2025年9月10日水曜日

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

本文より~

偶然の始まり。

高齢のご夫婦が営む一軒のラーメン店。その暖簾をくぐった瞬間から、物語は動き出した。
きっかけは、熊崎さんが尊敬してやまないSHOWROOM株式会社 代表であり、ベストセラー作家の前田裕二さんからの一本の連絡。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」
詳しい説明はなかったが、その声には不思議な力があった。「行きます」と即答。
翌日、松山の繁華街にある小さな店へ。カウンターの奥にはご夫婦、そして前田さんが連れてきた大手ラーメンチェーンの経営者らが集まり、店内は熱気と緊張感に包まれていた。
体調不良と後継者不足で、店は一週間後に閉店するという。
丼から立ちのぼる湯気、しじみの香り。一口すすれば、澄んだ黄金色のスープが体の芯まで染み渡る。
この味を絶やしてはいけない。
スープを飲み干すころには、壮大な構想が頭に浮かんでいた。

天才少年の、挫折と、大逆転と。

熊崎さんは、兵庫県の三田市で19歳まで過ごしている。地図でみればわかるが、三田市は兵庫県の南東部に位置するベッドタウンである。
自然が残るなか熊崎少年はサッカーに勉学に打ち込んだ。
勉強もでき、スポーツもできる。サッカーでは小学校から県選抜。才能だけで、ほかの選手に負けるとは思わなかった。「将来は、Jリーガーになるかくらいに思っていました。でも、人生、そううまくいきません」と熊崎さんは笑う。
高校に入ると様子がちがった。サッカーは2軍スタート。
「中学生の頃から知っている選手もいたんです。私より下と思っていた彼らが1軍にまじり、ぼくはまさかの2軍」。
「それだけじゃない」と熊崎さん。
「中学のときは、トップクラスだった勉強ですが、順位が発表されると、280人中、269番」。
「え? といって、固まってしまった」と笑う。
「京大や、神大に進む生徒も多い兵庫県のトップ校でしたから、中学とは、こちらも様子がちがいます。サッカーも、中学のときは練習しなくても巧かったんです。練習もしなかったから差がついちゃっていたんでしょうね」。
<投稿プラットフォーム「note」に当時のことを「プライドが地面に落ちた」と書かれています>
「ぶっちゃけ天才だと思い込んでましたから(笑)。はじめて現実を知って、思い込みとのギャップに驚き、ぼくが、まとっていたプライドがガラガラと崩れ落ちたんです」。
残ったのは、何者でもない、ただの高校生。
プライドは地面に落ちてなくなったが、「このままで終われるか」と、はじめて真剣に練習に打ち込んだ。天才とまではいわないが、才能があったのはまちがいなかったんだろう。練習に打ち込んだ結果、半年後には2軍のリーグで得点王になって、1軍に昇格している。3年時は副キャプテンだ。
<大逆転ですね、勉強のほうはいかがでしたか。大学受験が待っています>
「兵庫だし、京大や神大に進む生徒もいたんで、サッカーほど挽回できませんでしたが、まぁ、どこか受かるだろうと高をくくっていました」。
<しかし?>
「そう、人生、やはり甘くないです。大敗です。滑り止めも役立ちませんでした(笑)」。
掲示板に受験番号がない。歓声をあげる群衆のなかを、肩を落として歩き、来た道を帰るしかなかった。
「地獄の入口がひらく音がした」と熊崎さんは、表現している。でも、そうなんだろうか。じつは、未来のトビラがひらく音だったかもしれないのである。

東京と、ダンスと。

<1年、浪人生活の末、立教大学に進まれています。どうして、立教だったんですか?>
「三ノ宮の予備校で、チア部出身という女の子から『立教に日本一のダンスサークルがある』と聞いた。これがきっかけですね。当時、三代目 J SOUL BROTHERS が流行っていて。そうか、東京か、ダンスか、立教かって」。
「東京」「ダンス」、この二文字が、熊崎さんの視界を広げる。
「ぼく以外、サッカー部はほぼ全員、現役合格だったんです。なんでオレだけ? みたいな、ね。でも、東京でしょ。ダンスでしょ。元気がでてくるんです。当時は、東京と聞くとわくわくする、三田の田舎者だったんでしょうね」。
熊崎さんの頭の中で、立教に進学→東京生活がスタート→ダンスをマスター三代目J SOUL BROTHERSの世界へ、というプランが立ち上がる。
立教大学、無事、合格。熊崎さんは、念願のダンスサークルに入会する。立教の学生だけではなく、東大生や一般人も参加できるフリーなサークルだったという。
<ダンスのほうの才能は?>
熊崎さんは、ふふふ、と笑ったあと、「サッカーなら小学生からですからね。でも、ダンスは初心者です。だから、プライドもない。とはいっても、どこかでいちばんじゃないと気がすまない性格だから、ダンスじゃなく、SNSや会計ですね、そっちで目立ってやろうと」。
「気づけば、サークルの代表に選出されていた」と熊崎さん。代表になった熊崎さんは宣言する。
「日本一をめざす」と。
しかも、「大会に出場したい人、全員で日本一を目指す」と。
<メンバーを巻き込むちからですね>
「いい経験ができたと思います。宣言通り、日本一も獲得しましたしね」。
<それは、すごい、勲章ですね>
熊崎さんは「そうですね」と誇らしげに微笑む。
三田の田舎モンは、東京で日本一になった。

どう生きるか。いのちに向き合う。

大学を卒業した熊崎さんは、人事部の熱量に惹かれて転職サイトの大手「エン・ジャパン」に就職する。翌年、縁あって、SoftBankに転職。最年少でマネージャーに昇格し、予算5億円のプロジェクトを担当することになる。
「当時は社長になろうという想いがつよかったですね」。サークルで代表の経験があり、日本一も獲得、同年代とは、望む未来がちがった。
「エンジニアを含め、30~40人の部下をもってサービスをゼロから立ち上げる予算5億円のプロジェクトでした。1年目は投資です。2年目、売上が立ち上がってくるはずだったんですが(笑)」。
話を聞くと、海外で先行しているサービスだったそう。
SoftBankを退職した理由を聞くと、プロジェクトの失敗ではなかった。
「きっかけは母親の死です。ぼくが25歳のとき。そのとき、人はいつかなくなる、いのちがあるうちにやりたいことを人生をかけてやらなきゃいけないと。その思いを抑えきれずに辞表を提出したんです」。
上層部の方々から慰留されたという。ただ、熊崎さんの意志はかたい。
「想いを語ると最終的には『わかった』と。いつか社長同士で酒でも酌み交わそうって背中を押してくださったんです」。
「やりたいことを人生をかけてやらなきゃいけない」と、SoftBankを退職したが、じつは、なにを「やりたいか」「やるべきか」がなかった。
「とにかく、組織のなかにいちゃ甘えてしまう。ぼく自身を追い込むためにフリーになったというのが真相です。そうやって未知の大海原に出航します」。
羅針盤はない。だが、進まないといけないという、強迫観念に似た思いがあったのではないだろうか。

前田さんとの出会い。

「前田」という人物がいた。自身のバックグラウンドと似ていた。前田さんとの出会いを聞くと、熊崎さんは2冊の本を挙げる。
「大学4年の就活中のことです。前田裕二さんの『メモの魔力』と『人生の勝算』という本に出会ったのがはじまりです」。
この時の話も、じつは熊崎さんがnoteに詳細に記載されている。
「母の死で“人生の有限さ”を骨の髄まで思い知った」と語り、自身と同様のバックグラウンドをもつ前田さんの生き様に強烈な感銘を受けたと記している。そして、つぎのようにも語っている。「SoftBank に退職願を出し、命の使い道をまっさらな地図に描き直した」。
もう少し、熊崎さんが記した文字を追いかける。
「2023年5月9日。前田さんが登壇されるというイベントをXで見かけた。青山ブックセンターで開かれた『スタートアップ企業の実践論』出版記念イベント。最前列に座ったものの、緊張で質問の手が上がらなかった。その夜すぐに前田さんのオンラインサロンへ飛び込む。11月。サロンのプレゼン大会で優勝。翌年2024年1月、サロンの運営メンバーへ」。
大海原の向こうにみえた灯台に向かい全速力で進んでいく。
「フリーランスとして、パーソナルジムの立ち上げ支援やアプリ制作の支援を行いつつ、前田さんをお手伝いします」と熊崎さん。ちなみに、前田さんというのは、すでに書いた通り、SHOWROOM株式会社の代表、前田 裕二さんのことである。
そして、2024年7月。その前田さんから声がかかった。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」

ラーメン店の、跡取り修業始まる。

「ラーメンと聞いたとき2秒、フリーズした」と熊崎さんは笑う。
「ただ、何をすべきかと悩んでいましたし、何より前田さんといっしょに何かができると思うと気持ちが高まり、2秒後には、行きます、と」。
前田さんに同行したのは熊崎さんだけではなかった。
「有名なラーメン店の経営者をはじめとした、ぼくからすると雲の上の存在のようなメンバーがチームを組んで愛媛に向かいます。ぼくは、カメラマンです」。
ラーメンを食べ終わったあと、喧々諤々のミーティングが行われたそうだ。もちろん主題は「しじみラーメン」について。「事業を継承するのを前提に話が進みます。専門的な話も多く、ついていけない部分もありましたが、とにかく、会話の熱量がハンパなかったですね」。
カメラマンとして同行したが、ミッションは撮影だけではなかった、そのミーティングの会話も含め、頭に叩き込む。
なぜなら、熊崎さんこそ、この店、「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の事業を継ぐ主人公だったからだ。
「話を聞きながら、プレッシャーはハンパなかった」と熊崎さんは振り返る。その時食べた「しじみラーメン」の味はどうだったんだろう?
その後、正式に事業譲渡の話がまとまる。熊崎さんは「私が後継者です」と、ご夫婦に頭を下げた。その時から、熊崎さんを主人公にしたリブランディングが開始される。
「計36日」と熊崎さんは指を折る。8月から9月にかけ、「父ちゃん」「母ちゃん」からラーメンづくりを叩き込まれた。
残すほうも必死、学ぶほうも必死。
「最初は、東京でオープンする予定だったんで、いったん東京に戻るんですが、愛媛のお店をお任せできる人をご紹介いただけたので、東京からとんぼ返りで愛媛に行き、今度は、その人にぼくが指導します」。
「はじめての弟子」と、熊崎さんは笑う。
「ぼくとしても、そのお店は残しておきたかったんです。父ちゃん、母ちゃんの想いをつぐわけですから。『本店』として残すことで、ストーリー性もあるでしょ。そういうのを大切にしたかったんです」。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の、今と、未来。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」は、愛媛県の松山の繁華街にある。
「もともと、おかあさんがスナックを経営し、お酒をふるまってきたそうなんです。お酒に酔ったお客さんを癒やしてあげようとはじめたのが、しじみラーメン」。
「しじみにはオルニチンというアミノ酸の一種が、ほかの食材と比べても大量に含まれていて。これがアルコールの分解を促します。〆に、しじみラーメンを食べると二日酔いしないのは、そのためです」。
飲んだあとに〆。
だから「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の営業時間は、夜から深夜にかけて。「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」を引き継いだ、「生しじみラーメン『オルニ』」も、おなじ時間帯で営業している。
東京、愛媛を何度も行き来するうちに、確信めいた思いが頭に宿ったそうだ。熊崎さんはいう。
「『しじみラーメン父ちゃん母ちゃん』のラーメンは、たしかに旨い。でも、有名だったわけではありません」。
「にもかかわらず、2人が作る一杯のラーメンを囲んで、日本を代表するようなラーメン店の店主や、ビジネスの世界をリードする人たちが、熱く、真剣に語るんです。なぜ、あれほど真剣だったのか、その理由の根っこがみえてきたとき、これはすごい世界に足を踏み入れたんじゃないかな、と」。
「つまり、前田さんが偶然見つけたこのしじみラーメンは、世界を穫るポテンシャルを秘めていることに気づくんです」。
学生時代は「日本一だ」といった。今度は「世界一」。
だからだろう。それに気づいた熊崎さんは、「しじみ」にのめり込む。今や「しじみ」の専門家。「しじみ」の話になると、さらに雄弁になる。
「うちのしじみは、すべて島根県の宍道湖から直送されてきます。宍道湖のなかでも南部のしじみを送ってもらっています」。
<どうして、南部なんですか?>
「北部は砂地が多く、南部は泥なんです。泥のほうが栄養が豊富で、南部のしじみは日本はもちろん、世界でもトップクラスなんです」。
調べると「しじみ」は、複数の種があり、中国や台湾が原産の「タイワンシジミ」は、アメリカやヨーロッパにも生息域を広げているそうだ。
日本の場合は、市場に出回るしじみの99%以上がヤマトシジミ。なかでも宍道湖は、ヤマトシジミの全漁獲量の4割以上を占めているとのことだ。
貝はもちろん海外でも、人気の食材。クラムチャウダーやボンゴレなどが思い浮かぶ。

・・・続き

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)    

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