いたことからこの地名になったらしいが、これには諸説あるようだ。黒潮の影響で冬でも温暖。とはいえ、いったん天候が荒れだすと、人を寄せ付けないほど厳しい表情をみせる。
「私も、父も、母も城ヶ島出身で、父は漁師です」。黒潮に乗り、脂がのったさかなを獲る。天候がいい時はいいが、いったん荒れ狂うと手がつけられない。漁師という仕事はそういう意味で過酷である。気が荒い漁師が多いのは、そういった仕事が影響しているのだろうか。
「父に似たんでしょうね。私も小さな頃は、やんちゃ坊主です。小学4年生までは島の分校で育ち、5年生からは市の学校に進みます。運動神経はいいほうだったと思いますね。でも勉強はぜんぜんやらない。ただ、うちの仕事は毎日やりました」。
海が好きだという。泳ぎは得意。潮の流れ、さなかの群れ、悪天候の時の、海の怒り。海のことは知り尽くしている。遅くなったが石橋氏が生まれたのは、1947年。一般的にいう終戦から2年後のことだ。
ちなみに、城ケ島の南側の海沿いは、ウミウやヒメウ、クロサギの繁殖地となっているそうで、これらは神奈川県の指定天然記念物となっている。ともかく、大自然にはぐくまれ、石橋氏は育つ。

行商の仕事にのめり込む。

「高校では囲碁将棋部です。いまでも、やっています。囲碁をすると読みが深くなる。といっても、私はその時々のひらめきで動くんですが、これってたぶん経験があるからだと思うんです。つまり、直観の正体は、経験なんです」。
なるほど、という話だ。
高校を卒業した石橋氏は印刷会社に勤める。むろん、地元の会社である。「あの頃の三浦市じゃ、漁師になるか、工場に勤めるか、それくらいの選択肢しかなかったんです。それで印刷会社に勤めるんですが、2年くらい経った時、これじゃ将来もないな、と/笑」。
若い血が騒ぐ。
それでガソリンスタンドですか?
「そうです。当時はマイカーの黎明期ですからね。ガソリンスタンドもかっこいい仕事だったんです。この時、ガソリンスタンドにいらしていたお客様に紹介いただいて、行商の仕事をはじめます」。
行商とは、産物などの商品をもって相手先に行って販売するスタイルのことをいう。店舗をもたないことが、行商の意味でもある。
「社長は40歳くらいだったと思います。社長といっても個人で、私にとっては、師匠。この人との出会いが、いちばんの転機です」。
師匠のもと、仕事をはじめると、お客様との会話も楽しく、何より頑張ったら頑張ったぶんだけ稼げるのが、性に合った。次第に仕事にものめり込む。
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株式会社クリスプ 代表取締役社長 宮野浩史氏登場。

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本文より~

15歳。学校がつまらないと退学する。

「私は1981年12月20日生まれです。ごく普通の家庭で、ごく普通に育ちます。ただ、他人と異なるといえば、高校1年で学校を辞めてしまったことでしょうか」。
高校1年で?
「高校1年の夏ですから、15歳です。志望校じゃなかったというのもあるんですが、ただ、つまらなくなったというのが正解だと思います」。
それから、どうしたんですか?
「中卒の人には、申し訳ないいいかたですが、親からさすがに中卒はまずいだろうと。父の知り合いが、ロサンゼルスにいたので、『そちらでやっかいになって、アメリカのスクールに行きなさい』と。その知り合いは、中国系のアメリカ人です。この方と出会ったことが、いまにつながるんですが、それはもう少し先の話ですね」。

渡米。ホストファミリーと、ストレスと。

「そういうわけで、アメリカ生活がスタートします。最初は、けっこうなストレスでした。やさしくしてもらっても知らない人といっしょに暮らすわけですし、言葉もわからない。学校も、さすがにすぐにはなじめなかったですね」。 そりゃそうだろう。
「ただ、少しずつ会話ができるようになると、日本の教育って向こうより進んでいるんですね、とくに数学とか。それもあって、『頭のいい日本人が来た』って話題になるんです。日本じゃ、言われたことがないから、勉強も少しだけ好きになりました/笑」。
生活をサポートしてくれたのは、お世話になったホストファミリーの主人、「アメリカのお父さん」である。
「彼は日本語もできるし、もちろん中国語も。英語もできるので、貿易とか、アメリカに進出する企業のサポートなどを行っていました。そのなかに面白いのがありまして。日本でも時々みかけますが、天津甘栗です。あれをアメリカで流行らせようという企業があったんです。私も、週末には売り場で、販売をサポートしました。もちろん、その時は、高校を卒業して、天津甘栗の仕事をするとは思ってもいませんでしたが」。

天津甘栗の教え。

「1日に3000~4000ドルをセールスしたことがある」と宮野氏はいう。円にして、40万円程度。「卒業のタイミングで、たまたま天津甘栗の会社が撤退してしまったんです。そこで、向こうのお父さんがパートナーとして、いっしょにやらないか、と」。 Fifty・Fifty? 「そうです。彼は、出資はしますが、実務はしない。ただし、やり方を教えるだから、イーブンなんだと」。ロス、サンフランシスコ、サンディエゴ…、スーパーの軒を借り、セールスする。
「その時の原体験が、私の一つの指針になるんです。というのは、天津甘栗はおいしいけど、日本ではそう買わないじゃないですか。でも、向こうだと、みんなが買うんです。日本では買わない日本人だって買います。それをみて、『そうなんだ!』って。ロケーションがかわれば、ものごとはかわるんだって、思ったんです」。
「私は、のちに日本で、テックスメックスの店もだしますが、あれも、同様ですね。アメリカではふつうに食べられているけど、日本だったらどうだろうって。それが、やっぱりヒットします。天津甘栗が教えてくれたことなんです」。
じつは、英語の先生にでもなろうか、って思っていたらしい。そうしたら、向こうのお父さんが一言、「やめとけ!」と。ビジネスの才能を見抜かれていたんだろうか。

帰国、そして、タリーズへ。

「シカゴにアイスクリームショップを開いたり、事業は好調でしたが、突然、向こうのお父さんが亡くなられてしまうんです。それで、一時、帰国します」。
天津甘栗を総括すると?
「だいたいの事に尺度をもたないようにしています。だから、成功だったとは思いますが、大成功だったのか、どうかはまったくわかりません。私自身、いい給料だったと思いますが、どこにいったんでしょうね、あれは/笑。ただ、私自身、なにか特別なことをしたわけではないので、かりに給料が少なかったとしても文句はいえませんね。儲かったのは、ただただ、栗のおかげですから」。
「だから、達成感も薄いですし、自信ができたわけでもない。ただ、じつは、もともとサラリーマンになりたかったんです。そのために、コンプレックスもあったから、大学に行こうかなと、思ったりもして」。
「けっきょく、天津甘栗は3年くらいです。帰国したのは、ビザの更新が難しくなった時期でしたし、いったん帰ろうと。もっとも一時のつもりが、いまのところずっと日本です」。
「帰国して、就職したのは、タリーズです。じつは、アメリカにいたときにタリーズの話を聞いていたんです。スペシャリティーなコーヒーでヒットしている店があると。そうか、それを今度はアメリカで、なんて思っていたんです。幸い、合格させていただいて。まだ、松田さんが社長をされていた時です。店舗数は200くらいだったかな。タリーズでは5年弱勤務します」。
社長の松田氏にも目をかけられる。「社員になれば、社長宛にメールができるんですが、しょっちゅうメールを送っていましたから/笑」。
タリーズがクーツグリーンティをリリースした時には、松田氏の直轄メンバーとして、仕事をする。「ぜんぶで、15店舗ほど出店しました。シアトルにも出店します。ただ、最初はなかなか赤字から抜け出せない。責任者も、定まらない。1年くらい経った時に、松田さんから『おまえがやれ』と。当時まだ25歳だったと思いますが、その年齢で、事業責任者は、異例の抜擢だと思います。もちろん、いい経験になりました。カリスマの下で仕事をしたことも含めて」。

タリーズ後。

勤務して5年弱で、タリーズを離れた宮野氏は、今度は、投資家から資本を獲得し、テックス・メックス料理などメキシカンなブランドをリリースする。
「ファストカジュアルのようなショップです。4年やり、今は譲渡してしまいましたが、4店舗を出店します。いまも、六本木や麻布十番などで営業されていますよ」。
クリスプを起業したのは、そのあとですか?
「2014年です。天津甘栗の教え通り、アメリカで当たり前の、サラダ料理のスタイルを日本に輸入します。それがクリスプ・サラダワークスです」。
2019年7月、現在、サラダ9店舗、新ブランドのピザが1店舗となっている。「今年も直営で5店舗の出店を計画しています。今公表できるのは、日本橋のコレド室町テラスですかね。業績は、おかげさまで好調がつづいています。最初はもちろん、私1人だったんですが、ブームになって予想の何倍もの売上です。いまは、マックスから少し落ちて落ち着いていますが、それでも、ぜんぜん、好調と言っていい領域ですね」。
ところで、サラダって、ホントに食事になるんだろうか? ベジタリアンは、そうだとしても。
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10月22日、キイストン設立記念日。

10月22日、キイストン設立記念日ですが、今年は奇しくも「即位の礼」と重なり祝日となりました。

前から設立記念日休みになれ!と願ってたのが形になったのかって思いました(笑)

ただ、一つ言えることは、10月22日は平安京遷都の日であるということです。
そしてこの10月22日は、京都で時代祭が行われる日です。

創業者の私も武田も京都生まれ。
また時代祭は私の故郷の山国隊が先頭に立ちます。

何か不思議なもの感じますが、全ての事象には意味があると思います。
1994年(平成4年)設立し、いよいよ28年目に突入しましたが、きっと令和はキイストンにとっても良い未来があると確信しました!
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年10月17日木曜日

夕刊フジ ロックフェスティバル、楽しかった~。

夕刊フジ ロックフェスティバル、4回全て制覇しました!!

改めて一流ミュージシャンは年齢重ねても腕は衰えないし、なにより自らも楽しんでおられるな。
いわゆる【天職】なんですね。

2019年10月15日火曜日

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて横浜家系ラーメン 町田商店(ギフト様)掲載しました。

夕刊フジの「夕刊フジ×キイストン 飲食FCで第2の人生」にて横浜家系ラーメン 町田商店(ギフト様)を9月27日(金)10月4日(金)10月11日(金)で2連載させて頂きました。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場
本文より~

海と祖母とラーメンと。

「ラーメンでも食べてきんしゃい」。
祖母は、そういって、お小遣いを渡した。
「生まれてすぐ両親が離婚したこともあって、私は、父方の祖父母に育てられます。とにかく、祖母のあとを追いかけているようなおばあちゃん子でした。ただ、祖母は料理が好きじゃなくって、うまくもなかったので時々、小銭を渡してくれるんです」。
その時、添えられた言葉が冒頭の一言。「定番は久留米ラーメンです。とにかくラーメンが大好きになったのは、おばあちゃんのおかげです」。
父親はフレンチのコック。後輩に今や超有名なラーメンチェーン店の社長がいらっしゃるとか。「なんだか、いろんなことが今につながっていますね。ともかく、ちっちゃい頃いただいたラーメンは、おばあちゃんには悪いけど、私にとって何よりのご馳走でした/笑」。
河方氏は、1974年、福岡の東区に生まれる。「東区は、海に突き出たような格好をしています。私が通っていた小学校は当時、日本でいちばん海にちかい学校でした」。
校庭にも潮風が流れこんできた。「好きだったのは、野球です。みんなの打順を勝手に決めたりして。それでついたあだ名が『キャプテン』です」。
目立つことも大好きだったらしい。
その一方で、祖母から「人に喜ばれるようなことをしなさい」と何度も諭された。「祖母自身がそういう人だったんです。だから、祖母の背中をみて、言葉と行動がリンクしたっていうか。『ああ、こういうことをしなくっちゃいけないんだな』って。この教えは、今も私の心の背骨を貫いています」。
海と祖母とラーメンと。
河方氏の少年時代は、この3つの単語で語ることができる。

17歳の出立。

「中学になって、だんだん祖母とも話さなくなっていきました。だいたい私らが住んでいたのは『和白』っていう地名なんですが、不良だらけの町だったんです。そういう影響をモロに受けて、祖母がいさめても耳を貸さないっていうか。でも、あっちの世界に行かなかったのは、やはり祖母のおかげですね」。
深い愛情は時にうっとうしくもあったが、くさびになった。
「うちの経済事情もある程度わかっていたんで、高校にはハナから行くつもりはなかったです。それに、なんだかんだと言って祖父母が大好きだったので、早くうちにお金を入れなくっちゃって思っていたんです」。
それで、就職?
「そうです。15歳でうちを出て、最初に仕事をしたのはペンキ屋さんでした。でも、半年だったかな、つづいたのは/笑」。
職を転々とする。
「大工、石屋、何をやってもつづきません。そのうちいっしょに住んでいた先輩が東京に行くことになって。じゃぁ、いったんうちにもどろうか、と。それから、1ヵ月、無職で何もしません。さすがに、これではまずかろうと飛びついたのが、新聞に載っていた一つの求人広告でした」。
「あなたも百万円、稼げる」「寮完備」の、2つのキャッチフレーズが頭を駆け巡る。「だいたい石川県なんて、どこにあるんだ?って。まぁ、勉強もしてないからわかんないんですが、なんとかなるだろうと/笑」。
大好きな祖母が玄関で見送ってくれた。
「人に好かれるよう頑張りなさいよ」。
その一言は、祖母の表情といっしょに忘れない。河方氏、17歳の出立の話である。

ベンチで号泣した夜と、救いの神と。

「100万円」と「寮完備」に惹かれ、何をするかには目を向けていなかった。仕事内容はやったことのないセールスだった。しかも、けっこうハード。
「みんなすぐに辞めていきました。ベテランの先輩から若い子には無理だなと言われた。高額なアイテムだったんで、若い子には説得力も、信頼もないから無理なんだって」。
無理と言われて、ハイ、そうですかとは言えない。
「若い子っていうんですが、そのなかでも私は断トツで若いです。17歳ですから。それでも、『やると決めたら、やるんだ』と。だれよりも多く、件数を回ります。はじめての受注はいまでも忘れられません。80代のおじいさんで神主さんでした。あとで聞くんですが、『何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったが、とにかく一生懸命だったから』って」。
件数を回っただけではない。勉強もした。風呂につかりながら、商品の説明を何度も繰り返した。だれもいない公園のベンチで号泣したこともある。無謀だったかもしれないが、真剣だった。
「けっきょく10ヵ月で私も辞めますが、支店でトップの成績を残しました。全力やれば結果でる。これも、私のひとつの原点ですね」。
辞めるきっかけは、飲食だった。

「神仙」の始まり。

「飲食店に18歳で入社し、23歳まで勤務します。そのあと、独立し、BARをオープンするんですが、3年でたたみ、もう一度、前の飲食の会社に採用してもらいました」。
飲食の仕事はきらいではない。ただ、社長業はしばしお預け。そして、5年後。
「31歳でもう一度、独立するんですが、何が何でもっていうわけじゃなく、尊敬していた社長が突然、引退宣言されたからなんです。ええ、だから、プランもないまま、どうしようか? 何をすればいい? その時、浮かんだのが、昔から大好きだったラーメンです」。
じつは河方氏、週に5日ラーメンを食べるというラーメンマニアに育っていた。
「最初は、BARに勤めていた後輩が、ラーメン店を経営していましたので、そちらで仕事をします。金沢にラーメン店は、そう多くないこともあって、当初はうまくいきましたが、だんだん業績も下がります」。
ついに、店を閉めることになったそうだ。
「それで、知人からお金を借り、私がそのお店を譲りうけます。こういうとなんですが、私が経営すればもっとうまくいくという自信があったからです。もっとも、今のままではだめだってことはわかっていましたから、最高のスープをつくるまで、再オープンしないと決意したんです。これが、あれだけたいへんなことになるとは思ってもいなかったんですが/笑」。
店を買って、もう金がない。極貧。しかし、妥協はできない。全力。
「灰汁を飲んだり、豚の脳みそを生で食べたり。もう、取りつかれたように試行錯誤するんですが、なかなか、これといったラーメンができません。朝、いいなと思っても、夜になると、だめとか/笑」。
1ヵ月経ち、2ヵ月経ち、家賃も業者への支払いも滞納しがちになる。信用もないから、すべて現金。もう、数万円しか残っていなかった。
「もういっぱい、いっぱいでしたね/笑」。
「納得できるラーメンができた時には、試行錯誤をはじめてなんと半年が経っていました。忘れもしません、12月の26日です。28日をオープン日と決め、27日にはレセプションを開催しました。ありがたいことに好評で、オープン日にも限定100食がなくなりました。ただ、食べていける。最初の数年は、そんな状況でしたね。いろいろ払いを済ませたら、5万円しか残らないとか/笑」。
これがいえば「神仙」の始まり。
ちなみに、店名の「神仙」とは、神様の弟子ということだ。
・・・続き
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日本サブウェイ合同会社 社長 角田 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本サブウェイ合同会社 社長 角田 淳氏登場
本文より~

今日のランチに、サンドイッチをつくろう。

自分好みのサンドイッチをカスタマイズできる。サブウェイのサンドイッチのことだ。
まず、サンドイッチの種類を選択。つぎにパンをチョイス。そのあともいろいろ選べて、オリジナルのサンドイッチをつくっていく。
私の例でいうと、たとえば、ローストビーフを注文したとする。パンは基本、セサミ。トーストしてもらって、トッピングはなし。野菜は、苦味と辛味が欲しいのでピーマンとオニオン多めで、ピクルスを追加。サンドイッチは、その日によって違うが、ドレッシングはお決まりの、わさび醤油。
サンドイッチはポーカーをやりながらも片手で食べられる便利な食べ物であるが、サブウェイのサンドイッチの場合は片手とはいかない。両手でワシっとつかみ、かぶりつく。小食の人ではなくても、レギュラーで満たされる。難点を一つ挙げれば、口をひらくので顎が多少疲れることくらい。(フラットブレットを選べばその心配もないだろう)
さて、今回、ご登場いただくのは、このサブウェイを運営する日本サブウェイ合同会社の社長、角田 淳氏だ。
じつは、2011年、当時の社長、伊藤 彰氏にもインタビューさせていただいている。当時はまだサントリーホールディングスの子会社だった日本サブウェイ株式会社が運営していた。あれから8年、サブウェイにも、いくつかの変化があった。最大のものといえば、運営会社がサブウェイ本体にかわったことだろう。そして、変革の時期を迎えている。その点もうかがってみた。

サブウェイの歴史。

「最盛期は470店舗に及んだんですが、現在は約240店舗です。運営がかわったのは、2016年にサブウェイがサントリーと結んでいたマスターフランチャイズ契約を更新しなかったから。サブウェイとサンドイッチのことだけを考えているスタッフによる運営体制に変わったのです。韓国では数年前に店舗を整理したあと、もう一度出店を加速し、現在は過去最高の店舗数です。日本もこれからそのフェーズに入ると思っています。現在、店舗の売上・利益も回復傾向にあり、様々な改革が実を結んできています」。
サブウェイの基本戦略は、フランチャイズ。パッケージとしては出店コストも低く、ロイヤリティは8%だが、他のチェーンと違い、野菜などの食材にはいっさい上乗せがないから実は条件がいい。角田氏自身も「初めてFC店を経営しようという個人の方にも向いている」と言っている。
法人だけでなく、個人でも経営しやすいのが特徴というわけだ。さすが、世界中に広がっているだけはある。
今後は、首都圏、近畿、中部エリアを中心に展開を強化するとのこと。サブウェイのサンドイッチを食べた人も多いエリアだけに、拍車がかかることだろう。むろん、指揮をとる角田氏の手腕が問われるのはいうまでもない。
では、長くなったがいつも通り角田氏を生い立ちから追いかけてみよう。

中学からはじめた寮生活。

「私は、1971年生まれです。小学校入学直前までブラジルで生活していました。母は、南米出身です。最初はポルトガル語で、つぎにスペイン語、実は日本語をマスターしたのは、日本で暮らすようになってからです。姉が1人います」。
重工系の仕事をされていたからだろう。父親は海外出張も多く、グローバルに育った子どもたち。姉は高校からアメリカへ、角田氏もまた大学からアメリカで過ごしている。「だから、いちばん日本にいるのは、外国出身の母でした(笑)。私は中学から寮生活に入ったので、家にいるのは、もっぱら母1人でした」。
中学から寮生活?
「そうなんです。小学校の校長先生に勧められて、静岡の学校に進みました。入学してからは担任に勧められ、ラグビーをはじめます。練習量は多くないものの、成績は良かったですね。グランドでも寮でもいっしょですから、チームワークが取れていたんだと思います。あの時の学生生活は私にとって財産です」。
週に1回、お菓子をもとめ下界に降りた。それも、いまになれば楽しい思い出だ。
・・・続き
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2019年10月9日水曜日

株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アクアプランネット 代表取締役 福政圭一氏登場
本文より~

瀬戸内海に浮かぶ島。

「海へは2分、山へは1分」と、福政圭一氏は笑う。
福政氏に言わせれば、島とはそういうものらしい。高いほうから山、人、海なんだそうである。福政氏が瀬戸内海に浮かぶ、その島に生まれたのは1969年5月15日。
市町村名で言えば、現在は尾道市瀬戸田町となる。
「『生口島(いくちじま)』と言います。私が生まれた頃は、人口1万2000人くらいでしたが、今は1万人を割っています。かつては造船の町だったんです。今は瀬戸内レモンで有名ですが…」。
生口島は瀬戸内海では10番目に大きな島なんだそう。この島で福政氏は18歳まで過ごしている。「本土は、海の向こうで、私たちにすれば文字通り海外です。高校までは島を離れ、尾道の中心街に出かけるのも冒険でした」。
小学校から野球が好きで、高校では軟式野球部を、硬式野球部にしてしまったそう。「やるなら硬式でしょ。私はキャッチャーです」。
父親は造船の仕事をされていたそうだ。
「うちは貧乏でした。ぜんぜんお金がない。父が四六時中、お酒をかっ食らっているので、さらにない/笑。ま、当時は、うちまでとは言いませんが、貧しい家庭も少なくない時代です。でも、なかにはお金持ちもいて、ある友達のうちに行くとステレオがあったんです」。     
そのステレオが、福政氏の人生を動かす。
小学6年生の時の話である。

愛するステレオと、福政氏と。

「とんでもなく、衝撃を受けた」と福政氏。2つのスピーカーからでる音が、からだの前でひとつなる。不思議でならなかったそう。
「でも、うちでは買ってもらえないのはわかっています。それで、お菓子もジュースもすべて我慢して、お小遣いをぜんぶ貯金です。その一方で、工業高校に進もうとしたんですが、島には普通科しかない。それで、高校2年の時です。全財産をかきあつめて、通信講座を始めました」。
なんでも、最後の最後には高校でまだ習っていない微分・積分がでてきたそうだ。
「学校の勉強はしないのに、こちらはさぼらない。結局、未習の微分・積分の根本はわからなかったですが、式をそのまま記憶して、クリアします」。
それで、デンオンですか?
「そうです。世界でいちばんステレオを愛する男だと思っていましたからね/笑」。これが、福政氏が20歳の時の話。
「新卒と同じように採用していただくんですが、何しろ、私よりステレオを愛する男はいないわけですから、当然、制作部に配属されるもんだと思い込んでいたんですね」。
「夢は、自分の作ったステレオで世界の人たちを自分の時と同じように感動させたい。でしたし」。
ところが、そうじゃなかった?
「そう!/笑。制作の下の部署で、商品に不良がないか確かめる部署だったんです。最初は『なんでやねん!』とむくれていたんですが、制作部のトップの人が作った物を見て愕然とします。こっちは通信講座でしょ。向こうは一流の大学でゼミなど専門的な研究をしてきて仕事をしているわけで、そりゃ、レベルからしてぜんぜん違う」。
                     3年半、在籍した。
「技術はそうでもなくても、私、耳は自信ありでした。一つのスピーカーの音をチェックしながら、ほかの人の、スピーカーのチェックもできるくらいでしたから。『いまの音、おかしいよ』って。しかも、驚くくらいの精度です。だから、実は仕事も面白かったんですが。ま、妻というか恵子さんを取ったわけですけれど/笑」。

「いい声しているわね」、恵子さんのつぶやき。

アクアプランネットの創業者は、実は福政氏ではない。妻の福政惠子氏である。福政氏は妻のことを「恵子さん」という。この記事でもそれを踏襲する。
「恵子さんと知り合ったのは、デンオン に入社するまでにやっていたテレフォンアポインターの仕事で、です。
彼女に電話をかけ『投資に興味はないですか?』と/笑。それが、始まりなんです」。
証券会社のアポインターの仕事だったようだ。
福政氏は大阪から彼女が暮らす三重まで電話をかけていた。
「ふつうは1秒です。『もしもし…』『ガチャ』『もしもし…』『ガチャ』。なのに恵子さんは違っていました。話に耳を傾け『いい声しているわね』って。それがきっかけで、仕事以外でも話をするようになって。お付き合いをして3年くらい経って『結婚しようか』と」。
だが、大阪と、三重である。
「恵子さんが会社をたたみ大阪にくるか、私が仕事を辞めて三重に行くか。選択肢は、そのどちらかです」。
もう塾を経営されていたんですね?
「そうなんです」。

三重へ、選択の結果は、さらばオンキョーだった。

「仕事がいやだったら、さっさと辞めちゃうんですが、好きだから、そうはいかない。ただ、上司に相談すると四日市にあるオフィスに異動できるみたいな話になるんですね。四日市だったなら通勤もできそうだったんで、『こりゃ、いいや』と」。
それは、よかった。
「そう、よかったんですが、実は、転勤前に向こうのオフィスがなくなっちゃって。『え、うそでしょ』ですね。会社は、『交通費を出すから大阪まで通勤したらどうだ』とも言ってくれたんですが、さすがにそれもないな。って」。
それで結婚して、三重ですか?
「はい、そういうことになります。私が24歳の時です。ただ、すぐに塾を手伝ったわけではありません。最初は、松阪で独立しシャープサービスの下請けをしていました」。
膝を悪くしてしまったそうだ。
「突然膝が痛くなって 、シャープの仕事ができなくなっちゃいました。それがきっかけといえば、きっかけです」。
妻の恵子氏が経営されていた塾も、生徒が膨れ上がり、100人くらいになっていたそう。「さすがに1人じゃたいへんだろう、と。それで、『私も手伝おうか』って。私が26歳の時です。答えは、もちろん『YES』です」。
恵子氏は、とびあがって喜んだことだろう。大好きで、頼りになる夫が、一緒にやってくれるのだから。
福政氏が手伝い始める。
恵子氏が授業を行い、福政氏が進路指導などのカウンセリングをする。そのスタイルが定着すると、益々評判となり、倍々で生徒数が増えていく。
「塾だけではなく、予備校もスタートします。その一方で、恵子さんが飲食を始めたいというので、『いいよ、こっちで利益をちゃんとだすから思い切りチャレンジすれば』と背中を押しました」。

恵子さんが、残した会話のつづき。

福政恵子氏は女性経営者として、数多くの女性たちの目標ともなり、慕われてもきた。じつは、この「飲食の戦士たち」にも登場していただいている。しかし、突然、お亡くなりになってしまった。
「突然だった」と福政氏はその時の様子まで話してくれている。
「あの時はねぇ。気が張っていましたから…。最初は、泣くこともできませんでした。事業のこともありましたし、彼女を慕うスタッフたちのこともありましたし。ただ、僧侶に『我慢しなくていい。泣いてやるのが、供養です』と言われて…」。
その一言で、膝から崩れ落ちたそうである。
「私たちが最初に手がけた飲食店は『バレル』という大阪の淀屋橋に出店したベルギービールのお店です。その2年後に、東京・丸の内にも出店します。彼女は、精力的に飛び回っていました。それでも、毎日、電話をしていました」。
思えば、塾を手伝い始めてからというもの2人はいつも一緒だった。2人して、1台の車で通勤する。
福政氏がハンドルをにぎり、恵子氏が語りかける。スタッフのこと、事業のこと。知性的な恵子氏のことだ。ウイットに富んだ会話は、塾につくまでの道のりを楽しくしたにちがいない。
「じつは、今も話をしています」。
そういって、福政氏は手帳の話をしてくれた。
「恵子さんが、いつも空想・妄想を書き記していた手帳が何冊もあるんです。そこにね。1年後。3年後。いやもっと先に、どうなっていたいかが書かれているんです。それをみてね。私は、いまでも話をしています」。
手帳には、どの場面にも一つだけ同じことが書いてある。
「『スタッフを幸せにする』っていう一言です。いかにも恵子さんらしいな、と」。
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社SANTA CALA 代表取締役 望月貴史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SANTA CALA 代表取締役 望月貴史氏登場
本文より~

サッカー、サーフィン、そして、飲食。

旨いラーメン店がある。某グルメサイトでベストラーメン賞を6年連続受賞。賞の名目は変わったが現在もラーメンの名店として選ばれ続けている店。素人の声はプロの評価に劣らない。庶民の食べ物であるラーメンなら尚更だ。
今回ご登場いいただいたのはそんな無類に旨いラーメン店の店主、望月貴史氏。1971年生まれ。
「うちは先々代から飲食です。もともとは別の場所で喫茶店をしていたのですが食堂を経営する際にここに引っ越してきました」。
望月家の歴史が刻まれた「中華そば 麺や食堂」で取材は始まった。
ホームページによれば移転は1955年「食堂ブラジル」としてリニューアルオープンと書かれている。無論、望月氏が生まれるずっと前だ。
望月氏は1971年に生まれご両親の愛情を受けすくすくと育っていく。小・中学時代はサッカーに没頭するスポーツ少年だった。「ただ、サッカーは高校2年生の時に辞めました。10年間も続けていたので…。それにサッカーだけっていうのもな、と思って。」。
それでサーフィン?
「はい。湘南が近かったですし、当時はサーフィンが格好良いスポーツだったので」。
しかし日本の海だけでは満足できず、高校を卒業した望月氏は半分サーフィンをするためにアメリカに渡る。名目は語学留学。
「うちの仕事を始めたのは帰国した時だから20歳ですね。人がいなくなって手が足りないというのが理由です。もっとも私の給料は5万円。最初は、何でだ?って思っていたのですが、台所事情を知ると文句も言えなくなった/笑」。

食堂には、メニューがいっぱい。

「あの頃は言わば私の修業時代です。5万円じゃさすがに足りず夜はアルバイトをしていました。なんとか売上をアップさせようと弁当もスタートしたのですが、なかなか利益が出ませんでした」。
食べていくだけでやっとという時代。
「ただ食堂だったのでメニューは多いです。カレーにカツ丼、野菜炒め、とんかつ、生姜焼き…。おかげで野菜のカットや肉のセレクトなど貴重な経験ができたのも事実です。今でもその時の経験が私の財産になっています」。
ただ頑張っても売上は低空飛行が続く。
「食材や調味料を見直すなど試行錯誤を重ねましたがバブル崩壊の影響もありなす術が無かったのが正直なところです。無我夢中で必死に仕事をしましたが浮上のきっかけも掴めず身体もボロボロでした。いよいよ店を閉めなければならなくなった、それが丁度私が28歳の時です」。
ラーメン一本で勝負すると決めた時だ。
「一品で勝負しようと決意しました。この時は2人目の子供も産まれたというのもあり崖っぷちに立たされてました。でも、そのままズルズルやっていくのも許されなかった。ラーメンで失敗したらもう終わり。祖父の代からつづけてきた家業も畳まなければなりません」。
勝算があったわけではない?
「勝算はありませんでした。反対する親父をなんとか説得して。ただ、リニューアルするにも金がない。この内装も実は手づくり」。そう言って店内を見渡す。
「最初は私が素人なりにやっていたのですが、内装をやっている友達やお客さんまでもが見るに見かねたんでしょうね。『何しているの?これじゃだめ。』と言いながら手を貸してくれて。ラーメンそのものは父親が作っていた味をベースに、新たに食材を加え調味料を調整しました。このラーメンは私が小さい時から食べ続けてきたラーメンです」。

食べ続けてきた馴染みのラーメンで最後の勝負。

我が家の味?
「我が家の味と言えばそうなるのでしょうか。実は昔から食べ続けてきたせいでラーメンは嫌いだったのです/笑」
お腹が空くと、母親が「ラーメンでいい?」と、ラーメンをテーブルに置いたそうだ。忙しく働く両親の背中を見ていると嫌とは言えなかった。
「ただ、この時ラーメンで勝負しようと思ったのは、いろんなメニューがある中で父親が一番大事にしてきた料理ですし、私にとっては小さな頃から慣れ親しんできた味だからです。これで駄目なら諦められる、と」。
考えてみれば祖父から続く3世代の結晶でもある。
「ラーメン店をオープンしてからは今まで以上にがむしゃらに働きました。5年間休んだ日は1日もない。それでも売上は伸びずこれといったスープもなかなか作れませんでした」。
「きっかけは一杯のラーメンです。すごく旨いラーメンでした。今までは『食堂ブラジル』のラーメンがベースでしたが、このままではいけないと気づきました。それからですね。父親としょっちゅう喧嘩しながら、TVでラーメンの特集が流れると知れば録画してTVにかじりつくように観たり、それまで以上にラーメンにつかる日々。ようやくカタチができたのが30歳の時です」。
しかしそれでも業績はなかなか改善しない。そんな中、週1日を休みにして食べ歩きに専念したのは友達がラーメンを食べて言った一言、「普通」。。 何がなんでも普通じゃないラーメンをつくる!。 そうやって苦労に苦労を重ねて出来上がったのが、今やグルメサイトでもトップクラスに評価される望月氏のラーメンだ。。 「最初は特別なオレだけのラーメンだと思っていたのですが、いろいろ試行錯誤して『普通でいいんじゃないか』って思うようになるんですね。うちのラーメンを上からみると分かるのですが麺が川の様になっています。有名店でも見られるような綺麗な盛り付けは実はうちが発祥なんです。お金がないから平ザルですくって入れていたら、時にすごく綺麗に盛ることができて。コレ、いいじゃん!ということに。そんな偶然から生まれたのです」。。 今やインスタントラーメンのパッケージの麺もそうなっている。「ラーメンは嗜好品なんです。うどんや蕎麦と比べればわかりますね。奇抜なラーメンが許されるのは嗜好品だからなのです。ただうちは普通で言わば王道です」。。 確かにメニューを見れば望月氏が言わんとすることも理解できる。
・・・続き
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