2013年12月24日火曜日

有限会社なか(新宿割烹 中嶋)代表取締役 中嶋貞治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”祖父が北大路魯山人が主宰していた「星岡茶寮」の料理長だった 有限会社なか(新宿割烹 中嶋)代表取締役 中嶋貞治氏登場。
本文より~

2代目当主、野球選手をめざす。

中嶋は、1956年5月29日、東京都渋谷区広尾で生まれる。祖父の中嶋貞治郎氏は、あの北大路魯山人氏に認められ、魯山人氏が経営する「星岡茶寮」の初代料理長を務めた人である。1931年(昭和6年)、銀座に割烹「中嶋」を創業。
一方、「新宿割烹中嶋」は、1962年(昭和37年)に貞治郎氏の三男であり、中嶋の父、中嶋貞三が、独立・開業した店である。
中嶋は1956年生まれだから、6歳の時のこと。
少年中嶋は、料理人よりも野球選手に憧れた。王、長嶋世代である。TVにくぎ付けになり、まだ広場が残る東京で草野球にこうじた。
ところで中嶋が8歳の時に東京オリンピックが開催されている。TVが白黒からカラーになり、街もまた装いを新たにする。
少年、中嶋にとって、時代の移り変わりはどのように映ったのだろう。広場は、次第に姿を消していく。その様子を、目を丸くして見詰めていたかもしれない。
中学生になった中嶋は、さっそく野球部に入りキャッチャーを務めるようになる。
強肩で、快速のキャッチャー。
当時の「日大三高」の野球部監督に地肩の強さと足の速さを見込まれ、推薦で進学。プロ野球選手が、現実味を帯びてくる。
なにしろ「日大三高」といえば当時から甲子園の常連校。中嶋の世代も、春に甲子園の土を踏んでいる。
中嶋によれば、1学年400名の在校生のうち150人が野球部という時代だったそうだ。しかも、中学時代には、それなりの実績を残した生徒たちが三々五々とあつまった結果である。相手プレーヤーと戦う前に、自軍の選手と戦わなければならなかった。レギュラーになれるのは、たった9人。
最終学年になるまでに、大半がドロップアウトし、結果的には150名が20名ぐらいになったという。中嶋もドロップアウト組の1人だった。
「打ちっぱなしに行ったことがきっかけで、ゴルフに魅了され、野球部からゴルフ部に鞍替えした」そう。もっとも退部の直接的な原因は、ヘルニアを患ったことだった。
「バイトと言えば、打ちっぱなしのゴルフ場でやったことがある。しかし、ボール拾いをせずに、ボールばっかり打っていたので、ついには首になってしまった」と笑う。
野球部はドロップアウトしたが、学業は放棄しなかった。文科系のなかではトップの成績を収め、京都大学を受験している。実際に合格し、進学したのは京都産業大学、法学部。高校を卒業する頃には、野球よりすっかりゴルフに魅せられていた。

ゴルファー中嶋、改め、料理人中嶋の誕生。

「京都産業大学」は、京都市北区にある大学である。賀茂川沿いに上がっていくと、着く。風光明媚なところではある。「もともと祖父が京都伏見の出身なんです。それで京都へ。もっとも私は料理とは無縁の、体育会系のゴルフ部に入り、そちらに熱中します」。
隔世の感である。しかし、中嶋もまた祖父同様、京都で料理の修業を開始する。それはもう少し先の話になるのだが。
「大学3年生の時、父が他界します。進路を大学の恩師に相談したところ、『大学に来ていないんだから、辞めればいい』と厳しくもあたたかいアドバイスをもらい、退学を決意しました(笑)。入学当時は、ジャンボ尾崎のようなプレーヤーをめざしていたんですが、父が他界したことで、現実をみるようになったんだと思います」。
いずれ東京に戻るつもりでいたが、それを先の話として、ひとまず京都で修業先を見つけてもらい、3年働いている。
修行時代の話も聞いた。
「当時は、厳しい時代だったと良く言われますが、私は怒られた記憶はないんです。幼い頃から料理という世界に慣れ親しんでいたから、何をするにも次の次が読め、段取り良くやることができたからかもしれません」。
庖丁を研ぐのも、巧かった。
これは大事なことで、日本料理には、「割主烹従」という言葉がある。「烹る(煮る、焼く)」より、「割く(切る)」ことが主となるという、料理の姿勢を現した言葉だ。ちなみに、「割烹」という名も、この言葉に起源がある。
そういう意味でいえば、包丁を研ぐことは、料理に基本中の基本といえるのだろう。中嶋は先輩たちの包丁も、預かり、それを嫌な顔をせず研いだ。
少しずつではあるが、中嶋のなかに眠る祖父の血が、姿を現すことになる。・・・続き
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