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2025年9月17日水曜日

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

本文より~

0勝、7敗。

「『味の民芸』は、サガミが東京にはじめて進出した際、モデルにしたうどんチェーンです。ただし買収時点ではブランド力が低下し、業績も落ち込んでいたのです」と大西氏は振り返る。
<原因はなんだったと分析されていますか?>
「小麦の質を下げて原価を抑えたことが最大の要因でした」。
<つまり、味が落ちた?>
大西さんは、深く頷く。
買収前にサガミの役員たちは「味の民芸」に覆面調査に出向いたそう。当時、役員だった大西さんも、その1人。
「おいしければ勝ち。その逆が負け。7店舗まわって0勝7敗。全敗でした」。
役員のなかでも大西さんの評価はもっとも厳しかったそうだ。その厳しく採点した大西さんが共同代表として経営に参画することになるのだから、縁とはわからない。
ミッションはV字回復。
0勝7敗の重みが、大西さんにのしかかる。
「当時、サガミは仲間という意識で買収に臨みます。ただ、現場では融和的とはいきません。仲間だからこそ、今までのやり方を否定しないと、ともに進むことができないんです」。
「実をいうと」と大西さん。
「最初は、私も客数が何人、うどんが何万食、サガミは生産ラインをもっていますから、うまくいけばその売上で買収コストを償却できるなと電卓を叩いていたんです。でも、二つの会社が一つになるのは、そう簡単なことではありませんでした」。
大西さんは当時を思い出しながら慎重に言葉を紡ぐ。
「私のミッションは『味の民芸』をV字回復です。現状を否定しないといけない立場です。ただ、従業員はみな『味の民芸』に誇りをもっていました。それ自体は、もちろん悪いことではありません。ただ、私からすると、それが大きな障壁でした」。
外様の代表に冷酷な目が注がれる。
「ただ、いつだったかな。サガミの社章を外して出社したんです。目ざとく気付いた、ある社員が『社章、どうされたんですか?』って聞くもんですから、『だって、オレはもう味の民芸の人間だから』と言ったんです。すると、その一言で、周りの表情がかわるんです。どうやら『数年でサガミに戻るんだろ』と思われていたようなんですね」。
それが一つのターニングポイント。
信頼という空気に包まれたことで、大西さんの言葉がスタッフの心に届くようになる。
「調査結果は0勝7敗。すべての店舗が期待を下回っていた。しかし、ここから新たに始めよう」と店長やマネージャーたちに伝えたことが、再生の出発点となった。

お金では動かない男。

じつは大西さんには、以前にも「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。2019年のことで、すでに「味の民芸フードサービス株式会社」の代表取締役社長に就任されていた。
当時のお話を思い出しながら、簡単にプロフィールをご紹介する。
大西さんは1962年、岐阜県の<徹夜踊りと城下町>で有名な「郡上八幡」に生まれる。小学4年生から夕刊の配達をはじめ、高校3年まで続けている。大西さんに言わせれば、数少ない自慢の一つ。
高校卒業後、名古屋にある専門学校に通いながらサガミでアルバイトを開始する。
大西さんの仕事ぶりを評価した創業者から「学費は出してやる。だから、正社員になれ、と誘われた」逸話をもつ。その創業者への返答も逸話の一つ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。
大西さんは、まっすぐ創業者を見て、そう言った。
お金では動かないが、恩義では動く。卒業後、大西さんは何かと支援してくれた創業者に感謝して、サガミに就職する。
創業者の期待を裏切らず、出店攻勢をかけるサガミにとって、貴重な戦力となっていく。サガミ大型店1号店の店長を務め、そののちもマネージャー、運営部長、営業部長、子会社社長と要職を次々と経験。サガミの躍進に貢献する。
「味の民芸フードサービス株式会社」の社長に就任し、低迷していた業績をV字回復したのは、このあと。そして、現在はサガミホールディングスの社長を務めている。

復活の狼煙。

ところで、V字回復の経緯も、当時、詳しく語っていただいた。
「サガミが東京に進出したとき『味の民芸』はライバルでしたし、モデルでもあったんです。なかでも『手延べうどん』は『味の民芸』の象徴だったんです。つまり、圧倒的にうまい。しかし、私が覆面調査に行ったときにはその味はすっかり落ちていました」。
「原因は、簡単で原料の小麦です」と大西さんは当時もそう言っていた。
味の民芸の役員会議で小麦の仕入れの話になった。原価優先の話になったとき、温厚な大西さんが気色ばみ、猛然と反発する。
そのときの心境を前回、以下のように述べられている。
「あのおいしい『手延べうどん』がなくなっちゃ復活も再生もない。何より、従業員が自信を取り戻せない。でもね。『うどんだけで2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃ(買収しなきゃ)いいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
当初は、生産ラインが倍増するとコストメリットがあるとふんでいた大西さんに、2000万円が重くのしかかる。ただ、それでもひるまない。
「味の民芸」を守る。
その意志がこの会議ではっきりと示された。むろん、復活の狼煙でもある。

回復した「味の民芸」をコロナが襲う。

「おいしいうどんができない。涙を流してね。『悔しい』というスタッフがいた」と大西さん。原価をかけないからだ。「味の民芸」のうどんを誰より愛するスタッフだった。
「裏切れんでしょ。そう言われたらさ」。
大きな責任を背負ったが、同じ飲食人、気持ちは痛いほどわかる。だから、乗り越えてやると心を定めた。
「まず、メニューを変えたんです。それが私の最初の仕事だった。もちろん、原料の小麦を見直し、民芸自慢のうどんにリメイクです」。
原価を上げた分、メニューミックスで客単価を100円上げた。客数が減るのは、想定内。ところが、客数が10%伸びた。
「あれは、いい意味で計算外でした。それ以上に嬉しいこともあったんです」。
「スタッフがね」と大西さん。
「『お客様が『おうどんが、おいしくなったっておっしゃるんです』って、次々と報告に来るんです」。
喜びに包まれたスタッフの顔は今も忘れない。
「涙を流させていたのも、経営者だし、幸せなあの顔をつくるのも経営者。経営者の本質を知った気がします」。
ときは過ぎ、快走をはじめた「味の民芸」を、コロナが襲う。
この時の様子。
「サガミは愛知です。味の民芸は東京。東京と愛知でまったく温度差があったんです」と大西さんは笑う。
今だから、笑えるのだろう。
「私が、コロナだからっていっても、本部の人間は、そうですねぇくらいの返答なんです。 こっち(東京)は、小池知事が緊急事態宣言だってやっているのに、危機感がぜんぜん伝わらないんです。それで、もう、本部のメッセージを待っていられなかったので、私が民芸全店にビデオメッセージを送ったんです」。
「従業員の命を守る」と大西さんは覚悟を決める。
「家族構成を調べて、お年寄りと同居していたり、2歳までの子どもがいたりするスタッフは休業を申請しなさい、と。仕事は守るが、命は自分たちで守ってもらわないといけない、と」。
ところが、誰も申請に来なかったそうだ。
「みんなたいへんなのはわかっていたんです。せっかく業績がV字で回復して、誰もが仕事に誇りを取り戻していたときですからね。みんなもたぶんもう負けるわけにはいかなかったんでしょう。『休む』じゃなく、『店頭でお弁当を販売しましょう』『デリバリーしましょう』って言ってくるんです。こりゃ、やっぱりすごい組織だな、と。頼もしくもなり、だからこそ、私もコロナに負けるわけにはいかなかった」。
退職勧告はもちろんしない。
「ただ、深夜専任のスタッフには、先が見えないから辞めていただいた。それだけはどうしようもなかった」と、顔をしかめる。

・・・続き

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏


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2022年2月25日金曜日

味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏登場。

本文より

名鉄に揺られ40分、劇団に通う小学生。

知多半島のほぼ中央、ホタルの町として知られる自然豊かな阿久比(あぐい)町に生まれ育つ。少年野球のコーチをやっていた父の影響で小学生から野球をはじめ、プロ野球選手に憧れたこともあったが、将来は「歌をうたいたい」…歌手になることが一番の夢だった。
名古屋にある劇団のオーディションに合格し、小学校6年生から在籍。日曜日のレッスンのために毎週末、一人で片道40分、名鉄電車に揺られた。
「歌をやりたくて入団したのに、入ってみたら演劇の方だった」と笑って話せるのは、芝居の魅力を知り、やればやるほど面白くなり、結果芝居の方面で活躍する未来が待っていたからだ。
東海地方でも老舗のタレント養成所だったこの劇団に、同じ時期に通っていたのは、いとうまい子氏や小西博之氏等、後にお茶の間の人気者となる人たち。榊原氏もこの頃は、芸能界で活躍することがすべてで、いずれ飲食業の道に進むなど少しも考えてはいなかった。

幻の記録と引き換えに。

入学した中学は、陸上の強豪校で、スポーツが得意だった榊原氏は陸上部に入部した。
平日は友人たちと変わらず勉強と部活に励み、週末はレッスン通いという日々だった。
陸上部では「100m走」と「走り高跳び」を選択。「100m走」では11.2秒、当時としてはかなり速い記録を出したことがあるが、公式な大会の場ではなかったため、幻の記録となった。
スポーツの大会は日曜日に開催されることが多く、レッスン日と重なる。陸上選手としての可能性より、俳優としての可能性や出演番組の撮影を優先した。
当時、榊原氏が出演していたのは、NHKの「中学生日記」やCBCの連続ドラマ「真実一路」など、誰もが知る有名番組だ。撮影のために平日も学校を休むことも増えてきたが、友人たちは素知らぬふりでいつも通りに接してくれていたという。
中学2年の時、事務所が毎年公演している舞台の主役に抜擢され、名鉄ホールで豊臣秀吉を演じたことが大きな自信となり、芝居の道へ進む決心をさせることとなった。
勉学・スポーツ・芸能活動…。これまではなるべくバランスを取ってきたが、高校からは芸能活動にしぼり、オーディションを受けながら通えることを優先するため、マネージャーのすすめで名古屋市の私立高校に進学を決める。

高校中退、15歳で単身上京。

高校生になったばかりの4月、所属事務所がついに東京に進出し、オフィスを構えた。それからすぐ、榊原氏は7月で高校を中退し、単身で東京へ向かう。まだ15歳のことだった。
小さい頃から「好きなことを自由にやりなさい」と育ててくれた両親でも「せめて高校くらいは出て欲しい」と言うし、教師からも「エスカレーターで行けるのだから、大学を出てからでもいいんじゃないか?」と説得されたが、決心は変わることはなかった。
15歳、たった一人での上京に不安はなかったのだろうか?
「何もかも蹴って出ていく不安より、夢の方がずっと大きかったんです」。
上京後は芸能コースのある高校に行く選択をせず、オーディションや撮影・収録を優先、仕事のない時はアルバイト…という毎日が始まった。
アルバイトは、最初はテレビ局内の食堂で。その後、居酒屋で働いた。今思えば、これが飲食店での初めての仕事であった。映画の仕事が入ると1か月働けないこともあるので、身体が空いている日は生活のために死に物狂いで働いた。時効だが、今では法に触れるほどの労働時間であった。
そんな生活の中で一つ、榊原氏には楽しみがあった。ずっと憧れていた名優・志村喬氏が主役を演じた黒澤映画「生きる」の上映館を探し、20回以上通ったそうだ。作品中、夜更けの公園のブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむシーンが一番心に残っている。

スクールウォーズ、最後のトライ。

アルバイトをしながらの芸能活動だったが、こちらは順調だった。テレビの学園ドラマに映画に…と、いろいろな作品に出演する中、ある映画で不良少年の役を演じたのが関係者の目に留まり、声がかかったのが、一大ブームを巻き起こすこととなるドラマ『スクール☆ウォーズ ~泣き虫先生の7年戦争~』からだった。
榊原氏が演じたのは、川浜市立川浜高等学校のラグビー部員、栗原昭。チーム屈指の俊足で、全国大会決勝戦で決勝トライを上げる重要な役だ。部活と学業の両立に悩む役どころでもあり、何かと榊原氏と重なって見える。
野球や陸上の経験があるとはいえ、ラグビーの経験がない榊原氏は役作りのためにどんな努力をしたか尋ねると、「山ほど練習しました。全国優勝するチームの部員役ですから、同じくらい練習したんじゃないでしょうか?」と笑って教えてくれた。最終回は実際の試合映像を見てから撮影に臨んだそうだ。
スクールウォーズに出演したのが20歳。これを機に、仕事の依頼はますます増えたのだが、事務所の方針と本人の思いにズレが生じ始める。
「どんな小さな役にでも挑戦してみたい」榊原氏と、「スクールウォーズで有名になった俳優を安売りしたくない」事務所。残念ながらその溝が埋まることはなかった。

芸能界を辞めて、会社員に。

事務所との交渉が思う方向に進まない間も、榊原氏は飲食店でのアルバイトを続けていた。
当時海鮮居酒屋を30店ほど経営していた知り合いから、新店舗のオープンを手伝って欲しいともちかけれて行ってみたところ、今まで経験した飲食店とは別の世界を知ることとなった。
「一切お酒を飲まずに仕事をしている姿が衝撃的でした」。
これまでアルバイトをしてきた小さな居酒屋は、お酒を飲みながらの調理や接客が当たり前で、良くも悪くも「ビジネス」とは言い難かった。誘ってくれた知人の店は、しっかりビジネスとしての接客をし、当時大手ファミレスが導入し始めたばかりのオーダーシステムもいち早く導入。古い体質からの脱却を目指し、新しいシステムにアレルギーのない若い人材を求めていた。個人事業の俳優として活動してきた榊原氏に、「こういう上司の下で働いてみたい」と思わせるような人材もいた。
「きっぱり潔く、芸能界を引退して、会社員になりたかった」。
スクールウォーズの最終回から2年。最後のトライを決めたあの生徒は、22歳で居酒屋の店長となっていた。
店長や料理長が30代後半~40代が当たり前だったこの頃、店長会議では「若造が」と理不尽な言いがかりをつけられ「辞めたい」と思ったこともあった。辞める相談をした時に上司が、「俺が信じているんだから他の人が何を言ってもいいだろう、不満か?」と勇気づけてくれた言葉が忘れられず、榊原氏の中にも「人を大切にする」という信念が育っていく。

25歳、路頭に迷う。

がむしゃらに働き、新店オープンや全店システム導入を成功させた25歳、結婚を機に地元名古屋へ帰ることにした榊原氏。勤めていた会社からの引き留めはもちろんあったが、一人で生活している母の面倒を見たいという思いと、母が名古屋でやっている和食店を継いでこれまでの経験を生かせれば…という気持ちが強かった。
東京で式を挙げ、会社を退職し、妻を連れて戻ったところで、地主との契約の問題で母親の店が閉店となることを告げられる。
25歳、新婚、突然無職になり、路頭に迷う…。
家族を守るため、これまでやったことのない土木関連の仕事に就き、1年ほど経った頃。仲間と偶然入った居酒屋の玄関に「社員募集」の貼り紙を見つけた。見つけてしまったと言った方がいいかもしれない。
「もう一度、外食へ」
26歳で再挑戦した飲食業界。一番下からのスタートも、1か月で店長に、27歳でマネージャーまで出世した。
しかし、今回の会社は、前の会社時代から上司と部下の信頼や「人を大切にする」ことを重要とする榊原氏とは、「合わない」会社であった。
上司が部下に罵声を浴びせるのが当たり前の社風に気持ちがついていかず、退社を決意。最後の1か月は、自分が担当していた、売上で苦戦している店舗の近隣商店街に挨拶をして廻り、きっちり売上を上げてケジメをつけて辞めた。
二人目の子どもが生まれたばかり…。勤務時間も長く、会社のやり方への不満も聞かされていた妻は「あなたが良いなら、良いよ」としか言わなかったそうだ。

・・・続き

味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役社長 榊原 晃氏

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2019年2月19日火曜日

味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に味の民芸フードサービス株式会社 代表取締役 大西尚真氏氏登場。
本文より~

野球と新聞配達の二刀流。

八幡町というより、徹夜踊りと城下町で有名な「郡上八幡」といったほうが、通りがいいだろう。岐阜県にある昔ながらの町である。今回、ご登場いただいた味の民芸フードサービス株式会社、代表取締役の大西氏は1962年、この郡上八幡に生まれている。
「長男だから両親は当然、期待します。でも、ぜんぜん勉強しない、期待外れの少年でした/笑」と大西氏。
「少年時代、自慢できるものっていったら。そうですね、小学4年生から夕刊を配りはじめて、高校3年まで9年間もつづけたことかな。これは、数少ない自慢の一つです」。
小学生から野球もはじめている。こちらも高校3年までつづけているから、野球と新聞配達の二刀流だ。
「お金が欲しいからじゃないです。先輩を真似て、一度、興味本位で試してみたら、案外、しんどくなくって。そもそも、一度始めれば、なかなか辞められない性格なんです」。
高校3年まで、ほぼ休んだ記憶はない。
だから、家族旅行の思い出もないそうだ。
「中学から、朝刊に替わります。部活があって、夕方は無理になったからです」。
中学進学。「辞める絶好のチャンスじゃないか」と、こちらはつい、そう思ってしまったが、そうじゃなかった。
朝、新聞を配る。それから、朝練。高校になれば、夜まで練習はつづいた。さすがに勉強の時間も、気力もない。「そうですね。ま、時間があっても勉強はしなかったと思いますが…/笑」。
進学するつもりもなかったそう。ただ、「就職もヤだな」と思っていたらしい。
「それで調理の専門学校に進みました。ちょうどいい選択かな、と。1年の執行猶予ですね」。

先生から告げられた。「住み込み付きの、いいバイトがある」。

「こうして振り返ると、ぜんぜん努力してないですね。たしかに、新聞配達はしましたけど、特別、苦にならなかっただけの話。部活も、お世辞にも一生懸命だったとは言えない。結局、調理の専門学校に決めたのも就職するのがイヤだっただけだし…」。
ご両親は、しきりに「公務員になれ」と勧められたそうだ。なるつもりはない。「そもそも、勉強もできないのに、なれるわけがないでしょ」と大西氏は笑う。ともかく、そういう経緯で、大西氏は専門学校に進んだ。
校舎は、名古屋にあった。八幡から通うには遠すぎる。
「それで、専門学校の先生に相談したら、住み込みのバイトがあるっていうんですね。いいでしょ。私にピッタリだ。それで、先生にお願いして。ええ、それがサガミとの出合いでした」。
住み込みのアルバイト。当然、学校とバイトの掛け持ち。「当時、私みたいな学生が10人くらいいたでしょうか」。
大西氏は「人生がかわったのは、サガミのおかげ」という。ボンクラだった人間に、一本の筋が通る、というイメージなんだそう。「ただね。そう思うのは、もう少しあとの話で、最初は、住むところがあったからだし、女の子が多いからいいやくらいに思っていたんです」とのこと。
八幡の田舎者にとって、名古屋は大都会だった。18歳の少年にとっては、それだけで胸がふくらんだ。

「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。アルバイター、創業者に啖呵を切る。

バイトでは、一つだけ得意なことがあった。「料理のセットが、いちばん早かったんです。それで、重宝してもらって。バイトなんですが、オープニングには決まって呼ばれました。オープンは忙しいでしょ。だからね。ありがたかったのは、オープニングには創業者もいらっしゃるから、何かと声をかけていただいたことですね」。
一度、創業者から「学費は、ぜんぶだしてやる。だから、正社員になれ」と誘われたそうだ。「でも、あの頃から、生意気な奴でね。ぼくはお金で動く男ではないですよって、偉そうにね」。
当時、サガミチェーンは、出店ラッシュを開始するタイミングだったそう。新卒採用も積極的に行い、大西氏も結局、専門学校卒と同時に入社するのだが、その時は70人くらいの同期がいたという。「最初は、店長に歩き方が悪いなんて言われたもんです。でも、新卒で入社する時には、バイトですが、もう1年やっているから慣れたもんです。創業者にも知ってもらっていましたしね」。
最初から、頭一つ抜けていたのではないだろうか。トントン拍子で出世する。

あこがれは、やっぱり店長。

「当時店長はあこがれ、花形でしたね。ただ、サガミの店って、だいたい年商2億円くらいの大型店なんです。そう、簡単に店長にはなれません。だいたい6年くらいが、平均じゃないでしょうか」。そのなかで、大西氏は3年目で1号店本店と言われる店の店長になっている。
「評価して頂いたと思います。もちろん、当時は出店に次ぐ、出店。私だけではなく、みんなの昇格も早かった時代ですから」。
店長からマネージャーになり、平成11年には運営部長になっている。
「業績のピークは、だいたい2005年くらいじゃないですか。無謀な出店があだとなって、だんだんクオリティが下がっていきました。私は、のちに営業部長にもなるので、関西のお店も観に行くんですが、賃料が高く、立地も良くなくても、無理やり出店していましたから」。
サガミチェーンの話を整理するとこうなる。
1980年代に入り、チェーン化を加速。1991年には、名古屋証券取引所市場第二部に株式を上場。破竹のいきおいだったが、2005年以降、無理な出店も影響し、業績が陰り始める。リーマン・ショックで店舗は激減。特に、出店してまだ歴史の浅い関西で、多数の店をクローズする羽目になった。
大西氏が、創業者に「お金で動かない」と啖呵を切ってから、25年ちかく経った頃の話である。
・・・続き
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2017年11月21日火曜日

株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 伊藤修二氏登場。

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本文より~

高校卒業までの話。

名古屋市東区。「1958年、それまで農業をしていた父親が寿司店に修業にいって、寿司店をオープンします。実家の下が寿司店です。そういう意味では、小さい頃から飲食店に慣れ親しんで育ちました」。
今回、ご登場いただく株式会社サガミチェーンの代表取締役社長、伊藤修二氏は1955年に名古屋市中川区に生まれる。父親が開業したのは伊藤氏が3歳の時。伊藤氏が「慣れ親しんだ」という通り、物心がついた頃には、すでに飲食店が生活の舞台となっていた。
「兄弟は2人で、兄がいます。私とは違って、兄は頭もいい。2つ違いですから、いろいろ比較されたような気もしますね」。
小学2年から始めた野球は、中学2年まで続けている。それからはサッカーに没頭する。野球では、四番ピッチャーでキャプテン。サッカーでは左のウイング。
「サッカーには、ハマりましたね。当時はまだ野球に比べれば、マイナーなスポーツだったんですが、たまらなく楽しかった。成績は、インターハイに一度だけ出場しています。もっとも1回戦で敗退してしまうんですが。それでも、忘れられない良い思い出ですね」。
そういいながら、伊藤氏は目を細める。
伊藤氏の一つの原点なのだろう。

ディーラーのトップセールスマンに。

いまや、大学進学率は限りなく100%に近いが、伊藤氏が高校を卒業する頃はどうだったんだろう。「高卒」という肩書きもまだ一般的だったのかもしれない。
「そうですね。私はキリスト系の名古屋学院高校出身です。名古屋の私立では、うえから2番目です。それでも、大学進学はあまり考えていなかったですね。もっとも私は、勉強もしていなかったから、当然といえば当然なんですが」。
サッカーを引退すると、今度はバイクにハマり、バイクのローンを返済するためにバイトもしなければならなかった。だから、勉強どころではない。
若狭湾から京都を抜けて、大阪をひと回りして…、旅の記憶も鮮明だ。
「それで、大学にはいかず文具用品のメーカーに就職します。就職はするんですが、しばらくして『東京に行け』って言われたもんですから、それは『いやだ』ということで退職します(笑)。某自動車メーカーの販売会社に転職したのは、そのあとです」。
もともとバイクや車は大好きである。スポーツで鍛えた反射神経もある。人当たりもいい。成績は、常にトップクラス。伊藤氏の顧客は、相当数いたはずである。伊藤氏を新たな人生に導いた女性も、お得意様の一人だった。

サガミ創業者から、誘われた35歳。

「私が、サガミチェーンに入社するのは35歳です」。西暦でいえば1991年のことである。「私のお得様が、サガミチェーンの会長の妹さんだったんです。私のことを評価してくださって、再三『サガミに来ないか』と誘っていただいたんです。家族もいましたから、気軽に転職できません。1年間、悩みました。悩んで、悩んで、やってみようか、と」。
創業者の紹介といっても特別な待遇はなかった。むしろ、批判的な目と、プレッシャーがあった。年齢的にも35歳だ。「けっこうきつかったですね。朝7時からスタートし、翌日の3時、4時まで。休みも月1回しかなかった時もありました。ま、覚悟はしていましたが、いろんな人の目もあるわけで。特に創業者の紹介ですからね。プレッシャーも相当なもんです」。
それまではトップセールスマンとして、会社に君臨していた。35歳、いちばん脂がのっている時でもある。その席を投げうってきたにしては、待遇も微妙である。
「ええ、何度も『辞めようかな』って思いましたよ。でもね、私が辛い顔をしていたんでしょうね。パートナーさんが、『伊藤さん、元気ないけど辞めようと思ってない?』って聞いてくれるんです。『うん、辞めようと思っている』っていったら、『大丈夫、伊藤さんなら絶対店長になれるから。私、いっぱい観てきたらわかるんだ」って。もうジーンと来ますよね」。女子高生にも諭された。「『伊藤さんが辞めたら、面白くないから、私も辞めます』って、『おい、それはだめだ』って。でも、そういう一言一言が、私を元気づけてくれたんです」。
いま思えば、「伊藤」というサガミチェーンの7代目社長をつくったのは、その時の、パートさんや学生さんだったのかもしれない。ちなみに、このあと、伊藤氏は半年で副店長となり、2年目からは人事も兼務するようになる。
・・・続き
株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 伊藤修二氏

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2015年3月3日火曜日

株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏が登場。
本文より~

少年、鎌田氏の話。

「整列するたび、どこかに行ってしまう子だった」と鎌田氏は幼稚園時代を回顧する。理由は単純だが、子どもにとっては切実で、何でも「背が低く、並ぶと後ろにいる体の大きな奴にいじめられるからだ」そうだ。だが、先生にも理由を話していなかった。あるとき先生が、それに気づき声をかけたが「神様が見ているからいいんだよ」と取り合わなかったそうである。鎌田は1949年に埼玉で生まれている。まだまだバンカラな時代で、当時は子どもといえども骨太な少年が多かったのかもしれない。
兄とは違って「親に反抗するタイプでもあった」とも言っている。仕事と家庭を見事に両立させた父親に今は敬意あるのみだが、父への反抗期は長かったそうだ。
ちなみに父の充夫氏は埼玉銀行に勤め、立て直しのために八欧電機株式会社(現富士通ゼネラル)に出向している。「父の転勤で、私も一度、大阪で暮らしました。小学3年生の時に埼玉にUターンし、6年から埼玉大学教育学部付属小学校に編入。中学は、そのまま付属中学に進みます。そのまま県立浦和高校に進むのが埼玉ではエリートコースです(笑)」。
しかし、鎌田氏本人は「高校でコースから離脱した」といって笑う。外れたといっても「慶應義塾志木高等学校」に進んでいるのだから、何の問題もないような気がするのだが。

「皆中」。すべての矢を的に当てる。

「皆中」という言葉があるそうだ。「的に向け射た20本の矢が全部当たるのを『皆中』と言うんですが、これがなかなかできない。うちの学校では、1年先輩の1人と私にしかできなかったんです」と鎌田氏は高校時代を語り始める。高校に進学した鎌田氏は、人がやらないことをしようと弓術部に入部。もともと才能があったのだろうか、主将まで務めている。むろん、大会にも何度も出場した。
「当時のバイブルは『弓と禅』という本でした。これは、弓聖とも称される阿波研造範士という伝説の弓道家の下で修業したドイツ人哲学者、オイゲン・ヘリゲル氏という人が書いた本です」。
鎌田氏は音楽にも造詣が深い。のちドイツに留学した鎌田氏は、ベートーベンの生家を何度も訪れている。そのとき、このオイゲン・ヘリゲル氏の奥様と一緒に氏のお墓参りをしたそうだ。それだけ、この本の印象は強かったということだろう。

ドイツ、そしてイスラエル。

高校を卒業した鎌田氏は、多くの生徒がそうするように自動的に「慶應大学」に進学する。しかし、こちらは稀といっていいだろう、7年間も在籍した。うち3年は休学。インターン生として海外に渡っている。そのときのお話も伺った。
「初めてドイツに渡ったのは、1970年のことです。アイセック(AIESEC)という世界組織の海外研修制度を利用しました。ドイツではインターン生としてドイツ銀行と、小さな日本の商社で合計18ヵ月くらい勤務しました」。
当時の心境を鎌田氏は、寄稿文のなかで次のように、語っている<「今ならできる。今しかできない。行くか?行く!」と運命の女神の前髪を掴んで大学4年の時に渡独した>。揺れる学生の気持ちが、良く表れている。
ドイツで2年、それからイスラエルで1年。合わせて3年。大学を休学した年数だ。
ところで、ドイツは分からなくもないが、どうしてイスラエルだったのだろう?
「イスラエルに行ったのは、ユダヤ人の研修生と出会ったからです。彼から中東戦争の話を聞いて、その事実を確かめたくなったんです」。学生とはいえど、なんとも旺盛な冒険心だ。
「といっても、ですね。みなさんが想像されるように爆弾が飛んでくるような状況ではなく、農業共同体の『キブツ』というところで、衣食住すべてタダという快適な生活を送っていました。この『キブツ』には世界中からいろんな学生がやってきました。言葉は、ヘブライ語です。『キブツ』では、ヘブライ語を学ぶコースをとり、試験ではつねにトップの成績をおさめていました。『日本人は、なかなかやるもんだ』と世界の学生に発信できた気がしています(笑)」。
ドイツとイスラエル。なかでもイスラエルは、やがて鎌田氏のもう一つのふるさとのような存在になる。

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