in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社関内産業 代表 陳佑妹(チン ユウマイ)氏登場。
母の生まれは、ピンタン。
「平潭島」と書いて、「ピンタン」と読む。中国福建省の最大の島で今や観光で潤っている。ただし、今回、ご登場いただいた関内産業の陳さんがいた頃は島全体が貧しく、父母と、兄妹3人の生活は、けっして恵まれたものではなかったという。
「島をでることもひと仕事だった」と陳さん。当時は小さな船しかなく、荒れる海峡を渡ることができなかったらしい。
いうならば、孤島である。
孤島でも、人々の暮らしは、つつましく営まれていた。
「父と母の教育は褒めることでした」と陳さん。教育というより、息子、娘が大好きすぎて褒めることしかできなかったのかもしれない。
お母様は、10人兄妹のちょうど真ん中。頭が切れる人だったらしい。
「弟や妹はもちろん、歳の離れたお兄さんたちまで、なにかあれば、母に相談していたそうです。やさしくて明るくて、とにかく、人の話をちゃんと聞く人でしたから、たぶん相談もしやすかったんですね。でも、母親は学校にも行っていないので、字が読めないんです。だから、メールで相談が送られてきても、『電話じゃなきゃだめ』って(笑)」。
大陸から離れた平潭島では、識字率も低かったにちがいない。
「でも、母がいうことに間違いはないから、みんな頼ってくるんですよね」。
たしかに、やることにもまちがいがない。息子2人と娘1人を上手に育て、兄2人は、今や中国で2000人の従業員を擁する有名企業の経営者。陳さんもまた、日本で飲食店を経営している。
じつは、陳さん、中国にいた頃から経営者で、平潭島で「文房具店」を経営している。
「兄妹の仲は昔も今もいいですね。兄は2人とも私のことが大好きなんです」。
そんな大好きな妹が海を渡ると言い出したときには、父母はもちろん、兄2人も、さぞ、驚き、心配されたことだろう。
ちなみに、ここで言う海は、平潭島と大陸の間の海峡ではなく、大海原のことだ。
陳さん、来日。
<どうして、日本へ?>
「私、高校を卒業するまで平潭島をでたことがなかったんです。だから、平潭島から、でたいと(笑)」。
海峡の向こうにある文化に興味をもつ旺盛な好奇心は、母になってもかわっていなかった。
「さっきも言いましたが、平潭島でもビジネスをしていたんです。私の子どもたちは小さい頃から仕事を手伝ってくれて、今、横にいる息子は計算が得意で、小学1年生で、お釣りも間違わなかったです」。
その息子、楊業煌さんは、現在24歳。日本の中央大学に在学し、学業のかたわら、子どもの頃と同様、母の陳さんの仕事を支援している。
「彼は中学生のときに、ネット通販の事業を起こして、その頃からビジネスの世界に浸かっているんです。今はまだ学生ですから、私のサポートをしていて起業もしていませんが。飲食店の経営と、法律事務所を経営したいと言っています」。
<法律事務所?>
「そうです。彼は今、中央大学の法学部の学生です。私たち外国人が帰化することなく、異国の日本で暮らしていくために法律をマスターしようと中央大学に進学しました。そうだよね?」。
息子、楊さんの話。
陳さんは、息子の楊さんをみる。
「来年か、再来年には弁護士の資格を取得する予定です。その一方で、飲食という、こちらは私にとっては趣味にちかいんですが、飲食の経営も行っていきたいです」。
息子をみる陳さんの目はやさしい。たぶん、陳さんのお母様も、息子、娘をそういう目でみていたんだろう。
2人は「ケンカもしたことがない」という。陳さんが、息子の楊さんを生んだのは、20代前半。「親子というより、ともだち」と、歳のちかい親子はそう言って笑う。
改めて、来日についての話をうかがうと、将来に向かって走るつよい母の姿が浮かび上がった。
「外の世界をみる。それが、私の当時のミッションだった気がします。当時、平潭島はさっきもいいましたが、今のように繁栄していませんでした。だから、島からでるのは息子たちの道標になると思ったんです。日本に来たのは親戚も少なくありませんでしたし、2010年の頃でいうと、やはり日本はアジアのなかでも憧れの国だったんです」。
息子2人を父母に託し、遠く離れた日本での生活がスタートする。それからおよそ8年後、息子たちを日本に呼び寄せるが、その間、陳さんは1人で奮闘した。
「最初は日本語がわからないでしょ。息子なんかは1年でマスターしましたが、私は15年経った今もまだつたないです。来日当初はつたないというレベルじゃなく、ぜんぜんわかりません。生活をしないといけないんで、飲食店で接客のアルバイトをして勉強しようと思ったんですが、日本語がしゃべれないので、コップ洗いです(笑)」。
慣れない異国での生活。言葉、文化のカベを、陳さんは年月をかけ、その一つひとつをクリアしていく。人とも、ふれあう。
<起業するきっかけは?>とうかがうと、アルバイト先の女性オーナーが「共同で経営しようと誘ってくれたこと」という。
楊さん、日本へ。
あらためて、楊さんにお話を聞く。
「楊さんが来日されたのは、何歳の時ですか?」。
「20歳の時です。ママ(楊さんは、母親である陳さんをそう呼ぶ)から日本に来なさいと言われて、弟と2人で来日します」。
ちなみに弟は薬学部に通いながら、お店の手伝いをしているそうだ。
<「海王酒場 舞」をオープンされたのは、大学2年の時と聞いています>
「2023年の11月ですから、そうなりますね。ママがさっきお話したように、私は12歳からネットビジネスをやっていました。希少価値の高い靴をネットで販売していたんです。月商をいうと、みんなひいちゃうと思うので言いませんが、当時からお金儲けには関心があったんです。中国で大成功している叔父さんたちの影響もあったんだと思います。ただ、異国でビジネスとなると、やはりむずかしい。言葉のちがいも、文化のちがいもありますから。そのなかで唯一飲食は、ハードルが低く、私にもできるだろうと」。
「息子が飲食店をしようといったのは、コロナ禍の下でした。本来、飲食店にとってマイナスだったんですが、私たちにすればラッキーで、またとないロケーションでオープンできました」。
こちらはお母様の陳さん。
「ママの言う通りで、今『海王酒場 舞』があるのは、ヘンな言い方になりますが、コロナのおかげです」。 コロナ禍で多くの飲食店が閉店するなか、「今こそチャンス」と考えた陳さん親子は、空き物件を探し、駅前のビルに出店を決めた。
物件はスケルトンからのスタート。最初はデザイナーに任せた図面に満足できず、楊さんが自ら設計を引き継いだという。
・・・続き
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