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2013年9月30日月曜日

武蔵大学の海老原ゼミにて若月氏に講演して頂きました。

先日9月27日(金)、スイートスタイル(麻布十番モンタボー、元町珈琲)の前社長(8月退任)の若月光博氏に、武蔵大学海老原ゼミにて講義して頂きました。
今回、初めて武蔵大学にて講義の機会を頂きましたが、生徒の皆さんも大変熱心なんでビックリしました。
若月前スイートスタイル社長、海老原崇先生、ならびにキッカケを頂いた武蔵大学名誉教授の一樂先生に感謝申し上げます。
 (海老原ゼミにて)
 (元銀行出身の若月氏だけあってゼミ生も関心が高い)
 (前スイートスタイル社長 若月光博氏)
 (皆さん熱心なのにビックリしました)
(学生からの質問も多く出てました)
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2013年8月9日金曜日

今年もやります!!

in-職hyper (フードビジネスに特化した就職情報マガジン)
昨年に次いで、今年も第2回目の“調理師会場・求人冊子配布企画”を実施します!!
(表紙デザイン)
 
少しずつではありますがコツコツと継続することでよくなっている。
24日(土)、社員全員で冊子配布します。


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2013年7月2日火曜日

有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。
本文より~

「一風堂」VS「ちばき屋」

「一風堂の河原を破るのは、ちばき屋の千葉しかいない」。そんな前評判のなか、千葉は最後の対決を迎えた。むろん、決勝戦。前評判通り、ここまで勝ち残ったのは「一風堂」の河原氏と千葉だった。
「いいわけはいいたかねぇんだけど、あの時、熱があったんだよな。39度も」と千葉は対決の時を振り返る。熱はあっても、料理人の矜持。苦しいそぶりもみせない。「ディレクターがさ、和食の料理人というのを出したかったんだろうな。そういうのがあったからオレは、鯛でだしをとったラーメンで勝負したんだ。負けねぇと思っていたんだけど、審査員の中尾彬さんが、『これラーメンって呼べるのかね』って。あの一言で勝負が決まっちまった。2対1でオレの負け(笑)」。
負けても相手が河原氏だから、許せた。
「そのあと河原さんから、食事でもって誘われたんだ。気が合ったね。あの男はさ、俺より一つ下なんだけど、もう何軒も店を持っていたわけよ。でもね。ぜんぜん、そんな話はしないの。するのは一杯のラーメンについて。いい男だな、と思ったね。」。
その対決からもう何年も経つ。だが、2人の関係はいまだ続いている。互いを意識しつつ、互いをリスペクトしている。
「向こうに比べたらうちは店の数もぜんぜんだろ。なのに、千葉ちゃんなんて言ってくれるんです」。
この事実が「千葉憲二」という男を物語っている。名声も、地位も、富も、一杯のラーメンには敵わないことも。

7歳の時に父が他界。

千葉が生まれたのは、宮城県の気仙沼。父は、水産関係の仲買卸をしていた。千葉は4人兄弟の末っ子で、父から兄姉たちが嫉妬するほど可愛がられた。「いちばんオレと一緒にいるのが少ないのが、憲二だから」というのが父の言い分だった。
「もともとうちの父は、満州鉄道で職業野球の選手だったんですよ。戦後、プロ野球が生まれた時には、プロ野球選手にという話もあったそうなんですが、祖父のあとをつがなきゃいけないんで、泣く泣くだと思いますが、プロは断念したみたいなんです」。
「そういう時代だった」とも千葉。そんな父とはキャッチボールも楽しんだ。旅行にも連れられた。
「母に『ちょっと行ってくる』と言って列車に乗り、何時間もかけて早慶戦を観に行ったこともあるし、旅館で芸者にダッコされていた気もする。オレの父はいい男だったんだ。映画俳優みたいだったもの。まぁ、芸者さんにももてたんじゃねぇかな(笑)」。
そんな最愛の父が7歳の時になくなった。
それでも、7歳までの記憶が焼付いている。その記憶が千葉の生きかたを決めてきた気がする。
「父がいなくなっても母が会社を切り盛りし、オレたち兄姉は路頭に迷うことなく、育てられた。でも、母一人でしょ。がんばる母をみて、オレもがんばらなきゃ、って何べんも思ったね」。・・・・続き

2013年6月18日火曜日

株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にらーめん専門店いちや”の株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏登場。
本文より~

父と子と。

父親が、尋常ではなく厳しかった。小学校時代、父親がコーチをしている野球チームの試合に土田のエラーが原因で負けると息子の土田はもちろんチームメイト全員を殴ったそうである。男気がありすぎたとも言えるが、父の陰で息子の土田は小さくなるほかなかった。
土田自身も、喧嘩っぱやい。問題も起こしている。悪いことはたいていやった。中学時代には既に400ccの単車をころがし暴走族にも入っていた。
それでもあれほど厳しかった父親は学校にも行かず、行けば先生を殴って問題を起こす少年に一言も文句を言わなかった。「ある時、改造バイクを家に止めていたら、親父が近寄ってきて鍵を貸せと。そんなに楽しいのかと一言いうとそのままステテコ姿、足元は裸足に雪駄のまんま爆音を響かせ乗っていくんです。あの時は、凄いなと初めて尊敬しました(笑)」。親父と息子、血筋は争えない。しかし、土田には反面教師といえる父親がいたことが幸いした。

不良というレッテル。

土田が生まれたのは、1967年。福井市出身である。3つ違いの兄がいる。家庭のなかでは父親は絶対的な存在で、子どもたちは父の機嫌をうかがいながら暮らしていたそうだ。元々口数の少ない父親は母親はもちろん私達子供にも容赦なく鉄拳を振り下ろした。もちろん自分が気に入らなければ近所の人間であれ親戚であれ同じで彼を止められる人間は誰もいなかった。小学5年生に上がるまで殆ど父親と口を聞く事がなく時折話さなければの時は常に敬語を使っていたというから驚かされる。
もともと幼少期は大人しいタイプだったが、野球をやるようになってから「活発さ」が出てきたようだ。ただ、野球では、辛い思い出もある。
「小学生時代福井市の大会でした。開会式の入場行進でぼく独りだけ体操服だったんです。そのとき父は欲しいのなら自分で働いて買えと。まだ小学生の子供にですよ?母や祖母にすがって泣いたのを覚えています。しかしいくら泣いても父が言う事が絶対の家でしたから・・。しょうがなくユニフォームが欲しくて新聞配達を始めるんです」。
「中2ぐらいからは、野球もおざなりになりいわゆる非行の道に走るんですね。(笑)今度は僕が手を付けられなくなるんです」。
タバコ、シンナーは当たり前、喧嘩もカツアゲもした。中3の時には既にでバイクや車に乗っていた。悪いと思うことは率先してやったという。きっと父親への逆襲だったのだろう。16、7歳になると父親と同じ背格好になり、やれば勝てる気がしていたが父親に手を上げた事だけはないという。「何故か自分の中の絶対が壊れるのが嫌だったんでしょうね(笑)」近所でも学校でもどんどん不良というレッテルが貼られる。貼られれば貼られるだけ悪い気はしなかった。俺はここに存在している、そして表現しているような錯覚に酔っていたのかもしれない。・・・・続く

株式会社アールズカンパニー&有限会社アールズダイニング 代表取締役社長 土田良治氏
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四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏登場。
本文より~

喘息と料理。

井桁は、1971年、千葉市で生まれる。高度成長時代の波に乗り、日本経済が世界を意識するようになった頃である。父は鉄工所に通うサラリーマン。母は、洋裁を仕事にしていた。2つ上の姉を合わせ、4人家族。小さな頃から料理番組が好きで「オイスターソースって?」と、調味料を知りたがる少年だったそうだ。
料理を作るのも好きで、小学4年生の文集には「野球選手かコック」と綴っている。実際、父や姉が何か食べたいといえば、井桁は喜んで鍋を使い、フライパンをふった。ただ、できるメニューはチャーハンか、インスタントラーメン。それでも、お客さんたちは「旨い」「旨い」と、我が家のシェフをほめたたえた。
この井桁家の小さなシェフは、当時、喘息を患っていた。一度、咳が出始めると朝まで止まらない。そんな夜も何度かあった。
「喘息とは長い付き合いですね。中学2年生ぐらいまで続きました。おまけにぼくは目が弱いんです。小学4年の検診で判ったんですが、左目が0.04。矯正しても治らないんです」。
喘息と、弱視というのだろうか、2つの病を抱えた少年。そんな少年がふるまう料理が、家族にとってまずいはずはないだろう。

ひたすら走って、走って。

「将来は、野球選手」といっているぐらいだから、からだを動かすことはキライではなかった。ただ、激しい運動はできない。それにもかかわらず中学生に上がった井桁は、自らのからだに挑戦するかのように陸上部に入部する。種目が長距離というのだから尚更、驚かされる。しかも、千葉でも有名な陸上が強い中学校だった。
「部は強かったんです。ぼくは弱かったけど」。井桁はあっさりそういう。それはそうだろう。喘息を抱え、走るのだ。
「辛くて、辛くてしかたなかった」とも。それでも井桁は駆け、そしてからだの弱さを克服していく。
「監督がとてもいい先生だったんです。市大会で記録を残されている先生でした。毎日、日記をつけ、先生と交換していました。ぼくが3年間続けられたのは、この先生のおかげです」。
「もっともぼくだけ特別扱いではありません。練習はおなじメニューです。週に100キロが基本で、休みの日以外で80キロしか走っていなかったら、1日で残りの20キロを走らなくてはならないんです。そういう辛い毎日でしたが、3年間続けられたのが、自信にも、財産にもなった気がします」。
3年かけ、駆け抜けたゴールには、「自信」という文字が刻まれていた。

四川料理の株式会社飄香(ピャオシャン) 代表取締役 井桁良樹氏
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2013年6月11日火曜日

“ラーメン大”の株式会社フューチャーファクトリー 清水照久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“ラーメン大”の株式会社フューチャーファクトリー 清水照久氏登場。
本文より~

少年、清水がみた魔法使いたち。

清水が生まれたのは1961年。戦後の復興の足音が高らかに響き渡る頃だ。といっても、清水が生まれたのは鳥取県。父親の転勤、転職に伴い広島や島根にも住むことになる。
料理人、清水の原点は母方の実家にある。「母親の実家は何百年も続く、老舗の旅館だったんです。小学生になってまとまった休みが取れるようになると、その度に泊まっていました。当時の楽しみがその旅館の『厨房』だったんです。板前さんたちの凛とした立ち振る舞いはもちろんのことですが、子どもの私には、彼らが魔法使いのように思えました。野菜や魚が、みたこともないうつくしい姿に生まれかわるのですから」。
少年清水は、料理が出来上がるたびに目を丸くした。これが、料理人清水の原風景ともいえるものだ。

3メートル超のそら高く。

父母からは「勉強しろ」とよく言われたが、勉強は得意な方ではなかった。代わりに運動は、群を抜いていた。
「勉強はしないから、得意になるわけもないですよね。でもね。スポーツは好きで、そこそこの成績をおさめました。中学から始めた棒高跳びでは、市大会で優勝しています。もっとも県では3位。記録は3メートル20センチでした」。
3メートル20センチ。想像してみて、うえをみあげた。ビルでいえば、2階まで軽々、届くような高さである。
「もともとは水泳部に入ったんです。でもある日、陸上部の選手が棒高跳びの練習をしているのをみてやってみたくなったんです」。
「棒高跳びは、ジャンプ力があればいいという単純なスポーツではありません。助走のスピードがあればいいというわけでもないんです。当時からグラスファイバーを使っていましたが、あの棒がしなって、そら高くほうり上げてくれる、そのタイミングが難しいんですね」。その難しさにハマったのだろうか。
空中高く舞い上がる、たしかに気持ち良さそうだ。・・・続く

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2012年8月19日日曜日

地道にコツコツ求人冊子配布。手応えも十分あり!!

本日18日(土)、埼玉県、東京都3会場の計4会場にて調理師試験があり会場にて求人冊子『in-職hyper 飲食経験者版 8月特別号』を土曜出社し皆で手渡しの配布しました。


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(東京都の調理師試験会場は計3会場で同時開催)
 調理師企画2 調理師企画1
(ちゃんと手に取りしっかり見てもらってる方が多かったです)
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(最新の“飲食の戦士たち”の記事も掲載)(東京誠心調理師専門学校内)


7月8日に神奈川県の調理師試験会場を皮切りに、千葉県の調理師試験会場、そして今回で完結した第一回目のこの企画は社員が企画を考え、皆で営業促進活動し、冊子も1社・1社の原稿から冊子の面付けから印刷工程全て最後までやってくれました。


自分で言うのもなんですが、社員もなかなかやってくれるじゃん、たいしたもんだ!!


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(やはり若い方も多いです)
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(東京都調理師試験会場にて配布中)


 チラシ配布3__ 独協大にて1


独協大 門
(埼玉県調理師試験会場の独協大学にて)


キイストンは、この10月22日で丸20年になりますが、常に新しいことにトライしてます。


片手間で求人やってる会社やお客様無視で己のことだけの会社には負けられない。


やはり1つ1つコツコツと継続することと常に新しいことにチャレンジする気持ちは何年経っても失ってはいけない。


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戦略型総合人材採用サービス会社
キイストン