2026年9月29日火曜日

青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏登場。

“飲食の戦士たち”で青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏を取り上げました。

本文より~

アルキメデスと、ソフトテニスと、東北大学。

今回ご登場いただいたのは、青木フルーツ株式会社の青木会長。1947年生まれ。ご実家は福島県郡山市。創業は1924年(大正13年)。初代から数えて3代目。なんでも、青木家60年ぶりの男子だったそう。
会長に言わせると、「中学生になるまで一貫して引っ込み思案だった」とのこと。
―――意外ですねというと、「アルキメデスのおかげ」と笑う。
聞けば、小学6年生の時「アルキメデスの原理」をすぐに理解できたことで、先生にかわいがってもらい自信がついたそう。
「もう一つ勲章のような話をするとね。高校生でソフトテニスをはじめて3年生の時にインターハイに出場しているんです」。
 結果は惜しくも、3回戦敗退。でも、勲章はそのあとの話。
「高校から始めてインターハイに出場できたんですから、それで十分なんですが悔しくて、納得できない。だから、受験もあったし、ふつうはその大会で引退するんですが、私は勉強もそっちのけで、10月10日開催の次の大会をめざします」。
―――結果はいかがでしたか?
「今度は、最後までコートに立っていた」とニコッと笑われた。
「ただ、優勝したのは喝采ものなんですが、気づいた時には大学受験がもうそこで(笑)」。
戦略を練り、勉強方法、今風にいえば独自のメソッドをつくり、難関大学の受験を突破。目標だった東北大学の経済学部に進学する。
「おそらくですが今まで経済学部に進んだ先輩はいなかったのに、私が合格した翌年からはつぎつぎと受験するんです。たぶん『あいつが受かったんだから、案外ハードルが低いんじゃないか』って。先生たちが、そう思い始めたんでしょうね」。
そう言ってこちらを笑わせてくれる。
―――いい指標になったってわけですね、というと、会長は「そうそう」と言って大笑いされた。

昭和43年。1ドル360円時代の世界一周。

世界一周の旅にでたのは、大学3年生の11月。
「当時はドル/円が360円。外貨持ち出しは500ドル=18万円まで。シベリア鉄道で北欧に行って、それから南下。エジプトからスペインのマドリード。アメリカには大西洋を渡ってニューヨークでしょ。そして、西海岸からハワイに寄って帰国です」。
「これはね。岡崎って、ちょっとかわった奴がいて、そいつと途中までいっしょだったんですが、途中で別れて。お金がないから宿泊はユースホステルや夜行列車です。そうそう、ローマのテルミニ駅でその岡崎と待ち合わせをしていたんですが来なくて、その旨を日本への手紙に書いたら、心配した母親によって行方不明騒ぎが起きたこともありました。バルセロナの近郊じゃ、不審な2人組にホテルに連れて行かれて。机3台でドアを押さえて一夜を過ごした。北欧のおばさんは親切だった(笑)」。
―――当時、アメリカやヨーロッパは、今よりずっと遠かったんじゃないですか?
「そうだけど、行くか行かないかは、今もいっしょ。出発前の準備なんて、英語学校に2週間行っただけ」。
文字通り世界一周。異文化や異邦人との交流。東洋の小さな島国は、まだ世界に知られていなかった頃の話である。
その頃、青木フルーツも、大きな冒険を開始する。
「私が大学を卒業する1970年。万博があった年です。父が新しく整備された郡山市中央卸売市場に入場を決断するんです。青果卸業への挑戦です。フルーツショップを開業したのは祖父で、父は2代目。勤勉で、実直な人でした」。
初代のお祖父様は、郡山駅前・柳町商店街の会長として尽力された方で、東北初の天蓋式アーケードの建設計画を主導された方だったそうである。
さて、その青木フルーツと3代目の会長の話のつづき。

バナナと、担当スーパーと。

大学を卒業した会長は、業界では有名な『水信』に就職し、修行を開始する。水信は、1915年創業、横浜の老舗果物店であり、伝統あるバナナ加工卸売業者だ。
「ちょうど関西で勢いをつけていたスーパーマーケットが関東に進出してくるタイミング。私は運良くそのスーパーの担当になります」。
立川と八王子に巨大なスーパーがオープンする。会長が担当するスーパーだ。
「私の担当はバナナです。『関東の店舗のバナナはすべて水信で』という契約が交わされていたんです」。
―――当時、バナナは高級品でしたね?
「そう、高価なフルーツだったんですが、そのスーパーはほかより3割安く販売されていました。ちょうど自由化が進んだ頃で、スーパーのなかでも目玉商品だったんです」。
土曜に5トン、日曜には10トン。
「運ぶのも、たいへんだった」と笑われる。
その後もスーパーの出店はつづき、2年間の間に合計15店舗、そのすべてを会長が担当していたそうである。
会長も、土日となれば店にでた。まだ20代前半。あらゆるものを吸収する。「実体験で、小売のノウハウを勉強できた」とおっしゃっている。
「それでね。担当していたスーパーとの関係を軌道に乗せて、昭和47年の2月、24歳で水信を退社して実家に戻ります」。

フルーツの流通量の減少とライフスタイルの変化。

会長がもどってからの30年。青木フルーツの業績は拡大をつづけ、8000万円だった年商が30年目には60億円になった。ただし、会長は満足されてはいなかったようだ。
「たしかに大きな成長なんですが、いっても60億でしょ」と会長。
「それに気になることもあったんです」。
「その30年で、昭和は平成になって、人々のライフスタイルも変化をつづけているんです。そんななかで、農水省がフルーツの流通量を発表するようになって、それをウォッチしていたんですが、その資料だと年々、流通量が減っているんです」。
「人口が減っているわけじゃないのに、毎年、減っている。『なんでかな?』って、頭をフル回転させて、考えました。答えはね…」。
話は飛ぶが、2026年9月現在、青木フルーツはフルーツショップを5店舗、生搾りジューススタンドを190店舗、フルーツタルト&カフェを19店舗、オープンしている。
この成長は、当時の会長の疑問がスタートライン。
回答が気になる。
「私の回答は、こうでした」と説明してくださった。
「流通量が減っているのは、家庭で時間をかけて調理する時代から、すぐ食べられるものを買う時代に変化したからなんです。魚で想像してみるとわかりやすいんだけど、下処理がたいへんで時間がかかる。だから、刺身を買ってきて、パッパと食卓に並べるほうが楽で速い。パックの魚を買う人をみて、『そうか』って。当時、フルーツのパック詰めなんてパイナップルやメロンぐらい。だから、切ったり、皮を剥いたり。そういう時間がもったいないから手がのびないんだって」。
「要するに、魚じゃないけど『フルーツを食べやすく加工すればいい』って。発見ですよね。でも、どうすればいいか思案している時に『ジュースがいいんじゃない?』って、天の声が聞こえてきたんです」。
「それを聞いて。これ、じつはうちの妻の一言なんですが、いいアイデアだって思って。縮小するBtoBから、拡大するBtoCへ。そんな思いで『ジューススタンド』をオープンしたんです」。
「最初にオープンしたのは郡山のうすい百貨店。2002年6月1日の土曜日です。今でも忘れないです。オープン初日、レジを閉めたら170杯、5万4000円だったんです。これには驚きました。だって、よくいって50~60杯だろうって計算していましたから。その後も売上があがって、2号店は郡山のショッピングセンターに出店するんですが、そちらは日曜日には20万円。店員さんも目を回しただろうけど、経営者の私も目を回しました(笑)」。
「これでいける」と確信した会長は、一大勝負にでる。東京への出店だ。
「ショッピングセンターのバイヤーにね。『青木さん、郡山でこれだったら東京だともっとすごいことになりますよ』って一言に背中を押されてね」。
都内に複数のスタンドを次々とオープンさせた。
1杯400円。缶コーヒーの4倍。それでも、飛ぶように売れていくはずだった。

冗談はいうなよ。嬉しい誤算。

「商売っていうのは、ほんと難しいよね。ぜんぶだめだった(笑)」。
ふたたび「なんで?」と頭を抱えたそう。
郡山や仙台は計算通りだった。しかし、東京は、まったく計算外。
「なにがいけないんだろう。なにがちがうんだろうって。ところが、そんな時も出店のオファーがあって、つくばに『駐車場4000台の大型ショッピングセンターをオープンするから、出店しませんか』って。東京でお金を使いはたしていましたから、とてもじゃないが無理だって最初は断っていたんです。でもね、担当者が熱心に誘ってくれてさ。それで、出店を決めるんです」。
「また、お金をかき集めた」と会長は笑う。
300億円の大型ショッピングセンター、その一角に、ジューススタンドがオープンしたのは2008年11月3日。
「そりゃもうシーズンはとっくの昔に終わってます。だって、寒いんです。凍えて買物に来たお客さんは冷たいジュースを飲まないでしょ」。
―――「だめだ」と思っていたんですね。
「そうです。春にならないと売れないと思っていました。ところが、本社に電話をかけてきた担当者が興奮気味なんです」。
「会長、たいへんだって。『50万円売れた』っていうんです。『悪い冗談はやめてくれ』っていうと、『ほんとに、1700杯いったんです』って」。
「『よくやった』って言いたいでしょ。でも、また計算外で、余計にわからなくなった。それに『なんで東京はダメだったのに』って」。
―――答えはみつけられたんですよね?
「はい、答えはロケーションだったんです。東京は、駅前です。1人で買物に来て終わって、ジュースをのんびり飲んでいる時間なんてないんです。こっちは無料の駐車場があって、車に乗ってきた家族全員で買物を楽しめます。そこに、美味しいフルーツジュースがあったらどうです?」。
―――ちょっと飲んでみたくなります。
「そうでしょ」。
会長は、つぎつぎと難問を紐解いていく。
「それから、広域の商圏をもつイオンモールなどに出店を重ねていきます。ただね。全店がうまくいったわけじゃない。今はスクラップアンドビルドを繰り返していて。190店舗くらいになっています」。
その一方で、もう一つの柱になっている「フルーツタルト」の話も聞いた。
「こっちはね、逆転の発想なんです。たとえば、ショートケーキって、苺がのっかっているけど、苺がメインじゃないでしょ」。
「ショートケーキが悪いとは言わないけど、私らからしたら、そりゃ、フルーツをメインにしてほしいよね。だから、逆転の発想で、『フルーツメインのケーキをつくろう』ってスタートしたんです」。
「こっちも色々あったんですが、2010年11月3日に郡山郊外にフルーツショップとフルーツタルト&カフェの複合店をオープンしたら、これがうまくいったんです」。
「ジュースは衝動買い」だけど、「タルトは目的買い」だと、会長はいう。フルーツメインのケーキのカフェとショップの複合店。
「フルーツショップやカフェが一体となった世界観。行列をみて、『これだったんだ』って」。
会話がつづく。

・・・・続き

「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年9月24日木曜日

「BS10プロ野球中継✖️応援メシ」9月21日で無事終了しました。


昨シーズン同様、株式会社 FIX JAPAN・堤社長とダック組んで「BS10プロ野球中継✖️応援メシ」の店舗選定からコーディネートを分担で担当し、9月21日で無事終了しました。

4月から9月まで36試合、36店にご提供頂きました。

このような機会を頂いたBS10プロ野球中継関係者の皆様には感謝申し上げます。


【4月】

海米山

バイロンベイミートパイ

Rice Platforme  おにぎり


【5月】

雷神油そば浅草店

割烹 樹樹

焼肉ふたご

オルニ

一石三鳥

ケンちゃんカレー

宮本むなし

らぁめん一撃


【6月】

三崎市場

元天ねぎ蛸

海虎

あかさか割烹和史

あさくま

とりいちず

うなぎの佐倉

鶏笑


【7月】

玉河

東京餃子楼

うまい鮨勘

鰻の成瀬

焼肉OGAWA


【8月】

回転寿司まるくに

加藤牛肉店

KIWAMI

田所商店

銀座三州屋

ヤマトサカナ

黒毛和牛焼肉 白か黒

マルシェ


【9月】

PAOPAO

にぎり長次郎

とんかつ小川

餃夢中

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2026年9月22日火曜日

きれいになってます。

 秋のお彼岸に姉が実家のお墓参りに行って来てくれました。
ジェットクリーナー使い、墓石も綺麗に掃除されたので、先祖も喜んでいるようです。

そういえば全然墓参りにも帰れてないな・・・。

余談ですが、春のお彼岸は「ぼたもち」、秋のお彼岸は「おはぎ」と呼ばれるようです。

2026年9月17日木曜日

「飲食の戦士たち」シリーズ。

「飲食の戦士たち」もだいぶ業界内での認知も出てきました。

次のステージではこの「飲食の戦士たち」シリーズに手をつけます。

今、再現ショートドラマを動かしてますが、「飲食の戦士たち」に登場頂いた飲食経営者限定のショートドラマです。

この再現チームによる企業の紹介動画も動かす予定です。

サラリーマン廣井が飲食業界を応援する企業様にレポーターとして訪問!

注).そのサラリーマン廣井をこと廣井憲太郎氏が11月6日上映(池袋シネマ・ロサ)される『冤罪のつくりかた』に出演します。


また、書籍も現在3冊動かしており、こちらも「飲食の戦士たち」に登場頂いた企業様に限定しております。

10月以降下半期のキイストンの目玉になる「マンガde採用」も書籍と同様にシリーズに加えます。

益々、「飲食の戦士たち」を強固なメディアにしていきます。

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2026年9月15日火曜日

株式会社ブリッヂウィン 代表取締役 玉井亮佑氏登場。

“飲食の戦士たち”で株式会社ブリッヂウィン 代表取締役 玉井亮佑氏を取り上げました。

本文より~

はじまり。

「隣のコースは、未来のオリンピック選手、北島康介さんだった」と、玉井さんは笑う。
1981年生まれ、インタビュー時で45歳。株式会社ブリッヂウィンの代表だ。
「巣鴨の近くですから、とにかく下町育ちです。北島選手といっしょだったのは、水泳教室です。父は大手商社に勤め、母は専業主婦でした。兄弟は3人。小さい頃はやんちゃで、下の弟とはしょっちゅうケンカをしていました。ただ、父が怖くて、父が帰ってきたのがわかると、ケンカをやめて、蜘蛛の子を散らすように自分の部屋に駆け込んでいきました(笑)」。
小学校の頃から足がはやかった。学校では負けたことがない。だから、サッカーも好きだった。右ハーフ。運動量が半端ないポジション。
「じつは」と玉井さん。
「小学1年生のとき、車にはねられて15メートルぶっ飛んでいるんです。あと2、3センチ飛んでいたら縁石に頭をぶつけていたそうです。幸い、かすりキズだけで済んだのは、ほんと奇跡でした」。
九死に一生を得るとはこのこと。ただし、これだけじゃない。では、いつも通り、波乱万丈と背中合わせの玉井さんの人生を追いかけてみよう。

高校まで。

「小学2年で警察のお世話になった」と玉井さんは苦笑する。
警察?と驚くと、頷きながら経緯を話してくれた。
「ともだちとザリガニ釣りに行っていて、ザリガニは釣れたのにカゴがなくって。それで、『オレ、カゴ取ってくるわ』って。ちかくにあったコンビニに行くと、ちょうどいいのがあって」。
―――言葉通り、取っちゃった?
「そう、ぜんぜん悪気はなかったんです。悪気がなくても許してくれませんよね。店員さんにみつかって御用です」と玉井さん。
警察沙汰とは、大人げない気もしないではないが、大人たちは、教育のつもりで、簡単には許してくれなかったのかもしれない。
中学ではどんな感じだったんですか?
「あまり勉強はできませんでしたね(笑)。中3で初めて塾に行くんですが、進学した高校は、偏差値が低い男子校でした」。
そこしか受からなかったわけではない。
「友達が行くんで『じゃぁ、オレも』って。で、学校に行くまで、男子校だって知らなくて、『おい!男ばっかりじゃないか!』って(笑)」。
ただし、高校時代について聞くと「めちゃくちゃ楽しかった」と声を弾ませる。

高校時代と、卒業後の進路。

「中学ではサッカー部がなかったんですが、高校にはちゃんとあったので、もう一度、サッカーを始めます。そのときのポジションが右ハーフです」。
「とんでもないバケモンがいた」と玉井さん。
彼の活躍もあって、東京都でベスト32にまで進んでいる。もちろん、玉井さんもピッチを何度も往復。右ハーフだけあって運動量は相当なもんだった。
ちなみに、小学生のころ、ボーイスカウトで自然のなかで生きることを覚え、中学の時には、家をでて1ヵ月帰らなかったことがある。
話を聞いていると、小さな頃から自立した少年の姿が浮かび上がってきた。

カリスマ美容師へ。独立に向かって、スタートを切る。

「当時、流行っていたカリスマ美容師のTV番組を観て、それまで漠然としか将来を考えていなかったんですが、『これだ!』って」。
3年制の専門学校に通い、美容室で働いた。
「結構、ハードでした。仕事も、勉強もした半面、その反動じゃないんですが、遊んじゃって。相当な借金をつくります」。
「よからぬ会社からも借りた」と苦笑する。こちらも大ピンチの一つ。
当時、20代前半の青年がつくった借金の額を聞いて驚いた。借り手はもちろんだが、貸し手にも責任がある。もちろん、飲食の戦士たちでよく出てくる独立資金や運転資金のためではない。借りたお金は、夜の街に消えていった。
「けっこうヤバかった。15メートル飛ばされたとき以上に、精神的にはヤバかったかもしれません。だって、麻痺して、お金を借りることが止まらないんです」。
子どもの頃からいつも頼っていた祖母に頭を下げた。
「おばあちゃんには感謝しかない。ぼくだけじゃなく、兄弟全員、世話になっています。もちろん、それ以来、事業資金以外、金融機関から借りたことはありません」。
―――美容師のほうはどうなりましたか?
「じつは、父が50代で独立して『タリーズ』のフランチャイズショップをオープンするんです。そのとき珍しく頭を下げて、『いっしょにやってくれないか』って」。

父が頭を下げ、飲食の道がはじまる。

―――美容師とはちがう道ですね。
「そう。将来、独立するつもりでしたから、半年間、回答できませんでした」。
―――たしかに、難しい選択ですね。
「頭を下げてくれた父をムゲにできません。でも、独立もぼくにとっては大事な未来だったんです。最終的には、いくつか約束をして、父の下ではたらきはじめます」。
―――他社のインタビューでお父様に影響を受けたとおっしゃっていますね。
「タリーズをオープンしてから、ちかくで仕事をする父の姿をみます。父はスタッフより早く出勤して、毎日、店の周りを全部掃除するんです。前を通る人だけじゃなく、20メートル先の人にまで元気な声で『おはようございます』って声をかけて」。
―――普段のお父様とちがいましたか?
「初めてみる姿です。父がタリーズをオープンしてから、街の朝が一変するんです。『一人の人間が、朝の空気まで変えるんだ』って感動したのを覚えてます」。
―――その感動が、今の玉井さんをかたちづくっている?
「そうかもしれません。間違いなく、影響は受けています。ただし、フランチャイズでしたので、自由度がなくて、ぼくはそれが物足らなくて、父とちがう道を歩み始めます。父の下ではたらいたのは、けっきょく4年程度でしたが、この4年がぼくの人生にとって大きな意味をもっています」。
美容師から飲食へ。背景には、たしかに父の影響があった。
しかし、職業だけの話ではない。父の背中は、玉井さんに仕事の意味、人生の意味を教えたにちがいない。
「その後、複数社で勉強をさせていただき、39歳のとき、そのとき勤めていた会社を引き継ぐというかたちで独立しました」。
―――ちょうど、コロナのときですね?
玉井さんは、黙って頷く。

・・・続き

株式会社ブリッヂウィン 代表取締役 玉井亮佑氏


「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏登場。

 “飲食の戦士たち”で 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏を取り上げました。

本文より~

日本ロケ弁大賞、3年連続金賞受賞。

一つのお弁当のなかに主役級が並んでいる。若鶏のチキン南蛮、肉じゃが、高菜明太、玉子焼き。塚田農場こだわり卵「塚だま」をたっぷり使った特製タルタルソースは隠れた主人公だ。
芸能界のなかにも「塚田農場おべんとラボ」のお弁当のファンは多い。日本ロケ弁大賞では3年連続金賞を受賞している。
「今では塚田農場イコール『居酒屋』ではなく『弁当』という人も少なくないんです」といって白い歯をみせるのは、エー・ピーカンパニー(現:エー・ピーホールディングス)の子会社で、弁当事業を展開している「塚田農場プラス」の代表、森尾さんだ。 森尾さんは、1976年、奈良県の大和郡山市に生まれている。2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の舞台の一つとなる市である。
今回は、そんな大和郡山市の話から。

中学受験と、東京と。

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、弟秀長の居城と言われているのが奈良県大和郡山市にある郡山城だ。2026年6月現在、城近くの「やまと郡山城ホール」には、「大河ドラマ館」もオープンして、にぎわいをみせている。
お城と金魚が有名な大和郡山市。
森尾さんは3人兄弟の長男で、父は市役所の職員だった。もっとも市役所の職員といっても、一般的なイメージとはちがっていたそうで。
「授業参観だったか、球技大会だったか。赤いポロシャツで、パンチパーマ、ブレスレットにサングラスで学校に現れたときは汗がでた」と笑う。
野球が好きで、食にうるさかった。
「外食は、専門店と決まっていた」と森尾さん。
もう一つ、うるさかったのが、教育。教育熱心だからだろう。ときにはパンチが飛んできたそうだ。
「中学受験も父の指令です。勉強しまくって、国立の共学校である『奈良女子大学附属中学校』に進学します」。
生徒は全員、附属の高校に進む。「進学率は高くて、国立に進む生徒も多いんですが、私は東京の私立大学に進学しました」。
一つは指定校推薦で入学できたこと。もう一つは「親元を離れ、東京に行きたかったから」。
「ちょっといろいろあって、高校時代に1年間親戚の家で暮らしていたんです。それも親元を離れて一人暮らしをしたいと思うきっかけだった気がします」。

バイト三昧と、中退と、アパレル会社と。

東京へ向かった森尾さん。<学生生活はいかがでした?>とたずねると、「結論からいうと」と切り出す。
結論からいうと「卒業していない」らしい。
「レストランやカラオケなど、とにかくアルバイトが中心だった」と森尾さん。「夕方からレストランではたらいて、深夜から朝までカラオケでバイト。学校に行く気力は残っていなかった」と苦笑する。
「服好きだったから、大学を辞めてから、外資系のアパレル会社に就職しました」。
就職といってもアルバイトでスタート。ただ、3ヶ月程度で社員昇格を果たす。異例のことで「今も記録保持者かも」と笑う。
「社員にもすぐになれましたし、評価もいただいていたんで楽しかったんですが、中途入社組のキャリアは、いくら評価されてもストアマネージャー止まり。それがわかってテンションが下がったとき、タイミングよく先輩が『独立するから一緒にやらないか』と声をかけてくれたんです」。

福島県の郡山へ、そして、ふたたび東京へ。

今度は、福島県の郡山市へ行く。「郡山で、アンティークなカフェをオープンしたんです。3人でスタートするんですが全員、未経験で、けっきょく空中分解してしまいます」。
 サービスのイロハも、F/Lコストもみんなわかってなかった。数ヶ月経つと、給料が支給されるかどうかもわからなくなった。
「それで『オレは東京に帰る』っていうんです。初めての挫折です。でも、感謝はしているんです。挫折はしましたが、飲食が好きになったし、社会人としてゼロから出直しだと、はじめて心を決めることができたんです」。
「飲食×社会人やりなおし計画」が始動する。求人誌をひらいて目にとまった会社があった。「リンク・ワン」だった。

原価…ショウキャク?

「外食産業向けの人材派遣やコンサルティングを行っていた会社です」。
当時は急成長の真っ只中だったそう。
「採用した人材を『プロ店長』に育て、派遣する。絶好調だったから、週に5~10人は採用していたんじゃないかな。当時は、『銀のさら』が絶好調で、私も最初は『銀のさら』だったんです」。
「でも、免許がないとバイクに乗れないでしょ。それじゃ、宅配の『銀のさら』ではだめだってことになって」。
関西で『牛角』を支援する事業がスタートするタイミングだったので、『じゃぁ、森尾はそっちだ』と」。
「そんなわけで、福島の郡山から東京にもどって2週間で、大阪です」。
森尾さんは、関西にできた研修センターで「プロ店長」を育成するトレーナーの仕事を開始する。
「今でも笑えない」といって、当時の様子を語ってくれた。
「トレーナーとか、コンサルなんですが、じつは『げんかしょうきゃく』がわからなかった。漢字もわからない(笑)。でね。『原価』って書いて、ちょっと止まって『ショウキャク』ってカタカナで」。
ノートに書かれた文字をみて、当時の上司に真顔で心配された。
郡山で頭を打ったが、それでもオレはできると心のどこかで思っていた。しかし、レベルが一つあがると、ほんとになにもできなかった。
「何も知らないし、何もできない。コンサルの相手はオーナーでしょ。人生経験で敵うわけありません。それに、周りに、そりゃぁ雲の上のような優秀な人がたくさんいて」。
<それでも前に進めたのはなぜ?>と聞くと、「猛烈な危機感」と森尾さんはいう。ビジネス書にかじりついた。F/Lコスト、P/L、利益計算、減価償却…先輩たちが会議で語っていた専門用語が、だんだんとわかるようになる。
「あの時があったから、今がある」と森尾さんは隠さずいう。のちに牛角を展開するチームの責任者になり、リンク・ワンは4年在職。その後、当時の役員の独立に伴って転職。そこでも同じ仕事をしていたので合計9年、コンサルの仕事をしていたことになる。

エー・ピーホールディングスへ。

「コンサルの仕事は、やりがいがありましたが、その一方で、オーナーさんの喜ぶ姿や、数多くの素敵なお店をみてきたからでしょうね。支援だけじゃもの足りなくなって」。
コンサルから、実業へ。森尾さんは舵を切った。
「最初は知人の紹介で、業務委託からのスタートです。業績は悪くなかったんですが、オーナーと意見が食い違うようになって。それで、つぎに就職したのが」。
<エー・ピーホールディングスですね?>
「そう。勉強のつもりだったので、じつはもう少しスケールの小さな会社がいいと思っていたんですが」。
エー・ピーホールディングスの「生販直結」のビジネスモデル、独自のビジョンに惹かれて転職したそうだ。
「みなさんご存知と思いますが、米山久社長(現株式会社エー・ピーホールディングスの代表取締役会長 兼 社長)の片腕といっていい、大久保伸隆さん(現株式会社ミナデイン代表)という方がいらして。私は大久保さんをサポートするチームで主に人事系の仕事を担当します」。一度に100名以上採用したこともあったそう。
転職して1年後、エー・ピーホールディングスは上場を果たし、メインブランドの「塚田農場」はブームとなり、テレビにも何度も取り上げられた。
「居酒屋のバイトが就職に役立つ」という切り口を設けたのも塚田農場だった気がする。  
「パッションもあったし、ピュアだったし。私は採用だけじゃなく教育、マネジメントまで担当していましたので、それはやりがいがありました」。
「でも」と言って森尾さんは続ける。

・・・続き

 株式会社塚田農場プラス 代表取締役社長 森尾太一氏



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株式会社新星苑 サッポロビール園 代表取締役社長 別府 修氏登場。

  “飲食の戦士たち”で株式会社新星苑 サッポロビール園 代表取締役社長 別府 修氏を取り上げました。

本文より~

開拓精神と、赤星と。

札幌駅からタクシーで7分。 赤レンガと巨大な煙突が現れる。タクシーを降りて煙突に描かれた赤星(五稜星)を見上げた。
今回ご登場いただいたのは、「サッポロビール園」を運営する株式会社新星苑の代表、別府修さんだ。
サッポロビールは1876年、サッポロビール園から徒歩5分ほどの場所(現:サッポロファクトリー)で創業している。サッポロビール園の赤レンガの建物は、1903年から1965年まで「札幌第2製造所(製麦工場)」として利用した後、1966年にレストランに改装されている。
「サッポロビール園には、ビールとジンギスカンが楽しめるレストランが4店舗あり、夏にはビアガーデンがオープンします。席数を合計すれば2,000席。そのほかグッズ等を販売するショップを2店舗経営しています」。
「近隣にはサッポロビール発祥の地であるサッポロファクトリーがあり、そこには『札幌開拓使麦酒醸造所』という醸造所を残しています。今でも当時の味わいを現代風にアレンジし、ビールを製造しています。当社は『BREWERY1876』というビアパブを醸造所の隣で経営しており、製造したばかりの開拓使麦酒を楽しんでいただけるよう、少量の飲み比べスタイルで提供しています。
ラム肉の鉄板焼き店『村はし』もその近くに出店しました。店名はサッポロビールの設立に大きな役割を果たした村橋久成からいただきました。ここでは日本で現存する最古のビールブランドである赤星(サッポロラガー)をどぶ付けでキンキンに冷やし、オープンキッチンの鉄板スタイルでラム肉をシズル感たっぷりに焼いて提供しています。当社はビール、ジンギスカン、北海道の食材を軸として、新しいスタイルにも挑戦しながら店舗展開をしています」。
サッポロビールの赤星(五稜星)をみると、口をつくのは、キャッチコピーである「丸くなるな、星になれ。」だ。

サッポロビールへ。

別府さんが生まれたのは1972年。第二次ベビーブームの世代だ。
2026年現在の出生数は70万人。
当時は200万人だったというから、その差に驚かされる。
「私は自宅近くにある、国立(こくりつ)の附属小学校に進みました。附属ですから本来は中学、高校と進学できるのですが、高校に進学できる上位50%に入ることができず、中学で脱落しました」。「高校まで進学するのは東大を目指すような生徒たちばかりですから、私なんかが凹むことはないんですが、あれはあれでちょっとした挫折でした」と、別府さんは苦笑する。
都内の私立高校へ進学するが、その3年間については「それまでとは比べ物にならないくらい、真剣に勉強をした」と振り返る。結果として慶應義塾大学に進んだことが「小さな成功体験になっています」と別府さんは笑う。
「大学で会計学を専攻していたこともあり、就職するときに当初志望したのは経営者と直接対話できる金融機関でした。今でいうメガバンクではなく、中小企業向けに融資をする金融機関です。こちらのほうがリアルに仕事をイメージできたんです」。「当時から、いつかは社長になりたいと考えていました(笑)」というから、中小企業の経営者に接することで、学ぶことも多いと思ったにちがいない。
しかし実際は、まったくの異業種であるビールメーカーに進む。その理由をうかがうと、「先に内定をいただいたので」と笑ったあと、話がつづいた。
「サッポロビールに決めたのはOB訪問でお会いした先輩でしたね」。
先輩訪問。ネットもない時代、情報収集はそれが一番だった。先輩に連絡を取り、会う約束を取り付けた。
「でね。その先輩が約束の場所に紺ブレ、しかもピンクのワイシャツで現れたんです(笑)。今はラフな格好の人も多いんでしょうが、30年前のOB訪問ですからね。『え? なんでピンク?』『これでいいの?』って(笑)。そうしたらその先輩が『サッポロビールに入ったら、旨いものが食べられるぞ』って殺し文句を言うんです。その一言に惹かれちゃって。『そうだな、ビールメーカーの営業になれば酒販店や飲食店の経営者と近い距離で仕事するんだろうな。これはいい経験になるな』って都合のいい解釈をして、サッポロビールを受験したんです」。

社歴2年目の社員が、意見書をだす。

配属は千葉支店だった。
「市川や船橋エリアの特約店、酒販店、飲食店を担当しました。午前中は特約店や業務酒販店をまわって、夕方からメインの戦場である飲食店訪問を始めます」。
30年前の日本は、サッポロビールだけではなく、すべての会社の、すべての仕事がハードだった。
仕事は忙しく、やりがいも達成感もあったが体力的にも精神的にも厳しい仕事であり、「これは大変な会社に入ってしまったな」「この仕事、40代や50代になってもできるかな」と考えたこともあったという。
しかし「サッポロビールには実家の商売を知っている人もいたんです。父親の顔を潰すわけにもいかず・・・」。ただし、「言いたいことは言わないと気が済まない性格なもので、現場で感じたことを自分なりにまとめて上司に出してしまった」と別府さん。
入社2年目に会社の営業スタンスを問い質す意見書を書いたそうだ。
「随分と偉そうなことを書きました。目の前の売上をつくることに四苦八苦して、メーカーが本来するべきことから背を向けているように私には映っていたんです。だから思い切って書いたんです。そしたら、それをですね」。
そう言って 別府さんは苦笑する。
「上司がそのまま本社にFAXしてしまったんです。ちょっとした騒ぎになってしまい、なんと社長が直接支店に来ることになってしまいました。それも休みの土曜日に、私だけじゃなく営業担当者は全員出社です(笑)」。
どんな意見書だったのか、聞いてみた。
「簡単に言うと『飲食店経営者の最大の関心事は自分が経営するお店が繁盛すること。繁盛のお役に立てる営業マンを増やすことができれば、取扱店舗は増えていく。そのためにはまず飲食店に詳しい営業マンを育てるべきだ』という内容です。当時の営業スタンスに否定的な内容も含まれていましたから、社長が来る日はむちゃくちゃ緊張しました」。
「ただ、いらぬ心配でね。社長にも新しいことを推し進めていこうという気持ちがあったようです。でも、『言うはやすく』です。簡単に『ご繁盛支援』とか『お役立ちのご提案』なんてできません。まずは飲食店についてより深く学ばなければいけない。それで、私に出向命令が下りるんです」。

1998年、飲食店へ出向する。

「そもそも飲食店にはどんな問題や課題があるのか?それを解決するためにはどんなことが必要なのか?そのお手伝いは我々が自分たちでできるのか、外部のパートナーを頼るのか?こういったことまとめ、組織にするのが私のミッションでした。出向した飲食店では客席を担当しましたが、最終的には会社の経営にも携わらせていただきました。飲食店については学生時代に短期の皿洗いアルバイトをしたくらいでしたから、何もかも新鮮でしたね」。
別府さんは2000年4月、サッポロビールへ戻り、繁盛支援業務に就く。
「濃密で充実した時間でした。『ご繁盛の提案』は、簡単なものではありません。私たちはお店の繁盛を真剣に考え、経営者のお役に立てるような情報を提供しますが、そのプロセスにおいては経営者にとって気分が悪くなるような調査結果を報告したり、これまでのやり方を変える提案をしなければならない時もありますからね。大変なことですが、ここにおいて経営者から信頼をいただくことができれば、『商品の取引先』から『飲食店経営のパートナー』あるいは『信頼できる相談相手』という存在になれますし、結果として社品取扱いにつながります」。
「当時の『黒ラベル』は、味は良いけど広告が下手」「40代、50代のビールヘビーユーザーは飲むけど、若者には選ばれない」という印象を長く持たれており、メイン顧客層の高齢化が大きな課題でした。我々は若手経営者が経営する店舗や20代・30代のお客様に支持されている店舗の繁盛支援を積極的に進め、『黒ラベル』を取り扱っていただきました。なかなかハードルの高い挑戦でありましたが、これが『黒ラベル』に対する市場の評価や評判を変えるものだと考えていました」。
サッポロビールといえば「ヱビスビール」があり、瓶ビールには「赤星」がある。麦芽100%の「ヱビスビール」も最高だが、マッチする料理を選ばず飲み飽きないという点では「黒ラベル」に軍配があがる気がする。贔屓するわけではないが、「黒ラベル」は麦の旨味と苦みのバランスが絶妙だ。
「今の『黒ラベル』に対するブランドイメージは、20年前のそれとは大きく違います。「大人が選ぶ」「洗練されている」「格好がよい」といったイメージを持っていただき、若者から支持されるビールとなっています」。飲食店への取組みが長く閉ざされていた扉を開け、商品のブランドポジションを大きく変えることにつながったのだ。

・・・続き

株式会社新星苑 サッポロビール園 代表取締役社長 別府 修氏


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 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

新たな切り口で企業動画動かすかも。

キイストンが作成した数々の動画は全て故・市川大作氏にお願いしていたものばかりでした。

本当に企業動画も素晴らしいのを沢山作って頂いてただけに残念でなりません。

また、お願いしていた動画はその動画経由でテレビもかなり入りました。

市川さんのおかげで「飲食の戦士たち」再現ショートドラマチームも誕生し、「飲食の戦士たち」の再現動画は9話まで続いております。

その市川と携わった人たちで市川イズム継承し、再現ショートドラマの別バージョン検討してます。

キイストンしかできない動画を今構想してますが、どドキドキします。

乞うご期待!!!

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2026年9月10日木曜日

『冤罪のつくりかた』、泊監督に来社して頂きました!

2026.11.6FRI

池袋シネマ・ロサ
ほか全国順次公開

『冤罪のつくりかた』
泊監督来社頂きました。
『冤罪のつくりかた』
再現ショートドラマ主役のサラリーマン廣井こと、廣井憲太郎氏


 

2026年9月7日月曜日

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマの主人公の廣井さん、『冤罪のつくりかた』に出ます!

「飲食の戦士たち」再現ショートドラマの主人公の廣井さん、『冤罪のつくりかた』に出ます!

11月6日(金)より「池袋シネマ・ロサ」(JR・東京メトロ・西武池袋線・東武東上線「池袋駅」西口から徒歩3分)にてまずは上映スタートします!
メインキャスト:加藤夏希 小川史記 原田龍二 やべきょうすけ
監督・脚本:泊誠也
是非観にいってください。
この物語は、実際に起きた事件をもとにしている。
元衆議院議員・あきもと司の手記『事実無根 私はこうして特捜に嵌められた』を原案とし、2019年に実際に起きたIR汚職事件をもとに描いています。取調べで交わされた言葉、一枚の供述調書が組み上がっていく過程——そのいずれも、現実に起きたことを出発点にしています。

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