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2026年8月7日金曜日

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏登場。

  “飲食の戦士たち”有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏を取り上げました。

本文より~

スジャータに就職するまでの増子さん。

「キャプテンで、エースで4番」。
「小学校の頃の話だけどね」と増子さん。今回ご登場いただいた有限会社マイプロジェクトの代表取締役会長だ。
「中学ではショートで5番。ちょっと遊びの方向に進んじゃって。1年くらい幽霊部員みたいな時があって。でも野球が好きだったからね。3年になってもう一度、グラウンドに戻って」。
「いろいろあったな」と笑う。
「中学1年で初恋。高校に入って彼女ができて。高校は市立工芸高校っていうんだけど。入学してすぐ喧嘩で停学になって、合計3回くらいかな停学になっています」。
校則はゆるく、比較的自由に楽しめたが、停学以外にも、難関が一つあった。
「追試があってダメだったら、退学。私はギリギリクリアしましたが、実際、今も付き合いがあるんですが、ともだちの何人かは追いだされています」。
高校を卒業した増子さんは、スジャータ(名古屋製酪株式会社)に就職する。
「高校に求人が来るでしょ。頭のいい奴からとっていくんです。最初はチョイスできるけど、私はもう最後のほうだからね。でも、スジャータはとてもいい会社だったよ」。
<残り物に福がある?>
「そう、まさにそんな感じ」。

営業マン、増子さん。

「成績はいいほうでした」。学校ではなく、営業成績の話。表彰もされているそう。
「レストランにトラックで注文された商品をとどけて、そのときに営業もするのが定番のスタイル。営業数字より、人間教育っていうか、そういうのを大事にする会社だった気がします。スジャータには24歳までいたから、6年か。長くいたよね」。
じつは、増子さん。中学生の頃から「将来、社長になる」と思っていたそうだ。
「おぼろげだけどね。勉強はしなかったけど、歴史は好きで、とくに成り上がる豊臣秀吉とか、坂本龍馬とか。そういう偉人の本を読んでいたからじゃないかな」。
「それに、人に従うのが、どうもできない人でした」。
だから、6年もサラリーマンをつづけられたことは、異例。ちなみに、人に従うのが苦手なことは、高校生のときのバイトで証明されている。
「全然続かないんです。態度が悪いんでしょうね。すぐ、くびになっちゃう(笑)」。
「スジャータを退職することになったのは、ちょうど神戸の震災があって、お客さんに誘われたんです。『神戸に行って解体業をしようぜ』って」。

神戸と、黒塗りのベンツと、建築業と。

「震災があった年の6月には神戸に行った。誘ってくれた飲食店のオーナーは『いかん』と言いだしたんで、行ったのは、私1人。向こうで、解体業のチームに入りました」。
<いい会社だったのに、なにが増子さんを動かしたんですか?>と聞くと、「スジャータという看板がないなかで、なにができるかやってみたかったんです」と回答。
24歳。ピュアな青年だった。
「仕事はあったけど、500万くらい借金ができた」というのは、神戸での話。
<なんでまた?>と聞くと、私らは10人くらいのチームでやってたんですが、そりゃ、いろんな奴がいるんです。サギ師みたいなのもいた。借金ができたのは、そのチームをまとめていた親方が、借金を抱えて飛んじゃって、私がアホで、その保証人になってたからなんです」。
<どうしたんですか? そんな大金?>
「幸い、親方の仕事を引き継ぐことができて、ほかにもいろいろと紹介してもらって。まぁ、向こうは借金を返済させるために、せっせと紹介してくれたわけんだけど(笑)」。
「それでもマジメにやってたからでしょうね。仕事の幅も広がって、じつは建築の仕事もはじめたんです」。
<借金はどうなりました?>
「1年くらいで無事返済できたかな。返済が終わって自由になって。もう、神戸はこりごりだって、名古屋にもどってくるんです」。
「解体の作業中だから昼頃かな。黒塗りのベンツが現場のちかくで止まって、『増子っていうのどれだ?』って。『オレです』っていったら、ベンツに乗せられちゃって。500万円の返済がスタートです」。なんて、おっかない話もしてくれた。
<神戸を離れるのに仕事はどうしたんですか?>
「後輩にクライアントごとパスしました」。
もったいなかったが、早く神戸からおさらばしかたった。
カネの鎖が取れて、名古屋に、無事、帰還。さて、その後は、どうなっていくんだろう。

マイ(MY)プロジェクト、スタート。

「建築の勉強とかをしたかったから、リフォームの営業をします。成績は悪くなかったから、いいお金にもなって、だんだん仕組みもわかるようになって。適切な値段で営業したら、オレでも会社ができるんじゃないかって思うようになってね」。
「それで、吉田ってやつを誘って、増子のMと、吉田のYをとって、MYで、マイプロジェクトを設立するんです。でも、吉田は飲酒運転で事故って亡くなっちゃうんです。すぐあとに、良くしてくれていた中学校からの先輩も亡くなって。神戸での経験もそうですが、この出来事で人生観がめちゃくちゃかわりました」。
それでも増子さんは後ろを向かなかった。
「いい仲間がたくさんいたからね。こっちに戻ってマイプロジェクトをつくったのは1996年。20代の後半だったかな」。
「初年度は数千万円だったけど、2年目には1億円になって」。
スジャータ時代のネットワークを使って、業績はアップをつづける。ついに、4億円。
「でさ、今度は、自分でやりたくなっちゃって。売り上げも4億円になったんで調子に乗っちゃってね。最初に鉄板のお店をオープンするんですが、見事にこけます。つぎに、セルフうどんの店を引き取って、セルフパスタに変更して再オープンするんです。こっちはしばらく健闘するんですが、けっきょくクローズします」。
「そのときね。業者の人に聞くんです。『なんで失敗したと思いますか』って。そしたら『社長はやりたいことをやっているだけ』だの、『ロケーションを考えていない』だの、『人使いが悪い』だの。もう、コテンパンにやられたんです」。
「彼らは、もう店をしないと思っているから、もう関係もないでしょ。だからズケズケ言ってきます」。
「聞き方によっては悪口なんだけど、ありがたかったね。私には救いの言葉でした。『そうか、そうなんだ』って」。
転んでもただじゃ起きない。それが増子さん。MYプロジェクトもまた、そんなやわな会社じゃない。
・・・
続き

有限会社マイプロジェクト 代表取締役会長 増子誠二氏


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