“飲食の戦士たち”で株式会社Buzz Foods 代表取締役 鈴木康平氏を取り上げました。
手がとどかなかったプロの世界。
畑に電線が走る田舎町。
今回、ご登場いただいた鈴木さんが、その田舎町、山梨県の身延町に生まれたのは1995年。
猪注意の看板があったというから、山間の町だったんだろう。そのあと、戸塚に移り、幼稚園からは埼玉県久喜市で暮らしている。
小学生から体格に恵まれた鈴木さんはスポーツが好きで、なかでも野球が大の得意だった。
キャッチャーで5番。
中学に上がるとクラブチームに入り、上級生にまじって全国大会にも出場している。
今度は、6番でファースト。
高校は、名門の聖望学園へ野球推薦で進学。聖望学園は、阪神の名ショートだった鳥谷敬選手の母校である。
<どうでした?>と聞くと、「たまげた」と鈴木さんは笑う。
「特待生が20人くらいいて、中学時代から知っている選手も少なくなかったんですが、グラウンドにでるまでは、背丈でいうと負けてなかったですから『案外、オレもいけるんじゃないか』って思っていたんです」。
ところが、練習をはじめると、想像の世界とちがった。
「ちっちゃいのがカツーンとホームランを打つわ、遠投をズバーンって投げるわ。デブが、めっちゃ速いわで(笑)」。
一般試験で入学してきた選手のなかにも、もと日本代表がいたりしたそうだ。
「最終的にはメンバーに入りましたが、人生最初の挫折だった気がします」。
野球の一方で、寮生活がスタートする。
「だから、挫折したといっても、ふてくされている時間はなかったです。先輩の洗濯でしょ。課題でしょ」。
自身の勉強どころでもなかった。じつは、野球にも熱が入らなかった。
「2年生になって、寮生活も慣れ、ちょくちょく試合にだしてもらうようになって。それからですね。このぶんなら、メンバーに入れるんじゃないかって欲がでて、もう一度まじめに練習をするようになりました」。
といっても、プロの道は「たまげた」ときからもうあきらめていた。
大学1年、冬、居酒屋のキャッチに出会う。
大学に入ってからは、小学生の時からやっていた野球がなくなり、心にぽっかり穴が空いたような感覚で惰性で学校に行ってました。1年生のときは、ちゃんと通っていました。行かなくなったのは、2年生からです」。
<なんで?>と聞くと、『飲食店のキャッチのバイトを始めたから』と鈴木さん。
「1年生の11月くらいからですね。最初はパチンコ店のバイトとかけもちでやっていたんですが、そのうちキャッチ1本になって」。
<面白かったですか?>
「キャッチのバイトってフルコミッションなんです。だいたい40万円くらい儲けていました。時給のバイトでは、いかに楽をするか、そればかり考えていたんですが、キャッチは別人で、1ミリもさぼりませんでした」。
お金はもちろんだが、楽しみはそれだけではなかった。
「ターゲットをみつけるでしょ。トークもマニュアルがあるわけじゃなく、自分のアイデアで語りかけ、お客様をキャッチする。それが、面白くて」。
儲けたお金は親に渡していたそう。
「特別、使うこともなかったし、『管理しといて』くらいの感覚でした」。
<飲食が好きになった?>
「『好き』という気持ちはなかったですね。プレイヤーのときは、数字に追いかけられていましたし、21歳で部下をもってからはマネジメントに奔走していたって感じです」。
プロ野球選手を目指していた田舎育ちの少年が21歳で立っていたのは、思ってもいなかった世界だった。
飲食店、オープン。キャッチをすればなんとかなる。
けっきょく、キャッチは4年。キャッチのグループをつくり、21歳のときから、中国人といっしょに儲けた。
「大学は、1年休学していたんですが、キャッチの世界が楽しすぎて、3年目くらいに退学します」。
「中国人が店をオープンして、うちのグループがお客様をキャッチするというイーブンの関係で事業をスタートしました。ただ、経営がザルすぎたというか、23歳のとき、そのオーナーと別れ、私自身が飲食店をオープンします。これも、まったく想像していなかった世界ですね(笑)」。
<創業店は津田沼ですね?>
「当時、西船橋に住んでいたこともあって、津田沼でスタートしました。津田沼じゃなきゃだめだったわけではなく、たまたまいい物件があったんです」。
「飲食は簡単だと思い込んでいた」と鈴木さん。
「中国人のオーナーの店も、儲かっていましたし、私が仕込みをやって、キャッチをしたらまずいけるだろうと」。
初期費用1000万円。40坪 家賃と返済合わせて110万円。
闇金みたいな金利だったが、なんとかお金を集めてスタートさせた。
<いかがでしたか?>
「飲食をなめてました。業績は2ヵ月で黒字になって、まぁまぁいいスタートを切ったんですが、アルバイトのマネジメントはうまくいかなかったです」。
鈴木さんは自走するタイプだったし、キャッチのメンバーも、おなじ人種だった。しかし、飲食店のアルバイトはそうじゃなかった。
<指示待ちの人は、鈴木さんからすれば異邦人だった?>
「そうなんですよね。ただ、私も高校時代、キッチンのバイトをするんですが、そのときは、つまみ食いの日々で、どうサボるかばかり考えていましたから、彼らのことも、わからなくはなかったんです」。
<とはいえ、経営するほうになったらそうはいかない?>
鈴木さんは頷き、「だから、『どうしてできない?』『なんでやらない?』って詰めてしまうんです」と苦笑した。
それでも、なんとか、業績を維持したまま数ヵ月経った10月。
今度は、消費税増税。
「マネジメントはきつかったですが、業績は想定通りだったんで、悪くはなかった。ただ、10月に消費税が上がると、急にブレーキがかかりました」。
客が、来ない。キャッチもできない。赤字になった。
「それでも、12月になれば盛り返せるとは思っていたんです」。
<どうでした?>
「12月に入ると、思っていた通り、お客様はもどってきて。宴会需要もあって900万円~1000万円になって、マイナスぶんをカバーできました」。
これが、2019年の年末と、翌年の年始の話。
ただし、2020年、コロナ禍がスタートする。
コロナの大逆転。
「人生、どうしよう」。
コロナ禍になって、創業店をオープンした津田沼にも人がいなくなった。協力金もでなかった。
「あのときは、ため息をつくばかりでした。マイナス思考になって、『2019年にギリギリのお金で独立開業した人は、いい店だろうが、悪い店だろうが、終わりだな』って」。
キャッチができない、というよりキャッチする人がいない。魚のいない池に、釣り糸をたらすことに似ていた。
「退店も検討しました。でも、原状回復に600万円かかることがわかって、まさに進むも退くも地獄という状況でした」。
赤字、赤字とつづく。ご両親から200万円を借りる。業者に頭を下げ待ってもらう。
「どうしようもないなかで、1日も休まなかったのが、ある意味、功を奏したというか。毎日、外をみていると、ふと、あれ、いつもとちがうな、と。恐る恐るなんですが、だんだんと、人が流れだしたのがわかったんです」。
<よくなると思った?>
「お客様の『我慢できない』が、うちにとっては光明でした。実際、最悪の数ヶ月が過ぎ、お客様がいらっしゃるようになりました」。
<ただ、コロナ禍はつづく>
「つぎの転機は、8月に2店舗目をオープンしたことです」。
<2020年の?>
「そうです。キャッチ時代、2社目に勤めた会社の会長から『80坪で家賃100万円だが、どうだ?』って言われて。たまたまですが、5月に緊急融資があって、若干、キャッシュもあったもんですから、『やります』と」。
これが2店舗。
「幸い、店長もいい人が採用できて。なんとかかんとか2号店をスタートすることができたんですが、これが大きな転機となります」。
1号店も、わずかだったが、利益がでるようになっていた。2号店はスケールが大きいぶん、ハイリスク・ハイリターンだったが、コロナ禍でも針はハイリターンに傾いた。
「今思うと、よく決断できたなと。会長と話をしたのが、7月15日。8月から私が運営することになるんですが、その期間は2週間しかない(笑)。『やります』といった時点では店長も決まってませんでしたから、ギリギリ。コロナ禍だったから、ある意味、一か八かという部分もあったかと思います」。
8月にスタートした新店は、コロナ禍でも順調に業績をあげていく。600万円からスタートした業績は、すぐに900万円をオーバーする。
「翌年の2021年にはオープンした店はなかったですが、年末には2つの出店が決まっていました」。
1月に千葉駅前。そして、3月にもう1店舗。8月に、アクセルを踏んだことで、すべてが好転する。
「事実と解釈はちがう」と、鈴木さんはいう。
「事実は変えられない。だけど、それを『ピンチ』と捉えるか『チャンス』と捉えるかは、自分の解釈次第」というのである。
「けっきょくはどう解釈するかで、私は、コロナ禍をチャンスと解釈して、オープンを重ねていきました」。
3号店は千葉駅前。4号店は人気FCの「ホルモンたけ田」だった。この「ホルモンたけ田」がもう一つの転機となる。
・・・続き
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