2025年9月4日木曜日

株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏登場。

本文より~

少年、中岸。将来の目標は、起業家。

「起業家」という言葉を学生たちが使いはじめたのはいつ頃だろう? AIに聞いてみると「1990年代後半から2000年代にかけて」という回答だった。
たしかに、1990年代後半に入ると、ITベンチャーのブームが到来。大学でも「アントレプレナーシップ教育(起業家教育)」が科目となったほか、ビジネスプランのコンテストも様々なメディアで取り上げられていた気がする。
今回、ご登場いただいたアントレストの代表取締役、中岸孝介さんは1980年生まれだから、ズバリ、その年代の申し子でもある。
「私は1980年、京都府の、今の木津川市に生まれます。京都と奈良の境にちかく、田舎といえば、田舎ですね。もともと東大阪市の工場で働いていた祖父が、起業し工場を木津川市に建設、父が継承。最盛期には30名程度のスタッフが勤務していました」。
祖父の時代もそうだが、お父様に代替わりしてからも業績はよく、羽振りも悪くなかった。「車好きでもない父親がリンカーンに乗っていた」と笑う。外食も少なくなかったそうである。
1980年代はバブルに向かって経済がひた走りに走っていくとき。「私が起業という言葉を使い始めたのは、中学くらい。いうまでもないですが、祖父や父の影響です」。
サラリーマンが色褪せていく時代でもあったんだろう。中岸さんの話をきいて、起業家ブームの遠因が、この頃にあったんだと気づくことになる。
「たしかに、私の起業原点は、あの頃の祖父や父の姿でまちがいないですね」。
中岸さんは、中学生の頃から早くも「起業する」と公言していたそうだ。その言葉に、惹かれるように仲間ができた。
「今ね、芸能界でいちばん注目されている事務所があるんですが、その事務所の経営者はその頃から馬があって、四六時中いっしょにいた友人です」。
ニキビづらの少年2人が、起業について、あつく語っていたんだろう。「高校に進むと、のちにいっしょに起業する有村さんと出会います」。
のちに共同経営者となる有村さんは立教大学に進み、中岸さんは京都産業大学に進学している。ちなみに、中岸さんは、小学生からラグビー、中学、野球、高校でふたたびラグビーとスポーツ少年でもある。

お祭り男、京都三大祭りを、四大祭りにする。

「いっしょに起業について語り合ったともだちは東京に行き、有村さんも立教だから東京へ。その友人は東京で有村さんが運営する起業家サークルに参加して、いっしょにビッグになろうぜって」。
青年となり、語り合うことで、起業家熱が加速する。
その頃、中岸さんはアメリカに渡っている。
「大学を1年間休学して、アメリカで暮らします。そして、帰国してからですね。彼らに影響されて、京都でもなんかしようと、私が発起人となってイベントを開催します」。
<葵祭、祇園祭、時代祭といった京都三大祭り、プラスワンのことですね?>
「そうです。四大祭りをめざして開催します。起業家の方々にもプレゼンしてスポンサーになっていただいて、数百万円かけて。1万人くらいのイベントになりました」。
学生のエネルギーに、大人たちが資金を投下した。
「4年はつづいたと思うんですが、発起人の私は、1年で東京へ上京するもんですから、かかわったのは1年だけでした」。
<なにかきっかけがあったんですか?>
「私が大学4年の12月くらいですね。就職は、もちろん、まったく頭にありませんでした。私同様、起業しか頭にないような仲間が有村さんや、もう一人の友人以外にもいて、みんなでなにかをしようとなったんです。彼らと合流するため上京して、あるレコード関係のベンチャー企業で、はたらきます」。
女子高生をつかったマーケティング会社だったそう。「ルーズソックス」や、「路上の歌姫」という言葉をつくった会社だと中岸さん。「私は、オフィスに住み込んではたらいていました。住込みといっても、デスクの横で寝ていただけなんですが(笑)」。
もう一人、住み込んでいた人がいる。
「有村さんですよね。彼は、渡邉美樹さんの『青年社長』に感化されて、飲食で起業するといって、ある会社に就職して、社長さんの自宅に住み込んでいました。起業の準備は1年間と決めていたそうで、早く、すべてをマスターするなら、社長にへばりつくことだと」。
有村さんが飲食店開業に向けひた走る一方で、中岸さんらは、路上のライブをサポートし、歌姫をデビューさせることに熱中した。芸能界とのパイプもできる。

「飲食を。」青年たちが向かった志の、そのさき。

「そうなんですね。じつは、私と有村さん以外にも4人の仲間がいて、小・中から起業を語り合った奴もそのうちの1人で、有村さんの話をきいて『じゃあ、みんなで飲食を』ってなったんです」。
起業家、6人。
野望もある、アンテナも高い、ネットワークも生まれつつあった。
<それにしても、どうして飲食だったんですか?>
「もちろん、歌の世界とか、芸能とか、そういうカテゴリーに惹かれてはいましたが、有村さんが飲食といい、私はじつは料理が好きだったもんですから、そこからスタートだと。ただ、6人のうちの3人は、けっきょく離れていきました」。
けっきょく、起業は有村さんと、もう一人京都からいっしょに上京した3人で行うことになる。
「仲間割れとかそういうことじゃなくって。最初は『渋谷で、イタリアン』なんていってたんですが、そんな洒落たレストランにだれも行ったことがなくって。唯一の飲食経験者の有村さんも居酒屋だったんで、最終的に虎ノ門で『炉端』をオープンすることになったんです」。
<渋谷が虎ノ門になり、イタリアンが炉端になったわけですね?>
「それで、『じゃオレは下りる』と、小・中いっしょだった奴は、芸能の世界にもどります。今も交流があり、いちばんの友人なんですが、あのときはさすがに険悪なムードになりました」。
<イタリアンと炉端、たしかに響きがちがう(笑)>
「感度の高い女子がひいきにするおしゃれなイタリアンと、かたや『飲んべぇ』の聖地みたいな炉端でしょ。私を含め、残った3人も『居酒屋』って響きがちょっとイヤで(笑)」。
だから、「炉端」といっても、一つずつ手づくり。価格は抑えたが、原価も惜しまなかった。
「正直にいうと、原価って意識がなかったんです(笑)。とにかく、お客様に喜んでいただこうと。それに炉端っていってもチープな料理ももだしたくない」。
チラシも配りまくる。創業者の1人、有村さんは、あるメディアのインタビューで「深夜にチラシ持って走り回ってるアイツらは誰だ?」という口コミが広がったとおっしゃっている。
原価を無視した手づくりの料理と、宣伝効果が重なりオープン後、すぐに軌道に乗る。店名は「さくらさく」。2004年、虎ノ門に咲いたもう一つ「さくら」である。

お金がなくなった。

「当時のキャッチフレーズは100店舗だったんです」。「アントレプレナー」と「レストラン」「最上級のest」。飲食における最高の起業集団という想いを込めて、社名を「アントレスト」と命名した。
毎夜、客の喧騒が店を包む。
「このあと、神楽坂に「つみき」、新宿に「いちりん」をオープンしていきます」。正確には、2004年に「さくらさく」、翌2005年「つみき」、その翌年の2006年には、「いちりん」ほか3店舗をつぎつぎオープンしている。
このときがいちばん厳しかったというのは、2006年からの快進撃のうらがわで、中岸さんが感じていたこと。「じつは、大阪の飲食店からいただいたコンサルティングの依頼を受け、私がそちらに行っていたこともあって、業績が真っ赤になっていくんです」。
<無理がたたった?>
「というか、私たちが無知だったんでしょうね、起業という二文字ばかりおいかけ、エンジンはもちろんあったんですが、経営のノウハウもない若造でした」。
経営の甘さをおぎなおうと、コンサルタントを採用。それが、落とし穴となったようだ。
「コンサルタントが悪いというより、効率化の落とし穴ですね。『さくらさく』は、素人目線で、どうすればお客様が喜んでくださるか、それだけを思って経営していたんです。その思いをスタッフみんなで共有して。でも、それが、効率、効率になっちゃって」。
「いちりん」につづく、2店舗も予想を外す。「お金もなくなった」と中岸さん。
「そのとき、ある飲食の経営者が資金を援助してくださって、事務所まで間借りさせてくださったんです。そのおかげで今があるのは、事実ですね」。
いきおいと、センスだけで、船出した。風を読み間違え、座礁した。ただ、<それが、かえってよかった>と言っては怒られてしまうだろうか?

社長、就任。

「『魚串さくらさく』は2009年にリリースした自社ブランドです。炉端で仕事をしているとき、魚を食べるお客様をみているとどうも食べにくそうなんですね。じゃぁ、焼鳥のようなサイズにして、串に刺すとどうだろうか、と」。
この魚と串のコラボレーションが、ヒットする。その一方、辛酸を嘗めたことで、経営への関心、スキルも向上する。ネットワークも広がった。
「先日、この『飲食の戦士たち』にも登場されていましたが、あの井戸さん花光さんが絶好調だった頃。私たちも、井戸さんや花光さんを真似て、初期投資をかけずに、つぎつぎ『魚串』をオープンしていきます」。
「魚串」をライセンス化する。最盛期には20店舗まで拡大したが、当初のキャッチフレーズの100には程遠い。いまだ、5分の1である。
「ロケーションの問題もあって、だんだんと魚串が停滞するなかで、有村さんが牛角の創業者の西山さん主催の『西山塾』に入り、その縁で、『焼肉ライク』の起業に参加することになったんです」。
8年前というから、2017年頃のことだろうか? 「焼肉ライク」1号店オープンは2018年のことである。
ちなみに、この中岸さんのインタビューに度々、登場する有村さんは、「焼肉ライク」の初代社長である有村壮央さんのこと。有村さんは現在、中小外食企業にマーケティングとマネジメントを移植する「株式会社カチアリ」を経営されている。
面白い記事も書かれているので、「有村壮央」「焼肉ライク」で検索してみてはどうだろうか。
「有村さんから株式を買い取りましたので、株主の比率は今、当初出資してくれた友人たちが10%程度で、あとは、私です」。当然、代表取締役社長となったのは、中岸さんである。
<有村さんが抜けたことで、なにかかわりましたか?>
「当時は、有村さんはもう、現場にはでていなかったんで、そうですね。特段、影響があったわけじゃないです。ただ、有村さんはカリスマ性があって、それでみんなをひっぱっていくタイプで、私は、どちらかというと、仕組みや制度を大事にするタイプなので、そこはスタッフからみてかわったかな、と」。
中岸さんが社長になり、評価制度も整えたという。中岸さんと有村さんは、仲違いしたわけではない。 アントレストが「焼肉ライク」を9店舗も運営していることからも、その関係がうかがえる。「焼肉ライク」を育てた有村さんのノウハウをわけてもらい、フランチャイズビジネスも拡大していく予定だ。
話は少しもどり、経営権を獲得し、社長になった中岸さん。その中岸さんをまっていたのは、そう、あのコロナだった。

・・・続き

株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏

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