“飲食の戦士たち”で株式会社KayaGroup 代表取締役 小山 裕氏を取り上げました。
父の軌跡と、幼少期に育まれた「食」の原体験。
小山氏のルーツを辿ると、戦時中の満州へと行き着く。満州で商売を営んでいた小山氏の祖父は、神戸に本妻を残しながらも、現地で山口県出身の女性との間に一子をもうけた。それが小山氏の父だ。
祖母は現地で他界。終戦に合わせ、父はわずか3歳という幼さで祖父と共に日本へ引き揚げた。祖父は、満州生まれの息子を本妻に任せることを躊躇したのだろう。幼い父は、実母の故郷である山口の親類のもとで育てられることになった。
高校1年の春、山口を離れ、神戸に住む祖父のもとに身を寄せた父を待っていたのは、階段の踊り場にカーテンを引いただけの、およそ部屋とは呼べない寝床だけ。
父は勉学に励み、神戸大学に進学。卒業後は丸紅系列の商社マンとして頭角を現し、役員にまで上り詰めた。社内恋愛で結ばれた妻との間に授かった二人の息子のうち、次男として産声を上げたのが小山氏である。
父は仕事柄、出張や単身赴任が多かったが、帰宅する日には一家の食卓が一変したという。
「若い頃の反動か、父はとにかく旨いものが好きでした。それに、母も非常に料理が上手でしたね」。
幼少期に形成された豊かな味覚が、後に小山氏が飲食業界という荒波で舵を取る際、何物にも代えがたい指針となったのは言うまでもない。
躍動する少年時代と、音楽への傾倒。
子どもの頃の小山氏は、勉強よりも外遊びに夢中な「わんぱく坊主」そのものだった。得意科目は体育、技術、音楽といった副教科。虫取りや山遊びに熱中し、直感的に「やりたい」と思ったことには迷わず飛び込む性格だった。小学校では野球、中学校ではサッカーに没頭。コーチの推薦もあり、サッカーの名門・御影工業高校へと進学する。
しかし、彼のアンテナは常に新しい刺激を求めていた。サッカー強豪校に入学したにもかかわらず、友人と共に突然ボクシングジムへ通い始める。だが、プロボクサーとして生計を立てる厳しさを知ると、潔くその道を諦めた。そんな中、唯一彼の心を支配し続けたのが「音楽」だった。
中学2年の頃、祖父の家にあったギターを手にしたことをきっかけに、フォークソングの世界に魅了されていく。自ら曲を書き弾き語る傍ら、デモテープを音楽事務所へと送り続け、ミュージシャンとして生きる未来を描き始めた。
三菱重工業で出会った「人生の師匠」。
高校在学中には電気工事士の資格を取得。周囲から大学への進学を期待されていた小山氏に、転機が訪れる。神戸に造船所を構える三菱重工業が、その年初めて高卒・高専卒技術職の採用を開始。小山氏は見事試験に合格し、安定と高待遇が約束された巨大企業で働くことになった。
巨大企業での歳月。そこでは、小山氏の価値観を塗り替える二つ出来事があった。ひとつは20歳で遭遇した阪神淡路大震災。成人式の翌日に街は一変し、同級生3人を失うという過酷な現実に直面した。
もうひとつは、社内の指導員制度を通じて出会った10歳年上の先輩社員の存在だ。小山氏は今もその先輩を「人生の師匠」と呼び、深く親交を育んでいる。音楽への未練を捨てきれず、焦燥感を抱えていた18歳の小山氏に対し、先輩はこう説いた。
「技術を磨きたければ、優れた人間が集まる輪の中に飛び込め。そして3年間はここで経験を積め。それでもまだ音楽をやりたければ、そこから進めばいい」。
師の教えに従い、論理的思考とプロの姿勢を学んだと明かす小山氏。加えて「高卒ではどれだけ努力しても課長止まり」という組織の壁に直面する。入社4年目を迎えた日、彼はついに退職を決意した。両親からは激しく反対されたが、師匠だけは「行ってこい」と彼の背中を力強く押してくれた。
メジャーデビューと、突きつけられた現実。
音楽の世界へ飛び込んだ小山氏。バンド「KAYA」のリーダー兼ボーカルとしてメジャーデビューを果たすが、現実はそう甘くなかった。一時はスポットライトを浴びるも、月給はわずか7~8万円。宇多田ヒカルを始め、次々と目の前に現れる圧倒的な才能に戦慄する中、「こんな人たちとは戦えない」という冷静かつ残酷な自己分析がその手からギターを奪う。小山氏は自己否定のスパイラルに陥り、27歳で音楽活動に終止符を打った。
もう一度アマチュアからやり直そうと考えていた彼に、音楽事務所の社長から「飲食FC店の店長をやってみないか」と声がかかる。恩義もあり、「1年だけ」という条件で未知の業界へと足を踏み入れた。
未経験からの店長就任と、最優秀店長への飛躍。
配属先は兵庫県西脇市の居酒屋「とりあえず吾平」。店長という肩書きこそあれ、小山氏は接客も飲食も全くの素人だった。赤字続きの現実を目の当たりにした彼は、飲食店としては異例の「法人営業」に乗り出す。周囲の会社を一軒々々地道に訪問し、必死に店の存在をアピールした。この熱量が町の人々の心を解き、売上げは爆発的に上昇。全国40店におよぶFC店の中で、2度も最優秀店長に選ばれる快挙を成し遂げた。
「音楽制作と飲食店経営の構造って似てるんですよ」。
ターゲットを定め、アレンジを加え、空間を演出する――音楽を作る流れが、そのまま飲食店経営に転用できる。小山氏のこの着想は、さらなる成長へとつながっていく。
荒波の中での武者修行と、決意の独立。
約束の1年が経過し、退職を申し出た小山氏のもとには、その手腕を聞きつけた各地の企業からオファーが殺到した。大阪の「餃子計画」では得意の営業スキルで売上を大幅に伸ばし、前月比160%という驚異的な数字を初月に叩き出す。エリアマネージャーへの昇進を果たす一方、会社側の経営悪化を受け「リストラ部長」という辛い役目を担うことになった。断腸の思いで組織を立て直した後、自らも責任を取る形で退職した。
次に選択したのは、焼肉店を経営する企業での、雇われ社長としての道だった。そこでも飛躍的に業績を伸ばしたが、会長との価値観の相違から、わずか1年半で袂を分かつことになる。小山氏の決断で路頭に迷いそうになった元同僚や後輩たちのため、辞職後もなお奔走し続ける彼の「義理堅さ」が、次の扉を開く鍵となった。
34歳、三宮高架下での「旗揚げ」。
そんなある日、昔のバンド仲間からある人物を紹介された。三宮高架下の物件をうまく活用できる借主を探しているという。
「僕はまだ直営店すら持っていませんが、これだ!と思う構想はあります」。
彼の熱意に打たれたその人物は、「思い出のあるこの場所を、若い力で復活させてほしい」とFC契約を了承。2008年、小山氏は神戸で初めて自分の旗を揚げた。
わずか15坪、高架下の2階という、決して好条件とは言えない立地。そこで彼が放った「199円ビール」、この一手が業界を震撼させることになる。まずは店を知ってもらい、足を運んでもらうための強烈なフックだった。
果たして「199円ビール」は大きな反響を呼んだ。もともと神戸には昼飲み文化が根付いている。夜勤明けの面々が午前中から喉を潤し笑い合える、憩いの場が高架下に誕生した。ここから株式会社KayaGroupの快進撃が始まったのである。
・・・続き
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