in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。
ユーモアいっぱいの剣道少年。
無口で職人気質の電気技術者である父と、明るく社交的な美容師の母の第二子として生まれた島田氏。幼少期は明るくユーモアがあり、友人も多かった。
小学校前半で野球に熱中するも、4年生の時剣道に転向。中学でも剣道を続け初段を取得した。しかし、その後進学した帝京八王子高校には剣道部がなく、他に打ち込むものも見つからなかったため帰宅部に。
「厳しい学校でアルバイトは禁止だったんですが、通学に片道1時間かかる距離を逆手に取り、地元の馬車道グループでこっそりバイトしていました」。
と当時を振り返る。
“一国一城の主”を夢見た学生時代。
高校卒業後、帝京大学に入学。「18歳の時には、一国一城の主になりたいと思っていた」と語る通り、大学の授業は必要最低限にとどめ、バーテンダーを目指し、羽村市小作台で「Kitchen Bar麦」や「おかず屋でん」を経営していた有限会社麦企画にアルバイトとして入社。学生時代の4年間を麦企画で過ごした。
就職活動はせず、卒業後はワーキング・ホリデーを選択し、単身オーストラリアへ。ゴールドコーストのマリンスポーツ会社で1年間働いたものの、「自分探しのつもりだったんですけど……結局、何も見つかりませんでしたね」と苦笑い。帰国後は再び麦企画の門を叩き、正社員として勤務することになった。
「麦企画では飲食店の楽しさを覚えました。FL管理なども学んだのもその頃です」。
と謙遜するが、2002年9月の立川店オープン以降、勢いに乗っていた麦企画での経験はかけがえのないものだったと語っている。後に妻となる女性と出会ったのも、この麦企画時代だった。
“夢見るフリーター”が掴んだ転機。
27歳で独立を決意した島田氏は、麦企画を退社。父親と同じ電気工事の仕事に就きながら、独立準備を進めていた。
そんなある日、地元で居酒屋を営む知人から異業種交流会に誘われる。
「その人に『会費、5000円な』って言われたんですけど、当時ぜんぜん金がなくて。奥さんに『この日だけはどうしても』ってもらった5000円を握りしめて、その異業種交流会に参加したんです」。
異業種交流会といえば名刺交換。島田氏が用意したのは、肩書きに「夢見るフリーター」と記した自作の名刺だった。
この一文に強く反応したのが、ラーメン業界で名を馳せる五ノ神製作所の伊藤社長だ。
「“夢見るフリーター”か。君、面白いね」。
という伊藤社長の言葉に対し、島田氏は、「今は“夢見てるだけの”フリーターですけど、いつか店を出します」と、ユーモアたっぷりに切り返した。
機転の利いた会話術は、子どものころから変わっていないようだ。
「伊藤さんに、『これからどんな店をやりたいの?』って聞かれて、手打ちうどん居酒屋の話をしたんです。そしたら『うどんの売り方はわからないけど、ラーメン作りなら教えてあげれるよ?』って誘ってくれて」。
麦企画で居酒屋の経験があり、地元には「武蔵のうどん」というご当地うどんがあったこと、さらに若者のアルコール離れを考慮し、「昼は手打ちうどん、夜は居酒屋」というスタイルを考えていた島田氏にとって、ここで初めて「ラーメン」という選択肢が浮上する。
「『独立したいと思ってます。それでもいいですか?』って聞いたら、『いいよ』って。それで翌日に電気工事の仕事を辞めて、その次の日には五ノ神製作所に入社しました」。
電光石火の決断が、彼の人生を大きく変えることになった。
“自分の味”で勝負。
「本当は5年くらい修行するつもりだったんですけど、妻が信じている風水の先生に『今が絶好のチャンス。この機を逃すと(この先)10年は独立しないほうがいい』って言われて、勢いで独立を決めました」。
伊藤社長に独立の旨を伝えると、「お前、そんなんで独立するのかよ」と呆れつつも、「じゃあ、何ラーメンをやるんだ?」と問いかけられた。
「え?僕は何ラーメンを作るんだっけ?」。
独立したい気持ちばかりが先走り、何を作るか考えていなかったという島田氏。仕事の帰りにコンビニに寄り、カップラーメンコーナーをじっと眺めていると、ある事に気づいた。
「売り場の3分の1を、某大手企業のカップ麺が占めてたんですよ。で、“愛され続けて30年”ってキャッチフレーズを見て、『よっしゃ、この味なら30年は大丈夫だ!』って思って、チリ・トマトヌードルと、シーフードヌードルとカレーヌードルでいこうって決めたんです」。
さっそく、「3つ揃って、カッパヌードルでいきます」と伊藤社長に報告。それを聞いた社長は、心底感心したように「お前、成功するわ」とつぶやいた。
肝心の物件探しは難航した。やっと見つけたのは、横並び3軒の真ん中で、その3軒とも4~5年間空室という 、いわゆる“死に物件”。唯一のメリットは、広さ14坪で家賃9万円、駐車場5台分を借りて合計12万円と格安なことくらいだった。
「こういう店を嫌う人は多いけど、僕は嫌な感じしなかったですね」。
この実用的な判断力もまた、島田氏の強みだろう。
開業資金は、信用金庫からの借入金600万円に自己資金を加えた800万円。居抜き物件だったこともあり、改装費は可能な限り抑えた。風水の先生から「入口に龍の絵、反対側には虎の絵、盛り塩も」とアドバイスを受け、邪気払いも怠らなかった。
2012年3月24日、米軍基地の町・福生市に「カッパヌードル」をオープン。伊藤社長の支援や、モジャモジャ時代のファンの口コミが功を奏し、初月から200万円を売り上げた。
天下の〇ップヌードルをパロディにした店はすぐさま話題となり、テレビ出演の依頼も舞い込んだ。これで一躍ブレイクかと思いきや、突然、屋号や商品名の変更を余儀なくされる。俗にいう、“大人の事情”というヤツである。
落ち込んでいても仕方がないと、「カッパ64」として再スタート。チリ・トマトヌードルも「トマトラーメン」に変更した。ちなみに店名の「64」は、九九の「八八(はっぱ)64」とカッパを掛けたものらしい。
「JRのポイントカードをパロディにしたポイントカードも作りましたけど、こっちは何も言われてません(笑)。やっぱり、お店を出すときは、どれだけ口コミされる要素を持てるかが勝負だと思うので、ユーモアは大事にしてました」。
このセンス、さすがとしか言いようがない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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