2013年7月10日水曜日

千葉商科大学のサービス創造学部・池田ゼミにて

昨日の7月9日(火)、千葉商科大学のサービス創造学部・池田ゼミにてオーグードゥジュール グループの岡部氏(オーナーギャルソン)に講義していただきました。
学生がなかなか接点の少ないフレンチレストラン。
そのなかでもミシュラン獲っておられる店含め8店舗されているので、学生も興味深々でした。
いつも謙虚でサービス精神旺盛な岡部さんありがとうございました。
また、池田先生この様な場を提供頂き感謝申し上げます。
(ゼミ講義にて)
(岡部さん)
(講義風景)
(池田先生と岡部オーナーギャルソン)     (ノリノリ?) 
余談ですが、その後インターンで勉強したいと学生から希望ありました。
皆がハッピーになればうれしいですね。

  
     
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2013年7月9日火曜日

“野菜を食べるカレーcamp”の株式会社バックパッカーズ 代表 佐藤 卓(たかし)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“野菜を食べるカレーcamp”の株式会社バックパッカーズ 代表 佐藤 卓(たかし)氏登場
本文より~

日産自動車に入社するまで。

佐藤が生まれたのは1967年3月22日。埼玉県出身である。父親は、不動産関連の企業を経営。芸能プロダクションも経営したこともある敏腕経営者である。両親の印象を伺うと、父は寡黙で優しく、母は陰でそんな父を支えるタイプということ。佐藤自身は頭が良く、お調子者でクラスでは人気者だったそうだ。
中・高では剣道部に所属していた。中・高とおなじ部活動だったが、勉強の方は、まるで別人のように落差があった。中学では悪くても3位以下に落ちたことはない。反面、高校ではビリから数えたほうが断然早い位置にいた。中学ではいずれは東大へと周囲も思っていたが、高校では大学進学まであやぶまれるまでに落ち込んだ。
「高校に行ってからは勉強に熱が入らなかったんです。中学時代はたしかに成績は良かったんですが、ガリ勉でも、マジメでもなかった。授業中もノートの一つとらないんですから。いま考えれば、良く先生も怒らなかったものです(笑)。高校は、県立浦和高校に進学します。でも、勉強しなくなっちゃったんで大学は結局2浪。現役の時は一ツ橋と早稲田を受け、失敗。1浪の時は、京都大学を受けて失敗。2浪の時も、まだまだと思ったんですが、父から『負けたことを認め次に進め』と言われ、その一言で踏ん切りがつき、中央大学に進みました。大学では法学会というサークルに入り、弁論大会では全国2位にもなりました。もともとお調子者ということもあって、この頃は、ちょっとした有名人でした」。
「法学会」とは中央大学公認の法律討論サークル。歴史のある中央大学でも最古のサークルと言われている。HPによれば、「法学会は関東学生法学連盟に所属しており、毎年4~5の法律討論会に参加します」とある。佐藤が全国2位になったのは、このような法律討論会のことだろう。
こんな佐藤を企業がほっておくはずがない。
「就職は、司法試験受けて弁護士になるか、民間でユニークな仕事をするか、卒業ギリギリまで悩んでいました」。選り取り見取りといえばほめすぎかもしれないが、時代はバブル真っ盛り。企業の門戸は、史上最大にまで開かれていた時代でもある。この時、佐藤は日産自動車を受験し、合格。以来、13年、日産が佐藤のフィールドとなる。・・・続き
“野菜を食べるカレーcamp”の株式会社バックパッカーズ 代表 佐藤 卓(たかし)氏
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株式会社ユウ・フード・サービス 代表取締役社長 谷 祐一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ユウ・フード・サービス 代表取締役社長 谷 祐一郎登場。
本文より~

バブル、弾ける。

バブルが弾けるのは意外にはやい。1992年、景気は下降線をたどりはじめ、「弾ける」という言葉がぴったりなぐらい、あっというまに暗転する。父の会社の経営が苦しくなったのもこの頃である。
「仕事がないもんですから、工場にも行かず家で飲んだくれているような時もありました。幸い、叔父がおなじような仕事をしていたので、会社を畳んで、一時はそちらで世話になっていましたが、結局、母と離婚し、高知に帰ります。私たち3人の生活が始まりました」。
大学進学と重なった。高校時代のバイトといままで貰ったお年玉を全部使って100万円の入学金と授業料を支払った。ただ、大学に行ってみると、それほど意味があるように思えなかった。
「籍がある限り、年間100万円ぐらいかかるんです。いまから3年通ったとして計300万円。その金があれば、独立できるんじゃないかと。それに大学にも週1回ぐらいしか行ってなかったもんですから、関西人らしく『もったない』と思って(笑)。退学することを決意しました」。
大学を辞め、独立の資金づくりにまい進した。23歳の時には、600万円がたまっていた。目標に向かってまっすぐ進む、意志の強さが伺える。

23歳の独立。

いつ頃から独立しようと思っていたのですか?という質問に、谷は、「そうですね」といったん考えるしぐさをして話だした。「高校3年の時に、『秋吉』という有名なやきとりチェーンでバイトをしていたんです。あの頃からでしょうか。ただ、独立しようと心を決めたのは大学生になってから。大学を辞めるのは、ほかに道がなくなるわけですから、この時にはいっぱしの覚悟をしていました」。
大学中退。ある意味、「独立」にジブンを追い込んだことになる。
「大学を辞めてからは、日本料理割烹で料理を勉強しました。いままで影響を受けた人と聞かれたらいつもまっさきに挙げるのが、この時の店長です。料理をするたのしさも、この店長から教えてもらいました。たった4つしか違わないのに、とてもかなわないような人でした」。
秋吉では、経営のノウハウをかじった。割烹では、料理をもう一度、勉強した。資金600万円もたまった。国民金融公庫に行き、600万円を融資してもらって、計1200万。いよいよ独立、これがまだわずか23歳の時のことである。・・・・続き
株式会社ユウ・フード・サービス 代表取締役社長 谷 祐一郎
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2013年7月4日木曜日

7月29日(月)、“NARITA YUTAKA”オープン決定!!

【成田 寛(なりた ゆたか)シェフ プロフィール】
1985年 4月生まれの28歳。北海道出身。

幼少時、TV番組「料理の鉄人」を観てフレンチの巨匠、坂井宏行氏に憧れ料理人を志す。
北海道の調理製菓専門学校を卒業後、株式会社テイクアンドギヴニーズに入社しハウスウエディングの料理に携わる。
2008年、レストラン「ル・ミュゼ」に入社しセカンドシェフとして活躍。その後、更なる活躍の場を求め2010年渡仏。当時1つ星レストランだった「パサージュ53」でセクションシェフとして勤務し2つ星に昇格させる。
2011年には2つ星レストラン「Jean francois piege」に引き抜かれセクションシェフとして勤務。本場フランスの星つきレストランでも通用する料理人となる。
フランス在中に、友人から、日本テレビの“行列ができる法律相談所“で、メディアで大活躍のあの有名シェフが経営するイタリアンのお店が料理長を募集していると連絡がありパリから応募。見事300名の応募者の中から料理長として選ばれる。
2012年、同店で、「東京カレンダー」とコラボし、料理長として1年間限定でフレンチのメニューを提供。成田氏の料理に魅了され、新たなお客様を開拓しファン層を広げた。

【メニューコンセプト】
新ジャンル「ニューフレンチ」と称し、今までにないフレンチを創作し提供する。
神奈川県・鎌倉のJAが認めた農家さんが作っている鎌倉野菜をふんだんに使う。
※ 鎌倉野菜はフランス野菜に近い。
紫のにんじん、紫の大根など彩りも豊か。その他、季節によって肉・魚を厳選。
日本国々の産地の美味しいものを選び提供する。

【NARITA YUTAKA】
店名  NARITA YUTAKA
場所  目黒区中目黒1-10-23 中目黒リバーサイドテラス 1F
業種  ニューフレンチ ※新ジャンル
営業時間 ディナー 18:00~22:00 
       バー   22:00~26:00
定休日 月曜日
席数   26席(19坪)カウンター10席、テーブル席10席(中2階 4名 隠れ家個室あり)
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6月30日(水)開催の第3回アジア海外就職フェアinセブ島にキイストンが参加しました。

6月30日(水)開催の第3回アジア海外就職フェアinセブ島キイストンとして参加しました。

弊社の脇山がセブ島にてキイストンのPR中です。
(会場内は人でいっぱい。大反響でした)
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2013年7月2日火曜日

株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏登場。
本文より~

変化を感じ取った日々を送る。

海軍のレーダー技師だった本間の祖父は、あの戦艦大和にも搭乗したことがあるそうだ。戦後、復員した祖父は山形で「本間ラジオ」という電器店を開業。母は箱入り娘で、絵に描いたような裕福な家庭だったそうである。
しかし、昭和50年、本間が10歳の時に酒田市を大火が襲い電器店も全焼。跡地に100坪5階建のビルを建設したが、投資が負担になり、次第に経営が厳しくなる。大手が進出し、町の電器店の経営が構造的に不振に陥っていた頃に、思い切った投資したのが響いたようだ。
「結局、家も土地も売却することになってしまった」と本間。
まだ小学高学年だった本間に、すべてがわかるわけもなかったが、家庭内の空気がいっぺん。空気の変化は、敏感に感じ取っていた。
「それまでは、甘やかされて育ちました。私は勉強も良くできた優等生でした」。ところが、家庭内の空気がかわると、本間にもトゲがでてくるようになる。
家庭でも、学校でも衝突することが増えたのではないか。

フレンチレストランにて修業。

中学生の頃からバイトに精を出した。新聞配達をメインに、スーパーのお惣菜コーナーではたらいたこともある。
「いま思えば、これも一つの反抗だったんだと思います。『だれが食べさせてやっているんだ』という父に、それなら、と。そうですね。その時から、親にお金を無心したことは一度もありません」。
新聞配達は3年間続けている。いうのはたやすいが、どれだけの忍耐力がいるかは想像できる。しかし、少年の矜持は、親に頼ることを拒みつづけた。
しかし、さすがに高校も中退となると親の意見も聞かざるをえなかったのだろう。言われるまま、父の知り合いがオーナーのフレンチレストランに就職。せめて「手に職を」という父の意志に従った。
2年半、このレストランで料理のイロハを叩きこまれた。
悪友とは縁が切れた。「なにしろ朝8時~夜11時までの仕事です。それでいて手取り7万円。カネも、ヒマもない。からだもつかれているから、バイクに乗る気もしません(笑)。そんな毎日にイヤ気がさしたわけではないんですが、2年半後、退職。簡単にいえば、逃げ出してしまったわけです」。
ただし、この2年半は、その後に大きな意味を持つことになる。ちなみにこのレストランは岩手でも1、2を争う有名で、関東圏からもお客さまがみえられたそうだ。・・・続き
株式会社CANVAS 代表取締役社長 本間保憲氏


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有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社ちばき屋 代表取締役社長 千葉憲二氏登場。
本文より~

「一風堂」VS「ちばき屋」

「一風堂の河原を破るのは、ちばき屋の千葉しかいない」。そんな前評判のなか、千葉は最後の対決を迎えた。むろん、決勝戦。前評判通り、ここまで勝ち残ったのは「一風堂」の河原氏と千葉だった。
「いいわけはいいたかねぇんだけど、あの時、熱があったんだよな。39度も」と千葉は対決の時を振り返る。熱はあっても、料理人の矜持。苦しいそぶりもみせない。「ディレクターがさ、和食の料理人というのを出したかったんだろうな。そういうのがあったからオレは、鯛でだしをとったラーメンで勝負したんだ。負けねぇと思っていたんだけど、審査員の中尾彬さんが、『これラーメンって呼べるのかね』って。あの一言で勝負が決まっちまった。2対1でオレの負け(笑)」。
負けても相手が河原氏だから、許せた。
「そのあと河原さんから、食事でもって誘われたんだ。気が合ったね。あの男はさ、俺より一つ下なんだけど、もう何軒も店を持っていたわけよ。でもね。ぜんぜん、そんな話はしないの。するのは一杯のラーメンについて。いい男だな、と思ったね。」。
その対決からもう何年も経つ。だが、2人の関係はいまだ続いている。互いを意識しつつ、互いをリスペクトしている。
「向こうに比べたらうちは店の数もぜんぜんだろ。なのに、千葉ちゃんなんて言ってくれるんです」。
この事実が「千葉憲二」という男を物語っている。名声も、地位も、富も、一杯のラーメンには敵わないことも。

7歳の時に父が他界。

千葉が生まれたのは、宮城県の気仙沼。父は、水産関係の仲買卸をしていた。千葉は4人兄弟の末っ子で、父から兄姉たちが嫉妬するほど可愛がられた。「いちばんオレと一緒にいるのが少ないのが、憲二だから」というのが父の言い分だった。
「もともとうちの父は、満州鉄道で職業野球の選手だったんですよ。戦後、プロ野球が生まれた時には、プロ野球選手にという話もあったそうなんですが、祖父のあとをつがなきゃいけないんで、泣く泣くだと思いますが、プロは断念したみたいなんです」。
「そういう時代だった」とも千葉。そんな父とはキャッチボールも楽しんだ。旅行にも連れられた。
「母に『ちょっと行ってくる』と言って列車に乗り、何時間もかけて早慶戦を観に行ったこともあるし、旅館で芸者にダッコされていた気もする。オレの父はいい男だったんだ。映画俳優みたいだったもの。まぁ、芸者さんにももてたんじゃねぇかな(笑)」。
そんな最愛の父が7歳の時になくなった。
それでも、7歳までの記憶が焼付いている。その記憶が千葉の生きかたを決めてきた気がする。
「父がいなくなっても母が会社を切り盛りし、オレたち兄姉は路頭に迷うことなく、育てられた。でも、母一人でしょ。がんばる母をみて、オレもがんばらなきゃ、って何べんも思ったね」。・・・・続き