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2014年4月15日火曜日

4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏が登場。
本文より~
兄は走り屋。弟はTVの料理番組が好きなお調子者。


岸本は1966年12月29日、東京千駄ヶ谷に生まれる。2人兄弟の弟で、5歳上の兄がいる。父はカメラマンで、兄も現在、カメラマンをされているそうだ。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。

少年から大人へ。長野県のある高校での3年間。


「クラスは2つあって、ほぼ全員、寮生でした。6時30分に起床。その後1.4kmのランニング、準備運動、体操と続きます。冬は7時起床。風呂場から部屋まで歩くと、髪が凍りつくんです」。
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。・・・続き
http://www.keys.ne.jp/
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2013年7月23日火曜日

“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあの“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。
本文より~

「貧しさ」と「豊かさ」。

坂井は、戦時下、両親の故郷である、鹿児島県出水市で生まれている。3人兄弟の長男。3歳の頃に父を亡くし、母方の実家で幼年期を過ごす。出水市は鹿児島県の北西部にあり、熊本県は目の鼻の先だ
母一人で支える家計は、けっして楽ではない。「白米」の代わりに「ひえ」や「あわ」が食卓に上り、「さつまいも」は“つる”まで食べていたそうだ。弁当箱には、蒸した「さつまいも」が一つだけの時もあった。恥ずかしくて、弁当箱の蓋で隠しながら、食べた。
もっとも当時は日本全体が貧しく、坂井家だけが特別だったわけではない。自然に恵まれていたぶん、食べることには困らなかったほうだろう。
山には山菜があり、川には魚がたくさんいた。仕掛けをつくって、鳥を獲ったこともある。むろん、獲った魚や山菜は、食材になる。
畑からは「キュウリ」や「ナス」「トマト」を頂戴した。それを清流で洗い、採りたてを食す。
「ぼくはこういう自然のおいしさを口にして育ったんです」と坂井。「貧しさ」の反面、「豊かさ」にも包まれていた。
「運動神経は良かった」と坂井。「かけっこ」の大会に出ては、賞品を獲得した。ノートやエンピツ、それが兄弟たちの筆記用具になった。
母には「人に後ろ指を指されることだけはするな」と育てられた。もっとも坂井はこう言っている。「ちっちゃい頃はやんちゃだったから、けっこう母の言いつけに背いて、後ろ指を指されるようなこともしていましたよ(笑)」と。
こちらを笑わす気配りも忘れない人である。

コック服に憧れて。

「貧しかったけれど、ひもじい思いはしなかった」と坂井はいう。ただ、「まんぷく」という意味ではなかったのだろう。「料理人になれば、とにかくひもじい思いはしないで済むだろうと。これが、料理人をめざすきっかけの一つになった」とも言っている。
むろん、それだけではない。母からは「手に職をつけろ」と叩き込まれていた。料理にも興味があった。母の代わりに台所に立つことも少なくなかったから。中学生になると、早くも坂井家のシェフを務めていたそうだ。
「幸いなことですが、ぼくは手先が器用なんです。だから、料理もうまかった。つくるのも、たのしかったし」。たのしいと言っても、食材は限られている。台所に立って、家族を喜ばすために悪戦苦闘している、坂井のすがたが思い浮かんだ。
「ところで、何故、フランス料理だったんですか」と尋ねてみた。
「そりゃ、恰好よかったからですよ。コック帽をかぶってね。最初は、貨客船のコックに憧れていたんです。客船のコックになって世界を周ってやろうとね」。
「ぼくは恰好から入るほうだから」と坂井。料理人⇒フランス料理は、恰好いいコック服よって、つながっていたようだ。
坂井は、いったん高校にはいったが、1年の2学期で退学してしまう。家計を案じれば、勉強に費やす時間がもったいなかったし、はやく料理人になりたいとも思っていたからだ。
ちなみに、料理人以外にもう一つ目標があった。「宮大工」だそうだ。「料理人になってなかったら、宮大工になっていた」と坂井は当時の思いを語っている。・・・続き
フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
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