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2014年9月1日月曜日

ペッパーフードサービス様が採用された方、フジテレビ『新報道2001』の特集に。


 8月最後の31日(日)、フジテレビ『新報道2001』の特集で、ミストラル(キイストングループ・人材紹介会社)から紹介させて頂いた明石さん(66歳)が取り上げられました。
ペッパーフードサービスの一瀬社長が、70歳過ぎておられるがゆえ、シニアの方の気持ちと尊重されての採用ですから、素晴らしい募集されてます。
働く人の気持ちを汲む…、大事ですね。
「あなたのご家族をご紹介ください」がすごくいいですね。
株式会社ミストラル(フードビジネスにより特化した人材紹介)
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2014年8月29日金曜日

2013年7月24日水曜日

8月、新サービス&継続企画を実施します。

8月も新サービスとして、飲食企業様の従業員様向けのサービスをスタートさせます。
乞うご期待ください。




併せて、海外就職説明会の第4回8月27日(火)を実施し、
昨年に続き、調理師会場でin-職hyper(いんしょくはいぱー)の求人冊子配布も実施します。
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2013年7月23日火曜日

株式会社アティックプラニング 代表取締役社長 五味 啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アティックプラニング 代表取締役社長 五味 啓氏登場。
本文より~

選択肢を広げる選択。

父は、東大から国鉄に入社した国家公務員。母は山梨出身で、母の父、つまり祖父は鉱山会社を経営する敏腕事業家。実家は武田信玄に兵糧米を納めていた由緒ある家柄で、地主だったそうである。
兄弟は3人。五味は長男である。
高校生になるまで父が転勤する度に、家族5人で引っ越した。茨城県出身だが、関西にも6~7年住んでいる。
あちこちに引っ越したが、どこにいっても成績は群を抜いていた。
「長男ということもあったと思う」と断りつつ、「とにかく期待も寄せられ、勉強も強いられた」という。習い事も多くさせられたが、そのなかでバイオリンは、本人の意思で長く習っていたそうだ。「勉強はできたが、スポーツは苦手」。そんな少年だったという。
「子どもの頃は、両親とも勉強しろと、ともかくうるさかった。ところが、大学に進学したとたん何も言わなくなるんです。父は良く『いい大学に入れ、そうすれば選択肢が広がる』とそんな風に言っていました」。子ども時代は、「ゲームやスポーツもやらず、テレビすら見ない生活だった」と語っている。
とはいえ、小・中は公立。ただの英才教育とは少しちがう。雑多な生徒たちのなかで、五味の人間教育も行われていた気がする。

いちばん最初に内定をもらった会社へ。

中学を卒業すると、早稲田の付属高校に進んだ。父母にとっては一つの既定路線だったかもしれない。ただし、五味本人は意外な事実を知ることになる。
「小・中まではスポーツはできないけど、頭はいいほうでした。ところが、高校に入るとぼくより頭のいい奴がいっぱいいるんです。でも、代わりにスポーツがぜんぜんできない(笑)。『アレ? オレってスポーツできるんだ!』って高校で初めて知ったんです。それで初めてスポーツ部に入りました。バスケット部です」。
当時は、高校から入学した生徒は、ストレートで早稲田大学に進学できるシステムだったそうだ。だから、早稲田大学への進学はもう間違いなし。自由な校風だったこともあって、文字通り青春を謳歌した。
その大学時代は、バイトもしたが、思い切り遊んだ4年間だったそうだ。ただ、4年経っても、これといった目標はなかった。卒業後、JTBに入社するのだが、それも「いちばん早く内定をもらったから」だそう。選択肢は多かったが、心が定まっていなかった。・・・・続き
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“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあの“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。
本文より~

「貧しさ」と「豊かさ」。

坂井は、戦時下、両親の故郷である、鹿児島県出水市で生まれている。3人兄弟の長男。3歳の頃に父を亡くし、母方の実家で幼年期を過ごす。出水市は鹿児島県の北西部にあり、熊本県は目の鼻の先だ
母一人で支える家計は、けっして楽ではない。「白米」の代わりに「ひえ」や「あわ」が食卓に上り、「さつまいも」は“つる”まで食べていたそうだ。弁当箱には、蒸した「さつまいも」が一つだけの時もあった。恥ずかしくて、弁当箱の蓋で隠しながら、食べた。
もっとも当時は日本全体が貧しく、坂井家だけが特別だったわけではない。自然に恵まれていたぶん、食べることには困らなかったほうだろう。
山には山菜があり、川には魚がたくさんいた。仕掛けをつくって、鳥を獲ったこともある。むろん、獲った魚や山菜は、食材になる。
畑からは「キュウリ」や「ナス」「トマト」を頂戴した。それを清流で洗い、採りたてを食す。
「ぼくはこういう自然のおいしさを口にして育ったんです」と坂井。「貧しさ」の反面、「豊かさ」にも包まれていた。
「運動神経は良かった」と坂井。「かけっこ」の大会に出ては、賞品を獲得した。ノートやエンピツ、それが兄弟たちの筆記用具になった。
母には「人に後ろ指を指されることだけはするな」と育てられた。もっとも坂井はこう言っている。「ちっちゃい頃はやんちゃだったから、けっこう母の言いつけに背いて、後ろ指を指されるようなこともしていましたよ(笑)」と。
こちらを笑わす気配りも忘れない人である。

コック服に憧れて。

「貧しかったけれど、ひもじい思いはしなかった」と坂井はいう。ただ、「まんぷく」という意味ではなかったのだろう。「料理人になれば、とにかくひもじい思いはしないで済むだろうと。これが、料理人をめざすきっかけの一つになった」とも言っている。
むろん、それだけではない。母からは「手に職をつけろ」と叩き込まれていた。料理にも興味があった。母の代わりに台所に立つことも少なくなかったから。中学生になると、早くも坂井家のシェフを務めていたそうだ。
「幸いなことですが、ぼくは手先が器用なんです。だから、料理もうまかった。つくるのも、たのしかったし」。たのしいと言っても、食材は限られている。台所に立って、家族を喜ばすために悪戦苦闘している、坂井のすがたが思い浮かんだ。
「ところで、何故、フランス料理だったんですか」と尋ねてみた。
「そりゃ、恰好よかったからですよ。コック帽をかぶってね。最初は、貨客船のコックに憧れていたんです。客船のコックになって世界を周ってやろうとね」。
「ぼくは恰好から入るほうだから」と坂井。料理人⇒フランス料理は、恰好いいコック服よって、つながっていたようだ。
坂井は、いったん高校にはいったが、1年の2学期で退学してしまう。家計を案じれば、勉強に費やす時間がもったいなかったし、はやく料理人になりたいとも思っていたからだ。
ちなみに、料理人以外にもう一つ目標があった。「宮大工」だそうだ。「料理人になってなかったら、宮大工になっていた」と坂井は当時の思いを語っている。・・・続き
フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
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2013年7月16日火曜日

「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。
本文より~

「味噌屋」の息子の少年時代。

田所は、人口わずか1~2万人の小さな町、福島県白河市、通称「中通り」で産声を上げた。実家は、明治から続く「味噌」の製造店。兄妹は、4つ下に妹が1人いる。
「代々、続いていましたが、そんなに大きな味噌屋ではありません。父は、別に仕事を持っていたぐらいですから」と田所。
規模の大小はともかく、この味噌屋が田所を育てたことになる。むろん、朝餉には旨い味噌汁が出されたことだろう。
田所に少年時代を振り返ってもらった。
「そうですね。子どもの頃は、ぜんぜん勉強しませんでした。テストでは30点取ればいいほう。勉強に興味がなかったから、寿司職人になりたいと思っていたんです」。
勉強より、スポーツが得意な少年だった。
特に小学校から始めた野球では、メキメキ頭角を表し、キャッチャーで打順も3番など、主要なメンバーとしてプレイした。
「高校では、県でベスト4。チームはそれ止まりでしたが、私は、それなりに評価され、社会人野球からも誘っていただきました。いただいたんですが、私も高校生になるとバイクに熱中したりして。もう、野球はいいかなと思っていたんです」。


野球とバイクと好きな子を追いかけて。

野球は好きだったが、勉強はイマイチ好きになれない。バイクに熱中し、ろくに学校にも行かなかった。だから、卒業の段になっても、単位が足らなかった。社会人野球の話ももらったが、それどころでもなかったのが実情である。
「いい先生というか、まぁ、おかげで卒業できたんだけど、真冬の2月にプールですよ。25メートル泳いだら単位をくれるっていうんです。それで、海パンになって(笑)」。
25メートル無事、完泳。それで、無事に高校も卒業することができた。進路は、決めていた。「好きな子が東京に行くっていうから、とにかく私も東京へと」。・・・・続き
「味噌」を武器に海外にも展開する株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏
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株式会社スマイルリンクル 代表取締役社長 森口康志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社スマイルリンクル 代表取締役社長 森口康志氏登場。
本文より~

なんにでも興味があったんです。

「習字、算盤、英会話、スイミング、ソフトボール、そういえば合唱団にも入っていました」とスマイルリンクルの森口社長。「足が速くて、勉強もできたので、とにかく女の子にモテましたよ(笑)」と子どもの時代を振り返る。
子どもの頃の森口社長はなんにでも興味を持ち、試してみないと気が済まないタチ。かわりに「熱しやすく、醒めやすい」ほうだったという。
中学では野球部に所属。しかし、中学二年になると、つっぱった生徒たちのグループに入り、そちらに関心が移る。
「ヤンキーですよね。とにかく学校の内でも、外でもつっぱっていた。大人への反感と、憧れと言えば理屈っぽくなりますが、ともかくそういう年齢だったんです。タバコに、バイクに、喧嘩の日々。その時代はヤンキーがモテたっていうのもありますね(笑)」
悪友とツルみ始めたのは中学に入ってからだが、中学を卒業する頃には森口少年も立派なヤンキーになっていた。
とはいえ、このヤンキーは、周りの仲間と違いそこそこ勉強もできた。

25万円もするステレオに釣られて。

中学三年になっても、ヤンキー生活が忙しく、勉強もスポーツもそっちのけ。高校の進学が迫っても焦る気持ちはなかった。ところが、三者面談の際、無謀な高校名を挙げると、父親と教師が反応した。
「親父は、高校名を聞いてそうかと喜び、合格したら、当時25万円もしたステレオを買ってやると言い出したんです。とても欲しかったもんですから、ぼくもその気になって、勉強を開始したんです」もともと、頭はいい。やればできる。目の色が変わった。
すると、教師が手を差しのべてくれた。
「当時はまだ20代後半だったと思いますが、ちょっと変わった、でも、とても立派な先生でした。ソリコミ、パンチパーマの僕たちに向かってその先生は、『そんな格好をするおまえらの気持ちがわからん』といって、翌日から自分も剃り込み、パンチパーマにしてきたような人でした」
「そんな先生が、僕が突然、勉強を始めたのをみて、『一緒にやったろう』と。毎日、先生のボロアパートでつきっきりで教えてくださったんです。そのおかげで僕は、希望通り、三者面談で到底入れないと言われたランクの高校に合格。ステレオも手に入れるんですが、それもこれもその先生のおかげ。今も感謝の気持ちでいっぱいです」
「やればできる」そう気づかせてくれたのが、この時の先生だった。だからこそ今でも感謝している。・・・続き
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本日16日の『めざましテレビの“ココ調”』は阿波尾鶏様で収録でした。

本日16日の『めざましテレビの“ココ調”』にて阿波尾鶏様が登場されました。
この「六本木 阿波尾鶏」を経営されている本間社長の記事はコチラです。
(CANVAS様が経営されている阿波尾鶏にて)

(いつも化粧してない女性がかわいく変身すれば・・?)




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