2013年12月10日火曜日

株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社玄海 代表取締役社長 矢野賀也氏登場。
本文より~

水炊き「玄海」の始まり。

水炊き「玄海」の歴史はもう1世紀近くになる。創業者の曾祖父が九州で自転車屋を開業したのが、その始まりだそうだ。
「当時は、あのブリヂストンさんとも張り合っていたそうです。曾祖父は九州から東京に進出した時に、九州の郷土料理でもある水炊き屋を開業します。それが直接的な意味で『玄海のはじまり』です」。
品川で開業した「玄海」は、すぐに有名な料理店となり、官僚たちも訪れる名店となる。何でも、二・二六事件の討議は「玄海」で行われたのではないかと当時からささやかれていたそうだ。
「もともと昭和3年に<博多水炊きを中心とした料亭>として品川で創業するんですが、昭和12年に軍に土地を取られ、それでいまの新宿マルイメンズ館がある土地に引っ越したんです」。
ホームページに「昭和14年5月 新宿に本店を開く」とある。こちらが、この時のことだろう。ちなみに昭和42年1月に新宿本店別館、昭和53年10月に亀戸駅前ビル店開店(多店舗化第1号店) となっている。
何かあればすぐ駆けつけられるようにと店舗と住まいを共有していた矢野家が、店舗を離れて暮らしはじめたのは、昭和56年5月、新宿にGYビル(自社ビル)を完成させ、建物内に社員寮を開設した時からである。

ボンボンの少年時代。

「典型的なボンボンだった」と、矢野はいくぶん後悔の響きを含ませながら笑う。小さな頃から従業員に囲まれチヤホヤされてきた。教育には人一倍熱心な母だったが、一人息子にはどこか甘かったのだろう。
「何をやっても長つづきしない。イヤになったらすぐに辞める。そんな性格です。そう、ボンボンですよ、典型的な」。
小学校から私立の「暁星小学校」に入学。受験しないでもエスカレーターで「暁星高校」までのぼる道ができた。「中学から強烈な反抗期に入った」と矢野。
ただし、本格的にグレる勇気もなかったそう。ハンパな生き様。矯正しようともしたが、すぐに甘えの虫が騒ぎだした。
「ボンボン」だからこその、葛藤。でも、自ら「ボンボン」の特権を手放す勇気もなかった。そんな矢野が、かわったというのは、大学時代。「2年生の後期、ゼミに入ってからだ」という。どんな心境の変化があったのだろうか。

獨協大学でマーケティングを専攻する。

中・高と、まったく勉強しなかったが、大学には、からくも滑り込んだ。
「反抗したといっても、事業家・経営者である父を尊敬していましたので、私は大学で『経営学』を専攻します。2年の後期からゼミに入るんですが、そのゼミで『マーケティング』を学び、俄然、興味がわいてきたんです。いろいろな経営者の方とお会いして、視野も広がります。いままで何ひとつ打ち込むことがなかった私が、この頃から少しずつ、何かに打ち込むようになったんです」。
大学生になった息子に、父は会社の状況を良く話してくれたそうだ。
「うちの店に入れとはいいません。どの道に進もうが、『とにかく聞いておけ』と。教訓となると思ったのでしょう。業績が厳しくなり、戦友のような従業員を切らざるをえなくなったというリアルな話も耳にしました」。
話を聞かせても、まだ学生の矢野にすべてを理解することはできなかったに違いない。しかも、父はまだ矢野に、『3代目店主の席を譲る』と一言も言っていないのである。
矢野自身がどうあるべきか、どう進むのか、その答えを父が催促しているようにも思える。大学卒業。矢野はどんな道を選択するのだろう。・・・・・続き
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