2019年7月18日木曜日

グルメ杵屋レストラン様で新しい試み、『すごいお子様プレート』というお子様メニュー誕生!!

グルメ杵屋レストラン様が新しい試みを。
なんと令和式『すごいお子様プレート』というお子様メニュー誕生!!
かえつ有明中学校・高校の調理部と一緒にコラボしてメニュー開発されました。

告白編

思い出編
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

株式会社飲ミュニケーションズ 代表取締役 中村 建(なかむら たつる)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社飲ミュニケーションズ 代表取締役 中村 建(なかむら たつる)氏登場
本文より~

「ニコバー」。


年1回、放映される27時間の特番は50万ビューもあるそうだ。「飲ミュニケーションズ」のニコバー通信の話である。
「ニコバー通信っていうのは、隔週で放映している私たちの番組です。ツイキャス・YouTube・FRESH!の同時放送で生放送しています」。こちらも1回あたり3万ビューくらいはあるそうだ。
今回、ご登場いただいた中村氏がニコバー通信のもととなるニコバーをオープンしたのは2009年のこと。学生時代にアルバイトで知り合った熊谷氏と二人で共同経営というスタイルで立ち上げたダイニング・バーである。
「最初は、『ブレイク&BARケセラセラ』って店名だったんですが、お客様が『ニコバー』『ニコバー』って言いだして。ネット検索でも『ニコバー』が優勢になって、それでもう観念して、ぼくらも『ニコバー』っていいだしたんです/笑」。
「動画をみながら、飲食できる」のがコンセプト。
いままでなかったタイプの飲食店だ。

秀才、アルバイトに没頭する。

札幌市西区。「区と言っても、熊がでる」と中村氏は笑う。中村氏が、この西区に生まれたのは、1981年。兄弟は2人で、6歳下に弟がいる。
小学生の頃から学力はつねに学年トップクラス。高校は、北海道でもナンバー1の「札幌北高校」。高校では、あまり勉強しなかったというが、現役で「北海道大学」に合格している。
「もっとも、5年通って、3回生のまま退学」と笑う。
「Boys, be ambitious」。青年、中村はどんな大志をいだいたのか?
「大学を退学することになった理由はシンプルで、単純に授業に出なかったからです/笑」。
じつは、中村氏。19歳から、家庭教師派遣の大手企業で営業をはじめ、学生代表という肩書きまでもらっている。なんと、おなじ立場でもある学生アルバイトの時給まで決めていたというから、すごい。
「正社員とおんなじです。ネクタイもちゃんと絞めて、週6日は営業。大学行くヒマもないわけです/笑」。
たしかに、大学には行かなかったが、ある意味、大学に通うより勉強になったのではないだろうか。大事なビジネスのパートナーにも出会っている。
「そうなんです。この会社で、いまの共同経営者の熊谷と出会うんです」。じつは、熊谷氏は、その家庭教師派遣の会社で部長にまでなっている人だ。
「当時は、まだ部長ではなかったんですが、『中村、ちょっと手伝ってくれって』、何度か誘われて、夏の1ヵ月だけとか、千葉では8ヵ月、彼の下で仕事をしました。その頃から2人で起業しようと話あっていたんです。ハイ、それで2009年に会社を設立して。ぼくがたまたま社長になっただけで、共同経営です」。

100×100の公式。

現在、ニコバーは全国に15店舗ある。うち10店舗が直営。残り5店舗がフランチャイズである。中村氏は早々にフランチャイズを20店舗まで拡大していきたいとしている。そういう意味では、今からが加速期間となる。
「将来的には、飲食でシェア№1の会社になろうと。それが、一つの我々の目標です。ただ、いますぐじゃない。30年後くらい先をゴールにしています」。
その時、つまり30年先には、1000店舗を展開するようなメガブランドは生き残っていないだろうと、中村氏は読む。では、どうすべきか。どうあるべきか。
その答えを中村氏は、「100×100」という公式でみちびきだす。
「いま急いでいるのは、全国各地で経営者を育成することです。全国展開しているのも、その理由の一つ。1人1人の経営者を核にして、ビジネスを進めていきたと思っています」。
「いま、東京、大阪にそれぞれ直営店が3店ずつあるんですが、3店舗あるといろんな意味で安定します。だから、ほかのエリアでも3店舗の出店を考えています。ただ、ニコバーだけではなく、異なったブランドがあれば、もっといい訳で、いまそういったことも模索しています。最終的には100ブランドをつくり、それぞれ100店舗以下ですが、出店する。それが、いまの構想です」。
「ぜったい、そんな時代がくる」と中村氏は強くいう。時代がかわれば、飲食もかわる。しかし、かわることがわかっていても、どうかわるかは、別の話。「インスタ」や「フォトジェネック」が、キーワードになるとは、だれも想像しなかったはずである。
だが、いまは、和食の料理人でさえこういう。「この料理は、インスタ映えを狙っている」と。
・・・続き
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株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏登場
本文より~

14万人の古河市で、年間42万人が来店する名店の、そのはじまり。

昭和46年、両親が喫茶店を開業する。これが、株式会社丘里のはじまり。いまや人口14万人の古河市で、年間42万人を集客する会社となっているが、そのはじまりは、そう華々しくはなかったようだ。
「父も、母も、素人ですからね。しかも、喫茶だけではなく、料理もだしていました。もちろん、ちゃんとしたコックさんを採用して。でも、当時の料理人っていったら、経営者の話も聞かないような人ばかりでしょ。けっきょく、その人たちのおかげで経営もうまくいかない。どちらかというと落ち込んだ母や父をみて育ったようなもんです」。
当時の月商は200万円強だったそう。料理人もつかっている店だから、利益はわずかしか残らない。
「そうですね。うちにお金はなかったですね。もっとも、私は3歳から高校2年までピアノを習っていますから、それなりにお金を遣ってもらったんでしょうが…」。
高校2年まで、じつは音楽で生きていこう、と思っていたそうだ。「でも、うちにお金がないのがわかりましたから、『こりゃぁ、オレがなんとかしなくっちゃ』と。ええ、それで、大学に進学せず服部栄養専門学校に進みます。私が料理をできれば、両親がさんざん泣かされてきた問題が解決しますからね」。

ベルギーのブリュッセル。料理人、中村の生まれ故郷。

服部栄養専門学校に通い、卒業後、3年間、ベルギーのブリュッセルにある「レストラン田川」に勤めている。「う~ん、これはですね。音楽やっていたでしょ。ベルギーとかね。ヨーロッパには関心があったんです。それで、卒業の時に向こうではたらくチャンスをいただけたんで、まっさきに手を挙げて。ハイ、これは、両親にも相談しなかったですね」。むろん、いますぐ帰っても、役立たないことはわかっていたからの選択だろう。
どうでしたか? ブリュッセルは?
「いろいろな意味で、修業になりました。ブリュッセルにあるといっても、『田川』は、日本にある和食店とそん色ないんです。料理人も、たん熊さんや、吉兆さんからいらしているような人ばかり。ええ、もちろん、日本人です。しかも、日本のトップクラスの料理人です。そんな彼らの下で、料理の勉強ができたのは財産ですね。しかも、ヨーロッパなんで、和食にない食材、たとえば、フォアグラやキャビアもつかうんですね。日本では、到底できない経験です」。
もっとも朝8:30~夜の12:30までぶっ通し。長期の休みには、ヨーロッパの国々をめぐるなど、楽しみもなくはなかったが、修業漬けの日々。「じつは、私、むかしから不器用で、箸もちゃんともてなかったんです。だから、休憩時間には箸で米粒をつかむ練習をしていました」。1年間、みっちりやったそう。中村氏はとにかく、やりつづける。ちなみに3年間で、給料は35000円から115000円にアップしている。

帰還すると、すぐさま月商が3倍になる。しかし。

「ベルギーからもどり、赤坂の料亭『田川本店』で、今度も3年勤め、25歳の時に両親のもとで仕事をするようになりました。なんでも、私が店に入ることを知って、当時いた料理人は、辞めたそうです。経営者が料理のことがわからないから、たぶんやりたい放題だったんでしょうね。私が帰ると、それができなくなる/笑」。
店のいい悪いは、料理だけで決まるわけではない。ただし、「旨い」、これは間違いなくキーワードである。父親も素人ながら、料理をしたこともあったそうだが、素人の域はでなかったのだろう。
「そういう素人でもできる、というのがあったんでしょうね。私がもどった時は、スパゲッティやサンドウィッチなど、素人でもできるメニューもあった。でも、それじゃだめなんですね。だから、一切、止めて、和食に絞ります。すると、月商がいきなり3倍くらいになり、造りも改めると月商1000万円をオーバーするようになりました」。
息子の仕事にご両親もさぞ目を細められたことだろう。しかし、そんなできる息子だから、躓くことになるから、人生はわからない。
「月商が1000万円オーバーした頃ですね。2号店のお話をいただいて。そうですね。あの頃がいちばん辛かったかな」と中村氏は独白する。
「原因は、人です。2号店をだしてからしばらくして、6人いた板前のうち5人が一斉にいなくなったんです」。アルバイト・パートだって、辞めていく。店も開けられない。「原因は私です。だって、当時、料理人は私の道具でしかないと思っていたくらいですから」。
過去のことがある。泣かされてきた父母への思いもある。だから、尚更、すべてが上から目線だったのだろう。母がこっそり退職の理由を聞くと、決まって「板長がイヤだから」という返事だったそう。板長とはいうまでもなく、中村氏のことだった。
・・・続き
株式会社丘里 代表取締役 中村康彦氏
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観葉植物が8年でこんなに・・・・・。

事務所移転時の観葉植物が8年でこんなになりました。
知らない間にこんなに月日が経ってるんですね・・・。
人も一緒。成長してくれています。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

新人、いきなり月間目標達成!!

4月入社の2人。
7月から目標持ちましたが2人ともいきなり月間目標達成しました。
2人とも社長取材で頑張ってくれ、8月以降も沢山ネタ持ってます。
『効果にこだわる』、『同業他社とは違った採用戦略』を武器に良い仕事してもらってます。
早く平均年齢20代の営業の皆に移行し暴れてもらいたい。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年7月12日金曜日

夕刊フジ「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」にて3連載でやきとり大吉のダイキチシステム様取り上げました。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」が5月17日(金)よりスタートしましたが、
6月28日(金)、7月5日(金)、12日(金)でやきとり大吉のダイキチシステム様について記事掲載させて頂きました。
zakzakにも同時掲載しています。→こちら
(No.1)
(No.2)
(No.3)
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2019年7月11日木曜日

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!

「飲食の戦士たち」、マンガームービー第2弾!!
飲食の経営者の生き様をまとめた「飲食の戦士たち」700連載突破を記念して
「飲食の戦士たち」のマンガムービーを時代の流れに合わせ誕生させました。
その第2弾坂東太郎様が完成しました。
ご覧ください。
マンガムービーはキイストンとトレンドプロとの合同企画商品です。
こちらは「飲食の戦士たち」です。
坂東太郎・青谷会長(飲食の戦士たちより)
https://in-shoku.info/foodfighters/vol469.html
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7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。

7月2日(火)、千葉商科大学・池田ゼミにてジローレストランシステム株式会社の佐藤社長の講演でした。
学生発信で、なにやら新たな試み始まりそうな予感です。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

新たな総合人材サービスの商材になるか・・・・・・。

昨日、新たな総合人材サービスの商材の一つとして、
その人の特性を知る適性試験にと、
特殊カメラで撮影した人物の精神状態を「可視化」し、
自動で検知する画像解析システム活用の件で、
試験的にスタッフ数名やってもらいました。

項目の中にカリスマ性という項目があり、
ココが低いと社長として情けないですが、
おかげさまで誰よりも高くて安心しました(笑)

採用や既存社員のフォローに使えないかこれから検討していきます。

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/226265/060300032/
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2019年7月9日火曜日

株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社グルメ杵屋レストラン 代表取締役 佐伯崇司氏登場
本文より~

目標は、ロケット。

「終電に乗れたのは、週に2回くらいです。残りは、タクシーで帰るか、泊まり込み」と佐伯氏は笑う。佐伯氏がまだ日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の人事課長だった頃の話である。入行は1980年。「まさかあの頃は銀行が潰れるなんて思ってもいなかったですね」。
佐伯氏は1956年に生まれている。岐阜出身。父親は電電公社(現NTT)に勤務し、母親は佐伯氏とおなじ銀行員だった。「背がちいさくて、引っ込み思案の子だった。本を読むのが、好きだったかな。旅行も、外食も、あまり記憶にないですね。ただ、年1回、父母の田舎に帰省はしました。当時はSL、蒸気機関車です/笑」。
窓を開ければ、黒い煤が流れ込んでくる。何両もの車両をひっぱっていたのは、石炭だ。「そうですね。まだ、そんな時代ですね。子どもの頃の私は、ロケットを飛ばしたいと思っていました。石炭の時代ですからね。ロケットなんていうと、もう相当な未来の話だったんです」。
じつは、ロケットは思いつきではなく子どもの頃は真剣に、東大の航空宇宙研究所をめざしていた。「でも、高校になると、だんだんわかってくるでしょ。さすがに『航空宇宙研』は無理だと。理Ⅲ(医学部)より難しい。/笑」。
たしかに、ロケットはあきらめたが、かわりに東大法学部にあっさり進んでいる。佐伯氏にとって、赤門自体は、高い門ではなかったようだ。

バンカーへ。日本債券信用銀行入行。

「法学部ですが、弁護士は頭になかったですね。司法試験に比べれば東大に入り直す方がよっぽど楽です」。
けっきょく、就職先は長期信用銀行の1行だった日本債券信用銀行となる。債券発行を担った銀行である。「最初は、上野に配属されました。ハイ、浅草のおばちゃん相手です/笑」。
時代はマンション不況・第二次オイルショックから立ち直り、景気回復で金融引き締めが行われた頃。国債金利が6%から9%まで駆け上がる、そんな頃の話である。ちなみに、上昇した3%だけでも、いまの金利と比較すれば数十倍だ。
「まぁ、そういう時代ですね。私は入行5年目から、当時の大蔵省に出向し、銀行にもどってからはインベストメントバンカー、労働組合書記長、人事課長ですね」。
インベストメントバンカー時代、佐伯氏は、日本企業がユーロ市場で起債する債権などを担当していたそう。「マーケットがロンドンだから、時差は8時間ですよね。ときにはニューヨークまで追いかけるので、向こうとは11時間時差がある。ハンパなかったですね」。バンカーが描く地球儀には、日付変更線は記されていない。「でもまだこの頃は、土日が休めていましたからね。人事課長になってからは、それもなくなった/笑」。
約20年と、佐伯氏はいう。「バブルが弾け、不良債権の山ができる。うちの銀行も1998年に経営破綻し、一時国有化されます。経営陣も総入れ替えでしょ。私が知っている銀行ではなくなった。そう思って退職しました」。
これが、佐伯氏42歳の時のこと。

初の飲食、初の社長。

「それからですか? まず、外資のアーサー・アンダーセンに転職します。ただ、アーサー・アンダーセンも、エンロン事件で解散してしまうんですね。日本の事務所は、オランダ本部のKPMGに吸収され、私は、そちらでも2年勤めたあと、そう、はじめて外食に進みます。ロイヤルホールディングス株式会社の社長だった今井さんに誘っていただいたんです」。
当時、丸紅から「天丼のてんや」の「テンコーポレーション」をM&Aしたばかりだったそう。
「それで、私に白羽の矢が立ったんですが、もちろん、飲食ははじめて。『てんや』も苦戦中です。素人に舵取りは難しい。だれもがそう思うでしょうが、今井さんは、逆に飲食経験のない私だからできることがあると思われたのかもしれませんね。ご自身もそうですから」。
実際、1年3ヶ月かけ124店舗すべてを回るなど、独自のスタイルで経営を行った。パート・アルバイトとも時間をかけて直接対話するなど、異例のことだったに違いない。
「最初に私がやったのは、値引き・割引の禁止です。ええ、ぜんぶ止めました。だって、500円の天丼。これだけで価値は充分あるんです。にもかかわらず値引きのキャンペーンをしたり、3杯食べたら1杯無料にしたりするとか。なんで、自分から価値を下げるんだって」。
行脚と会話。
だれもが、天丼500円の価値に気づく。それが起死回生始まり。「正式に社長になったのは、転職して9ヵ月経ってからだから、丸3年ですね。ハイ、業績は、回復したんですが、つぎにリーマン・ショックです。会社は存続できましたが、私は退任させられました/笑」。
アルバイト・パートとつないだホットラインもなくなる。従業員向けに毎週送ったレターも、もう書くことはない。
はじめての社長業は、たしかな実績も残したが、ほろ苦い結果となったとも言えるだろう。
ただ、佐伯氏は面白いことを言っている。
「飲食っていうのはBtoCでしょ。相手は経済合理性なんか関係ない個人消費者。私は新社会人の時浅草のおばちゃんたちに鍛えられましたからね、個人はどう思うか、どう行動するか知っている。だからこの仕事はできるって」。
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株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ソラノイロ 代表取締役 宮﨑千尋氏登場
本文より~

一杯を彩る、ソラノイロのラーメン。

ラーメンに色彩がある。赤、オレンジ、緑…。観た目はもちろんだが、味のバラエティも豊か。オシャレなカフェでいただくような、フォトジェニックな逸品ぞろいである。
ベジタリアンが、好むのは「ベジソバ」。動物系の素材を一切使用していないのは「ビーガンベジソバ」。ここに150円をプラスすれば、グルテンフリーの美味なラーメンがいただける。
今回、ご登場いただいたのは、この評判のお店「ソラノイロ」の代表取締役 宮﨑 千尋氏。1977年2月16日生まれの41歳だ。
「ラーメンの食べ歩きを始めたのは、15歳です。高校時代には150軒ちかく回りました」。年季が入っている。「大学生になってからは拍車がかかり、卒業まで400~500軒は食べ歩いたと思います」。
まさに、ラーメンフリークである。その経歴から生まれたラーメンは、ある意味、ラーメンとは別物。ラーメンから進化した新たなジャンルと表現したほうがいいかもしれない。
はたして、どのようにして、「ソラノイロ」は生まれたのだろう。もう少し詳しく、宮﨑氏の足跡を追いかけてみよう。

ラーメン食べ歩き。

「小学校の頃は、野球をやったり、虫とりをしたりするふつうの少年です。お祭りが大好きで、私の飲食の原点は、テキヤさんです/笑」。
中学では陸上部に所属。高校は都立高校に進んで、バスケットボールをはじめ、この部では部長を務めている。「食べ歩きを始めたのは、この頃です。きっかけは、親父が持っていたラーメンの本です」。
もっとも、食べ歩きはラーメンだったが、バイトはうどん屋。なんでも友人の家がうどん屋さんを経営していたからだという。ちなみに、高校のバスケットボールでは都大会で、ベスト16に入っているからすごい。
「大学は青山なんですが、そちらでもバスケをつづけます。一方、食べ歩きには拍車がかかり、ラーメンを食べない日はないくらいになりました」。大学生になってからは、バイト先もラーメン店。ラーメン博物館で、はたらきながら、ラーメンにより一層、魅了される。
ちなみに、この頃、いろんな著名人と交流する。ラーメンデータバンクの取締役会長で、自称日本一ラーメンを食べた男、大崎裕史氏もその1人。また、ラーメン評論家の石神秀幸氏も、一風堂の河原成美氏とも、この時に出会っている。
ラーメンという磁石が、多くのフリークたちを惹きつけたのだろう。

ラーメン愛は、通い合う。

大学卒業後、宮﨑氏は、人材業界の大手企業に就職するが、わずか4ヵ月で退職してしまう。一般企業でラーメン愛を語れないからだろうか。
「そのあと、調布にある個人のラーメン店でお世話になります。あとで河原さんからも怒られるんですが、勉強のために就職したんですが、店主とケンカしてしまって。それで、こちらも4ヵ月です/笑」。
ほかに手はない。宮﨑氏は、「河原さん」という、一風堂の河原成美氏に電話を入れる。六本木で会い、翌日、福岡にいっしょに向かった。
「1週間くらい向こうで寝泊まりさせてもらって、帰りもおなじ飛行機です。その時、『就職させて欲しい』っていうんですが、『いまはだめだ、待て』と。OKがでなかった。3回目で、はじめて『わかった』って」。
翌年、新卒とおなじ枠で採用される。同期は6名。
そのなかで、宮﨑氏はもっとも社長に近かった。いや、会社のなかでも、河原氏と宮﨑氏はちょっと他とは、異なった関係だったかもしれない。互いにラーメン愛が抜きんでている。
「社長との距離っていうのは、だれが決めるんでしょうね。ぼくは、自分から、河原さんに電話を入れました。そうですね。社長と社員だからじゃないかもしれない。どちらかと言うと、ラーメンを愛する者同士の情報共有。そんな具合だった気もします」。
宮﨑氏は、新店や、流行の店を紹介した。2人いると話は尽きない。ラーメンという共通言語がある。「河原さんも、私も、たいていの店は行っているでしょ。だから、話も弾むんです」。
「ええ、最初から独立するつもりだったし、河原さんにも3年と言っていました。ただ、3年経った時に『五行』への異動が決まり、もう少し勉強してみよう、と。で、最終的には本部も2年。結局11年、お世話になりました」。河原氏とはまだ付き合いがある。
「最後は、なかなか辞めさせてもらえなかった」と宮﨑氏はいうが、もちろん円満退職である。
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株式会社らーめんワールド 代表取締役 小林 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社らーめんワールド 代表取締役 小林 健氏登場

本文より~

高校卒業、ボクサーをめざす。

小さい時から何をやっても長つづきしなかったが、中学からはじめた柔道は3年間つづいた。おまけに、ちゃんと練習もしたのだろう。推薦で高校に進学している。
「デカイのが、2人、おなじ部にいて…」と小林氏。
そのおかげで団体では、関東大会にも出場している。とはいえ、小林氏も推薦で高校へ進んでいる。「そうですね。ただ、推薦で入学したんですが、じつは、柔道部には入っていないんです。ま、それが許されるのも、ある意味、特殊な学校だったからかもしれません/笑」。
数年前は、校舎のなかをバイクが駆け回る。そのあとを警官が走って追いかける。
当時、スクールウォーズというTVドラマがあったが、小林氏が進んだ高校は、数年前まではドラマの舞台にそっくりだったそうである。
「警官も来るくらいですからね。1年の時は、10クラスくらいあるんですが、3年になると数クラスしかない。生徒がみんな辞めていっちゃうからです。いまですか? もう、学校はないです」。
そんなスクールウォーズ的な学校で、3年間、もまれた。もっとも、小林氏は校外での仕事がいそがしかったようだ。「回転すしに、宅配便…。高校時代を総括すると、アルバイトです。大学進学は最初から頭になかったですね」。高校卒業後は、本格的にボクシングをはじめる。「高校時代からかじってはいたんです。卒業してからは、パチンコ店でアルバイトをしながら、ジム通いです」。
若いから、怖いもの知らず。格闘技をやっているから尚更だ。
「ある居酒屋で、口論になっちゃって。向こうは、怖い人たちだったようで。こっちは4人、向こうは、団体です。ええ、もうボコボコです。2階から落とされ、顎を砕かれました。おっかなかったですね」。
顎といっしょに心も砕かれた。このままじゃ、やべぇ。

修業時代。


「広告に『月給40万円』ってバーンって書いてあったんです。それで、応募です/笑。19歳です。その会社は当時はまだ8店舗くらいだったでしょうか? 直営も1/2くらいだった。独立制度もまだなかった時代です」。 がむしゃらだった。
「子どもの頃から、これだ!っていうのが何もない。だから…」。
常務が「かわいがってくれた」と小林氏はいう。当時の常務は、小林氏に何をみたんだろうか。ともかく、常務の指導を仰ぎながら、頭角を現していく。六本木や渋谷の立ち上げを次々、任され、実績を残す。ちなみに、プライベートでも20歳で結婚し、26歳の時には住まいも購入している。
「7年目くらいの時に、業務委託制度がスタートして。そうですね、私はその制度の一期生です。個人事業主になりました。当時は給料の保証制度もあって、70万円くらいです」。
独立することになったが、この会社とは「いっしょに進んでいくんだ」と思っていた。オリジナルのラーメン店をオープンしたのも、会社から離れるためではない。むしろ、推奨されていると思っていた。
「ただ、何がどうなったのか/笑」。
9年間、在籍していたが、いきなり首を言い渡された。
「委託されていたお店は、3店舗ともいきなり没収です。だから、私の下に残ったのは、私がオープンした店だけ。私と社員10名をその店だけで養うのは難しい。だから、2号店は早かったですね。7月に首になって完全に独立して、11月には神楽坂に2号店をオープンしています」。ともかく、出店するしかなかったが、こちらが爆発する。
「日商50万円」と小林氏。月商は、1000万円を軽くオーバー。独立前までは、いい時で200万円だったが、それ以上の額が、小林氏にも転がり込む。
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株式会社寿幸 代表取締役社長 田中寿幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社寿幸 代表取締役社長 田中寿幸氏登場
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名古屋、大阪、修業の旅?

今回、ご登場いただいた株式会社寿幸の田中氏は、1977年、福井県越前市越廼村に生まれている。以来、この村は、田中氏を育みつづける。村を離れるのに、父親は大反対されたようだが、もともと都会生まれの母親が賛成してくれたらしい。それで、24歳にして、初めて福井県から外に出る。
最初に向かったのは、母親も暮らしたことがある名古屋市。
「大須観音のちかくに住んで、たこ焼きのお店ではたらきました。その店で1年やった頃、やるなら、本場で、と今度は、大阪に向かいました」。
福井の漁師町から比べたら、名古屋も異様な世界だったが、梅田に初めて行った時には「何かの大きな祭りか?」と思ったそう。平日の話である。
「大阪では、鉄板焼のお店に就職しました。包丁を持ったことがなかったし、料理を学びたかったからです。でも、その店にいたのは、まさかの1ヵ月で、くびになりました/笑」。
「ただ、いまになれば負け惜しみでもなんでもなく、なにか運命みたいなものも感じています。というのも、次の店で、うちの今の、スタイルのもととなるヒントをつかむわけですから。クビにならなかったら、今の創作串はなかったかもしれません」。
たしかに、人生はわからない。
わからないといえば、田中氏の行動もなかなか理解できない。
「そうですよね。だって、私は、結局、何も修業してないで独立したわけですから」と田中氏も同調する。「2軒目の店には、1年間、いたにはいたんですが、最後まで洗い場。でもね、洗い場からずっと観ていたんです。『○○のタイミングで、塩をふるんだな』みたいな、ね。それを忘れずノートに写します。1年でしょ。ページは何ページも埋まります」。
いうならば、これが田中氏の修業。
「洗い場と調理場は、少し離れていたんですが、オレ、めっちゃ目がいいんです。だから、全部覚えられた/笑」。どうやら、そうそう真似ができる方法ではないらしい。むろん、独立に際しては、料理をアレンジした。「漁師町は味が濃いんです。だから、うちのは少し味が濃いです。ほかと比べれば」と田中氏は語っている。

席数売上、飲食店日本一。

4坪9席からスタートした、と田中氏は、創業店の話を語りだす。前オーナーから譲り受けた店だったが、家賃は坪9万円と大阪ミナミでも高いほうだったらしい。
「そういう相場も、断然知らないでしょ。まぁ、そんなもんか、と。設備があるからラッキーくらいに思っていました」。
9席。9人で満席。坪で割れば、1坪2人ちょっと。客単価3000円だとすれば、2人×3000円×3回転で1日1万8000円。30日なら54万円になる。坪売上が54万円なら、悪くない。
「でも、お客様がいらっしゃれば、の話でしょ/笑」。
外も内も同じだから、だれも、経営者がかわったと気づかない。もともと、赤字で、前オーナーが撤退した店だ。好転するきっかけもないまま、時が過ぎる。
「ノウハウもなにもないわけです」。ぜんぶが、ゼロベース。「お客様ゼロ、知りあいゼロ、戦略もゼロ/笑」。ただ、それでも一つだけ、方法があった。
「お客さんが来るまで、店を閉めない/笑」。
ずっと待った。ひたすら待った。
「そんなの戦略でもなんでもないでしょ。でも、朝5時くらいかな。ほかの店が閉まりだすと、行き場をなくした人たちが『ここでもええか』みたいな感じで、来られるようになって。そりゃ、エンジン全開です」。
小学校の先生から一つだけほめられたことがある。
「田中くんは、面白いね」。
「そう、ほめられたのは、それだけです。お笑いの街でも負けません。私のトークは、全身全霊です」。
トークとサービスに惹かれるように、だんだんと通常の時間帯にもお客様が来るようになる、気づくと、連日、満席になっていた。
「250万円くらいですね。それで、いったん頭を打ちます。ふつうならそれで充分なんでしょうが、私は常識を知らないから、もっと行くぞって。どうすればいい? なにがあればいい? と。それで、料理だと思って。今度は、そちらにかけ、トークとサービスと旨い料理です」。
すると、月商は100万円アップし、4坪で350万円を叩きだすようになる。
「このあと2号店というか、いまの本店ですが、こちらで『席数売上、飲食店日本一』となるんですが、1号店のほうも、いま思えば、坪売上は、相当な数字ですね」。
ちなみに、2号店であり、現在の本店が叩き出した月商は、1850万円。1号店とおなじミナミの、ビルの奥まったロケーションで13坪、席数24席。坪で計算すれば、ひと坪142万円にもなる。
日本一だから、当然だが、快挙だ。
「福井の田舎からでてきて、ようやくですが、ひと息ついたのが、この頃」といいながら、まだまだ田中氏の目は未来を見つめている。最後にそんな話を一つ。
・・・続き
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2019年7月2日火曜日

夕刊フジ「飲食FCで第2の人生」No.2クールは飲食FC本部構築コンサルの田中司朗先生に・・・。

夕刊フジの新連載「飲食FC(フランチャイズ)で第2の人生」が5月17日(金)よりスタートしましたが、
6月7日、14日、21日の3連載で田中司朗先生にFC(フランチャイズ)本部コンサルの立場から語っていただきました。
zakzakにも同時掲載しています。→こちら
(No.1)
(No.2)
(No.3)
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2019年6月28日金曜日

6月26日、青山学院大学の堀内ゼミの講義はキリンシティの江田社長でした。

6月26日、青山学院大学の堀内ゼミの講義はキリンシティの江田社長でした。
江田社長は青山学院中等部からの青山学院大学OBで学生にわかりやすく講義していただきました。
青山学院大学の堀内ゼミ、2019年度飲食経営者による講義、残すはあと後期に2回となりました。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

ファンくる・パートナー感謝祭に江川と招いて頂きました。

昨日27日、ROI様主催のファンくる・パートナー感謝祭にお招きいただきました。
益子社長の配慮でご挨拶させて頂き、多くのご縁頂きました。
企業様のため、またパートナー企業様のため、すごくきめ細かい点は見習わなければ・・・。 

弊社は、ファンくるの活用として離職を少しでも減らせるよう定着面での活用をとお客様に話しさせてもらっています。
昔と違い少子化の今は親や先生から怒られ慣れしてないので、厳しくするとすぐ辞めますってなりますからね。
(パートナー感謝祭にて)
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2019年6月26日水曜日

株式会社ドリームダブルコーポレーション 代表取締役社長 小林貴志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ドリームダブルコーポレーション 代表取締役社長 小林貴志氏登場
本文より~

勉強熱心な小学生、中学受験する。

小林氏が物心ついた時には、ご両親は新橋や浅草、茅場町で喫茶店を経営されていたそう。そのあと足立区に引っ越し、居酒屋を営まれるようになる。
小学生の頃のことを聞くと、「明るくて、やんちゃだった」と笑う。もっとも、思い出すのは勉強のシーンばかり。受験勉強のことである。
「獨協大学の付属中学に進みます。子どもの頃は勉強ばかりだったんですが、さすがに、だんだんと勉強しなくなって。大学の頃は、もうまったくしなかった。大学は、帝京です。もう少し上を狙っていたんですが、勉強しなかったんだから、ま、当然といえば当然ですね/笑」。
中・高は硬式テニス漬けだった。大会にも出場し、それなりの成績も残した。「特別な目標はなかったです。とにかく、中・高の6年間はひたすらテニスです」。
周りは超がつく金持ちの子息。びっくりするくらいだった、と笑う。
「なかには、経営者の子もいましたが、すごいなと思うだけで、特段刺激されなかったですね。大学からは勉強そっちのけで、サーフィンばかりしていました」。
サーフィンはいまもつづけている。週イチ。365日、オールシーズン、とのことだ。

起業するなら「プロント」がいい。

大学卒業後は、スポーツ会社に就職したが、25歳で退職し、起業に舵を切る。経営者の父親をみてきたことも背景にはあるが、正確には「サラリーマンは窮屈でしかたない」が動機である。
「父親の影響も多少なりとも受けていたんだと思います。私が、起業のために選択したのも、父同様、飲食。なかでも、興味があったのがプロントです」。
プロントは、いうまでもないが、株式会社プロントコーポレーションが経営するCAFF&BARだ。都市型店舗が多い。「プロントのFCなら、CAFEとBARの両方を勉強できると思ったんです。でも、そもそも個人なんて相手にしてくれません/笑」。
それがわかっていても、あきらめない。「2年間くらい、本部でアルバイトをしました。それもあって、FCにはOKがでたんですが、プロントって投資額がハンパないんです。私の時も開業資金6000万円です」。
たしかに、個人を相手にしない理由もわからなくない。
「私が個人で500~600万円。それ以外は親からですね。うちも担保に入れたし…」。
悪い表現をすると、親を頼ったとなるが、そのぶん、背負ったものは小さくなかった。小林氏28歳。念願のプロントがオープンする。

FCで得た経験をもとに、オリジナルブランド開始。


「プロントは、CAFEとBARの、二毛作です。一つの店で、二つの業態を経験できる。私が、いちばん惹かれたのはそこです。もちろん、飯田橋に1号店を出店した時はさすがに苦戦もしましたが、なんとか頑張って、2店舗目を出店できるくらいにまでなります。そして、2店舗目が春日部に出店した『とり鉄』です。こちらもご存知のようにFCです。『とり鉄』は最初からいい具合にヒットします」。
「とり鉄」は投資額も、プロントの1/3くらいで済んだから、そのぶん、回収にも時間がかからなかった。ふたつのFCを軌道に乗せることで、小林氏の自信も、評価も高まる。
「そのあとも『九州熱中屋』など、FCを出店し、それから、オリジナルブランドを出店します。今年9月にも11店舗目を出店する予定の『ラッツ ダイニング』もオリジナルブランドの一つです」。
FCで得たノウハウを移植する。もともと、「FCだから、儲かるだろう」ではじめたわけではない。いい意味で、ノウハウを盗む覚悟があったから、実ったオリジナルである。
・・・・・続き
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2019年6月25日火曜日

有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ネットタワー 代表取締役 江野俊銘氏登場
本文より~

オモチャがつなぐ縁。

「小学校に上がる頃まで、ぼくだけ、おばあさんといっしょに台北で暮らしていました」と江野氏。江野氏は、4人兄弟の次男。「兄1人、弟2人。小さな頃の思い出ですか? そうですね。叔母がくれたおみやげを友人に売ったことがあるんです。それも、高値で/笑」。
叔母さんが買ってきてくれたのは、日本のオモチャ。
「ええ、叔母さんにバレたら怒られると思っていたんですが、逆に『商才がある』って褒めてくれたんです。そんなことがあってからですね。日本を意識するようになったのは…」。
日本製のオモチャを欲しがる子どもたちをみて、江野氏は、はじめて日本という国を意識する。むろん、この頃はまだ、日本で暮らすとはまったく思ってもいなかった。
「私は、小学校から卓球を始め、中学、高校と卓球をつづけます。高校では強豪校に進んで寮に入り、卓球をつづけます。あ、でも、特別、巧かったわけではないんです/笑」。
江野氏は、そう言ってけん遜するが、団体戦で全国2位にもなったこともあるというから、相当な実力だ。韓国や日本で行われた親善試合にも出場している。
「そうですね。親善試合がきっかけだったわけじゃありませんが、たしかに、この頃から留学を意識するようになりました」。オモチャの縁が、改めて日本と江野氏をつなぎはじめた証だろう。

来日と、だまし取られた900万円と。


江野氏が来日したのは、1994年10月。
「日本で暮らしていた叔母さんを頼って」と江野氏。なんでも、来日したその日からバイトをはじめたそい。「日本では大学に進学し、情報学科を専攻します」。
ちょうどウインドウズ95がリリースされる頃。いろんなネットビジネスがスタートする。商才のある若者は、その波に群がった。江野氏も、その1人だった。
「大学4年の時にネットビジネスで起業しようと思って会社を立ち上げるんです。ハイ、それがいまのうち『ネットタワー』です」。
「ネットタワー」。飲食にしてはめずらしい社名と思っていたが、それを聞いて納得した。「だけど、どういうわけか…。ボタンの掛け違いで、飲食の世界に進むことになるんです/笑」。
知り合いの華僑から「いっしょにビジネスをしないか」と誘われた。それが「タピオカ」との出合い。「最初は、タピオカの輸入などを考えていたんですが、華僑が経営していたのは神田にある東南アジアの料理店です。私はそちらで仕事を始めるんですが、『いっしょにしよう』と言ったタピオカのビジネスはぜんぜん前に進みません」
それどころか、いつのまにか店長に格上げされ、店を切り盛りするようになっていた。「ネットのビジネスの種がみつかればいいやって思っていたんですが、私も店が忙しくて、それどころじゃない。そうこうしているうちに3年くらいが過ぎ、オーナーが店を売却するといいだしたんです」。
「それで、飲食事業をスタートしたんですか?」と江野氏にたずねると、苦笑いしながら首をふる。
「私も店長をやっていましたから、愛着がありました。コックさんも私が連れてきましたから、店を閉めるのは忍びない。だから、『売却するなら、私に譲ってくれ』と、オーナーに交渉するんです」。
この時、江野氏は、オーナーに900万円を支払っている。
「でもね。だまされたんです。私だけじゃなく、いろんな会社とも契約していて。『だまされた』と気づいた時は、後の祭り。なんとか500万円はとりもどしましたが、残りは仕方ありません」。
それで、飲食にも進めなくなったわけだ。八方ふさがり。
さらに、つづきがある。
「それで、初心に帰ろうと『タピオカ』の輸入を計画します。でも、防腐剤の問題で輸入できません。どうしようか。その時『だったら、日本でつくれればいい』って思いついたんです」。
幸いというか、まだ400万円を貸したままのオーナーが工場を持っていた。「それで、一部をただで貸してもらって、タピオカの生産を開始します。ただ、生産が軌道に乗る前に、今度はオーナーはいなくなった。そして、あっちの人たちが『金を返せ』と押しかけてきました」。
「なんなんだ日本って国は…」。そう思ったんじゃないだろうか。
しかし、江野氏はまだへこたれない。
・・・続き
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