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2014年8月24日日曜日

3年連続・首都圏(東京都&埼玉県)・調理師試験会場における求人情報配布実施。

23日(土)、休日出勤し今年も3年連続で調理師試験会場にて求人情報配布企画を実施しました。
昨年はマネして数社バッティングしましたが、今年はキイストンの独壇場でした。
エリアは東京都と埼玉県の試験会場計3ヶ所で配布。
キイストンの営業スタッフ関係者か゛頑張ってくれました。
地道にコツコツ、継続することこそ底力付いていきます。 
(東京駒場の試験会場)
(東京池袋の試験会場にて)
(埼玉の試験会場にて)
(東京駒場の試験会場にて)
(一瞬で配布できました)

2014年7月4日金曜日

7月、第2Qがスタートした。

さあ、キイストンの第2Q(クォーター)/7〜9月がスタートした。
6月は、個々の営業マンも実績出出してくれ少し成長したかな・・・。

7月は気を引き締め、また初心に返りコツコツ積み重ねていこう。

継続はチカラなり!
スピードは最大のホスピタリティ!

7月も新たなチャレンジしていきます。

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2014年4月26日土曜日

4月25日(金)、夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”に「ティオスグループ」の石橋孝子オーナー登場。

大森を中心に様々な店舗をドミナント展開され、また福島・郡山の奥座敷・磐梯熱海温泉で離れの宿『よもぎ埜(よもぎの) 』も経営されている「ティオスグループ」の石橋孝子オーナー
4月25日(金)の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”(細見連載企画)に
ご登場いただきました。
『離婚したら、勘当された。子どもをかかえ、女ひとり、大森に来た。ただただ必死に働いた。・・・』(石橋孝子オーナー著書より)
株式会社ティオスグループ 代表取締役 石橋隆太郎氏はコチラから
 【ティオスグループの石橋孝子オーナー】
 
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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2014年4月15日火曜日

4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”4月、いよいよ京都(関西)初上陸!!  株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏登場。
本文より~
兄は走り屋。弟はTVの料理番組が好きなお調子者。


岸本は1966年12月29日、東京千駄ヶ谷に生まれる。2人兄弟の弟で、5歳上の兄がいる。父はカメラマンで、兄も現在、カメラマンをされているそうだ。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。

少年から大人へ。長野県のある高校での3年間。


「クラスは2つあって、ほぼ全員、寮生でした。6時30分に起床。その後1.4kmのランニング、準備運動、体操と続きます。冬は7時起床。風呂場から部屋まで歩くと、髪が凍りつくんです」。
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。・・・続き
http://www.keys.ne.jp/
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2014年4月11日金曜日

4月11日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”は「ラムラ」の村川明社長登場。

あまりメディアに出られない「土風炉」「日本橋亭」「京町家」「鳥元」「過門香」など多業態の飲食店展開されている「ラムラ」の村川明社長
4月11日の夕刊フジ“波乱万丈 起業家列伝”にご登場いただきました。 (細見連載企画)


【ラムラの村川明社長


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2014年4月9日水曜日

土風炉や日本橋亭、過門香でも有名な株式会社ラムラ 代表取締役 村川 明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”土風炉や日本橋亭、過門香でも有名な株式会社ラムラ 代表取締役 村川 明氏登場。
本文より~

北海道の農家にて。「農業」が好きな少年が生まれる。


村川氏は、1952年4月26日、北海道のオホーツク海に面した小さな村で生まれた。父親はもともと農家をされていたそうだが、親戚が行っていたコンクリートの事業を手伝われるようになり、のちに社長まで務められるようになる。
村川氏は、11人兄妹の8男坊。広大な農地、豊かな自然、人と人の息遣い、それらすべてにみちた世界のなかで、村川氏はいつしか大きな心を育てていった気がする。
「父は、農業やっているくせに、農業がきらいだった(笑)。もともと頭がいい人だったから。それで、私が中学の頃かな。親戚の会社の手伝いをするようになる。その会社は、北海道の深川というところにあったんです。こちらも小さな町ですが、それでも私には都会に思えたんですね」。
村川氏が深川市に移り住んだのは、中学1年の時から。ところが、便利なはずの都会の生活に1年で飽きてしまう。
「スイッチを入れれば、ごはんも炊けるでしょ。マキもいらない。便利だけど何もすることがない。農家が、すごく恋しくなった(笑)」。
父に許可をもらい、もとの農家へ。
「あの時はさぁ、朝がくるのがたのしみでね」。
北海道の朝はいうまでもなく寒い。オホーツクから吹き付ける風は刃のようだったろう。しかし、少年の村川氏は、その朝がくるのを何より楽しみにしていた。
「都会に行って改めて、農業の仕事のたのしさに気づいたからでしょう。農家の仕事がとっても好きになっちゃうんですよ」。
野良仕事、牛や羊の世話。
「首筋をなでると、可愛い顔をする。そりゃ楽しいですよ」。牛にも、馬にも、羊にも接した。どこまでもつづく広い大地。畑を耕し、手にはいくつものマメができる。村川氏にとって、何の問題もなかった。冬の凍えるような寒さもバネにしながら、氏は強い心を育てていったに違いない。・・・・続き
http://www.keys.ne.jp/
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2014年4月1日火曜日

飲食業界の皆さんに少しでも恩返しを。

飲食経営者との接点も“飲食の戦士たち”により
約500社の経営者の生い立ちから生き様、独立までのお話を聴かせて頂き
おかげさまで業界ナンバーワンの飲食社長ネットワーク出来ました。
1社1社、直接弊社のスタッフがアポイント取らせていただき
最近ではインターンシップ制度を導入し、
学生たちの社会人人材育成にも役立っています。

だからこそ、今度は飲食業界の皆さんに少しでも恩返しをって考え
4月2日(大安吉日)より、
弊社運営の求人サイト“in-職hyper”の掲載費無料をスタートさせます。


(in-職hyper)








もちろん、この“in-職hyper”は新たに内容を一新しましたから、
効果面もこれからで構築段階スタート地点です。
しかし、半年後、1年後、そして2年後には
飲食業界No.1のサイトに仕上げる予定です。

できることをコツコツやり飲食業界No.1の件数と実績作ります。
同時に、飲食業界の労働条件の悪さから
業界離れも少なくありません。
働く方からの視点から飲食企業の経営者の皆さんに提案していくつもりです。

2014年度も新しい試みにチャレンジしていきますので、
これからもご贔屓ください。

2014年1月12日日曜日

2014年、決起会(クォーター全体会議)を実施しました。

1・1・1の1月11日、2014年最初の決起会(クォーター全体会議)を実施しました。

1年前は、私が話すだけでした。
それが、クォーター(四半期)ごとに決起会を実施していますが、
私の話す時間が徐々に減り、今回の決起会はなんと3分でした(笑)
これは従業員の成長の証です。
皆、求人やPRのお話しもらってます。
1月の時点で沢山案件あるので楽しみです。

まだまだ絶対的な強い組織にはなっていませんが、
だいぶお客様目線、応募者目線といった相手方の目線で仕事できる組織になってきました。
これもクライアントである飲食社長様や
一流どころの外部ブレーンの皆さま、そして商材提供頂いてるおかげです。
本当にありがたいことです。

また、社内では頑張って仕事してくれているインターンシップの学生の存在も大きいですね。

2014年は、想像以上の“求人難の時代”に突入します。
飲食業界のためにも、
従業員皆で頑張らなくては・・・・。
96x96

2014年1月7日火曜日

有限会社食匠厨房 代表取締役 坂本紘一氏登場。

本文より~

転勤家族。

1981年7月8日、坂本は山口県に生まれる。いまの風貌からは想像しにくいが、わがままでガキ大将。きかん気の強い少年だったそうだ。
父は大手生命保険会社のサラリーマン。大阪からスタートした転勤の数々は、代理店として独立開業されるまで計7回。その度に母と坂本と妹と弟の計5人も、引っ越した。引っ越す度に、友だち作りもゼロから。ガキ大将は、だんだんまるい性格になっていったのだろうか。
「まさに転勤家族です。今となっては、いい経験だったと言えなくもないですが、子どもの頃ですから、楽しいだけではありません。それを砕いてくれたのが、スポーツでした。小学生から始めたサッカーは中学生いっぱいまで続けました。」

ラグビー部からヨット部へ。

中学までサッカーボールを追いかけた坂本は、高校に入り「ラグビー部」に所属する。強豪校ではなかったが、サッカーとはまた違う、チーム競技を楽しんだ。
「一度、高校に入ってから父に想像していた学校と違うから辞めさせて欲しいといったことがあるんです。それなりの進学校で、窮屈だったんでしょうね」。
「ぼくは昔から『職人』という響きが好きで、料理人に憧れていたこともありました。だから高校を卒業する段になって、何をしようかと思った時、職人という言葉も頭に浮かんだんですが、両親からの説得もあり、とりあえず大学だと。適用範囲の広い、経営学部に進みます」。
坂本が進学したのは「横浜国立大学」。大学時代にはヨット部に所属した。職人への思いは脇に置き、ともかく海に向かった。

皿洗いからスタートした飲食人生。

「人生の転機を挙げるなら、ヨット部に入ったことと、卒業後、リンク・ワンに就職したことです。うちのヨット部は入部当初はぜんぜん強くなかったんですが、いつの間にかヨットの魅力に惹かれ、主将として素人集団を率いて全日インカレや日米親善大会へ連れて行きました。4年間、休日になると海に向かう、そういう生活を送りました」。
「大学生になって初めてアルバイトも経験しました。飲食がほとんどです。初めてバイトを開始したのは、年末。今なら年末が飲食店にとってどういうものかわかるんですが、何しろ初めてだったものでわけもわからず、ひたすら皿洗いをさせられました(笑)。
年が明け、客が落ち着いた頃になって初めていろいろ教えてもらったんですが、この時は、一生、飲食をするなんて思いも寄らないことでした。もっとも、その後の進路に株式会社リンク・ワン(※)を選んでいるんですが…」。
リンク・ワンでの4年半も、坂本にとっては貴重な時間、貴重な経験の毎日だった。
「独立志向は、なかったですね。トップに立つよりも、ナンバー2がいい。そういうタイプなんです。リンク・ワンでは『知恵を出せ、知恵がないなら汗をかけ』という言葉に代表されるように、わからないことだらけの環境で成長するために、馬車馬のようにがむしゃらに働きました。リンク・ワンを退職したのは、結婚したこともあって落ち着こうと思ったから。とは言っても飲食戻ってきてしまいましたけど(笑)『大関商品研究所』に転職するのは、そのあとのことです」。・・・続き

※『成長機会提供業』という経営理念の下、飲食店の業績改善を主とする現場コンサルの派遣会社
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2013年12月24日火曜日

有限会社なか(新宿割烹 中嶋)代表取締役 中嶋貞治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”祖父が北大路魯山人が主宰していた「星岡茶寮」の料理長だった 有限会社なか(新宿割烹 中嶋)代表取締役 中嶋貞治氏登場。
本文より~

2代目当主、野球選手をめざす。

中嶋は、1956年5月29日、東京都渋谷区広尾で生まれる。祖父の中嶋貞治郎氏は、あの北大路魯山人氏に認められ、魯山人氏が経営する「星岡茶寮」の初代料理長を務めた人である。1931年(昭和6年)、銀座に割烹「中嶋」を創業。
一方、「新宿割烹中嶋」は、1962年(昭和37年)に貞治郎氏の三男であり、中嶋の父、中嶋貞三が、独立・開業した店である。
中嶋は1956年生まれだから、6歳の時のこと。
少年中嶋は、料理人よりも野球選手に憧れた。王、長嶋世代である。TVにくぎ付けになり、まだ広場が残る東京で草野球にこうじた。
ところで中嶋が8歳の時に東京オリンピックが開催されている。TVが白黒からカラーになり、街もまた装いを新たにする。
少年、中嶋にとって、時代の移り変わりはどのように映ったのだろう。広場は、次第に姿を消していく。その様子を、目を丸くして見詰めていたかもしれない。
中学生になった中嶋は、さっそく野球部に入りキャッチャーを務めるようになる。
強肩で、快速のキャッチャー。
当時の「日大三高」の野球部監督に地肩の強さと足の速さを見込まれ、推薦で進学。プロ野球選手が、現実味を帯びてくる。
なにしろ「日大三高」といえば当時から甲子園の常連校。中嶋の世代も、春に甲子園の土を踏んでいる。
中嶋によれば、1学年400名の在校生のうち150人が野球部という時代だったそうだ。しかも、中学時代には、それなりの実績を残した生徒たちが三々五々とあつまった結果である。相手プレーヤーと戦う前に、自軍の選手と戦わなければならなかった。レギュラーになれるのは、たった9人。
最終学年になるまでに、大半がドロップアウトし、結果的には150名が20名ぐらいになったという。中嶋もドロップアウト組の1人だった。
「打ちっぱなしに行ったことがきっかけで、ゴルフに魅了され、野球部からゴルフ部に鞍替えした」そう。もっとも退部の直接的な原因は、ヘルニアを患ったことだった。
「バイトと言えば、打ちっぱなしのゴルフ場でやったことがある。しかし、ボール拾いをせずに、ボールばっかり打っていたので、ついには首になってしまった」と笑う。
野球部はドロップアウトしたが、学業は放棄しなかった。文科系のなかではトップの成績を収め、京都大学を受験している。実際に合格し、進学したのは京都産業大学、法学部。高校を卒業する頃には、野球よりすっかりゴルフに魅せられていた。

ゴルファー中嶋、改め、料理人中嶋の誕生。

「京都産業大学」は、京都市北区にある大学である。賀茂川沿いに上がっていくと、着く。風光明媚なところではある。「もともと祖父が京都伏見の出身なんです。それで京都へ。もっとも私は料理とは無縁の、体育会系のゴルフ部に入り、そちらに熱中します」。
隔世の感である。しかし、中嶋もまた祖父同様、京都で料理の修業を開始する。それはもう少し先の話になるのだが。
「大学3年生の時、父が他界します。進路を大学の恩師に相談したところ、『大学に来ていないんだから、辞めればいい』と厳しくもあたたかいアドバイスをもらい、退学を決意しました(笑)。入学当時は、ジャンボ尾崎のようなプレーヤーをめざしていたんですが、父が他界したことで、現実をみるようになったんだと思います」。
いずれ東京に戻るつもりでいたが、それを先の話として、ひとまず京都で修業先を見つけてもらい、3年働いている。
修行時代の話も聞いた。
「当時は、厳しい時代だったと良く言われますが、私は怒られた記憶はないんです。幼い頃から料理という世界に慣れ親しんでいたから、何をするにも次の次が読め、段取り良くやることができたからかもしれません」。
庖丁を研ぐのも、巧かった。
これは大事なことで、日本料理には、「割主烹従」という言葉がある。「烹る(煮る、焼く)」より、「割く(切る)」ことが主となるという、料理の姿勢を現した言葉だ。ちなみに、「割烹」という名も、この言葉に起源がある。
そういう意味でいえば、包丁を研ぐことは、料理に基本中の基本といえるのだろう。中嶋は先輩たちの包丁も、預かり、それを嫌な顔をせず研いだ。
少しずつではあるが、中嶋のなかに眠る祖父の血が、姿を現すことになる。・・・続き
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2013年12月18日水曜日

富山発!! 株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏登場。
本文より~

元気に遊ぶ普通の子。

父は「型枠大工」をやっていた。仕事柄、バブル成長の影響もあり出張で家を空けることが多く、子どもの頃に父とゆっくり接したことは少ない。兄弟は松原を筆頭に3人。全員、男子。生まれは父方の下新川郡だったが、3人の男の子を育てるために、母方の実家である宇奈月町(現在は黒部市)に移り住んだ。
「当時はまだ祖母が旅館を経営していまして。宇奈月町は宇奈月温泉でも有名なところですから。大手企業の保養所みたいな感じでもあったんですが、そこに親子4人で引っ越してまして。父も、こちらにいる間は寝泊りするんですが、仕事が入るとまた出かけていくもんですから、あまり父に遊んでもらった記憶はないですね」。
「ばあちゃん子ですよね。母の体調のこともあったのですが、祖母が若かった事もありもっぱら祖母に面倒みてもらったりしてました。私はというと邪魔といたずらばっかりしていましたが(笑)遊び場は旅館の裏に山があったので、よくその山を駆け昇ったりして、山菜なんか採ったりして。そんなことばかりしていましたね」。
どこにでもいる普通の子で正直この頃は経営者になるなんてことは全く考えていなかった。
だが、自然と触れ合いながらすくすくと育ったことで、今の「素直さ」や「純朴さ」があるのかもしれない。

都会に憧れるようになるまでの話。

松原は、1977年、富山県下新川郡に生まれる。前述通り、しばらくして宇奈月町(現在は黒部市)に引っ越す。「引っ越したことで、急に大人しい性格になった」と松原。それでも中学時代には、陸上競技の中距離で優秀な成績を残すなど運動神経には恵まれていたそうだ。
「中学の時は陸上とスキーです。スキーは盛んで、クロスカントリーなんかは授業に組み込まれていました。そうですね、運動神経はいいほうで、スキーの大会にも出場しました。山には縁があって、私が中学生までは、家族で年2回は山に登っていました。父が好きだったんです」。
この頃から都会にも憧れるようになっていた。「TVで観て知っているぐらいでしたが、それでも、いいなと。だれもが思うようなことなんだと思いますが」。
大人になるにつれ、「都会」という刺激的な二文字が、少年のなかで大きくなっていった。

3日目で脱走。それまで、それからの話。

片道2時間。「自転車と電車を乗り継いで、それで毎日通っていました」というのは、高校時代の話である。部活をする時間もなかったが、それでもまじめに通学した。
「高校を卒業する頃には、進学よりも就職という希望を持っていて、それで、親の紹介で、ある大手企業に就職させてもらいました。とはいえ、工場のライン勤務です。勤務地も遠く、車で1時間半ぐらい。朝が早かったのもあったんですが、単純労働に付いていくことができず、1週間の研修が終わってから、3日後には脱走です(笑)。それからですね。ホームセンターなどでアルバイトをするようになり、少しずつ接客の仕事を開始しました」。
フリーターになった。派遣もやった。派遣の時には、大手メーカーから「正社員に」と誘われもしたが、もう富山の片田舎で終わるのもいやになっていた。だから、東京へ向かった。あては何一つない。
「友だちの家に転がり込んで。でも、なかなかうまい話はないんですね。モデルに応募してみたりして。で、いろいろあって、結局、大阪で就職するんです」。・・・続き
株式会社ピーノコーポレーション 代表取締役 松原博紀氏
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2013年12月10日火曜日

株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏登場。
本文より~

水炊き「玄海」の始まり。

水炊き「玄海」の歴史はもう1世紀近くになる。創業者の曾祖父が九州で自転車屋を開業したのが、その始まりだそうだ。
「当時は、あのブリヂストンさんとも張り合っていたそうです。曾祖父は九州から東京に進出した時に、九州の郷土料理でもある水炊き屋を開業します。それが直接的な意味で『玄海のはじまり』です」。
品川で開業した「玄海」は、すぐに有名な料理店となり、官僚たちも訪れる名店となる。何でも、二・二六事件の討議は「玄海」で行われたのではないかと当時からささやかれていたそうだ。
「もともと昭和3年に<博多水炊きを中心とした料亭>として品川で創業するんですが、昭和12年に軍に土地を取られ、それでいまの新宿マルイメンズ館がある土地に引っ越したんです」。
ホームページに「昭和14年5月 新宿に本店を開く」とある。こちらが、この時のことだろう。ちなみに昭和42年1月に新宿本店別館、昭和53年10月に亀戸駅前ビル店開店(多店舗化第1号店) となっている。
何かあればすぐ駆けつけられるようにと店舗と住まいを共有していた矢野家が、店舗を離れて暮らしはじめたのは、昭和56年5月、新宿にGYビル(自社ビル)を完成させ、建物内に社員寮を開設した時からである。

ボンボンの少年時代。

「典型的なボンボンだった」と、矢野はいくぶん後悔の響きを含ませながら笑う。小さな頃から従業員に囲まれチヤホヤされてきた。教育には人一倍熱心な母だったが、一人息子にはどこか甘かったのだろう。
「何をやっても長つづきしない。イヤになったらすぐに辞める。そんな性格です。そう、ボンボンですよ、典型的な」。
小学校から私立の「暁星小学校」に入学。受験しないでもエスカレーターで「暁星高校」までのぼる道ができた。「中学から強烈な反抗期に入った」と矢野。
ただし、本格的にグレる勇気もなかったそう。ハンパな生き様。矯正しようともしたが、すぐに甘えの虫が騒ぎだした。
「ボンボン」だからこその、葛藤。でも、自ら「ボンボン」の特権を手放す勇気もなかった。そんな矢野が、かわったというのは、大学時代。「2年生の後期、ゼミに入ってからだ」という。どんな心境の変化があったのだろうか。

獨協大学でマーケティングを専攻する。

中・高と、まったく勉強しなかったが、大学には、からくも滑り込んだ。
「反抗したといっても、事業家・経営者である父を尊敬していましたので、私は大学で『経営学』を専攻します。2年の後期からゼミに入るんですが、そのゼミで『マーケティング』を学び、俄然、興味がわいてきたんです。いろいろな経営者の方とお会いして、視野も広がります。いままで何ひとつ打ち込むことがなかった私が、この頃から少しずつ、何かに打ち込むようになったんです」。
大学生になった息子に、父は会社の状況を良く話してくれたそうだ。
「うちの店に入れとはいいません。どの道に進もうが、『とにかく聞いておけ』と。教訓となると思ったのでしょう。業績が厳しくなり、戦友のような従業員を切らざるをえなくなったというリアルな話も耳にしました」。
話を聞かせても、まだ学生の矢野にすべてを理解することはできなかったに違いない。しかも、父はまだ矢野に、『3代目店主の席を譲る』と一言も言っていないのである。
矢野自身がどうあるべきか、どう進むのか、その答えを父が催促しているようにも思える。大学卒業。矢野はどんな道を選択するのだろう。・・・・・続き
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2013年11月26日火曜日

ロバート・デニーロと共同経営されている世界のNOBU、松久信幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にあのロバート・デニーロとの共同経営されているNOBU TOKYO オーナーシェフ 松久信幸氏登場。
本文より~

世界の、「ノブ」。

ハリウッドスターであるロバート・デ・ニーロ氏。日本でも有名なこの映画俳優が、松久をスターダムにのしあげた。1987年にビバリーヒルズに「Matsuhisa」をオープンした松久は、たちまちハリウッドの著名人たちを魅了する。そして7年後、ロバート・デ・ニーロ氏に誘われ、共同出資でニューヨークに「NOBU New York City」をオープンするのである。この店が、松久をスターダムにのしあげるきっかけとなった。
ちなみに2000年10月にはデザイナーのジョルジオ・アルマーニ氏とパートナーシップを組みイタリア・ミラノに「NOBU Milan」をオープン。その後も、世界各国の著名なローカルパートナーと組み、出店。いまや「ノブ」の名は世界中で知れ渡っている。
今回は、この「世界の」という冠も大げさには聞えない「ノブ」こと、松久信幸氏にインタビューさせていただけるという「幸運」に出会った。

おばあちゃんに育てられ。

「私は、4人兄弟の末っ子。長男とはひと回り離れていました」と松久は語る。父は木材商で、もともとは深川で仕事をしていたが、戦時中に家族とともに埼玉に疎開。そこで、松久を授かった。ところが、松久が小学校に上がるとすぐに父は他界。4人の兄弟と、母と祖母が残されてしまった。
「長男が大学進学をあきらめ、父の代わりに仕事を切り盛りします。私にとって長男は怖い兄で、ある意味では父のような存在でした」。
父の事業は長兄と母に引き継がれ、かたちは残したものの、けっして裕福ではなかったようだ。母はもちろん兄弟たちも、まだ幼い少年に目をかけている暇もなかったことだろう。
「私は、おばあちゃん子なんです。おばあちゃんに育てられたようなもんですから」。この祖母は、明治生まれ。優しい人だったが、厳格で、松久にとっては怖いおばあちゃんでもあった。
「当時は、靴というのがなくって、裸足か下駄なんです。で、しょっちゅうケンカもして。私がケンカに負けて泣いて帰ってくると、祖母が怒りだすんです。『どうして、おまえは下駄を履いているんだ』って。最初はなにを言っているのかわかりません。つまり、こういうことだったんです。『何故、ケンカをして泣かされているのに下駄を履いて帰ってきたんだ。どうして、その下駄をぶつけて帰ってこないんだ』と(笑)」。
祖母は負けずぎらいの人だったのだろうか。それとも、父のいない松久を思っての、切ない怒りだったのだろうか。
この祖母は、松久に「影、日なたのある人間にはなるな」とつねに教えてくれた。「ごめんなさい」「ありがとうございます」を大事にすることも、口酸っぱく諭してくれたそうだ。ともかく少年の日々の記憶にはいつも祖母の姿がある。

1枚の写真と鮨屋と。

祖母とは別に、松久のなかにはもう一つ鮮明な記憶がある。すでに書いた通り、父の写真をみながら、いつか海外へと思った思考の記憶である。
松久が小学生というからには10歳ぐらいのことで、1959年前後のことである。為替はまだ1ドル360円で、海外に行く人は数少なかったはずである。そんななか、海外で現地の人と映る父の写真は、少年にとって何よりも誇らしいものだったのかもしれない。
ともあれ、少年松久はまだ自然が豊富に残る埼玉で、土手を駆け、山を走るわんぱくな坊主でもあった。「まぁ、埼玉でも有数の健康優良児だったわけです」と松久は、昔を思い出し笑う。
そんな松久に一つの転機が訪れたのは、1軒の鮨屋ののれんを潜った時のことだった。「長兄にはじめて鮨屋に連れていってもらった時のことです。鮨屋という別世界に、魅了されたんです。そう、きれいなカウンターにも、ガリという用語にも…」。異次元に迷い込んだ気がしたのかもしれない。ほどなく「鮨屋になる」というのが松久の目標になった。・・・続き
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2013年11月18日月曜日

11月15日、夕刊フジの連載『波乱万丈 起業家列伝』に、 SERVERS(サーバーズ)株式会社の中田琢也社長登場。

10月より夕刊フジにて連載中の『波乱万丈 起業家列伝』毎週金曜)。
11月15日(金)の第7回目は、サーバーズの中田琢也社長です。

ビリヤード&ダーツの「バグース」を出店し、エンターティナー&アミューズメント事業を推進。
2006年に専務取締役、2008年に代表取締役に就任されましたが、2012年5月に退任され、SERVERS(サーバーズ)株式会社を設立されました。


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2013年11月14日木曜日

やっぱり夢を持った学生はこちらも元気になります。

昨日13日(水)に、
意欲ある学生の方を集めていただき、
インターンシップ説明会&選考会させて頂きました。

なんと参加が20名も・・・・。
そのうえ意欲ある熱くて目の輝きある学生が多いこと•多いこと!

どの時代でも、夢を持った可能性のある学生はいます。
そしてそんな学生の近くには、間違いなく類は友を呼びいい学生です。

飲食業界の方たちに、この学生たちを合わせてみたいな。
学生のイメージ変わると思います。

できれば、その中から数人を
ただのインターンシップだけでなく、
学生だけの営業部隊“新戦組”作って
学生したか出来ないことを中心に暴れてもらいたいと考えています。

また、いい学生が入ってくると社内も活気出てきます。
スタッフもうかうか出来なくなります。
皆が刺激しあい、強い組織になれば最高です!

楽しみ。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2013年11月7日木曜日

武蔵大学の海老原ゼミにて喜多方ラーメン坂内の麺食・中原社長に講義していただきました。

昨日11月6日(水)、麺食(喜多方ラーメン坂内・他)中原誠社長に、武蔵大学海老原ゼミにて講義して頂きました。
今回、武蔵大学では、2回目の講義でしたが、生徒の皆さんも金融をテーマに話して頂いたので、熱心な耳を傾けていました。
中原社長、海老原崇先生、ならびにキッカケを頂いた武蔵大学名誉教授の一樂先生に感謝申し上げます。
 (喜多方ラーメン坂内の麺食・中原社長)
 (学生の皆さんはハングリーに聞いているように感じます)
(中原社長に学生さんが質問を)
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