“飲食の戦士たち”で 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏を取り上げました。
日本ロケ弁大賞、3年連続金賞受賞。
一つのお弁当のなかに主役級が並んでいる。若鶏のチキン南蛮、肉じゃが、高菜明太、玉子焼き。塚田農場こだわり卵「塚だま」をたっぷり使った特製タルタルソースは隠れた主人公だ。
芸能界のなかにも「塚田農場おべんとラボ」のお弁当のファンは多い。日本ロケ弁大賞では3年連続金賞を受賞している。
「今では塚田農場イコール『居酒屋』ではなく『弁当』という人も少なくないんです」といって白い歯をみせるのは、エー・ピーカンパニー(現:エー・ピーホールディングス)の子会社で、弁当事業を展開している「塚田農場プラス」の代表、森尾さんだ。 森尾さんは、1976年、奈良県の大和郡山市に生まれている。2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台の一つとなる市である。
今回は、そんな大和郡山市の話から。
中学受験と、東京と。
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、弟秀長の居城と言われているのが奈良県大和郡山市にある郡山城だ。2026年6月現在、城近くの「やまと郡山城ホール」には、「大河ドラマ館」もオープンして、にぎわいをみせている。
お城と金魚が有名な大和郡山市。
森尾さんは3人兄弟の長男で、父は市役所の職員だった。もっとも市役所の職員といっても、一般的なイメージとはちがっていたそうで。
「授業参観だったか、球技大会だったか。赤いポロシャツで、パンチパーマ、ブレスレットにサングラスで学校に現れたときは汗がでた」と笑う。
野球が好きで、食にうるさかった。
「外食は、専門店と決まっていた」と森尾さん。
もう一つ、うるさかったのが、教育。教育熱心だからだろう。ときにはパンチが飛んできたそうだ。
「中学受験も父の指令です。勉強しまくって、国立の共学校である『奈良女子大学附属中学校』に進学します」。
生徒は全員、附属の高校に進む。「進学率は高くて、国立に進む生徒も多いんですが、私は東京の私立大学に進学しました」。
一つは指定校推薦で入学できたこと。もう一つは「親元を離れ、東京に行きたかったから」。
「ちょっといろいろあって、高校時代に1年間親戚の家で暮らしていたんです。それも親元を離れて一人暮らしをしたいと思うきっかけだった気がします」。
バイト三昧と、中退と、アパレル会社と。
東京へ向かった森尾さん。<学生生活はいかがでした?>とたずねると、「結論からいうと」と切り出す。
結論からいうと「卒業していない」らしい。
「レストランやカラオケなど、とにかくアルバイトが中心だった」と森尾さん。「夕方からレストランではたらいて、深夜から朝までカラオケでバイト。学校に行く気力は残っていなかった」と苦笑する。
「服好きだったから、大学を辞めてから、外資系のアパレル会社に就職しました」。
就職といってもアルバイトでスタート。ただ、3ヶ月程度で社員昇格を果たす。異例のことで「今も記録保持者かも」と笑う。
「社員にもすぐになれましたし、評価もいただいていたんで楽しかったんですが、中途入社組のキャリアは、いくら評価されてもストアマネージャー止まり。それがわかってテンションが下がったとき、タイミングよく先輩が『独立するから一緒にやらないか』と声をかけてくれたんです」。
福島県の郡山へ、そして、ふたたび東京へ。
今度は、福島県の郡山市へ行く。「郡山で、アンティークなカフェをオープンしたんです。3人でスタートするんですが全員、未経験で、けっきょく空中分解してしまいます」。
サービスのイロハも、F/Lコストもみんなわかってなかった。数ヶ月経つと、給料が支給されるかどうかもわからなくなった。
「それで『オレは東京に帰る』っていうんです。初めての挫折です。でも、感謝はしているんです。挫折はしましたが、飲食が好きになったし、社会人としてゼロから出直しだと、はじめて心を決めることができたんです」。
「飲食×社会人やりなおし計画」が始動する。求人誌をひらいて目にとまった会社があった。「リンク・ワン」だった。
原価…ショウキャク?
「外食産業向けの人材派遣やコンサルティングを行っていた会社です」。
当時は急成長の真っ只中だったそう。
「採用した人材を『プロ店長』に育て、派遣する。絶好調だったから、週に5~10人は採用していたんじゃないかな。当時は、『銀のさら』が絶好調で、私も最初は『銀のさら』だったんです」。
「でも、免許がないとバイクに乗れないでしょ。それじゃ、宅配の『銀のさら』ではだめだってことになって」。
関西で『牛角』を支援する事業がスタートするタイミングだったので、『じゃぁ、森尾はそっちだ』と」。
「そんなわけで、福島の郡山から東京にもどって2週間で、大阪です」。
森尾さんは、関西にできた研修センターで「プロ店長」を育成するトレーナーの仕事を開始する。
「今でも笑えない」といって、当時の様子を語ってくれた。
「トレーナーとか、コンサルなんですが、じつは『げんかしょうきゃく』がわからなかった。漢字もわからない(笑)。でね。『原価』って書いて、ちょっと止まって『ショウキャク』ってカタカナで」。
ノートに書かれた文字をみて、当時の上司に真顔で心配された。
郡山で頭を打ったが、それでもオレはできると心のどこかで思っていた。しかし、レベルが一つあがると、ほんとになにもできなかった。
「何も知らないし、何もできない。コンサルの相手はオーナーでしょ。人生経験で敵うわけありません。それに、周りに、そりゃぁ雲の上のような優秀な人がたくさんいて」。
<それでも前に進めたのはなぜ?>と聞くと、「猛烈な危機感」と森尾さんはいう。ビジネス書にかじりついた。F/Lコスト、P/L、利益計算、減価償却…先輩たちが会議で語っていた専門用語が、だんだんとわかるようになる。
「あの時があったから、今がある」と森尾さんは隠さずいう。のちに牛角を展開するチームの責任者になり、リンク・ワンは4年在職。その後、当時の役員の独立に伴って転職。そこでも同じ仕事をしていたので合計9年、コンサルの仕事をしていたことになる。
エー・ピーホールディングスへ。
「コンサルの仕事は、やりがいがありましたが、その一方で、オーナーさんの喜ぶ姿や、数多くの素敵なお店をみてきたからでしょうね。支援だけじゃもの足りなくなって」。
コンサルから、実業へ。森尾さんは舵を切った。
「最初は知人の紹介で、業務委託からのスタートです。業績は悪くなかったんですが、オーナーと意見が食い違うようになって。それで、つぎに就職したのが」。
<エー・ピーホールディングスですね?>
「そう。勉強のつもりだったので、じつはもう少しスケールの小さな会社がいいと思っていたんですが」。
エー・ピーホールディングスの「生販直結」のビジネスモデル、独自のビジョンに惹かれて転職したそうだ。
「みなさんご存知と思いますが、米山久社長(現株式会社エー・ピーホールディングスの代表取締役会長 兼 社長)の片腕といっていい、大久保伸隆さん(現株式会社ミナデイン代表)という方がいらして。私は大久保さんをサポートするチームで主に人事系の仕事を担当します」。一度に100名以上採用したこともあったそう。
転職して1年後、エー・ピーホールディングスは上場を果たし、メインブランドの「塚田農場」はブームとなり、テレビにも何度も取り上げられた。
「居酒屋のバイトが就職に役立つ」という切り口を設けたのも塚田農場だった気がする。
「パッションもあったし、ピュアだったし。私は採用だけじゃなく教育、マネジメントまで担当していましたので、それはやりがいがありました」。
「でも」と言って森尾さんは続ける。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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