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2025年11月24日月曜日

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

本文より~

高校は、ふたつの山の向こうにあった。

今回、ご登場いただいた株式会社AZismの手塚社長の話を聞いて、興味が出て調べてみた。栃木県塩谷郡塩谷町船生。
高校に通うには、山をふたつ越える。村の人口は、そこそこあったがクラス30人のうち斎藤が12人、手塚が6人と、名字ではなく、昔から今風に下の名で呼び合い、識別していたそうだ。
「小学校だって、校区がめちゃめちゃ広いんです。幸いうちはたまたま学校から近かったから何キロも離れてはいなかったんですが」。
近いと言ってもキロ単位。何しろ隣家との距離が400メートルあった。「回覧板一つもっていくのがたいへんだった」と手塚さんは笑う。
回覧板には「熊がでたので注意」と書かれることもあったそうだ。「熊の被害は聞いたことがないですが、熊も、鹿も普通にいました」。
「もともと船生っていうのは日光東照宮に参拝する際の最後の宿場町だったんです。うちも昔は『万年屋』という屋号の旅籠だったそうです。ただ、徒歩が車になると宿場町は閑散とし、今はみる影もありません。そうそう、先日、行ってみると、中学校はあとかたもなくなっていました」。
山間、中学生になる頃までコンビニ一つなかったが、自然はある。自然を駆け回る少年をイメージして話を聞いていたが、若干、ちがった。
「園児のときに、跳び箱10段を跳んでいました。そんな私をみて、将来オリンピック選手になると、大人たちがさわいでいたのを記憶しています。ただ、小学校にあがってからアトピーに苦労します」。
「爪がのびない」と手塚さんは手をみせる。アトピーで掻きむしったからだ。
「ただ、小学3年生のときですね。漢方薬で、突然アトピーが治ったんです」。
アトピーになり、内向的になっていた手塚さんが変わりはじめたのは、この頃から。ただし、中学に上がり将来なりたいことを聞かれて「仙人」と回答している。
今も世界を旅し、当時から活発で学校のなかで人気者だったお姉様と比較すると、内向的で大人しい。
「姉は、運動神経も抜群だったので、私が中学にあがると手塚の弟が入学してきたと言って、野球部からすぐに声がかかりました」。
山ふたつ越えた高校は、栃木でも有名な進学校。毎年、東大生も数名でている。「宇都宮にでるのが、一般的だったんですが、私は塾の先生に言われるまま宇都宮とは反対の県立大田原高校に進みます。宇都宮だったらまだちかかったんですが、大田原高校には自宅から駅まで車で30分、電車で30分、自転車で30分の行程でした」。
それでも、ちゃんと皆勤賞を取っている。毎年、5月に行われる85km競歩にもかかさず出場している。
「私は飽き性です。中学の野球部も3年になって辞めているし、高校のクラブもそう。勉強も、塾の先生にお尻を叩かれやっていましたが、高校には塾のこわい先生がいないこともあって、ぜんぜんしなくなってしまいました」。
ちなみに、大田原高校の生徒全員が24時間、歩き続けるらしい。なにしろ85キロである。あの、年に1回あるTV番組の目玉企画のマラソンと、そうかわらない。
「でるのは楽しみでした。ただ、3年のとき、この行事の最中に父と母が交通事故に遭ったことを知らされるんです。母は回復しましたが、父は、この事故の4年後になくなります」。
農協に勤めるやさしい父だった。毎日、駅まで車で送ってくれたのも父だった。
手塚さんは淡々と話を続ける。
「私は、帝京大学に進みますが、奨学金(交通遺児育英会)を受けて進学できました。月5万円。ありがたかったです。今では全額完済して寄付する側に回っています」。
これが手塚さんが大学生になるまでの話。

ゲーム好きな青年が味わった、趣味とプロのちがい。

「私が大学を卒業するのは2008年。リーマン・ショック直前ですが、2008年の春ですから、経済は活況で売り手マーケットでした。私も4社受け、4社から内定をいただきました」。
話は手塚さんの就活に進む。
「内定はもらったんですが、今一つ乗り気になれないというか、邪魔くさくって内定者懇親会にも出席しなかったんです。結果、内定辞退となって夏過ぎになっても就職先は決まっていませんでした」。
もともと不精な性格。拘束されるのが苦手なタイプ。
「自分で撒いた種なんですが、夏がすぎるとさすがに焦りだした」と手塚さん。
「社会にでてはたらくことがイメージできなかったような気もします。社会だけでなく、内定をいただいた会社についても、じつは何をするかよくわかってなかった。そんなとき、学生時代に通い続けていたゲームショップの求人と出会ったんです」。
じつは手塚さん、子ども時代からゲームが大好きだった。学生になってもゲームショップに通い続けた。愛着もある。
「そのショップが、AZismが経営する「PAO」だったんです」。
手塚さんは、アルバイトからスタートして、翌年、新卒第一期生として正式に入社する。
「私は新卒募集と勘違いして面接に臨みます。じつは中途入社の募集だったんです。だから、卒業までアルバイトという約束で内定をいただきます。『新卒第一期生』私1人です」。
当時、AZismはゲームショップやカーブスなどを運営していた。AZismについては、現会長、当時、社長の和田さんにご登場いただいた記事<第1070回 株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏>をご覧いただくとよく分かる。
さて、新卒第一期生である。「大卒」「新卒」という響きに、会社の期待が高まり、どこかで「嫉妬」もうずまく。
「たしかに、期待は多少あったと思いますが、『仕事できないヤツ』だったから、すぐに期待はしぼみ、嫉妬されるまでもありませんでした」。
大学時代もゲーム三昧。ゲームには詳しかったのでは?と伺うと、「まるで違う世界」とのこと。
「ユーザーと店員は全く違います。ユーザーは好きなゲームに打ち込むでしょ。それだけでいいんです。でも、ショップのスタッフとなると好きなゲームだけとはいきません。ゲームは毎週のように新作がリリースされるんです。これは?と質問され、知らないとはいえません。これが、趣味と仕事のちがいです」。

社長の教えと、バイオハザードと。

「当時の私は最低な社員だった」と手塚さんは苦笑する。趣味とプロのちがいに戸惑いつづけた。
「どうでしょう。2年くらいは、ただショップに立って、接客を繰り返すだけのスタッフでした。正直、転職するのが面倒だったし、当時、ゲームショップの売上は良くはなかったのですが、危機感もありませんでした」。
ただ、あとで知ることになるのだが、じつは当時、会社は火の車だった。
「私が入社する3年くらい前に加盟したカーブスが大苦戦していたそうです。ゲームショップの利益でカバーしていたといいますが、億単位の赤字で、社長の和田も毎週、銀行に呼ばれていたそうです」。
社員総会で、和田さんが、「うちは赤字企業」といって、はじめて苦境を知ったが、ゲームショップのイチ店員にできることは何も無かった。
「もちろん、コントロールできる範囲では、私なりに頑張りました。ゲームは新作と中古で利益がまるでちがうんです。中古のほうが断然、高い。だから、会社の号令もあって中古のセールスにちからを入れました」。
それでも、期待の新卒はいち販売員に過ぎなかった。入社時の期待の星が、会社の業績に大きく関わりはじめたのはいつ頃からだろう?
「当時は、会社も小さかったので、年に1度、社長の和田と、マンツーマンの酒席が設けられていたんです。ある日の酒席で、社長の話に感銘を受け、それを実践したことをお話すると気に入ってくれたのか、そのあとしょっちゅう私だけ飲みに連れて行ってくれたんです」。
期待されると、そのぶん頑張るタイプ。「当時の部長が怖くて怒られたくなかったってこともあるんですが」。このあたりは、中学時代、塾の先生がこわくて勉強した頃と変わらない。
ちなみにどんな話だったんですか?と話をふると、「和田の原体験で、和田流の商売の原点です。和田が電気屋さんで仕事をしていた頃の話。アイロンの話です。聞かれませんでしたか?」
和田さんとのインタビューを思い出し「説明書の話ですね」というと、「そうです。そうです」と言って話をつづけてくれた。
「最初は安いアイロンばかりを勧めていたんですが、ぜんぜん売れない。それで説明書を読みまくって、性能の高いものには高いだけの価値があることに気づいて、そちらを勧めると、高価なそのアイロンがつぎつぎ売れていったって話です」。
その話を聞いた手塚さんは「すぐに実践した」という。「仙人」になろうとしていた頃とはまるでちがう行動力だ。物を売るのではなく、価値を売る。ゲームの価値なら、だれより知っていた。
「バイオハザードってゲームがあるんですが。当時、うちのショップには980円と3980円のふたつがあって、当然、980円のほうが安いんですが、ゲームをする立場からすると、3980円には価格以上の価値があったんです。私自身ゲームが大好きなんで、その価値がわかる。だから、『じゃぁ、社長流で、こっちを勧めてみよう』と。すると和田が言う通り、そちらばかりがバカ売れするんです」。
ショップの売上は面白いように伸びた。当然、社長の和田さんの目にも、面白い存在と映る。
ただ、それを知ってすべてが開花したわけではない。じつは、このつぎ。「漫画喫茶」に異動して、「そこで、人生が変わった」と言っている。
最後にその話を少し。

・・・続き

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏


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2025年7月29日火曜日

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

本文より~

ユーモアいっぱいの剣道少年。

無口で職人気質の電気技術者である父と、明るく社交的な美容師の母の第二子として生まれた島田氏。幼少期は明るくユーモアがあり、友人も多かった。
小学校前半で野球に熱中するも、4年生の時剣道に転向。中学でも剣道を続け初段を取得した。しかし、その後進学した帝京八王子高校には剣道部がなく、他に打ち込むものも見つからなかったため帰宅部に。
「厳しい学校でアルバイトは禁止だったんですが、通学に片道1時間かかる距離を逆手に取り、地元の馬車道グループでこっそりバイトしていました」。
と当時を振り返る。

“一国一城の主”を夢見た学生時代。

高校卒業後、帝京大学に入学。「18歳の時には、一国一城の主になりたいと思っていた」と語る通り、大学の授業は必要最低限にとどめ、バーテンダーを目指し、羽村市小作台で「Kitchen Bar麦」や「おかず屋でん」を経営していた有限会社麦企画にアルバイトとして入社。学生時代の4年間を麦企画で過ごした。
就職活動はせず、卒業後はワーキング・ホリデーを選択し、単身オーストラリアへ。ゴールドコーストのマリンスポーツ会社で1年間働いたものの、「自分探しのつもりだったんですけど……結局、何も見つかりませんでしたね」と苦笑い。帰国後は再び麦企画の門を叩き、正社員として勤務することになった。
「麦企画では飲食店の楽しさを覚えました。FL管理なども学んだのもその頃です」。
と謙遜するが、2002年9月の立川店オープン以降、勢いに乗っていた麦企画での経験はかけがえのないものだったと語っている。後に妻となる女性と出会ったのも、この麦企画時代だった。

“夢見るフリーター”が掴んだ転機。

27歳で独立を決意した島田氏は、麦企画を退社。父親と同じ電気工事の仕事に就きながら、独立準備を進めていた。
そんなある日、地元で居酒屋を営む知人から異業種交流会に誘われる。
「その人に『会費、5000円な』って言われたんですけど、当時ぜんぜん金がなくて。奥さんに『この日だけはどうしても』ってもらった5000円を握りしめて、その異業種交流会に参加したんです」。
異業種交流会といえば名刺交換。島田氏が用意したのは、肩書きに「夢見るフリーター」と記した自作の名刺だった。
この一文に強く反応したのが、ラーメン業界で名を馳せる五ノ神製作所の伊藤社長だ。
「“夢見るフリーター”か。君、面白いね」。
という伊藤社長の言葉に対し、島田氏は、「今は“夢見てるだけの”フリーターですけど、いつか店を出します」と、ユーモアたっぷりに切り返した。
機転の利いた会話術は、子どものころから変わっていないようだ。
「伊藤さんに、『これからどんな店をやりたいの?』って聞かれて、手打ちうどん居酒屋の話をしたんです。そしたら『うどんの売り方はわからないけど、ラーメン作りなら教えてあげれるよ?』って誘ってくれて」。
麦企画で居酒屋の経験があり、地元には「武蔵のうどん」というご当地うどんがあったこと、さらに若者のアルコール離れを考慮し、「昼は手打ちうどん、夜は居酒屋」というスタイルを考えていた島田氏にとって、ここで初めて「ラーメン」という選択肢が浮上する。
「『独立したいと思ってます。それでもいいですか?』って聞いたら、『いいよ』って。それで翌日に電気工事の仕事を辞めて、その次の日には五ノ神製作所に入社しました」。
電光石火の決断が、彼の人生を大きく変えることになった。

“自分の味”で勝負。

「本当は5年くらい修行するつもりだったんですけど、妻が信じている風水の先生に『今が絶好のチャンス。この機を逃すと(この先)10年は独立しないほうがいい』って言われて、勢いで独立を決めました」。
伊藤社長に独立の旨を伝えると、「お前、そんなんで独立するのかよ」と呆れつつも、「じゃあ、何ラーメンをやるんだ?」と問いかけられた。
「え?僕は何ラーメンを作るんだっけ?」。
独立したい気持ちばかりが先走り、何を作るか考えていなかったという島田氏。仕事の帰りにコンビニに寄り、カップラーメンコーナーをじっと眺めていると、ある事に気づいた。
「売り場の3分の1を、某大手企業のカップ麺が占めてたんですよ。で、“愛され続けて30年”ってキャッチフレーズを見て、『よっしゃ、この味なら30年は大丈夫だ!』って思って、チリ・トマトヌードルと、シーフードヌードルとカレーヌードルでいこうって決めたんです」。
さっそく、「3つ揃って、カッパヌードルでいきます」と伊藤社長に報告。それを聞いた社長は、心底感心したように「お前、成功するわ」とつぶやいた。
肝心の物件探しは難航した。やっと見つけたのは、横並び3軒の真ん中で、その3軒とも4~5年間空室という 、いわゆる“死に物件”。唯一のメリットは、広さ14坪で家賃9万円、駐車場5台分を借りて合計12万円と格安なことくらいだった。
「こういう店を嫌う人は多いけど、僕は嫌な感じしなかったですね」。
この実用的な判断力もまた、島田氏の強みだろう。
開業資金は、信用金庫からの借入金600万円に自己資金を加えた800万円。居抜き物件だったこともあり、改装費は可能な限り抑えた。風水の先生から「入口に龍の絵、反対側には虎の絵、盛り塩も」とアドバイスを受け、邪気払いも怠らなかった。
2012年3月24日、米軍基地の町・福生市に「カッパヌードル」をオープン。伊藤社長の支援や、モジャモジャ時代のファンの口コミが功を奏し、初月から200万円を売り上げた。
天下の〇ップヌードルをパロディにした店はすぐさま話題となり、テレビ出演の依頼も舞い込んだ。これで一躍ブレイクかと思いきや、突然、屋号や商品名の変更を余儀なくされる。俗にいう、“大人の事情”というヤツである。
落ち込んでいても仕方がないと、「カッパ64」として再スタート。チリ・トマトヌードルも「トマトラーメン」に変更した。ちなみに店名の「64」は、九九の「八八(はっぱ)64」とカッパを掛けたものらしい。
「JRのポイントカードをパロディにしたポイントカードも作りましたけど、こっちは何も言われてません(笑)。やっぱり、お店を出すときは、どれだけ口コミされる要素を持てるかが勝負だと思うので、ユーモアは大事にしてました」。
このセンス、さすがとしか言いようがない。

・・・続き

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏


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2019年1月22日火曜日

フクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にフクモチック有限会社 代表取締役社長 茂木貴彦氏登場。
本文より~

幼少期に培われた、商売への熱意。

1974年、群馬県藤岡市に生まれる。団塊ジュニアと呼ばれる、競争が激しい世代。茂木家は商売人一族で、曾祖父が骨董屋、祖父が団子屋、父は建築関係の商売をしていた。その為、茂木氏は物心つく頃から、商売をやることを考え、家業を継ぐつもりだった。
「自分が幼い頃、家はとても貧しかったです。生まれた家は、商店街の中の借り家でした。隣の呉服屋が大家でしたが、雨が降ると雨漏りがひどく、家じゅうに鍋や桶、ごみ箱などを置いて、雨を受けていたのを覚えています。曾祖父が遊び人で、お金を使い切ったと聞いています。祖父は病弱で50代で亡くなり、父は若い頃は苦労していたのだと思います」。
それなのに、母親が教育熱心だったこともあり、3歳の頃から、様々な習い事は始まった。音楽教室やお絵かき教室、習字に英語、学習塾など、様々な塾へ通った。
「母親からは『将来は大学へ行って、公務員になってね』と、いつも言われていました。しかし、どこかいい加減でいながらも成功していく父親を見ていて、『自分ならもっと上手に商売ができるのではないか』と思うようになり、商売への熱はさらに大きくなっていきました」。
小学校1年から始めた剣道では、県大会だけではなく、全国大会にも出場している。当時の剣道の世界は、上下関係がとても厳しく、過酷なイジメやシゴキを経験。「こんなにつらいことは、この先の人生では2度とないだろうな」という思いを、合宿などでは経験していたという。
剣道を続けながら、高校生活を経て、その後、帝京大学へ入学と同時に上京する。

アメリカの空の下で、世界を意識する。

東京で一人暮らしを始めると、今までの「受験勉強・学習塾・剣道・教育熱心な親」の束縛からの解放で、極端に遊ぶようになったという。
「母親はあいかわらず公務員や一般企業への就職を望んでいましたが、私の気持ちは家業を継ぐため、4年間だけ東京にいるつもりでした。サーフィン、スノーボード、パーティー、サークル活動、車など、アルバイトと遊びに精を出し、学校へは単位を取る為だけに必要最低限通っていました。今思えば、あの時にもっと経営を勉強していれば・・・と思いますね(笑)。経営学部だったのに、まったく勉強してなくて、卒業して経営者になってから経営本買って勉強してましたので。私立の大学なので、学費も高かったし、親が全額負担してくれたのに、親不孝だったなと思います」。
家業を継ぐための研修先として、埼玉県のサッシ問屋への就職を大学3年の時に決めた。その為、まともな就職活動もせず、のんきに大学生活を送っていたという。
しかし、大学4年の夏休みに行った初めての海外旅行が、彼の将来を全く別のものにするターニングポイントとなる。
カリフォルニアの州都、サクラメントの大学へ通っている友人宅に、3週間ホームステイをした。この時にカルチャーショックを受け、「世界」を感じることになる。
「このまま家業を継ぐために、群馬県に帰ることでいいのか、疑問に思いました。人生がそこで終わってしまうような気がして。世の中には、もっと大きな世界があると気づきました」。
子供の頃から、家業を継ぐことしか考えてなかったので、この時からタイムリミットとなる卒業まで、悩み続け、「あいつはおかしくなってしまった」と友人に心配されるくらいだったという。
その後、内定が決まっていたサッシ問屋へ断りを入れ、親に「自分のやりたいことができた。東京に残る」と伝えた。
そうして、アルバイトすらしたことがなかった「飲食業」の世界へ入ることとなる。
様々な店の中から調布にある創作和食の店を選び、門を叩く。海外で勝負するなら、「和食」だと考えたからだ。

下積みから、オックスフォードへ。

「母親からは、飲食業に入ることは、とても反対されました。飲食業をやらせる為に、大学に行かせたわけではないと。様々な塾へ通わせてくれたものが、すべて無駄になると思ったのでしょうね」。
そんな反対の中、飲食業へ足を踏み入れたが、その厳しさに最初はとても苦労することになる。
「大学時代、たくさんのバイトをしていたのに、飲食業はやってことがなかったのです。やっておけばよかった。笑。まったくのド素人でしたし、センスもなかったのですかね。試用期間3か月で、社員にしてもらえませんでした。そのまま試用期間を3か月継続って感じです。でも、やる気だけは誰にも負けなかったので、毎日料理本を読み、勉強していました。それを実践で試したいから、賄い係をやらせてくれと訴え、毎日賄いを作っていました。しかし、その賄い作りが遅くて、何時間もかけるので、ますます怒られていましたね」。
調布のビジネスホテルに併設する創作和食居酒屋だったが、70席ほどの店で、魚の捌き方から、焼き物まで、すべての調理をやらせてもらうことができたという。およそ2年間、下積みの修業はつづく。
就職と同時に、英会話教室にも通いはじめ、英語の勉強も続ける。
給料が安かったので、料理本を買うお金も満足になく、出勤前に毎日、図書館で料理本を読んで勉強をしていたという。
「2年が経過したころ頃ですね。友人から、イギリスで飲食店経営をしている香港人オーナーが「日本人のシェフを探している」という話がきました。それで、チャンスだと決断し、すぐに履歴書を英文で書いて送り、採用が決まりました」。
ロンドンから車で2時間ほどの距離にある学生の街、オックスフォードの中心にある、200席ほどの「モンゴリアンバーベキュー」の店がその香港人オーナーの店で、その地下に日本食レストランを作ったという。
「30席くらいの小さな店を作りました。やったことないのに寿司を握ったり、ラーメンも作りました。ラーメンのスープの作り方は、そのオーナーから教わりました。マグロが欲しいと伝えたら、まるまる1匹来たりして、15㎝くらいのアジ用の出刃包丁で、150㎝くらいあるマグロをさばきましたね」。
・・・続き
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2017年11月28日火曜日

株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社Dress Circle 代表取締役 雨宮春仁氏登場。

本文より~

スポーツ少年、ラグビーの日々で何を学ぶ。

山梨学院大学のちかくに学生の御用達でもある中華料理店がある。こちらが今回ご登場いただく雨宮春仁氏の実家である。
「私が3歳の時にお店を開いたそうです。もともと祖父が旅館を経営していて、そのちかくに店を建てたそうです」。
100席くらいある大きなお店なのに、夫婦2人で切り盛りされていたそうだ。だから、雨宮氏も小学校の頃から米を研ぎ、洗い物も手伝った。その一方で、スポーツに精をだし、小学生の頃は少林寺、水泳、バスケット、中学から野球、そして高校からラグビーを始める。
「ラグビーの早明戦を観て『これだ』って思って」と雨宮氏。「それで、山梨でいちばんラグビーがつよい日川高校に進学します」。
「ふつうはなかなか進めないんですが、お客さんに高校の先生がいたことと、私自身が相撲取りみたいにでっかかったもんですから」。ラグビー部の監督もOKしてくれて入学できたそうだ。
入ったはいいが、周りはバケモノのような生徒たちばかり。「私も90キロ。走れるデブたんですが。とても、とても」と雨宮氏。それでも、辞めずにつづけた。
2年時にチームは全国大会でベスト4に食い込んでいる。「あの時は、悔しかった。あと一歩で、優勝した伏見高校に勝てていたんです」。
「辛かった」とは思うが「やっていてよかった」とも思う。辛かった時を思い出しては、勇気を奮い立たせる。

大学進学。飲食に進むと決意する。

「ラグビーばかりで、全然、勉強しませんでした。ラグビーで就職できるちからもない。推薦をいただいた大学もあるにはありましたがトップクラスじゃない。それで、ちゃんと大学に進もうと思って勉強を開始するんですが、2年かかってしまいました」。
なんでも、予備校の先生に言わせると、「中学生程度の学力しかなかった」そうだ。ただし、やるといえばやる。さぼらず1日10時間、勉強した。いつしか、教師になりたいと思うようになる。
「それで教員免許が取れるということで、帝京大学に進みます」。
山梨からとびだし、独り住まいも開始する。アルバイトもしたが、授業をおろそかにすることはなかった。「教員免許を取るって宣言していましたから、それは取んないといけない。ただ、一方で、飲食にも惹かれていきました。ええ、そうです。アルバイトで、料理っていうか、その楽しみに目覚めてしまうんです」。
このあたりは雨宮家のDNAのなせる業なのだろうか。
「昔は、飲食なんて頭になかったんですが、たしかに、影響があったかもしれません。小さな時から米を研いでいますからね(笑)」。
教員免許は宣言通り、取得した。中学の社会科の先生らしい。ただ、卒業時に教師になることは選択肢のなかに残っていなかった。「就職活動すら念頭になかった。飲食でアルバイトをして、その店に就職しようと思っていたんです」。
雨宮氏が就職を前提に選択したのは、当時、府中にオープンした株式会社ラムラの和食ブランドである「土風炉」だった。
「こちらに6年勤め、とあるホテルに転職します。ただ、ホテルにいたのは1年くらいです」。
27歳くらいの頃から、「いつか7店舗を経営しよう」と思っていたそうだ。うち4店がラムラで学んだ「和食店」。残りの3店で異なった業態を展開するために「洋食を勉強したくて、転職した」という。
ラグビーの話もそうだが、これだと思えば一途に突き進む。それが雨宮氏の真骨頂だろう。

30歳で独立。40歳の時には7店舗を出店。これが、ゴール。

「ただ、そのホテルの料理が、言い方は悪いんですが、料理と言える代物じゃなかったんですね。缶詰だったり、チンするだけだったり。勉強する意味がないと思って、1年で退職し、もう一度、ラムラに戻りました」。
なんでも、尊敬する先輩から何度もお誘いがあったそうだ。
「ホテルの時は正直、収入もきつかったですね。手取りで10万円くらい。それじゃ暮らしていけないから、仕事が終わってからも、別の店でバイトしていました」。
朝7時に出勤し、夕方に仕事が終わり、それから深夜までバイトをする。体力があるからできたことだろう。「そういう時ですね。ラグビーをやっていてよかったなって思うのは。だって、当時と比べれば、それでも、全然、楽ですから(笑)」。  
スポーツを経験してきた経営者がよくいう一言である。スポーツのスパルタ体質は、けっして賞賛されるものではないが、その一方で、精神的にも、肉体的にもつよい人を育ててきたのは、事実だろう。ともかく、ラグビーで培った根性で、修業時代を乗り越える。
独立したのは、30歳の時だ。
「30歳で独立と思っていたので、こちらは目標通りですね。ただ、40歳まで7店舗というのは、2年遅れてしまいました」。
「言ったことは実現する」。それが雨宮氏の信念である。
「うそつきになりたくないんです」。いうならば有言実行タイプなのだろう。ただ、このタイプは、ともすれば大風呂敷を広げがちだが、雨宮氏はそうではない。
「お金儲けにも、株式を上場することにも、まったく興味がない」という。現在でこそ、2020年に10店舗という、当初の目標を超える出店計画を掲げているが、当初からゴールは「7店舗」と決めていたらしい。それ以上は、雨宮氏の頭になかった数字である。
「お金儲けだけだったら、1店舗だけの時がいちばんよかったかな」と笑って、「でも、お店ってお金儲けのためだけじゃないでしょ」とつづける。
「ちょっとお金が儲かり始めると、そっちばかりに興味がいって、それで店を潰してしまうオーナーもいるじゃないですか。みんな独立した時のことを忘れている。つくった料理をお客さんに食べていただいて『旨い』って言ってもらうのが、そもそもの始まり。この原点を忘れちゃいけないんです」。
たしかにそうだ、と思う。とはいえ、店を拡大し、利益を上げ、スタッフたちに、年齢や仕事に見合った給料を渡す。それも経営者のちからであり、責任でもある。「休みもそうですね。なんとか月8日にしていますが、そういうのも、より良くしていかなければならない。だからたいへんです」と今の心境を教えてくれた。
ゴールを駆け抜けた今の話をしたが、もう一度、話をスタートラインに戻そう。30歳で、独立。果たして、結果は?
・・・続き

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2016年6月15日水曜日

6月14日、帝京大学にて“企業人交流会”で麺食の中原社長お話し頂きました。

14日、帝京大学の経済学部・磯山ゼミにて“企業人交流会”という初の試みを実施されました。
これは会社の代表の方に参加頂き、ゼミ生に働く魅力、仕事研究で、職業選択意識を身につけさせるということで、座談会形式でした。
今回限定3社だけなんで、うち1社外食業界枠を頂き、外食代表として麺食(喜多方ラーメン坂内)の中原社長にお話して頂きました。
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2012年8月8日水曜日

インターン生のパワーはすごい。

今期、積極的にインターンシップを実施しているが、インターン生の成長が著しい。


当然、インターン生がキイストンでやるからには


仕事を通じ何か気づきとやればできるという自信付けさせたいと考えている。


おかげさまで、資質がいい学生たちばかりなんでいい形になっている。


社内においては若者パワーをもらっている。


共にWin・Winはお客様や業者の皆さんだけではない!!



2012年8月6日月曜日

社長取材して感じること。

もう“飲食の戦士たち”で社長取材をし、約400社近い社長を直接取材してるが、


関西の企業様(&関西出身の社長)は総じて取材時、お土産もらったり、お店でご馳走していってとおっしゃっていただく機会が極めて多い。


しかも計算なくごく自然が形だ。


DNAで「おもてなし」の精神が根付いているのか・・・・・。


やはりそんな観点から見てお客様想いは、西高東低のように感じる。