2026年8月7日金曜日

おもしろい展開やる時が来た~!!

やっとキイストンの新しいことにチャレンジするベンチャースピリッツである、おもしろい展開やる時が来た~!!


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏登場。

   “飲食の戦士たち”株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏を取り上げました。

本文より~

京平さんは、大学進学のため、バイトに精をだす。

父にも母にも敬語を使っていた。弟たちからは「京平さん」と言われていた。曽祖父が起こした達川グループは、地元の京都府福知山では有名な企業グループだった。
「ただし、うちは富豪でもなんでもなかった」と断った後、「それでも、父には『お父さん』じゃなく、『社長』。母には『母』でも『達川』でもなく、旧姓で話しかけていました」という。
ちょっと変わった話が、始まった。
「兄弟は私を筆頭に男4人。弟たちも私には『京平さん』でした」。
「父は私が2歳の時に、祖母が経営していたお好み焼き店を継承して、飲食業を本格的にスタートします」。
お父様が飲食を開業したのは、やはり、福知山。
その福知山が、今回、ご登場いただいた、株式会社Numbersの代表取締役、達川 京平さんの生まれ故郷。
生まれは1999年。2026年のこのインタビュー時点で、まだ27歳。この年齢も少し頭に入れて読み進めて欲しい。
「父の飲食業は、福知山から北近畿に広がります。私が高校生の時には20店舗ありました」。
息子たちと、一緒に会社も育っていった。
父の教えは「兄弟全員、船主になれ」だった。船主はもちろん1人。「兄弟で、おなじ会社を経営するな」という教えである。この教えを小学生の兄弟は、頷きながら聞いていた。
「私は、小学校から水泳やバスケットボールをやって、勉強もそれなりにやって、福知山のなかでは進学校に進みます」。
<将来、船主ですもんね?>
「そうです、そうです。ただ、高校生の時には、起業とかそういうことじゃなくって、田舎者だから東京に憧れて。大学は『青山か、明治か』なんて考えていました。実は、東京の大学に進むために、中学生の時からバイトでお金を貯めていたんです」。
4人兄弟だから、高校も公立。父母の言うことは、絶対。反対されても行けるよう資金を準備した。その額、300万円。
「父のカバン持ちもしていて、飲食の経営者にもお会いしました。こちらは将来の起業のためですが、父の会社の書庫にあった『日経レストラン』や『月刊食堂』など、外食の経営本を片っ端から読んでいました」。
<大学進学と起業。まずは大学進学ですね?>
「ふつうなら、そうなんですよね」と、達川さんは笑う。

社長は、高校3年生。

「小さな頃から父の仕事をみていましたし、店でアルバイトもしていたんで、飲食だったらだいたいわかるんです。高校生くらいになると独学の効果もあって、解像度が上がってきます。すると、父の店の問題点にも気づいて『オレなら』という気持ちになっていくんです」。
「根拠はまったくないですが、自信だけあって。実は、高校3年生に進級した春、父を説得して、業務委託で飲食事業をスタートするんです」。
<高校3年の春? 学校は?>
「高校は続けました。もともと禁止されていたアルバイトも、私だけ特別にOKだったんです。その延長で(笑)」。
「居酒屋を経営します」と聞かされた先生は、さぞ目を丸くされたことだろう。
「うちの社長は、高校生」。
やはり、おかしい。
「お酒を飲めないのに、お酒を勧める高校生だった」と言って、笑う。
創業メンバーはご近所さんの幼馴染。今もナンバー2として、達川さんをサポートされているが、当時は2人とも高校生。
「さすがに、高校生2人ですから、父のところからサポートで、スタッフさんに来ていただいていました」。
家賃は15万円。父には月60万円を支払った。
しかし、どうして、進路が大きくかわったんだろう?
出向で来られていた方は、達川さんを「社長」と呼んだのだろうか?
それにしても、大学に通いながら社長になった経営者にはインタビューで度々、出会ったが、高校生で社長になったのは、今回の達川さんが初めてかもしれない。
果たして、高校生社長はどんな結果を残すのか。経営は空想のなかで、経験したのみ。店の業績は、下降気味で、月商100万円前後で推移。駅から徒歩30分のロケーション。
常連さんは、少年の店主を受け入れてくれたのだろうか?
話を急ごう。

父が設定した、高いハードル。

「実は、その店は父の会社の創業店で、さっき言った祖母が経営していたお好み焼屋だったお店です。突然、店長が姿を消し、月商も下がって100万円程度だったので、『倉庫にするか』『社員に譲るか』という話があって、それが私の耳にも入るんです」。
<思い出のあるお店だった?>
「創業店といっても、私が2歳のときですから、思い出うんぬんじゃなく、『やってみたい。オレなら業績をあげられる』って。眼の前にニンジンをぶら下げられた馬の気分で、もう、大学どころじゃなくなったんです(笑)」。
<高校生によくお父様もOKをだされましたね?>
「簡単じゃなかったです。父からは『社員に委託するよりハードルを上げる』と言われました。社内で、独立希望者も少なくなかったから、当然ですね。それで、月商100万円程度の店で、家賃15万円、使用料で月60万円です」。
<固定費75万円?>
「当然、赤字です(笑)」。
社員の給料もある。大学に進学するために貯めていた300万円を運転資金に回した。それが、みるみる減っていく。
「でも、ぜんぜんビビってなかったです。父がバックにいるとか、そういうんじゃないですよ。実際、バックにいたわけではないですし。オレなら、絶対、いけるって」。
高校生が、赤ら顔の大人たちに料理をだし、酒を勧める。福知山、ローカルなエリアだ。なかには、おなじ高校出身のお客様もいて、盛り上がったかもしれない。交わされたのは、部活の話か、未来の話か、酒の話か。
<お店に来たら、お客様も若返ったんじゃないですか?>
「15坪の小さな店です。お客さんとの距離はめちゃくちゃちかいです。影響は、あったかもしれませんね(笑)」。
おっさんと高校生がカウンター越しにキャッチボールする。
「当時の福知山ですから口コミです。いけるかどうかは、カウンターの向こうにいるおじさんたち次第です。まさか、高校のともだちに来てもらうわけにもいきません(笑)」。
<業績は上がりましたか?>
「なかなか上がらなかったですね。半年くらいで貯金が底をつき、首が回らなくなりました。でも、タイミングを測ったかのように、その頃から、ぐっと業績がアップしていくんです」。
高校生、実践にもとづいた戦略、戦術はない。
「週イチだったお休みをやめて、毎日17時~24時までフルタイムで働きました。父のところから出向で来ていただいていたんで補助輪付きですが、なんとか、かんとか、軌道に乗り始めます」。
「月商は350万円になった」という。
自身は給料もとらずに資金をプールして、出店を重ねた。
「未成年ですから銀行が貸してくれない。だから、3店舗目までは自己資金でオープンしていきます」。
<4店舗になったときは、さすがに高校を卒業されていますよね?>
「ええ、そこは、当然」。
<改めて、大学に進むという考えはなかったですか?>
「ないですね。ますます飲食に惹かれて、有名な飲食の経営者のブログを読み漁っていました」。
友達も、お酒を飲める年齢になっている。飲食店の若きオーナーを、友達は、どういう目で見ていたんだろう?

・・・続き

株式会社Numbers 代表取締役 達川京平氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏登場。

  “飲食の戦士たち”有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏を取り上げました。

本文より~

スジャータに就職するまでの増子さん。

「キャプテンで、エースで4番」。
「小学校の頃の話だけどね」と増子さん。今回ご登場いただいた有限会社マイプロジェクトの代表取締役会長だ。
「中学ではショートで5番。ちょっと遊びの方向に進んじゃって。1年くらい幽霊部員みたいな時があって。でも野球が好きだったからね。3年になってもう一度、グラウンドに戻って」。
「いろいろあったな」と笑う。
「中学1年で初恋。高校に入って彼女ができて。高校は市立工芸高校っていうんだけど。入学してすぐ喧嘩で停学になって、合計3回くらいかな停学になっています」。
校則はゆるく、比較的自由に楽しめたが、停学以外にも、難関が一つあった。
「追試があってダメだったら、退学。私はギリギリクリアしましたが、実際、今も付き合いがあるんですが、ともだちの何人かは追いだされています」。
高校を卒業した増子さんは、スジャータ(名古屋製酪株式会社)に就職する。
「高校に求人が来るでしょ。頭のいい奴からとっていくんです。最初はチョイスできるけど、私はもう最後のほうだからね。でも、スジャータはとてもいい会社だったよ」。
<残り物に福がある?>
「そう、まさにそんな感じ」。

営業マン、増子さん。

「成績はいいほうでした」。学校ではなく、営業成績の話。表彰もされているそう。
「レストランにトラックで注文された商品をとどけて、そのときに営業もするのが定番のスタイル。営業数字より、人間教育っていうか、そういうのを大事にする会社だった気がします。スジャータには24歳までいたから、6年か。長くいたよね」。
じつは、増子さん。中学生の頃から「将来、社長になる」と思っていたそうだ。
「おぼろげだけどね。勉強はしなかったけど、歴史は好きで、とくに成り上がる豊臣秀吉とか、坂本龍馬とか。そういう偉人の本を読んでいたからじゃないかな」。
「それに、人に従うのが、どうもできない人でした」。
だから、6年もサラリーマンをつづけられたことは、異例。ちなみに、人に従うのが苦手なことは、高校生のときのバイトで証明されている。
「全然続かないんです。態度が悪いんでしょうね。すぐ、くびになっちゃう(笑)」。
「スジャータを退職することになったのは、ちょうど神戸の震災があって、お客さんに誘われたんです。『神戸に行って解体業をしようぜ』って」。

神戸と、黒塗りのベンツと、建築業と。

「震災があった年の6月には神戸に行った。誘ってくれた飲食店のオーナーは『いかん』と言いだしたんで、行ったのは、私1人。向こうで、解体業のチームに入りました」。
<いい会社だったのに、なにが増子さんを動かしたんですか?>と聞くと、「スジャータという看板がないなかで、なにができるかやってみたかったんです」と回答。
24歳。ピュアな青年だった。
「仕事はあったけど、500万くらい借金ができた」というのは、神戸での話。
<なんでまた?>と聞くと、私らは10人くらいのチームでやってたんですが、そりゃ、いろんな奴がいるんです。サギ師みたいなのもいた。借金ができたのは、そのチームをまとめていた親方が、借金を抱えて飛んじゃって、私がアホで、その保証人になってたからなんです」。
<どうしたんですか? そんな大金?>
「幸い、親方の仕事を引き継ぐことができて、ほかにもいろいろと紹介してもらって。まぁ、向こうは借金を返済させるために、せっせと紹介してくれたわけんだけど(笑)」。
「それでもマジメにやってたからでしょうね。仕事の幅も広がって、じつは建築の仕事もはじめたんです」。
<借金はどうなりました?>
「1年くらいで無事返済できたかな。返済が終わって自由になって。もう、神戸はこりごりだって、名古屋にもどってくるんです」。
「解体の作業中だから昼頃かな。黒塗りのベンツが現場のちかくで止まって、『増子っていうのどれだ?』って。『オレです』っていったら、ベンツに乗せられちゃって。500万円の返済がスタートです」。なんて、おっかない話もしてくれた。
<神戸を離れるのに仕事はどうしたんですか?>
「後輩にクライアントごとパスしました」。
もったいなかったが、早く神戸からおさらばしかたった。
カネの鎖が取れて、名古屋に、無事、帰還。さて、その後は、どうなっていくんだろう。

マイ(MY)プロジェクト、スタート。

「建築の勉強とかをしたかったから、リフォームの営業をします。成績は悪くなかったから、いいお金にもなって、だんだん仕組みもわかるようになって。適切な値段で営業したら、オレでも会社ができるんじゃないかって思うようになってね」。
「それで、吉田ってやつを誘って、増子のMと、吉田のYをとって、MYで、マイプロジェクトを設立するんです。でも、吉田は飲酒運転で事故って亡くなっちゃうんです。すぐあとに、良くしてくれていた中学校からの先輩も亡くなって。神戸での経験もそうですが、この出来事で人生観がめちゃくちゃかわりました」。
それでも増子さんは後ろを向かなかった。
「いい仲間がたくさんいたからね。こっちに戻ってマイプロジェクトをつくったのは1996年。20代の後半だったかな」。
「初年度は数千万円だったけど、2年目には1億円になって」。
スジャータ時代のネットワークを使って、業績はアップをつづける。ついに、4億円。
「でさ、今度は、自分でやりたくなっちゃって。売り上げも4億円になったんで調子に乗っちゃってね。最初に鉄板のお店をオープンするんですが、見事にこけます。つぎに、セルフうどんの店を引き取って、セルフパスタに変更して再オープンするんです。こっちはしばらく健闘するんですが、けっきょくクローズします」。
「そのときね。業者の人に聞くんです。『なんで失敗したと思いますか』って。そしたら『社長はやりたいことをやっているだけ』だの、『ロケーションを考えていない』だの、『人使いが悪い』だの。もう、コテンパンにやられたんです」。
「彼らは、もう店をしないと思っているから、もう関係もないでしょ。だからズケズケ言ってきます」。
「聞き方によっては悪口なんだけど、ありがたかったね。私には救いの言葉でした。『そうか、そうなんだ』って」。
転んでもただじゃ起きない。それが増子さん。MYプロジェクトもまた、そんなやわな会社じゃない。
・・・
続き

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年7月21日火曜日

株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏を取り上げました。

本文より~

爆音のなかで、望んだ未来。

5歳のときだった。
こどもたちは埼玉県にある戸田競艇場にいた。ボートレース好きの父親に連れて来られていた。爆音に耳をふさぐ妹をみながら、佐野さんも両手で耳をふさいだ。
「うちの父親は、ザ・昭和の人間で、とにかくめっちゃこわい大人でした。ボートレースに入れ込んでいて、週末になると、私ら兄妹を競艇場に連れていきました。競艇場には、こども用のエリアがあるんです。3歳下の妹と2人して、そこで、父親を待つんです」。
勝てばエビスが、負ければオニが現れたに違いない。
最初は、爆音に耳をふさぐ少年だったが、プールを疾走するボートを観て、心が動く。
「競艇に行くのは好きじゃなかったんですが、週末ごとに連れていかれていたので、だんだんとレースに魅了されて、将来、競艇選手になってやろうと思うようになっていきます」。
<格好よかった?>と聞くと、「ですね」と相槌を打ったあと、「なによりおカネになるでしょ」と一言。
父親の支配から、母と妹を連れ出すにはカネがいる。少年は、爆音にすべてがかき消される、そのなかでも少年は現実をちゃんとみつめていた。

170cmオーバー。これも、一つの現実。

小学生の頃の話を聞くと「これといった特徴もない、平均的な少年だった」と回答。
「第二次ベビーブームの生まれなので、生徒数は今とは比較にならないです。とにかく、こどもが多く、中学や高校は11クラスあったんじゃないかな」と笑う。
たしかに、今とは比較にならない。
子育ても、今の時代とはちがう。キゲンが悪いと、父の拳骨がとんだ。希望は競艇選手。しかし、中学2年生で背丈が170cmをオーバーして断念するしかなかった。
調べてみると、競艇選手には身長制限があって「175cm以下」となっていた。
「そう。今はそうなんですが、当時は170cm以下だったんです」。

念願の一人暮らしと、カラオケボックス。

今回、ご登場いただいた佐野さんが生まれたのは1973年12月24日、クリスマスイブだ。
兄妹は、3人。下に妹が2人いる。
「とにかく、はやく独立したいと思っていて、高校では学校が終わるとアルバイトにでかけました」。
授業が終わる夕方からシフトに入る。
「親戚が経営する焼肉店で、高校を卒業して18歳になった時に店長に昇進しました。アルバイトの採用からシフト管理、給与計算も任せてくれたのが、いい経験になりました」。
社会人として、自立する一方で、念願の一人暮らしをはじめている。
高校を卒業して23歳になるまで、勤務。その後、あるカラオケボックスのチェーン店に転職する。
「大手のカラオケチェーンのエリアマネージャーから、オファーをいただいたのは23歳の時です。うちの常連客のお一人です」。
「当時はカラオケボックスの全盛期で、そこだけバブルが残っているようでした。だから、採用にも積極的だったんだと思います」。
実際、採用数はハンパなかった。ただ、その一方で退職者が多かったのも事実である。
「同期20人が一斉に入社して、3ヵ月後には3人しか残らない世界でした」と佐野さん。
ハードな勤務に逃げ出す同期が少なくないなかで、佐野さんは逆に「仕事に惹かれていった」という。
「カラオケボックスって、じつは空間をセールスする仕事なんです。時間を課金化するしくみがあって。運営のポイントは効率的な集客。そのスキームをつくって、多くのスタッフを使い、何十ルームを運営する。これが楽しくて完全にのめり込んだんです」。
残った社員同士の競争もまた、佐野さんを刺激した。仕事はきつい。ただ、前職でも深夜まで働いていた佐野さんにとっては苦にならない。
責任ある仕事が任される。それがまた、楽しかった。
「仕事だから厳しい時もなくはないですが、当事者意識で仕事をしていれば面白くないわけがないんです」。
ビジネスというプールを疾走する。カラオケボックスは、次々にオープンされ、80店舗以上に広がる。佐野さんは営業トップをサポートするキープレイヤーとなって事業を推進する。
「面白い」という言葉にも頷ける。
ただし、仕事が面白いのは、会社がおなじ方向を向いていればの話である。

複合カフェで出会ったダーツビジネス。

「元々、いろいろな事業に関心がある経営者でした。カラオケボックスは主体だったんですが、あるホテルを買収してからは、ホテル事業が大きく成長したこともあり、カラオケ業界のダウントレンドと共に事業ポートフォリオが変わっていきました」。
「会社の戦略も変わり、事業の成長期と共に育った私からするとやりがいが薄れてきていたのが事実です」と佐野さんは言う。
向くべき方向がずれる。
「そうなると、私自身の熱量も下がって、37歳の時に、14年在籍した会社を去りました」。
<思い切った決断ですね?>
「そうですね。でも、やりきったという思いがつよく、新たな道をさがそう、と」。
<わくわくする方向へ、ですか?>
「そうです。それで、2009年、信頼する上司の誘いで、カラオケ機器ディーラー母体の企業に転職しました」。
それが、今につながるターニングポイントだった。
「その会社の事業の一つではじめて複合カフェを担当した」と、佐野さん。
「お世話になったのは愛知に本社のある会社で、東京で『カラオケボックス事業』をスタートするという事で、その責任者に誘っていただいたんです」。
「事業M&Aに積極的な会社で、カラオケボックスの展開より、たまたま複合カフェの買収が案件として多く、経験のない複合カフェ事業の営業管理職を任命されました。その時に初めてダーツとも出会いました」と佐野さんは言う。
「後にダーツマシンのレンタル・リースのディーラー事業もM&Aすることになりました。当時は複合カフェの責任者をやりながらダーツマシンの営業もついでにやってましたね。複合カフェ事業もそもそも不採算店舗を買収しているので収益性も低く、ダーツのディーラー事業もカラオケディーラーとは勝手が違う世界だったので、業界関係者からは悪い意味で目立つ存在にもなっていて…」。
どちらの事業も会社の事業の中ではお荷物扱い。そこで、ダーツディーラー事業の責任者をやらせて欲しいと自ら手を挙げたそうだ。
「私は、その事業を立て直すために奔走するんですが、けっきょく、ファンドのメスが入って事業は切り売りされてしまいました」。
10年、在籍した。
「残務処理が最後の仕事となってしまった」と、佐野さん残念そうな表情をする。
「私が採用したスタッフや、部下を、リストラするのも仕事の一つです。あれほど辛い経験はほかになかったですね」。
どうしようもない、抗うことができない力に屈する。力のなかった少年時代といっしょだった。
時代の変化は、ピュアな佐野さんを弄んだ。しかし、それによって新たな道も広がっていく。2020年2月、残務処理を行っている佐野さんに、ある人物が声をかけた。

・・・続き

株式会社POC 代表取締役 佐野健治氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年7月15日水曜日

株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏を取り上げました。

本文より~

父の軌跡と、幼少期に育まれた「食」の原体験。

小山氏のルーツを辿ると、戦時中の満州へと行き着く。満州で商売を営んでいた小山氏の祖父は、神戸に本妻を残しながらも、現地で山口県出身の女性との間に一子をもうけた。それが小山氏の父だ。
祖母は現地で他界。終戦に合わせ、父はわずか3歳という幼さで祖父と共に日本へ引き揚げた。祖父は、満州生まれの息子を本妻に任せることを躊躇したのだろう。幼い父は、実母の故郷である山口の親類のもとで育てられることになった。
高校1年の春、山口を離れ、神戸に住む祖父のもとに身を寄せた父を待っていたのは、階段の踊り場にカーテンを引いただけの、およそ部屋とは呼べない寝床だけ。
父は勉学に励み、神戸大学に進学。卒業後は丸紅系列の商社マンとして頭角を現し、役員にまで上り詰めた。社内恋愛で結ばれた妻との間に授かった二人の息子のうち、次男として産声を上げたのが小山氏である。
父は仕事柄、出張や単身赴任が多かったが、帰宅する日には一家の食卓が一変したという。
「若い頃の反動か、父はとにかく旨いものが好きでした。それに、母も非常に料理が上手でしたね」。
幼少期に形成された豊かな味覚が、後に小山氏が飲食業界という荒波で舵を取る際、何物にも代えがたい指針となったのは言うまでもない。

躍動する少年時代と、音楽への傾倒。

子どもの頃の小山氏は、勉強よりも外遊びに夢中な「わんぱく坊主」そのものだった。得意科目は体育、技術、音楽といった副教科。虫取りや山遊びに熱中し、直感的に「やりたい」と思ったことには迷わず飛び込む性格だった。小学校では野球、中学校ではサッカーに没頭。コーチの推薦もあり、サッカーの名門・御影工業高校へと進学する。
しかし、彼のアンテナは常に新しい刺激を求めていた。サッカー強豪校に入学したにもかかわらず、友人と共に突然ボクシングジムへ通い始める。だが、プロボクサーとして生計を立てる厳しさを知ると、潔くその道を諦めた。そんな中、唯一彼の心を支配し続けたのが「音楽」だった。
中学2年の頃、祖父の家にあったギターを手にしたことをきっかけに、フォークソングの世界に魅了されていく。自ら曲を書き弾き語る傍ら、デモテープを音楽事務所へと送り続け、ミュージシャンとして生きる未来を描き始めた。

三菱重工業で出会った「人生の師匠」。

高校在学中には電気工事士の資格を取得。周囲から大学への進学を期待されていた小山氏に、転機が訪れる。神戸に造船所を構える三菱重工業が、その年初めて高卒・高専卒技術職の採用を開始。小山氏は見事試験に合格し、安定と高待遇が約束された巨大企業で働くことになった。
巨大企業での歳月。そこでは、小山氏の価値観を塗り替える二つ出来事があった。ひとつは20歳で遭遇した阪神淡路大震災。成人式の翌日に街は一変し、同級生3人を失うという過酷な現実に直面した。
もうひとつは、社内の指導員制度を通じて出会った10歳年上の先輩社員の存在だ。小山氏は今もその先輩を「人生の師匠」と呼び、深く親交を育んでいる。音楽への未練を捨てきれず、焦燥感を抱えていた18歳の小山氏に対し、先輩はこう説いた。
「技術を磨きたければ、優れた人間が集まる輪の中に飛び込め。そして3年間はここで経験を積め。それでもまだ音楽をやりたければ、そこから進めばいい」。
師の教えに従い、論理的思考とプロの姿勢を学んだと明かす小山氏。加えて「高卒ではどれだけ努力しても課長止まり」という組織の壁に直面する。入社4年目を迎えた日、彼はついに退職を決意した。両親からは激しく反対されたが、師匠だけは「行ってこい」と彼の背中を力強く押してくれた。

メジャーデビューと、突きつけられた現実。

音楽の世界へ飛び込んだ小山氏。バンド「KAYA」のリーダー兼ボーカルとしてメジャーデビューを果たすが、現実はそう甘くなかった。一時はスポットライトを浴びるも、月給はわずか7~8万円。宇多田ヒカルを始め、次々と目の前に現れる圧倒的な才能に戦慄する中、「こんな人たちとは戦えない」という冷静かつ残酷な自己分析がその手からギターを奪う。小山氏は自己否定のスパイラルに陥り、27歳で音楽活動に終止符を打った。
もう一度アマチュアからやり直そうと考えていた彼に、音楽事務所の社長から「飲食FC店の店長をやってみないか」と声がかかる。恩義もあり、「1年だけ」という条件で未知の業界へと足を踏み入れた。

未経験からの店長就任と、最優秀店長への飛躍。

配属先は兵庫県西脇市の居酒屋「とりあえず吾平」。店長という肩書きこそあれ、小山氏は接客も飲食も全くの素人だった。赤字続きの現実を目の当たりにした彼は、飲食店としては異例の「法人営業」に乗り出す。周囲の会社を一軒々々地道に訪問し、必死に店の存在をアピールした。この熱量が町の人々の心を解き、売上げは爆発的に上昇。全国40店におよぶFC店の中で、2度も最優秀店長に選ばれる快挙を成し遂げた。
「音楽制作と飲食店経営の構造って似てるんですよ」。
ターゲットを定め、アレンジを加え、空間を演出する――音楽を作る流れが、そのまま飲食店経営に転用できる。小山氏のこの着想は、さらなる成長へとつながっていく。

荒波の中での武者修行と、決意の独立。

約束の1年が経過し、退職を申し出た小山氏のもとには、その手腕を聞きつけた各地の企業からオファーが殺到した。大阪の「餃子計画」では得意の営業スキルで売上を大幅に伸ばし、前月比160%という驚異的な数字を初月に叩き出す。エリアマネージャーへの昇進を果たす一方、会社側の経営悪化を受け「リストラ部長」という辛い役目を担うことになった。断腸の思いで組織を立て直した後、自らも責任を取る形で退職した。
次に選択したのは、焼肉店を経営する企業での、雇われ社長としての道だった。そこでも飛躍的に業績を伸ばしたが、会長との価値観の相違から、わずか1年半で袂を分かつことになる。小山氏の決断で路頭に迷いそうになった元同僚や後輩たちのため、辞職後もなお奔走し続ける彼の「義理堅さ」が、次の扉を開く鍵となった。

34歳、三宮高架下での「旗揚げ」。

そんなある日、昔のバンド仲間からある人物を紹介された。三宮高架下の物件をうまく活用できる借主を探しているという。
「僕はまだ直営店すら持っていませんが、これだ!と思う構想はあります」。
彼の熱意に打たれたその人物は、「思い出のあるこの場所を、若い力で復活させてほしい」とFC契約を了承。2008年、小山氏は神戸で初めて自分の旗を揚げた。
わずか15坪、高架下の2階という、決して好条件とは言えない立地。そこで彼が放った「199円ビール」、この一手が業界を震撼させることになる。まずは店を知ってもらい、足を運んでもらうための強烈なフックだった。
果たして「199円ビール」は大きな反響を呼んだ。もともと神戸には昼飲み文化が根付いている。夜勤明けの面々が午前中から喉を潤し笑い合える、憩いの場が高架下に誕生した。ここから株式会社KayaGroupの快進撃が始まったのである。

・・・続き

株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年7月7日火曜日

株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏を取り上げました。

本文より~

文武両道から掴み取った東工大への切符。

神戸に生まれ育った船曵氏は、幼少期から運動が得意で小学校では野球クラブで活躍し、中学から始めた陸上では、入部直後の1500メートル走でいきなり5分10秒という好タイムを叩き出し、周囲を驚かせる。その後、名門・神戸高校へ進学。サッカー部のレギュラーとして活躍する一方でアルバイトにも精を出す。しかし部活動との両立は容易ではなく、一時は成績が低迷した。
しかし、「このままではいけない」と一念発起。高校3年の夏休みから猛烈な追い上げを開始し、図書館でひとり参考書と向き合った。そして見事、東京工業大学への合格を果たした。

マッキンゼーでの研鑽とワイズテーブルとの邂逅。

就職活動では当初商社を志望していたが、船曵氏の関心は次第に「人の感情を動かす仕事」へと移っていく。きっかけは、ディズニーランドで目にした光景だった。
「エレクトリカルパレードを見て、心の底から感動している外国人観光客たちの姿に、僕が感動してしまったんです。世界中の人を喜ばせる、エンターテインメントの場を作りたいと強く思いました」。
その夢をかなえる修行の場として選んだのが、戦略コンサルティング大手のマッキンゼーだ。
しかし、そこで待っていたのは想像を絶するハードワークだった。「僕らの仕事は9時5時(朝9時から翌朝5時)だよ」と冗談を言い合う日々。数百億円規模のプロジェクトに携わり、論理的思考の極致を叩き込まれたが、一方で「手触り感」の欠如も感じ始めていた。
「もっと経営者の体温が感じられる場所で、人が直接喜ぶビジネスをしたい」。
そんな時に出会ったのが、設立間もないワイズテーブルだった。求人案件は「社長の右腕募集」。創業者・金山精三郎氏(現会長)の人柄に惹かれ、実際に訪れた同社系列のレストランで、かつて夢見た「人を感動させる場作り」がここにあると確信した。弱冠24歳、ここから船曵氏とワイズテーブルの二人三脚が始まる。

苦難のリーマン・ショックと「全責任を負う経営」への挑戦。

入社後は、現場の声に耳を傾けながら人事制度や管理会計システムの構築に奔走し、組織の土台を築き上げた。2004年に東証マザーズ(当時)上場、2006年には海外進出と順調に規模を拡大したが、2008年の上海進出直後にリーマン・ショックが直撃する。
副社長として再建に尽力する船曵氏。責任ある仕事にやりがいを感じる一方で、心の奥底には閉塞感が漂い始める。
「最終決定はやはり創業社長。二番手でいる限り、自分自身の成長はない」。
黒字化を達成した船曵氏はワイズテーブルを辞し、2016年に株式会社フレッシュネスの代表取締役に就任。創業者の懐を離れ、自らが「全責任を負う経営者」として生きるための挑戦だった。
フレッシュネスでの経験は、船曵氏を大きく変えた。
「最終決裁者として、社員全員の人生を背負う。その重みを知ることで、仕事に対する誠実さがより深まりました」。
180店舗、売上80億円規模の事業を自らの手で動かし、ブランドを再構築した貴重な経験。それが、予期せぬ形で生かされることになる。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、外食産業はかつてない窮地に立たされた。

コロナ禍での電撃復帰と、誠実さが手繰り寄せた再起の奇跡。

古巣ワイズテーブルの経営もまた、危機に瀕していた。金山氏は船曵氏に復帰を打診。かつてのような二番手ではなく、経営を任せる社長として――2020年5月、船曵はワイズテーブルの代表取締役に就任した。
船曵氏を待っていたのは、銀行交渉や補助金申請といったコロナ危機対応業務の連続だった。2021年には債務超過に陥り、上場廃止も危惧された。
「銀行への返済はリスケという形で保留してもらえましたが、ニューマネー(新たな資金)がなければ次の一手は打てません。債務超過に陥るということの本当の意味での厳しさはそこにあります。資本力がなければ従業員を守れないのですから」。
再起をかけて孤軍奮闘する船曵氏。金山会長とともに身を切る改革に挑むその誠実な姿は、取引先や個人の心を動かし、コロナ禍において異例ともいえる計10億円の資金調達を成功させた。こうして2022年、同社は債務超過を解消。東証スタンダード銘柄として、再び市場と株主からの信頼を勝ち取った。

・・・続き

株式会社ワイズテーブルコーポレーション 代表取締役社長 船曵睦雄氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  

2026年7月3日金曜日

株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏を取り上げました。

本文より~

手がとどかなかったプロの世界。

畑に電線が走る田舎町。
今回、ご登場いただいた鈴木さんが、その田舎町、山梨県の身延町に生まれたのは1995年。
猪注意の看板があったというから、山間の町だったんだろう。そのあと、戸塚に移り、幼稚園からは埼玉県久喜市で暮らしている。
小学生から体格に恵まれた鈴木さんはスポーツが好きで、なかでも野球が大の得意だった。
キャッチャーで5番。
中学に上がるとクラブチームに入り、上級生にまじって全国大会にも出場している。
今度は、6番でファースト。
高校は、名門の聖望学園へ野球推薦で進学。聖望学園は、阪神の名ショートだった鳥谷敬選手の母校である。
<どうでした?>と聞くと、「たまげた」と鈴木さんは笑う。
「特待生が20人くらいいて、中学時代から知っている選手も少なくなかったんですが、グラウンドにでるまでは、背丈でいうと負けてなかったですから『案外、オレもいけるんじゃないか』って思っていたんです」。
ところが、練習をはじめると、想像の世界とちがった。
「ちっちゃいのがカツーンとホームランを打つわ、遠投をズバーンって投げるわ。デブが、めっちゃ速いわで(笑)」。
一般試験で入学してきた選手のなかにも、もと日本代表がいたりしたそうだ。 
「最終的にはメンバーに入りましたが、人生最初の挫折だった気がします」。
野球の一方で、寮生活がスタートする。
「だから、挫折したといっても、ふてくされている時間はなかったです。先輩の洗濯でしょ。課題でしょ」。
自身の勉強どころでもなかった。じつは、野球にも熱が入らなかった。
「2年生になって、寮生活も慣れ、ちょくちょく試合にだしてもらうようになって。それからですね。このぶんなら、メンバーに入れるんじゃないかって欲がでて、もう一度まじめに練習をするようになりました」。
といっても、プロの道は「たまげた」ときからもうあきらめていた。

大学1年、冬、居酒屋のキャッチに出会う。

大学に入ってからは、小学生の時からやっていた野球がなくなり、心にぽっかり穴が空いたような感覚で惰性で学校に行ってました。1年生のときは、ちゃんと通っていました。行かなくなったのは、2年生からです」。
<なんで?>と聞くと、『飲食店のキャッチのバイトを始めたから』と鈴木さん。
「1年生の11月くらいからですね。最初はパチンコ店のバイトとかけもちでやっていたんですが、そのうちキャッチ1本になって」。
<面白かったですか?>
「キャッチのバイトってフルコミッションなんです。だいたい40万円くらい儲けていました。時給のバイトでは、いかに楽をするか、そればかり考えていたんですが、キャッチは別人で、1ミリもさぼりませんでした」。
お金はもちろんだが、楽しみはそれだけではなかった。
「ターゲットをみつけるでしょ。トークもマニュアルがあるわけじゃなく、自分のアイデアで語りかけ、お客様をキャッチする。それが、面白くて」。
儲けたお金は親に渡していたそう。
「特別、使うこともなかったし、『管理しといて』くらいの感覚でした」。
<飲食が好きになった?>
「『好き』という気持ちはなかったですね。プレイヤーのときは、数字に追いかけられていましたし、21歳で部下をもってからはマネジメントに奔走していたって感じです」。
プロ野球選手を目指していた田舎育ちの少年が21歳で立っていたのは、思ってもいなかった世界だった。

飲食店、オープン。キャッチをすればなんとかなる。

けっきょく、キャッチは4年。キャッチのグループをつくり、21歳のときから、中国人といっしょに儲けた。
「大学は、1年休学していたんですが、キャッチの世界が楽しすぎて、3年目くらいに退学します」。
「中国人が店をオープンして、うちのグループがお客様をキャッチするというイーブンの関係で事業をスタートしました。ただ、経営がザルすぎたというか、23歳のとき、そのオーナーと別れ、私自身が飲食店をオープンします。これも、まったく想像していなかった世界ですね(笑)」。
<創業店は津田沼ですね?>
「当時、西船橋に住んでいたこともあって、津田沼でスタートしました。津田沼じゃなきゃだめだったわけではなく、たまたまいい物件があったんです」。
「飲食は簡単だと思い込んでいた」と鈴木さん。
「中国人のオーナーの店も、儲かっていましたし、私が仕込みをやって、キャッチをしたらまずいけるだろうと」。
初期費用1000万円。40坪 家賃と返済合わせて110万円。
闇金みたいな金利だったが、なんとかお金を集めてスタートさせた。
<いかがでしたか?>
「飲食をなめてました。業績は2ヵ月で黒字になって、まぁまぁいいスタートを切ったんですが、アルバイトのマネジメントはうまくいかなかったです」。
鈴木さんは自走するタイプだったし、キャッチのメンバーも、おなじ人種だった。しかし、飲食店のアルバイトはそうじゃなかった。
<指示待ちの人は、鈴木さんからすれば異邦人だった?>
「そうなんですよね。ただ、私も高校時代、キッチンのバイトをするんですが、そのときは、つまみ食いの日々で、どうサボるかばかり考えていましたから、彼らのことも、わからなくはなかったんです」。
<とはいえ、経営するほうになったらそうはいかない?>
鈴木さんは頷き、「だから、『どうしてできない?』『なんでやらない?』って詰めてしまうんです」と苦笑した。
それでも、なんとか、業績を維持したまま数ヵ月経った10月。
今度は、消費税増税。
「マネジメントはきつかったですが、業績は想定通りだったんで、悪くはなかった。ただ、10月に消費税が上がると、急にブレーキがかかりました」。
客が、来ない。キャッチもできない。赤字になった。
「それでも、12月になれば盛り返せるとは思っていたんです」。
<どうでした?>
「12月に入ると、思っていた通り、お客様はもどってきて。宴会需要もあって900万円~1000万円になって、マイナスぶんをカバーできました」。
これが、2019年の年末と、翌年の年始の話。
ただし、2020年、コロナ禍がスタートする。

コロナの大逆転。

「人生、どうしよう」。
コロナ禍になって、創業店をオープンした津田沼にも人がいなくなった。協力金もでなかった。
「あのときは、ため息をつくばかりでした。マイナス思考になって、『2019年にギリギリのお金で独立開業した人は、いい店だろうが、悪い店だろうが、終わりだな』って」。
キャッチができない、というよりキャッチする人がいない。魚のいない池に、釣り糸をたらすことに似ていた。
「退店も検討しました。でも、原状回復に600万円かかることがわかって、まさに進むも退くも地獄という状況でした」。
赤字、赤字とつづく。ご両親から200万円を借りる。業者に頭を下げ待ってもらう。
「どうしようもないなかで、1日も休まなかったのが、ある意味、功を奏したというか。毎日、外をみていると、ふと、あれ、いつもとちがうな、と。恐る恐るなんですが、だんだんと、人が流れだしたのがわかったんです」。
<よくなると思った?>
「お客様の『我慢できない』が、うちにとっては光明でした。実際、最悪の数ヶ月が過ぎ、お客様がいらっしゃるようになりました」。
<ただ、コロナ禍はつづく>
「つぎの転機は、8月に2店舗目をオープンしたことです」。
<2020年の?>
「そうです。キャッチ時代、2社目に勤めた会社の会長から『80坪で家賃100万円だが、どうだ?』って言われて。たまたまですが、5月に緊急融資があって、若干、キャッシュもあったもんですから、『やります』と」。
これが2店舗。
「幸い、店長もいい人が採用できて。なんとかかんとか2号店をスタートすることができたんですが、これが大きな転機となります」。
1号店も、わずかだったが、利益がでるようになっていた。2号店はスケールが大きいぶん、ハイリスク・ハイリターンだったが、コロナ禍でも針はハイリターンに傾いた。
「今思うと、よく決断できたなと。会長と話をしたのが、7月15日。8月から私が運営することになるんですが、その期間は2週間しかない(笑)。『やります』といった時点では店長も決まってませんでしたから、ギリギリ。コロナ禍だったから、ある意味、一か八かという部分もあったかと思います」。
8月にスタートした新店は、コロナ禍でも順調に業績をあげていく。600万円からスタートした業績は、すぐに900万円をオーバーする。
「翌年の2021年にはオープンした店はなかったですが、年末には2つの出店が決まっていました」。
1月に千葉駅前。そして、3月にもう1店舗。8月に、アクセルを踏んだことで、すべてが好転する。
「事実と解釈はちがう」と、鈴木さんはいう。
「事実は変えられない。だけど、それを『ピンチ』と捉えるか『チャンス』と捉えるかは、自分の解釈次第」というのである。
「けっきょくはどう解釈するかで、私は、コロナ禍をチャンスと解釈して、オープンを重ねていきました」。
3号店は千葉駅前。4号店は人気FCの「ホルモンたけ田」だった。この「ホルモンたけ田」がもう一つの転機となる。

・・・続き

株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)