2013年7月23日火曜日

“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にあの“料理の鉄人”、フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏登場。
本文より~

「貧しさ」と「豊かさ」。

坂井は、戦時下、両親の故郷である、鹿児島県出水市で生まれている。3人兄弟の長男。3歳の頃に父を亡くし、母方の実家で幼年期を過ごす。出水市は鹿児島県の北西部にあり、熊本県は目の鼻の先だ
母一人で支える家計は、けっして楽ではない。「白米」の代わりに「ひえ」や「あわ」が食卓に上り、「さつまいも」は“つる”まで食べていたそうだ。弁当箱には、蒸した「さつまいも」が一つだけの時もあった。恥ずかしくて、弁当箱の蓋で隠しながら、食べた。
もっとも当時は日本全体が貧しく、坂井家だけが特別だったわけではない。自然に恵まれていたぶん、食べることには困らなかったほうだろう。
山には山菜があり、川には魚がたくさんいた。仕掛けをつくって、鳥を獲ったこともある。むろん、獲った魚や山菜は、食材になる。
畑からは「キュウリ」や「ナス」「トマト」を頂戴した。それを清流で洗い、採りたてを食す。
「ぼくはこういう自然のおいしさを口にして育ったんです」と坂井。「貧しさ」の反面、「豊かさ」にも包まれていた。
「運動神経は良かった」と坂井。「かけっこ」の大会に出ては、賞品を獲得した。ノートやエンピツ、それが兄弟たちの筆記用具になった。
母には「人に後ろ指を指されることだけはするな」と育てられた。もっとも坂井はこう言っている。「ちっちゃい頃はやんちゃだったから、けっこう母の言いつけに背いて、後ろ指を指されるようなこともしていましたよ(笑)」と。
こちらを笑わす気配りも忘れない人である。

コック服に憧れて。

「貧しかったけれど、ひもじい思いはしなかった」と坂井はいう。ただ、「まんぷく」という意味ではなかったのだろう。「料理人になれば、とにかくひもじい思いはしないで済むだろうと。これが、料理人をめざすきっかけの一つになった」とも言っている。
むろん、それだけではない。母からは「手に職をつけろ」と叩き込まれていた。料理にも興味があった。母の代わりに台所に立つことも少なくなかったから。中学生になると、早くも坂井家のシェフを務めていたそうだ。
「幸いなことですが、ぼくは手先が器用なんです。だから、料理もうまかった。つくるのも、たのしかったし」。たのしいと言っても、食材は限られている。台所に立って、家族を喜ばすために悪戦苦闘している、坂井のすがたが思い浮かんだ。
「ところで、何故、フランス料理だったんですか」と尋ねてみた。
「そりゃ、恰好よかったからですよ。コック帽をかぶってね。最初は、貨客船のコックに憧れていたんです。客船のコックになって世界を周ってやろうとね」。
「ぼくは恰好から入るほうだから」と坂井。料理人⇒フランス料理は、恰好いいコック服よって、つながっていたようだ。
坂井は、いったん高校にはいったが、1年の2学期で退学してしまう。家計を案じれば、勉強に費やす時間がもったいなかったし、はやく料理人になりたいとも思っていたからだ。
ちなみに、料理人以外にもう一つ目標があった。「宮大工」だそうだ。「料理人になってなかったら、宮大工になっていた」と坂井は当時の思いを語っている。・・・続き
フランス料理店 ラ・ロシェル 店主 坂井宏行氏
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