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2025年11月24日月曜日

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

本文より~

高校は、ふたつの山の向こうにあった。

今回、ご登場いただいた株式会社AZismの手塚社長の話を聞いて、興味が出て調べてみた。栃木県塩谷郡塩谷町船生。
高校に通うには、山をふたつ越える。村の人口は、そこそこあったがクラス30人のうち斎藤が12人、手塚が6人と、名字ではなく、昔から今風に下の名で呼び合い、識別していたそうだ。
「小学校だって、校区がめちゃめちゃ広いんです。幸いうちはたまたま学校から近かったから何キロも離れてはいなかったんですが」。
近いと言ってもキロ単位。何しろ隣家との距離が400メートルあった。「回覧板一つもっていくのがたいへんだった」と手塚さんは笑う。
回覧板には「熊がでたので注意」と書かれることもあったそうだ。「熊の被害は聞いたことがないですが、熊も、鹿も普通にいました」。
「もともと船生っていうのは日光東照宮に参拝する際の最後の宿場町だったんです。うちも昔は『万年屋』という屋号の旅籠だったそうです。ただ、徒歩が車になると宿場町は閑散とし、今はみる影もありません。そうそう、先日、行ってみると、中学校はあとかたもなくなっていました」。
山間、中学生になる頃までコンビニ一つなかったが、自然はある。自然を駆け回る少年をイメージして話を聞いていたが、若干、ちがった。
「園児のときに、跳び箱10段を跳んでいました。そんな私をみて、将来オリンピック選手になると、大人たちがさわいでいたのを記憶しています。ただ、小学校にあがってからアトピーに苦労します」。
「爪がのびない」と手塚さんは手をみせる。アトピーで掻きむしったからだ。
「ただ、小学3年生のときですね。漢方薬で、突然アトピーが治ったんです」。
アトピーになり、内向的になっていた手塚さんが変わりはじめたのは、この頃から。ただし、中学に上がり将来なりたいことを聞かれて「仙人」と回答している。
今も世界を旅し、当時から活発で学校のなかで人気者だったお姉様と比較すると、内向的で大人しい。
「姉は、運動神経も抜群だったので、私が中学にあがると手塚の弟が入学してきたと言って、野球部からすぐに声がかかりました」。
山ふたつ越えた高校は、栃木でも有名な進学校。毎年、東大生も数名でている。「宇都宮にでるのが、一般的だったんですが、私は塾の先生に言われるまま宇都宮とは反対の県立大田原高校に進みます。宇都宮だったらまだちかかったんですが、大田原高校には自宅から駅まで車で30分、電車で30分、自転車で30分の行程でした」。
それでも、ちゃんと皆勤賞を取っている。毎年、5月に行われる85km競歩にもかかさず出場している。
「私は飽き性です。中学の野球部も3年になって辞めているし、高校のクラブもそう。勉強も、塾の先生にお尻を叩かれやっていましたが、高校には塾のこわい先生がいないこともあって、ぜんぜんしなくなってしまいました」。
ちなみに、大田原高校の生徒全員が24時間、歩き続けるらしい。なにしろ85キロである。あの、年に1回あるTV番組の目玉企画のマラソンと、そうかわらない。
「でるのは楽しみでした。ただ、3年のとき、この行事の最中に父と母が交通事故に遭ったことを知らされるんです。母は回復しましたが、父は、この事故の4年後になくなります」。
農協に勤めるやさしい父だった。毎日、駅まで車で送ってくれたのも父だった。
手塚さんは淡々と話を続ける。
「私は、帝京大学に進みますが、奨学金(交通遺児育英会)を受けて進学できました。月5万円。ありがたかったです。今では全額完済して寄付する側に回っています」。
これが手塚さんが大学生になるまでの話。

ゲーム好きな青年が味わった、趣味とプロのちがい。

「私が大学を卒業するのは2008年。リーマン・ショック直前ですが、2008年の春ですから、経済は活況で売り手マーケットでした。私も4社受け、4社から内定をいただきました」。
話は手塚さんの就活に進む。
「内定はもらったんですが、今一つ乗り気になれないというか、邪魔くさくって内定者懇親会にも出席しなかったんです。結果、内定辞退となって夏過ぎになっても就職先は決まっていませんでした」。
もともと不精な性格。拘束されるのが苦手なタイプ。
「自分で撒いた種なんですが、夏がすぎるとさすがに焦りだした」と手塚さん。
「社会にでてはたらくことがイメージできなかったような気もします。社会だけでなく、内定をいただいた会社についても、じつは何をするかよくわかってなかった。そんなとき、学生時代に通い続けていたゲームショップの求人と出会ったんです」。
じつは手塚さん、子ども時代からゲームが大好きだった。学生になってもゲームショップに通い続けた。愛着もある。
「そのショップが、AZismが経営する「PAO」だったんです」。
手塚さんは、アルバイトからスタートして、翌年、新卒第一期生として正式に入社する。
「私は新卒募集と勘違いして面接に臨みます。じつは中途入社の募集だったんです。だから、卒業までアルバイトという約束で内定をいただきます。『新卒第一期生』私1人です」。
当時、AZismはゲームショップやカーブスなどを運営していた。AZismについては、現会長、当時、社長の和田さんにご登場いただいた記事<第1070回 株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏>をご覧いただくとよく分かる。
さて、新卒第一期生である。「大卒」「新卒」という響きに、会社の期待が高まり、どこかで「嫉妬」もうずまく。
「たしかに、期待は多少あったと思いますが、『仕事できないヤツ』だったから、すぐに期待はしぼみ、嫉妬されるまでもありませんでした」。
大学時代もゲーム三昧。ゲームには詳しかったのでは?と伺うと、「まるで違う世界」とのこと。
「ユーザーと店員は全く違います。ユーザーは好きなゲームに打ち込むでしょ。それだけでいいんです。でも、ショップのスタッフとなると好きなゲームだけとはいきません。ゲームは毎週のように新作がリリースされるんです。これは?と質問され、知らないとはいえません。これが、趣味と仕事のちがいです」。

社長の教えと、バイオハザードと。

「当時の私は最低な社員だった」と手塚さんは苦笑する。趣味とプロのちがいに戸惑いつづけた。
「どうでしょう。2年くらいは、ただショップに立って、接客を繰り返すだけのスタッフでした。正直、転職するのが面倒だったし、当時、ゲームショップの売上は良くはなかったのですが、危機感もありませんでした」。
ただ、あとで知ることになるのだが、じつは当時、会社は火の車だった。
「私が入社する3年くらい前に加盟したカーブスが大苦戦していたそうです。ゲームショップの利益でカバーしていたといいますが、億単位の赤字で、社長の和田も毎週、銀行に呼ばれていたそうです」。
社員総会で、和田さんが、「うちは赤字企業」といって、はじめて苦境を知ったが、ゲームショップのイチ店員にできることは何も無かった。
「もちろん、コントロールできる範囲では、私なりに頑張りました。ゲームは新作と中古で利益がまるでちがうんです。中古のほうが断然、高い。だから、会社の号令もあって中古のセールスにちからを入れました」。
それでも、期待の新卒はいち販売員に過ぎなかった。入社時の期待の星が、会社の業績に大きく関わりはじめたのはいつ頃からだろう?
「当時は、会社も小さかったので、年に1度、社長の和田と、マンツーマンの酒席が設けられていたんです。ある日の酒席で、社長の話に感銘を受け、それを実践したことをお話すると気に入ってくれたのか、そのあとしょっちゅう私だけ飲みに連れて行ってくれたんです」。
期待されると、そのぶん頑張るタイプ。「当時の部長が怖くて怒られたくなかったってこともあるんですが」。このあたりは、中学時代、塾の先生がこわくて勉強した頃と変わらない。
ちなみにどんな話だったんですか?と話をふると、「和田の原体験で、和田流の商売の原点です。和田が電気屋さんで仕事をしていた頃の話。アイロンの話です。聞かれませんでしたか?」
和田さんとのインタビューを思い出し「説明書の話ですね」というと、「そうです。そうです」と言って話をつづけてくれた。
「最初は安いアイロンばかりを勧めていたんですが、ぜんぜん売れない。それで説明書を読みまくって、性能の高いものには高いだけの価値があることに気づいて、そちらを勧めると、高価なそのアイロンがつぎつぎ売れていったって話です」。
その話を聞いた手塚さんは「すぐに実践した」という。「仙人」になろうとしていた頃とはまるでちがう行動力だ。物を売るのではなく、価値を売る。ゲームの価値なら、だれより知っていた。
「バイオハザードってゲームがあるんですが。当時、うちのショップには980円と3980円のふたつがあって、当然、980円のほうが安いんですが、ゲームをする立場からすると、3980円には価格以上の価値があったんです。私自身ゲームが大好きなんで、その価値がわかる。だから、『じゃぁ、社長流で、こっちを勧めてみよう』と。すると和田が言う通り、そちらばかりがバカ売れするんです」。
ショップの売上は面白いように伸びた。当然、社長の和田さんの目にも、面白い存在と映る。
ただ、それを知ってすべてが開花したわけではない。じつは、このつぎ。「漫画喫茶」に異動して、「そこで、人生が変わった」と言っている。
最後にその話を少し。

・・・続き

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏


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2024年12月17日火曜日

株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏登場。

本文より~

東京、八王子。和田さんの思春期の話。

「マイクに向かって、バカヤローってやっていた」と、今回ご登場いただいた株式会社AZismの代表取締役、和田敏典さんは笑う。パンク・ロックをやっていた頃の話。
和田さんが生まれたのは東京都八王子市。駅すぐに自宅があった。デパートやスーパーがあって賑やかだったという。「ダイエーがあったんですが、ダイエーにその土地を売ったのが、うちの祖父」。
お祖父様は、数十にも及ぶ事業を営んでいた稀代の事業家だった。そして本家を継いだ叔父様も才覚を受け継ぎ、事業をさらに拡大した結果、大豪邸を建てるに至る。その自宅は映画やドラマの撮影にも使われたこともあるそうで、3メートルくらいあるドアを開けると、甲冑がこちらを睨んでいたらしい。
「ちなみに、私はこの叔父に可愛がられ、ビジネスマンとして育てていただきました」。
叔父様も、お祖父様に似た多彩なビジネスマンで、パチンコ店を経営するなど「商才、センスに溢れた人でした」と和田さん。その一方で「うちの父はね」と苦笑いする。
「うちもけっして貧しかったわけじゃないんですが、叔父のところに比べたらね。そりゃ、向こうは豪邸だしね」。少年は叔父と父親を比べ、ため息をついたのかもしれない。
叔父様は、偉ぶるわけではなく、弟を心配して、和田さんのお父様に何度もアドバイスを送っている。
「雀荘も叔父さんのアドバイスで始めたことの一つ。もっとも、事実上、母がやっていたんですけどね」。和田さんは「私は母似」だという。母親とおなじように人を喜ばせるのが好きなタイプ。明るい性格も、母譲り。
「雀荘って風営法で24時以降はやってちゃだめなんです。だから、カーテンを閉めて光が漏れないようにするんです。でもね、おまわりさんが、その時間でもリーチ!ロン!なんてやっている。子ども心にグレーの世界をみたよね(笑)」。
「幼少時、祖父はモーテルも経営していましてね。私ら子どもたちはお正月、挨拶を兼ねて神奈川にあったモーテルまでお年玉をもらいに行くの。最初は、なんだろうなここは?って感じだった。お城みたいなね(笑)」。
「父がラーメン店をオープンしたのは、私が中学生くらいのとき。これも、叔父さんのアドバイスだったと思うんですが、うまく経営ができなかったみたいです」。
叔父と父の経済格差。うっせきした何かを背負う父をみて、和田さんもまた、マイクに向かって吠えた。「バカヤロー」。これが、和田さんの思春期の話。

電気屋で、才能開花。

和田さんは、1965年3月24日、生まれ。3人兄弟の長男。スポーツは卓球。なんでも雀荘に卓球台があって、父親ともラリーをしたことがあるそうだ。「でもさ、部活じゃさ。卓球っていうよりね。卓球台の下に潜るでしょ。女の子のブルマとかね、そんなのを追いかけてた。バカですね(笑)」。
中学2年から高校3年まではパンク・ロック。おなじ舞台に上がったアーティストのなかには、のちに「ニューロティカ」のギターになった人もいたそうだ。
和田さんは当時を振り返って、「パンクだから、バカヤローってやっていたんですが、案外、真面目だからさ。そういや、あの頃からマネジメントの真似事をやっていましたね。プリントショップに飛び込んで、バンドのチケットをつくってもらったり。チケットを販売するには、どうしたらいいかってね」。
「あの頃は、行動力があったね」と今も行動力バツグンの和田さんがいう。「リスペクトする叔父さんから、敏典はおじいちゃんに似て商売人だな、って言われた時は、うれしかったですね」。
もっとも、当時は叔父様のようにビジネスに関心があったわけじゃない。
「高校を卒業して就職するんだけど、とにかく、うちを出たくてさ。就職課にあった求人のなかでいちばん給料がいい会社に就職。うちは、親父と喧嘩して、でていっちゃった、そんな感じ」。
「電気屋じゃなくても、どこでもよかった」と和田さん。しかし、いざ仕事を始めると、和田家に流れる商売人の血が徐々に目を覚ます。
「言ってたでしょ。人を喜ばせるのが好きだって。私は髭剃りやアイロンの担当だったけど、とにかく、お客さんが喜んでくれる。最初はね。もちろん、苦労しましたよ。だって、パンク野郎だからね。情けないことに、つっぱっちゃって先輩にも聞けないんです。だから一人で、何が、どこが先輩らとちがうんだろうって。ひたすら、アイロンの説明書を読んだりしてね。それでね、1ヵ月くらいで花開くっていうか、私個人の名前でお客さんがいらしてくださるようになったんです」。
そうなると、もうたまらない。「ひたすら楽しかった」と和田さん。「辞めるつもりは一切なかった」とも言っている。ちなみに、この頃になると、お父様とも酒を酌み交わす間柄になったらしい。
「年に数回、うちに戻るでしょ。仕事が楽しいから、その話をするでしょ。すると、母親だけじゃなく、父親もうれしそうに聞いてくれるの。こちらは、それがうれしくて、だんだんわだかまっていたものまで忘れちゃうんだ。電気屋さんではたらいたのは3年だったけど、私の人生観をいい意味でかえることができた3年間でした。もちろん、感謝しています」。

アダルトで、大逆転。

「父親とは、根っ子でちゃんとつながっていたんでしょうね。電気屋さんを辞めたのは父の頼みを断り切れなかったから。親父はラーメン店をやっていましたが、そっちがうまくいかず、叔父さんの勧めもあって、今度はレンタルビデオショップを始めるんです。それを手伝ってくれっていうわけです」。
「さすがにむげにはできなくて始めたわけですが、3ヵ月で辞めたくなっちゃった。だって、電気屋さんの頃より、給料は下がったしね。だいたいビデオショップって言ったって、まだポピュラーじゃない頃で、叔父さんが経営しているほうは、さすがに上手くいっていたようなんだけど、こちらはさっぱり。親父も私もため息ばかり」。
「で、どうしたかって? 私が21歳のときかな。さすがに、このままではダメだって、親父と経営方針について真剣に話したらさ。親父は『じゃぁ、お前がやれ』って」。
借金3600万円。こちらも背負うことになる。「まぁ、それは親父の借金ですからね。そんなにプレッシャーはなかったんですが。それにしても、どうすればいいかわからない」。
「いろんな街をあるいて、ある日、新橋でアダルト専門のビデオショップを見つけたんです。若い人にはわからないと思いますが、当時はVHSとベータの時代です。まだお店が赤字で銀行からもう資金の借り入れができず、ベータのビデオを全部売っぱらって、そのお金でお店を改装します。風営法の都合でぜんぶアダルトにすることはできなかったんですが、それが逆によかったかもしれません」。
実は、風営法で売場面積の20%以上になると、許可を取らなければいけないらしい。「で、外からみたら、ふつうのビデオショップです。だから、女の人もいらっしゃいましたが、外見はふつうのビデオショップだから、男性がとにかく入りやすいんです。なかに入るともちろん、アダルトの世界です」。
商魂と、商才が、姿を現す。
「アダルトビデオは月に200タイトルくらいリリースされるんですが、それぜんぶ買ってね。○○監督の最新作とか、電気屋さんの時といっしょで、こちらからドンドン提案するんです。アダルトは一般のビデオに比べ、仕入れ額が安くて、お客さんは3本とかまとめて借りてくれるんです。だから、もう、ね」。
<アダルトで大逆転したわけですね?>
「そう(笑)」。
借金の3600万円も小さく映るようになったにちがいない。貯金通帳の残高に毎月100万円以上が積み重なる。今まで、みたことのない世界。
もっとも、それで浮かれないのは父親譲りの慎重さ。「むちゃくちゃ調子がいい時期は、案外、早く終わります。だってあのTSUTAYAがでてくるんですから、かないっこない(笑)。それで、今度は、ゲームのリサイクルが来るっておもって」。

・・・続き

株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏

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